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マジメにやるの、やめよう



 自分でいうのもなんですけど、わりとマジメな性格だったんじゃないかと思うんです。いや、マジメというのとは違うかな…他人に嫌われたくないから、自分の居場所が欲しいから、一応ちゃんとしようとしてきたのかなーって思います。
 で、ご想像がつくと思いますが、そういう性格だと、ときに気を使いすぎたり自分を抑えたりして疲れます。って、自分でいうのもなんですけど…
 ぼくは海が好きで、自然の中にいると心が安まるんですが、それって、この他人に嫌われたくないことから解放されるからかもしれないって、いつの頃からか、そう考えるようになりました。
 もちろん社会の煩わしいルールに従いたくないけど従わなければならない状況から、しばし逃げられるということも、海に出る理由ではあります。
 で、そういうのってよくないんじゃないかと思いたち、他人に好かれようとか、いい人に思われようとしないように心掛けています。
 たまにすごくマイペースで自分のことばかりいう人がいますが、そういう人にあったら爪の垢でもいただきたいくらいにマネするポイントをチェックしています。
 友人にそのことを話すと「お前さあ、頑張る方向まちがってんじゃない?」といわれます。確かに社会の常識的にはそうかもしれませんね。でも、ぼく的には、鈍感で、マイペースで、自分勝手で、マジメじゃなくて、不義理で、頼りにならない、だらしない、ダメな人になりたいんです。もちろん法律には従わなければなりませんけど…
 その方が、自分は楽だし、シアワセです。他人がどうだろうと、自分がよければいいじゃないか…って最近はすごくそう思うんです。
 って、そういう人が増えると他の人は迷惑でしょうねえ。
 それは裏返すと、日本では、法律には書いてない、他人に迷惑をかけない気遣いとかマナーがいっぱいあって、それをちゃんとやる人は「大人」「いい人」「素敵な人」「頼りになる人」っていわれますけど、それをやり過ぎると結構疲れますよね。いやーそこまでやらなくてもいいんじゃないの?法律守るので十分じゃないの?って思うんです。
 ちゃんと毎日働いて、税金も払って、子供も育てて、親の通院にも付き添って、家の前の道も掃き掃除してって、もう十分でしょう…
 ぼくの考えの向いている方向を堕落と呼ぶか、個人の自由を最大化するよい行為だとするかは、多くの社会構成員の思いなのでアレなんですけど、どちらと考えるかで10年もすると社会自体はずいぶん変わってくると思います。









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ありがたい海の幸をいただく



 ときどき特定のものがすごく食べたくなりませんか?
 ぼくの場合は、刺身が食べたくなります。別ないい方をすると生魚。こうやって書くと、なんか残酷な感じ…
 海で遊び、スキューバーダイビングなどで、魚が元気に泳いでいるのを見ると、なんだか刺身が食べたくなるんです。それってすごく悪趣味な気がするんですが…でも、なんだかそうなんです。
 たぶんずっと以前からスキューバーダイビングに行ったら、立ち寄り湯→海鮮居酒屋→宿に戻って宴会というパターンをずっとやっていて、そこでおいしい刺身を堪能したからかもしれません。条件反射的に刺身が食べたくなるのかなあ。
 もうひとつこれもちょっと悪趣味ですが、自分が疲れている時とか元気がない時に、刺身をいただくことで元気をいただくという面があります。ぼくの場合それはかなりの場合、疲れてくると刺身が食べたくなります。特にイカ。特にコウイカとかアオリイカとか…
 本当にイカ一族はじめ魚類一族には申し訳ない思いでいっぱいです。
 いやー本当に…もし宇宙人がいて、その宇宙人の食事のメニューのひとつに人間の刺身とかがあって、ぼくがその刺身として食べられたらすごくいやですから…そういう死に方だけはしたくないです。それと同じことをぼくは魚にやっているわけで…でも、生きるということは所詮自分以外の者を損ないながら自分だけは生き延びるということなんだろうと思います。
 話が逸れましたけど、ぼくの近所に海鮮丼とか刺身定食を1300円くらいで食べられる定食屋があるんですが、そこに行くのも好きです。できるだけ地魚を盛ってくれるし、いろいろな種類の魚を盛り込んでくれる(だいたい10種類くらい)ので飽きないし新たな発見があります。この店で始めて食べた刺身というのも結構あります。1300円という値段は、その内容からすればとてもお得な気がします。
 その店に行って、窓越しに海を眺めながら、魚をいただくというのが、わりと幸せなひとときです。
 そんな幸せも海辺の暮らしならではかもしれません。









