海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
冬でも海に出ると気持ちよくなくない?
テレビの天気予報では「今季最大の寒波が…」「冬将軍が…」なんていってますね。寒い地域の方や雪がたくさん降る地域の方はたいへんなんだろうなと同情しつつ、ぼくはそういうところに住んだことがないので、その大変さというのは実感としてはわからないのです。すみません。
お天気オネーサンにぜひお願いしたいんですが、寒い時に「今年の最低気温」とか「初霜」とか「最大の寒波」とかいわないで欲しいですね。余計に寒くなりますから…
ここは「あと6ヶ月もすれば夏です」とか「気温は氷点下ですが、体感温度は10度です。わたしのハートは36度よ」とか優しく微笑みながらいって欲しいです。何事もポジティブに考えるのが大切だって、高校の先生もいってました。
ぼくが住んでいるところは、冬でも零下になることは数えるくらいで、最高気温は10度くらいにはなります。
そんな土地ですし、ウォータースポーツを始めた頃から、冬でもサーフィンをやってましたし、PADIのレスキューダイバーの講習を受けたのも冬のドライスーツの時期でしたから、冬に海に出ることは当たり前という雰囲気の中で育ってきたのです。「なにー寒いだとぉー今寒いっていったヤツ一歩前に出ろっ」という雰囲気の中で育ってきたのです。
なので今でも冬でも海に出ます。そんなの当たり前です。もちろんです。
スキューバーダイビング・サーフィン・シーカヤック・セイリング…
海に出た方が、というか海に出ないと体調が悪くなります。身体を動かすからか、自然の中に出るからなのか、海に出るからなのか、その理由はよくわかりませんが、実感としてしばらく海に出ないと、体調がなんとなくスッキリしません。
このあたりの理由をぜひ研究者の方に研究していただきたいなあと思ったりします。
ぼくは遊ぶことに忙しくて理由なんて調べてるヒマはないので、そういうのは専門の方にお願いしたいと、かように思うわけであります。
でも、冬に海遊びしている仲間と話すと同じようなことをいう人が結構いて、「ちょっと寒いけど海に出た方が調子がよくなる」「海で遊ぶと気持ちいい」「海に出ないと運動不足になる」「お肌のハリとツヤが違う」「最初はちょっと怖かったけど、一度経験したらすごく気持ちよかった」(少しウソが入ってます)などなどとお客様からの絶賛の声が数多く寄せられている、らしいです。
都会で暮らす一般的な社会人の方にこんなことをうっかり話すと、別の星から来た地球外生命体のような目で見られるので話しませんが、今は道具類が進歩していて、寒さを緩和するウェアとかもたくさんありますし、いうほど寒くはないんです。海から上がればシャワーや風呂にも入れますしね。それに水温というのは相模湾あたりだと15度くらいあります。気温が10度でも水温は15度。というわけで、海の中の方が暖かいし、身体を動かしていればなおさらです。
しかも、気分もスッキリ、運動不足も解消できると…
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ぼくの住みたい海辺は、田舎の漁村
ぼくは海辺に暮らしています。
東京に通わなくてはいけないので、日本全国どこの海辺でも住めるというわけではありません。
せいぜい神奈川とか千葉とかなんです。それでも住みたい海辺というのはあって、できる限りそういうところに引っ越してきました。
ぼくが住み心地がいいなあと思う海辺は、もう、まさしく、ジャストで、ザ・昔からある日本の漁村、というところです。たとえば寅さんが訪れそうな…古いですね…浜ちゃんが行きそうなところ…です。
小さな漁船が港に上げてあって、漁師小屋があって、季節の海藻や魚が干してあって、軽トラが停まっていて、猫が日なたぼっこしているような漁村が好きなんです。
ぼくは漁村の生まれ育ちではないんですが、子供の頃から漁師さんとか農家のオジサン・オバサンと打ち解けるところがあって、それは成長しても変わらず、自分がオジサンになった今となっては、漁師さんと話がはずんで意気投合するようになりました。今では「アンタはいい漁師になれるよー」とまでいっていただけるようになりました(ちょっとウレシイ)。
そんなぼくにとって漁村というのはすごく住みやすいんです。
以前、湘南の鵠沼というところに住んでいましたが、ちゃんとした町で、ちゃんとした住宅街で、どちらかというとちょっと洒落ていて、住んでいる人も中流以上の暮らしをしている場所でした。そこはあまり住み心地がよくなかったんです。なんか気取った雰囲気に馴染めませんでした。
鎌倉にも一時期住んでいましたが、芸術家っぽい人とか、会社員でも高給取りっぽい人とかが多くて、ちょっとなあと感じました。
漁村の何が暮らしやすいかというと、気取らないでいいというところです。
たとえば休みの日に髪の毛ボサボサで、安物の短パン・Tシャツ・ビーサンの黄金の海辺セットで道をブラブラしていても、郵便局に行っても、スーパーに行ってもぜんぜん平気です。
家族で大声でケンカしても、別に近所の人は笑ってますし、ときにはどうしたどうしたと話を聞いてくれたりします。
お祭りや子供の運動会も町中で一緒にやりますし、ぼくはそういうのが好きみたいです。
そういうのって人それぞれの好みなので、たぶん苦手な人は苦手でしょうね。
ガンガンいこう!
