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母島漁協オリジナル漁サンに恋したワタクシ




 あまりこれといった特技も能力も容姿も財力もテクニックもないぼくですが、ビーサンに対してはこれまで、真摯にお付き合いしてまいりました。
 ビーサン大好き、ビーサン・マイ・ラブといっても、ぼくを知る人は、それを否定しないでしょう。
 これまでいろいろなタイプのビーサンと共に時間を過ごし、あの魅惑的な鼻緒に足の指を挿入し、踏みつけてきました。そのときの反応はビーサンそれぞれに違いがあったのでした。
 そしてぼくのビーサンへの偏愛ぶりについても、これまでいろいろ書いてきました。
 そしてそして過去の自分の書いたものを見直してみたら、ぼくは『「短パン・ビーサン履こう会」発足準備会事前検討会』とか『短パン・ビーサン市民権獲得委員会』の発起人なんですね。忘れてました。
 さて、そんなぼくが、今、強くいいたいのは、やはりビーサンは漁サンだということです。
 濡れてもすぐ乾く、鼻緒のグリップ力、滑らなさ、丈夫さ、値段と過去に履いたどのビーサンよりも海遊びに向いています。派手さはないけれど、芯が強い、しっかり者といった感じでしょうか。化粧っ気はないけど、スッピンがなんとも可愛いそんな感じがします。っていうぼくは異常かもしれません…
 過去に自分家の近くのゲンベイビーサンを愛用し、OKABASHIのビーサンと海の日々を共にしましたが、やはり漁サンに戻ってしまいます。ぼくが他のビーサンに浮気をしても、漁サンはそんなこと何もなかったかのように、さりげなく、柔らかい微笑みで迎えてくれたのです。
 さてそんな漁サンですが、実は血筋があることがわかりました。以前お付き合いしていた漁サンは分家のお嬢さんだったんです。先日ぼくが巡り会ったのは、本家小笠原母島のお嬢さんでした。
 母島の漁協で売っていました。
 そうあの「便所サンダル」といわれた懐かしの黄土色。今の漁サンはどれもカラフルで、最近のレディース漁サンはファッショナブルでさえある。喩えるなら、教養もなく着飾って芯のない渋谷なんかにいそうな小娘といってもいいでしょう。
 質実剛健な海の男は、そのあたりの軽薄さに、若干の軽侮と寂しさを感じるのでした。
 ぼくは、質素で、飾り気もないが、強く、現実的、そこはかとない気品が感じられる、血筋はよく、なんとか細々と名家の伝統を繋いできた、その母島に一目惚れし、それ以来、幾たびかの海への旅路を共にしてきたのでした。
 と、なんだか小説っぽい文体になっちゃいましたが、ぼくはそれほど、あの漁サンを愛用しているのです。
 この実用一点張りの美しさというものを大切にしていきたい。できれば多くの人に履いてもらって、日本の物作りの原点に思いを馳せ、パール印の丸中工業所に末永く漁サンを作ってもらいたいと思いこの駄文を書いたのでした。
 では、みなさま、ごきげんよう。






