海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
ようこそ海辺の暮らしへ
朝、起きてカーテンを開けると青い海が広がっています。
しばらくボーッと海を眺めて、今日の海況を観察したりします。
スキューバーダイビングをしようか、サーフィンをしようか、シーカヤックをしようか、海況を眺めてから決めるのがいつものパターンです。
都会に住んでいた頃は、明日は海に行くぞ!って決めて、朝早起きして、車で渋滞を抜けて海に行きました。海に着いたはいいけど、サーフィンしに来たのに波がなくてがっかりなんてこともしょっちゅうでした。
それが海辺に住んだ今は、朝は仕事に行くときよりもゆっくり起きて、海の様子をチェックしてから、一番楽しめるウォータースポーツを選びます。
今日はシーカヤックをしようかな、って決めても、慌てないようにしています。
海が眺められるデッキで、朝ご飯を食べて、コーヒーを豆を挽いて、丁寧にドリップして味わいます。
そんな風に海に出て、シーカヤックをして、夕方帰ってきてもたっぷり7、8時間は海にいたことになります。
片付けて、シャワーを浴びて、ビールを飲んでいると、近所の知り合いから連絡が来たりするので、そうしたらビーサンをつっかけて、友人の家まで…
そこで雑談しながら、ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒などと杯を重ねます。
またある日は、海が荒れているので、相方と近くの農家まで野菜を買いに行きます。それから漁港へ寄って、揚がったばかりの魚を買いに行きます。今日の夕飯の買い出しです。
大都会のギスギスした暮らしに疲れ気味で、ノンビリ田舎暮らししたいなあ、なんて思っていらっしゃるあなた、どうもこんにちは。
テレビで見た海を眺める暮らしがしたいなあ、なんて思っていらっしゃるあなた、ようこそ。
海辺の暮らしをしたいと考えているのと実際やることの間には、深くて大きな溝があります。でも、その溝を乗り越えて、海辺の暮らしをしてみれば、そこにはゆったりした暮らしが待っています。
海辺に住むにもどんな立地を選ぶかでずいぶん暮らしが違います。立地の選び方については以前書いたものを読んでいただけるとありがたいです。
海は日々様子が違っていて、荒れているときもとても素晴らしいときもあります。海のそばに住んでいれば、素晴らしい海を逃さず楽しめます。
晴れていて、気温が高くもなく低くもなく、海風が爽やかで、気持ちのいい日。そんな日が年に何日かあります。そんな日を逃さず楽しむ時間の価値ははかりしれないものです。
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コンパクトシティって、どの程度のコンパクトさなんだろう?
これからの世の中コンパクトシティが大切になるそうなんですが、ぼくのようにそういうのが苦手な人はどうすればいいんでしょうか?
この間雑誌を読んでいたら書いてありました。
日本はこれから何十年かにわたって、高齢者が多くて若者が少ない社会が続くそうです。そして少子化の影響で人口も減っていくそうです。そうすると地方などでは自治体として成り立たない地域が出てくるかもしれないそうです。そのような社会では、できる限りみんながまとまって近いエリアに住んで、社会インフラとか行政サービスなどを最小限にしながら、そのサービスの税負担を少なくしていかないと、働き手は高税で大変だよ、まったく、暗い話ばっかりだぜ、みたいなことが書いてありました。
理屈としてはすごくわかりやすいなあと思いました。
北海道の町じゃないエリアで一世帯とか数世帯がポツンと住むのがたいへんで、効率的じゃないのはよくわかります。
それで、ぼくとしては、疑問が湧きまして、近いエリアっていうのはどの程度なんだろうなあ、ということなんです。どの程度の規模ならセーフなんでしょうか?
東京の23区とか、都下の市街地くらいなんでしょうか?
それともたとえば浜松市はok?浜松市に特に意味はないですけど…
それともたとえば東金市はok?東金市にも特に意味はないですけど…
じゃあ東京都の日の出町はどう?
