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一意専心、無責任道に精進してまいります



 常日頃「ボクはだらしない人間です」「いい加減な人です」「テキトーな人です」「無責任な人です」「道楽者です」といい続けています。
 思い出せば、小学生の高学年くらいから大学に入る頃までは、人並みにはちゃんとしようと努力していたのでした。大学でいろいろな友達と遊ぶうちに、ぼくよりも優秀で、しっかりしていて、マジメな人はこんなに大勢いるんだから、まあ自分はそこまでしなくてもいいんじゃないか、と気づいたのでした。それからは自分が選択できるんであれば、できるだけ役割とか責任みたいなことを背負わないでいこうと暮らしてきました。
 さらに思い出せば、大学の頃にサーフィンを始め、スキューバーダイビングを始め、ぼくの交友関係はウォータースポーツやアウトドアスポーツ関連に広がっていくわけですが、そうした仲間はみんな自由に見えました。もちろん彼らはいわないだけでそれぞれいろいろあったんでしょうが、少なくとも、ぼくからはぼくより自由に見えたのです。
 ぼくにとって大学時代というのは、生き方とか集団でのポジションの取り方の転機だったんだなあと思います。
 もちろんぼくもまったく責任を果たさないわけではなくて、約束の時間を守ったり、冠婚葬祭には参列したり、税金を納めたり、運転免許証の更新をしたり、カードの支払いはちゃんとしたり、一応家族がいたりして、役所の住民票には世帯主(それを見るたび違和感を感じます。いえいえそんな世帯主なんてオソレ多い。そんなそんな、まあまあ…)なんて書いてあったりします。
 これはフツーで当たり前だという見方もありますが、いやいや、ぼくの友人には約束の時間どおりに来たことがないヤツは大勢いますし、世界や日本の津々浦々を転々として、住所がほぼ不定なヤツもいますし、付き合っている女性がいて子供もいるけれども籍は入っていないというヤツもいます。冠婚葬祭は面倒くさいからと肉親のにも出席しないヤツもいます。
 いや、彼らを褒める気はないんですが、人間ってけっこう自由になれるっていうことをいいたいんです。
 そんな彼らに共通しているのは「他人にどう思われるかを気にしない」ということです。これができれば人はかなり自由になれるんだなって、ぼくは大学時代に気づいたのでした。それは遅いともいえるし早いともいえるでしょう。
 ただぼくの未熟なのは、それに気づいたのに、徹底して実行できず、まあまあフツーの社会人であろうとしたことです。思えばそのあたりがぼくのミスでした。もう少しで「夢を追いかける自由人」になれたのに…あぁ一度の人生を取り返しのつかないことをしてしまいました。
 ただ何事もやってできないことはありません。ぼくも今からでも日々の稽古で「他人にどう思われるかを気にしない」ことを徹底して「夢を追いかける自由人なオジサン」になれるよう一意専心、無責任道に精進してまいります、と思うのです。











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もう少し自由に大らかに暮らしたい



 幼い頃学校で「人間は独りでは生きられない社会的動物です」と教わったのです。
 まあ、それはそうですね。
 みんなで集まって暮らすために法律ができルールができマナーがあるんだと、ぼくは思っています。だから、おそらく、そうした法律とかルールとかマナーって、社会の多くの人がよい・大切・公平・快適であると考える基準でできているはずだとも思っています。ということは多数派ではない人にとってはよくなかったり、大切でなかったり、公平でなかったり、快適でなかったりすることがあるということです。
 もし仮に、価値観や生活のあらゆる面で標準的で多数派な人がいたとしたら、そうした人は暮らしやすいでしょう。
 ぼくはわりと少数派な生き方をしてきたと思っているので、いろいろルールとかマナーがあってツライなと感じることがあります。もうオジサンなのでだいぶ慣れてしまいましたけど…
 いえ、ほら、ちゃんと法律やルールは守りますけど、マナーみたいなレベルまでくると、今でもけっこう息苦しさを感じます。
 細かいんですけど、たとえば、それはスーパーなんかに行って駐車場で白線に沿ってちゃんと車を停めるとか、道を歩いているときに右側(左側?)通行するだとか、家や車や自転車に鍵をかけるとか、ホームで電車を待つときは線に沿って並べとか、ズボンの下にパンツを履くとか、大人の男がちょっとしたレストランに行くのに、ビーサン・短パン・Tシャツでは行ってはいけないとか、朝からビールを飲んではいけないとか、寝るときは家でベッドや布団で寝なければならないとか、盆暮れにはお中元やお歳暮を贈るとか、年賀状を12月何日までに投函せよとか、ホテルのビュッフェ形式の食事で皿に自分の好きな物を取り分けるのに順番に並ばなければいけないとか、好きな肉ばかりたくさん取っちゃダメだとか…えーっとオレってだいじょうぶかな…
 ねえそんな細かいこと誰が決めたの? 別になくたって誰も死なないし、誰にも迷惑かけないでしょう。いやそれぐらいはいいことにしようよ。などと思うことがときどきあります。
 細かいマナーにうるさい人を見ると、そういうこといってる時間があったら、世界の紛争地帯に行って平和貢献活動でもしてこいと、筋の通らない憤りを感じたりもします。あんた平和でハイコンテクストな文化の日本で暮らしてるからそういうこというんだよ!とも思ったりします。
 要するにもう少し自由に大らかにできないかなーというのがぼくの思いです。
 でもそれってあんまりやると少数派や弱者にしわ寄せがいきますし、難しいところです。自由さと大勢の人の快適さとは裏表ですから…
 そんなに自由に暮らしたいんだったら人がいない辺境に住めばいいわけですが、たぶんそれってぼくにはムリです。
 ぼくが現実的にあり得ると考えているのは、あまり人が多くない田舎に住んで、個人の自由と社会的ルールのバランスをとるということぐらいです。
それのひとつとして海辺の田舎町に住んでるわけです。海は陸よりはルールがユルいですから…
 みんなが知っている歌で、みんなそれぞれ個性があって、一人ひとりが世界でひとつだけの花なんだから尊重し合いましょう、みたいな内容のがありますけど、それならルールやマナーを緩和してもらわないと、少数派は生きづらいんですけどーとも思ったりします。
