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ずっと海に癒されて暮らしてきたような気がします



 海が好きで、海辺の田舎町に住んでいます。
 いつから海が好きになったんだろうって、ときどき考えるんです。
 小学生の時、家族旅行で海に連れてもらったのはとても楽しい思い出です。その頃は特別海辺に住んでいるとか、そういうわけではありませんでした。年に1回とか2回とか、海に旅行に行く感じでした。それってまあどこのご家庭でもよくあることじゃないでしょうか?
 中学生の頃、サイクリングをするようになって、近くの海に行くようになりました。近くといっても自転車で2時間くらいはかかりましたけど…そのくらいの自転車での移動は当たり前でしたね。若いね。
 高校生の頃は、休みの日に電車で30分くらいかけて海に行くようになりました。海辺を散歩するんです。
 大学生の頃からは、サーフィンにスキューバーダイビングと、どっぷりとウォータースポーツにハマっていくことになります。
 今も昔も共通しているのは、ぼくにとって海に接することが一番気分転換できる方法だ、ということです。気持ちがスッキリするし、大らかなノンビリした気分になれます。
  特に高校生の時に受験勉強で煮詰まったときなどは、海に行くとずいぶん気持ちがスッキリしたものです。
 ぼくの中では海に行くという行為が、気持ちのバランスをとる役割を果たしていたんでしょう。今は海辺に住んでいるので、海に行くという感覚ではなく、海を眺めるとか近所を散歩するという感じですが、海に接して気持ちのバランスをとるということは、それほど変わっていません。海を眺めて深呼吸するだけで、気持ちが、大らかに、緩やかに、穏やかに、柔らかく、晴れ晴れと、スッキリとします。
 若い頃も青年の頃もオジサンになってからも、悩んだり気持ちが落ち込んだときは、海と接することでなんとか立ち直ってきました。そうやって考えてみると、ぼくはなんと悩みを多く抱えて生きているんでしょう。そしてきっと死ぬまで続くんでしょう。やれやれ…









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ウォータースポーツをするかっこいいオジサンになりたかった…



 ぼくがサーフボードに初めて触れたのが、20代の頃。今からもう30年も前のことになります。鵠沼でレンタルのサーフボードで初めてサーフィンをしたのでした。
 そのサーフショップのオーナーは、オジサンだったけどオシャレでかっこよかったんです。
 その後サーフィンにはまり、次にスキューバーダイビングをするようになりました。
 スキューバーダイビングは大学生の頃に始めました。
 バイトしまくってCカードの講習費を稼ぎました。
 ぼくが教わったインストラクターは女性でかわいかったし、そのショップのオーナーが渋いオジサンでかっこよかったんです。海の男、シーマンという感じでした。その人達とはその後もずっと交流が続いていますけど…
 ぼくは大学生という多感な時期に、海遊びを本格的にやるようになって、ちょっと年上の人の中には、かっこいい、かわいい、素敵な大人がいました。彼らは、運動神経もよくて、太っておらず、変に金持ちぶってもいませんし、会社人間ではなくて、独立して、生き生きとしていました。
 憧れというほど大げさではないけれど、生き方の方向みたいなものを身につけた気がします。それはつ、大きな会社に入って、出世して、そこそこ豊かな暮らしをして、ゴルフして、太って「俺は大企業の部長だ!オラオラ!」みたいなステレオタイプで、古くさい生き方ってイヤだなということ。
 ウォータースポーツをしながら、海のそばで、自分らしく、かっこよく生きたいなって思ったんです。今自分も間違いなくオジサンになったんですが、あの時描いたかっこいいオジサンになっているか…といえば少し怪しいかな…









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一日中、ビーチで過ごす幸せ



 ぼくは海辺の田舎町でノタノタと暮らしています。
 ぼくにとって自宅で過ごす時間は、基本的に幸せです。
 そしてアウトドアで過ごす時間は、もっと幸せです。
 特に幸せなのは、一日中海のそばで波の音を聞き、潮風に吹かれながら過ごすことです。
 たとえば朝起きて、チェアとテーブルとピクニックセットを持って、家の前のビーチに行って、そこで本を読んだり、コーヒーを飲んだり、スノーケリングやシーカヤックなどのウォータースポーツをしたりして過ごします。
 海を眺め、波の様子を観察し、空を見上げ、遠くの島々に視線を移します。
 潮の香り、波の音、肌を撫でる潮風。
 日が東から、南中し、西へ傾いていきます。
 そして夕方クーラバッグから冷えたビールを取り出して夕陽を眺めながらマジックアワーを楽しみます。
 一日中、海の自然の中にいる、というか曝露している、さらされていると、気持ちが伸びやかに大らかになります。
 やっと自分らしい自分にもどれたなあと思うのです。
 平日に仕事に行っている自分、満員電車で息を潜め、上司のバカバカしい指示に従い、それが必要なのかどうかよくわからない仕事に取り組んでいた自分から離れて、本来の自分になれるのです。
 太陽の光を浴び、潮風に包まれ、波の音を一日中聞いていると、身体の中の不純物が洗い流されていく気がします。
 家に戻り、風呂に入り、音楽を聴きながらビールを飲むと、まだ身体がビーチにいるような感覚があります。そのまま波の音の残響を聞きながら眠りにつくのは、とても深く眠れて幸せなのでした。








