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スキューバーダイビングで危なかった話~テトラポットには気をつけろ!編~



 ヤバいよヤバいよシリーズということで、スキューバーダイビングのリスク管理とかこれまで経験したヤバイことは以前まとめたことがあります。
 で、今回はその追記です。
 結論は、テトラポットには気をつけろ、ということです。これは自分のために、自分の判断ミスを忘れないためにも記すものですが、他のタイバーの参考になれば、それは何よりもうれしいことです。
 何年か前に東伊豆でダイビングしたときのこと。だからぼくが40歳前半くらいだったかな…
 ビーチダイブで漁港のスロープからエントリーして防波堤の向こう側に出て、ぐるっと回って戻ってくるというコース。最大水深も15m。通常ならなんてことのない初心者向けコースです。
 ただその日は低気圧が張り出していて、うねりが入っていました。それもかなり強め。ざっくりいって2m以上はありました。普通はクローズして西伊豆に流れるコンディションです。ぼくだけだったらそうするでしょう。
 ただそのときは、ガイドとぼくとバディの3人。ぼくもバディもダイブ経験は多少はあります。本数でいうと300本程度。しかもバディは久しぶりに休みが取れて、けっこう潜りたいモードなので、ガイドは潜ることに決めました。
 エントリー後、30分間、問題なくダイビングが進みましたが、ビーチに戻る直前の防波堤のテトラのそば、水深5mくらいで、上昇する潮流に巻き込まれました。もうあっという間、BCのエアを抜いているヒマもなく数秒程度で水面に浮かんでしまったのです。肺の過膨張障害だけは避けること、テトラに入り込まないようにしたことは、今でも憶えています。
 水面に浮かぶと、ぼくの目の前にはテトラの塊が…距離として2mくらい。周囲を見回すと水面にいるのはぼくだけ…つまり上昇する潮流に巻き込まれたのは、ぼくだけだったんです。
 今思えば、外洋から強いうねりが入っていて、それがテトラにぶつかってあるところで上昇潮流が起きていたんだと思います。まあ、そういう潮の流れがあっても全然おかしくないです。いや、テトラに吸い込まれる潮流じゃなくてホントよかった。ぼくは今生きてこうしてPCに文字を打ち込んでいます。あぁ、生きるってステキ…
 背後を見るとテトラに向かって外洋からうねりがガンガン入ってきます。つまり、ぼくの背後からぼくをテトラに打ち付けるようにうねりが来るわけ。ダイバーとして、いやウォータースポーツをする人としてテトラに入り込むのだけは避けたいじゃないですか…
 テトラは防波堤の外側に30mくらいの幅で置かれているんです。つまり防波堤を保護するために防波堤の長さだけ置かれているんです。ぼくが浮上したのは、防波堤の港から一番遠いところ。ぼくの位置から水面移動で港の内側まで泳ぐのは相当な距離がありそうです。しかもうねりに逆らうように泳ぐ部分もあります。
 防波堤と逆方向は、テトラがなくなって、ゴロタのビーチです。そっちの方はテトラを抜け出すのに5mくらい。そしてゴロタまで20mくらい。絶対そっちの方が距離が短いし、しかもうねりに押される方向です。
 なのでBCにエアを入れて、ガイドとバディが浮上するのを待たず、ゴロタ方面まで水面移動を始めました。おそらく水面でガイドとバディを待っても、ぼくの近くには浮上しない可能性があるなと思いました。その場合、このうねりだと、お互いに近づくだけでも相当な体力を使うはずです。
 このときの残圧は80。まあまだ大丈夫。
 ここままでで、自分で振り返って気がついたんですが、2mくらいのうねりが押し寄せてくるのに、ビビらず、パニックにならず、意外に冷静に判断しているんですよね。そこは自分でも自分をほめてあげたいです。まあ死ぬときは死ぬので、どうせ死ぬなら落ち着いて死んだ方がいいし、まあなんとかなるさと思っていました。
 なので、スノーケルを咥えず、レギュレーターのまま水面移動をしました。うねりが強くて、スノーケリングだと海水を飲む可能性があったからです。
 しかし40歳前半のオッサンにとっては30m弱の水面移動はけっこうきついです。以前はPADIのレスキューダイバーの講習とかダイブマスターの講習では余裕だったんだけどなあ…でもそんなのもう何十年も前の話だしさ…
 でもまあ、焦らず息を切らせないようにゆっくりとゴロタ方面に移動しました。
 そうしたら、ガイドとバディが堤防の入口の潜行用ブイのところに浮上していて、大丈夫かあといっている様子。波の音がすごくて声は聞こえません。ぼくはokサイン。そしてガイドはそのままゴロタに上陸して堤防を歩いて、エントリーポイントまで戻ってこいとハンドシグナルを出しました。ぼくはokサイン。
 ぼくの存在は認識してもらったようなので、万が一帰還できなくても、捜索して、遺体は回収してもらえるかもね…いやーひと安心…
 おぉヤレヤレゴロタまであと5mくらいまで来たなあ、あのゴロタにどうやって上陸するか、なるべく小さなゴロタ、かわいいゴロタ、柔らかそうなゴロタ、地球にも人にも優しいゴロタを選ばないと、頭とか身体とかぶつけたら重症になります。ヘタしたら死にます。イヤだな岩に頭ぶつけて頭割るの…
 で、微妙に方向を調節をしていると、これまでのうねりよりひときわ大きいうねりが来て、ぼくは一気にうねりにヤラれてしまいました。大きなうねりがブレイクするあたりにいたせいか、巻き込まれてもみくちゃになったのです。気がついたらゴロタに打ち付けられていました。
 絶世の美女にヤラれてもみくちゃになるような目に一度は遭ってみたいと思っていたんですが、大きなうねりにスキューバーダイビングでもみくちゃにされるなんて…オレの人生そんなことばっかだよな…
 そして次から次からうねりがやってきて、ぼくはゴロタの上をゴロゴロゴロゴロ翻弄されていたのです。まるで流木みたい。ゴロタの上をゴロゴロするのはとても痛いので、よい子はマネしてはいけません。
 ゴロタに打ち上げられたぼくを次々にうねりが襲います。頭を岩にぶつけないように用心しながら、うねりの届かないところまで這い上がろうとしますが、息が上がっています。それにフィンがゴロタにひっかかったりします。フィンを外そうかと思いましたが、万が一、一際大きなうねりが来て、沖に戻されたらフィンがないと戻れないかもしれません。
 なのでフィンを付けたまま、レギを咥えたまま、ゴロタをハイハイします。そうなんです。足下が悪くて立ち上がれないでやんの。なのでハイハイ。
 波が届かないところまでハイハイしたところで、大きめの岩に座って、レギを外してひと休みしました。ヤレヤレ、ここまで来ればなんとか大丈夫だろうとやっと思えました。
 で、しばらく休んで息を整えます。
 それからはフィンを外して、ゴロタを歩いて防波堤を乗り越えて港内まで歩き、ガイドとバディと合流しました。
 怪我がないことを確認して、ヤレヤレです。
 今回の事例から教訓をまとめるとすると…
・海が荒れているときに海に出てはいけない。