って、どうしてそんなことが気になるかというと、ぼくは、東京都下の大きな街に住むのはイヤで、日の出町なら住みたい、って思う価値観の人間だからです。
いくら効率がよくても、あんまり建て込んだゴミゴミ密集したところに住みたくないという人は割りといるんじゃないかなあ。
だし粉って便利ですよね
ぼくの家のそばに漁港がありまして、その漁港に直売所があるんです。今、流行の道の駅的な洒落た直売所じゃなくて、漁協のなんとなく田舎くさい直売所です。
そこは地の魚や地の野菜や手作りの漬物やカップラーメンやお菓子など、コンセプトの甘い品揃えなんですが、値段は安くて、品物は新鮮で、地元の人が愛用している「なかなかやる店」なのです。品揃えが大手のスーパーにあるものと違っているというのも人気の理由かもしれません。カップラーメンなら、日清食品ではなくて、見たこともないようなブランドだったり、お菓子もグリコとかじゃなくて、おしるこサンドとかがあったりします。別に名古屋の漁港じゃないんですけど…おもしろいですね。
で、そこにだし粉が売っているんですね。だし粉自体はテレビで紹介されて一時期人気が出たので、ご存知の方も多いと思います。ただ、その直売所のだし粉はなぜかちょっと安いんです。よくあるだし粉なんですけどね。オリジナルとかではなく…
だし粉って便利ですよね。入れると味わいが深く濃くなります。和風っぽいものなら何に入れてもokですしね。
我が家では、アオサ、すりごま、だし粉は料理のかくし味として多用されています。
味噌汁にひとふり、うどんにひとふり、ラーメンにひとふり、煮物にひとふり、雑煮にひとふり…
ぼくの住みたい海辺は、田舎の漁村
ぼくは海辺に暮らしています。
東京に通わなくてはいけないので、日本全国どこの海辺でも住めるというわけではありません。
せいぜい神奈川とか千葉とかなんです。それでも住みたい海辺というのはあって、できる限りそういうところに引っ越してきました。
ぼくが住み心地がいいなあと思う海辺は、もう、まさしく、ジャストで、ザ・昔からある日本の漁村、というところです。たとえば寅さんが訪れそうな…古いですね…浜ちゃんが行きそうなところ…です。
小さな漁船が港に上げてあって、漁師小屋があって、季節の海藻や魚が干してあって、軽トラが停まっていて、猫が日なたぼっこしているような漁村が好きなんです。
ぼくは漁村の生まれ育ちではないんですが、子供の頃から漁師さんとか農家のオジサン・オバサンと打ち解けるところがあって、それは成長しても変わらず、自分がオジサンになった今となっては、漁師さんと話がはずんで意気投合するようになりました。今では「アンタはいい漁師になれるよー」とまでいっていただけるようになりました(ちょっとウレシイ)。
そんなぼくにとって漁村というのはすごく住みやすいんです。
以前、湘南の鵠沼というところに住んでいましたが、ちゃんとした町で、ちゃんとした住宅街で、どちらかというとちょっと洒落ていて、住んでいる人も中流以上の暮らしをしている場所でした。そこはあまり住み心地がよくなかったんです。なんか気取った雰囲気に馴染めませんでした。
鎌倉にも一時期住んでいましたが、芸術家っぽい人とか、会社員でも高給取りっぽい人とかが多くて、ちょっとなあと感じました。
漁村の何が暮らしやすいかというと、気取らないでいいというところです。
たとえば休みの日に髪の毛ボサボサで、安物の短パン・Tシャツ・ビーサンの黄金の海辺セットで道をブラブラしていても、郵便局に行っても、スーパーに行ってもぜんぜん平気です。
家族で大声でケンカしても、別に近所の人は笑ってますし、ときにはどうしたどうしたと話を聞いてくれたりします。
お祭りや子供の運動会も町中で一緒にやりますし、ぼくはそういうのが好きみたいです。
そういうのって人それぞれの好みなので、たぶん苦手な人は苦手でしょうね。
ガンガンいこう!