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海辺の田舎町の友達たち



 海辺に引っ越して、かれこれ30年近くになりました。
 その間に近所の海遊びをする人達と知り合いもできましたし、もともとウォータースポーツで知り合った人達とも付き合いが続いています。
 そんなわけで、周囲もぼくもだいぶ歳をとってきたんで、しばらく海で見かけないと、スマホに「大丈夫か?」と連絡が来たりします。近所のスーパーで会っても相手が日焼けしてないと「体調、大丈夫?」と心配し合うような感じです。高齢化社会のウォータースポーツマン同士に付き合い方はこんな感じになっていくのかもしれません。
 海辺の町に住んで、ウォータースポーツをする人というのは、それなりに自分の考えやライフスタイルを持っている人が多くて、そういう人達との人間関係というのがぼくはわりと好きです。
 自我がハッキリしているのと、付き合い方の距離感と、力の抜け具合が、自分と合うみたいです。
 わかりやすくするために、逆に苦手な人を挙げてみます。
 都会のタワマンなんかに住んでいて、有名な企業に勤めて、ベンツを乗っているような人というのは、経験的にぼくは話が合いません。そりゃあたりまえですね。ぼくは海辺の小屋みたいなところに住んで、会社でイヤイヤ働いて、軽トラってサイコーって考えている人間ですから…
 いや、それだけでなくて、もっと深いところの価値観が一致していないというか、生き方が好きじゃないという感じがします。例に挙げたような人って、幸せの価値観が他者目線なんじゃないかって感じます。自分がいいか悪いかじゃなくて、他者が自分の生き方を評価してくれるかどうかを大切にしているということです。たぶんそういうところがぼくは合わないんだと思います。
 少し考えればわかりますけど、他者の評価で自分の幸不幸を判断するのって無理があります。いい歳して、そういうことを考えていないのか、考えているけどそこから抜けられないのかわかりません。前者なら思慮が浅すぎますし(強いいい方ですが、それ以外に言葉が浮かびません。敢えて別な言葉にするとバカでしょうか。)、後者なら弱すぎでしょう。
 そうじゃない人の割合が比較的高い海辺の田舎町の暮らしは、つまらない人と付き合わなくてよくて、なかなか快適なのです。
 毎日つまんねえヤツとつまんねえ話ばっかするのもうやだなと感じていたら、あなたは海辺の暮らしの方が合う人かもしれません。













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やっぱり夏が好き…



 夏になると暑かったり、ぼくの住んでいる海辺の町は観光客で混雑したり、虫が出たり、アレやコレやあるわけですけど、ぼくは夏が好きで、夏の海が好きです。シーカヤッカーの友人は夏の間は海に出ないという人もいますが、ぼくは時間があれば海に出ます。
 夏の好きなところを挙げてみましょう。
・夏の匂い
 夏の匂いが好きです。海の潮の匂いが濃くなるのでしょうか? あるいは森の草いきれが強くなるんでしょうか? 夏特有の匂いってあります。あれが好きです。特に夏の朝の匂いが好きです。
・夏の波
 暑いといってもビーチで日影を作っておけば実はそんなに暑くありません。海は風が吹きますから…
 そして風が吹くと波も立ちます。特に我が家のあたりは、午後はたいていオンショアの風が吹くので、それに伴って午後から夕方の夏の波は少し高めになります。
 火照った身体を鎮めるように、夕方サーフィンして、家に戻ってシャワーを浴びて、ビールを飲むのは、なかなかシアワセです。
・暑さ
 人が死んでしまうほどの猛暑ですが、ぼくは暑いのはわりと平気です。寒いのはすごく苦手ですけど…
 なので、引っ越すとしたら、今は関東地方に住んでいますが、今のところよりも温暖なところがいいです。
 暑いと頭がボッーとして難しいことを考えられなくなるのがいいですね。Tシャツ・短パン・ビーサンで身軽に過ごして、暑い暑いといいながら汗をかいて、汗をかいたらシャワーで流して…
 そういう新陳代謝の速い感じが好きです。
・夏祭り
 ぼくの住んでいるあたりでは、お盆と9月頃に夏祭りがあります。盆踊りもあります。
 大人になっても夏祭りっていいですね。
 提灯の灯りってちょっと幻想的な感じがして好きです。
・窓を開け放しておける
 閉じた空間が苦手です。閉所恐怖症かもしれません。でも、怖いワケではないんです。窓が開いていて、空気が動いていて、ほこりとかカビとかがたまらなそうな感じが好きなのかなあ。
・台風
 台風で被害に遭われた方には申し訳なくて、不謹慎かもしれませんが、子供の頃から台風が近づいてくるとなんとなくソワソワ(実はワクワク)してしまいます。わざわざサーフィンしたり、波を見に行ったりします。
 お盆の時期の海は混雑するんですけど、地元の人しか知らないちょっとした入江に行けば、ほとんど人はいません。そんな入江で日がな一日ボーッとしているのは、間違いなく夏の楽しみです。
