・テトラとか岩とか構造物のそばには潮流がありうるから、特にうねりが強いときは近寄らない方がいい。

・パニックにならず冷静であることは大切。

・体力は大切。最後に自分を支えるのは体力。

・さすがにスキューバーダイビング歴20数年なので、細かな配慮や判断はこれまでのノウハウに基づいているんだろうと思われる。
 以上、危なかった話でした。







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海辺の田舎町の小さなコミュニティに理想の暮らし方があるんじゃないかな?



 ぼくは海と海遊びが好きで、もうかれこれ30年以上も海辺で暮らして、日々海に接しています。思えば遠くに来たもんです。まったく、自分がこんなオジサンになるなんて…
 あれ何の話でしたっけ?
 そうそう、我ながらよく飽きないものだと思いますし、知り合いからも「そんなに海が好きなんだね」といわれます(その目には少し揶揄っぽい気配が感じられるのは、ぼくのヒガミ?)。
 なぜぼくは海が好きなのかというのは、このブログに何度も書いてきたんですが、もう一度まとめてみます。
 海のそば(自然のそば)で暮らすことのメリットは次のようなものです。
・自然と接することができる
 都会に住んでいると、ついつい自然のことを忘れてしまいますが、地球上に自然と無関係な場所はない(ですよね?)のです。自然はときに優しく人をいやしてくれますし、ときに激しく人の暮らしに打撃を与えますが、人はそうした自然の癒やしと脅威を忘れてはいけないと思うんです。なぜか?人は万能ではないし、その力の限界を自覚することで、向上心とか謙虚さとか身の丈にあったことをしようという意識をメタの部分で直感するから…
 そして、自然のそばでそれらを日々実感しながら暮らすことで、自然に癒されたり、謙虚になったりすることができます。
・ルールが少ない、より自由である
 人が社会で暮らすためには、ルールが必要です。それはベースの部分は法律だったり義務だったりします。さらに都会という人が密集して暮らすためには、お互いに不快にならないようにするためにマナーを守る必要があります。ベースの法律+マナーが必要なのです。それから人が集まって暮らすと(たとえば町内会とか管理組合とか)組織ができて、役割ができて、責任が生じます。
 これは普通の人にとっては、なんてことないかもしれませんが、ある種の人にとってはストレスに感じられたり、息苦しさを伴ったりします。
 海という自然の中では、もちろん法律もルールもありますが、それは陸の上や都会ほど多くありません。ぼくのような法律やルールやマナーが多いことに息苦しさを覚えるタイプの人にとっては海というのはとても過ごしやすい場所なのです。
 そういえば中学生の頃だったでしょうか、日本は民主主義の国で、国民の自由が保障されていると教わりました。その後大人になって、その自由とやらは法律やルールやマナーや義務や責任でがんじがらめになっているものだとわかりましたが、でも基本的に国民は自由なはずなのです。みんなのモラルがある程度の水準であれば、もっと法律やルールが少なくてもいいかもしれない、そんな自由な場があり得るんじゃないかと空想させてくれるのも海のおかげかもしれません。
・人口密度が低いと人は他者に優しくなれる
 以前からなぜだろうと思っていたんですが、渋谷とか新宿みたいな人混みにいるとすごくイライラするんです。そして「ちくしょう。なんでこんなに人が多いんだ」って思うんです。ぼくって異常でしょうか?
 それからラッシュの電車は不快ですよね?
 人が多すぎるとぼくのようなタイプの人間はすごくストレスを感じます。
 でも、人口が数百人というような離島を旅すると、道ですれ違った地元の人にも挨拶したり、困っているようだと声をかけたり、手伝ったりします。
 ぼくの仮説ですが、人間は人が多すぎるとそれを減らしたい、逆に人が少ないとそれを多くしたいという本能が働くのではないかと思うのですが、みなさんどう思いますか?
 というわけで、人口密度が少ない海辺の町で暮らすとおそらく人はお互いに助け合おうとするはずですし、現にいろいろな土地を旅してそれは事実だと思います。それはつまるところ暮らしやすさにつながるんだと思います。
・自然の恵みを得ながら暮らす
 海から獲れる魚介類、海のそばの山や畑からとれる食物、そうしたもので、取りあえず何人かが食べていければそれでいいんじゃないかって思うんです。
 経済成長とか今期の売上目標とか使い切れないほどの富とか、そういうものって、もちろんあってもいいですけど、それによって人が楽しくないんだったら要らねーよ、ってぼくは思うんです。
 ぼくがここでいっているのは、資本を蓄積しないということです。小さなコミュニティが、そこを維持できるだけのフローだけで成り立てばそれでいいんじゃないの?ということです。
 ただ、人によっては、日本のGDPが世界第3位になって、いずれはもっと下がるかもしれない、それは国力の低下で、もっと経済成長のため頑張らねばならない…みたいな抽象的なことをいう人がいますが、ぼくは個人的にそういう議論をする人を信用しないことにしています。
 なぜそんな抽象的な議論をさも重要なことのように議論するかがわかりませんし、日本の国力が世界で優れていなければならないという前提も、少子化・高齢化社会が今後数十年続くといわれている日本では、もうキツくなるからやめた方がいいと思いますし、GDPの高さと国民の幸福は必ずしもイコールじゃないとも思います。GDPが高くなっても一人ひとりがシアワセじゃなくてはなんにもならないので、議論の出発点は現実に存在する誰かのシアワセであるべきでしょう。