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絶海の孤島への憧れ



 絶海の孤島っていう表現がありますね。
 ぼくも海遊びが好きで、海辺の旅をしてきましたから、船で八丈島に行ったり、小笠原に行ったり、沖縄の離島に行ったりしてきました。そうすると、本当に絶海の孤島だなーと思うことがあります。
 たとえば大島のことを絶海の孤島とはいわないと思いますけど、八丈島とか青ヶ島とか孀婦岩くらいだと絶海の孤島感があります。小笠原諸島だと文句なく絶海の孤島ですよね。
 こうした島に船で行くといろいろなことを考えます。
 いったいなぜ人間はこんなところに住むようになったのか?ていうか、鳥もいますけど、この鳥はどこから飛んできたのか?
 ちなみに船が海のど真ん中にあるときでも鳥は飛んでいますから、かなりの距離を飛ぶんだなあ、いやあ頑張ってるねーと思います。
 小さい頃、ジョン万次郎の話を教科書か伝記かテレビかで見た気がするんですが、そのときも人間ってすごいなあと思いました。
 それからポリネシア、ミクロネシア、東南アジア、日本におよぶ人種の分布とそれの渡来経路について読んだことがありますが、もう大昔から人は海上を行き来していたようです。
 現代の巨大な船で、小笠原航路に乗るとき台風に遭ったりすると、かなりヒヤッとしますけど、大昔の人は、まあ双胴船とか丸木舟でよくまあ航海したものだと、その勇気に感服してしまいます。すごいよね。
 ぼくは海が好きで、スキューバーダイビングで何度か流されて、それでも海遊びをやめない海バカですけど、そのぼくが絶海の孤島では、その孤立感や断絶感にときどき不安になるんです。いや小笠原の父島なんて大きな町ですけど、でも、度々離島の旅をしているから知ってますけど、こうした大きな島でも2週間も船が来ないと、物が足りなくなります。そういえば1980年代頃までは離島に行くと水か貴重で、宿に泊まっていてもときどき断水になったり給水制限があったりしました。そういうときには絶海の孤島にいるんだって改めて実感します。
 そしておもしろいなあって思うのは、孤立感や断絶感と共に解放感や自由さも感じるんです。あの感じはなんなんでしょう? でもあの感覚が好きで何度も何度も離島の旅に出てしまいます。













