海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
都会の暮らしに合う人、田舎の暮らしに合う人
何十年も前に海辺の田舎町に引っ越したのは、都会に疲れていたのかもしれません。もちろん海が好きだし、自然の豊かな場所で子育てしたかったというのも理由です。でも、一番強かったのは都会での暮らしに疲れて、イヤになってたからなんだと思うんです。
ぼくはよく人から、お人好しでおっとりしているといわれます。
それは元々そういう性格だというのもありますが、人に好かれたくて(人に嫌われたくなくて)自分でわざとやっている面もあります。
そういうタイプの人間が都会で暮らしていると、損をしたり、割を食ったり、イヤな思いをすることがあります。
お人好しな性格は、長期的にメンバーが変動しないコミュニティでは、信頼感が蓄積されてコミュニティメンバーに一目置かれるようになるので、お人好しによる短期的な損は、長い目で見ると相殺されるか得になるのです。
ただ都会のように、コミュニティメンバーの匿名性が高いとか、メンバーがどんどん変わるコミュニティでは、短期的に得をすることが最善策です。結果的にぼくのような性格の人は損ばかりすることになります。
それはたとえば、町内会とかマンションの管理組合とかPTAのようなボランティアベースのコミュニティ活動をイメージしてもらうと、わかっていただけるかもしれません。
だからきっと、ぼくのような性格の人間は都会の暮らしに合わなかったんでしょう。
今ぼくが住んでいる海辺の田舎町では、マンションやアパートという賃貸物件はありません。みんな一軒家で持ち家です。引っ越しで出て行く人や入って来る人は、たまにある程度です。
そんな町では、どこの誰がどういう人かというのはだいたいわかっているんです。人に嫌われない性格というのは、そういうところだとなかなか居心地がいいのです。いい人だと思われますし、みんなも自分を認めてくれて、ちょっと無理なお願いも聞いてくれたりします。
もちろん都会でうまくいかない人が、みんな田舎でハッピーになれるといっているわけではありません。たまたまぼくの経験でこの部分だけは理屈として成り立つことがあっただけです。
おそらくそういう町だと、自分だけの短期的な得だけを求めるガツガツした人は、長く暮らすうちに疎んじられるんだと思います。というのも、自分の得というのは誰かの損の上に成り立つことが多いと思うんですが、その損するのが町の人だとあっという間に関係がこじれるし、得の源泉である町の人もそんなに多いわけではなくて、いずれ自分の得も頭打ちになるから…
もちろん町外の人から得を持ってくれば、町の中はハッピーなんですが、それがうまくできる人とできない人はいるでしょう。
ぼくはなかなかそんなに器用にはできません。
もし、この駄文を読んでいて、都会の暮らしで何かうまくいかないと感じている人がいらっしゃったら、もしかしたらあなたは田舎の方がうまくいくタイプかもしれません。

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ノンビリ、ボーッとするのが好きなワタクシ
ノンビリするのが好きです。ボーッとするのが好きです。
急かされて何かをするのが苦手です。次から次へとやらなければならないことがあって、ワサワサするのが苦手です。
休みの日に予定が入っていなくて、海を眺めながらデッキでコーヒーを飲んでいたりすると、とても幸せです。これから何をしようかなって、自分で決められるのがいいんです。
つくづく自分は怠惰で、社会に適応していないなあと感じます。
旅先でも、予定を詰め込まないようにしています。
だからパックツアーはありえません。
行き先を決めず、できれば宿を決めず、そのとき行きたいところに行くようにしています。途中で見たいところがあったらゆっくり見ます。
