海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
不満のタネの行き先…
ぼくは海辺の田舎町で暮らし、街に通勤しています。できればずっと海辺の田舎町に居て、仕事もそこで完結させたいのですが、なかなかうまくいきません。
街に出ると人が大勢いて、ぼくはそれがストレスです。海辺の田舎町でノンビリ過ごせたら、それほどストレスはないのになあ、なんて思ったりします。
話しが変わりますが、先日定年退職した海遊び仲間の先輩と飲みました。
定年後の暮らしについて話したのですが、その先輩がいうには、人というのはストレスがなさ過ぎるのもよくないそうです。
ストレスがなくなると、人というのはどんどん自分の快適なことだけをするようになるし、腹を立てる対象がどんどん細かくなるそうです。
その話を聴いてなるほどなあ、と思ったものです。
確かに親戚のおじさんで、長年会社勤めをしてきた人はわりとちゃんとしていて、所作や物腰や判断などがこなれている印象でした。自分の立ち居振る舞いや言動がコントロールできている感じでした。いわゆる社会性があるという言葉でまとめてもいいんじゃないかと思います。まあ、たまたまそのおじさんがそういう人だったかもしれませんけど…
会社勤めとストレスの強さがどの程度関係しているのか知りませんが、集団で組織的に何かをしなければならないので、社会性みたいな特性は強くなるんでしょう。
おそらく独りだけで暮らしていたり、単独でする仕事(そんなのがあるかなあ)ばかりしていると、そのおじさんのようにはならないんじゃないかなあと推測するのです。
もうひとつ、人というのは、何かしら不満があるもので、大きな不満の対象があればそれについて腹を立てたり、考えたりするんだと思うんですが、その大きな対象が解消されると、2番目に大きな不満の対象に腹を立てるんだと思います。それがだんだん小さく細かくなるというのはあるかもしれません。
たまにすごく細かいことに腹を立てる気難しい人がいますが、それはそういうメカニズムなのかなあ、と思ったりします。
とはいえ、仕事のために通う街でのストレスはとても不快なので、もう少しマイルドなストレス環境で生活したいなあと思うのでした。
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海辺のわが家へ来たお客様の「う〜ん」な言動とは…
まず、思い出すのは、家の近所の海に面した駐車場での出来事。
その駐車場は、個人の家の庭を夏の間だけ観光客向けに駐車場にしているんですけど、そこに停めていた車の人が駐車場のオーナー(家の人)に文句をいっているんです。オーナーはご近所で知り合いなので、ちょっと心配で話しを聞いてみると、文句をいっている内容は、潮風で窓ガラスが汚れて、砂浜から飛んできた砂で車が汚れたといっているわけです。
海のすぐそばの駐車場ですから、一日中、車を置いておくとそうなるのは当たり前なんだと思うんですけど…車が汚れるのがイヤなら海に来るなよ…っていうか車に乗るなよってな感じです。
これはわが家のお客さんの話です。
せっかく海辺に来たんで砂浜でも散歩したいというので、案内しました。でもいざ砂浜に着くと砂浜に降りようとしません。靴が汚れるのがイヤだそうです。
だったら散歩したいっていうなよ、っていうかいってくれればビーサン貸したのに…
これも別のお客さんの話。
サーフィンをしてみたいというので、わが家のサーフボード、リーシュコードを1セット貸して、一緒にサーフィンをすることにしました。ひととおり基本的なことを教えて、いざ海に入ろうとすると「けっこう波が高いね。こんなの恐くてムリ」だそうです。
サーフィンって波があるところでやるものだし、今日は波がないほうだよ。
これも別なお客さんの話。
妻のお友達が来て、近所の海の見えるレストランに行ったり、ビーチを散歩したりしていました。家に戻ってお茶をしていたら、道を水着姿で歩いている人が多くて、みっともなくて、人前で恥ずかしくないのかとご立腹。
なるほど…夏は多いんですよ。観光客の人が多いんですけどね。それが当たり前だと思ってました。
これも別なお客さんの話。
ぼくの会社の先輩がわが家に遊びに来て、飲んでいたら、突然お説教モードに。「お前はスキューバーダイビングやらサーフィンやら、結構危険なことをしているけど、もしお前の身に何かあったら、奥さんやお子さんはどうなるんだ!」とのこと。
いやはやごもっとも。でもそんなこといったら、登山とかスキーとかも危ないじゃん。いやいや車の運転も危ないでしょ…
まだまだたくさんあったような気がするんですが、思い出せません。
でも、ここに書いたような話題は、地元の人と話していると絶対出てこないんですよ。たぶん前提としていることが違うんでしょう。
住むところが違うと考え方も違ってくるのかなあ?
