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あーっ、ノンビリできない!



 ぼくはこれまで海辺でノンビリしようとか、ダラダラしようということを書いてきました。それにはちょいとわけがありまして、それを自分でも改めて自覚したので今回まとめてみようと思います。
 自分でいうのもなんですけど、ぼくは家でも(一応会社でも)いろいろのことをテキパキやる方じゃないかなあと思っています。
 生来せっかちだし、自分のまわりがちゃんとなっていないと気持ち悪いというのがあります。旅行に行ってもやたら予定をパンパンに詰めるヤツっているじゃないですか。あれです、ぼくは…
 同じタイプの方ならわかっていただけると思いますが、そういう性格の人って、作業に終わりがないんです。家でも掃除したり整理したいところとってほぼ限りなくあるわけですし…
 だからどこにいてもボーッとすることができないというのが、だいたい20代くらいまでのぼくの悩みでした。

 この性格は仕事をするようになってから身についた気がします。それまではどちらかというとのんびりとボーッとしているタイプだったのです。
 仕事をするようになって、やらなければいけないことが山ほどあって時間があると今のうちに前倒しでやれることはないか考えてしまうようになりました。そうするとさっきの話のようにやることはほぼ無限にあるので、ボーッとする時間は皆無になります。

 ちなみに余談ですが、仕事というのはテキパキやる人のところに集まってくるので、その人はほぼ永遠にのんびりできなくなります。

 で、30代になって、イヤちょっと待てと、オレはいつからこんな風になっちまったんだ、もともとノンビリゆったり生きたいがためにウォータースポーツをやるようになって、海辺にも引っ越したんじゃないか…いったいオレは何をしているんだと…

 そういうぼくが考えた策というのが、一日のうちにボーッとする時間をとるというものです。わざわざ意図的にボーッとする時間を設定するのです。
 たとえば休日に朝起きて食事をした後コーヒーを飲むことにしているんですが、そのコーヒータイムが、ボーッとする時間です。

 ぼくなりにボーッとする時間を過ごすコツみたいなものがありまして、それはコーヒーを飲む以外のことをしないということです。とはいえ、音楽はBGM的に聴くようにしています。TVも見ないし雑誌も読みません。

 天気が好ければコーヒータイムはデッキで過ごすようにしているんですが、他のことをしないと決めると、コーヒーの味に集中でき、海を眺めたり、木々を眺めたり、波の音を聴いたりして、周囲に注意を払うようになり、だんだん自分の来し方行く末を考えるようになります。
 こうして、○○しかしないという時間を作ると、普段いかに自分がマルチタスクをして気を散らしているかに気づかされます。

