海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
心はまだ見ぬ遠くの海をさすらう
海が好きで、日本の海、外国の海にいろいろ出かけてきました。ぼくが今住んでいるところも海辺ですが、以前から「ここの海はいいなあ」と気に入っていた場所です。
旅好きな人は多いと思いますが、だいたい2つのタイプに分かれるようで、初めてのところに行きたいというタイプと、勝手がわかっている馴染みのところに行きたいというタイプです。
ぼくは前者です。
ダイビング雑紙や旅雑誌をめくりながら、まだ行ったことのない海のことを想像するのが好きです。
行きたい場所は、数が多すぎてきりがありません。日本の海だって、まだまだ行きたいところはたくさんあるのです。世界となるともう…
海辺に住んで、毎日海を眺め、ビーチを散歩しているのに、まだ海を旅したいと思う自分に、「ちょっと変なんじゃないか」「子供の頃頭を強く打ったからなあ」などと思ったりもしますが、これは性分なのでたぶん直らないでしょう。
まだ見たことのないあの国の海や風や太陽はどんな感じなんだろう、そこでは人々はどんな暮らしをしているんだろう、どんな魚がいるんだろう、などと考えていると楽しくなってきます。
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海で使うフックはこれがいいと思います
S字フックとかカラビナというものがありますねえ。ありますねえといっても知らない人は知らないでしょうが、アウトドアスポーツに興味を持っている方なら見たことがあるかもしれません。
こうしたフック類は、山登りをはじめとしたアウトドアスポーツではもちろん使いますが、ウォータースポーツでも使います。
ぼくはスキューバーダイビング、シーカヤック、セイリングでよく使います。
どう使うかというと、バッグに何かぶら下げたり、BCにライトや水中カメラをぶら下げたりするのに使います。
付けたり外したりが簡単にできて、いろいろな用途に使えるので便利なのですねえ。
ウォータースポーツで今まで使ってきた中で、耐久性があって使い勝手がいいフックがあるので、今日はそれをご紹介したいと思います。
ひとつはスキューバーダイビングをする方は定番なのでご存知かと思いますが、真鍮製スナップとか真鍮スナップスイベルという名前で売られている製品です。これはS字フックではありませんが、グローブをしていても取り外しがしやすいので便利です。
ぼくはこれに水中カメラ、水中ライト、指示棒、ホイッスルなどをぶら下げています。耐久性が高く、塩水でも大丈夫です。少し重いんですが、この手の道具は信頼性と耐久性がやはり大切でしょう。
もうひとつはNITEIZE ナイトアイズ エスビナーというものです。これはプラスチックとステンレスのものがあり、サイズも色もバリエーションがあるので、用途によって選べて、しかも使いやすく、塩水でもまあまあの耐久性があります。
これはシーカヤックやセイリングで流れ止めをしたいものをフッキングするのに使っています。
ウォータースポーツをすることと生きること
ぼくはかれこれ25年くらいウォータースポーツをしてきました。サーフィン・スキューバーダイビング・セイリング・シーカヤック…
それらの共通点は、海に出ること、そこで楽しむこと、そして無事に戻ってくることの3つの過程があることです。当たり前といやあ当たり前ですけど。
山登りも多分そうだと思うんですが、自然の懐に入っていくこと、そしてそこから生きて帰ってくることは、とても大切なことです。
これがうまくいくように、海況や気象情報を集め、自分の体調をチェックし、事前に計画を立てて、シミュレーションをして、抜けや漏れがないか確認して、装備を準備し、実際に海に出ます。海に出れば、刻々と状況が変化するので、その変化を見逃さず、的確に判断し、行動します。それらがすべてうまくいって、無事に陸に帰ってくることができます。
入念な計画と準備、そして予想外の出来事への対応、そしてすべて自分が判断するということ…
ぼくはこうしたウォータースポーツの過程を何度も経験するうちに、どうもそうした思考回路が頭にできてしまったらしく、普段の暮らしにも同じような思考パターンで臨むようになったようです。で、それがだいたい当てはまるようなのです。