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海のことを考えて、気分を少しでも上げていこう



 鴨長明とかいろいろな人が書いていた気がしますが、世の中で生きていくのはいろいろとあってたいへんですね。
 仕事もたいへんだし、出世もあるし、家族のこともあるし、親の介護のこともあるし、自分の健康のことも気がかりだし、世間体だってあるし、細かなイライラもありますよね。人ってそういう悩みを抱えながら生きて死んでいくのかなあなんて思ったりします。
 ぼくは何かに追われて、急かされて何かするのが苦手なんです。あとは人口密度の高いところが苦手です。そんなことがあって海辺の田舎町に引っ越したのでした。
 それでも日々の心配事やイヤなことは尽きません。なぜそうなのかなあって考えてみたんですが、それは自分が心配事やイヤなことを考えてしまうからじゃないかと思いました。
 なんだか変な結論ですが、どれもこれも差し迫って対応しなきゃいけないことじゃないし、考えなければ存在しないも同然じゃないかって思ったんです。
 ぼくの場合、心配事やイヤなことを考えるのは、電車での移動時間と寝る前が多いんです。逆に海で遊んでいるときや海を眺めているときは、ほとんど考えません。なので、心配事やイヤなことを考えがちな時に、海遊びや海辺の暮らしを楽しむことを考えれば楽しく過ごせるんじゃないかと思ったんです。とても単純ですが…
 実際やってみると、 心配事やイヤなことというのは自動的に考えてしまっているようです。なので、なるべく早くそれに気づいて、別な楽しいこと〜ぼくの場合、海のこと〜を考えるようにしています。
 それで状況は改善されているような気がします。
 具体的に海のどんなことを考えるのかというと、これまで試したものだと、今度の休みはどんなウォータースポーツをしようかとか、こんなことをしたらもっと楽しいんじゃないかとか、次の長期の休みはどこに旅行に行こうかとか、まだ行ったことのない美しい海はどこだろうかとか、まあそんなことを考えていると気分も少し上がります。
 単純ですけどね…











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この冬のドライウェアのインナーにワークマンのアンダーが活躍しました



 季節はだいぶ暖かくなってきましたが、ドライの時期はまだまだ続くと思いますので、ちょいと備忘的に記事をまとめてみたいと思います。
 ぼく的には今年はワークマンをやたら使ったような気がします。世間的に流行っていたというのもありますし、安くて丈夫で実用的というのもあったと思います。
 特にドライウェアのインナーには、ワークマンを多用しました。それは「キルトレイヤー丸首長袖シャツ」です。
 キルト地というかワッフル地で起毛していて保温力が高いわりに、かさばらないので余計な浮力を増やさないところがこの製品のいいところです。また汗で濡れても重くならないのもスポーツに向いているように思います。
 これをベースにして、フリースを重ねたり、ユニクロの極暖シャツを合わせたりして温度を調節していました。
 キルトレイヤー丸首長袖シャツは、スキューバーダイビング以外でも使っていました。シーカヤックのアンダーウェアとか、海辺のウォーキングのベースレイヤーにもしていて、冬のベースレイヤーで一番よく使いました。
 なぜかなーって振り返ってみると、着心地がいいのと、他の高機能ベースレイヤーに比べて温かいのと、値段が安い(1900円)のでガシガシ使えるのが、その理由な気がします。
 ぼくが使っている他のブランドの冬用ベースレイヤーは、HELLY HANSENのLIFAロングスリーブ(たしか6000円くらい)と、モンベルのスーパーメリノウールの中厚手の長袖シャツ(やっぱり6000円くらい)と、finetrackのベースレイヤーのドラウトシリーズの長袖(たしか8000円とか10000円とか)を使っています。
 速乾性とか、水分を溜めないとか、肌触りとか、着心地ではやっぱりスポーツブランドのがいいわけですけど、やっぱり値段が高いし、ウォータースポーツで使った後って洗濯機でガシガシ洗った方が楽なので、手洗いとか陰干しとかメンテに気を遣うのは面倒くさいのです。あと値段が高いと、引っかけたりしないかとか、ドライのファスナーに噛んだりしないかとか、貧乏性のぼくとしては気にしてしまいます。
 一方でユニクロのアンダーウェアも値段はそこまで高くないですけど、基本日常使いのアイテムなので、タフな状況では機能的に物足りません。
 そんなこんなで、ちょっとしたすき間を埋めるような感じでワークマンを使うことが多くなったのでした。
 ちなみにキルトレイヤー丸首長袖シャツは、今は品切れで次のシーズンまで発売されなさそうです。