 海のそばで暮らしていると、まあだいたいその日獲れたもので暮らしている人が少しはいたりするので、そういう人を見ていると、ぼくの考えていることもあながち空想とはいえないんじゃないかと励まされます。
・大らかにスローに暮らす
 慌てず、些細なことに腹を立てず暮らすことって大切だなと思います。そのことをぼくは沖縄や小笠原の離島や海外の田舎を旅することで実感しました。
 島の人達は、のんびりゆったり暮らしています。ぼくはそんな暮らしぶりって豊かだなって思いました。ベンツや高価な宝飾品は持っていませんけど…
 慌てること、急ぐことがなぜいけないのか、ぼくの中でまだキチンと整理できていないんですが、それはおそらく締切りとか期限というものに関係しているんだと思います。締切りや期限があるとそれまでに「○○しなければならない」という思考パターンが生まれます。これがいわゆるストレスになるんじゃないかと思っています。
 高度に発達した資本主義社会は、この期限を厳格に守ることで効率化していると思っています。そして資本主義社会というのはたゆまぬ成長を求めますから、期限を守ると次の期限が来るというサイクルがどんどん短く過密になってくるんじゃないでしょうか?
 慌てない・急がないことは、この過密さを緩和しようということです。そして大らかさは締切りや期限やあるいはもっと広く社会のルールを緩く運用することもある面では大切なのではないかという提案です。もちろん大切なルールは守らなければなりません。ただルールやマナーが細分化されてくると、それを厳格に守ることにストレスを感じる人もいるでしょうし、守らせるためのコミュニティのコストも高くなるはずです。
 最も理想的なのは、その人が快適だと感じる厳格さやスピード感が近い人、大雑把にいえば価値観が似ている人が集まって、千人程度のコミュニティを作って暮らすのがいいんじゃないかと思うんです。
・コミュニティの人口が少ないとトータルのコストが低くなる
 で、いろいろ書いてきましたが、ぼくが海辺の人々の暮らしを見ていて、もしかしてみんながこんな風な心持ちで暮らしたら、もっと暮らしやすい世の中になるんじゃないか?ということがいいたいんです。
 敢えて暮らしやすい日本とはいいません。こうした物事を考えるのに日本っていう単位は大きすぎるとぼくは以前から考えていました。県でも市でも大きすぎて、おそらく規模の単位としては数千人以内ではないかと思います。ちょっとした離島の人口が数百人から千人くらいですから、そういうイメージです。町内会とか学校の単位でもいいかもしれません。
 人々の顔が見える単位で物事を考えていって、それの集積が市だったり県だったり国だったりするといいと思います。コミュニティ構成員の顔が見えるというのは、けっこう大切なことです。ここでもたとえは小笠原の母島を旅したことを挙げてみたいと思います。
 母島は父島から船で2時間~3時間かかります。父島は東京から24時間かかりますから、まず母島に来ようとする人自体が少ないとえます。民間人が母島に行くためには船しかありません。
 母島の人口は約500人です。小学校の全校生徒の数くらいです。大規模な学校だと1学年500人くらいのところはあります。つまり島の人は、島にどんな人が暮らしているのかわかっているということです。顔が見えているのです。
 しかも外部から入ってくる観光客は船しかありえませんから、基本的に船の出入りを見ていれば、どんな人が入ってきてどんな人が出ていったかわかる状態です。
 そしてその500人の多くは、島の中心地にかたまって住んでいます。
 そういう社会では、誰がどんなタイプの人なのかわかっていますし、その人が何をやっているのかだいたいわかっているわけです。
 離島の旅が好きなぼくは、離島のだいたいの島で、家や車に鍵をかけないとか、家が留守でもその家の主がどこに居るかだいたいわかるというような光景を見てきました。
 そういう島だと、コミュニティを維持するためにみんなが協力しなければなりません。お祭りも町内会の活動も台風対策もみんなでやるわけです。
 東京の都心のマンションに住むみたいなのとは全然暮らしが違うのです。都会の暮らしでは隣の部屋がどんな人が住んでいるのかわからなかったり、ゴミ捨て場に変なゴミが捨てられていても誰が捨てたかわからなかったり、町内会の活動をサボってもよかったりします。コミュニティの強制力が弱く匿名性が高いのが特徴です。それは自由であるともいえますが、人というのは、前提として匿名であるのと誰かから見られているかもしれないというのでは、行動が違ってくるんじゃないでしょうか?
 都会のマンションの自由さからくるコミュニティの維持コストは、それはたとえばルールを破って捨てられたゴミとか、町内会の活動を維持するコストとかですけど、マンションの管理費や住民税などで賄われているはずです。つまり自由さはタダではないということです。すごく悪いケースですと犯罪が多発したりすれば、警察や消防や役所が対策をするでしょうけど、それだって無料ではありません。
 母島のような社会では、コミュニティの強制力が強く、コミュニティの構成員の役割が見えるので、そこで各人が果たしている労力も見えるんだと思います。ちなみに役場の職員だって先生だって、今度はこんな人が来た、あの人は働き者だとかいい人だとか、たぶんわかっていると思います。
 何がいいたいかというと都会の匿名性が高いコミュニティの維持コストが行政を肥大化させていて、これが結構大きい負担になっているんじゃないかということです。ちゃんと計算なんかしてませんけど…
 そしてそれを解決するために法律やルールやマナーを作っていくと暮らしにくくなったり、係争が増えたりすんじゃないの?と思います。できる限り、一人ひとりのモラルで、コミュニティが回るのがいいんじゃないのかなあー。
 