 でも、ぼくはせっかちなのでコーヒータイムも長くて30分くらい。だんだんやらなきゃいけないことが頭に浮かんでじっとしてられなくなるのです。














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たいていのことは大したことじゃない



 日々過ごしていると、まあ大小併せていろいろありますね。
 ぼくも知り合いからは、大らかであまり動じないタイプだといわれたりしますが(たぶんおおざっぱで能天気なヤツだという意味だと思いますし、実際そうです)、それでもいろいろあります。
 小さなことでは、犬の散歩の人がうちの家の塀に犬の小便をさせるということから、中くらいのことでは、海で死にそうになってなんとか生きて帰ってこれたこと、大きなことでは、家族や自分の健康のことでしょうか…
 で、いろいろある~それが気になるとか、それに腹が立つとか、それが不安だとか~と認識することの元は自分の価値観だったりします。自分がこうあるべきだとか、これが常識だと思っているので、そうじゃないことが気になるのでしょう、たぶん…
 自分の当たり前が他者にとってそうではないことは、冷静に理屈で考えればわかります。でも人が生きていく上で自分の価値観は必要なわけで、日常生活では、その価値観をついつい他者に当てはめてしまいがちなので、周囲のことに腹が立ったり、気持ちがモヤモヤすることがあるのでしょう。わかっちゃいるけど、忙しい日々の生活の隅々まで、聖人君子のようにしてはいられないというところでしょうか?
 ぼくにとって自分の常識を他者に当てはめてしまいがちな状況を調整する役割を果たしているのが、海でボーッとすることです。
 海でボーッとする間にいろいろ考えるんですが、まず最初に考えるのは、海という自然の大きさと力です。ぼくは海辺に住んでいるので、これまでかなり大きな台風をいくつか経験しましたが、ある台風で、近くの防波堤が丸ごと壊れて、港のコンクリートが剥がれて、地形が変わってしまったことがありました。
 人間が当たり前の地面だと思っているものも、自然の力にかかると簡単に変わってしまうということに、呆然とすると共に少し笑ってしまいました。当然のことながらある土地は消滅し、新しい土地ができたりします。そんな状況では、人間の所有権とか土地の登記とかってすごく儚いものです。強い言葉を使うとすれば、何かの冗談かと思いますし、バカバカしく感じたりもします。社会の常識というのはかくも脆弱な基盤の上に成立しているんだなと思います。
 蟻を見ていると、せっせと蟻塚を作ったりしますが、それが雨で流されそうな場所にあると、よくやるよなあって思いますが、まあそれと同じようなことを人間もしているんでしょう。
 もうひとつ考えるのは、自然と人間の時間の尺度の違いです。人間の寿命はせいぜい100年で、それを基準に制度とか建物とかを作ってしまいます。歴史のうえで300年前とか500年前って相当昔のことに思えますが、自然って何千年とか何万年という単位で動いているので100年という単位は誤差みたいなものかもしれません。
 具体的には、この100年で火山噴火が何度も起きて活動期に入ったという説があったとしても、それってたまたまそうかもしれないわけです。あるいは、ここ100年くらい何もなかったから安全な土地だと思っていた海辺に市街地を作ったけれど、実は自然の歴史から見れば、そこは海だった期間の方が長かったということもあります。
 これもわれわれの時間感覚という常識が、実は相対的な長さのものであることを痛感する事例です。
 ぼくはこうやって自分の暮らしている社会や時間を引いた目で見ると、気持ち的に楽になることが多いです。無力感とか無常観にはならなくて、気楽さにつながります。人間の社会で起きる大したことって、実はそんなに大したことじゃないかもね、って思えたりします。











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台風が来ると緊張します



 海辺に住んでいる者として強敵なのが台風。
 今年もやっと台風の季節が終わろうとしていますが、最近は結構秋になっても台風が来るので、大丈夫かな?と思ったりしますが…

 台風が来る度に、物を飛ばされないようにしたり、通過後は家や車の潮を洗い流したり、いろいろたいへんなのです。
 今のところそんな経験はありませんが、屋根が飛ばされたり、窓ガラスが割れたり、崖崩れが起きたり、高潮に襲われたりといった命に関わる被害もあり得ます。
 実際被害に遭われた方もいらっしゃるわけで、とてもたいへんだろうなと思います。
 それでもなお、ぼくは子供の頃から、台風が来ると怖い気持ちと緊張感と少し高揚する気持ちがない交ぜになるのです。
 あれは危機を前にアドレナリンが出て、災害に備えようとするのでしょうか?
 台風に備え家族を守ろうとする、家長としての殊勝な使命感がかき立てられるのでしょうか?
 あるいは気圧の急低下で、少し頭や感情がブレているんでしょうか?
 不思議なものです。
 よく台風が来るとテレビでは、危ないから海には近づかないでくださいといっているのに、中継されている海にサーファーがいたりしますが、あの気持ちはわからないでもありません。実際はしませんけど…











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住んでいる人の顔が見えるお付き合い~田舎暮らしの風景~



 田舎の海辺暮らしの日常のちょっとしたしたことを紹介します。
 ぼくの住んでいるあたりは、車で5分くらいのところにスーパーマーケットがひとつ、ドラッグストアがひとつ、コンビニがふたつです。自転車なら行けますが、歩いていくのはちょっと躊躇する距離です。
 田舎暮らしのわりには比較的便利な立地ではないかと、自分としては思っています。気分的にはもう少し田舎でもいいかなーと思っていたりして。
 そんな環境ですので、お店に行くと店員の人はたいてい知った顔です。というか同じ町内の人もいますし、うちの相方とママ友だったりします。なので、世間話もしますし、何を買ったかもだいたいわかってしまいます。ぼくと相方はそういうことは気にしないタイプですが、そういうのがイヤだという方は合わない土地かもしれません。
 多かれ少なかれ田舎で暮らすということは、近くの家庭の様子がなんとなくわかるという面があるのではないでしょうか…だからこそお互い声をかけあったり、助け合ったり、見知らぬ人が来たらすぐにわかるというような田舎暮らしのよさにもつながるのでしょう。
 ちなみに郵便局の配達の人も宅配便の人も顔がわかります。なので、近所を歩いているときに宅配便の人に声をかけられて荷物を渡されるとか、スーパーを出たところで、郵便配達の人に「お届け物があるんですけど、今日は夕方家にいますか?」なんて訊かれることもあります。これもイヤな方はいらっしゃるでしょうね。好みはあると思います。
 逆にぼくは、道を歩いている人が誰かわからないとか、近所に誰が引っ越してきて誰が引っ越していったかわからないとか、マンションの同じフロアの人がどんな人かわからないというような暮らしは苦手ですし、そちらの方が怖い気がします。