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海のそばで、虚飾を排して大らかに暮らそう



 情けない話しですが、サラリーマンとして働いていると、自分がチマチマ細かいことにこだわっていくのがわかります。そういう視点に、そういうリズムに、自分が捕らわれていくことを自覚しています。おそらく組織とか仕事が働き手に、何か作用を及ぼしているんでしょう。
 ぼくは週末に海遊びをしますが、それを通じて、チマチマしがちな自分の考え方をリセットしているようなところがあります。
 海のいいところは、そういう効果があるところです。
 だからこそぼくは通勤時間がかかっても、海辺の田舎町に引っ越したのでした。
 サラリーマン生活を続けて20年くらいになりますが、その間なんとか自分らしさを保ってこられたのは、海辺の田舎暮らしと海遊びのおかげです。
 平日の労働者としての自分にさすがに嫌気がさしてきても、週末に何をするか考えていると楽しくなります。だいたいぼくは天気や海況によって次のようなことをします。
 海が穏やかでお金があれば、スキューバーダイビングします。
 海が穏やかで、すごく寒くなければ、シーカヤックをします。
 波がある日はサーフィンをします。
 海が荒れている日で雨が降っていなければ、海辺をサイクリングしたりウォーキングしたりします。
 定期的に庭仕事や家のメンテをします。
 近所の農協の野菜直売所に買い出しに行ったり、漁協の直売所に魚を買いに行ったりするのも楽しみです。
 海で遊んでいると、人が生きていくための根本的に必要なことが何かを考えさせられます。それはぼくの場合、海が漁の場だという意識があり、漁をとおして、食べていくとか生きていくとか生活していくということをイメージするからだと思います。
 実際、もし仕事がなくなったら海で魚や貝や海藻を獲って暮らせばいいかなあ、なんていうことを考えたりします。
 もうひとつ海が、ぼくに生きていくための根本的に必要なことを考えさせる理由だと思うのは、海というのは台風などで荒れるとたいへんなことになります。そんなとき、家のようなシェルターって大事だとか、水や電気やガスはやっぱりありがたいとか考えたりするんですが、要は生きていることそれだけで価値があるし、それを最低限キープするために何が必要かを認識させてくれるからなのです。
 極端な例をに出すならば、台風で家が飛んでいきそうで、停電断水しているときに、ブランドもののバッグがあっても仕方がないということなんですが、それを海辺に住んでいると、年に何回かは実感させられます。
 もっといえば、服は丈夫で安価であればいいし、車は安くて動けばいい。その先には虚飾を排した暮らしがあります。
 そう、海辺に暮らしていると、虚飾ということについて考えさせられるのです。
 どこからが文化的でどこからが虚飾なのかはよくわからないのですが、おそらく他者に対して見栄っ張りで物質を伴うのが虚飾で、精神的で人生を豊かにしようという取り組みが文化的なのではないかと、おぼくとしては勝手に考えています。
 ともかくそういうことに無自覚であるよりはマシかなと思います。