離島好きの、スキューバーダイビング好きですが、普通、ダイバーは潜りをぎっちり入れます。そういうこともしません。潜らない日を作って、空いている時間にレンタカーやレンタサイクルで島をまわったり、カフェでボーッとしたり、ビーチを散歩したり、知り合った人(島のオジイとかオバアとか)とおしゃべりしたりします。別にそうしようとしているわけではなくて、なんとなくしたいことをダラダラとしていたらそうなったという日を作るようにしています。
実際は、休日でも予定が入っていないということはあまりなくて、やらなければならないことが結構ありますねえ。
だからこそ、何もしない日とか特定の目的を持たない日を作って、自分が自由であることを確認するようにしています。
無理に何かをしない方がいいと、直感が教えるとき…
だいぶおじさんのボクとしては、経験的に、これはやった方がいいなと思うことがあります。それと同時に、今はやらない方がいいなと思うことがあります。
ウォータースポーツをするようになって、危険な目に遭うことも多くなり、危険察知能力的な第六感が発達したのか、ますますその直感は当たるようになった気がします。
いろいろあるのですが、そのひとつとして、自分の体調がいまいちなときに無理に元気に動かない方がいいというものがあります。
これは天気や海況や自分の体調になんとなく違和感を感じるときに海に出るとろくなことがない経験と似ています。
なんとなく直感が行くなといっている感じとでもいいましょうか…
体調が悪いといっても、風邪をひいたとかじゃなくて、なんとなくここのところ調子が出ないなとか、自分の置かれている周囲の状況が自分に対して逆風が吹いているな、というときです。
そういう時期って、何年かに一度はやって来るように感じます。
みなさん、そう感じることってないですか?
そういう時期に無理に元気を出したり、大きなことをやろうとしたりしない方がいいような気がします。ウォータースポーツでもそういう時期に大きな冒険系の活動はしないようにしています。
無理せず、のんびり、規則正しく日々の暮らしを丁寧に過ごすのがいいような気がします。
自分の直感を信じる力というものをぼくはウォータースポーツで身につけました。直感を信じるという表現は適切じゃないかもしれなくて、直感に気づく力でしょうか?
それが結構難しくて、なんとかく面倒くさいという感覚と間違わないように注意が必要で、胸騒ぎがするとか、ピンとこないとか、しっくりこないとかそういう感覚です。
スキューバーダイビングやシーカヤックをしていると、この穴には入らない方がいいとか、あの島の裏側にまわらない方がいいとかを感じるときがあります。
理屈では説明できないにしろ、過去の経験を基に様々な情報を総合して、そう直感しているんでしょう。
ウォータースポーツにしろ人生にしろ、別に病気でもないのに、ただなんとなくイヤな予感がするというだけで、やりたいことをやらないのは不完全燃焼感があるわけですが、「まあそのうち風向きも変わるし、身の回りの環境も変わるよー」なんて思いながら、海を眺めながらコーヒーでも飲むのがいいのでしょう。

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自然の強力さ・世の中のもろさ・確かなもの
海のそばで暮らし、自然の中で遊ぶようになって、ぼくの中で変わったことはいくつもあります。その中で特に大きなことは、世の中には圧倒的に強力なものがある、ということです。
ぼくは海辺に住んでいますし、しょっちゅう海旅にも行くのですが、折々に自然の強大なパワーを見たのが変化のきっかけです。
自宅の話しでは、たとえば台風が来た翌日、うちの近くの港の防波堤がすべて根こそぎなくなったことがあります。小さな防波堤ではなくて、30mくらいの長さがある防波堤のコンクリートのかたまりがすっかりなくなっていました。それだけはなくて、港の駐車場のアスファルトが剥がれてぐちゃぐちゃになっていたのです。
旅先で見た光景では、やはり台風の時、ホテルの近くの木造の家が、丸ごと飛んでしまったのを見ました。台風が過ぎた後、近辺を散策したら、昨日まで建っていた家が無く、コンクリートの基礎だけが残っていたのです。
