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海辺の田舎町の小さなコミュニティに理想の暮らし方があるんじゃないかな?



 ぼくは海と海遊びが好きで、もうかれこれ30年以上も海辺で暮らして、日々海に接しています。思えば遠くに来たもんです。まったく、自分がこんなオジサンになるなんて…
 あれ何の話でしたっけ?
 そうそう、我ながらよく飽きないものだと思いますし、知り合いからも「そんなに海が好きなんだね」といわれます(その目には少し揶揄っぽい気配が感じられるのは、ぼくのヒガミ?)。
 なぜぼくは海が好きなのかというのは、このブログに何度も書いてきたんですが、もう一度まとめてみます。
 海のそば(自然のそば)で暮らすことのメリットは次のようなものです。
・自然と接することができる
 都会に住んでいると、ついつい自然のことを忘れてしまいますが、地球上に自然と無関係な場所はない(ですよね?)のです。自然はときに優しく人をいやしてくれますし、ときに激しく人の暮らしに打撃を与えますが、人はそうした自然の癒やしと脅威を忘れてはいけないと思うんです。なぜか?人は万能ではないし、その力の限界を自覚することで、向上心とか謙虚さとか身の丈にあったことをしようという意識をメタの部分で直感するから…
 そして、自然のそばでそれらを日々実感しながら暮らすことで、自然に癒されたり、謙虚になったりすることができます。
・ルールが少ない、より自由である
 人が社会で暮らすためには、ルールが必要です。それはベースの部分は法律だったり義務だったりします。さらに都会という人が密集して暮らすためには、お互いに不快にならないようにするためにマナーを守る必要があります。ベースの法律+マナーが必要なのです。それから人が集まって暮らすと(たとえば町内会とか管理組合とか)組織ができて、役割ができて、責任が生じます。
 これは普通の人にとっては、なんてことないかもしれませんが、ある種の人にとってはストレスに感じられたり、息苦しさを伴ったりします。
 海という自然の中では、もちろん法律もルールもありますが、それは陸の上や都会ほど多くありません。ぼくのような法律やルールやマナーが多いことに息苦しさを覚えるタイプの人にとっては海というのはとても過ごしやすい場所なのです。
 そういえば中学生の頃だったでしょうか、日本は民主主義の国で、国民の自由が保障されていると教わりました。その後大人になって、その自由とやらは法律やルールやマナーや義務や責任でがんじがらめになっているものだとわかりましたが、でも基本的に国民は自由なはずなのです。みんなのモラルがある程度の水準であれば、もっと法律やルールが少なくてもいいかもしれない、そんな自由な場があり得るんじゃないかと空想させてくれるのも海のおかげかもしれません。
・人口密度が低いと人は他者に優しくなれる
 以前からなぜだろうと思っていたんですが、渋谷とか新宿みたいな人混みにいるとすごくイライラするんです。そして「ちくしょう。なんでこんなに人が多いんだ」って思うんです。ぼくって異常でしょうか?
 それからラッシュの電車は不快ですよね?
 人が多すぎるとぼくのようなタイプの人間はすごくストレスを感じます。
 でも、人口が数百人というような離島を旅すると、道ですれ違った地元の人にも挨拶したり、困っているようだと声をかけたり、手伝ったりします。
 ぼくの仮説ですが、人間は人が多すぎるとそれを減らしたい、逆に人が少ないとそれを多くしたいという本能が働くのではないかと思うのですが、みなさんどう思いますか?
 というわけで、人口密度が少ない海辺の町で暮らすとおそらく人はお互いに助け合おうとするはずですし、現にいろいろな土地を旅してそれは事実だと思います。それはつまるところ暮らしやすさにつながるんだと思います。
・自然の恵みを得ながら暮らす
 海から獲れる魚介類、海のそばの山や畑からとれる食物、そうしたもので、取りあえず何人かが食べていければそれでいいんじゃないかって思うんです。
 経済成長とか今期の売上目標とか使い切れないほどの富とか、そういうものって、もちろんあってもいいですけど、それによって人が楽しくないんだったら要らねーよ、ってぼくは思うんです。
 ぼくがここでいっているのは、資本を蓄積しないということです。小さなコミュニティが、そこを維持できるだけのフローだけで成り立てばそれでいいんじゃないの?ということです。
 ただ、人によっては、日本のGDPが世界第3位になって、いずれはもっと下がるかもしれない、それは国力の低下で、もっと経済成長のため頑張らねばならない…みたいな抽象的なことをいう人がいますが、ぼくは個人的にそういう議論をする人を信用しないことにしています。
 なぜそんな抽象的な議論をさも重要なことのように議論するかがわかりませんし、日本の国力が世界で優れていなければならないという前提も、少子化・高齢化社会が今後数十年続くといわれている日本では、もうキツくなるからやめた方がいいと思いますし、GDPの高さと国民の幸福は必ずしもイコールじゃないとも思います。GDPが高くなっても一人ひとりがシアワセじゃなくてはなんにもならないので、議論の出発点は現実に存在する誰かのシアワセであるべきでしょう。
 海のそばで暮らしていると、まあだいたいその日獲れたもので暮らしている人が少しはいたりするので、そういう人を見ていると、ぼくの考えていることもあながち空想とはいえないんじゃないかと励まされます。
・大らかにスローに暮らす
 慌てず、些細なことに腹を立てず暮らすことって大切だなと思います。そのことをぼくは沖縄や小笠原の離島や海外の田舎を旅することで実感しました。