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離島の旅で感じる、鍵をかけるという行為の奥にある心の負担



 みなさん、ちょっと近所に買い物に行くのに、家に鍵をかけますか?
 ちなみにぼくはかけません。
 たぶんですけど、ぼくの住んでいるあたりの人は、半々くらいじゃないでしょうか?
 ちなみにぼくが旅した、沖縄の離島、小笠原の父島母島などは鍵をかけていない人が多い感じでした。伊豆七島は島によって違う気がします。
 ぼくが、この「鍵をかけるという行為が象徴する心理的負担感」に気がついたのは、離島を旅したときです。
 都会での会社員生活に疲れ気味だったぼくは、沖縄の宮古島・多良間島に2週間近く旅しました。10年とか15年に一度大目の有給休暇がもらえる制度があったので、それを使って離島の旅をしたんです。多良間島は人口1300人。離島ではよくあることですが、スーパーというか何でも売っている店が1軒、郵便局、農協、派出所、役場、小中学校の公共機関1セットがギュッとまとまっています。
 当然、島の人はみなさん顔見知り、旅行者も船か飛行機で入って来るので、だいたいどんな人が来たのかは把握されています。そんな島に2週間もいると顔を覚えてもらえて、道を歩いていると声をかけてもらったりしました。
 あるときレンタカー屋兼雑貨屋の店に行ったんですが、お店のオバアは不在。しばらく待っていると島の人が来て、洗濯洗剤を手に取って、代金をレジのようなところ(レジスターはない。電卓はある。)に置いて、出ていったのです。それがその店の普通のやり方でした。
 あと、島では車に鍵をかけるなといわれたのも覚えています。邪魔なときに誰もがすぐに移動できるようにキーは挿しっぱなしにしておいてということです。このルールは他の島でもいわれたことがあります。
 こうした島に10日間ほど滞在すると、だんだん自分がリラックスしていくのがわかるんです。リラックスというだけではなく、心がほぐれて伸びやかになっていきました。大らかにゆるやかな心持ちでいられるようになったんです。
 それはおそらく南国な暖かい気候や海という自然の近くでの暮らしという要素もあったと思いますが、島という閉鎖された空間で、住民の顔が見えるコミュニティでの安心した暮らしという要素もあったと思います。それからもしかしたらぼく自身が30代中頃で、都会生活よりも田舎暮らしの方に価値を見出す年齢になっていたからかもしれません。
 そんな風にぼくの気持ちが変わっていったことと、鍵をかけない暮らしというのは関係が深いと思うのです。 
 以前にも似たようなことを書いているんですが、ぼくは家とか車に鍵をかけなければいけないか、かけなくても平気かで、そのコミュニティの暮らしやすさがおおよそわかるんじゃないかと考えています。
 鍵をかけるということは、気持ちのどこかで、誰かが自分の財産を脅かす可能性があると考えているわけでしょう。しかもこの場合の誰かというのは、自分の知っているコミュニティ以外の人が、たいてい想定されています。
 自分の知らない誰かが急にやってきて、自分の財産を狙っているかもしれないと考えているんですね。鍵をかける行為って、わりと無意識にやることだと思うんですが、それって先に書いたような警戒心を心に持っているということでしょう。それがあるとないとでは、心理的な負担はだいぶ違うんだろうな、というのが離島を旅して感じることです。
 ストレスについて考えるときには、大きな悲しみや苦しみが短期的にあるということも重要だと思いますが、小さな心理的負担が長期間にわたって続くという面も重要だと思うんです。
 離島の暮らしにはそうした小さな心理的負担が少ないんじゃないかな?
 沖縄の島の人が歳をとっても若々しくて元気なのはそういう理由もあるのかもしれません。
 まあ、そんな理屈を考えてしまうのも離島を旅すると、リフレッシュとか癒しとかそういう軽めの言葉では表せないほど、本当に心が軽くなるからなのです。
 鍵をかけるという行為に限って話しを進めましたが、鍵をかける必要のない暮らしっていうことをもう少し書いてみたいと思います。
 先ほども書きましたが、車が盗られる心配もないし、店の物を盗られる心配もありません。自分のことを周囲のみんなが知っているし認めてくれているコミュニティです。知らない人がすれ違いざまに襲ってくることもありません。オートロックも必要ありませんし、エレベータに見ず知らずの人と一緒になって警戒することもありません。セールスの人がインターホンを鳴らすこともありません。
 そうした小さなストレスの要素が少ないと、人の心ってやっぱりずいぶんと違うんじゃないでしょうか?
 そしてそうした日々が、70年も80年も累積すると、それはやっぱり健康にもえいきょうするよなあ、なんて思うのです。