日々の暮らしは予想外の出来事の連続で、計画どおりにはいきません。かといって計画がないと自分の思ったようには進みません。計画はきちんとたてて、準備はするけど、でも臨機応変に対応していくということでは、ぼくはわりとうまくやれるようなのです。そして周りがどうしようと、自分の経験とか体力とか能力を踏まえて、自分なりの判断をするしかないということ。
これはまさにぼくが海遊びから学んだことの効果だといっていいと思うのです。
そして最も大切なことを学びました。それは死んだら元も子もないということです。
もちろん貴重な機会というのがあります。
長年計画してやっと行くことができた南の島。
何年かに1度のいい波。
とても大切な大会。
それらすべて貴重かもしれませんが、また再び手に入るかもしれないのです。生きていれば…
のんびり、ボーッとするのが好きです
ぼくの趣味はウォータースポーツですが、それよりも好きなことがありまして、それは、のんびり、ボーッとすることです。
ここまで読んで、こいつはバカなんじゃないか、と思った方もいらっしゃると思います。それは間違っていませんけど、ぼくはわりと意識的にのんびりとボーッとするようにしています。
なんといいますか、大げさですが、現代人はたいてい忙しくて、さらに働いている人はこれはまあ、ほとんどの人が時間が足りないと思っているんじゃないでしょうか。ちょっと暇な時間があるとスマホをいじったり、パソコンで何かやったり、テレビ見たりしてます。ボーッとすることってあんまりないような気がするんですね。
ぼくもそうで、仕事はもちろん、趣味のこともありますし、日々の暮らしの雑用もあり、やることは山のようにあります。なので、朝起きてから夜寝るまでいつも何かしています。
そういう日々だからこそ、ある特定の時間だけは、意識的に何もしないでのんびり、ボーッとするようにしています。
ぼくの場合は、休日の朝はコーヒーを飲むことにしていますが、このコーヒーを飲む時間は、他に何もしないようにしています。スマホを触らず、音楽も聴かず、テレビも見ず、本も読みません。ただコーヒーを飲んで、その日の天気を感じたり、窓の向こうの海を眺めたり、考えごとをしたりします。できれば考えごともしたくないのですが、頭に浮かんできてしまいます。
もう一つのんびりする時間は、ウォータースポーツをするときです。スキューバーダイビングやシーカヤックやセイリングをするときは、できる限り慌てず、時間を意識せず、いつもよりゆっくりのペースでいろいろなことをやるようにしています。
特にスキューバーダイビングは、月に2回くらいは伊豆半島に潜りに行くことにしていますが、おいしいものを食べて、温泉に入って、行きつけの整体でマッサージもしてもらって、身体をケアする日にしています。
のんびり、ボーッとすると、ぼくの実感では、なんとなくですけど、新しい発想が浮かぶとか、それまですごくシリアスに考えていたことが大したことではなく思えるとか、将来とか変化を楽観的に捉えられるようになる、といった変化がある気がします。
感覚的には「アタマが柔らかくなる」とでもいうんでしょうか。
トートバッグタイプの防水バッグの波が来た
ウォータースポーツをやるぼくにとって、防水バッグは必需品であり、消耗品であり、家にいつも5、6個は転がっている身近なグッズです。
特にスキューバーダイビングやシーカヤックをやる人にとって、防水バッグって、筒型で、入口を巻き込んで使うタイプの物ばかりでした。もう20年くらいそういうのばかり。こういうタイプを元祖型と呼びたいと思います。
それが10年くらい前から肩から掛けられるショルダーベルトがついているタイプが発売されるようになりました。ここまでは基本的に元祖型を踏襲しているわけで、「うんうんわかるわかる。その方が肩から掛けられて持ちやすいもんね。うんうん」というものわかりがいい上司的な感じで対応可能でした。
その次に現れた強敵が、元祖型防水バッグがバックパックになるようなタイプでした。肩掛けが2つ付いていてリュックサックみたいに肩に背負えるヤツです。このあたりから防水バッグが少し防水バッグ的に使えなくなってきたのです。
というのもウォータースポーツをやる人にとって防水バッグは、シーカヤックに乗るときとか、ダイビングボートに乗るときとかに手荷物をまとめたい、しかもスプレーや波がかぶっても中が濡れないように使うものなのです。なので、防水バッグはできる限りシンプルな作りでかさばらないのがいいのです。
バックパック型防水バッグはベルトとかファスナーとかいろいろなものがついていて、それは防水バッグというより普通のバッグという感じでした。それでも雨の日に自転車とかに乗って港に行くとかセイリングに行くというときは、それはそれで重宝するものでした。