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海という自然・小さなコミュニティ・幸せ…



 海でのんびりするといいですよ、自然の中で過ごすといいですよ、てなことをこのブログでは何度か書いてきました。いつもはバラバラと散発的に書いているので。今回はまとめてみたいと思います。
 ぼくは地方出身で大学から東京に来ました。大学時代に友人でサーフィンをしているヤツがいて、誘われてサーフィンを始めました。当時は小田急で鵠沼に行って波乗りしていました。小田急はJRよりも電車賃が安いですから…
 大学を出ると、東京の会社に就職して、職場に近く、通いやすいところを選んで住んでいました。これはすごくよくあることなんだろうと思います。
 そしてこれもよくあることなんですが、毎日終電くらいまで仕事をして、家で寝て、数時間後にはまた電車にのって会社に行くという生活をしていました。当時は今ほど残業についてもうるさくいわれなくて、まあ、若手として仕事をどんどんして、そうすると周囲から評価されて、また仕事を任されてというサイクルでした。
 昨今のライフワークバランスが尊重されるご時世に時代錯誤なことを書いてしまいますが、仕事というのはハマるとおもしろいものですし、自分なりにいろいろ調べたり工夫したりすると、どんどんおもしろくなります。そういった意味で、ぼくは仕事を遅くまでやるのが苦痛ではありませんでした。こんな感じで20代を過ごしていました。
 その代わり土日は朝から(というか3時とか4時から)家を出て、海に行き、土日まるまる海で遊んで月曜日の朝、自宅に帰ってシャワーを浴びて、スーツに着替えて会社に行くということをやっていました。その頃にはスキューバーダイビングやセイリングもやっていました。自然の中で海遊び仲間とワイワイやるのが楽しかったのです。行くのは、伊豆半島や八丈島や三宅島が多かったですね。
 そして年に何回かは、石垣島や宮古島や沖縄の離島、それから海外にもダイブトリップに出かけていました。
 離島にもはまっていたのです。
 離島好きな方はおわかりになっていただけると思うのですが、島の人というのはノンビリゆったり暮らしていて、金銭的に富裕というわけではないですけど、毎日楽しく過ごしています。そういう暮らし方に接していると自分の東京での生活ってどうなんだろうと考えることがありました。
 土日の海遊びと年に数回のダイブトリップでの自然と近い暮らし…それと比べて東京は人が多くて、ビルが建て込んで、空が小さくて、緑が少なくて…そういう雰囲気に息苦しさを感じるようになったのです。
 年代的にも30代になろうとしていました。結婚もし、そろそろ子供を…ということを考え始めたときに、もう少し自然のあるところ、そしてもちろん海のそばで暮らしたいし、そういうところで子供を育てたいなと本気で考えるようになりました。
 前置きが長くなりましたが、そのときのぼくの心の状態というのは、都会の暮らし×、自然の中での暮らし○となっていたのです。そしてぼくのそういう価値観を構成しているのは、離島など海辺の人達の暮らしぶりを見聞していたのとウォータースポーツでの自然と接する経験からなりたっていました。
~心のゆとり~
 人は忙しくなるとイライラしたり、怒りっぽくなったりします。東京ではたまに電車で男の人同士がもめたりしてますが、それなども忙しさのせいかもしれません。もともと働き盛りの男性というのは闘争心があるものです。それが仕事という社会的な場で発散されるといいんですが、ケンカとかに向かってしまうと犯罪になってしまいます。
 ぼくは、ウォータースポーツで、時に激しく厳しい自然の中で、なんとか生きて陸に帰ってくることを目指して格闘することで、そうした闘争心みたいなものを発散していたんだと思います。
 年に何度か離島に行くのが恒例になっているんですが、1週間も離島で暮らしていると、自分のリズムが変わってくるのがわかります。歩くのがゆっくりになり、呼吸が深く大きくゆっくりになり、ノビノビと胸をはって歩くようになります。空は広く、海は青くで、木々は緑です。
 呼吸する空気も飲む水も食べ物も、島の物です。身体全体が内側から島に馴染むような気がします。
 島の人との会話もノンビリしたやさしいものです。
 今でも強く印象に残っている経験があります。ぼくが東京で暮らしていたとき、先島諸島の多良間島に10日間ほどダイブトリップに行ったことがありました。島の人はたいてい家に鍵をかけません。車のロックもしません。ぼくは滞在中レンタカーを借りていたんですが、当たり前のように車をロックしていました。あるとき宿の駐車場で車の出し入れするときに、ぼくの車を動かさなきゃいけない状況になったらしいのですが、ぼくはそのときダイビングに行っていたのです。それで、宿の人から車にロックしないでくれ、どうせ誰も何も盗らないからといわれたことがあります。
 それってぼくにはけっこう衝撃的な経験で、東京だと近所のコンビニに買い物に行くときも家の鍵はかけてましたから…
 この経験が意味することは、単に鍵をかける手間が少なくてラクということだけではありません。鍵をかけるという行為は、その前提に外敵に自分の財産や暮らしを脅かされるかもしれないという警戒心があります。それがあるとないとでは、いかに自分の気持ちにかかるストレスが違うかということです。多良間島滞在の10日間で、ぼくはこの普段意識しないストレスから解放されてました。長年身体に張りついていた錘が剥がれたような爽やかさを感じたのです。
 おそらく都会での暮らしには、満員電車に乗るとか、スリに遭うとか、何かを盗られるとか、変な人に突然何かされるとか、そういう意識的だったり無意識的だったりするストレスというか緊張感があると思うのです。それが何年も何十年も人の心にあり続ける事って、心に負担をかけるし、価値観にも影響を与えるだろうし、対人関係も変わってくるだろうし、ひいては人生の全体に大きな影響を与えるんじゃないでしょうか?
 ここまで長々とぼくの経験を書きましたが、何がいいたいかというと心のゆとりって大切だということです。で、その心のゆとりって、生活する場の状態によるんだということです。
~自然と接すると人は癒されるのではないか~
 ぼくは今海辺の田舎町で暮らしています。東京で暮らしていて、東京で家族と過ごすのってイヤだな、ここで子育てするのはイヤだなと感じました。それはかなり直感的かつ本能的な感覚でした。相方も同じように感じていたようです。それで、かろうじて通勤できる海辺に引っ越したわけです。引っ越し先を選ぶときもできる限り海や山といった自然がそばにある家を探しました。そんなわけで、家に帰れば、そこは目の前は海で、背後は森です。
 ぼくが大学時代からずっとウォータースポーツをしていたのは先ほど書いたとおりです。社会人になってからは、平日は東京のビルの中で仕事、土日は海で過ごしていました。ぼくにとって土日に海にいる時間はとても大切なものだったのです。すごくありきたりないい方をすると海に接することで癒されていたんだと思います。
 それではあまりにも平板な物言いなので、詳しく書きましょう。
 海にいると、まず服装からして違います。短パン・Tシャツ・ビーサンです。冬は長袖長ズボンをはきますが、足下はビーサンです。これでだいぶリラックスできます。
 肩の力は抜けますし、歩くスピードはゆっくりになります。呼吸も深く大きくゆっくりになります。ぼくは10年ほど前から瞑想をするようにしていますが、海辺にいると短時間で瞑想に入ることができます。
 波の音を聴き、潮風に吹かれ、太陽の光をあび、海の水に浸かる。海が荒れているときは森の中を歩き、鳥の声や木々の葉や枝の擦れる音を聴き、木漏れ日を仰ぎます。こうした時間がぼくにとってはとても大切なのです。そしてこうした時間を過ごすことでぼくは満たされます。
 東京にいたときはアトピーと、軽い喘息と、ときどき眠れない日がありましたが、それも海辺に引っ越してからはすっかりなくなりました。
 ぼくの周りだけかもしれませんが、こうした自然を愛する人はぼくだけでなく、一定数はいるように見えます。
 おそらくある種の人は、自然と接することが好きで、自然の近くで過ごすことで、癒されるのではないでしょうか?
 そしてそうした暮らしをするからこそ、心にもゆとりが生まれるのではないでしょうか?
 