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海辺の町に住むことの良さのひとつは、だらしない格好で出歩けること…ぼくの場合



 ぼくは家にいるときは、短パン・Tシャツ・ビーサンです。
 買い物もそんな感じです。近所の人はだいたい顔見知りですし、まあ田舎の漁師町なので、気取っているわけでも、華やかな感じでもありません。
 ぼくは昔から短パン・Tシャツ・ビーサンが好きで、できる限りその格好でいるようにしてます。さすがに冬は暖かい格好をしますけど、でも下は短パンだったりします。裸足だし…
 そういう点では、ぼくのような格好をしているオジサンは結構見かけますから、今の土地に引っ越してきてよかったなと思います。さすがに東京の街中だとこうはいかないでしょう。
 若い頃、最初にぼくのこの短パン・Tシャツ・ビーサン的生態を知った相方は、唖然としていました。
 「なぜ?」「寒くない?」といわれても、ぼくとしては「ズボンが足にまとわりつくのうっとおしくない?」って疑問形で返すわけですが、「えっ…ぜんぜん…」と若干引き気味の答え。だいぶすれ違ってますね。思えば、よくこれまで離婚もせず、もったものです。夫婦というか共同生活というのは、こうした価値観の違いを理解しながら進んでいくんでしょう。
 ちなみにその後、我が家の息子も大きくなり、ぼくと同じことをいっていたと相方はため息交じりにぼくに教えてくれました。長ズボンはうっとおしいと…遺伝でしょうか、生活習慣でしょうか?
 
 最近ミニマムに暮らすとか断捨離とか余計な物を持たない暮らし方という言葉を目にしますが、年中、短パン・Tシャツ・ビーサンで暮らすぼくもミニマムなライフスタイルといってもいいんじゃないでしょうか? ミニマリストと呼んでくださっても苦しゅうない、です。
 それからこれは以前からサラリーマンのみなさんと共に闘いたいと強く思っているんですが、ビジネスで履く革靴というかビジネスシューズ、あれ、みんなでやめにしませんか?
 不自然でしょ。無理があるでしょ。せめてスニーカーでしょ。
 できるならビーサンか、百歩譲って(誰に?)クロックスみたいなサンダルでokにしませんか?
 湿気の多い夏とか梅雨時とかの日本で革靴ってどう考えても無理してませんか?
 お得意様に営業に行くときもビーサンでokにしましょう。もちろん受ける側もビーサン。
 来年の春闘はぜひメインの要求項目にしていただきたいと思うのです。
 えーっとなんだっけ、だから家では、人類としてギリギリレベルのだらしない格好をしています。
 夏なんか、できればスッポンポンでいたいわけですけど、そうするとスーパーとかに買い物に行くときに何かはかなきゃいけないわけで、それがもう我慢できなくなる自分が怖くて、一応かろうじてユルユルの短パンをはいています。最近は短パンのゴムの締め付けがうっとおしいんで、タイパンツというブカっとしたヤツを穿いてます。短パンの下は下着は穿いてません。イヤ~ン、ノーパンなの…
 で、夏になると一応観光客の方が来るわけです。で、海に近いスーパーなんかだと、観光客の人もいるわけ。タイパンツにTシャツ・ビーサンなオジサンは、なんとなく浮いちゃうわけですね。あれ、なんとかなんないかな? 地元の人ばかりだと全然違和感ないんだけどな。












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ちょっとしたゆとりで暮らしやすくなるのかな?



 海辺の田舎町のユルーい暮らしが性に合ってます。

 ぼくのウォータースポーツ友達はわりといい加減なヤツが多いです。いや、ちゃんとしてるんですけど、あれ?ちゃんとしてたかな?、いや、そんなにメチャクチャじゃないだけで、フツーですよ。なにがいいたいかというとそんなに堅くない人が多いっていうことです。
 海辺に住んでいる人がみんなそうではないですが…

 わかりやすくするために例をあげてみます。
 ぼくの相方の実家は東京の区内にあります。年に何回か泊まりに行くんですが、ある日の早朝、家のピンポンが鳴って、近所のオジサンが、義理のお母さんにすごい剣幕で文句をいいに来たことがありました。内容はゴミを出す時間が早かったということなのです。いや、一瞬何か事件が起きたのかと思って緊張しましたよ。
 たとえばですけど、ぼくの住んでいるところにこういうオジサンはいません。同じことがうちの町内で起きたら、あるとき家の前でたまたまあったときに「あっ、そうそう。ちょっと気をつけてね」みたいな感じでいわれるだけでしょう。

 こういうヘンな堅さ・マジメさ・神経質さって、人が大勢暮らしているところだから起きるのか、たまたまあのオジサンがヘンだったのかわかりませんけど、何だか余裕がない感じは確かです。
 そう、余裕とかゆとりとかアソビとか、そんな言葉がしっくりきます。
 海辺の田舎町にはそんな余裕とかゆとりとかアソビがあって、そんなユルさが暮らしやすいんじゃないかなあって思います。
 一口にゆとりっていっても別にたいしたことがないようですけど、町内の人みんなが少しずつゆとりがあって、そのゆとりで、他人や町のことに少しずつ気配りできるとそれはだいぶ暮らしやすさに差が出てくるんではないでしょうか?