 ここまで書いてきて、思ったんですけど、ぼくは海辺の田舎町を旅するうちに、民主的で小さなコミュニティを大切にした自由な暮らし方ってあり得るんじゃないかと思うようになりました。そういう理想郷ってありかもと思わせるような魅力が海辺の暮らしにはあるのかもしれません。







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海は心や体を癒してくれる、たぶん…



 科学的根拠があるのか?と問われるとわかりませんが、ぼくの実感としては確かにあるんです。
 何の話かというと、休みの日に海に行くと気分がスッキリするということです。
 たとえば仕事が忙しいとか、いろいろ雑用が重なったとかで「あー疲れた」というときの休みの日ってなんとなくダラダラとテレビを見ちゃったりするんです。でもそういうときこそ、シーカヤックするとかスキューバーダイビングするとか、それが億劫だったら海辺を散歩するようにしています。
 疲れているときこそ海に行くと、疲れがとれて気分がスッキリします。経験的にほぼ100%そうなります。
 理屈はわかりませんが、たぶんそれと似たようなことはみなさん経験したことがあるのではないでしょうか?ゴルフとかテニスとか旅行とか…
 ぼくにとってはそれが海という自然と接することなんです。
 気分転換といってしまえば、まあそうなんですが、もう少し自分の中で起きていることを詳しく思い出してみます。
 疲れているときというのは、身体が疲れているときと、気持ちが疲れているときがあるような気がします。気持ちが疲れているときというのをさらに詳しく見てみると、忙しい日々が続いているとか、自分のキャパ以上の仕事が来ているとか、先が見通せない仕事であるとか、板挟みに遭うとか、かなり気を遣うことがあるとか、あと仕事以外だと家族の健康のことととか家計のことととか、自分の場合だいたいそんな感じです。
 で、身体の疲れと気持ちの疲れだと、2:8くらいじゃないかと思うんです。で、その2つは相互に影響し合っているようです。つまり気持ちが疲れていると身体の疲れを増幅させるし、身体が疲れていると気持ちも上がらないのです。
 休みの日に海で遊ぶと気持ちの疲れの部分を一時的に頭から追い出すことができるんです。海にいるときはそれを楽しむことしか考えていませんから、仕事関係のことや家の心配事など気にかかっていることを、意識のほとんどから、一時的にクリアできているようです。
 しかも最近特に思うんですが、気持ちの疲れの要因となっているいろいろなことや心配事は、頭にあるだけで、けっこう心身に負担をかけているんじゃないかな?ということです。人を機械にたとえるのもどうかと思うんですけど、パソコンのメモリを不要なことに使っている感じと近いかもしれません。
 なのでこのあいだ試しに、海遊びに行く前に、自分が気になっていることをノートに書き出してみました。これは確か心理学的な効果があると巷でいわれているらしい手法です。頭の中にあることをどんどんどんどん書き出していくと、自分の意識していなかったことも出てきて、とてもスッキリするというのを本で読んだ気がします。科学的根拠はどうなのか知りません。
 その作業の後海遊びをすると気分がさらにスッキリするんです。海遊びに集中できます。
 先ほど身体の疲れと気持ちの疲れは2:8の比率で、その2つは相互に影響し合っていると書きましたが、身体を動かすとさらに気分がスッキリします。これも多くの方が実感したことがあるでしょう。
 これもぼくの感覚なのですが、ぼくのような物心ついた頃から運動が好きで、学校でも運動部に入って、授業よりも体育の授業が好きだったという「カラダでっかち」タイプにとっては、たとえ受験とか資格試験のために勉強しなければいけない状況であっても、机にかじりついて勉強だけするというのは、耐えられないし、かえって効率が悪かったりするのです。一日のうちでも身体を動かす時間をとった方が勉強に集中できるんだということを大学受験のときに実感しました。
 えーと何の話かというと、なんだか難しい課題を抱えていたり、いいアイデアが出なくて行き詰まっていたり、忙しくて気持ちが疲れていたりするときほど、身体を動かした方がいいというのが経験的なぼくの持論です。そしてそれはぼくの場合、海でウォータースポーツすることが一番いいのです。
 次の話として、なぜ自然の中で遊ぶと気分転換できるのかということなんですが、これって理由が難しいなと思うんです。ぼくの場合、海が好きなので海で遊ぶことがいいというのはわかりやすいと思うんです。
 でも、そんなに海が好きじゃない人でもたまに海に来ると、大はしゃぎしてテンションが上がったりするのをよく目にします。
 海という存在に魅力があるんだといえば、まあそうなのかもしれません。
 あるいは人間というのは自然の中で癒されるのかもしれません。
 参考になるかわかりませんが、ぼくが海が好きな理由をまとめてみます。
①広いし、開けている。
②自由である。
③人口密度が低い。
④危険と隣り合わせで、死なないために頼りになるのは自分だけだ。
⑤一度として同じ状況がない。
⑥ぼくはアレルギー体質なんだけど、潮風や海水に接するとアレルギーが少しよくなる。
⑦太陽の光を浴びるのは気持ちがいい
 特に④がぼくにとっては大切で、ウォータースポーツをするときには危険や死と隣り合わせなんですが、無事に生きて帰ってくるために自分で考え、適切に判断して、行動することが必要なんです。ぼくはこのプロセスがすごく好きで、それでウォータースポーツををやっているような面があります。
 それが海で遊ぶことで心身共に疲れが癒されるのと、すごく強く関係していることを自覚しています。
 というのも仕事とか家庭のこととか、社会で暮らすために必要だとされていることって、社会的なルールなのです。それって大切なんですけど、次元として高度で、複雑で、ときとしてそのルールが何のためにあるのかわからなくなったりすることもあります。あるいはルールができた本来的な意味がだんだん忘れられて、ルールを守ること自体が重要視されたりします。要は生死や安全に直接関係のないルールを守らなければならないということです。
 例を挙げますと、歩行者として信号を守るというルールがありますが、これは、安全のためです。ぼくが住んでいる人口の少ない町で、たとえば深夜に信号が赤でもそれに従う意味って、まあ、ほぼありません。車はほとんど走りませんし、出歩いている人もいないんです。でも、もしかしたら車が来るかもしれないし、他の歩行者がいるかもしれませんが、経験的に確率が低いし、ザッと見回せば車や人がいる気配はないなのです。それでも赤信号を無視して渡れば法律違反でしょう。
 たとえば中学とか高校の校則で靴下の色とか髪の長さとかが決められていて従わなければならないわけですが、それ自体守っても守らなくても、人の生死や安全や健康には全然関係ありません。それに影響があるルールなら多くの人が納得して守るでしょう。
 今のは一例ですが、人が集団で行動するときに、お互いにできる限り快適に暮らすために、あるいは組織を維持するために、法律やマナーといったルールが存在するんだと思いますが、それが形式化していても、それを守ることに対して、あまり気にならずに従える人もいれば、すごく違和感を持つ人もいるんだと思います。
 ぼくは、意味のないルールを守のはバカバカしいと思う質です。でも一応社会人のいい歳した大人として、ルールは守るわけですが、それは自分を抑えているわけで、そこにストレスがたまる原因があります。
 海で遊ぶというのは、そういう社会的かつ形式化したルールから解放されることでして、それがぼくは嬉しいんです。
 海にもルールはありますが、ほとんどが生死や安全に関係することです。それを守らないと自分や他人が死んでしまうということですから、納得して守ることができます。しかも死なないことというのがルールの大元ですから、シンプルでわかりやすいのです。要は人が死ななければいいんです。
 次にまた別の話をします。
 自然を相手にするスポーツはたいていそうだと思いますが、自然の懐に入って、自分の力だけで、前に進んで、最終的には無事に戻ってくるという仕組みになっています。その内容もシンプルでわかりやすいですよね。
 死なないことが善であり、それを実現するのは自分の判断と行動だけです。バカな上司とか、無責任な同僚とか、ワガママな後輩とか、無理をいう取引先とか、社内政治とかそういう自分がコントロールできない面倒なものがないのです。ああステキ。そして会社で実績が出るかどうかというのは、自分の能力ももちろん大切なんでしょうけど、景気の状況、自分のいる部署の状況、一緒に働くチームのメンバーの力などといった偶然の要素が割りと大きいようにぼくには思えます。一方、自然を相手にするスポーツでは、まあそんなことはなくて、自分の力が最大の要素です。
 それって自己効力感に影響を与えると思います。
 なので、会社みたいな組織生活ですり減った自己効力感を、自然の中でするウォータースポーツで補充しているというのが、ぼくの現状です。
 これが自然の中で遊ぶと元気になる要素のひとつだと考えています。
 それ以外に自然の中で遊ぶことで気分転換できる理由として考えられるのは、マイナスイオンが多いとか、フィトンチッドが空気に含まれているとか(これは森だっけ?)、海水に含まれている成分がいいんだとかいろいろいわれていますが、これは科学的に分析できそうなことなので、専門家のデータを調べなければならないでしょう。自分の感覚では、そういうこともあるかもしれないなあ、くらいに受けとめています。
 ここまで書いてきたことは、自然の中で遊ぶことが好きな方には、少しはわかってもらえるんじゃないかと思うんです。やっぱり自然の中で遊ぶことって楽しいよね、というところは変わらないでしょう。
 可能性としてあるのは、都会で暮らしていて、休みの日は一日中家に居て、テレビを見てるみたいな人が、その内側に溜め込んだストレスを変な形で発散している(もしかしたら大なり小なり他人に迷惑をかけている)というような場合があるとしたら、そうした人が自然の中でストレスを解消したり気分転換したりすることで、変な形で発散されているものがなくなる分だけ、世の中がよくなるかもしれないということでしょう。それがどの程度なのか見当もつきませんけど…