~自然と共に生きることは人間にとって大きな意味があるのではないか~
 自然のそばで暮らすことは癒される面もありますが、他の面もあります。
 自然は時に穏やかですが、時に激しく荒れ狂います。それは地震や火山の噴火や洪水を年に何度か目にするわれわれ日本人には頷けることだと思います。
 そんな自然に対して、人間は技術的な進歩である程度対応できるようになりました。人にとって暮らしやすいようにダムを造り、防波堤を造り、道を通しました。日本で暮らす上で、普段は自然の脅威を感じる場面はほとんどありません。それでも何年かに1度は自然の強大な力を思い知ることになります。
 ぼくの推測ですが、人にとって、自分達の力が及ばないことがたくさんあることを思い知ることで、用心深さや謙虚さや向上心が備わるのではないでしょうか?
 自然が好きで、自然のそばで暮らす人々にとっては、それがなおさら心に大きな影響を与えるのではないでしょうか?
 もうひとつあります。
 日本の都会で暮らしている分には、飢えるとか自分の生命が脅かされるということはほぼありません。でもそれって限られたエリアの限られた状況のことで、普遍的なことではありません。いつ何時自分が死ぬかもしれないとメタな部分で認識することは、おそらく普段の考え方や行動に影響を与えるのではないでしょうか?
 さらにもうひとつ。
 人間はこれまで自然の恩恵を利用しながら、自然の力に対応しながら生存してきました。それは歴史をとおしていえることでしょう。そして人間の力が大きくなるにつれて、人間社会が大きくなり、整備され、システマチックになり、その環境の中で生きることだけを考えるようになってきたのではないかと思います。
 ざっくりした喩えをすると、500年前のAさんと現代のBさんでは、一生のうちで自然と接し、自然のことを考える時間は、だいぶ違うのではないかということです。そして人間社会のシステムが仮に人間性を抑圧する部分があるとすれば(って、ぼくはあると思いますけど…社会というのは強者や多数派の人に合わせてルールを作るので、それに該当しない人は抑圧されると思います…)、現代のBさんはよりその抑圧にさらされる可能性が高くなっているのではないか、というのがぼくの考えです。そして人間の及ぶ範囲が広くなる、つまり手つかずの自然の範囲が狭くなることで、抑圧されている人の逃げて生きる場所も狭くなっているとも考えています。
~小さなコミュニティで暮らすことのメリット~
 最近ネットのショップとかオークションとかSNSとかwebサービスで、その人や店の評価が表示されるようになってきました。評価が高い人や店は信頼できるということになっています。信頼度が高いほど、取引や交渉時のリスクは低くなり、それに伴い、リスク回避のためのコストが低下します。
 その人が信頼できるか、どういう人か、あるいはどういうときにどういう行動をする人かという情報は、共同体として生活する上で重要な情報なのでしょう。
 先ほど、離島では車や家に鍵をかけないというエピソードを書きました。島の中に誰がいて、誰がどういう人かわかっているから、鍵をかけなくてもいいのだと思います。
 そうした心理的な警戒心の不要さが、個人に対しても安心感を与えますし、コミュニティを維持するコストを低下させます。
 たとえば東京の23区のある区のマンションが立ち並ぶエリアで、自分の住むマンションの前に定期的に粗大ごみが不法投棄されていたとします。これは誰が住んでいるかわからず、誰が通りかかるかもわからず、その粗大ごみを不法投棄した人が誰かすぐに特定できないから、そういうことが起きるのでしょう。捨てる人もわからないだろうと思って捨てるわけです。
 で、その不法投棄されたごみはマンションの管理組合が処理するかもしれませんし、区の清掃事務所の人が処理するかもしれません。いずれにせよ、捨てた人以外の誰かが処理費用を負担することになります。
 そういうことが続けば、たぶんマンションには監視カメラをつけたりするでしょうし、区でもどこかに監視カメラをつけるかもしれません。あるいはゴミが捨てられないように柵を作るとか鍵をかけるとかするかもしれません。これって、誰かの不法投棄により手間やコストが増えたことになります。で、そのゴミを捨てる行為を助長しているのは多分に匿名性だったりします。
 おそらく想像ですが、離島ではこういうことは起きないでしょう。
 これはゴミの不法投棄を例に出しましたが、犯罪とか高齢者の孤独死とか児童虐待とかいろいろなことがありますから、23区のある区のコミュニティ維持のコストはたぶん高いはずです。それは結局マンションの維持管理費とか税金とかなんらかの支出で、みんなが負担しなければなりません。
 もうひとつの視点を提示してみたいと思います。
 ぼくは行政機関というのは、というか組織というのは、なにかしら無駄があるものだと思います。ただ、民間企業は存続するために利益を上げなければなりませんから、無駄を排除する動機が組織に組み込まれています。行政機関はその動機がかなり薄いため(夕張市のように破綻することもあるため、ないとはいえません)にどうしても無駄が生じるんだと思います。