ぼくが湘南から引っ越したワケ…
雑誌などを読んでいると、「湘南暮らしがオシャレ」とか「湘南暮らしの憧れ」みたいな記事を目にしたりすることがありますが、ぼくにはそのよさがよくわかりません。
というぼくも以前、湘南と呼ばれるエリアに住んだことがあります。藤沢市の鵠沼海岸から10分ほど陸側に入ったエリアです。
閑静な住宅地でしたが、住んでいるうちに不満がたまったので引っ越しました。
その不満を説明する前に、なぜぼくが海辺に引っ越したかを説明させてください。
それまでは東京の区内に住んでいました。職場まで地下鉄で20分くらいでした。
ただそこの暮らしがとてもイヤだったのです。
まず通勤時の満員電車です。20分とはいえ、とても人間の扱いではないくらいの混みようでした。
それから車の騒音です。国道に面していたため通行量が多く、昼も夜もうるさかったです。洗濯物をベランダに干しておくと排気ガスの粒子がついてしまい、手でこすると炭のように黒い部分が広がるような感じでした。
次は治安です。街を歩いていると、ちょっとヘンな若者がたむろしていて、妻は駅から自宅までの道のりを歩くのを怖がっていました。また、うちはオートロックのマンションでしたが、何軒かに空き巣が入りました。幸いわが家は被害に遭いませんでしたが、不安なことは変わりません。
次は混雑です。道も混むし、レストランも混むし、スーパーも混むし、郵便局も混むし、区役所も混んでいるんです。何かをするのに列に並ばないということはあり得ないという感じでした。
それから自然がないことです。公園はありましたが、まともな木々はありませんでした。
ぼくはこうした都会の暮らしがイヤで海辺に引っ越すことにしました。引っ越し先が湘南の鵠沼海岸でした。
ところが、湘南の藤沢あたりも、けっこう街です。
なので、基本的な不満は解消されなかったのです。
とはいえ満たされたこともあります。それは自然がわりと豊かなこと、治安がいいこと、閑静であることです。
ただ、スーパーやレストランは混雑していました。役所も混雑していました。車も結構走っていました。一番イヤだったのは、夏になると観光客で街も海も道路も混雑するし、観光客のマナーが悪く殺伐とすることです。
このときぼくが認識したのは、ぼくは田舎のノンビリした暮らしを望んでいるということです。自然が豊かで、寂しいくらいに人気がなくて、昭和な田舎の漁師町が好きなんだと気づきました。
ぼくは大学生の頃からスキューバーダイビングをしており、よく伊豆に潜りに行っていました。特に西伊豆のノンビリした感じに惹かれていました。西伊豆の小さめの漁村がぼくのイメージに近かったのです。
そういうぼくにとって湘南という場所は、やはりまだまだ街だったのです。
ぼくの望む生活には、オシャレな雑貨屋とか人気のレストランとかレジェンドがやっているサーフショップは必要ないのです。寂れた定食屋と地元の人がやっている小さなスーパーと暇そうにしているガソリンスタンドがあるような、これぞ漁村!というような雰囲気が好きなのです。
というわけで、職場に通えるギリギリの線で、海辺の田舎町を探しそこに引っ越しました。
そこもぼくの望むほどの田舎ではありませんが、それでも車も少なく、観光客が来るほど有名でもありません。
この町に引っ越してから、列に並ぶということはほぼありません。列ができていると「おっ、今日はなんだ? 何があるんだ?」という感じです。
道ですれ違う人はたいてい知り合いで、挨拶しますし、スーパーで買い物していると知り合い同士で雑談が始まります。
海に行けばよく知った顔ぶればかりです。
町全体をのんびりした雰囲気が包んでいます。
こののんびりさとストレスのなさを、ぼくはとても気に入っていて、意図して作られているものではないので、何よりも価値が高いと思っています。
都会の暮らしに合う人、田舎の暮らしに合う人
何十年も前に海辺の田舎町に引っ越したのは、都会に疲れていたのかもしれません。もちろん海が好きだし、自然の豊かな場所で子育てしたかったというのも理由です。でも、一番強かったのは都会での暮らしに疲れて、イヤになってたからなんだと思うんです。
ぼくはよく人から、お人好しでおっとりしているといわれます。
それは元々そういう性格だというのもありますが、人に好かれたくて(人に嫌われたくなくて)自分でわざとやっている面もあります。
そういうタイプの人間が都会で暮らしていると、損をしたり、割を食ったり、イヤな思いをすることがあります。
お人好しな性格は、長期的にメンバーが変動しないコミュニティでは、信頼感が蓄積されてコミュニティメンバーに一目置かれるようになるので、お人好しによる短期的な損は、長い目で見ると相殺されるか得になるのです。