「だいたいまともなヤツはサーフィンとかスキューバーダイビングなんかしないんだよ」
ぼくの大学時代からの友人で、現在誰もが知っているような大企業で管理職をやっている人の意見です。
ヤツの真意は、ウォータースポーツというのは危険で、社会でちゃんとした役割があったり、家庭があったりするような責任ある大人のすることじゃない、ということです。
大学時代は仲がよくて、結構無茶なこともしたんですが、ずいぶんつまらない大人になったものです。
ぼくは一応会社で働いていますが、ヤツのようには考えていません。組織というのは不思議なもので、誰が抜けてもなんとか回るものです。今の日本の会社で働くということは、どんどんリスクを取って、これまでにないような局面を切り開いていかなきゃいけないということなので、ちょっとくらい横着なヤツの方が向いていると思います。
ぼくの友人のような保守的なヤツばかりの会社は、そのうち危なくなるんじゃないかって予想します。
とはいえヤツのような考えは、多くの「まともな」社会人の標準的な考え方なんだろうなとも思うんです。ぼくの方が異端であるというのは、なんとなく自覚しています。
できる限りリスクを取らない、できる限り平穏な人生を望んでいる人は結構いるんでしょう。
以前も書きましたが、ぼくはやりたいことをやって密度の濃い人生を過ごしたいと思っているので、そういう「まともな」大人の考え方には反対です。
日本はまがりなりにも自由で民主的な国だということになっていますから、やりたいことをガンガンやればいいんじゃないでしょうか?それで失敗したり怪我したり病気したり死んだりしてもそれが何だというのでしょうか。ぼく一人がどんなに横着なことをしたってたいしたことではないでしょう。
よく父が酒を飲みながら話してくれた「男は、挑戦して失敗してまた挑戦して、心も身体も傷だらけになっても、それでも何もなかったように前に進み続けるものだ」という言葉を、ぼくは最近になって、本当にそうだなと思うようになりました。
ウォータースポーツをしていて、ふと思いを馳せるのは、大海に出ていくのは現代のようなテクノロジーが発達し、情報が十分な時代でも恐怖を伴うものですが、昔の人というのは、木造の小舟で世界中の海を行き来していたという事実についてです。
その勇気、それは勇気だったのか、それとも生きるためにやむを得ずだったのかわかりませんが、その未知の世界に踏み出していこうという挑戦心に、ぼくは驚くのです。畏敬の念を抱くのです。すごいよね…
でも、おそらくそういう無謀ともいえる数々の挑戦と数々の犠牲の歴史的積み重ねのうえに、今のわれわれの生活は成り立っているのは間違いありません。
それは今でいうところの起業とかベンチャーキャピタルとか、そういう既存の枠組み外の挑戦だったのではないでしょうか?
気にしない気にしない
海外(の海があるところ)とか離島を旅するのが好きです。
海外旅行をすると、特に発展途上国を旅すると、日本人っていろいろ細かいことを慮ってよくないな、と思うのです。もっとKYで鈍感でマイペースでいいんじゃないでしょうか。で、お互いにいいたいことを言い合うといいんじゃないかって…
あと、みんな気楽に生きてるよなーって思うんです。日本より経済的には恵まれていないのに、そんなに先のことを心配していない感じ。日本はといえば経済的にはGDP世界第3位です。一方自殺率は7位。高齢化対策、少子化対策など課題が山積していますが、そんなに悲観することもないような気がするんです。というか、将来のことを考えすぎるから子供を作らないんじゃないかって思ったりもして…
日本のたとえば沖縄方面の離島とか旅してると、地元の人はノンビリ、気楽に暮らしてますよね。もちろん悩みはあるに決まってます。でも楽しそう。あくせくしてないように見えます。内地に比べれば仕事も少ないし賃金水準も高くないでしょう。
でも、日々暮らすということでいえば、暮らしていけるわけで、それでいいんじゃないでしょうか…
朝ゆっくり起きて、ゆっくり朝ご飯食べて、お茶飲んで、掃除と洗濯して、隣のサトウキビ畑の手入れして、昼ご飯食べて、昼寝して、近所の友達らと井戸端会議して、夕方はサツマイモ畑の手入れして、夕ご飯食べて、ビール飲んで寝る。
一方、東京の大企業の課長さんはといえば…
朝、6時頃起きて、朝食を食べて(何を食べたか覚えていない)、たまプラーザにある一戸建て5LDKの家(愛車はBMW)を出て、たまプラーザ駅から満員の田園都市線に乗って、痴漢に間違われないように最新の注意を払って、また満員の山手線に乗り換えて会社に着いて、会議と部下の営業の付き添いがずっーとあって、営業の見積り資料にミスがあって、それの対応で昼飯が喰えなくて、部長から呼び出されて、先週の重要顧客からクレーム来た件の対応状況を問いただされて、不十分だと叱られて、部下と臨時の対応ミーティングをして、気がつくと夜の9時で、それからまた満員電車に揺られて帰って、夕飯食べて(何を食べたか覚えていない)、1年前から不眠で精神科で処方された睡眠薬を飲んで寝る。
人にはそれぞれ価値観があって、何をシアワセと感じるかはみんな違います。離島の暮らしがシアワセと感じられる人もいれば、都会の暮らしがシアワセと感じられる人もいます。
ねぇ、ぼくはいつも戸惑うんですが、どちらもシアワセかもしれませんが、あえていえば先ほどの例の2人のどちらの人生がシアワセなんでしょうか? もし自由に選んでいいといわれたら、ぼくはどちらの人生を選ぶんでしょうか?
そんなの一概にいえませんけど、自殺率7位ってどうなんでしょう? どこかに直さなければいけないところがあると思うんですけど、それがどこかわからないところが日本の深刻な点じゃないかと思うんです。
あとね、細かいことにこだわったりしますよね。それは美徳でもあるんですけど、そのこだわりが変な発揮のされ方をするとちょっとややっこしくなります。あいつの態度が気に入らないとか、会議でいったあの発言は何か裏があるんじゃないのかとか、この間の部下のミスは、実は部下が別な部署の部長とつるんでいて、オレを陥れようとしているんじゃないか…とかね。
細部を気にする神経の細やかさがそっち方面に発揮されると、だんだん病んでいくような気がするんですよね。
ぼくは歴史小説が好きなんですが、今の日本の状況って、平安時代の貴族の暮らしとか、江戸時代末期の幕府の上層部の暮らしに似ているなーって思います。何が似ているかというと、制度がガチガチに固まっていて、暮らしぶりは豊かで、日々決められた行事の繰り返しで、その制度の中で、細かなことばかりが配慮されて、大切な骨子の部分が抜け落ちているところです。そして、みんな減点されないように上の人の顔色ばかりうかがって生きているところです。
体制が整うと、日本人ってやっぱりいつの時代もこうなっちゃうんでしょうか?