 行政機関でも働いている職員は、その人もプライベートは個人であり家庭もある労働者ですから、自身の生計を成り立たせるために、仕事を作らなければならない動機が存在します。こうして往々にして行政機関はその存続が目的化してしまいます。過去に行政改革など無駄を除く努力がされましたが、うまくいきませんでした。それは仕方がないことで、組織に無駄をなくさなければならない動機が存在しないからです。唯一あるのは納税者である住民のチェックですが、これは住民にも百人百様の考え方があり、納税者でもありサービスの受益者でもありますから、何を無駄と考え何を有効かと考えるかについては議論が必要で、簡単にはいきません。そして、住民の数が増えれば増えるほどこの考え方は広がる可能性があるわけです。
 また、行政機関は日本の場合、国・都道府県・市区町村の階層になっていますが、階層が上がるにつれ、住民から離れていきます。それが無駄だとはいえませんが、国際社会で交渉する際に、日本という単位で交渉すれば有利な場合など、国としてまとまるメリットが明確である場合は、国の存在意義が住民から支持されるのでしょうが、国が最初にありきという必然ではありません。いつかどこかの県や市が独立したいといいだしてもおかしくはありません。
 住民から離れれば離れるほど、住民の直接のチェックが働きにくくなりますから無駄が生じる可能性が増えるでしょう。それに行政機関の規模が大きくなればなるほど、無駄が生じる可能性が増えるというのは、組織というのはだいたいそういうものだからです。
 つまり、大きなコミュニティというのは、住民も行政も両方で責任が曖昧になって、コミュニティの維持にコストがかかりやすいんじゃないかとぼくは思うのです。
 極端な例ですが、日本が、小学校ひとつくらいの規模であったら、誰が何をやっていて、どういう人かわかるし、お金が何にいくら使われているかもわかります。生徒会役員(公務員)が何をやっているかもわかります。この規模感って、自分がコミュニティの一員であり、コミュニティを支えなければならない感覚に影響を及ぼすとぼくは思うし、自身が市民である意識って大切だと思うのです。
 次にもう一度、離島のコミュニティに視点を戻してみます。ぼくがこれまで行ったことのある島で、人口が少なかったのは小笠原の母島で約500人。次が父島で2000人。沖縄の多良間島で1300人。八丈島だと10000人で、ちょっと多い感じです。想定しているのはだいたい3000人くらい。それくらいだと先ほど書いたようなイメージのコミュニティです。誰がどんな人で、どこにいて、何をやっているかだいたいわかる感じです。
 何度も書きますが、誰がどれくらい信用できる人で、どういうときにどんなことをするのかわかっているということは大切なことです。
 なので、たとえばいつも酔っぱらうと大声を出す佐藤さんちのおじいちゃんが、大きな声を出していてもみんなはそんなに気にしないでしょう。また、いつも元気で、毎朝散歩を欠かさない木村さんちのおばあちゃんの姿が見えないと、心配するでしょう。きっと誰かが様子を見に行くんじゃないでしょうか。こういうことって細かいですけどコミュニティにおいては重要なことだと思うのです。
 もし先ほど例に出した23区のある区で同じことがおきたら、佐藤さんちのおじいちゃんの場合、警察に通報する人がいるでしょうし、警察官は現場に行くでしょうし、その警察官の人件費はみんなの税金で賄われています。木村さんちのおばあちゃんの場合、民生委員の人が見に行くかもしれません。あるいは誰も気づかず、あるときおばあちゃんが死んでいたというニュースで見るようなことが起きるかもしれません。
 以上は小さなコミュニティのよさです。
 もちろん小さなコミュニティのデメリットもあって、それは水道とか電気とか行政のインフラを3000人のために整備しなければいけないということです。
 どちらもなんらかのコストはかかるわけですが、計算すればどちらが安いかは比べられると思います、たぶん、ぼくはめんどくさいからやりませんけど。
 そしてそれに加えて、暮らす人々の安心感とか暮らしやすさとかストレスというお金に換算しにくいことも含める必要があります。毎朝自分のマンションの前にゴミが不法投棄されているのはストレスだと思いますが、そのストレスがいくらに相当するかはちょっとわかりません。
~暮らし方を見直したらもっと幸せな社会ができるんじゃないか?~
 これまで「心のゆとりの大切さ」「自然のそばにいると人は癒される」「自然と共に生きることで人は何かを学べる」「小さなコミュニティで暮らすことの大切さ」ということを書いてきたのですが、この4つが揃った暮らし方ができる社会って、ぼくの理想です。そして多くの人がもっと幸せになれるんじゃないかとも想像するのです。もちろん好みがあるでしょうけど…
 でも、生まれてある程度の年齢になって自分で自分のことを決められるようになったら、自分に合ったコミュニティを選べばいいと思うのです。もちろん日本国内ではそれはできますけど、でも、なんだかんだいってそんなに自由ではなくて、生まれた場所にとどまったり、あるいは生計を立てるために、都会で暮らさなくてはなりません。年齢と共に自分にあったコミュニティを移っていくのが当たり前のようなったらいいんじゃないかな?って思います。