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ウォータースポーツでヤバい状況になったとき平常心を保つぼくの方法



 ウォータースポーツでは何度も危ない目に遭ってきました。
「ヤバい。今回は死ぬかも…」ということが何度かありました。いえ何十回もありました。一応なんとかかろうじて、今生きてますけど…

 事前の準備や安全管理が大切なことはもちろんです。過去の経験をもとに器材のチェックリストも以前にまとめましたので、よければ読んでください。

スキューバーダイビング器材安全チェックリスト

 で、死にそうになった経験から学んだことは、平「常心・冷静でいるかがとても大切だ」ということです。
 ウォータースポーツで遭難しかかった人の手記とかリスクマネジメントの本はこれまでも読んでいて、そこにもパニックにならないことが大切だと書いてありましたが、あれは本当です。
 これはヤバいと感じる状況が起きているのは事実ですが、それをどう受けとめて感じるかというのは、自分の頭の中だけの問題です。同じ状況であってもパニックになる人とならない人がいるということです。また、同じ人でもそのときの状況によって落ち着いているときと焦りやすいときがあるように思います。
 これはたいていの方がご存知のとおり、人はパニックになると、もうたいへんです。って、当たり前ですけど、どうたいへんなのかということですが、判断力が低下します。それから心拍数が上がったり、呼吸が速く浅くなったりします。
 アウトドアスポーツの場合、パニックになるとそれだけ死へ近づくといえます。
 どういうことかというと、パニックになることでヤバい状況がさらにヤバくなるということです。そして、パニックになるかどうかは自分次第なので、パニックにならない方がお得でっせ、奥さん、なのです。
 でも、パニックなるのはどうしようもないんじゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。ぼくの経験では、自分の気持ち次第で、パニックに陥るのを回避できます。
 そこでぼくが経験してきたパニックにならないように自分に言いきかせるいくつかの方法をまとめてみます。
・こういうのって、別にたいしたことないと思う。 
 わぁたいへんだ、って思うんじゃなくて、こういうことって前にもあったし、別にたいしたことないって自分に言いきかせます。
・君はたいへんっていうけど、具体的に論理的に何がどうたいへんなのか180字で答えよ、と自分に問題を出す。
 さすが受験が厳しかった世代です。って、冗談っぽくいってますけど、心理学で認知療法というのがありますが、その人の思考の偏りや癖に気づくために、そう思い込んでいることに対して論理的な根拠を考えさせたり、反対の考え方がないかを論理的に考えさせたりする手法があります。それを応用してみました。
 この場合自分はヤバいってビビってますけど、具体的に何がヤバいのか、どうヤバいのか、それは本当に死に直結しているのか、ヤバくないところはないのかを考えると、自分が思い込んでいるほどヤバくはない状況だったりします。そして論理的に考えることで冷静にもなれます。一旦冷静になればパニックにはならないので、まあ最悪の状況は脱したといえるでしょう。
 ぼくの場合、元々の性質が慎重な方なので、こうやって冷静になってみると、ヤバいと感じる状況は、実はそれほどヤバくもないということがよくあります。
・深呼吸する
 パニックのときは呼吸が速く、浅くなりますから、これを意図的に修正します。行動療法では、人の心理は考え方を変えるためにまず行動を変えると考え方自体も変わるという手法がとられますが、それをパニックの際にも応用しました。
・別に死ぬだけじゃんって思う
 死が怖いって思い込んでいるから、自分は今死にそうで、それでパニックになるんですよね。本当に死ぬのって怖いんでしょうか?
 それに人ってみんな遅かれ早かれ死にます。それがたまたま自分には、今、死のタイミングが来そうなんだと考えます。それだけのことです。というわけで、別にただ死ぬだけじゃんと考えると、怖くなくなります。そうすると気持ちが楽になって、パニックにならなくなります、ぼくの場合は…
・死ぬかもしれないけど、やれるだけのことはやってみようと思う
「別に死ぬだけじゃん」の次の段階です。死んでもいいじゃんって開きなおったら、そこから死ぬにしてもやれるだけのことをやってみようと考えます。そうすると落ち着いて、しかも次の打ち手が見えてきます。
・おぉオレもついに冒険家だなって思う
 アウトドアで事故にあったり、死んだりするのって冒険家っぽくないですか?
 で、事故ったら世間を騒がして申し訳ないとか、家族は大丈夫だろうかとか、新聞に載っちゃうかなとか、そういう余計なことを考えて焦ったりしますが、逆に自分をヒーローかのように思い込ませて、現状を強引にポジティブに持っていくという方法です。
・この状況を乗り越えたらオレってスゲエと思う
 こんなにハードな状況を乗り越えて無事生還できたら、自分ってすごいなあと、これまたポジティブに考えます。そうすると思考が現状を乗り越える方に向かっていきますので、パニックにならないで済みます。
 まあざっとこんな感じです。
 こうして書き出しているうちに、これまで遭ったヤバい場面を思い出してしまいました。いやーホント、今こうして文章を書いているのが奇跡に思えます。
 それで、これはウォータースポーツで死にそうになった経験がもとになっているんですけど、別にウォータースポーツに限らず、たとえば仕事や日常生活でも使えるんじゃないでしょうか? パニックにならず冷静に気持ちを落ち着かせたいときは、使えるかもしれません。もしそうしたことで何とかしてみたいという方は、試していただくのもアリかも…








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なぜそんなにせかせかしているの?



