海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
ストレスになるルール、ならないルール ~海は広いな大きいな~
以前にも海はルールがないから(あるいは少ないから)自由で好きだ、というようなことを書きました。と、のっけから見て欲しいアピールをしてしまいます。
都会や職場に比べると、確かに海は、より自由で、だからこそストレスが少ないといえるような気がします。そのことをあれからなんとなく考えてきて、ひとつ思いついたことがあるので書き留めたいと思います。
海にもルールがありますが、町で暮らすルールに比べれば少ないですし、より自由だ!というのがぼくの実感です。
気にすることが少ない状態を、「自由だ」と表現するのではないかと、最近のぼくは考えます。ということは今の世の中では、自由は絶対的な状態ではなくて、「より自由」とか「昔より自由」といった程度の状態を表すのではないかな、そんな気がするな、どうかな、違うかも知れないけど…と思ったりします。
そしてルールが少なければ少ないほど、より自由であればあるほど、生きていく上でのストレスは少ないんではないだろうか?違いますか?ねえ、そう思わない?というのが、ぼくのいいたいことなわけです。
気にすることが少ない状態を、「自由だ」と表現するのではないかと、最近のぼくは考えます。ということは今の世の中では、自由は絶対的な状態ではなくて、「より自由」とか「昔より自由」といった程度の状態を表すのではないかな、そんな気がするな、どうかな、違うかも知れないけど…と思ったりします。
そしてルールが少なければ少ないほど、より自由であればあるほど、生きていく上でのストレスは少ないんではないだろうか?違いますか?ねえ、そう思わない?というのが、ぼくのいいたいことなわけです。
で、さらに最近は、そのルールってヤツにも内容があるんじゃないの?というようなことを考えていたりするのです。
ぼくが思春期の頃はヤンキー(今となっては懐かしい言葉ですねえ)というか不良というのが社会現象になっていました。校舎の窓ガラスを割ったり、校庭に他の学校の不良がバイクで入ってきたりということもありました。尾崎豊の歌詞そのまんまです。
この不良達はルールを守ることに対しても反発していたんですが、このルールというのは、靴下は白で、10cmくらいで、三つ折りにすること、とか髪の毛は黒で、パーマは禁止とか、そういうまあどうでもいいようなルールでした。確かに不良でなくてもみんなバカバカしいと思っていましたが、逆らうのも面倒くさいので、なんとなく言うことを聞いていたというのが、その頃のクラスのみんなの総合的な思いであったような気がします。そりゃもうぼくだってそんなルールうっとうしかったです。
だから学校というのは、友達と遊ぶ以外は楽しいものではなくて、なんだか四六時中窮屈な感じがするところなのでした。
そして社会に出ると、学校とは別にいろいろなルールや法律があり、中にはとても大切な法律とザル法というようなあってもなくても誰も困らないような法律もあったりします。
大学の授業で六法全書を買わされましたが(ここでも受け身の表現)、「世の中に主だった法律でもこんなに数があるんだー。誰が作ったの?誰が守るの?たいがいにしといたらええんちゃうん?」とため息が出たものでした。
たとえば人を殺してはいけないという法律は、道徳的にも宗教的にも人の歴史からいっても社会で多くの人々が最大公約数的に求めるもので、法律としての「太さ」「強さ」があります。
一方で青年向けの書籍を販売してはいけないという条例がある都市がありますが、これは人間が、特に男性が強く性的衝動を持っていることとを、本性と認識するのならば、現実離れしたやや理想的な条例といわざるを得ないでしょう。そういう意味では、法律として「細く」て「弱い」ように思います。
法律までいかないルールやマナーとなるともっと細かくなって、たとえば朝の電車の何両目は女性車両とか、携帯電話はマナーモードにするか電源を切るとかそういうこといわれちゃうと、ぼくなんか、もうグッタリして、それだけで東南アジアのどこかの国に移住したくなります。
とか書いているうちに気がついちゃったんですけど、法律とかルールには、危険を防止するためにあるものと、社会を成り立たせるためにあるもがあるみたいです。
で、不良が反発したり、ぼくがグッタリするのは、社会を成り立たせるための法律とかルールの方で、これは結局、われわれのひいじたんとか、じいちゃんとかオヤジあたりの世代が作ったもので、ぼくは全然賛成してないのに、その法律が運用されているわけです。だから今ある法律をもう一度国会で審議しなおしてくれるなら、かなり真剣に選挙に行くと思いますが、昔できた法律を、世代を超えて、再審議もなく当然のように守らなければならないのは、それは法学的に正しいんでしょうか?