 島の人達は、のんびりゆったり暮らしています。ぼくはそんな暮らしぶりって豊かだなって思いました。ベンツや高価な宝飾品は持っていませんけど…
 慌てること、急ぐことがなぜいけないのか、ぼくの中でまだキチンと整理できていないんですが、それはおそらく締切りとか期限というものに関係しているんだと思います。締切りや期限があるとそれまでに「○○しなければならない」という思考パターンが生まれます。これがいわゆるストレスになるんじゃないかと思っています。
 高度に発達した資本主義社会は、この期限を厳格に守ることで効率化していると思っています。そして資本主義社会というのはたゆまぬ成長を求めますから、期限を守ると次の期限が来るというサイクルがどんどん短く過密になってくるんじゃないでしょうか?
 慌てない・急がないことは、この過密さを緩和しようということです。そして大らかさは締切りや期限やあるいはもっと広く社会のルールを緩く運用することもある面では大切なのではないかという提案です。もちろん大切なルールは守らなければなりません。ただルールやマナーが細分化されてくると、それを厳格に守ることにストレスを感じる人もいるでしょうし、守らせるためのコミュニティのコストも高くなるはずです。
 最も理想的なのは、その人が快適だと感じる厳格さやスピード感が近い人、大雑把にいえば価値観が似ている人が集まって、千人程度のコミュニティを作って暮らすのがいいんじゃないかと思うんです。
・コミュニティの人口が少ないとトータルのコストが低くなる
 で、いろいろ書いてきましたが、ぼくが海辺の人々の暮らしを見ていて、もしかしてみんながこんな風な心持ちで暮らしたら、もっと暮らしやすい世の中になるんじゃないか?ということがいいたいんです。
 敢えて暮らしやすい日本とはいいません。こうした物事を考えるのに日本っていう単位は大きすぎるとぼくは以前から考えていました。県でも市でも大きすぎて、おそらく規模の単位としては数千人以内ではないかと思います。ちょっとした離島の人口が数百人から千人くらいですから、そういうイメージです。町内会とか学校の単位でもいいかもしれません。
 人々の顔が見える単位で物事を考えていって、それの集積が市だったり県だったり国だったりするといいと思います。コミュニティ構成員の顔が見えるというのは、けっこう大切なことです。ここでもたとえは小笠原の母島を旅したことを挙げてみたいと思います。
 母島は父島から船で2時間~3時間かかります。父島は東京から24時間かかりますから、まず母島に来ようとする人自体が少ないとえます。民間人が母島に行くためには船しかありません。
 母島の人口は約500人です。小学校の全校生徒の数くらいです。大規模な学校だと1学年500人くらいのところはあります。つまり島の人は、島にどんな人が暮らしているのかわかっているということです。顔が見えているのです。
 しかも外部から入ってくる観光客は船しかありえませんから、基本的に船の出入りを見ていれば、どんな人が入ってきてどんな人が出ていったかわかる状態です。
 そしてその500人の多くは、島の中心地にかたまって住んでいます。
 そういう社会では、誰がどんなタイプの人なのかわかっていますし、その人が何をやっているのかだいたいわかっているわけです。
 離島の旅が好きなぼくは、離島のだいたいの島で、家や車に鍵をかけないとか、家が留守でもその家の主がどこに居るかだいたいわかるというような光景を見てきました。
 そういう島だと、コミュニティを維持するためにみんなが協力しなければなりません。お祭りも町内会の活動も台風対策もみんなでやるわけです。
 東京の都心のマンションに住むみたいなのとは全然暮らしが違うのです。都会の暮らしでは隣の部屋がどんな人が住んでいるのかわからなかったり、ゴミ捨て場に変なゴミが捨てられていても誰が捨てたかわからなかったり、町内会の活動をサボってもよかったりします。コミュニティの強制力が弱く匿名性が高いのが特徴です。それは自由であるともいえますが、人というのは、前提として匿名であるのと誰かから見られているかもしれないというのでは、行動が違ってくるんじゃないでしょうか?
 都会のマンションの自由さからくるコミュニティの維持コストは、それはたとえばルールを破って捨てられたゴミとか、町内会の活動を維持するコストとかですけど、マンションの管理費や住民税などで賄われているはずです。つまり自由さはタダではないということです。すごく悪いケースですと犯罪が多発したりすれば、警察や消防や役所が対策をするでしょうけど、それだって無料ではありません。
 母島のような社会では、コミュニティの強制力が強く、コミュニティの構成員の役割が見えるので、そこで各人が果たしている労力も見えるんだと思います。ちなみに役場の職員だって先生だって、今度はこんな人が来た、あの人は働き者だとかいい人だとか、たぶんわかっていると思います。
 何がいいたいかというと都会の匿名性が高いコミュニティの維持コストが行政を肥大化させていて、これが結構大きい負担になっているんじゃないかということです。ちゃんと計算なんかしてませんけど…
 そしてそれを解決するために法律やルールやマナーを作っていくと暮らしにくくなったり、係争が増えたりすんじゃないの?と思います。できる限り、一人ひとりのモラルで、コミュニティが回るのがいいんじゃないのかなあー。
 
 ここまで書いてきて、思ったんですけど、ぼくは海辺の田舎町を旅するうちに、民主的で小さなコミュニティを大切にした自由な暮らし方ってあり得るんじゃないかと思うようになりました。そういう理想郷ってありかもと思わせるような魅力が海辺の暮らしにはあるのかもしれません。







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