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えー、またハート! そんなに好き?ハート!



 ぼくがよく行く南伊豆に田牛というところがあります。ノンビリしていてサーフィンやシーカヤックやスキューバーダイビングが楽しめていいところです。
 田舎の漁師町にはよくあることですが、道が狭くて駐車場が少ないのです。でも、他に足はないし、車で行くしかないわけで…いやもちろん下田までは伊豆急が通っているし、下田からはバスがあるけどね。
 田牛とか碁石が浜あたりに行ったことがある人はわかると思うんですが、本当に道が狭くて駐車場が少ないんです。車がすれ違うのに結構気を遣うくらい。ぼくがこのあたりの代官様で、勝手にルールを決めていいなら、一日にこのあたりに入ることができる車の台数は50台…いや多すぎますね、30台を上限とする、というようなおふれを出したいくらいなのです(なら、もっと道を広くしたり駐車場を広くしたりしろよ!っていわれそう)。
 でも、それも以前はそんなに人が来なかったので、別にノンビリした海辺の漁師町だったわけですが、最近なんとなく竜宮窟がパワースポットというか縁結びスポットというか、そういうのよくありますよねえ、そんな感じで、人が増えているんです。何がどうしてそんなにナンチャラスポットなのかというと、竜宮窟って波で浸食されて穴になっているわけです。それ自体は伊豆にも全国にもたくさんありますが、その穴が上にも抜けているんですね。西伊豆の堂ヶ島にもありますけど…それも珍しいことは珍しいですけど、まあよくある岩です。
 で、ここは上から見るとその穴がハート型なんですよ、だからカップルがいっぱい来るの…

 そういえば小笠原の父島にもハートロックってあったなあ…
 パワースポットってぼくは別に嫌いなわけじゃなくて、確かに伊勢神宮とか出雲大社とかって参道を歩くだけでなんとなく凜として気が引き締まるような感じがしますし、熊野古道だって雰囲気がいいですよね。そういうのってパワースポットって呼んでもいいと思うんです。それに出雲大社を縁結びの神様というのも、その伝統や格式の高さから何の文句もないんです。
 でもよー、っというか、でもさー、岩の形がハートだとか、木の根っこの形がハートだとか、コンクリートブロックの壁のシミがハートだとか、隠れ●ッキーがどこにいるかな?とか、そういうのって、そこに何かすごい根拠があるわけー?だから何?っていう気がするんですけど…
 しかもそういう所をカップルが訪れて、だから何なのー、デートネタに困って来てるだけちゃうんかい、とも思ってしまったりするんです。
 まあ、人が来るのはいいんですけど、お代官さまー、細い道を対向車を気にしながら走るのってめんどくさいです。








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海に降りる道は全部降りてみる ~無駄な行動の先にあるもの~