一時期「鈍感力」という言葉が使われることが多かったように思いますが、確かに日本人には鈍感力って大切かもしれません。あとKY力とか…
ぼくは忙しくなったり、なんとなく気持ちがモヤモヤするときは、沖縄の離島の人達の暮らしぶりとか、海外の発展途上国の人達の暮らしぶりとかを思い浮かべるようにしています。そうするとなんだか自分が、すごく些細なことを気にする世界の住人のように思えてきてバカらしくなります。
みんな同じ人間、同じように生きているだけですもん。
少なくとも、ぼくはなんとか食べることはできる恵まれた国に暮らしているし、安全といえばまあ安全だし、頑張れば報われるだけの自由はあるし、何も思い悩むことはない、気にするな、なんとかなるさ、ちょっと一時期忙しいだけじゃないかと、自分にいいきかせます。
馴染みの喫茶店が閉店してしまった欠落感
ぼくが長年通っていた家の近所の喫茶店がずいぶん前に閉店してしまいました。
長年通っていてこんなことをいうのもなんなんですが、すごい特徴があるわけでもない普通の喫茶店でした。カフェブームが起きて、個性的なカフェが乱立している今だからよけいにそう思うのかもしれません。
海辺の町にあって、海が見えるわけでもなくて、まわりが木々に囲まれていて、少し山小屋っぽくて、薪ストーブがあって、天井が高くて、気取らない、いついっても静かな喫茶店でした。
ただ、不思議なもので、その喫茶店はなんとなく落ち着くんです。居心地がいいので、結構長居してしまうのでした。
人の家に遊びに行ったときも感じますが、その建物が新しくて、高価で、キレイで、こだわりがあっても、居心地がいいと感じるとは限らない気がします。
その空間が居心地がよくなるのは、設計者の意図によるものなのか、施工者の技術によるものか、住み手の生活のしかたにあるのか、あるいはいくつかが混ざりあっているのかはわかりません。
ただ、確かにいえるのは、居心地がいい空間とそうでない空間があるということです。
その行きつけの喫茶店は観光客を相手にした店ではありませんでした。お客はたいてい地元の人でした。混んでいることはめったになくて、馴染みのお客がポツポツといるという感じでした。
コーヒーの香りとゆったりした時間が漂っていました。
なんとなく自宅以外のところで、ゆっくりコーヒーが飲みたいなと思うと、その喫茶店に行っていました。特にすごく行きたいと思ったわけではないのです。なんとなく行っていたのです。ぼくの中では、自宅の別室とか離れみたいな感じでした。
でも、店がなくなった今となっては、なんとなく行く場所がなくなった欠落感が、思いのほか大きいことに自分でも驚いています。
そういうことって、他でもありますよね…

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スキューバーダイビングで危なかった話~テトラポットには気をつけろ!編~
ヤバいよヤバいよシリーズということで、スキューバーダイビングのリスク管理とかこれまで経験したヤバイことは以前まとめたことがあります。
で、今回はその追記です。
結論は、テトラポットには気をつけろ、ということです。これは自分のために、自分の判断ミスを忘れないためにも記すものですが、他のタイバーの参考になれば、それは何よりもうれしいことです。
何年か前に東伊豆でダイビングしたときのこと。だからぼくが40歳前半くらいだったかな…
ビーチダイブで漁港のスロープからエントリーして防波堤の向こう側に出て、ぐるっと回って戻ってくるというコース。最大水深も15m。通常ならなんてことのない初心者向けコースです。
ただその日は低気圧が張り出していて、うねりが入っていました。それもかなり強め。ざっくりいって2m以上はありました。普通はクローズして西伊豆に流れるコンディションです。ぼくだけだったらそうするでしょう。
ただそのときは、ガイドとぼくとバディの3人。ぼくもバディもダイブ経験は多少はあります。本数でいうと300本程度。しかもバディは久しぶりに休みが取れて、けっこう潜りたいモードなので、ガイドは潜ることに決めました。
エントリー後、30分間、問題なくダイビングが進みましたが、ビーチに戻る直前の防波堤のテトラのそば、水深5mくらいで、上昇する潮流に巻き込まれました。もうあっという間、BCのエアを抜いているヒマもなく数秒程度で水面に浮かんでしまったのです。肺の過膨張障害だけは避けること、テトラに入り込まないようにしたことは、今でも憶えています。
水面に浮かぶと、ぼくの目の前にはテトラの塊が…距離として2mくらい。周囲を見回すと水面にいるのはぼくだけ…つまり上昇する潮流に巻き込まれたのは、ぼくだけだったんです。
今思えば、外洋から強いうねりが入っていて、それがテトラにぶつかってあるところで上昇潮流が起きていたんだと思います。まあ、そういう潮の流れがあっても全然おかしくないです。いや、テトラに吸い込まれる潮流じゃなくてホントよかった。ぼくは今生きてこうしてPCに文字を打ち込んでいます。あぁ、生きるってステキ…
背後を見るとテトラに向かって外洋からうねりがガンガン入ってきます。つまり、ぼくの背後からぼくをテトラに打ち付けるようにうねりが来るわけ。ダイバーとして、いやウォータースポーツをする人としてテトラに入り込むのだけは避けたいじゃないですか…
テトラは防波堤の外側に30mくらいの幅で置かれているんです。つまり防波堤を保護するために防波堤の長さだけ置かれているんです。ぼくが浮上したのは、防波堤の港から一番遠いところ。ぼくの位置から水面移動で港の内側まで泳ぐのは相当な距離がありそうです。しかもうねりに逆らうように泳ぐ部分もあります。
防波堤と逆方向は、テトラがなくなって、ゴロタのビーチです。そっちの方はテトラを抜け出すのに5mくらい。そしてゴロタまで20mくらい。絶対そっちの方が距離が短いし、しかもうねりに押される方向です。
なのでBCにエアを入れて、ガイドとバディが浮上するのを待たず、ゴロタ方面まで水面移動を始めました。おそらく水面でガイドとバディを待っても、ぼくの近くには浮上しない可能性があるなと思いました。その場合、このうねりだと、お互いに近づくだけでも相当な体力を使うはずです。
このときの残圧は80。まあまだ大丈夫。
ここままでで、自分で振り返って気がついたんですが、2mくらいのうねりが押し寄せてくるのに、ビビらず、パニックにならず、意外に冷静に判断しているんですよね。そこは自分でも自分をほめてあげたいです。まあ死ぬときは死ぬので、どうせ死ぬなら落ち着いて死んだ方がいいし、まあなんとかなるさと思っていました。