ただ都会のように、コミュニティメンバーの匿名性が高いとか、メンバーがどんどん変わるコミュニティでは、短期的に得をすることが最善策です。結果的にぼくのような性格の人は損ばかりすることになります。
それはたとえば、町内会とかマンションの管理組合とかPTAのようなボランティアベースのコミュニティ活動をイメージしてもらうと、わかっていただけるかもしれません。
だからきっと、ぼくのような性格の人間は都会の暮らしに合わなかったんでしょう。
今ぼくが住んでいる海辺の田舎町では、マンションやアパートという賃貸物件はありません。みんな一軒家で持ち家です。引っ越しで出て行く人や入って来る人は、たまにある程度です。
そんな町では、どこの誰がどういう人かというのはだいたいわかっているんです。人に嫌われない性格というのは、そういうところだとなかなか居心地がいいのです。いい人だと思われますし、みんなも自分を認めてくれて、ちょっと無理なお願いも聞いてくれたりします。
もちろん都会でうまくいかない人が、みんな田舎でハッピーになれるといっているわけではありません。たまたまぼくの経験でこの部分だけは理屈として成り立つことがあっただけです。
おそらくそういう町だと、自分だけの短期的な得だけを求めるガツガツした人は、長く暮らすうちに疎んじられるんだと思います。というのも、自分の得というのは誰かの損の上に成り立つことが多いと思うんですが、その損するのが町の人だとあっという間に関係がこじれるし、得の源泉である町の人もそんなに多いわけではなくて、いずれ自分の得も頭打ちになるから…
もちろん町外の人から得を持ってくれば、町の中はハッピーなんですが、それがうまくできる人とできない人はいるでしょう。
ぼくはなかなかそんなに器用にはできません。
もし、この駄文を読んでいて、都会の暮らしで何かうまくいかないと感じている人がいらっしゃったら、もしかしたらあなたは田舎の方がうまくいくタイプかもしれません。

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ノンビリ、ボーッとするのが好きなワタクシ
ノンビリするのが好きです。ボーッとするのが好きです。
急かされて何かをするのが苦手です。次から次へとやらなければならないことがあって、ワサワサするのが苦手です。
休みの日に予定が入っていなくて、海を眺めながらデッキでコーヒーを飲んでいたりすると、とても幸せです。これから何をしようかなって、自分で決められるのがいいんです。
つくづく自分は怠惰で、社会に適応していないなあと感じます。
旅先でも、予定を詰め込まないようにしています。
だからパックツアーはありえません。
行き先を決めず、できれば宿を決めず、そのとき行きたいところに行くようにしています。途中で見たいところがあったらゆっくり見ます。
離島好きの、スキューバーダイビング好きですが、普通、ダイバーは潜りをぎっちり入れます。そういうこともしません。潜らない日を作って、空いている時間にレンタカーやレンタサイクルで島をまわったり、カフェでボーッとしたり、ビーチを散歩したり、知り合った人(島のオジイとかオバアとか)とおしゃべりしたりします。別にそうしようとしているわけではなくて、なんとなくしたいことをダラダラとしていたらそうなったという日を作るようにしています。
実際は、休日でも予定が入っていないということはあまりなくて、やらなければならないことが結構ありますねえ。
だからこそ、何もしない日とか特定の目的を持たない日を作って、自分が自由であることを確認するようにしています。
無理に何かをしない方がいいと、直感が教えるとき…
だいぶおじさんのボクとしては、経験的に、これはやった方がいいなと思うことがあります。それと同時に、今はやらない方がいいなと思うことがあります。
ウォータースポーツをするようになって、危険な目に遭うことも多くなり、危険察知能力的な第六感が発達したのか、ますますその直感は当たるようになった気がします。
いろいろあるのですが、そのひとつとして、自分の体調がいまいちなときに無理に元気に動かない方がいいというものがあります。
これは天気や海況や自分の体調になんとなく違和感を感じるときに海に出るとろくなことがない経験と似ています。
なんとなく直感が行くなといっている感じとでもいいましょうか…
体調が悪いといっても、風邪をひいたとかじゃなくて、なんとなくここのところ調子が出ないなとか、自分の置かれている周囲の状況が自分に対して逆風が吹いているな、というときです。
そういう時期って、何年かに一度はやって来るように感じます。
みなさん、そう感じることってないですか?