 東京に住んでいる知り合いが、我が家に遊びに来たことがあります。
 別にぼくがぜひ来てくれといったわけではなくて、向こうが海を見たいから遊びに行ってもいいかといったんです。この時点でぼくが彼に好感を持ってないことが、みなさんには伝わっているかもしれません。
 たぶんぼくだけじゃないと思いますが、人って直感的に相手が自分の世界観に共感してくれるかどうか見抜けるところがあるような気がします。
 その知り合いを、最寄りの駅まで車で迎えに行ったんですが、第一声が「けっこう遠いね」です。それから車で我が家まで何十分か、かかります。そしたら「まだなの」です。
 家に着いたら、妻との挨拶もそこそこに「海が見たい」というので、海へ行きました。
 海に行ったらスマホで海を背景に自撮りで何枚か撮影して、「どこか名所みたいなのはないの」です。砂浜にいる時間は10分、いや5分ちょっとでしょうか…海を見ていた時間は、あれ?海を見てたのかな?
 ぼくはビーチで半日でも1日でもボーッとしてられる才能をもっているので、ちょっとこのペースにはついていけないなと思いました。なんでそんなにセカセカ、次から次に何かしないといけないんでしょうか?
 これは東京の人みんなが持っている特性ではないでしょうし、その知り合いがそういうタイプなんだと思います。それにしてもすごいですよね。
 さて、ここから学ぶ教訓は何か?
 自分が直感的に共感できないと感じた人とはあまりお近づきにならない。






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なんとかなるさ



 生きていると、いろいろ心配なことはありますねえ。大変なこともありますしねえ。責任もありますしねえ。
 ぼくのようないい加減でテキトーで気楽な日々を過ごしているヤツはそうでもありませんが、世間一般で、働いている人で、ぼくぐらいの年齢で、かなりの責任を負っている人というのは結構いらっしゃるんじゃないでしょうか?
 ぼくは海遊びをやる中で、テキトーだけれでも、生き死にに関わる部分では一応なんとかする、という訓練(自称)を何十年にもわたって続けてきたので、まあよほど「ヤバイ、今回こそは死ぬかも」(自称)みたいな状況になっても「まあなんとかなるさ」と考えられるようになりました。って、「それはお前が元々お気楽な性格だからだよ」という友人もいたりしますけど…
 ぼくが好きな言葉で「この世のことはこの世でなんとかなる」というのがあります。ぼくはこの言葉を、今は亡き政治家の金丸さんが話していらしたの聞いて知りました。
 金丸さんという政界の重鎮みたいな人が、国を左右するような状況に置かれて、その重圧に負けないでいるという背景を知った上でこの言葉を聞いたので、わりとすっと腹落ちしたんだと思います。
 自戒の念を込めて書きますけど、仕事をしていれば、ミスしたりウマくいかなかったり責任を問われたり、いろいろあると思うんですけど、まあそれでどうのこうのということはありません。気にすることもありませんし、それで世の中がどうかなっちゃうということもないと思うんです。国とか自治体とか会社とかいう組織は、結構強いです。特に日本のように、伝統的な経緯を経て、今の組織ができているような国は、ちょっとやそっとのことで組織が崩れたりはしません。なんていったって太平洋戦争で負けたって組織は壊れませんでしたから…
 だから「なんとかなるさ」と思うのがいいじゃないでしょうか。そしてどちらかというと組織に個人が押しつぶされないように注意する方がずっと大切なことじゃないかと思うんです。
 もちろん自分のプライドの問題として、この程度のことをミスして自分が許せないという人もいるかもしれません。ぼくからいわせると、そんな生きるのにたいへんそうなプライドなんて捨てちゃえ、ということになりますけど、きっとそうもいかないんでしょう。できるところまで頑張ってくださいね。
 人の生死に関わることだとなかなかに重大事項ですけど、某電力会社の元責任者で、原発事故で非常に多くの人に迷惑をかけても、(たぶん)平気な顔で生きている人もいる(少なくとも責任を感じて自殺したという話は聞かないので…いやすごいよね…図々しくて…)くらいですから、それくらいの事故までは、(たぶん)okです。それくらい面の皮が厚くないと、世の中渡っていけません。世の中図々しい人は掃いて捨てるほどいるので、マジメすぎる人は、そういう人の存在を考えて、自分のマジメさを中和するといいじゃないでしょうか?

 ぼくが住んでいるあたりは、少し足をのばすと鎌倉があったり、三浦氏の城趾があったりします。鎌倉街道があったり大山街道があったり旧東海道があったりします。
 ウォータースポーツをしながら、1000年くらい前にもこのあたりには人がいて、戦争をしたり、勢力争いをしたりしていたんだなあ、でも人々は日々の暮らしを営んでいたんだろうなあ、そして日々の暮らしの中で、悩んだり苦しんだりしながら、生まれて死んで、そういうのが続いてきたんだろうなあ、なんて思ったりするんです。
 それでも変わらず、多少は地形は変わったかもしれませんが、海はあったでしょうし、三浦半島はあったでしょうし、江ノ島もあったでしょう。
 個人から見れば、心配や不安や責任って事実として感じられることなんでしょうけど、自然や人間の営みから見れば、それは泡沫のようなもののように思えます。
 まあ、なんとかなるし、なんとかならなくても大したことじゃないし…
 
 という具合に、心配や不安や責任という心理的な課題を、社会的・歴史的なことから考えたら少しは楽になるかなーって思って書いてみたんですけど、説得力ありますかね?