 東京の暮らしにくさって、ギスギスした感じとか、他者に無関心な感じとか、常に他人を追い抜こうとしている感じとか、他人に負けまいとしている感じから来ているんじゃないでしょうか。

 ぼくは小さな島を旅するのが好きですが、そのよさって、島の人のノンビリした暮らしに接することだったりするんですけど、ぼくの東京嫌いはそこからも来てるかもしれません。いやー早めに海辺の田舎に引っ越してよかったなあと思います。











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変えられない状況で楽しく過ごすぼくの方法



 ずっとウォータースポーツをしてきました。
 サーフィンにしろ、スキューバーダイビングにしろ、セイリングにしろ、海のコンディションが整わないと遊べません。
 一方でベストなコンディションでなくても、うまくやると楽しく遊べます。
 もともとぼくのウォータースポーツ遍歴は、お手軽体験コースみたいなのでサーフィンをやり、その後スキューバーダイビングでCカードをとり、その後自分のボードを買って本格的にサーフィンをするようになり、次にセイリングとシーカヤックをやるようになりました。
 それはスキューバーダイビングができないような波があるときはサーフィンをすればいいし、風が強い海がバシャバシャのときはセイリングをすれば楽しめる…みたいな感じで、その時その時の海のコンディションで楽しめるウォータースポーツをやってきたんです。で、だんだん嗜むウォータースポーツが増えてきたんです。
 そのベースにあるのは、とりあえず海の状況が変えられないから、その時に楽しめることをやればいいや、という考えです。
 さて、ここから話は人生訓っぽくなるんですが、ぼくは仕事で会社で働いて、その時々でなんとなく楽しくやればいいやって考えてるんですけど、そういう考えは、ウォータースポーツの経験から来ているような気がします。
 ご存知のように組織で働くと自分の思うようにならないことばかりです。もちろん頑張れば、ある程度自分の思いを反映することもできますが、それはごくごく一部のことです。他人の考えは変えられないし、組織の方針はトップダウンだし、上司も部下も自分の思うとおりになんてなりません。
 それでいちいち悩んでいてもしょうがないわけで、そんなこと考えるより、その日一日を楽しく過ごした方がいいや、っていうのがぼくの基本方針です。
 短期的にはその状況を楽しみながら、ジワジワと自分のやりたいことをやっていく感じ…それはセイリングで風上に上っていくのに似ています。
 あるいは向かい潮のときは無理せず岩の陰にじっとして、潮が止まったり、追い潮になったときにサッと移動するスキューバーダイビングの状況にも似ています。
"I can't change the direction of the wind, but I can adjust my sails to always reach my destination."という諺がありますが、まさにそんな感じの心持ちをぼくはウォータースポーツで身につけたように気がします。
 それが正しいのかどうかなんてわかりませんが、無理せず楽しくジワジワと自分の行きたい方向に行くという面では、なかなかいい方法だと自分では思っています。
 ままならない状況でも、まあそのとき一番マシなことをやればいいやと思っています。










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通販で田舎暮らしはずいぶん便利になりました



 海辺の田舎町に住んでるんですが、ってそのことは何度も書いていますけど、ぼくとしてはもっと田舎に住みたいと思っています。そのときに医者と郵便局とホームセンターは、車でせめて1時間以内の場所にないと困るよなと思っていました。
 そのことをふと口にしたとき、相方の「えっ」という声質が今でも忘れられません。おそらくその「えっ」は「5分とか15分じゃなくて1時間以内かよ!」の「えっ」だと想像するのです。夫婦生活というのは、何十年一緒に居てもなかなか分かり尽くすことのできない深い部分があるものですね。
 そのことは置いといて、医者と郵便局の必要性は多くの方にわかっていただけるんじゃないかと思いますが、ホームセンターには引っかかる方もいるかもしれません。ホームセンターってそんなに必要なの?と…
 ぼくの中には、田舎暮らし→DIY→ホームセンターという理屈がありまして、今住んでいるところでもDIYとホームセンターなしでは、生活が困ることが多いんです。というのも、ぼくは自分でできることはたいてい自分でやってしまいます。たぶん家も、基礎のコンクリート打ちだけ専門業者にやってもらえば、後は自分でできるんかないかと、根拠のない自信を持っています。あえて根拠があるとしたら、人間ができることなら、たぶん自分でもできるはず…という信念です。
 ぼくのような種類の人間にとってホームセンターはないと困るんです。
 ただ最近はAmazonとか楽天などの通販がすごく便利で、たいていのものはネットで手に入ります。北海道と沖縄と島嶼部は送料が高くて大変そうですが、少なくとも郵便局の人かクロネコヤマトさんか佐川急便さんが配達に来てくれる所に住んでいれば、暮らしはなんとかなりそうです。
 しかも最近さらに重宝しているのがMonotaRO(モノタロウ)で、ホームセンターで手に入るDIY用品はもちろん、ホームセンターに置いていないようなプロ仕様の物まで通販で手に入るようになりました。今ではぼくはMonotaROを結構利用していますし、一生あなたに付いていきますので、MonotaROさん、きび団子ください。
 しかししかし、MonotaROを利用しているぼくとして、それでもホームセンターは近くにあって欲しいんです。というのも、DIY関連の物というのは現物を見ないとなんとも判断がつかないことがあるのです。ボルトの大きさとか長さとか材質とか、まあ細かいこというとキリがないのですが、そういうことです。webページに書いてあっても、やっぱりに見ないとわかんないよなあということが多々あります。
 そんなわけで今より田舎に引っ越しても、ホームセンターがどのくらいの距離にあるかは、気にすると思います。間をとって車で30分以内のところにあるといいなあ…