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海と接することで自己肯定感が高まります



 海辺の田舎町で暮らしています。海況がよければウォータースポーツをし、荒れていれば海辺を散歩します。
 海にいると、ぼくはこれでいい、自分の生き方は間違っていないと思えます。
 それって理屈ではない、もっと身体の奥から感じる安心感のような感覚です。
 この気持ちはなんだろうと、ずっと考えてきたんですが、すっきりまとまりません。
 身体の奥から感じる安心感は、次のようなときにやってくるのです。
 ぼくの生き方が、根本的に間違っているんじゃないかと心配になったり、あるいはいろいろな人から批判されて、自分ってやっぱりダメなんじゃないかって思ったり、あのときの自分の判断は大きなミスなんじゃないかって考えてしまうような心持ちのときです。
 そんなときに海にいると、大昔から人って今の自分のようにこの海辺で暮らし、海を眺めていたはずだと考えます。
 そしてその人も悩みや不安を抱えていたはずだと考えます。
 おそらくこの海辺で魚や貝や海藻を獲りながら暮らしていたんだと想像します。
 大昔から人がやってきたことを自分もただやっているだけ、たぶん間違っていない、って考えます。
 海という変わらない自然と、そこで暮らしてきた人々への思いが、自分の不安のバランサーになっているのかもしれません。
 海を見てこんな風に考える人はあまりいないのかもしれませんが、ぼくはそう考えることで元気が出てきます。








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シーカヤックで沖縄から宮崎まで、その勇気とタフさに感動します。杉 健志郎 『水平線を超えろ』



『水平線を超えろ』 杉 健志郎  (東洋出版)
 シーカヤックをやるぼくとしては、こうした航海本は好きで、目にすると読むようにしています。どの本でも感じるんですが、よくそんな航海をするよなあ、ということです。その勇気に感心させられます。
 当然ですが、海況が荒れていればとても危険ですし、出航の際に海が荒れていなくても漕いでいるときに荒れることもよくあります。
 それから島を渡る航海も感心させられることです。島から島の距離が長井とその間陸地はないわけで、途中で海が荒れたり、器材が破損したり、体調を崩したら遭難につながりかねません。また、自分の航路をキチンと把握していないと目的の島に辿り着かないこともあり得ます。今はGPSがあるので、自分の現在位置を見失うことはあまりありませんが、海流に流されてしまうと大変です。
 杉さんの本を読んで感じたのは、杉さんがベーシックな器材だけで、沖縄から宮崎まで漕いでいることです。つまり島と島の間もGPSなしでコンパスだけです。GPSは調達するけれどもテストで水につけて壊れてしまいます。杉さんはどうするかというと、新しいGPSを調達することなく出航してしまいます。
 このあたりの思い切りのよさや器材に過度に頼らないところが杉さんの特徴のような気がします。
 ぼくが杉さんようにできるかと自問しながら読み進めるのですが、ぼくには無理だと思います。それは歳のせいというのもあるかもしれませんが、ぼくには勇気がありません。正直なところトカラ列島で黒潮を横断するのは恐いです。
 ぼくはやっぱり大したことがない人間なんだなとつくづく思います。
 それをやってします杉さんはじめ、多くのシーカヤッカーはすごいです。
 人の偉大さと己の小ささを改めて感じるのが、こうした冒険本のよくある読後感です。








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