このときぼくはそのパワーに圧倒され、怖いと思いました。自分がすがる何かが失われたような心細さを感じました。
これは一例ですが、その後、海と近く接する生活をする中で、自然のパワーに圧倒される経験を何度もしています。
それまでは、人間が造った橋やビルや道路や港が壊れることは頭の中にありませんでした。もちろん理屈では壊れることは理解していましたが、映像以外で実際に実物として壊れた様子を見たことはありませんでした。人間が造った物は、頑丈に安定的に、そこに存在すると思っていたのです。
それがわりとよく壊れる様子を見てからは、ぼくが当たり前の存在としている、社会の構造物は以外にもろいものだと考えるようになりました。
以前、不良施工されたマンションが傾くニュースが報道されていましたが、それは珍しいことでも不良のせいだけでもなく、しばしば誰の身にも起きうることだろうと思いました。
社会の構造物が意外にもろいと理解したのち、社会自体も実はもろいんじゃないかと思うようになりました。今の日本社会は戦後の自由主義・資本主義の世界観の秩序で構成されていますが、それもぼくが考えているよりももろいかもしれないと思うようになりました。
自然というか地球という地面は、けっこう変化するし、そうした変化の前では、自分はちっぽけな存在だし、人の営みもちっぽけなものだと思います。
そうした認識の変化がぼくの実生活にどう影響したかというと、簡単にいうと刹那的になりました。日々の暮らしというか、今日一日が無事暮らせればいいやと思うようになりました。
いろいろなことを心配しても、準備しても、対策をとっても、それはあくまでも自分が考えうる範囲のことだけであって、限定的で不完全なのです。それを完全にしようとする試みは、ぼくの人生の短さからすれば、ほぼ不可能であって、だったら不完全さを受け入れて、とりあえず短期的に幸せに暮らそうと思うようになったのです。自分が幸せを感じる瞬間瞬間は、ぼくの中では事実で変わらないものなのですから…

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海を眺めていると、自分のちっぽけさを痛感します
会社の上司で、社内のライバルを敵視する人がいました。飲みに行っても、ライバルの悪口ばかり。
ぼくはそういう感情を強く持ったりしないタイプなので、その人の執拗さに驚いたものでした。世の中には、いろいろな人がいるんだなって思いました。
だいたい人の嫉妬心を感じながら酒を飲むのは旨くないので、うんざりでした。
そこまでいかなくても、誰でも他人のことが気になったり、人が自分のことを悪く言っているんじゃないかと疑心暗鬼になったり、気に入らないヤツがいたりといったことはありますよね。
ぼくはそんなとき、海のことを考えるようにしています。そして家に帰るとすぐに海辺を散歩します。
「海は何百年も何千年もそこに広がっていて、その間に陸地の地形は変わったり、人の世は移り変わったりしてるんだな。以前、このあたりに暮らしていた人も、やっぱり喜んだり、悲しんだり、怒ったり、泣いたりしたんだろうな、いや絶対そうして人は生きてきたはずだ」なんて、想像を巡らしたりします。
そんなことを考えているとたいていのことはどうでもよくなってきます。人のことなんて、どうでもいいし、それに対して怒る自分も、イライラする自分も、ちっぽけな者に感じてしまいます。というか、そんな細かいことをいろいろ考えることさえもくだらないことのように思えてきます。
「目の前には圧倒的に大きな自然が広がっていて、自分はちっぽけな存在、さらに日々の瑣事にばかり頭をいっぱいにしている自分、なんてバカバカしいことをしてるんだろう」と、そんな風に思えるんです。
せっかくこの世に生まれてきて、こうして生きているんだから、つまらないことに時間を使うのはやめようって思えるんです。
ワサワサしない暮らしの作り方
ノンビリした暮らしがしたくて、海辺の田舎町に引っ越したのでした。
以前よりはノンビリ、ゆったりした日々を送っているんですが、それでもときどき忙しいなあと思うことがあります。それで、なぜなんだろうって考えたんです。