しかもちょっとアウトドアぽくてかっこいいし、「オレはセイリングやってるんだぜ」みたいな雰囲気が出せて、いい感じでした。「おっ、そういうのもいいね。いけてるね」と若者の行動をうらやむ中年おじさん的な対応になったのです。
そしてそして次の強者が大ブレークしたのです。経済週刊誌的にいうと、防水バッグの中興の祖です。みなさんたぶんご存知のノースフェイス(THE NORTH FACE)のBCヒューズボックスというヤツです。こいつは防水バッグ的な防水生地でできているんですが、カタチがスクエアなバックパックです。同じ頃、ビジネスバッグ界では、スクエアなビジネスバッグを背負うことができるようにした3wayバッグが流行っていました。BCヒューズボックスはそれとアウトドア的な防水バッグが一緒になったような感じで、ウォータースポーツをやる人の95.8%は、それをアウトドア用としては認識できなかったという調査があるというウワサを聞いたことがあります。しかしながら記憶が定かではありません。おそらく秘書がやったのだと思います。
BCヒューズボックスがあまりにブレークしたので使う層の多くが、普通の学生とかだったりして、別にアウトドアと関係ないイメージになっていました。
このあたりから防水バッグはほとんどその防水性能を使われないままにバッグとして浸透していったのでした。
同じようなパターンを見たことがあります。それは80年代半ばにダイバーズウォッチが流行ったときです。当初はダイバーが使っていたものが、ウォータースポーツをやる人に広まって、やがてアウトドアスポーツをぜんぜんやらない人の間で流行ったのです。海になんて5年くらい行っていない色白の女子大生が渋谷とかでショッピングするときにダイバーズウォッチを着けていて、ダイバーズウォッチの防水性能の100分の1も使っていない状態になっていました。
まあだいたいファッションってのはそういうものかもしれません。機能や実質から離れたところで、何かを象徴する記号として、大衆に浸透していくのでしょう。
そして最近は防水トートバッグをよく見かけるようになりました。これもトートバッグブームに乗っかっているのかもしれません。ただウォータースポーツで使うぼくとしては、リュックサックタイプの防水バッグよりもトートバッグタイプの防水バッグの方が使い勝手がいいんです。濡らしたくないものをザックリと防水バッグに放り込んで、防水ファスナーを締めればいいというのは、元祖型防水バッグよりも使いやすいのです。それに余計なパーツもリュックサックタイプより少なくてシンプルな作りです。
というわけで、リュックサックタイプの防水バッグの波にうまく乗れなかったぼくも、このトートバッグタイプ防水バッグはわりといい友達になれそうな気がしているのです。

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あぁ今日もいいなあ
ぼくの日課の話です。
朝起きて、カーテンを開けて、窓の外の海を眺めて、「あぁ今日もいいなあ」とつぶやくのです。
過疎化とコンパクトシティと海辺の田舎暮らし
田舎暮らしに憧れているぼくです。人が多いところが苦手です。
コンパクトシティという発想がありますね。
コンパクトシティって、ドーナツ化現象による弊害への対処のため、都市中心部に職住を集めて活性化しようということだと思います。
日本では地方都市でシャッター通りのような象徴的な現象が起きていますが、高齢化する社会、行政の赤字が問題となる社会では、コンパクトシティというのはその解決方法として有効だといわれています。
高度成長期の日本のように人が多くて、過密な人口集中が問題となっている時代ならいざしらず、現代のように人口が少なく、高齢化し、過疎化する地域が多く、限界集落が社会問題になる時代では、人はできる限り集まって暮らして、行政サービスやインフラ整備を効率的に行った方がいいというのは、まあ正論なのでしょう。
電気や水道を引くのだって、5世帯しかいない地域に引くのと、100世帯がまとまって住んでいる地域に引くのとではコストパフォーマンスが違いますもんね。そういうインフラってメンテが重要ですから、メンテ費用についてもコストパフォーマンスという視点を忘れてはいけません。
なんか概念的な話題を書いてしまって、お尻のあたりが痒くなっちゃうんですが、ぼくのように田舎に住みたい人間にとっては、コンパクトシティというのはあんまり推奨して欲しくないわけです。