そういう時期に無理に元気を出したり、大きなことをやろうとしたりしない方がいいような気がします。ウォータースポーツでもそういう時期に大きな冒険系の活動はしないようにしています。
無理せず、のんびり、規則正しく日々の暮らしを丁寧に過ごすのがいいような気がします。
自分の直感を信じる力というものをぼくはウォータースポーツで身につけました。直感を信じるという表現は適切じゃないかもしれなくて、直感に気づく力でしょうか?
それが結構難しくて、なんとかく面倒くさいという感覚と間違わないように注意が必要で、胸騒ぎがするとか、ピンとこないとか、しっくりこないとかそういう感覚です。
スキューバーダイビングやシーカヤックをしていると、この穴には入らない方がいいとか、あの島の裏側にまわらない方がいいとかを感じるときがあります。
理屈では説明できないにしろ、過去の経験を基に様々な情報を総合して、そう直感しているんでしょう。
ウォータースポーツにしろ人生にしろ、別に病気でもないのに、ただなんとなくイヤな予感がするというだけで、やりたいことをやらないのは不完全燃焼感があるわけですが、「まあそのうち風向きも変わるし、身の回りの環境も変わるよー」なんて思いながら、海を眺めながらコーヒーでも飲むのがいいのでしょう。

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自然の強力さ・世の中のもろさ・確かなもの
海のそばで暮らし、自然の中で遊ぶようになって、ぼくの中で変わったことはいくつもあります。その中で特に大きなことは、世の中には圧倒的に強力なものがある、ということです。
ぼくは海辺に住んでいますし、しょっちゅう海旅にも行くのですが、折々に自然の強大なパワーを見たのが変化のきっかけです。
自宅の話しでは、たとえば台風が来た翌日、うちの近くの港の防波堤がすべて根こそぎなくなったことがあります。小さな防波堤ではなくて、30mくらいの長さがある防波堤のコンクリートのかたまりがすっかりなくなっていました。それだけはなくて、港の駐車場のアスファルトが剥がれてぐちゃぐちゃになっていたのです。
旅先で見た光景では、やはり台風の時、ホテルの近くの木造の家が、丸ごと飛んでしまったのを見ました。台風が過ぎた後、近辺を散策したら、昨日まで建っていた家が無く、コンクリートの基礎だけが残っていたのです。
このときぼくはそのパワーに圧倒され、怖いと思いました。自分がすがる何かが失われたような心細さを感じました。
これは一例ですが、その後、海と近く接する生活をする中で、自然のパワーに圧倒される経験を何度もしています。
それまでは、人間が造った橋やビルや道路や港が壊れることは頭の中にありませんでした。もちろん理屈では壊れることは理解していましたが、映像以外で実際に実物として壊れた様子を見たことはありませんでした。人間が造った物は、頑丈に安定的に、そこに存在すると思っていたのです。
それがわりとよく壊れる様子を見てからは、ぼくが当たり前の存在としている、社会の構造物は以外にもろいものだと考えるようになりました。
以前、不良施工されたマンションが傾くニュースが報道されていましたが、それは珍しいことでも不良のせいだけでもなく、しばしば誰の身にも起きうることだろうと思いました。
社会の構造物が意外にもろいと理解したのち、社会自体も実はもろいんじゃないかと思うようになりました。今の日本社会は戦後の自由主義・資本主義の世界観の秩序で構成されていますが、それもぼくが考えているよりももろいかもしれないと思うようになりました。
自然というか地球という地面は、けっこう変化するし、そうした変化の前では、自分はちっぽけな存在だし、人の営みもちっぽけなものだと思います。
そうした認識の変化がぼくの実生活にどう影響したかというと、簡単にいうと刹那的になりました。日々の暮らしというか、今日一日が無事暮らせればいいやと思うようになりました。