なので、スノーケルを咥えず、レギュレーターのまま水面移動をしました。うねりが強くて、スノーケリングだと海水を飲む可能性があったからです。
しかし40歳前半のオッサンにとっては30m弱の水面移動はけっこうきついです。以前はPADIのレスキューダイバーの講習とかダイブマスターの講習では余裕だったんだけどなあ…でもそんなのもう何十年も前の話だしさ…
でもまあ、焦らず息を切らせないようにゆっくりとゴロタ方面に移動しました。
そうしたら、ガイドとバディが堤防の入口の潜行用ブイのところに浮上していて、大丈夫かあといっている様子。波の音がすごくて声は聞こえません。ぼくはokサイン。そしてガイドはそのままゴロタに上陸して堤防を歩いて、エントリーポイントまで戻ってこいとハンドシグナルを出しました。ぼくはokサイン。
ぼくの存在は認識してもらったようなので、万が一帰還できなくても、捜索して、遺体は回収してもらえるかもね…いやーひと安心…
おぉヤレヤレゴロタまであと5mくらいまで来たなあ、あのゴロタにどうやって上陸するか、なるべく小さなゴロタ、かわいいゴロタ、柔らかそうなゴロタ、地球にも人にも優しいゴロタを選ばないと、頭とか身体とかぶつけたら重症になります。ヘタしたら死にます。イヤだな岩に頭ぶつけて頭割るの…
で、微妙に方向を調節をしていると、これまでのうねりよりひときわ大きいうねりが来て、ぼくは一気にうねりにヤラれてしまいました。大きなうねりがブレイクするあたりにいたせいか、巻き込まれてもみくちゃになったのです。気がついたらゴロタに打ち付けられていました。
絶世の美女にヤラれてもみくちゃになるような目に一度は遭ってみたいと思っていたんですが、大きなうねりにスキューバーダイビングでもみくちゃにされるなんて…オレの人生そんなことばっかだよな…
そして次から次からうねりがやってきて、ぼくはゴロタの上をゴロゴロゴロゴロ翻弄されていたのです。まるで流木みたい。ゴロタの上をゴロゴロするのはとても痛いので、よい子はマネしてはいけません。
ゴロタに打ち上げられたぼくを次々にうねりが襲います。頭を岩にぶつけないように用心しながら、うねりの届かないところまで這い上がろうとしますが、息が上がっています。それにフィンがゴロタにひっかかったりします。フィンを外そうかと思いましたが、万が一、一際大きなうねりが来て、沖に戻されたらフィンがないと戻れないかもしれません。
なのでフィンを付けたまま、レギを咥えたまま、ゴロタをハイハイします。そうなんです。足下が悪くて立ち上がれないでやんの。なのでハイハイ。
波が届かないところまでハイハイしたところで、大きめの岩に座って、レギを外してひと休みしました。ヤレヤレ、ここまで来ればなんとか大丈夫だろうとやっと思えました。
で、しばらく休んで息を整えます。
それからはフィンを外して、ゴロタを歩いて防波堤を乗り越えて港内まで歩き、ガイドとバディと合流しました。
怪我がないことを確認して、ヤレヤレです。
今回の事例から教訓をまとめるとすると…
・海が荒れているときに海に出てはいけない。
・テトラとか岩とか構造物のそばには潮流がありうるから、特にうねりが強いときは近寄らない方がいい。
・パニックにならず冷静であることは大切。
・体力は大切。最後に自分を支えるのは体力。
・さすがにスキューバーダイビング歴20数年なので、細かな配慮や判断はこれまでのノウハウに基づいているんだろうと思われる。
海辺の田舎町の小さなコミュニティに理想の暮らし方があるんじゃないかな?
ぼくは海と海遊びが好きで、もうかれこれ30年以上も海辺で暮らして、日々海に接しています。思えば遠くに来たもんです。まったく、自分がこんなオジサンになるなんて…
あれ何の話でしたっけ?
そうそう、我ながらよく飽きないものだと思いますし、知り合いからも「そんなに海が好きなんだね」といわれます(その目には少し揶揄っぽい気配が感じられるのは、ぼくのヒガミ?)。
なぜぼくは海が好きなのかというのは、このブログに何度も書いてきたんですが、もう一度まとめてみます。
海のそば(自然のそば)で暮らすことのメリットは次のようなものです。
・自然と接することができる
都会に住んでいると、ついつい自然のことを忘れてしまいますが、地球上に自然と無関係な場所はない(ですよね?)のです。自然はときに優しく人をいやしてくれますし、ときに激しく人の暮らしに打撃を与えますが、人はそうした自然の癒やしと脅威を忘れてはいけないと思うんです。なぜか?人は万能ではないし、その力の限界を自覚することで、向上心とか謙虚さとか身の丈にあったことをしようという意識をメタの部分で直感するから…
そして、自然のそばでそれらを日々実感しながら暮らすことで、自然に癒されたり、謙虚になったりすることができます。
・ルールが少ない、より自由である
人が社会で暮らすためには、ルールが必要です。それはベースの部分は法律だったり義務だったりします。さらに都会という人が密集して暮らすためには、お互いに不快にならないようにするためにマナーを守る必要があります。ベースの法律+マナーが必要なのです。それから人が集まって暮らすと(たとえば町内会とか管理組合とか)組織ができて、役割ができて、責任が生じます。
これは普通の人にとっては、なんてことないかもしれませんが、ある種の人にとってはストレスに感じられたり、息苦しさを伴ったりします。
海という自然の中では、もちろん法律もルールもありますが、それは陸の上や都会ほど多くありません。ぼくのような法律やルールやマナーが多いことに息苦しさを覚えるタイプの人にとっては海というのはとても過ごしやすい場所なのです。
そういえば中学生の頃だったでしょうか、日本は民主主義の国で、国民の自由が保障されていると教わりました。その後大人になって、その自由とやらは法律やルールやマナーや義務や責任でがんじがらめになっているものだとわかりましたが、でも基本的に国民は自由なはずなのです。みんなのモラルがある程度の水準であれば、もっと法律やルールが少なくてもいいかもしれない、そんな自由な場があり得るんじゃないかと空想させてくれるのも海のおかげかもしれません。
・人口密度が低いと人は他者に優しくなれる
以前からなぜだろうと思っていたんですが、渋谷とか新宿みたいな人混みにいるとすごくイライラするんです。そして「ちくしょう。なんでこんなに人が多いんだ」って思うんです。ぼくって異常でしょうか?