どちらかというと行政サービスとか医療とかは整備しないで、どんどん削減していただいて、ヨボヨボの老人になったときには都市部に引っ越すし、大病したときだけ病院の近くに住もうかと思っています。
インフラも、自家発電・プロパンガス・井戸水・雨水利用・浄化槽で、●●電力とか××ガスのお世話にならないように生きていきたいと考えているのです。できれば自分で漁をして、家庭菜園をやって食べ物も自給できたらなあと思っています。
だいたい日本ではお役所とか大企業は、やらなくてもいいのに自組織の保全のために仕事を作るところがあって、そして組織の階層も多層に及んでいて、こうした組織のお世話になると結果として割高な支払いをしなければいけないのです。農協も医師会も銀行も、日本を支えている多くの業種で非効率が起きていて、それを効率化して欲しいという市民の意見が反映されないため、社会全体が非効率・高コストになっています。また、そうした産業に就いている人も消費者・生活者であるわけで、その人達は自分の仕事の安定性を考えるでしょうから、進んで非効率を解消しようとはしないでしょう。
過去に行政改革とか規制緩和とかの取組みがありましたが、効果が上がっていない経緯を見てきたぼくとしては、そういう日本の体質には期待していません。
それよりも数戸単位で田舎に住んで、自給自足ができる環境配慮型の持続可能な小規模コミュニティを作って、さまざまな政治的意思決定や議会代表者の選出はそうした単位でやってしまったらいいんじゃないかと思うんです。
そして全体に権限委譲して、中央政府は小さく、県はなくして、今の市区町村が行政単位でいいんじゃないでしょうか。
なんて実現性のないことをいっていますが、ぼくとしては顔の見えるコミュニティで持続可能な生活を送りたい、そういう選択肢を持つ自由が欲しいということです。望んでもないのに、電気やガスや光ファイバーを選択肢のない会社から買いたくない、のです。ぼくは関東圏に住んでいて電気は選択肢もなく○○電力ですが、原発の件やこれまで様々な横暴な権勢をふるっていたのを見ていて、その会社から電気を買いたくないということは、将来もしかしたら考えるかもしれません。
きれいでいつでも泳げる海、そこから獲れる海の幸、そうした豊かな自然が将来いつまでも保てるといいなあと思います。また、高齢化・人口減社会であるからこそ無駄のない、必要なところに必要なお金が配分される社会であったらいいなあと思います。そしてそのためにぼくはやれることがいろいろあるんだと思います。

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海遊びの危険とかリスクについて思うこと…
海遊び、最近はスキューバーダイビングとシーカヤックをすることが多いです。
ぼくにとって海遊びのおもしろさは、自分ではどうしようもない状況の中で、なんとかする、どうにか生き延びることにあります。そしてその状況は刻々と変わります。
そうしたことを観察し、判断し、対応する、そしてその結果無事帰ってくることができる、そのことが自分自身の判断や行動の正しさの証明になります。
たとえば海況が急に変化して荒れそうなときがあります。経験的にはこうした海況がすぐに好転する可能性は低いことがわかっているんです。でも目の前の状況は、まだそれほど深刻にはなっていません。そんなとき、まだ大丈夫じゃないか、まだまだ行けるんじゃないか、今その判断をするのは性急なんじゃないかと迷ったりすることがあります。でも、もし海況がさらに悪くなるとしたら、今がその判断のとき…
そんな状況では、自分との闘いです。判断のミスは自分の命に関わってくるのです。そういうシビアさがとわかりやすさがぼくは好きなんだと思います。
これが組織の場合、誰の力がどう働いてどんな結果が出たのかわかりにくい状況が多いと思うんですが、それに比べて、全部自分の判断、自分の力、自分の責任です。
友人にそのことを話してもたいてい「わかんない」といいます。海好きな友人に話せばわかってもらえます。登山好きな友人に話してもわかってもらえます。そのあたりのことがわかるかどうかは、ぼくが人を見るときのひとつの尺度になっています。
「わかんない」という人は、なぜわざわざ自分から進んで危険があるとわかっているところへ出ていくのかわからないといいます。別にそんなことしなくても、砂浜で遊んでいればいいし、海の見えるレストランでおいしいものを食べてもいいし、映画を見てもいいし、ショッピングをしてもいいじゃないかと…わざわざ危ないとわかっていることをするなと…
確かにね。ごもっともですね。