それから社会を成り立たせるためのルールというのは「太く」て「強い」ものは、まあたいていみんな賛成でしょうけど、「細く」て「弱い」ものは賛否両論があっただろうけど、法律として成立してしまったものもあるはずで、その場合、反対意見の人は、法治国家だから従いますけど、日常生活的な実感としては守りたくないわけです。
その主に2点に不良が窓ガラスを割って反発する原因とぼくがグッタリしたあげく海へエスケープする原因が隠されているような気がしてますが、だいたいここまで読んでくださっている方というのはいらっしゃるのでしょうか?
読んでくださっている方はたいへん奇特な方といってもよく、きっといいことがあるでしょう。ラッキーカラーはオレンジ。
いや、読んでくれなくてもいいんだい。どんどん書いちゃおう。
で、海遊びをするうえで関係する法律やルールというのは、たいがい命を守るためのものです。その意味も納得できますし、守らなければ自分が危険な目に遭うので、守るわけです。そういうルールはそんなにストレスを生まないんじゃないかなーと思いますが、どうでしょうか?というか逆に「ああそんな法律があって命が助かった。ありがとう」となるんではないでしょうか。というか法律とかルールというのは本来そういうものばかりでなければならないんではないのか、と考える今日この頃です。みなさんいかがお過ごしでしょうか?黒柳徹子です。
ぼくは、というか自然を相手に何かすることが好きな人は、社会で何かすることにストレスを感じる人が比較的多い気がします。だから自然という場所だと生き生きするという方もいるんではないでしょうか。で、その根っこの辺りにあるのは…
自然を相手にして生きる=死なないで生きればok
社会でうまくやる=人間関係的にうまくやらなければいけない
ということで、さっきのルールとか法律の話でいえば…
自然を相手にして生きる=命を守るルールを守る
社会でうまくやる=社会を成り立たせるためのルールを守る
ということになるのだろうと思います。
そいでね、あたしそれぞれに適応できる人とそうでない人がいるだろうと思うのね。で、だんだん考えるの面倒くさくなってきたので、まとめていってしまうと、ぼくは海にいるとすごくリラックスしてストレスが少なくて楽しく過ごせるので、これ以上海に関するルールとか法律とか作らないでください、ということなのです。

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海辺に住んでいると休みの日に遠くに出かける気がしなくなる…かなー?
会社の同僚とかで、都市部、あるいは都市近郊に住んでいる人に、「海辺の田舎暮らしっていいね、うらやましいね」っていわれます。
あの、大人ですから、この言葉の真意は人によってニュアンスがいろいろで、イヤミ80%くらいの揶揄、時候の挨拶程度、話題がないから、昨日テレビで田舎暮らしをやっていて「ちょっといいなあ」と思った、わりと田舎暮らしに憧れている、マジで海が好きで、海辺の田舎に移住することを検討している、などなどに分けられるかなあと思います。
ああ、大人ってめんどくせえ。って思ってもそれが世間というもの、そんなものです。
ぼくも社会人を長年やっているオジサンなので、相手の真意をくみ取りつつ、適切な返しを、随時うまいことやるわけです。
で、わりと田舎暮らしに憧れているとか、マジで海が好きという、同好の士のニオイがする人だった場合、こちらもちゃんと答えるようにしています。
そうすると先方もだいたい興味があるわけですから、質問が続いていくわけで、そうすると話が盛り上がるという、「話が盛り上がる法則その1」が成り立つわけでございますね。
そうするとだんだんディープな質問になっていきます。まあよくあるケースとしてはこんな感じでしょうか。
→海辺に住んでるんですね。いいなあ。
→どのあたりですか?
→あの辺って砂浜が多いですけど、マリンスポーツとかやるんですか?
→サーフィンってアサイチとかやります?
→ロングですか?ショートですか?SUPとかもやりますか?
→やっぱ土日って、道、混みます?
→暮らしてて大変なこととかあります?
→いいなあ、自分も引っ越したいなあ。
→家賃とかの相場ってどれくらいですか?
→東京までどれくらいかかります?