それからラッシュの電車は不快ですよね?
人が多すぎるとぼくのようなタイプの人間はすごくストレスを感じます。
でも、人口が数百人というような離島を旅すると、道ですれ違った地元の人にも挨拶したり、困っているようだと声をかけたり、手伝ったりします。
ぼくの仮説ですが、人間は人が多すぎるとそれを減らしたい、逆に人が少ないとそれを多くしたいという本能が働くのではないかと思うのですが、みなさんどう思いますか?
というわけで、人口密度が少ない海辺の町で暮らすとおそらく人はお互いに助け合おうとするはずですし、現にいろいろな土地を旅してそれは事実だと思います。それはつまるところ暮らしやすさにつながるんだと思います。
・自然の恵みを得ながら暮らす
海から獲れる魚介類、海のそばの山や畑からとれる食物、そうしたもので、取りあえず何人かが食べていければそれでいいんじゃないかって思うんです。
経済成長とか今期の売上目標とか使い切れないほどの富とか、そういうものって、もちろんあってもいいですけど、それによって人が楽しくないんだったら要らねーよ、ってぼくは思うんです。
ぼくがここでいっているのは、資本を蓄積しないということです。小さなコミュニティが、そこを維持できるだけのフローだけで成り立てばそれでいいんじゃないの?ということです。
ただ、人によっては、日本のGDPが世界第3位になって、いずれはもっと下がるかもしれない、それは国力の低下で、もっと経済成長のため頑張らねばならない…みたいな抽象的なことをいう人がいますが、ぼくは個人的にそういう議論をする人を信用しないことにしています。
なぜそんな抽象的な議論をさも重要なことのように議論するかがわかりませんし、日本の国力が世界で優れていなければならないという前提も、少子化・高齢化社会が今後数十年続くといわれている日本では、もうキツくなるからやめた方がいいと思いますし、GDPの高さと国民の幸福は必ずしもイコールじゃないとも思います。GDPが高くなっても一人ひとりがシアワセじゃなくてはなんにもならないので、議論の出発点は現実に存在する誰かのシアワセであるべきでしょう。
海のそばで暮らしていると、まあだいたいその日獲れたもので暮らしている人が少しはいたりするので、そういう人を見ていると、ぼくの考えていることもあながち空想とはいえないんじゃないかと励まされます。
・大らかにスローに暮らす
慌てず、些細なことに腹を立てず暮らすことって大切だなと思います。そのことをぼくは沖縄や小笠原の離島や海外の田舎を旅することで実感しました。
島の人達は、のんびりゆったり暮らしています。ぼくはそんな暮らしぶりって豊かだなって思いました。ベンツや高価な宝飾品は持っていませんけど…
慌てること、急ぐことがなぜいけないのか、ぼくの中でまだキチンと整理できていないんですが、それはおそらく締切りとか期限というものに関係しているんだと思います。締切りや期限があるとそれまでに「○○しなければならない」という思考パターンが生まれます。これがいわゆるストレスになるんじゃないかと思っています。
高度に発達した資本主義社会は、この期限を厳格に守ることで効率化していると思っています。そして資本主義社会というのはたゆまぬ成長を求めますから、期限を守ると次の期限が来るというサイクルがどんどん短く過密になってくるんじゃないでしょうか?
慌てない・急がないことは、この過密さを緩和しようということです。そして大らかさは締切りや期限やあるいはもっと広く社会のルールを緩く運用することもある面では大切なのではないかという提案です。もちろん大切なルールは守らなければなりません。ただルールやマナーが細分化されてくると、それを厳格に守ることにストレスを感じる人もいるでしょうし、守らせるためのコミュニティのコストも高くなるはずです。
最も理想的なのは、その人が快適だと感じる厳格さやスピード感が近い人、大雑把にいえば価値観が似ている人が集まって、千人程度のコミュニティを作って暮らすのがいいんじゃないかと思うんです。
・コミュニティの人口が少ないとトータルのコストが低くなる
で、いろいろ書いてきましたが、ぼくが海辺の人々の暮らしを見ていて、もしかしてみんながこんな風な心持ちで暮らしたら、もっと暮らしやすい世の中になるんじゃないか?ということがいいたいんです。
敢えて暮らしやすい日本とはいいません。こうした物事を考えるのに日本っていう単位は大きすぎるとぼくは以前から考えていました。県でも市でも大きすぎて、おそらく規模の単位としては数千人以内ではないかと思います。ちょっとした離島の人口が数百人から千人くらいですから、そういうイメージです。町内会とか学校の単位でもいいかもしれません。
人々の顔が見える単位で物事を考えていって、それの集積が市だったり県だったり国だったりするといいと思います。コミュニティ構成員の顔が見えるというのは、けっこう大切なことです。ここでもたとえは小笠原の母島を旅したことを挙げてみたいと思います。
母島は父島から船で2時間~3時間かかります。父島は東京から24時間かかりますから、まず母島に来ようとする人自体が少ないとえます。民間人が母島に行くためには船しかありません。
母島の人口は約500人です。小学校の全校生徒の数くらいです。大規模な学校だと1学年500人くらいのところはあります。つまり島の人は、島にどんな人が暮らしているのかわかっているということです。顔が見えているのです。
しかも外部から入ってくる観光客は船しかありえませんから、基本的に船の出入りを見ていれば、どんな人が入ってきてどんな人が出ていったかわかる状態です。
そしてその500人の多くは、島の中心地にかたまって住んでいます。
そういう社会では、誰がどんなタイプの人なのかわかっていますし、その人が何をやっているのかだいたいわかっているわけです。
離島の旅が好きなぼくは、離島のだいたいの島で、家や車に鍵をかけないとか、家が留守でもその家の主がどこに居るかだいたいわかるというような光景を見てきました。
そういう島だと、コミュニティを維持するためにみんなが協力しなければなりません。お祭りも町内会の活動も台風対策もみんなでやるわけです。
東京の都心のマンションに住むみたいなのとは全然暮らしが違うのです。都会の暮らしでは隣の部屋がどんな人が住んでいるのかわからなかったり、ゴミ捨て場に変なゴミが捨てられていても誰が捨てたかわからなかったり、町内会の活動をサボってもよかったりします。コミュニティの強制力が弱く匿名性が高いのが特徴です。それは自由であるともいえますが、人というのは、前提として匿名であるのと誰かから見られているかもしれないというのでは、行動が違ってくるんじゃないでしょうか?