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人の評価を気にしてたら海遊びなんかしてられねえよな



 海辺の田舎暮らしが好きです。って、これまでもさんざん書いてますけど…
 海が好きだし、海で遊ぶのが好きです。これもしょっちゅう書いてますけど…
 ところで世の中にはいろいろな人がいますねえ。当たり前ですけど…
 うちのあたりは昔の別荘地区です。都市近郊の旧別荘エリアがたいていそうであるように、うちのあたりも今や普通の住宅地になっていて、住んでいる人も別荘族ではなく、定住者です。
 それでも、まだ別荘的に使っている人もいます。
 先日こんなことがありました。
 町内で、以前から別荘だった建物がしばらく使われていなかったんですが、最近新しい建物に建て変わりました。そして、熟年の夫婦が土日に住むようになりました。ちょっとしたきっかけで話をしたところ、有名な商社を定年されて、今は別な会社に、天下りじゃないけど、(たぶん、かつての会社と肩書きの力で)役員として通っている方だそうです。
 いわゆる別荘族です。
 この人が、なんというか説明が難しいんですが、ちょっとした会話の中でいちいち偉そうというか大仰な人なのです。そして他人を小馬鹿にしたような、そういう感じの人です。会話の中に「○○(商社名)では…」とか「ドイツに駐在していたときには…」って入れ込んできます。そういう人っているでしょう。
 まあ、想像できると思いますけど、今のところ海辺の田舎の地元民のコミュニティには馴染めてません。
 よく移住するときの注意事項のひとつが、現地のコミュニティに馴染めるかがポイントだという話を聞きますが、「あぁ、それってこういうことをいってるんだろうな」と実感できるケースです。
 この人の場合別荘族なので、別に地元に馴染まなくてもいいと思っているかもしれませんけど…
 さて、ここでいろいろ振り返って思うのは、いろいろな人がいて、いろいろな価値観があるよなあ、ほんとにさあ、ということです。
 この元商社マンにしてみれば、ぼくら地元民は田舎者で、学歴もたいしたことがなくて、パッとしない暮らしをしているという風に見えているのかもしれません。
 エコでロハスでナチュラル(最近あんまり聞かなくなりましたね)な海辺の暮らしを望んで移住した人からしてみれば、この元商社マンは、世間一般の価値観に縛られたつまらない俗物に見えるのかもしれません。
 結局自分がシアワセならそれでいいんじゃないの…ということなのかな…
 他人の評価とか気にしてるととてもじゃないけどやっていけません。