環境のせいもあるかもしれませんが、やっぱり自分がいろいろやってしまう性格で、かつちゃんとやらなきゃと考える性格だからなんだって、最近やっと気がつきました。
あれもやらなきゃ、これもやらなきゃって考えるタイプの人は、やっぱり忙しくなりがちなんでしょう。しかもやるならちゃんとやらなきゃと考えるので、なおさら忙しくなってしまうんでしょう。
なぜ忙しくなるのがイヤかというと、ワサワサするからです。慌ただしくなるからです。それが自分のペースを乱してイヤなんだと思います。
ぼくはスマホのアプリでToDoリストを作成するヤツを使っているんです。それでやらなきゃいけないことを忘れないようにするわけですが、そのリストの中には、やらなきゃいけないことと、まあ、やっておいた方がいいことと、できればやった方がいいことが混ざっています。早い話、やらなきゃいけない度合いが違うものが混ざっているわけですね。
しかもそういうアプリって便利なので、ちょっとでもやらなきゃいけないことをどんどん追加していってしまいます。
その結果やらなければいけない(かのように見えること)が山のようになっているんです。それが忙しさの原因じゃないかと思い、最近はそのリストから、「やらなくてもいいじゃん」みたいなことを削除しています。
これは表面的なやらければならないことを減らしていく作業ですが、そもそもの原因は自分の性格にありそうなので、そちらの方の対策として、あまりいろいろのことに気づかないようにしています。あるいは気づいてもまあいいかとか、まだいいかとか、考えるようにしています。
それから最近流行のミニマリストの方達のやり方も参考にしています。そもそも持ち物が少なかったり家が狭かったら、それらをメンテする手間は少なくなるはずだというのは、なんとなく正しい気がするから、試しにやってみています。
ノンビリゆったり穏やかに暮らしたいというぼくの思いは変わりません。すぐにでもノンビリしたいときは、何もしない時間を作るようにしています。何もしないというのはけっこう難しいので、あることだけしかしない時間を作るようにしています。といっても簡単なことで、コーヒーを飲むときはコーヒーを飲むことしかしないようにしています。テレビも音楽も聴かず、デッキでコーヒーを飲むことだけしています。そうすると気持ちがゆったり穏やかになるようです。ぼくにとっては、マルチタスクというのはよくないみたいです。
デッキでコーヒーだけを飲んでいると、いつもより五感が鋭敏になるようです。波の音がハッキリ聞こえますし、鳥の声も聞こえてきます。木々の葉の擦れ合う音も聞こえてきます。雲の流れにも気づくようになりますし、海の波の様子にも気づくことができます。これほど豊かな環境に、普段は自分が気づかないだけだったんだと思うのです。

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田舎と都会での人の距離感の違い
休みの日に時間があると、海辺を散歩して、ときどき海を眺めながらボーッとするということをします。そういう時間がとても好きなのです。
そんな時間が取りたくて、都会から海辺の田舎町に引っ越しました。
海といっても、ぼくが住んでいるのは、湘南のようなオシャレな海ではなく、熱海のような観光地の海でもありません。地元の漁師のおっちゃんが歩いているような静かな、少し寂れているといってもいい漁村です。
ぼくは好んでそういう漁村に引っ越しました。
もう何百年も前から人々がそのように暮らしている、人の暮らしがむき出しの土地が好きなのです。
そんな海辺の田舎町では、通りで見かける人やすれ違う人の顔を必ず見ます。そして知っている人なら挨拶はもちろん、たいてい立ち話をします。話すことはちょっとしたことです。
都会でそんなことをしていたら頭がクラクラしちゃうでしょうけど…