「だいたいまともなヤツはサーフィンとかスキューバーダイビングなんかしないんだよ」
ぼくの大学時代からの友人で、現在誰もが知っているような大企業で管理職をやっている人の意見です。
ヤツの真意は、ウォータースポーツというのは危険で、社会でちゃんとした役割があったり、家庭があったりするような責任ある大人のすることじゃない、ということです。
大学時代は仲がよくて、結構無茶なこともしたんですが、ずいぶんつまらない大人になったものです。
ぼくは一応会社で働いていますが、ヤツのようには考えていません。組織というのは不思議なもので、誰が抜けてもなんとか回るものです。今の日本の会社で働くということは、どんどんリスクを取って、これまでにないような局面を切り開いていかなきゃいけないということなので、ちょっとくらい横着なヤツの方が向いていると思います。
ぼくの友人のような保守的なヤツばかりの会社は、そのうち危なくなるんじゃないかって予想します。
とはいえヤツのような考えは、多くの「まともな」社会人の標準的な考え方なんだろうなとも思うんです。ぼくの方が異端であるというのは、なんとなく自覚しています。
できる限りリスクを取らない、できる限り平穏な人生を望んでいる人は結構いるんでしょう。
以前も書きましたが、ぼくはやりたいことをやって密度の濃い人生を過ごしたいと思っているので、そういう「まともな」大人の考え方には反対です。
日本はまがりなりにも自由で民主的な国だということになっていますから、やりたいことをガンガンやればいいんじゃないでしょうか?それで失敗したり怪我したり病気したり死んだりしてもそれが何だというのでしょうか。ぼく一人がどんなに横着なことをしたってたいしたことではないでしょう。
よく父が酒を飲みながら話してくれた「男は、挑戦して失敗してまた挑戦して、心も身体も傷だらけになっても、それでも何もなかったように前に進み続けるものだ」という言葉を、ぼくは最近になって、本当にそうだなと思うようになりました。
ウォータースポーツをしていて、ふと思いを馳せるのは、大海に出ていくのは現代のようなテクノロジーが発達し、情報が十分な時代でも恐怖を伴うものですが、昔の人というのは、木造の小舟で世界中の海を行き来していたという事実についてです。
その勇気、それは勇気だったのか、それとも生きるためにやむを得ずだったのかわかりませんが、その未知の世界に踏み出していこうという挑戦心に、ぼくは驚くのです。畏敬の念を抱くのです。すごいよね…
でも、おそらくそういう無謀ともいえる数々の挑戦と数々の犠牲の歴史的積み重ねのうえに、今のわれわれの生活は成り立っているのは間違いありません。
それは今でいうところの起業とかベンチャーキャピタルとか、そういう既存の枠組み外の挑戦だったのではないでしょうか?
馴染みの喫茶店が閉店してしまった欠落感
ぼくが長年通っていた家の近所の喫茶店がずいぶん前に閉店してしまいました。
長年通っていてこんなことをいうのもなんなんですが、すごい特徴があるわけでもない普通の喫茶店でした。カフェブームが起きて、個性的なカフェが乱立している今だからよけいにそう思うのかもしれません。
海辺の町にあって、海が見えるわけでもなくて、まわりが木々に囲まれていて、少し山小屋っぽくて、薪ストーブがあって、天井が高くて、気取らない、いついっても静かな喫茶店でした。
ただ、不思議なもので、その喫茶店はなんとなく落ち着くんです。居心地がいいので、結構長居してしまうのでした。
人の家に遊びに行ったときも感じますが、その建物が新しくて、高価で、キレイで、こだわりがあっても、居心地がいいと感じるとは限らない気がします。
その空間が居心地がよくなるのは、設計者の意図によるものなのか、施工者の技術によるものか、住み手の生活のしかたにあるのか、あるいはいくつかが混ざりあっているのかはわかりません。
ただ、確かにいえるのは、居心地がいい空間とそうでない空間があるということです。
その行きつけの喫茶店は観光客を相手にした店ではありませんでした。お客はたいてい地元の人でした。混んでいることはめったになくて、馴染みのお客がポツポツといるという感じでした。
コーヒーの香りとゆったりした時間が漂っていました。
なんとなく自宅以外のところで、ゆっくりコーヒーが飲みたいなと思うと、その喫茶店に行っていました。特にすごく行きたいと思ったわけではないのです。なんとなく行っていたのです。ぼくの中では、自宅の別室とか離れみたいな感じでした。
でも、店がなくなった今となっては、なんとなく行く場所がなくなった欠落感が、思いのほか大きいことに自分でも驚いています。
そういうことって、他でもありますよね…

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海辺の田舎町の小さなコミュニティに理想の暮らし方があるんじゃないかな?
ぼくは海と海遊びが好きで、もうかれこれ30年以上も海辺で暮らして、日々海に接しています。思えば遠くに来たもんです。まったく、自分がこんなオジサンになるなんて…
あれ何の話でしたっけ?