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海辺に住まう女性の美しさ



 ぼくが普段接するような地元のママ友とか海遊び仲間の女性は、東京にいる女性とは感じが違います。ぼくはそういうのって疎いのでどう表現したらいいのかわかりませんが確かに違います。
 田舎っぽいというのではありません。
 自分のライフスタイルとか好きなものとかがハッキリしている人が多い感じです。
 都会では、肌や化粧やファッションにすごく気を遣っているんだけど、そんなに惹かれない、イライラしている、楽しそうではない、幸せそうではない、そんな女性を見かけたりしますが、それとは正反対の感じです。
 道端やスーパーで会ったりして雑談しますが、Tシャツに短パンとサンダルで、化粧は薄く、髪はざっくり束ねていたりしますが、キレイだなって感じる人はたくさんいます。ぼくの好みとして飾りすぎていない女性の方がキレイだなと感じるせいもあるかもしれません。ずっとウォータースポーツをしてきたので、そこにいる女性というのは陽に焼けて、髪も潮に焼けて、健康的で、タフな人が多かったのです。そしてそういう女性をキレイだなと思うことはしばしばありました。
 ぼくの見た目の感想としてはそんな感じなんですが、事実として知り合いの女性がどんなことをしているかというと、ヨガ、SUP、サーフィン、スキューバーダイビング、ジョギング、ウォーキング、フラダンス、ハワイアンキルト、アロマテラピー、ガーデニング、パンを焼く、お菓子作り、マクロビなどなどで、みなさん自分の趣味やこだわりがあるようです。
 家とかインテリアはナチュラルなものを好む人が多いように見えます。華美ではないけれどもこだわりがある感じです。
 ぼくの近所の女性の傾向といっても、ぼくの妻の友人などと話すことが多いので、年代としては偏っているかもしれません。ただ中年といわれる世代ではありながら、キレイな人はキレイで、しかもそれは外面だけでなくて内面から出ているキレイさを持っている人が多い気がいます。
 女性の美しさというのは、いろいろで、なかなか奥が深いようです。













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田舎に住む人から都会の人を見ると、こんな風に見えているかもしれません…



 うちは海辺の田舎にあります。
 こんなところですが観光客の人が来ます。
 観光客…主に都会…ていうか東京…から来た人はなんとなくわかります。歩いている人でも車で走っている人でも…
 それはたとえば着る物がちゃんとしているとか、セカセカしているとか、前に前に行こうとする感じとか、前の車との車間が狭いとか、入りたがっている車を入れないとか、そんなちょっとしたことでなんとなくわかります。
 ぼくは離島を旅するのが好きで、三宅島なんてよく行くんです。三宅島にある雑貨屋(スーパーという佇まいではないけど、なんでも扱ってる店)なんて、島に2軒(だったはず)しかなくて、店の人もヒマなときは奥に引っ込んだり、店の裏で作業をしてたりします。島の店なんてそんなもんです。
 あるとき見かけた光景なんですが、店の人がレジにいなくて、そこにいかにも観光客というオジサンが買う商品を持ってレジ前で待っていたわけです。たぶん5分くらいだったと思うんですけど、店の人がレジに戻ってきたらそのオジサンが「何やってんだ。客を待たせるとは何事だ。そんないい加減な対応は東京ではありえないぞ。」って怒っていました。
 いやはや、東京に住んでいる人がみんなそうだとはいいませんけど、「都会に住んでいるとこういう風になるのかな? けっこう深く病んでるなあ。」と思ったものです。ぼくはそうやって時間に追われるのから逃げたくて島に旅に来てるんですけど、その島でそんな光景を見るなんてイヤだなーと思いました。
 三宅島なんてまだちゃんとしている方で、沖縄の離島とかに行くと、店のオバアが近所のオバアと縁側で話込んでいて店に全然出てこないということはけっこうあります。そうすると客は欲しい商品をとって、その代金をレジらしきテーブルに置いていくわけです。別にそれでいいじゃん。
 ここまで極端じゃなくても、高速道路を走っていて、都会のナンバーの車がすごく急いで走っていたり、前との車間が短かったりする様子を見たことがある人は多いんじゃないでしょうか? それともそれはぼくがそういう目で見ているからでしょうか?
 ぼくの、もしかしたら偏った見方かもしれませんけど、人が過密に住むところでは、「他の人より先に」とか「他の人に負けなように」とか「自分が損しないように」といった気持ちが、心の芯の奥まで染みこんでいるんじゃないんでしょうか?
 ぼくが以前東京に住んでいて、住むのがイヤになって海辺の田舎町に引っ越したのは、そのあたりが理由な気がします。周囲がそうなので暮らしづらいのと、自分もだんだんそうなってしまいそうでそれがイヤだったのと両方の気持ちがあったように思います。それは具体的には、通勤電車のラッシュとか、道を車で走っているとすごく狭い車間のところに割り込んでくるとか、近所のスーパーで買い物するだけなのにレジに長い列ができている(当然ながらときどき横入りする人がいてイザコザが起きる)とか、カフェで席を取るために置いておいた本が数分の間に盗られてなくなっていたりとか、ATMでキャッシュカードの磁気がおかしくなっていて、スムーズにお金が下ろせず、後ろの人に文句いわれたりとか…すごく細かいけれど決して気持ちがいいとはいえない出来事が積もり積もってイヤになったのだと思います。
 日本のいろいろな地方を旅していて、県庁所在地くらいの規模の都市でも住んでいる人は結構のんびり暮らしていたりします。ゆったりした町と少し足をのばせば豊かな自然があって、実質的な暮らしやすさは東京よりもいいように見えました。何かに追われるように急いでいたり、他人を追い抜こうとしたりするのは、東京と関西の都市部の人くらいじゃないかなあとぼくには思えます。仮に、日本の大多数の生活者が、東京とか関西の都市部の人とは違った感覚で日々暮らしているとするならば、さっきのオジサンはもしろ少数派だといえるかもしれません。オジサン自体は東京が中心で、そのやり方がスタンダードだと思っているんでしょうが…