そんな感じです。
海好きな人に海辺の暮らしを訊かれたときにぼくが必ず答えることがあります。
それは…
→海辺の田舎は、住民が優しいというかノンビリ、おっとりしている。
→こだわりを持った人が住んでいておもしろい。
→海まで徒歩で5分以内じゃないと、だんだん海に行かなくなる。
→毎日海が見られるのはやっぱりいい。
→海のコンディションがいいときとか、すぐに海に出られるのがいい。
→休みの日に寝坊してからでも海に行けるのがいい。
→雨の日の海もアンニュイでグルーミーでステキ。
→渋滞はするときもあるけど、時間を選んだり、抜け道をすればまあ大丈夫。
→スーパーやドラッグストアやコンビニがあるし、通販もあるから、買い物関係は、そんなに不便じゃない。
→自然が多い場所は、虫とかもやっぱり出る。
→自転車は錆びる。
→エアコンの室外機も錆びる。
→物干し竿とかもとにかく錆びる。
→土日とか長期の休みとか、旅行に出かける気がしなくなる(自分の家で十分楽しい)。
→家庭菜園とかガーデニングとかDIYとか好きな人は、近所にたいてい詳しい人がいるから、いろいろ教えてもらえる。
まあ、そんな感じで何十年も海辺に住んでいると、日常会話のパターンというかマニュアルみたいなものは、まあなんとなくできてきてしまうのでした。
なかでも、歳をとって特に強くなってきたのは、土日とか長期の休みとか、旅行に出かける気がしなくなる、ということです。出かけるパワーが若い頃ほど強くなくなるというのもあるんでしょう。
わざわざ混雑しているリゾートに、混雑している乗り物とかで何時間もかけて移動するのはかったるいし、よく考えたら自分の家もリゾートじゃん、ということなのです。
それよりも、朝は砂浜を散歩して、朝ご飯は近所のパン屋さんでおいしいパンを食べて、日中は海遊びして、昼ご飯は砂浜でテーブルとチェアを出して、波音を聴きながら食べて、家に帰ったらゆっくり風呂に入って、夕食は新鮮な魚貝類を使った凝ったものを作って、夕陽を眺めながら晩酌した方が楽しいじゃんじゃん、という風に考えてしまうようになったのです。
年寄りくさいといえばそうもいえるかもしれません。いやいや物事はポジティブに考えた方がいいって、アメリカ人がいっていたような気がしますので、スローライフというか、LOHASというか、ノンビリした海辺の田舎暮らしというか、すてきなナチュラルライフというか、トータルに女性雑誌的なおっしゃれーなイメージでまとめてみたいものです。
最近、海でzhikをよく見ますね
主にセイリング関係の人が使っているようです。調べてみるとオーストラリア発祥のブランドみたいですね。数年前から葉山のSAILFAST(セイルファスト)というお店が扱っているのは知っていましたが、これほど普及するとは予想していませんでした。
マリンウェアのブランドは流行廃りが激しいように思いますが、ここ数年、定番中の定番であるHELLY HANSENが商品のラインナップを街着のオシャレ路線に振ったせいか、ディープで本気でウォータースポーツをやっている人は、実用的でタフなブランドに流れた傾向があるような気がします。
その流れの中でZhikも台頭してきたのかもしれません。
ひとつで4役?で便利なFourPlay Paddle Float
シーカヤック仲間の様子を見ていると、シーカヤックやカヌーなんかの大物をカートップに積む手法は、人それぞれ工夫があるようです。車種にもよるし、どの程度の艇を積むかにもよりますね。
サーフボードをカートップに積むときとの違いは、その重さと大きさでしょう。サーフボードだとロングでもそんなに大変ではありません。
それがシーカヤックだと軽いものでも20kg以上、長さはだいたい4m以上です。
ぼくはシーカヤックを積むことを考えて、1boxみたいな背の高い車は乗ってきませんでした。人や荷物の積載能力や車中泊のことを考えるとその手の車は魅力的ですが、あの高さにシーカヤックを持ち上げるのって結構手間だなーと思い、ステーションワゴンタイプの車を選んできました。