そうそう、我ながらよく飽きないものだと思いますし、知り合いからも「そんなに海が好きなんだね」といわれます(その目には少し揶揄っぽい気配が感じられるのは、ぼくのヒガミ?)。
なぜぼくは海が好きなのかというのは、このブログに何度も書いてきたんですが、もう一度まとめてみます。
海のそば(自然のそば)で暮らすことのメリットは次のようなものです。
・自然と接することができる
都会に住んでいると、ついつい自然のことを忘れてしまいますが、地球上に自然と無関係な場所はない(ですよね?)のです。自然はときに優しく人をいやしてくれますし、ときに激しく人の暮らしに打撃を与えますが、人はそうした自然の癒やしと脅威を忘れてはいけないと思うんです。なぜか?人は万能ではないし、その力の限界を自覚することで、向上心とか謙虚さとか身の丈にあったことをしようという意識をメタの部分で直感するから…
そして、自然のそばでそれらを日々実感しながら暮らすことで、自然に癒されたり、謙虚になったりすることができます。
・ルールが少ない、より自由である
人が社会で暮らすためには、ルールが必要です。それはベースの部分は法律だったり義務だったりします。さらに都会という人が密集して暮らすためには、お互いに不快にならないようにするためにマナーを守る必要があります。ベースの法律+マナーが必要なのです。それから人が集まって暮らすと(たとえば町内会とか管理組合とか)組織ができて、役割ができて、責任が生じます。
これは普通の人にとっては、なんてことないかもしれませんが、ある種の人にとってはストレスに感じられたり、息苦しさを伴ったりします。
海という自然の中では、もちろん法律もルールもありますが、それは陸の上や都会ほど多くありません。ぼくのような法律やルールやマナーが多いことに息苦しさを覚えるタイプの人にとっては海というのはとても過ごしやすい場所なのです。
そういえば中学生の頃だったでしょうか、日本は民主主義の国で、国民の自由が保障されていると教わりました。その後大人になって、その自由とやらは法律やルールやマナーや義務や責任でがんじがらめになっているものだとわかりましたが、でも基本的に国民は自由なはずなのです。みんなのモラルがある程度の水準であれば、もっと法律やルールが少なくてもいいかもしれない、そんな自由な場があり得るんじゃないかと空想させてくれるのも海のおかげかもしれません。
・人口密度が低いと人は他者に優しくなれる
以前からなぜだろうと思っていたんですが、渋谷とか新宿みたいな人混みにいるとすごくイライラするんです。そして「ちくしょう。なんでこんなに人が多いんだ」って思うんです。ぼくって異常でしょうか?
それからラッシュの電車は不快ですよね?
人が多すぎるとぼくのようなタイプの人間はすごくストレスを感じます。
でも、人口が数百人というような離島を旅すると、道ですれ違った地元の人にも挨拶したり、困っているようだと声をかけたり、手伝ったりします。
ぼくの仮説ですが、人間は人が多すぎるとそれを減らしたい、逆に人が少ないとそれを多くしたいという本能が働くのではないかと思うのですが、みなさんどう思いますか?
というわけで、人口密度が少ない海辺の町で暮らすとおそらく人はお互いに助け合おうとするはずですし、現にいろいろな土地を旅してそれは事実だと思います。それはつまるところ暮らしやすさにつながるんだと思います。
・自然の恵みを得ながら暮らす
海から獲れる魚介類、海のそばの山や畑からとれる食物、そうしたもので、取りあえず何人かが食べていければそれでいいんじゃないかって思うんです。
経済成長とか今期の売上目標とか使い切れないほどの富とか、そういうものって、もちろんあってもいいですけど、それによって人が楽しくないんだったら要らねーよ、ってぼくは思うんです。
ぼくがここでいっているのは、資本を蓄積しないということです。小さなコミュニティが、そこを維持できるだけのフローだけで成り立てばそれでいいんじゃないの?ということです。
ただ、人によっては、日本のGDPが世界第3位になって、いずれはもっと下がるかもしれない、それは国力の低下で、もっと経済成長のため頑張らねばならない…みたいな抽象的なことをいう人がいますが、ぼくは個人的にそういう議論をする人を信用しないことにしています。
なぜそんな抽象的な議論をさも重要なことのように議論するかがわかりませんし、日本の国力が世界で優れていなければならないという前提も、少子化・高齢化社会が今後数十年続くといわれている日本では、もうキツくなるからやめた方がいいと思いますし、GDPの高さと国民の幸福は必ずしもイコールじゃないとも思います。GDPが高くなっても一人ひとりがシアワセじゃなくてはなんにもならないので、議論の出発点は現実に存在する誰かのシアワセであるべきでしょう。
海のそばで暮らしていると、まあだいたいその日獲れたもので暮らしている人が少しはいたりするので、そういう人を見ていると、ぼくの考えていることもあながち空想とはいえないんじゃないかと励まされます。
・大らかにスローに暮らす
慌てず、些細なことに腹を立てず暮らすことって大切だなと思います。そのことをぼくは沖縄や小笠原の離島や海外の田舎を旅することで実感しました。
島の人達は、のんびりゆったり暮らしています。ぼくはそんな暮らしぶりって豊かだなって思いました。ベンツや高価な宝飾品は持っていませんけど…
慌てること、急ぐことがなぜいけないのか、ぼくの中でまだキチンと整理できていないんですが、それはおそらく締切りとか期限というものに関係しているんだと思います。締切りや期限があるとそれまでに「○○しなければならない」という思考パターンが生まれます。これがいわゆるストレスになるんじゃないかと思っています。
高度に発達した資本主義社会は、この期限を厳格に守ることで効率化していると思っています。そして資本主義社会というのはたゆまぬ成長を求めますから、期限を守ると次の期限が来るというサイクルがどんどん短く過密になってくるんじゃないでしょうか?