町の人はなんとなくおおよそその人の暮らしぶりを知っています。たとえば誰々の家に子どもが生まれたとか、どこそこの子どもは大学進学で大阪で独り暮らししているとか、どこそこの娘が離婚して戻ってきているとか、誰々さんの病気が重いなどなど、ぼくはあまりそういうことに興味はないのですが、そんなぼくの耳にも入ってくるのです。それ以外にも、あの人は気さくでいい人だとか、気難しい人だとか、怒りっぽいとかそういうこともなんとなくわかっています。
そんな状況が息苦しい、嫌だと思う人もいると思います。ぼくも若い頃はそう思ったかもしれません。
でも、今は別になんとも思いません。
逆に人の顔が見えて、その人がどういう人かもわかっているので、わきまえて付き合えば暮らしやすいともいえます。少なくともマンションの隣の住人がどんな人かわからないとか、同じフロアの人と会ったことがないみたいな状態の方が、ぼくには怖く感じられます。
小さな田舎町だと、見知らぬヘンな人が入って来るとわかりますし、みんななんとなく警戒します。子ども達は、町の大人を把握しているので、見知らぬ人には近づきません。
以前ぼくの妻が入院したことがありました。そんなに重い病気ではなかったのですが、退院後は近所の人やママ友がお見舞いに来てくれたり、何かと気にかけてくれました。
ぼくからすれば、老人が独り衰弱死するような、そんな都会の匿名性の高い暮らしの方が、普通ではないように思えます。
ぼくは町の人から、普通のサラリーマンで、海遊びが好きで移り住んだオジサンだと、たぶん思われているでしょう。
海辺を散歩して、ボーッと海を眺めていると、通りかかった人が声をかけてきます。「今日は仕事が休みなの?」とか「カサゴ釣りをしたらいい。誰々さんが昨日大きなカサゴを釣ってた。」とか「今日の夜空いてる?●●(飲み屋の名前)で飲もうよ。」とか…
海を眺めながらデッキでビールを飲むのが好きです…
海を眺めながら、ビールを飲む気持ちよさは、わりといろいろな人に共感してもらえます。
「あぁ、いいよねー」っていう感じです。
海辺に住んでいるとこれが毎日できます。
というか、それがしたいために海辺に住んでいるといってもいいくらいです。
これだけじゃあつまらないので、ぼくはもっとこだわるようにしています。
まず身体を動かします。
ぼくはサーフィンとかスキューバーダイビングとかシーカヤックをします。
海を存分に楽しんだら、次は潮を流してさっぱりしたいですね。どうせ流すなら温泉の方がうれしいです。
どうせ温泉に入るなら海が眺められる温泉がいいですよね。そこにゆっくりつかります。温泉に入ると筋肉がほぐれてフニャフニャになって、それもいいですね。
それで、もう後は寝るだけにしておいて、いよいよビールです。
海が見えるデッキがいいですね。やっぱり外がいいんです。
潮風が当たって、波の音が近くに聞こえて、夕陽を浴びる、そんな中で飲むビールがうまいんです。
海を眺めると、夕陽が山の端にかかろうとしています。海には少し波が立っていて、赤・黄・オレンジにきらめいています。
そんなビールが飲める日々ってシアワセですね。
旅先での友人との距離感
ぼくはいろいろ海遊びをするのですが、多いのはスキューバーダイビングとシーカヤックです。
その二つにはそれぞれおもしろいことがありまして、スキューバーダイビングは、チームで潜ることが多いので、みんなで行動する楽しさがあります。もちろん他の楽しさもありますけど…
シーカヤックは、ぼくは独りで乗ることが多いのです。なので、自由にできる楽しさ、独りで自分に向き合うおもしろさがあります。
ぼくは欲張りなのか、独りでいると仲間に会いたくなるし、仲間とずっといると独りでいたくなります。
仲間と語り合い笑い合う楽しさというのも確かにありますし、独りで自由に行動し、自分に深く向き合う魅力もあります。
長年、いろいろな仲間と海旅をしてきましたが、どのくらい一緒にいるのが適しているかというのは、人によって違うように思います。
四六時中ベッタリ一緒にいたがる人もいますし、飯の時だけしか一緒にいなくて、あとは銘々勝手に行動したがる人もいます。
ぼくは明らかに後者です。
まあ、いい歳したオジサンが夫婦でも家族でもないのに、四六時中ベッタリいられる方が珍しいんじゃないでしょうか?