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ありがたい海の幸をいただく



 ときどき特定のものがすごく食べたくなりませんか?
 ぼくの場合は、刺身が食べたくなります。別ないい方をすると生魚。こうやって書くと、なんか残酷な感じ…
 海で遊び、スキューバーダイビングなどで、魚が元気に泳いでいるのを見ると、なんだか刺身が食べたくなるんです。それってすごく悪趣味な気がするんですが…でも、なんだかそうなんです。
 たぶんずっと以前からスキューバーダイビングに行ったら、立ち寄り湯→海鮮居酒屋→宿に戻って宴会というパターンをずっとやっていて、そこでおいしい刺身を堪能したからかもしれません。条件反射的に刺身が食べたくなるのかなあ。
 もうひとつこれもちょっと悪趣味ですが、自分が疲れている時とか元気がない時に、刺身をいただくことで元気をいただくという面があります。ぼくの場合それはかなりの場合、疲れてくると刺身が食べたくなります。特にイカ。特にコウイカとかアオリイカとか…
 本当にイカ一族はじめ魚類一族には申し訳ない思いでいっぱいです。
 いやー本当に…もし宇宙人がいて、その宇宙人の食事のメニューのひとつに人間の刺身とかがあって、ぼくがその刺身として食べられたらすごくいやですから…そういう死に方だけはしたくないです。それと同じことをぼくは魚にやっているわけで…でも、生きるということは所詮自分以外の者を損ないながら自分だけは生き延びるということなんだろうと思います。
 話が逸れましたけど、ぼくの近所に海鮮丼とか刺身定食を1300円くらいで食べられる定食屋があるんですが、そこに行くのも好きです。できるだけ地魚を盛ってくれるし、いろいろな種類の魚を盛り込んでくれる(だいたい10種類くらい)ので飽きないし新たな発見があります。この店で始めて食べた刺身というのも結構あります。1300円という値段は、その内容からすればとてもお得な気がします。
 その店に行って、窓越しに海を眺めながら、魚をいただくというのが、わりと幸せなひとときです。
 そんな幸せも海辺の暮らしならではかもしれません。