実際知り合いで1boxタイプの車にシーカヤックを積む人はそれぞれ工夫をしています。ラダーをつけて、カートップに登れるようにするとか、シーカヤックをリフトアップするための滑車のついたオプションを付けるとか、まあいろいろやっていらっしゃるようです。
ぼくのシーカヤックを積むときのカーキャリア関係の思いは以前にもかきました。
我が家はステーションワゴンなので、THULEのカーキャリアに横に少し伸びるバーのオプションをつけて、それに引っかけるようにしてシーカヤックをキャリアに載せます。
なくても、まあ積めるんですが、やっぱりあると楽なのと、シーカヤックを持ったときにつるんと滑って落とすのを防ぐために、一度引っかけるようになりました。
以前濡れたシーカヤックを積もうとしたときに手が滑ってしまい、車にあたり地面に落ちることがありました。シーカヤックも車も傷ついてしまったのです。
ぼくは車のちょっとした傷は気にしないんですが、凹んで修理が必要なダメージはさすがにイヤです。
で、その後、さらに考えて、ウェットスーツの生地を1m×1m買ってきて、シーカヤックを積むときには車のルーフからサイドにかけるようにしました。この生地は、ちょっと濡れた状態で、運転席に座るときにシートに敷くのにも使っていて、まあ安くてかさばらない割りに重宝しています。
そのシートがヘタってきたので、FourPlay Paddle Floatというのを買いました。
これが使ってみるとなかなか便利でして、カヤックをカートップに積むときのシートにもなるし、パドルフロートにもなるし、クレイジークリーク的な座椅子にもなるし、テント泊のときのマットレスにもなるというモノなんです。値段は少し高いですが、まあそれに見合った機能だと思います。
海遊びのいいのはヘンな人に会わないこと
この間、電車に乗って東京に行く用があったんですが、刺青というかタトゥーといって欲しいんだろうけどやっぱり刺青だよなと思うんですけど、刺青を入れたオニイチャンが車内のある人をジッと見つめたまま、ブツブツ独り言をいっていました。瞳孔も開いていたんで、ぼくは車両を移りました。
で、恵比寿に用があったんですが、20代前半くらいの女の子4人が駅の構内を横に広がってゆっくりノンビリLOHASな感じで歩いていて、後ろから来たサラリーマンっぽいお兄さんに怒鳴られていました。
で、用が終わってスタバで休憩しようと席に着いて、コーヒーの香りなどを楽しんでいたら、隣の席の2人連れの話が聞こえてきてしまいました。なんだか1人が宗教の人らしく、もう一人の人を勧誘しようとしているらしい感じでした。
たった半日ほど久しぶりに都会に行ったら、かなり濃い光景が目に飛び込んできて、海辺の我が家に帰ったらドッと疲れて、ビールを飲んで、寝てしまいましたとさ。めでたしめでたし。
って、めでたく終わっている場合じゃありません。
東京っていろんな人がいて、お金持ちも貧乏人も、著名人も凡人も、常識的な人も非常識な人も、東京生まれ東京育ちの人も田舎から来た人も、本当にいろいろな人がいます。まあ、さしずめ人間のワンダーランドやなー、と思ったりするわけです。
しかもそれぞれの人が気を張って生きている感じがして、それがボケーっと歩いているぼくにも伝わってきて疲れるんですね。
ぼくもオジサンになりました。怠慢かも知れませんが、あんまり疲れることはしたくないんです。
若い頃はいろいろな人からいろいろ吸収しようと思っていました。中にはどうしても好きになれない価値観の人もいましたが、無理して合わせていました。
自分の価値観という殻に閉じ籠もっちゃ成長しない!頑張ろう!って思っていたんです。ああ青春!
ぼくもオジサンになりました。怠慢かも知れませんが、あんまり疲れることはしたくないんです。
若い頃はいろいろな人からいろいろ吸収しようと思っていました。中にはどうしても好きになれない価値観の人もいましたが、無理して合わせていました。
自分の価値観という殻に閉じ籠もっちゃ成長しない!頑張ろう!って思っていたんです。ああ青春!