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なんとかなるさ…



 ぼくはウォータースポーツをします。で、あまりスポーツをしない同年代のオジサンから質問されることがあるんですが、それは「危なくないですか?」というものです。それが質問回数最多です。
 で、まあその質問のニュアンスというか言外にある意味が「あなたは社会人として、また妻子がいる身として、そんな危ないことをして、それで何かあった場合に残された家族や仕事に対する責任をどのように考えているのか」というイヤミというか批判です。
 まあ、社会の普通の常識人としてまっとうな指摘ですが、こうした保守的なヤツがいるから日本ってカタくて、イノベーティブなモノが生まれないんだよなーとも思います。

 ぼくは大学生の頃からウォータースポーツをしてきました。もうずっと…かれこれ30年くらいになるんですね(あぁ歳をとちゃいましたね)。こうなってくるとウォータースポーツというのは、趣味と表現するには軽くて、ぼくの生き方を語るうえで重要なパーツであり、ライフワークって仕事ではないですけど、まあそれくらいの意味を持つようになってきました。
 もちろん危ないですが、ウォータースポーツがない暮らしなんて、ぼくらしくないです。ぼくからウォータースポーツを取ったら、ぼくではなくなってしまいます。と、まあそんな感じなのです。
 そして危ないですが、そしてこれは山登りをする人や冒険をする人もよくいっていることですが、危ない遊びというのは無事に生きて還ってきて、初めて成功といえるのです。
 だから危なさに対してはけっこう準備しています。しかし、危ない遊びをしない普通の人からすれば、なぜそんなことをするのか?と尋ねられるのですが、それは楽しいからです。
 そして、危ないと思われることでも、やってみるとそれほど危なくないことが多いのです。まあ、なんとかなるんです。
 危ないからちゃんと生きて還ってこれるように準備をして海に出るわけですが、まあそれほど危なくないことが多くて、まあなんとかなるさ、ということです。もちろん万全ということはなくて、準備した以上の危険なことが起きることはあると思います。
 でも、それって(準備した以上の危険に直面することは)ぼくからすればちょっと近所のコンビニに買い物に行って、途中で、スマホ見ながら運転している自転車に轢かれて運悪く死んでしまうよりは、ずっとマシなことだと思うんですが、その感覚ってわかってもらえるでしょうか?
 危ない海に出てもなんとかなることが多いけど、何気ない日常に潜んでいる危険はどうしようもできない…
 そう、今回いいたいことは、生きていく上で、ぼくは「まあ、なんとかなるさ」と思って生きていますが、一方でいつ何が起きるかわからない、「ぼくにはコントロールできない」とも思っています。その2面性です。生きる上でのリスクの2面性。その2面性に対するスタンスのとり方って人によって結構差があるんじゃないでしょうか? もちろん良し悪しではなく…