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海という自然・小さなコミュニティ・幸せ…



 海でのんびりするといいですよ、自然の中で過ごすといいですよ、てなことをこのブログでは何度か書いてきました。いつもはバラバラと散発的に書いているので。今回はまとめてみたいと思います。
 ぼくは地方出身で大学から東京に来ました。大学時代に友人でサーフィンをしているヤツがいて、誘われてサーフィンを始めました。当時は小田急で鵠沼に行って波乗りしていました。小田急はJRよりも電車賃が安いですから…
 大学を出ると、東京の会社に就職して、職場に近く、通いやすいところを選んで住んでいました。これはすごくよくあることなんだろうと思います。
 そしてこれもよくあることなんですが、毎日終電くらいまで仕事をして、家で寝て、数時間後にはまた電車にのって会社に行くという生活をしていました。当時は今ほど残業についてもうるさくいわれなくて、まあ、若手として仕事をどんどんして、そうすると周囲から評価されて、また仕事を任されてというサイクルでした。
 昨今のライフワークバランスが尊重されるご時世に時代錯誤なことを書いてしまいますが、仕事というのはハマるとおもしろいものですし、自分なりにいろいろ調べたり工夫したりすると、どんどんおもしろくなります。そういった意味で、ぼくは仕事を遅くまでやるのが苦痛ではありませんでした。こんな感じで20代を過ごしていました。
 その代わり土日は朝から(というか3時とか4時から)家を出て、海に行き、土日まるまる海で遊んで月曜日の朝、自宅に帰ってシャワーを浴びて、スーツに着替えて会社に行くということをやっていました。その頃にはスキューバーダイビングやセイリングもやっていました。自然の中で海遊び仲間とワイワイやるのが楽しかったのです。行くのは、伊豆半島や八丈島や三宅島が多かったですね。
 そして年に何回かは、石垣島や宮古島や沖縄の離島、それから海外にもダイブトリップに出かけていました。
 離島にもはまっていたのです。
 離島好きな方はおわかりになっていただけると思うのですが、島の人というのはノンビリゆったり暮らしていて、金銭的に富裕というわけではないですけど、毎日楽しく過ごしています。そういう暮らし方に接していると自分の東京での生活ってどうなんだろうと考えることがありました。
 土日の海遊びと年に数回のダイブトリップでの自然と近い暮らし…それと比べて東京は人が多くて、ビルが建て込んで、空が小さくて、緑が少なくて…そういう雰囲気に息苦しさを感じるようになったのです。
 年代的にも30代になろうとしていました。結婚もし、そろそろ子供を…ということを考え始めたときに、もう少し自然のあるところ、そしてもちろん海のそばで暮らしたいし、そういうところで子供を育てたいなと本気で考えるようになりました。
 前置きが長くなりましたが、そのときのぼくの心の状態というのは、都会の暮らし×、自然の中での暮らし○となっていたのです。そしてぼくのそういう価値観を構成しているのは、離島など海辺の人達の暮らしぶりを見聞していたのとウォータースポーツでの自然と接する経験からなりたっていました。
~心のゆとり~
 人は忙しくなるとイライラしたり、怒りっぽくなったりします。東京ではたまに電車で男の人同士がもめたりしてますが、それなども忙しさのせいかもしれません。もともと働き盛りの男性というのは闘争心があるものです。それが仕事という社会的な場で発散されるといいんですが、ケンカとかに向かってしまうと犯罪になってしまいます。
 ぼくは、ウォータースポーツで、時に激しく厳しい自然の中で、なんとか生きて陸に帰ってくることを目指して格闘することで、そうした闘争心みたいなものを発散していたんだと思います。
 年に何度か離島に行くのが恒例になっているんですが、1週間も離島で暮らしていると、自分のリズムが変わってくるのがわかります。歩くのがゆっくりになり、呼吸が深く大きくゆっくりになり、ノビノビと胸をはって歩くようになります。空は広く、海は青くで、木々は緑です。
 呼吸する空気も飲む水も食べ物も、島の物です。身体全体が内側から島に馴染むような気がします。
 島の人との会話もノンビリしたやさしいものです。
 今でも強く印象に残っている経験があります。ぼくが東京で暮らしていたとき、先島諸島の多良間島に10日間ほどダイブトリップに行ったことがありました。島の人はたいてい家に鍵をかけません。車のロックもしません。ぼくは滞在中レンタカーを借りていたんですが、当たり前のように車をロックしていました。あるとき宿の駐車場で車の出し入れするときに、ぼくの車を動かさなきゃいけない状況になったらしいのですが、ぼくはそのときダイビングに行っていたのです。それで、宿の人から車にロックしないでくれ、どうせ誰も何も盗らないからといわれたことがあります。
 それってぼくにはけっこう衝撃的な経験で、東京だと近所のコンビニに買い物に行くときも家の鍵はかけてましたから…
 この経験が意味することは、単に鍵をかける手間が少なくてラクということだけではありません。鍵をかけるという行為は、その前提に外敵に自分の財産や暮らしを脅かされるかもしれないという警戒心があります。それがあるとないとでは、いかに自分の気持ちにかかるストレスが違うかということです。多良間島滞在の10日間で、ぼくはこの普段意識しないストレスから解放されてました。長年身体に張りついていた錘が剥がれたような爽やかさを感じたのです。
 おそらく都会での暮らしには、満員電車に乗るとか、スリに遭うとか、何かを盗られるとか、変な人に突然何かされるとか、そういう意識的だったり無意識的だったりするストレスというか緊張感があると思うのです。それが何年も何十年も人の心にあり続ける事って、心に負担をかけるし、価値観にも影響を与えるだろうし、対人関係も変わってくるだろうし、ひいては人生の全体に大きな影響を与えるんじゃないでしょうか?
 ここまで長々とぼくの経験を書きましたが、何がいいたいかというと心のゆとりって大切だということです。で、その心のゆとりって、生活する場の状態によるんだということです。
~自然と接すると人は癒されるのではないか~
 ぼくは今海辺の田舎町で暮らしています。東京で暮らしていて、東京で家族と過ごすのってイヤだな、ここで子育てするのはイヤだなと感じました。それはかなり直感的かつ本能的な感覚でした。相方も同じように感じていたようです。それで、かろうじて通勤できる海辺に引っ越したわけです。引っ越し先を選ぶときもできる限り海や山といった自然がそばにある家を探しました。そんなわけで、家に帰れば、そこは目の前は海で、背後は森です。
 ぼくが大学時代からずっとウォータースポーツをしていたのは先ほど書いたとおりです。社会人になってからは、平日は東京のビルの中で仕事、土日は海で過ごしていました。ぼくにとって土日に海にいる時間はとても大切なものだったのです。すごくありきたりないい方をすると海に接することで癒されていたんだと思います。
 それではあまりにも平板な物言いなので、詳しく書きましょう。
 海にいると、まず服装からして違います。短パン・Tシャツ・ビーサンです。冬は長袖長ズボンをはきますが、足下はビーサンです。これでだいぶリラックスできます。
 肩の力は抜けますし、歩くスピードはゆっくりになります。呼吸も深く大きくゆっくりになります。ぼくは10年ほど前から瞑想をするようにしていますが、海辺にいると短時間で瞑想に入ることができます。
 波の音を聴き、潮風に吹かれ、太陽の光をあび、海の水に浸かる。海が荒れているときは森の中を歩き、鳥の声や木々の葉や枝の擦れる音を聴き、木漏れ日を仰ぎます。こうした時間がぼくにとってはとても大切なのです。そしてこうした時間を過ごすことでぼくは満たされます。
 東京にいたときはアトピーと、軽い喘息と、ときどき眠れない日がありましたが、それも海辺に引っ越してからはすっかりなくなりました。
 ぼくの周りだけかもしれませんが、こうした自然を愛する人はぼくだけでなく、一定数はいるように見えます。
 おそらくある種の人は、自然と接することが好きで、自然の近くで過ごすことで、癒されるのではないでしょうか?
 そしてそうした暮らしをするからこそ、心にもゆとりが生まれるのではないでしょうか?
 