慌てない・急がないことは、この過密さを緩和しようということです。そして大らかさは締切りや期限やあるいはもっと広く社会のルールを緩く運用することもある面では大切なのではないかという提案です。もちろん大切なルールは守らなければなりません。ただルールやマナーが細分化されてくると、それを厳格に守ることにストレスを感じる人もいるでしょうし、守らせるためのコミュニティのコストも高くなるはずです。
最も理想的なのは、その人が快適だと感じる厳格さやスピード感が近い人、大雑把にいえば価値観が似ている人が集まって、千人程度のコミュニティを作って暮らすのがいいんじゃないかと思うんです。
・コミュニティの人口が少ないとトータルのコストが低くなる
で、いろいろ書いてきましたが、ぼくが海辺の人々の暮らしを見ていて、もしかしてみんながこんな風な心持ちで暮らしたら、もっと暮らしやすい世の中になるんじゃないか?ということがいいたいんです。
敢えて暮らしやすい日本とはいいません。こうした物事を考えるのに日本っていう単位は大きすぎるとぼくは以前から考えていました。県でも市でも大きすぎて、おそらく規模の単位としては数千人以内ではないかと思います。ちょっとした離島の人口が数百人から千人くらいですから、そういうイメージです。町内会とか学校の単位でもいいかもしれません。
人々の顔が見える単位で物事を考えていって、それの集積が市だったり県だったり国だったりするといいと思います。コミュニティ構成員の顔が見えるというのは、けっこう大切なことです。ここでもたとえは小笠原の母島を旅したことを挙げてみたいと思います。
母島は父島から船で2時間~3時間かかります。父島は東京から24時間かかりますから、まず母島に来ようとする人自体が少ないとえます。民間人が母島に行くためには船しかありません。
母島の人口は約500人です。小学校の全校生徒の数くらいです。大規模な学校だと1学年500人くらいのところはあります。つまり島の人は、島にどんな人が暮らしているのかわかっているということです。顔が見えているのです。
しかも外部から入ってくる観光客は船しかありえませんから、基本的に船の出入りを見ていれば、どんな人が入ってきてどんな人が出ていったかわかる状態です。
そしてその500人の多くは、島の中心地にかたまって住んでいます。
そういう社会では、誰がどんなタイプの人なのかわかっていますし、その人が何をやっているのかだいたいわかっているわけです。
離島の旅が好きなぼくは、離島のだいたいの島で、家や車に鍵をかけないとか、家が留守でもその家の主がどこに居るかだいたいわかるというような光景を見てきました。
そういう島だと、コミュニティを維持するためにみんなが協力しなければなりません。お祭りも町内会の活動も台風対策もみんなでやるわけです。
東京の都心のマンションに住むみたいなのとは全然暮らしが違うのです。都会の暮らしでは隣の部屋がどんな人が住んでいるのかわからなかったり、ゴミ捨て場に変なゴミが捨てられていても誰が捨てたかわからなかったり、町内会の活動をサボってもよかったりします。コミュニティの強制力が弱く匿名性が高いのが特徴です。それは自由であるともいえますが、人というのは、前提として匿名であるのと誰かから見られているかもしれないというのでは、行動が違ってくるんじゃないでしょうか?