です、いい歳になってからは、無理してまで価値観の合わない人と付き合わないようにしようと思っています。
仕事なんかで一緒に行動しなきゃいけなときはしょーがないですが、それも最低限でいいやと思っています。
このあたりの感じは人生の折り返し点を過ぎて、残りの人生を数えることができるようなお年頃になると、わかっていただけるのではないかなーと思います。
このあたりの感じは人生の折り返し点を過ぎて、残りの人生を数えることができるようなお年頃になると、わかっていただけるのではないかなーと思います。
数年前、下流社会とか日本人は階層が2極化しているなんて話がありました。
それを思い出しながら、この間の東京での出来事とかがノーリに浮かびつつ、自分のまわりの人々を眺めていると、興味関心とか暮らし向きとかで、いくつかの層が何層にもあるような気がします。あるいはいろいろな塊がたくさんあるといってもいいかもしれません。
海辺に住んで、海遊びをしていると、長年付き合っている仲間はだいたい似たような価値観の人になってきます。これは発展性がなくて凝り固まっているといえばそうですが、そうやって暮らしているぼくとしてはとても心地いいものです。
だいたい海遊びを長年続けている人というのは、やはり一定の範囲内の価値観の人ですし、ましてや流行っているわけでもないスキューバーダイビングとかシーカヤックとかセイリングをわざわざやっている人というのも、一定の範囲内の価値観の人です。
それからコンスタントにそれらのウォータースポーツを続けている人というのは生活が安定している人でもあります。
類は友を呼んだりして、同好の士は似たようなところに集まるようです。
ザックリまとめてしまうと、そういう付き合いのいい点は「ヘンな人に合わなくていい」ところです。
たとえばこういうことがありました。
以前知り合いが、海辺の我が家に遊びに来ました。「家から海が見えるなんていいね。一度行ってみたい」ということで遊びに来ました。まあ我が家に遊びに来ると、だいたいウォータースポーツがオマケでついてくるわけですが、「シーカヤックとかサーフィンとかやる?」と訊いたら「危ないじゃん。サメとか出たらどうするの?」だそうで、砂浜を散歩することにしました。そうしたら「○○で買った靴が砂まみれになっちゃった。家に戻ろう。あーあ高い靴だったのに」とのこと。我が家は森の中に建っているので、鳥や蝉の声がします。しかも我が家はエアコン嫌いなので、窓を開け放してあります。一応網戸はあります。そうしたら「なんか蝉とかうるさいね」だそうです。
こういうこともありました。
職場の仲間に連れられて異業種交流会なるものに参加したことがあります。やたら名刺交換して、話をしていると、ビッグデータとかIoTとか「○○さん(有名な経営者らしい)が融資の時に口をきいてくれて…」とか「××の経営戦略は…」とかそういう話で、よくわからないし、興味もないし、ぜんぜん面白くなかったのです。
そういえばこういうこともありました。
近所の友達の住んでいる家に遊びに行ったときのことです。その家の隣の敷地が古いアパートになっていて、古いからか賃料があまり高くないそうです。そのためか知りませんが、ある部屋がヤンキーの溜まり場になっているらしく、夜中も騒いでうるさいし、バイクなんかをアパートの前に路駐して、友達の車が出入りできないし、ゴミはルールどおり出さないからカラスが荒らして散らかるし、いくら苦情をいっても聞かないそうです。
こうした類のことは、まあ、暮らしていれば誰の身にも多かれ少なかれ起きることですが、海遊びをしていていいのは、そういう自分の価値観とは違う人達と接することが大幅に減ることです。それはすなわちストレスを受けることが少なくなるということです。
先ほども書きましたが、こういう考え方って狭量で偏屈な年寄りにありがちで、意固地で頑固な印象もありますが、ぼく自身は、そういう批判を受けても、もういいかなと思うようになりました。やはり世の中は自分の思うどおりにはなりませんし、思うどおりにならないことを受け入れて人間の度量を増やそうという努力も、もう若くないので、することもないな、と思います。
それよりも日々楽しく暮らしたいのです。
気心の知れた友達とワイワイ騒ぎながら、今日もうまい酒が飲めたなあといいつつ暮らしたいのです。
気心の知れた友達とワイワイ騒ぎながら、今日もうまい酒が飲めたなあといいつつ暮らしたいのです。
わざわざイヤなことや汚いことを見ることはありません。できる限り自分の好きなことや、綺麗なものや、いいことを見て暮らしたいなと思うのです。
沖出しの風とウォータースポーツ
沖出しの風というのがあります。別な言葉でいえば、オフショアの風。陸から沖に吹く風のことです。赤出汁とか昆布出汁とかだとおいしそうですが、ウォータースポーツをする者にとっては、あんまりいい言葉ではありません。地方によっては、「だし」とか「陸風」といわれたりします。
陸から沖に吹く風というわけで、風向は海岸の向きによって違います。たとえば東伊豆と西伊豆では単純にいえば沖出しの風は逆向きになるはずです。ただ、実際の海岸線は西伊豆であっても南に向いていたり北に向いていたりするので、単純にはいえません。
この沖出しの風、漁師さんや船乗りにとっては要注意の風といわれています。一方サーファーにとっては、オンショアよりはマシな風と受けとめられていると思います。セイラーにとっても風が強すぎなければ、いい風でしょう。
理由は、船乗りにとって沖出しの風は、外洋に流されていく可能性のある風なので要注意というわけです。サーファーにとっては、オンショアだと波の頭が潰れて乗りにくくなるんですが、オフショアだと波が掘れて乗りやすくなるためです。ただそれは波がある程度以上高いことが前提なわけですが…そしてセイラーにとっては、風がないのが一番ツラいわけで、だったら沖出しの風の方がいいとなるわけです。
具体的には沖出しの風って、どのようなものなのでしょうか?