~自然と共に生きることは人間にとって大きな意味があるのではないか~
 自然のそばで暮らすことは癒される面もありますが、他の面もあります。
 自然は時に穏やかですが、時に激しく荒れ狂います。それは地震や火山の噴火や洪水を年に何度か目にするわれわれ日本人には頷けることだと思います。
 そんな自然に対して、人間は技術的な進歩である程度対応できるようになりました。人にとって暮らしやすいようにダムを造り、防波堤を造り、道を通しました。日本で暮らす上で、普段は自然の脅威を感じる場面はほとんどありません。それでも何年かに1度は自然の強大な力を思い知ることになります。
 ぼくの推測ですが、人にとって、自分達の力が及ばないことがたくさんあることを思い知ることで、用心深さや謙虚さや向上心が備わるのではないでしょうか?
 自然が好きで、自然のそばで暮らす人々にとっては、それがなおさら心に大きな影響を与えるのではないでしょうか?
 もうひとつあります。
 日本の都会で暮らしている分には、飢えるとか自分の生命が脅かされるということはほぼありません。でもそれって限られたエリアの限られた状況のことで、普遍的なことではありません。いつ何時自分が死ぬかもしれないとメタな部分で認識することは、おそらく普段の考え方や行動に影響を与えるのではないでしょうか?
 さらにもうひとつ。
 人間はこれまで自然の恩恵を利用しながら、自然の力に対応しながら生存してきました。それは歴史をとおしていえることでしょう。そして人間の力が大きくなるにつれて、人間社会が大きくなり、整備され、システマチックになり、その環境の中で生きることだけを考えるようになってきたのではないかと思います。
 ざっくりした喩えをすると、500年前のAさんと現代のBさんでは、一生のうちで自然と接し、自然のことを考える時間は、だいぶ違うのではないかということです。そして人間社会のシステムが仮に人間性を抑圧する部分があるとすれば(って、ぼくはあると思いますけど…社会というのは強者や多数派の人に合わせてルールを作るので、それに該当しない人は抑圧されると思います…)、現代のBさんはよりその抑圧にさらされる可能性が高くなっているのではないか、というのがぼくの考えです。そして人間の及ぶ範囲が広くなる、つまり手つかずの自然の範囲が狭くなることで、抑圧されている人の逃げて生きる場所も狭くなっているとも考えています。
~小さなコミュニティで暮らすことのメリット~
 最近ネットのショップとかオークションとかSNSとかwebサービスで、その人や店の評価が表示されるようになってきました。評価が高い人や店は信頼できるということになっています。信頼度が高いほど、取引や交渉時のリスクは低くなり、それに伴い、リスク回避のためのコストが低下します。
 その人が信頼できるか、どういう人か、あるいはどういうときにどういう行動をする人かという情報は、共同体として生活する上で重要な情報なのでしょう。
 先ほど、離島では車や家に鍵をかけないというエピソードを書きました。島の中に誰がいて、誰がどういう人かわかっているから、鍵をかけなくてもいいのだと思います。
 そうした心理的な警戒心の不要さが、個人に対しても安心感を与えますし、コミュニティを維持するコストを低下させます。
 たとえば東京の23区のある区のマンションが立ち並ぶエリアで、自分の住むマンションの前に定期的に粗大ごみが不法投棄されていたとします。これは誰が住んでいるかわからず、誰が通りかかるかもわからず、その粗大ごみを不法投棄した人が誰かすぐに特定できないから、そういうことが起きるのでしょう。捨てる人もわからないだろうと思って捨てるわけです。
 で、その不法投棄されたごみはマンションの管理組合が処理するかもしれませんし、区の清掃事務所の人が処理するかもしれません。いずれにせよ、捨てた人以外の誰かが処理費用を負担することになります。
 そういうことが続けば、たぶんマンションには監視カメラをつけたりするでしょうし、区でもどこかに監視カメラをつけるかもしれません。あるいはゴミが捨てられないように柵を作るとか鍵をかけるとかするかもしれません。これって、誰かの不法投棄により手間やコストが増えたことになります。で、そのゴミを捨てる行為を助長しているのは多分に匿名性だったりします。
 おそらく想像ですが、離島ではこういうことは起きないでしょう。
 これはゴミの不法投棄を例に出しましたが、犯罪とか高齢者の孤独死とか児童虐待とかいろいろなことがありますから、23区のある区のコミュニティ維持のコストはたぶん高いはずです。それは結局マンションの維持管理費とか税金とかなんらかの支出で、みんなが負担しなければなりません。
 もうひとつの視点を提示してみたいと思います。
 ぼくは行政機関というのは、というか組織というのは、なにかしら無駄があるものだと思います。ただ、民間企業は存続するために利益を上げなければなりませんから、無駄を排除する動機が組織に組み込まれています。行政機関はその動機がかなり薄いため(夕張市のように破綻することもあるため、ないとはいえません)にどうしても無駄が生じるんだと思います。