 何度も書いていて今さらですが、海が好きです。友人は遠慮なくぼくのことを海バカと呼びます。
 そんなぼくですからヘンな癖は山ほどありまして、たとえば初めて訪れる島や海辺の町では、海に降りる道は全部降りてみるのです。
 海好きな人はわかってもらえると思いますが、もうちょっと説明しますね。
 海辺って、幹線道路がたいてい海から少し離れたところを通っています。そうするとそこから漁港だとか畑だとか人家に降りる細い道が枝分かれしているんです。降りるというのは、海とか漁港ってたいてい標高が低いから…当たり前?…
 たとえば伊豆七島の三宅島を例にとりましょう。ぼくが初めて三宅島に行ったとして(というか三宅島は何度も行っていて、わりといろいろ知ってますけど)、まずレンタバイクを借ります。で、島をぐるっと一回りするわけです。島というのはたいていメインの道路が一本島を一周するように走っていて、そこから枝分かれする道があります。で、一回りする間に海に降りる枝道の目星をつけておきます。海に降りる道も太い道もあれば細い道もありますから…で、2周目は一本一本全部降りていくんです。
 どうしてそんなことをするかというと、島の全貌がわかるから、海の様子が分かるから、そして思いがけない、いい風景やいい場所が見つかることがあるからです。現にそういうことをしていて、石垣島では誰も人がいないサンゴがびっちり繁ったビーチに出会えて、そこでスノーケリングをして素晴らしい時間を過ごすことができました。八丈島では島の人が使う無人の共同温泉(島の人は無料・観光客は寸志を箱に入れる)を見つけて、海を見ながら温泉に浸かったりしてました。
 もちろんミスもあります。海に降りる道が、個人宅の私道で、降りていったら犬に吠えられたりしたこともありました。でも、それくらいかな…
 最近は便利になったので、グーグルマップの地形が出てくるヤツがありますね。あれで、事前に海の地形をチェックして、よさそうかどうか、道がついているか調べておきます。いやー便利になったもんですね。でも、たいていすべての道を降ります。それはやっぱり行ってみて見てみないとわからないから…
 こういうぼくの行動を馬鹿げたこと、無駄が多いことと批判するのは簡単ですけど、もしかしたらそこに教訓らしきものがあるかもしれません。とういのも、すごくいい状況、めったにお目にかかれない風景、感動する場面に出逢うということは、気になる枝分かれした道を一本ずつ降りるような行為によってしか達成できないんじゃないかってぼくは考えているからです。
 それはwebで検索して、人気があるとか評価が高いところを押さえて、最短のルートをとり、無駄のない行動をすることとは正反対にあります。他の誰かが通った道を要領よくなぞっているだけの、そんなできあいのありがちな行動なんて意味ないし、つまらない、とぼくは考えるんですけど、たまにぼくと似た価値観の人が、要領悪く、試行錯誤しながら何かをやっているのを見るとうれしくなって、応援してしまいます。










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田舎ではいつでもライトがあったほうがいいです



 海辺の田舎町に住んでまして、まあいろいろアレでソレなんですけど、移り住んでから習慣になったことのひとつに、いつでもライトを持ち歩くということがあります。ライトって懐中電灯です。ポータブル・ハンディ・ライトです。
 都会で住んでいる人などは、ライト自体、家にあるけどどこにしまったかなーという方もいると思います。
 なぜ荷物が増えるのにいつも持ち歩くのか?
 それは街灯が少ないからです。で、スーパーに買い物に行くとか、散歩に行くとかして、冬なんかだとあっという間に周囲が暗くなってくるとライトが必要なんです。足下を照らすためにも必要ですし、車がけっこう通る歩道のない道を歩くので、車にこちらがいることを知らせるためにも必要ですし、防犯の面からも必要です。
 近所の人は、まあだいたい、みんなそうしています。町の比較的中心はまだ人通りもあるし、お店もチラホラあるので、少し明るいんですが、ぼくの家のあたりは森が多く、家も少ないので、街灯はまばらにしかありません。
 ライトは必需品です。
 ちなみに以前こんなことがありました。独りで夜歩いているときにライトを持っていなくて、道が暗くて見えなくてなんか踏んづけていまいました。今までにない踏み応え(っていうのかな?)です。何かなあと顔を寄せて見てみたら、それは小さなヘビでした。どうもマムシではなかったようです。
 やっぱりライトは必需品なのです。
 それからは家にあった小さめのライトを持ち歩くようになりましたが、なにせ思いので、キーホルダーに付けるタイプのを買いました。これだと家の鍵と一緒なので持ち出すのを忘れることはありません。
 最近はLEDの性能がよくなって、小さくて明るくて電池の持ちがいい物が安く売っています。ぼくが使っているのは長さ3cmくらいで10gくらいのヤツですが、結構明るいです。ちなみにLEDLENSER(レッドレンザー) LEDキーライトK1というヤツです。いやー便利な世の中になりました。
 もしぼくと同じようにライトを日々持ち歩かなければいけない状況の方がおられましたら、新しい小さいライトの購入をオススメしたいところです。番組をご覧の方には、今から30分間は特別価格でご提供します。今すぐお電話を!










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独善的な人からは遠ざかれ!