都会のマンションの自由さからくるコミュニティの維持コストは、それはたとえばルールを破って捨てられたゴミとか、町内会の活動を維持するコストとかですけど、マンションの管理費や住民税などで賄われているはずです。つまり自由さはタダではないということです。すごく悪いケースですと犯罪が多発したりすれば、警察や消防や役所が対策をするでしょうけど、それだって無料ではありません。
母島のような社会では、コミュニティの強制力が強く、コミュニティの構成員の役割が見えるので、そこで各人が果たしている労力も見えるんだと思います。ちなみに役場の職員だって先生だって、今度はこんな人が来た、あの人は働き者だとかいい人だとか、たぶんわかっていると思います。
何がいいたいかというと都会の匿名性が高いコミュニティの維持コストが行政を肥大化させていて、これが結構大きい負担になっているんじゃないかということです。ちゃんと計算なんかしてませんけど…
そしてそれを解決するために法律やルールやマナーを作っていくと暮らしにくくなったり、係争が増えたりすんじゃないの?と思います。できる限り、一人ひとりのモラルで、コミュニティが回るのがいいんじゃないのかなあー。
ここまで書いてきて、思ったんですけど、ぼくは海辺の田舎町を旅するうちに、民主的で小さなコミュニティを大切にした自由な暮らし方ってあり得るんじゃないかと思うようになりました。そういう理想郷ってありかもと思わせるような魅力が海辺の暮らしにはあるのかもしれません。

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海は心や体を癒してくれる、たぶん…
科学的根拠があるのか?と問われるとわかりませんが、ぼくの実感としては確かにあるんです。
何の話かというと、休みの日に海に行くと気分がスッキリするということです。
たとえば仕事が忙しいとか、いろいろ雑用が重なったとかで「あー疲れた」というときの休みの日ってなんとなくダラダラとテレビを見ちゃったりするんです。でもそういうときこそ、シーカヤックするとかスキューバーダイビングするとか、それが億劫だったら海辺を散歩するようにしています。
疲れているときこそ海に行くと、疲れがとれて気分がスッキリします。経験的にほぼ100%そうなります。
理屈はわかりませんが、たぶんそれと似たようなことはみなさん経験したことがあるのではないでしょうか?ゴルフとかテニスとか旅行とか…
ぼくにとってはそれが海という自然と接することなんです。
気分転換といってしまえば、まあそうなんですが、もう少し自分の中で起きていることを詳しく思い出してみます。
疲れているときというのは、身体が疲れているときと、気持ちが疲れているときがあるような気がします。気持ちが疲れているときというのをさらに詳しく見てみると、忙しい日々が続いているとか、自分のキャパ以上の仕事が来ているとか、先が見通せない仕事であるとか、板挟みに遭うとか、かなり気を遣うことがあるとか、あと仕事以外だと家族の健康のことととか家計のことととか、自分の場合だいたいそんな感じです。
で、身体の疲れと気持ちの疲れだと、2:8くらいじゃないかと思うんです。で、その2つは相互に影響し合っているようです。つまり気持ちが疲れていると身体の疲れを増幅させるし、身体が疲れていると気持ちも上がらないのです。
休みの日に海で遊ぶと気持ちの疲れの部分を一時的に頭から追い出すことができるんです。海にいるときはそれを楽しむことしか考えていませんから、仕事関係のことや家の心配事など気にかかっていることを、意識のほとんどから、一時的にクリアできているようです。
しかも最近特に思うんですが、気持ちの疲れの要因となっているいろいろなことや心配事は、頭にあるだけで、けっこう心身に負担をかけているんじゃないかな?ということです。人を機械にたとえるのもどうかと思うんですけど、パソコンのメモリを不要なことに使っている感じと近いかもしれません。
なのでこのあいだ試しに、海遊びに行く前に、自分が気になっていることをノートに書き出してみました。これは確か心理学的な効果があると巷でいわれているらしい手法です。頭の中にあることをどんどんどんどん書き出していくと、自分の意識していなかったことも出てきて、とてもスッキリするというのを本で読んだ気がします。科学的根拠はどうなのか知りません。
その作業の後海遊びをすると気分がさらにスッキリするんです。海遊びに集中できます。
先ほど身体の疲れと気持ちの疲れは2:8の比率で、その2つは相互に影響し合っていると書きましたが、身体を動かすとさらに気分がスッキリします。これも多くの方が実感したことがあるでしょう。
これもぼくの感覚なのですが、ぼくのような物心ついた頃から運動が好きで、学校でも運動部に入って、授業よりも体育の授業が好きだったという「カラダでっかち」タイプにとっては、たとえ受験とか資格試験のために勉強しなければいけない状況であっても、机にかじりついて勉強だけするというのは、耐えられないし、かえって効率が悪かったりするのです。一日のうちでも身体を動かす時間をとった方が勉強に集中できるんだということを大学受験のときに実感しました。
えーと何の話かというと、なんだか難しい課題を抱えていたり、いいアイデアが出なくて行き詰まっていたり、忙しくて気持ちが疲れていたりするときほど、身体を動かした方がいいというのが経験的なぼくの持論です。そしてそれはぼくの場合、海でウォータースポーツすることが一番いいのです。
次の話として、なぜ自然の中で遊ぶと気分転換できるのかということなんですが、これって理由が難しいなと思うんです。ぼくの場合、海が好きなので海で遊ぶことがいいというのはわかりやすいと思うんです。
でも、そんなに海が好きじゃない人でもたまに海に来ると、大はしゃぎしてテンションが上がったりするのをよく目にします。
海という存在に魅力があるんだといえば、まあそうなのかもしれません。
あるいは人間というのは自然の中で癒されるのかもしれません。
参考になるかわかりませんが、ぼくが海が好きな理由をまとめてみます。
①広いし、開けている。
②自由である。
③人口密度が低い。
④危険と隣り合わせで、死なないために頼りになるのは自分だけだ。
⑤一度として同じ状況がない。
⑥ぼくはアレルギー体質なんだけど、潮風や海水に接するとアレルギーが少しよくなる。