 行政機関でも働いている職員は、その人もプライベートは個人であり家庭もある労働者ですから、自身の生計を成り立たせるために、仕事を作らなければならない動機が存在します。こうして往々にして行政機関はその存続が目的化してしまいます。過去に行政改革など無駄を除く努力がされましたが、うまくいきませんでした。それは仕方がないことで、組織に無駄をなくさなければならない動機が存在しないからです。唯一あるのは納税者である住民のチェックですが、これは住民にも百人百様の考え方があり、納税者でもありサービスの受益者でもありますから、何を無駄と考え何を有効かと考えるかについては議論が必要で、簡単にはいきません。そして、住民の数が増えれば増えるほどこの考え方は広がる可能性があるわけです。
 また、行政機関は日本の場合、国・都道府県・市区町村の階層になっていますが、階層が上がるにつれ、住民から離れていきます。それが無駄だとはいえませんが、国際社会で交渉する際に、日本という単位で交渉すれば有利な場合など、国としてまとまるメリットが明確である場合は、国の存在意義が住民から支持されるのでしょうが、国が最初にありきという必然ではありません。いつかどこかの県や市が独立したいといいだしてもおかしくはありません。
 住民から離れれば離れるほど、住民の直接のチェックが働きにくくなりますから無駄が生じる可能性が増えるでしょう。それに行政機関の規模が大きくなればなるほど、無駄が生じる可能性が増えるというのは、組織というのはだいたいそういうものだからです。
 つまり、大きなコミュニティというのは、住民も行政も両方で責任が曖昧になって、コミュニティの維持にコストがかかりやすいんじゃないかとぼくは思うのです。
 極端な例ですが、日本が、小学校ひとつくらいの規模であったら、誰が何をやっていて、どういう人かわかるし、お金が何にいくら使われているかもわかります。生徒会役員(公務員)が何をやっているかもわかります。この規模感って、自分がコミュニティの一員であり、コミュニティを支えなければならない感覚に影響を及ぼすとぼくは思うし、自身が市民である意識って大切だと思うのです。
 次にもう一度、離島のコミュニティに視点を戻してみます。ぼくがこれまで行ったことのある島で、人口が少なかったのは小笠原の母島で約500人。次が父島で2000人。沖縄の多良間島で1300人。八丈島だと10000人で、ちょっと多い感じです。想定しているのはだいたい3000人くらい。それくらいだと先ほど書いたようなイメージのコミュニティです。誰がどんな人で、どこにいて、何をやっているかだいたいわかる感じです。
 何度も書きますが、誰がどれくらい信用できる人で、どういうときにどんなことをするのかわかっているということは大切なことです。
 なので、たとえばいつも酔っぱらうと大声を出す佐藤さんちのおじいちゃんが、大きな声を出していてもみんなはそんなに気にしないでしょう。また、いつも元気で、毎朝散歩を欠かさない木村さんちのおばあちゃんの姿が見えないと、心配するでしょう。きっと誰かが様子を見に行くんじゃないでしょうか。こういうことって細かいですけどコミュニティにおいては重要なことだと思うのです。
 もし先ほど例に出した23区のある区で同じことがおきたら、佐藤さんちのおじいちゃんの場合、警察に通報する人がいるでしょうし、警察官は現場に行くでしょうし、その警察官の人件費はみんなの税金で賄われています。木村さんちのおばあちゃんの場合、民生委員の人が見に行くかもしれません。あるいは誰も気づかず、あるときおばあちゃんが死んでいたというニュースで見るようなことが起きるかもしれません。
 以上は小さなコミュニティのよさです。
 もちろん小さなコミュニティのデメリットもあって、それは水道とか電気とか行政のインフラを3000人のために整備しなければいけないということです。
 どちらもなんらかのコストはかかるわけですが、計算すればどちらが安いかは比べられると思います、たぶん、ぼくはめんどくさいからやりませんけど。
 そしてそれに加えて、暮らす人々の安心感とか暮らしやすさとかストレスというお金に換算しにくいことも含める必要があります。毎朝自分のマンションの前にゴミが不法投棄されているのはストレスだと思いますが、そのストレスがいくらに相当するかはちょっとわかりません。
~暮らし方を見直したらもっと幸せな社会ができるんじゃないか?~
 これまで「心のゆとりの大切さ」「自然のそばにいると人は癒される」「自然と共に生きることで人は何かを学べる」「小さなコミュニティで暮らすことの大切さ」ということを書いてきたのですが、この4つが揃った暮らし方ができる社会って、ぼくの理想です。そして多くの人がもっと幸せになれるんじゃないかとも想像するのです。もちろん好みがあるでしょうけど…
 でも、生まれてある程度の年齢になって自分で自分のことを決められるようになったら、自分に合ったコミュニティを選べばいいと思うのです。もちろん日本国内ではそれはできますけど、でも、なんだかんだいってそんなに自由ではなくて、生まれた場所にとどまったり、あるいは生計を立てるために、都会で暮らさなくてはなりません。年齢と共に自分にあったコミュニティを移っていくのが当たり前のようなったらいいんじゃないかな?って思います。











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