ぼくは関東の三浦半島の西岸に住んでいますが、北東の風が吹く日があります。そういう日が沖出しの風です。冬とか春先とかに多く見られます。
一方、夏の終わりから秋にかけては西風が吹きますが、これはぼくの住んでいるエリアだとオンショアの風になります。
沖出しの風は、気象条件ももちろんですが、それと合わせて地形の影響が大きいと思います。たとえば逗子から佐島あたりを例にすると、このエリアは大楠山やその他小さな山が続いています。ただ、連峰になっているわけではなくて、それぞれが別の山です。そうすると山と山の間に谷間ができるわけですが、この谷間で沖出しの風が強く吹きます。
地名でいうと逗子湾は、陸に向かって左側に大崎があり、披露山があります。右側に桜山があります。その谷間の逗子の町は狭い平野になっているわけですが、ここを風が通ります。それが北寄りの風であれば沖出しの風になります。逗子湾は大きくえぐれた湾ですから、湾内は風が吹いても波が入ってこず、穏やかです。この地でヨットが盛んになったのはこうした地形的な理由があるんじゃないかなあと想像します。いやたぶんそうです。わかんないけど…
葉山に大浜という浜があります。御用邸の南側の砂浜です。ここは陸に向かって左側が三ヶ岡山、右側が長者ヶ崎で、その内陸は、湘南国際村のある大楠山があるんですが、この大楠山が大浜の背後で標高が低く、少し谷間になっています。この谷間を風が抜けるので大浜も沖出しの風が強く吹きます。北東の風が吹いているときは要注意です。
佐島方面からやって来て、長者ヶ崎を越えたら急に風が強く吹いていた、なんてことがあったりします。
佐島方面からやって来て、長者ヶ崎を越えたら急に風が強く吹いていた、なんてことがあったりします。
佐島の先の小和田湾も大きくえぐれた湾ですが、ここもちょうど山の谷間になっています。なので風は吹きますが、湾の懐が深いので、海は穏やかです。やはりセイリングに適した土地といえるでしょう。
大ざっぱにいうと(ぼくは大ざっぱにいうのが大好きです。うふふ)風向きに対して、風上に山があれば風が遮られますが、山がなければ風が吹きます。山と山の谷間だと、風が集中してそこを通るので強く吹きます。船で航行するとき、地形を見れば、風が抜けそうかどうか、ある程度の心積もりはできます。
三浦半島西岸で沖出しの風がやっかいなのは、北東の風で、それがたいてい冬から春の気圧配置の不安定な時期に吹くわけで、ときに突風といってもいいほど強く吹きます。
というわけで、ウォータースポーツをやる方は、その日の潮回りとか、気圧配置とか、風向とか、波高とかをチェックして海に出ると思いますが、だいたいの風向がわかったところで、こんどはその土地ごとの地形をイメージして、このあたりは風が強そうだと予想しながらその日の計画を立てるのがいいのではないかと思います。

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仕事帰り、森と海を眺めると、ホッとします…
仕事が終わると会社から電車に揺られて我が家に帰ります。
我が家に帰る途中で気持ちが、仕事モードからいつもの自分モードに切り替わります。
帰る間に、車窓から緑が見え始め、我が家に近づくにつれて海が見え始めます。
ぼくはこの時間がとても好きです。
若い頃は木々の緑がこれほど自分の心をホッとさせるものとは知らずにいました。そして自分がこれほどまでに海を求めているかを知らずにいました。
若い頃に都会で働いて、都会に住む生活を何年か続けるうちに、ある時、自分のジンセイがこうした灰色のコンクリートジャングルの中でほぼ終わってしまうのは結構ツライなと考えるようになりました。それを取り戻すかのように、週末は朝から海に遊びに行ってましたが…
たとえば仕事をしている時間が10時間、寝る時間が8時間、モロモロの家事・雑用をやる時間が2時間。1日のほとんどが都会の中で完結してしまいます。せっかくの週末も仕事で疲れていると、海に出かける元気がない時があります。
そんなこんなで多少通勤時間がかかっても、自然が豊かなところで暮らしたいと思ったのです。
今は、だから通勤の帰りに、次第に緑が増え、海が見えるようになるとホッとします。ココロの中心のコリがほぐれるようなそんな気持ちになります。
我が家は窓から海が見えます。そして家は小高い丘の中腹にたっており、ちょっとした森というか林の中です。