⑦太陽の光を浴びるのは気持ちがいい
特に④がぼくにとっては大切で、ウォータースポーツをするときには危険や死と隣り合わせなんですが、無事に生きて帰ってくるために自分で考え、適切に判断して、行動することが必要なんです。ぼくはこのプロセスがすごく好きで、それでウォータースポーツををやっているような面があります。
それが海で遊ぶことで心身共に疲れが癒されるのと、すごく強く関係していることを自覚しています。
というのも仕事とか家庭のこととか、社会で暮らすために必要だとされていることって、社会的なルールなのです。それって大切なんですけど、次元として高度で、複雑で、ときとしてそのルールが何のためにあるのかわからなくなったりすることもあります。あるいはルールができた本来的な意味がだんだん忘れられて、ルールを守ること自体が重要視されたりします。要は生死や安全に直接関係のないルールを守らなければならないということです。
例を挙げますと、歩行者として信号を守るというルールがありますが、これは、安全のためです。ぼくが住んでいる人口の少ない町で、たとえば深夜に信号が赤でもそれに従う意味って、まあ、ほぼありません。車はほとんど走りませんし、出歩いている人もいないんです。でも、もしかしたら車が来るかもしれないし、他の歩行者がいるかもしれませんが、経験的に確率が低いし、ザッと見回せば車や人がいる気配はないなのです。それでも赤信号を無視して渡れば法律違反でしょう。
たとえば中学とか高校の校則で靴下の色とか髪の長さとかが決められていて従わなければならないわけですが、それ自体守っても守らなくても、人の生死や安全や健康には全然関係ありません。それに影響があるルールなら多くの人が納得して守るでしょう。
今のは一例ですが、人が集団で行動するときに、お互いにできる限り快適に暮らすために、あるいは組織を維持するために、法律やマナーといったルールが存在するんだと思いますが、それが形式化していても、それを守ることに対して、あまり気にならずに従える人もいれば、すごく違和感を持つ人もいるんだと思います。
ぼくは、意味のないルールを守のはバカバカしいと思う質です。でも一応社会人のいい歳した大人として、ルールは守るわけですが、それは自分を抑えているわけで、そこにストレスがたまる原因があります。
海で遊ぶというのは、そういう社会的かつ形式化したルールから解放されることでして、それがぼくは嬉しいんです。
海にもルールはありますが、ほとんどが生死や安全に関係することです。それを守らないと自分や他人が死んでしまうということですから、納得して守ることができます。しかも死なないことというのがルールの大元ですから、シンプルでわかりやすいのです。要は人が死ななければいいんです。
次にまた別の話をします。
自然を相手にするスポーツはたいていそうだと思いますが、自然の懐に入って、自分の力だけで、前に進んで、最終的には無事に戻ってくるという仕組みになっています。その内容もシンプルでわかりやすいですよね。
死なないことが善であり、それを実現するのは自分の判断と行動だけです。バカな上司とか、無責任な同僚とか、ワガママな後輩とか、無理をいう取引先とか、社内政治とかそういう自分がコントロールできない面倒なものがないのです。ああステキ。そして会社で実績が出るかどうかというのは、自分の能力ももちろん大切なんでしょうけど、景気の状況、自分のいる部署の状況、一緒に働くチームのメンバーの力などといった偶然の要素が割りと大きいようにぼくには思えます。一方、自然を相手にするスポーツでは、まあそんなことはなくて、自分の力が最大の要素です。
それって自己効力感に影響を与えると思います。
なので、会社みたいな組織生活ですり減った自己効力感を、自然の中でするウォータースポーツで補充しているというのが、ぼくの現状です。
これが自然の中で遊ぶと元気になる要素のひとつだと考えています。
それ以外に自然の中で遊ぶことで気分転換できる理由として考えられるのは、マイナスイオンが多いとか、フィトンチッドが空気に含まれているとか(これは森だっけ?)、海水に含まれている成分がいいんだとかいろいろいわれていますが、これは科学的に分析できそうなことなので、専門家のデータを調べなければならないでしょう。自分の感覚では、そういうこともあるかもしれないなあ、くらいに受けとめています。
ここまで書いてきたことは、自然の中で遊ぶことが好きな方には、少しはわかってもらえるんじゃないかと思うんです。やっぱり自然の中で遊ぶことって楽しいよね、というところは変わらないでしょう。
可能性としてあるのは、都会で暮らしていて、休みの日は一日中家に居て、テレビを見てるみたいな人が、その内側に溜め込んだストレスを変な形で発散している(もしかしたら大なり小なり他人に迷惑をかけている)というような場合があるとしたら、そうした人が自然の中でストレスを解消したり気分転換したりすることで、変な形で発散されているものがなくなる分だけ、世の中がよくなるかもしれないということでしょう。それがどの程度なのか見当もつきませんけど…

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ウォータースポーツでヤバい状況になったとき平常心を保つぼくの方法
ウォータースポーツでは何度も危ない目に遭ってきました。
「ヤバい。今回は死ぬかも…」ということが何度かありました。いえ何十回もありました。一応なんとかかろうじて、今生きてますけど…
事前の準備や安全管理が大切なことはもちろんです。過去の経験をもとに器材のチェックリストも以前にまとめましたので、よければ読んでください。
→スキューバーダイビング器材安全チェックリスト
事前の準備や安全管理が大切なことはもちろんです。過去の経験をもとに器材のチェックリストも以前にまとめましたので、よければ読んでください。
→スキューバーダイビング器材安全チェックリスト
で、死にそうになった経験から学んだことは、平「常心・冷静でいるかがとても大切だ」ということです。
ウォータースポーツで遭難しかかった人の手記とかリスクマネジメントの本はこれまでも読んでいて、そこにもパニックにならないことが大切だと書いてありましたが、あれは本当です。