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どんな人でもシアワセに暮らせる理想的な海辺の町ってどんなふうなんだろう



 あなたの周りにヘンな人とかちょっと変わった人といわれる人っていませんか?
 今は発達障害ということが一般的になってきて、以前だったらちょっとヘンな人だったのが、今ではナンタラ障害といわれるようになってきました。それがいいのか悪いのかはよくわかりませんが、何かに名前がつくということは、それが認識しやすくなるという面はあるんじゃないでしょうか。
 で、ぼくの周囲の海遊びをする仲間や、海辺に住む仲間というのは、ヘンな人とかちょっと変わった人というのが結構います。よくいえばそういう人達でも暮らしやすい自由で寛容な雰囲気があるといえるかもしれません。
 別な見方をすると、都会とか大きな組織のキッチリしたルールがあるところでは生きにくい人達が、自然に携わる仕事に就いているという面もあるかもしれません。
 ぼくは、ヘンな人とかちょっと変わった人が好きでして、自分もそういう面があると思います。
 ヘンな人とかちょっと変わった人を含めていろいろな人がシアワセに暮らせる世の中というのは、それはかなりいい、理想に近い世の中でしょう。
 ぼくの住む海辺の町が、そんな理想に近い場所になるといいなあと思います。そして日本や、はたまた世界がそうなれば、本当に理想的ですよね。
 ちなみに千葉に鵜原理想郷っていう場所が、たしかあったような気がします。そういう場所を求める気持ちって、いつの時代にもあるんでしょう。
 でも、たぶんそうならない…人は誰でもココロに、清い面と邪悪な面を持っていて、時に邪悪な面が、差別や嫉妬や憎しみといった感情を生み、それが行動に繋がるんじゃないでしょうか。そして一人ひとりの邪悪な面が、社会的な問題を生み出すんじゃないかと、ぼくは思っています。要は、もし今の社会に問題があるとすれば、それは社会の問題でもなく、特定の誰かの問題でもなく、一人ひとりの中の問題が社会に顕在化したんではないか…って考えているんです。
 なので、もし理想郷を造るとしたら、そのコミュニティのルールは、住民は絶えず自分の邪悪な面を見つめ、それを最小限に抑えるように努めること、ということになるんじゃないでしょうか。






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時間と人生とウォータースポーツ



 ウォータースポーツって、海という自然を相手にする遊びです。海は刻々と状況が変わりますし、天気予報や気圧配置をチェックしても、海況の急変は起こりえます。いくらリスクを管理しても想定外のことが起きるのがウォータースポーツ。
 ときどき、知人に「わかっていて、なぜそんな危ないことをするのか?」と訊かれることもあります。
 それはウォータースポーツに限らず、車の運転でも同じで、安全に十分に注意しても、それ以上の危険が起きる可能性は絶対にゼロにはならないんじゃないか、というのが、ぼくの答えですが。ちゃんと理由を話すにはもっと長い言葉が必要です。
 リスクがあっても、リスクがゼロにならなくても海に出ていきます。
 なぜか?
 もちろんウォータースポーツが楽しいから…というのが一番の理由かもしれませんが、でももっと根本には、ぼくの中にある価値観があるからだと思います。その価値観のためにぼくのそうした行動パターンは出てきています。その価値観は若い頃は直感的に身についたものでしたが、いつからかそれを理屈として考えるようになりました。

 で、なぜそんな風な行動パターンなんだろうと考えるんですが、ぼくにとっては日々暮らす=生きること自体がリスクの塊で、何をしても何もしなくても、リスクはなくならない、だったら好きなこと・やりたいことを精一杯やろうという気持ちがココロの奥底に絶えずあり続けているからなんだと思うんです。
 ここでいうリスクというのは、地震とか火事とか病気とか怪我とか失業とか家族の死とか自分の死とか、そういった人生において誰の身にも起こりえるモロモロのことなんですが、そういう大きなリスクって、たぶん誰の身にも確率的には起こり得るんじゃないでしょうか?
 たまたま隣人に起きて自分には起きてないけど、次の瞬間には自分にも起きるかもしれない、起きない理由なんてないし、日々を暮らすということは、そういうリスクに遭遇する確率と共にあることだと思います。
 だからリスクの確率を減らすために、家にじっとしているとか車の運転をしないとか火を使わないとか、そういうのって、ごく限られた範囲では正しいかもしれないんですけど、人生全体で見ると何の解決にもなっていないんじゃない、というのがぼくの考えです。
 というのも、病気になる可能性もあるし、家族が突然死ぬこともあり得るし、生まれてくる赤ちゃんが障害を持っているかもしれないし、地震が起きるかもしれないし、富士山が噴火するかもしれないし、ICBMが飛んでくるかもしれないから…
 心配したら何もできないし、どうせリスクがある人生なら好きなことややりたいことを精一杯やろう、という延長線上にぼくの海遊びはあります。海遊びのリスクなんて、生きる上で抱えているリスクの総量からしたら、たぶんぜんぜん大したことがないとぼくには思えます。
 話が回り道をしてしまいましたが、やれることはやれるうちにやりきってしまいたいとぼくは思っているということです。
 そして人生のリスクで最大のものは何かというと、自分の死だろうと思います。次は家族の死だと思います。家族の死をさらに分解すると、よりリスクが高いのは、子供(次の世代を担う人・自分より若い人)の死だろうと思います。それ2つ以外はどのリスクも似たり寄ったりだとぼくは捉えています。
 そして最大のリスクである自分の死と家族の死は、必ずやってくるということです。このことから、人生の長さは有限であり、個人の持ち時間は有限であり、そこでできることは有限であるという、現時点での真理があります。
 ただ、死というのはいつかは必ずやってくるとはいうもののそれがいつやってくるかはわからないという点が特徴です。
 100年以内に確実に起きることではあるけれど、それが10歳の時に起きるか70歳の時に起きるかで、死の意味は社会通念上大きな違いを持つといえるでしょう。年齢による死の意味の社会通念上の違いをどう評価するかによって、おおよそ、その人の価値観や行動パターンは変わります。60歳で死ぬのと70歳で死ぬその10年の差に大きな違いがあると考える人は、健康に留意して用心深く慎重になるでしょうし、そんなの大きな違いでないと考える人は、積極的にリスクテイクしていくでしょう。
 もうひとつの視点として、10年の差を単に時間の長さの問題として考えるだけでなく、その10年をいかに密度を高く過ごすかという、時間の密度の問題ががあります。長生きしてもそれほど密度の濃くない人生を過ごす人もいるでしょうし、短命でも多くのことを成し遂げたり、自分のやりたいことをかなりやる人もいます。
 つまり人生は有限で、0から約100年の間で可変する、そしてその時間は単に時間の長さだけでなく、その時間をどれだけ充実させるかという時間の密度の2つの軸があるということです。人生の充実度は時間の長さと時間の密度のかけ算だということです。