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自然に接するのが好きな人とそれほどでもない人



 海辺で潮風に吹かれながら、太陽を浴びて、ウォータースポーツをしたり、ビールを飲んだり、庭の手入れをしたり、ビールを飲んだりしていると、心の芯からリラックスできるワタクシです。
 ぼくは自然の豊かなところにいるとリラックスできる実感が常にあります。それってぼくだけかなあ?と思っているんですが、相方に訊くと彼女もそうだといいます。ぼくは海辺の田舎町に住んでいるので、周囲の友人もそういう価値観の人が多いんです。
 でも、会社の人、特に若い女性なんかに訊くと「それムリ」とか「虫とか嫌じゃないですかあ」とか「たまに遊びに行くなら…」とかいう答えが多いんですよね。
 とすると、自然が好きな人と町が好きな人がいるんでしょうか?
 それとも年齢とか経験によってだんだん自然が好きになっていくんでしょうか?
 あるいはライフスタイルによって、好みの場所が違うんでしょうか?
 そもそも、なぜぼくはそういうことが気になるんでしょう? 思えば、ぼくと相方は結婚してしばらく東京の町中に住んでいました。で、なんとくなく暮らしにくいという感覚がありました。というかイライラしてました。で、子供を授かって、絶対東京で子育てはムリだねということで、海辺の田舎に引っ越したのです。今でも、あのまま東京に住んでいたらどうなっていたんだろうと思います。
 ぼくはそれぐらい都会の暮らしにストレスを感じるタイプです。海風があたるところ、木々に囲まれたところにいると、ホッとします。
 古今東西、自然の中の暮らしを愛した人は大勢いて、ぼくは自分の価値観が似ているから、そういう情報ばっかり選んで目にしますけど、そうじゃない人ももちろん大勢いて、そういう人達は、都会の暮らしにストレスを感じていないんだなあと思うのです。

 それってなかなかの価値観の違いですね。いや、いろいろみんな価値観は違いますけど、ここにもあったか…という感じです。













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一意専心、無責任道に精進してまいります



 常日頃「ボクはだらしない人間です」「いい加減な人です」「テキトーな人です」「無責任な人です」「道楽者です」といい続けています。
 思い出せば、小学生の高学年くらいから大学に入る頃までは、人並みにはちゃんとしようと努力していたのでした。大学でいろいろな友達と遊ぶうちに、ぼくよりも優秀で、しっかりしていて、マジメな人はこんなに大勢いるんだから、まあ自分はそこまでしなくてもいいんじゃないか、と気づいたのでした。それからは自分が選択できるんであれば、できるだけ役割とか責任みたいなことを背負わないでいこうと暮らしてきました。
 さらに思い出せば、大学の頃にサーフィンを始め、スキューバーダイビングを始め、ぼくの交友関係はウォータースポーツやアウトドアスポーツ関連に広がっていくわけですが、そうした仲間はみんな自由に見えました。もちろん彼らはいわないだけでそれぞれいろいろあったんでしょうが、少なくとも、ぼくからはぼくより自由に見えたのです。
 ぼくにとって大学時代というのは、生き方とか集団でのポジションの取り方の転機だったんだなあと思います。
 もちろんぼくもまったく責任を果たさないわけではなくて、約束の時間を守ったり、冠婚葬祭には参列したり、税金を納めたり、運転免許証の更新をしたり、カードの支払いはちゃんとしたり、一応家族がいたりして、役所の住民票には世帯主(それを見るたび違和感を感じます。いえいえそんな世帯主なんてオソレ多い。そんなそんな、まあまあ…)なんて書いてあったりします。
 これはフツーで当たり前だという見方もありますが、いやいや、ぼくの友人には約束の時間どおりに来たことがないヤツは大勢いますし、世界や日本の津々浦々を転々として、住所がほぼ不定なヤツもいますし、付き合っている女性がいて子供もいるけれども籍は入っていないというヤツもいます。冠婚葬祭は面倒くさいからと肉親のにも出席しないヤツもいます。
 いや、彼らを褒める気はないんですが、人間ってけっこう自由になれるっていうことをいいたいんです。
 そんな彼らに共通しているのは「他人にどう思われるかを気にしない」ということです。これができれば人はかなり自由になれるんだなって、ぼくは大学時代に気づいたのでした。それは遅いともいえるし早いともいえるでしょう。
 ただぼくの未熟なのは、それに気づいたのに、徹底して実行できず、まあまあフツーの社会人であろうとしたことです。思えばそのあたりがぼくのミスでした。もう少しで「夢を追いかける自由人」になれたのに…あぁ一度の人生を取り返しのつかないことをしてしまいました。
 ただ何事もやってできないことはありません。ぼくも今からでも日々の稽古で「他人にどう思われるかを気にしない」ことを徹底して「夢を追いかける自由人なオジサン」になれるよう一意専心、無責任道に精進してまいります、と思うのです。











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