旅行中の喧嘩というのは結構あるみたいですしね。
これまでで一番快適だったのは、現地集合で、スキューバーダイビングの時と晩メシの時だけ一緒で、後は自由行動という旅でした。ぼくにはそのくらい距離感が快適なようです。
なぜ、そうなのかという理由を考えてみると、ぼくは自分が話す方ではなくて、人の話を聞くことが多いタイプです。人の話を聞くというのはけっこう注意力とかエネルギーが必要でして、特に相手がおしゃべりな人だと、のべつ幕なしにエネルギーを奪い続けられる感じがします。感覚としては言葉の銃弾を浴びせられる感じに近いかもしれません。それで疲れてしまうんだと思います。
もう少し正確に書いてみると、人の話を聴いて、相づちをうったり、リアクションしたりするのは、いったん人の話を理解して、自分の中に受け容れて、それでも自分が傷つかないように気をつけて、相手の気持ちを考えながら反応することなので、ちゃんとやろうとすると、けっこうたいへんなのです。
なので、少し無口なくらいの人と旅をして、お互いがたまにポツリポツリと話すくらいがちょうどいいようです。
ぼくが自然が好きなのも、そういうところがあるのかもしれません。自然はぼくに話しかけてきませんから…
海辺の男の生き方…こんな風になりたい
ぼくの海遊び仲間は、無骨で、ぶっきらぼうで、タフな奴が多いです。
もともとの性格は違っていたんでしょうが、海というフィールドで生き残るために必要な特性が身についていったのでしょう。
慎重に考え、素早く行動する人が多いのです。理屈よりも結果、楽しんで生き残ることが善、自分の判断力と体力がすべて…
そんな仲間に囲まれて過ごすことが多いので、仕事などで東京の大企業とか官庁とかの理屈っぽくて、細かくて、人のミスを誘い、自身の出世を考える、ヒョロッとした青白いヤツとやりとりするとストレスが溜まります。
ぼくが仲良くなる男の友達というのは、小さい頃から一貫しているので、たぶんぼくの中にそういう特徴があるのか、育った環境によるものなのでしょう。
そんなぼくが好きな男性像がそのまま出てくるのが、山本周五郎の『樅の木は残った』です。
主人公である原田の意思が強くて、自分の使命や役割を全うしようと、価値観や好き嫌いや憎しみや苦しみを表に出しません。そのストイックさは痛々しいくらいです。
自分の家柄が家老であり、自分がその家の主であり、主家を守るために果たさなければならない役割を果たすため、日々の言動、人付き合い、家族との接し方などすべての行動を制御していきます。そしてとうとう主家のため、自分の命を投げ出してしまいます。
孤独な原田は樅の木を愛します。春夏秋冬、何年経っても、そこに凜として静かに立っている樅の木を愛します。そして自身も樅の木のように生きたいと考えます。
原田は幼い頃に体験した自然の中の暮らしを愛します。山の中にこもり、猟をする生活は、武家に生まれ、家を担わなければならない義務から解放される場所なのでしょう。
『樅の木は残った』を読むたびに、人の一生とは何なんだろうと考えてしまいます。自分らしさとか、自分の意思とか、自由とかって何なんだろうと考えてしまうのです。それって究極の理想で、現実に存在しないものなのじゃないかなって思うのです。
ぼくはといえば、現代に生まれ、普通の家に育ったので、江戸時代の武家の長男ほど重荷を負ってはいません。それでも男として生まれ、資本主義社会で競争し生き残るために、いつも他者に負けないようにしてきました。学校での勉強、スポーツ、受験…その競争は、終わりがありません。
オジサンになった今も、職場でお荷物にならないように、社会人として恥ずかしくないように、家族に迷惑をかけないように、日々油断はできません。
人は社会で生きるために、その社会のルールから逸脱しないよう、何かしら自制しないといけないのでしょう。完全に自由な人などおそらくいないはずです。
ぼくは海遊びをしますが、それは社会的なルールや責任から一時的に解放される場所だからです。自然に安らぎを求めるところも『樅の木は残った』の原田に共感するところです。
ぼくが『樅の木は残った』が好きなのは、男が生きる上での不自由さを、武家の男の心情に反映させているように読み取るからかもしれません。
そして自然の中での時間を、一時の安らぎの場所としてする様子に共感するからかもしれません。
男の負っている責任と誰にも本心を打ち明けられない孤独さと逃げ場のないプレッシャー。それと対比される自然の中での安らぎ。
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