それに対するぼくの考えは、こうです。
まず、海遊びの楽しさというのはやってみるとわかるものです。そしてスキューバーダイビングやシーカヤックをはじめとする海遊びの楽しさは、その危険を見込んでも十分やるに値します。
それから、すべてを自分で判断し行動し結果が出るという全体をコントロールしている実感は、なかなか日常生活にはないんです。それを体験することが、自分を取り戻すいい機会になっています。それは誰かが与えてくれる娯楽では味わえません。
最後に、ぼくからすれば、暮らしの中で危険がないことなんてないと思えます。車でドライブするのも交通事故の可能性がありますし、事故の確率でいえば、スキューバーダイビングで死ぬのと車の運転で自分や誰かを死なせる確率は、たぶん後者の方が高いんではないかと思います。人々はリスクがあるからといって車の運転をやめたりはしません。
それから映画を見るのも、ショッピングをするのも、火事や地震やテロや流行の病気への感染や頭のおかしな人いきなり襲われるといったような危険があります。それは確率が低そうですが、自分が何かをコントロールしようとしていない分、ぼくにとっては怖いです。不意打ちされるような怖さがあります。極端な例を出すと、ぼくにとっては荒れた海に出るよりも、池袋の町を歩く方が怖いです。
だいたい安全で安定した人生なんて、どこにも存在しないでしょう。
なんだかめんどくさい話になってしまいました。そんな文章にお付き合いくださってありがとうございます。
ビーチでのコーヒータイムを楽しもう
アウトドアでお茶を楽しむのが好きな人は多いんではないかなあと思います。
ぼくはコーヒーが好きで、自宅でもコーヒーをよく飲みます。ただビーチで飲むコーヒーは特においしいような気がして、ビーチでのコーヒータイムをとても楽しみにしているのです。
というわけで、海遊びの時にはコーヒーを持っていきます。
どんなコーヒーグッズを持っていくかについては、今までいろいろ試行錯誤をしました。
家でドリップして保温ボトルに入れていったり、スーパーで売っている1杯ずつ個包装された簡易ドリップ式のものを使ったり、家と同じようにミルとドリッパーを持っていったりすることもあります。あとはワイルドにパーコレーターを持っていくこともあります。
最近よく使うのはGROWER'S CUPです。
これはドリッパーとコーヒーポットがひとつになったような製品でして、上からお湯を注ぐと中でドリップされてカップに注ぐだけというもの。簡易ドリップ式のように濡れた茶殻がでないのも便利です。
アウトドアでコーヒーを飲みたいと考える人は多いみたいで、アウトドア用のコーヒーグッズはたくさんあります。
折りたたみができるドリッパーもありますし、直火に掛けられる湯沸かしとフレンチプレスが一緒になったものもあります。ミルとコーヒープレスとカップがセットになったものもあります。たくさんありすぎて選ぶのに困るような状況です。
海と自己
大学生の頃からサーフィンを始め、スキューバーダイビングをし、セイリングをし、シーカヤックをしてきました。
ぼくにとっては、大人の男になる過程でずっとウォータースポーツをしていたのです。
ぼくにとって海とは、「自然に癒される」「自由になる」「自分と向き合う」「自然の中で自己変革する」場なのだと思います。
なんだか堅そうな言葉が並びましたので、少し説明させてください。
自然に癒されるというのはイメージしやすいと思います。
多くの人が自然に接して、気持ちよくなったり、解放感を味わったり、気分転換できたりすることをいっています。まあ、これはそうですね。ぼくも、仮にウォータースポーツがなかったら、毎週のように海に出ていなかったら、偏屈なオヤジになっていたかもしれません。
自由になるというのは、社会や組織や街などで従わなければならないルールから解放されるということです。
これは自然に癒されるということと近いように思えるかもしれませんが、ぼくにとっては明らかに違います。
自然に癒やされるというのは、自然が持っている環境や空間的な広がりやなんらかの働きで、ぼくの身体自体がいい影響を受けるということです。
一方、自然の中で自由になるということの意味は、人間が作った仕組みやルールから離れて、そういったものから自由になるということです。ぼくから見れば、社会や組織や街という人が構築した環境というのは、ルールだらけで、それを守らなければならないですし、他人に迷惑をかけないようにいつも気を遣うので、気持ちが疲れてしまうのです。そういう自制心というのは、ぼくのようなタイプの人間には、かなり自分を抑圧するもののようで、ぼくもだいぶオジサンになってから気がついたんですが、そうとうココロに負荷をかけているようなのです。