都会のマンションの自由さからくるコミュニティの維持コストは、それはたとえばルールを破って捨てられたゴミとか、町内会の活動を維持するコストとかですけど、マンションの管理費や住民税などで賄われているはずです。つまり自由さはタダではないということです。すごく悪いケースですと犯罪が多発したりすれば、警察や消防や役所が対策をするでしょうけど、それだって無料ではありません。
母島のような社会では、コミュニティの強制力が強く、コミュニティの構成員の役割が見えるので、そこで各人が果たしている労力も見えるんだと思います。ちなみに役場の職員だって先生だって、今度はこんな人が来た、あの人は働き者だとかいい人だとか、たぶんわかっていると思います。
何がいいたいかというと都会の匿名性が高いコミュニティの維持コストが行政を肥大化させていて、これが結構大きい負担になっているんじゃないかということです。ちゃんと計算なんかしてませんけど…
そしてそれを解決するために法律やルールやマナーを作っていくと暮らしにくくなったり、係争が増えたりすんじゃないの?と思います。できる限り、一人ひとりのモラルで、コミュニティが回るのがいいんじゃないのかなあー。
ここまで書いてきて、思ったんですけど、ぼくは海辺の田舎町を旅するうちに、民主的で小さなコミュニティを大切にした自由な暮らし方ってあり得るんじゃないかと思うようになりました。そういう理想郷ってありかもと思わせるような魅力が海辺の暮らしにはあるのかもしれません。

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なぜそんなにせかせかしているの?
東京に住んでいる知り合いが、我が家に遊びに来たことがあります。
別にぼくがぜひ来てくれといったわけではなくて、向こうが海を見たいから遊びに行ってもいいかといったんです。この時点でぼくが彼に好感を持ってないことが、みなさんには伝わっているかもしれません。
たぶんぼくだけじゃないと思いますが、人って直感的に相手が自分の世界観に共感してくれるかどうか見抜けるところがあるような気がします。
その知り合いを、最寄りの駅まで車で迎えに行ったんですが、第一声が「けっこう遠いね」です。それから車で我が家まで何十分か、かかります。そしたら「まだなの」です。
家に着いたら、妻との挨拶もそこそこに「海が見たい」というので、海へ行きました。
海に行ったらスマホで海を背景に自撮りで何枚か撮影して、「どこか名所みたいなのはないの」です。砂浜にいる時間は10分、いや5分ちょっとでしょうか…海を見ていた時間は、あれ?海を見てたのかな?
ぼくはビーチで半日でも1日でもボーッとしてられる才能をもっているので、ちょっとこのペースにはついていけないなと思いました。なんでそんなにセカセカ、次から次に何かしないといけないんでしょうか?
これは東京の人みんなが持っている特性ではないでしょうし、その知り合いがそういうタイプなんだと思います。それにしてもすごいですよね。
さて、ここから学ぶ教訓は何か?
なんとかなるさ
生きていると、いろいろ心配なことはありますねえ。大変なこともありますしねえ。責任もありますしねえ。
ぼくのようないい加減でテキトーで気楽な日々を過ごしているヤツはそうでもありませんが、世間一般で、働いている人で、ぼくぐらいの年齢で、かなりの責任を負っている人というのは結構いらっしゃるんじゃないでしょうか?