 別の視点として、人生の長さが0から約100年の間で変化するけれど、死に至らせる出来事が起きるリスクの確率は、自分でコントロールできる要素と自分でコントロールできない要素に分けられます。
 これを詳しく説明します。
 たとえば人はいずれ病気になるものですが、それは日々の生活習慣を整えることで、病気になる確率を下げることができます。
 また、別の例でいえば交通事故に遭うリスクを低下させるために、車に乗らない選択肢をとることはできます。ただ、車に乗って旅行したり、楽しい生活を送ることが、自分の時間の密度に関係するとなると、交通事故に遭うのを減らすために車に乗らない選択肢が自分にとって価値があるのかないのかはよく考えなければなりません。それは時間の長さと密度のかけ算の総量がどうなるかを考えるということだと思います。
 ぼくが危ないとわかっていてもウォータースポーツをするのは、まさにこの基準で判断していることになります。ぼくにとってウォータースポーツをすることはリスクがありますが、そもそもぼくにとって日々の暮らしはウォータースポーツによって充実しているものになっているので、リスクを減らして長生きしたいがためにウォータースポーツをしないという選択肢は本末転倒ということです。



 もうひとつまったく別の視点として、自分個人の時間は有限ですが、自分の意思とかやりたいことを次の世代に引き継ぐことによって、意思自体を延長することができるかもしれないということがあります。
 それは、子供に意思を託したり、弟子をとったり、組織を作ったりと様々な選択肢がありますが、注意すべきは、自分の意思を次の世代に引き継ごうとすることを半ば強制することは、次の世代のある個人の人生の充実度の総量を損なうおそれがある点です。ですから自分の意思を次の世代に引き継ぎたいと考える場合、その意思はかなり公益性の高いことの方が、無難で説得力があることに留意しなければなりません。
 こうした諸条件の中でベストな選択は、時間の密度を上げる、人生の長さを延長するために自分でコントロールできることはできる限り行う(ただし、人生の長さを求めるために時間の密度を下げる選択をするときは時間の長さと密度のかけ算である総量を慎重に検討しなければならない)、自分の意思を次の世代に引き継ぐ体制を作っておく、という3つのことです。
 たかだか海遊びをなぜやるのかということから大げさな話になってしまいましたが、結局ぼくの中の理屈ではそういうことになっています。





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遊びに真剣になれるなんてすごい



 ずっとウォータースポーツをしてきて、いつもすごいなあと思うのは、新しいウォータースポーツってだいたい海外、それも欧米から入って来ることです。
 たとえばカイトサーフィンというのがありますけど、あれってサーフィンとウインドサーフィンとパラセイリングを合わせたようなスポーツです。
 準備もたいへんだし、器材も大仕掛けです。やっている人が少ないから器材も選択肢が少なくて割高です。
 それを大の大人がマジメに一生懸命やっているというのがすごいなあと思うんです。そしてだいたい新しくできたウォータースポーツは、当初はあり合わせの道具を転用していて、使いにくいところを改良しながら専用の道具ができていくんですよね。だから当初は、道具類も手作りだったりすることが多いんです。そういうところもすごいなあと思うんですよね。
 遊ぶためにそこまで労力をかけるか?っていつも思います。それがすごいなあって…
 そしてそれが普及して、みんなが参加するスポーツになって、大会が開かれて、スポンサーがついて、ビジネスになる、文化になるそういうのがすごいと思うんですけど…





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「海歩き」はひとつのアクティビティだ



 海辺に住んで、ウォータースポーツをやる日々を過ごしているお気楽だらだらオジサンです。
 ウォータースポーツといっても、セイリング、スキューバーダイビング、シーカヤック、サーフィンをします。
 そのときの海況によって一番楽しめるウォータースポーツを選んでやってます。
 最初はサーフィンをやっていたんですけど、そのうち波がないときでも海で遊びたいなーと思ってスキューバーダイビングを始めて、そのときどきで楽しめることをやっているうちに増えてしまいました。
 海が穏やかなら、スキューバーダイビングかシーカヤック、風があればセイリング、波があればサーフィンという感じ。
 でも、天気や海況によってはどれもできない日があります。
 そういうときは、たまった雑用をこなすことも多いですが、やっぱりぼくとして外で身体を動かしたいわけで…
 たとえばこんな日があったりします。
 海がしけて、荒れ荒れで、雨が降っていて、ちょっと寒い、みたいな日。
 そういうときぼくは海辺歩きをします。
 まあただ歩くだけです。
 ただ歩くだけと行っても、出発のときから結構歩く気で出かけます。朝5時に家を出て、帰ってくるのは夕方です。
 できる限り海辺を歩きます。砂浜や岩場なんかも歩きますし、海の中に入ることもあります。
 靴は濡れてもいい、しかも歩きやすい靴。なのでリーフランナーとかマリンシューズとか履きます。セイラーがデッキで履く靴が多いですね。今はHELLY HANSENのマリンシューズ?を履いています。
 それからバックパックとザックカバー。
 バックパックはランニングとかファストトレイル用の、容量は少ないですけど身体にフィットして汗が蒸れないのを、わざわざ海歩き用に買いました。
 そして濡れても大丈夫なウィンドブレーカーと撥水加工のしてあるパンツ。インナーも濡れてもすぐ乾くファイントラックのものを使ってます。
 もともと海遊びで濡れてもいいようなウェアや装備は持っていたので、雨の日はそれを使うだけです。
 あとは水、行動食(ピーナッツとかカシューナッツを持っていくことが多いです)、わずかのお金、スマホ、カメラ、タオル…
 海辺を歩いていると、景色が眺められたり、これまで気づかなかった地形に気づいたり、お店を発見したり、いろいろ楽しさがあります。
 あと、シーカヤックもジョギングもサイクリングもそうですが、ひたすら何かをし続けるスポーツというのは、難しいことを考えずただ前進すればいいので、無心になれていいですよね。悩み事を頭から追い出すことができます。
 休日に海に出たい、身体を動かしたい、何か楽しいことをしたい、そんな思いで始めたことなんですが、最近は車で歩きたいフィールドまで出かけてそこから歩くということもしています。
 なので、これはひとつのスポーツということでありなんじゃないかと思っています。
 ぼくの中では「海歩き」ということで、明日は荒れるから「海歩き」の日だという感じになっています。「海歩き」がちょっと語感的にアレなんで、たとえばSeaside WalkingとかTrai WalkingとかBeach Trailとかそんな風に呼んでもいいんじゃないかと思ったりもします。










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