我が家に着けば、潮騒が聞こえ、木の葉が擦れる音が聞こえ、鳥の声が聞こえます。
そうした自然の気配を感じながらビールを飲みます。
眠りにつくときも自然の音が遠くに聞こえます。
朝は波の音と、鳥の鳴き声で目を覚まします。窓から朝陽を浴びる森が見えます。そしてきらめく海が見えます。起きたままの格好でサンダルをつっかけて、砂浜を散歩します。気持ちが穏やかになります。
そういう日々のちょっとした瞬間がとても幸せに感じられます。
今思えば、たぶんぼくは遅かれ早かれ、自然のそばで暮らすことを選んでいたでしょう。それが大切な価値だと気づいたわけですから…
そしておそらく同じような価値観を持つ自然の中で暮らしている方には、きっとこのような気持ちはわかってもらえるのではないかと思います。そういう価値観の人はどうしても自然のそばに惹きつけられてしまうし、都会のようなところでは暮らしていけないでしょう。

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濡れたままで車のシートに座るには、防水シートがいいと思います。
車で海遊びに行く人いますか?ハーイ、ぼくはよく行きます。
それでまあサーフィンでもシーカヤックでもいいんですが、行った先にシャワーがないときってありますよね。スキューバーダイビングはたいていサービスにシャワーがありますから…
そういうときにどうするかっていう話を以前書いたんですが、今日はその続きを書きたいと思います。
えっ!書かなくていい?
そういわれても、ぼくは書きたいので、書きます。
ぼくは車にアウトドア用の小さめのポリタンクを積んでいます。これはもう定番です。海に行く時には必ず持っていきます。
飲み水にも使いますし、食器類を洗うノにも使いますし、海遊び道具の潮を洗い流すのにも使います。
そしてもちろん海から上がって身体の潮を洗い流すのがメインの用途です。
ぼくは海遊び友達にいわせるとテキトーでアバウトなタイプらしいので、潮を流さなくてもあまり気にならないんですが、車のシートがシオシオになると、家族関係者というか、はっきりいうとカミさんが嫌がるので、まあ潮を流します。
ですが、これからがリアルガチな海遊びあるあるなんですが、サーファーの方は経験があるんじゃないかと想像しますが、あるポイントがいいなと思ってサーフィンして、あんまりだったので違うポイントに車で移動して、そこでまた海に入って、また次のポイントに車で移動して…みたいなことを繰り返すことってありますよね。
そんなときに1回1回水を浴びて着替えてられるか!っつうことなんですね。ウェットスーツのまま車に乗って移動したいじゃない、人間だもの…
やっぱりめんどくさいって気持ちってあるじゃない、人間だもの…
どうせ大した距離じゃないわけですから…
そんなときのために車に防水用のカバーを掛けとくといいと思うんです。
そうすれば濡れたウェットで乗っても気になりません。
夏の夕立
夏になると夕立が降ることが多いですね。
以前、神奈川県の藤沢の海辺に住んでいましたが、夏の夕方はよく夕立が降りました。
今は三浦半島の西岸に住んでいますが、それほど夕立が降りません。距離としてはそれほど離れていないと思うんですが、気象というのは面白いものです。
気候のだいたいの傾向というのは地域ごとにあると思うんですが、具体的なことはその土地土地によって違いがあるんでしょう。
出張でしばらく前橋にいたことがありますが、夏のあいだ、毎日ほぼ決まった時間に雷が鳴って夕立が降りました。
みなさんご存知のことと思いますが、夏に夕立が降るのは昼間に熱せられた大気が蒸発してそれが飽和点に達するからです。どの程度湿度が高いか、どの程度飽和点に達しやすいかによって夕立が降りやすいところとそうでないところの差ができるのだと思います。
藤沢の場合、海が近くにあるので、真夏はとても湿度が高いのです。そして海からの陸への風(オンショアの風)が吹くと陸で次第に気温が下がりはじめ、水蒸気の飽和点に達しやすくなり、雲ができ、雨が降ります。
前橋の場合、内陸で気温が高いことと、関東平野の北端ということで、東、北、西が山に囲まれており、南からの湿った風が、山に当たることで雲ができ、雨が降ります。