ぼくは海遊びをやる中で、テキトーだけれでも、生き死にに関わる部分では一応なんとかする、という訓練(自称)を何十年にもわたって続けてきたので、まあよほど「ヤバイ、今回こそは死ぬかも」(自称)みたいな状況になっても「まあなんとかなるさ」と考えられるようになりました。って、「それはお前が元々お気楽な性格だからだよ」という友人もいたりしますけど…
ぼくが好きな言葉で「この世のことはこの世でなんとかなる」というのがあります。ぼくはこの言葉を、今は亡き政治家の金丸さんが話していらしたの聞いて知りました。
金丸さんという政界の重鎮みたいな人が、国を左右するような状況に置かれて、その重圧に負けないでいるという背景を知った上でこの言葉を聞いたので、わりとすっと腹落ちしたんだと思います。
自戒の念を込めて書きますけど、仕事をしていれば、ミスしたりウマくいかなかったり責任を問われたり、いろいろあると思うんですけど、まあそれでどうのこうのということはありません。気にすることもありませんし、それで世の中がどうかなっちゃうということもないと思うんです。国とか自治体とか会社とかいう組織は、結構強いです。特に日本のように、伝統的な経緯を経て、今の組織ができているような国は、ちょっとやそっとのことで組織が崩れたりはしません。なんていったって太平洋戦争で負けたって組織は壊れませんでしたから…
だから「なんとかなるさ」と思うのがいいじゃないでしょうか。そしてどちらかというと組織に個人が押しつぶされないように注意する方がずっと大切なことじゃないかと思うんです。
もちろん自分のプライドの問題として、この程度のことをミスして自分が許せないという人もいるかもしれません。ぼくからいわせると、そんな生きるのにたいへんそうなプライドなんて捨てちゃえ、ということになりますけど、きっとそうもいかないんでしょう。できるところまで頑張ってくださいね。
人の生死に関わることだとなかなかに重大事項ですけど、某電力会社の元責任者で、原発事故で非常に多くの人に迷惑をかけても、(たぶん)平気な顔で生きている人もいる(少なくとも責任を感じて自殺したという話は聞かないので…いやすごいよね…図々しくて…)くらいですから、それくらいの事故までは、(たぶん)okです。それくらい面の皮が厚くないと、世の中渡っていけません。世の中図々しい人は掃いて捨てるほどいるので、マジメすぎる人は、そういう人の存在を考えて、自分のマジメさを中和するといいじゃないでしょうか?
ぼくが住んでいるあたりは、少し足をのばすと鎌倉があったり、三浦氏の城趾があったりします。鎌倉街道があったり大山街道があったり旧東海道があったりします。
ウォータースポーツをしながら、1000年くらい前にもこのあたりには人がいて、戦争をしたり、勢力争いをしたりしていたんだなあ、でも人々は日々の暮らしを営んでいたんだろうなあ、そして日々の暮らしの中で、悩んだり苦しんだりしながら、生まれて死んで、そういうのが続いてきたんだろうなあ、なんて思ったりするんです。
それでも変わらず、多少は地形は変わったかもしれませんが、海はあったでしょうし、三浦半島はあったでしょうし、江ノ島もあったでしょう。
個人から見れば、心配や不安や責任って事実として感じられることなんでしょうけど、自然や人間の営みから見れば、それは泡沫のようなもののように思えます。
まあ、なんとかなるし、なんとかならなくても大したことじゃないし…
ぼくが住んでいるあたりは、少し足をのばすと鎌倉があったり、三浦氏の城趾があったりします。鎌倉街道があったり大山街道があったり旧東海道があったりします。
ウォータースポーツをしながら、1000年くらい前にもこのあたりには人がいて、戦争をしたり、勢力争いをしたりしていたんだなあ、でも人々は日々の暮らしを営んでいたんだろうなあ、そして日々の暮らしの中で、悩んだり苦しんだりしながら、生まれて死んで、そういうのが続いてきたんだろうなあ、なんて思ったりするんです。
それでも変わらず、多少は地形は変わったかもしれませんが、海はあったでしょうし、三浦半島はあったでしょうし、江ノ島もあったでしょう。
個人から見れば、心配や不安や責任って事実として感じられることなんでしょうけど、自然や人間の営みから見れば、それは泡沫のようなもののように思えます。
まあ、なんとかなるし、なんとかならなくても大したことじゃないし…
という具合に、心配や不安や責任という心理的な課題を、社会的・歴史的なことから考えたら少しは楽になるかなーって思って書いてみたんですけど、説得力ありますかね?
遊びに真剣になれるなんてすごい
ずっとウォータースポーツをしてきて、いつもすごいなあと思うのは、新しいウォータースポーツってだいたい海外、それも欧米から入って来ることです。
たとえばカイトサーフィンというのがありますけど、あれってサーフィンとウインドサーフィンとパラセイリングを合わせたようなスポーツです。
準備もたいへんだし、器材も大仕掛けです。やっている人が少ないから器材も選択肢が少なくて割高です。
それを大の大人がマジメに一生懸命やっているというのがすごいなあと思うんです。そしてだいたい新しくできたウォータースポーツは、当初はあり合わせの道具を転用していて、使いにくいところを改良しながら専用の道具ができていくんですよね。だから当初は、道具類も手作りだったりすることが多いんです。そういうところもすごいなあと思うんですよね。
遊ぶためにそこまで労力をかけるか?っていつも思います。それがすごいなあって…
そしてそれが普及して、みんなが参加するスポーツになって、大会が開かれて、スポンサーがついて、ビジネスになる、文化になるそういうのがすごいと思うんですけど…
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