もし、周囲に迷惑をかけないように意識されがちな方は、自然の中で暮らしてみると、ずいぶん楽になるんじゃないかと推測します。
ただし、自然の中で暮らすことで、人間が作った仕組みやルールから自由になったとしても、自然の中で生き抜かなければならないという別の制約が生じます。これはぼくの見解ですが、自然の中で自由になることとトレードオフです。
自然と向き合うということは、自分が今いる環境としての自然の中で、自分が生きるために、今の自然を観察し、自分が自然から受ける影響を見極め、自分が自然に及ぼす影響も見極め、また自然の中での自分の限界を知るということです。
社会や組織など人間が作った環境ですと、たいてい何年も今の状況が続くことを前提に話ができあがっていますから、先々のことまで考えてしまうんです。今に向き合わないところがあります。いつも先のこと先のことを考えてしまいます。
一方自然というのは、刻々と変わって先のことがわかりませんから、今の自然の状態に向き合うようになります。そしてその結果として今の自分と向き合って、今の自分として精一杯生きようとするようになります。
今のことだけ考えるとか、今このときをできる限り楽しむということは、他のことを考えず無心に近い心持ちになるので、精神的には安らかになれるのです。
自然の中で自己変革するということは、刻々と変わる自然の環境の中で、自分が生き延びるために、自然環境に適応するために、自分の認識、認識に基づく推測や判断、そしてその結果としての振る舞いをどんどん変えていくことです。それは大まかにいって、社会や組織や街での自己変革よりもスピードが速くて、自分が納得して変化しているだけにストレスが少ないという特徴があります。
また、その納得感は、自然が人間が存在するよりも以前からそこにあり、圧倒的に力強く、自分がコントロールできない所与のものだという認識から来ています。そう、自分ではどうしようもない状況で生き延びるために、自分の考え方や振る舞いを変えていくということです。
それは街での暮らしが、すべて人間のために構築されていて、人間が快適なように環境を変えていくこととは対照的です。街での暮らしは、すべてが人間の思い通りになるという幻想を与えてしまうのではないでしょうか。たまに地震や台風などの大きな災害が来ると、改めてそれを認識するようになります。そして想定外の災害だなんていいますが、所詮人間ができることなど自然の大きな力の前ではたいていのことが想定外なのではないでしょうか。想定外という言葉自体が人間の力を過大評価している象徴のように思えます。
自分がコントロールできないことがあることをきちんと理解すること、そのうえで、一番幸せな状態に自分を変えていくこと、いっていることは当たり前ですし、おそらく歴史的に人はそうやって幸せに生きてきたと思うんですが、人が個人として自由にいろいろなことをコントロールできるようになるにつれ、自分が変わらず周囲を変えることが多くなるにつれ、いざ自分がコントロールできないことに遭遇すると、すごくストレスを感じるようになったんじゃないかと思います。
ぼくはウォータースポーツをとおして、だいたいこんなことを経験し、考えるようになったわけです。そしてそれがブルー・エクササイズという活動にもつながっています。
ぼくは海に出ることで、自分の生と死に向き合い、自分の力の限界を思い知ることを繰り返しています。そしてその海での経験は、ぼくの生き方にも影響を与えています。その影響はマイナスなものではなくて、ぼくにとってはとてもプラスなことです。そんな考え方を教えてくれた海という自然に感謝していますし、その考え方が、ぼくが海からもらった最大の贈りものだと思います。

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ぼくは海に出ることで、自分の生と死に向き合い、自分の力の限界を思い知ることを繰り返しています。そしてその海での経験は、ぼくの生き方にも影響を与えています。その影響はマイナスなものではなくて、ぼくにとってはとてもプラスなことです。そんな考え方を教えてくれた海という自然に感謝していますし、その考え方が、ぼくが海からもらった最大の贈りものだと思います。

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