 海遊びを中心に暮らしています。
 っていうか、昼間は海で遊び、夜は酒を飲んで寝る、晴耕雨読ならぬ昼遊夜酒な日々です。
 それはそれではっきりした価値観ですから、自分の価値観とそりが合わない人というのはもちろんいます。
 まあ、他人のことはどうにもならないので、ぼくはどうでもいいんですが、向こうがこちら側を指導しようとしてくる場合は、なかなか対応がたいへんです。
 だいたいぼくなどは、日々楽しく海で遊べればいいと思っているので、できる限りテキトーにやりたいのです。
 で、世の中にはとてもちゃんとした人がいて、自分がちゃんとしていると自覚していて、そういう自分に自信を持っているので、ぼくのようなテキトーで遊ぶことしか考えていない人を、「指導してちゃんとした一人前の人間にしなくては…」とお考えになっているらしいのです。
 いや、世の中で何がタチが悪いかって、自分が正しいと信じている人の存在です。いわゆる独善的というやつで、これが行き過ぎるとファシズムになります。
 海遊び仲間にはそういう人は少なくて、海で遊んでいるときはシアワセです。
 価値観が近い人と物理的に近くで暮らすというのは大切なことだなあと思います。いやあ思想の問題とか国境の問題とかで人が争うのも無理はないなと思ったりします。
 それで、ちゃんとした独善的な人に絡まれたり、ロックオンされると、不愉快だしろくなことがないので、ぼくとしては、できる限りそういう人には近づかないで暮らしていきたいと思っている今日このごろです。










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旨味醤油を作ってみようかな



 ぼくは魚を見るのも食べるのも好きで、特に刺身が好きです。
 話は変わりますが、スーパーに刺身だまりとかだし醤油とか白だしとか並んでいますね。
 クックパッドにも旨味醤油の作り方が載っています。
 ぼくの近所の定食屋では、大きめの醤油差しがあって、その瓶の中に昆布や鰹節や干し椎茸が入っていて、そこに醤油を加えると旨味醤油ができるようになっています。
 それが結構旨いんです。それで刺身を食べると、醤油の強さがやわらいで、だしの旨味が出て、魚のおいしさが引き立ちます。
 これなら家でできそうだなって思って、今度やろう今度やろうと思いつつ、やらずにいるので、今度やってみようかな、やっぱりやめよかな…













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海辺・焚き火・友との語らい



 焚き火が好きでちょくちょくやります。
 もうちょっというと海辺で酒を飲みながら焚き火をし、友人と語らうのが好きです。
 よくやるパターンは、シーカヤックに荷物を積んで、陸からは行けない入江や島に向かいます。そこでシュノーケリングやシーカヤックをして楽しみます。いい加減遊んで、日が落ちる前にテントを張ります。そして買い出しておいた食材や海で獲った食材で晩飯を作ります。晩飯ができたかなーという頃合いを見計らって、流木などで焚き火を始めます。その頃にはあたりは暗くなっています。
 ビールで乾杯。そして飯。焚き火、潮騒、真っ黒な海、そして夕陽にわずかに照らされた紫色の空。そんな中でポツリポツリと話をします。海遊びと日焼けで気だるくなった体に酒が回ります。焚き火の揺らめきが幻想的です。
 焚き火を囲みながら話をしていていつも思うのは、海での友人との距離感です。どういうことかというと、ウォータースポーツというのは時として危険があります。そんなとき頼りになるのは自分の判断力と体力。いくら友人といっても最後は自分のことは自分でなんとかしなくてはなりません。このことがわかっている人と遊び、酒を酌み交わすのは楽しいものです。一方が他方にいろいろなことを頼ってしまう関係では、お互いが対等に気持ちよく過ごせません。そういう点でいうとぼくのこれまでの経験では、そういう関係が成り立つことが多かったのは男の友人です。女の友人でもそういうタフな人はいましたが、多くはありませんでした。ぼくがわりとハードなウォータースポーツを好んでいたせいもあるかもしれません。海においては、頼られる関係やネチャっとした会話はゾッとします。プライベートの遊びの場でそんなのごめんです。お金をもらってもイヤです。
 もしかしたら日頃の夫婦関係とか会社での人間関係から違う場所に身を置きたいのかもしれません。あるいは根っこの部分でぼくは社会に適合できないところがあるのかもしれません。
 そんな友人とぶっきらぼうに言葉少なに語り合うのが好きです。しかも少し詰めの甘い答えをすると、友人の鋭い軽蔑したような視線が飛んでくるのもスリリングです。ぼくはそんなお互いに厳しい関係が好きなのです。
 やがて夜は更けて寝てしまいます。季節がいい頃はそのまま外で寝てしまいます。アウトドアチェアに座ったまま寝てしまうこともありますし、寝袋で寝ることもあります。海辺の砂浜や草が生えているあたりで寝袋に入って、星空を見ながら寝るのってなかなか気持ちいいものです。









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