いろいろなことを心配しても、準備しても、対策をとっても、それはあくまでも自分が考えうる範囲のことだけであって、限定的で不完全なのです。それを完全にしようとする試みは、ぼくの人生の短さからすれば、ほぼ不可能であって、だったら不完全さを受け入れて、とりあえず短期的に幸せに暮らそうと思うようになったのです。自分が幸せを感じる瞬間瞬間は、ぼくの中では事実で変わらないものなのですから…

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海を眺めていると、自分のちっぽけさを痛感します
会社の上司で、社内のライバルを敵視する人がいました。飲みに行っても、ライバルの悪口ばかり。
ぼくはそういう感情を強く持ったりしないタイプなので、その人の執拗さに驚いたものでした。世の中には、いろいろな人がいるんだなって思いました。
だいたい人の嫉妬心を感じながら酒を飲むのは旨くないので、うんざりでした。
そこまでいかなくても、誰でも他人のことが気になったり、人が自分のことを悪く言っているんじゃないかと疑心暗鬼になったり、気に入らないヤツがいたりといったことはありますよね。
ぼくはそんなとき、海のことを考えるようにしています。そして家に帰るとすぐに海辺を散歩します。
「海は何百年も何千年もそこに広がっていて、その間に陸地の地形は変わったり、人の世は移り変わったりしてるんだな。以前、このあたりに暮らしていた人も、やっぱり喜んだり、悲しんだり、怒ったり、泣いたりしたんだろうな、いや絶対そうして人は生きてきたはずだ」なんて、想像を巡らしたりします。
そんなことを考えているとたいていのことはどうでもよくなってきます。人のことなんて、どうでもいいし、それに対して怒る自分も、イライラする自分も、ちっぽけな者に感じてしまいます。というか、そんな細かいことをいろいろ考えることさえもくだらないことのように思えてきます。
「目の前には圧倒的に大きな自然が広がっていて、自分はちっぽけな存在、さらに日々の瑣事にばかり頭をいっぱいにしている自分、なんてバカバカしいことをしてるんだろう」と、そんな風に思えるんです。
せっかくこの世に生まれてきて、こうして生きているんだから、つまらないことに時間を使うのはやめようって思えるんです。
ワサワサしない暮らしの作り方
ノンビリした暮らしがしたくて、海辺の田舎町に引っ越したのでした。
以前よりはノンビリ、ゆったりした日々を送っているんですが、それでもときどき忙しいなあと思うことがあります。それで、なぜなんだろうって考えたんです。
環境のせいもあるかもしれませんが、やっぱり自分がいろいろやってしまう性格で、かつちゃんとやらなきゃと考える性格だからなんだって、最近やっと気がつきました。
あれもやらなきゃ、これもやらなきゃって考えるタイプの人は、やっぱり忙しくなりがちなんでしょう。しかもやるならちゃんとやらなきゃと考えるので、なおさら忙しくなってしまうんでしょう。
なぜ忙しくなるのがイヤかというと、ワサワサするからです。慌ただしくなるからです。それが自分のペースを乱してイヤなんだと思います。
ぼくはスマホのアプリでToDoリストを作成するヤツを使っているんです。それでやらなきゃいけないことを忘れないようにするわけですが、そのリストの中には、やらなきゃいけないことと、まあ、やっておいた方がいいことと、できればやった方がいいことが混ざっています。早い話、やらなきゃいけない度合いが違うものが混ざっているわけですね。
しかもそういうアプリって便利なので、ちょっとでもやらなきゃいけないことをどんどん追加していってしまいます。
その結果やらなければいけない(かのように見えること)が山のようになっているんです。それが忙しさの原因じゃないかと思い、最近はそのリストから、「やらなくてもいいじゃん」みたいなことを削除しています。
これは表面的なやらければならないことを減らしていく作業ですが、そもそもの原因は自分の性格にありそうなので、そちらの方の対策として、あまりいろいろのことに気づかないようにしています。あるいは気づいてもまあいいかとか、まだいいかとか、考えるようにしています。