藤沢も北側に高い山があればもっと夕立が降りやすい気候になっていたんではないでしょうか?経験したことがないんですが、もしかしたら丹沢山地ノ影響で小田原とか国府津とか二宮の方が夕立が降りやすいかもしれません。
夕立の理屈はともかく、夏の暑い日に夕立がザッと降ると、気温が下がり、さっぱりしていいですね。暑さでしおれ気味の木々も元気を取り戻すような感じです。ぼくはとても好きです。
ぼくは海遊びをしていることが多いんですが、夏の夕立ならそのまま濡れて雨が降る様子を楽しんだりしています。どうせ海遊び用の濡れてもいい服装でいるわけですし、寒くもないわけで、というか昼間の暑さにヤラレ気味の身体にちょうどいいんです。
夕立が降ると、海の水面が雨に叩かれてザワザワと波紋を広げます。暑くて歩けなかった砂浜もクールダウンします。ぼくの日焼けした肌も濡れてクールダウンします。江の島も雨に霞んでやっと見える程度です。さっきまで大勢いた海水浴客の人達もいなくなりました。30分くらい前とは別の場所のようです。人の声が聞こえなくなり、波と雨音だけが満ちています。自然の音に意識を集中すると気持ちが穏やかになるようです。こんな静かな世界がずっと続くといいなあなんて思ったりします。

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なんだか「ゾワゾワ」するんです。ウォータースポーツしているとき…
宮田珠己さんの本を読んでいると、ときどき「身体の中から、うりゃうりゃした気持ちがこみ上げる」という表現があります。特にジェットコースターに乗りまくったことを書いた本(『ジェットコースターにもほどがある』)にはよくその表現がでますので、たぶんあの気持ちかなーという推測はできます。
ぼくも宮田さんと同じかわかりませんが、「うりゃうりゃ」した気持ちがこみ上げるシーンがいくつかあって、ひとつはサーフィンで(ぼくとしては)ワリと大きな波に乗れたときです。
もうひとつはシーカヤックで(ぼくとしては)ワリと荒れた海を無事に航海できたときです。
ぼくの「うりゃうりゃ」は腹の底の方からこみ上げるワクワク感というかソワソワ感でして、どちらかというと「ゾワゾワ」といった方が自分としてはしっくり来るような感覚で、ジェットコースターに乗ったときにも感じます。それからプールの飛び込み台から飛び込むときにも感じます。
そしてこの「ゾワゾワ」は、海でちょっとピンチな時に感じるようなのです。いわゆる武者震いのようなものなのでしょうか?
すごく大きな波が来て、「うまく乗れるかな、ヤラれちゃうかな?」という恐怖感と「やってやるぜ!」というやる気が併存しています。そしてその恐怖感を乗り越えてうまく波に乗れると、自分がヒーローにでもなったかのような高揚感があります。
シーカヤックで荒れた海を漕ぎきったときも、「ああすごいうねりだな。沈するかもな。結構キツいな。なんでこんな日に海に出ちゃったかな」という恐怖と「大丈夫。オレならやれるぜ」というやる気が併存していて、そのときは五感が冴え、頭がフル回転している感覚があります。
あとは大海原にひとりポツンと浮かんでいて、自分なんて木の葉のようなもんだな、このまま誰にも知られずこの世からいなくなってしまうかもしれない。でも、世の中や自然は何も変わらず日々動いていくんだろうなと考えると、寂しいような、でもやっぱり生きたいなという気持ちが身体の芯から湧き上がってきます。
あとは大海原にひとりポツンと浮かんでいて、自分なんて木の葉のようなもんだな、このまま誰にも知られずこの世からいなくなってしまうかもしれない。でも、世の中や自然は何も変わらず日々動いていくんだろうなと考えると、寂しいような、でもやっぱり生きたいなという気持ちが身体の芯から湧き上がってきます。
ぼくはどうもそういう場面でやっとやる気が出てくるようでして、そういうのってぼくだけなのかなあと周囲の人に訊いてみたりするんですが、みんな???みたいな反応なんですね。うーむ。まあ別に自分だけでもいいんだけど…
こういう自分は、もしかして日常に満足していて、生存に関わるような状態じゃないのかもしれないなあと思います。もし日々生きるのに精一杯だったり、常に生死の境を意識する生活なら、わざわざサーフィンでそういう気持ちを体験しようなんて思わないかもしれません。
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