これはヤバいと感じる状況が起きているのは事実ですが、それをどう受けとめて感じるかというのは、自分の頭の中だけの問題です。同じ状況であってもパニックになる人とならない人がいるということです。また、同じ人でもそのときの状況によって落ち着いているときと焦りやすいときがあるように思います。
これはたいていの方がご存知のとおり、人はパニックになると、もうたいへんです。って、当たり前ですけど、どうたいへんなのかということですが、判断力が低下します。それから心拍数が上がったり、呼吸が速く浅くなったりします。
アウトドアスポーツの場合、パニックになるとそれだけ死へ近づくといえます。
どういうことかというと、パニックになることでヤバい状況がさらにヤバくなるということです。そして、パニックになるかどうかは自分次第なので、パニックにならない方がお得でっせ、奥さん、なのです。
でも、パニックなるのはどうしようもないんじゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。ぼくの経験では、自分の気持ち次第で、パニックに陥るのを回避できます。
そこでぼくが経験してきたパニックにならないように自分に言いきかせるいくつかの方法をまとめてみます。
・こういうのって、別にたいしたことないと思う。
わぁたいへんだ、って思うんじゃなくて、こういうことって前にもあったし、別にたいしたことないって自分に言いきかせます。
・君はたいへんっていうけど、具体的に論理的に何がどうたいへんなのか180字で答えよ、と自分に問題を出す。
さすが受験が厳しかった世代です。って、冗談っぽくいってますけど、心理学で認知療法というのがありますが、その人の思考の偏りや癖に気づくために、そう思い込んでいることに対して論理的な根拠を考えさせたり、反対の考え方がないかを論理的に考えさせたりする手法があります。それを応用してみました。
この場合自分はヤバいってビビってますけど、具体的に何がヤバいのか、どうヤバいのか、それは本当に死に直結しているのか、ヤバくないところはないのかを考えると、自分が思い込んでいるほどヤバくはない状況だったりします。そして論理的に考えることで冷静にもなれます。一旦冷静になればパニックにはならないので、まあ最悪の状況は脱したといえるでしょう。
ぼくの場合、元々の性質が慎重な方なので、こうやって冷静になってみると、ヤバいと感じる状況は、実はそれほどヤバくもないということがよくあります。
・深呼吸する
パニックのときは呼吸が速く、浅くなりますから、これを意図的に修正します。行動療法では、人の心理は考え方を変えるためにまず行動を変えると考え方自体も変わるという手法がとられますが、それをパニックの際にも応用しました。
・別に死ぬだけじゃんって思う
死が怖いって思い込んでいるから、自分は今死にそうで、それでパニックになるんですよね。本当に死ぬのって怖いんでしょうか?
それに人ってみんな遅かれ早かれ死にます。それがたまたま自分には、今、死のタイミングが来そうなんだと考えます。それだけのことです。というわけで、別にただ死ぬだけじゃんと考えると、怖くなくなります。そうすると気持ちが楽になって、パニックにならなくなります、ぼくの場合は…
・死ぬかもしれないけど、やれるだけのことはやってみようと思う
「別に死ぬだけじゃん」の次の段階です。死んでもいいじゃんって開きなおったら、そこから死ぬにしてもやれるだけのことをやってみようと考えます。そうすると落ち着いて、しかも次の打ち手が見えてきます。
・おぉオレもついに冒険家だなって思う
アウトドアで事故にあったり、死んだりするのって冒険家っぽくないですか?
で、事故ったら世間を騒がして申し訳ないとか、家族は大丈夫だろうかとか、新聞に載っちゃうかなとか、そういう余計なことを考えて焦ったりしますが、逆に自分をヒーローかのように思い込ませて、現状を強引にポジティブに持っていくという方法です。
・この状況を乗り越えたらオレってスゲエと思う
こんなにハードな状況を乗り越えて無事生還できたら、自分ってすごいなあと、これまたポジティブに考えます。そうすると思考が現状を乗り越える方に向かっていきますので、パニックにならないで済みます。
まあざっとこんな感じです。
こうして書き出しているうちに、これまで遭ったヤバい場面を思い出してしまいました。いやーホント、今こうして文章を書いているのが奇跡に思えます。
それで、これはウォータースポーツで死にそうになった経験がもとになっているんですけど、別にウォータースポーツに限らず、たとえば仕事や日常生活でも使えるんじゃないでしょうか? パニックにならず冷静に気持ちを落ち着かせたいときは、使えるかもしれません。もしそうしたことで何とかしてみたいという方は、試していただくのもアリかも…

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なぜそんなにせかせかしているの?
東京に住んでいる知り合いが、我が家に遊びに来たことがあります。
別にぼくがぜひ来てくれといったわけではなくて、向こうが海を見たいから遊びに行ってもいいかといったんです。この時点でぼくが彼に好感を持ってないことが、みなさんには伝わっているかもしれません。
たぶんぼくだけじゃないと思いますが、人って直感的に相手が自分の世界観に共感してくれるかどうか見抜けるところがあるような気がします。
その知り合いを、最寄りの駅まで車で迎えに行ったんですが、第一声が「けっこう遠いね」です。それから車で我が家まで何十分か、かかります。そしたら「まだなの」です。
家に着いたら、妻との挨拶もそこそこに「海が見たい」というので、海へ行きました。
海に行ったらスマホで海を背景に自撮りで何枚か撮影して、「どこか名所みたいなのはないの」です。砂浜にいる時間は10分、いや5分ちょっとでしょうか…海を見ていた時間は、あれ?海を見てたのかな?
ぼくはビーチで半日でも1日でもボーッとしてられる才能をもっているので、ちょっとこのペースにはついていけないなと思いました。なんでそんなにセカセカ、次から次に何かしないといけないんでしょうか?
これは東京の人みんなが持っている特性ではないでしょうし、その知り合いがそういうタイプなんだと思います。それにしてもすごいですよね。
さて、ここから学ぶ教訓は何か?
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