それから最近流行のミニマリストの方達のやり方も参考にしています。そもそも持ち物が少なかったり家が狭かったら、それらをメンテする手間は少なくなるはずだというのは、なんとなく正しい気がするから、試しにやってみています。
ノンビリゆったり穏やかに暮らしたいというぼくの思いは変わりません。すぐにでもノンビリしたいときは、何もしない時間を作るようにしています。何もしないというのはけっこう難しいので、あることだけしかしない時間を作るようにしています。といっても簡単なことで、コーヒーを飲むときはコーヒーを飲むことしかしないようにしています。テレビも音楽も聴かず、デッキでコーヒーを飲むことだけしています。そうすると気持ちがゆったり穏やかになるようです。ぼくにとっては、マルチタスクというのはよくないみたいです。
デッキでコーヒーだけを飲んでいると、いつもより五感が鋭敏になるようです。波の音がハッキリ聞こえますし、鳥の声も聞こえてきます。木々の葉の擦れ合う音も聞こえてきます。雲の流れにも気づくようになりますし、海の波の様子にも気づくことができます。これほど豊かな環境に、普段は自分が気づかないだけだったんだと思うのです。

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田舎と都会での人の距離感の違い
休みの日に時間があると、海辺を散歩して、ときどき海を眺めながらボーッとするということをします。そういう時間がとても好きなのです。
そんな時間が取りたくて、都会から海辺の田舎町に引っ越しました。
海といっても、ぼくが住んでいるのは、湘南のようなオシャレな海ではなく、熱海のような観光地の海でもありません。地元の漁師のおっちゃんが歩いているような静かな、少し寂れているといってもいい漁村です。
ぼくは好んでそういう漁村に引っ越しました。
もう何百年も前から人々がそのように暮らしている、人の暮らしがむき出しの土地が好きなのです。
そんな海辺の田舎町では、通りで見かける人やすれ違う人の顔を必ず見ます。そして知っている人なら挨拶はもちろん、たいてい立ち話をします。話すことはちょっとしたことです。
都会でそんなことをしていたら頭がクラクラしちゃうでしょうけど…
町の人はなんとなくおおよそその人の暮らしぶりを知っています。たとえば誰々の家に子どもが生まれたとか、どこそこの子どもは大学進学で大阪で独り暮らししているとか、どこそこの娘が離婚して戻ってきているとか、誰々さんの病気が重いなどなど、ぼくはあまりそういうことに興味はないのですが、そんなぼくの耳にも入ってくるのです。それ以外にも、あの人は気さくでいい人だとか、気難しい人だとか、怒りっぽいとかそういうこともなんとなくわかっています。
そんな状況が息苦しい、嫌だと思う人もいると思います。ぼくも若い頃はそう思ったかもしれません。
でも、今は別になんとも思いません。
逆に人の顔が見えて、その人がどういう人かもわかっているので、わきまえて付き合えば暮らしやすいともいえます。少なくともマンションの隣の住人がどんな人かわからないとか、同じフロアの人と会ったことがないみたいな状態の方が、ぼくには怖く感じられます。
小さな田舎町だと、見知らぬヘンな人が入って来るとわかりますし、みんななんとなく警戒します。子ども達は、町の大人を把握しているので、見知らぬ人には近づきません。
以前ぼくの妻が入院したことがありました。そんなに重い病気ではなかったのですが、退院後は近所の人やママ友がお見舞いに来てくれたり、何かと気にかけてくれました。
ぼくからすれば、老人が独り衰弱死するような、そんな都会の匿名性の高い暮らしの方が、普通ではないように思えます。
ぼくは町の人から、普通のサラリーマンで、海遊びが好きで移り住んだオジサンだと、たぶん思われているでしょう。
海辺を散歩して、ボーッと海を眺めていると、通りかかった人が声をかけてきます。「今日は仕事が休みなの?」とか「カサゴ釣りをしたらいい。誰々さんが昨日大きなカサゴを釣ってた。」とか「今日の夜空いてる?●●(飲み屋の名前)で飲もうよ。」とか…
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