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視界の広がりの大切さ

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 ずーっと以前のことですが、街に住んでいたことがあります。その頃のことで今でも忘れられない、ちょっとした出来事があります。

 遅くまで仕事に追われる日々で、ある週末、ふとしたことで多摩川の川原を散歩したときのことです。目の前に広がった川原。向こう岸の街。広い空。あのときの開放感や気持ち良さは、今でも思い出すことができます。

 そしてそのとき感じたのは、自分が毎日、視界のふさがった空間で暮らしているかということです。
 建物が密集し、ビルで空は小さくしか見えない。そんな風景が当たり前になっていました。
 毎日が、都心にある会社と周囲に建物が密集した自宅のマンションとの往復。
 たぶんそうした日々の中で、当たり前になっていた閉塞的な生活の異常さに対して、ぼくの心の奥のアラームが「警告」を発したんだと思います。

 これはヤバいんじゃないか?と自覚したので、それからというもの週末は朝4時頃に起きて、伊豆にダイビングに行ったり、外房にサーフィンに行ったりすることを、なかば義務のようにしました。

 そこには広い空と海が広がっていて、いるだけでココロの奥のコリみたいなものがほぐれていく実感がありました。肩こりが慢性化すると、肩がこっていることにすら気がつかないで、マッサージに行ってこりがほぐれると、その時初めてどれほど肩がこっていたのかわかる、っていうのと似ているかもしれません。

 週末にココロの奥のコリをほぐす時間を持つことで、ぼくのぼくらしさは、かろうじて保てていたんだと思います。

 その頃から、いつかは海辺に住みたいと自覚するようになったんですね。

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海はルールがないのがいい

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 家族からブーイングがあるんです。
 休みの日にディズニーランドや富士急ハイランドみたいな遊園地に連れて行けっていわれるんですけど、ぼくはああゆうところが苦手なんです。

 だいたい人が多いのがイヤです。
 並ぶのがイヤです。
 それから遊ぶことを決められているのがイヤです。
 次は何して、次は何してって強要されている感じがするのもイヤです。
 わざとらしく作られたアトラクションがバカバカしくてイヤです。

 ぼくは海っ端で、シーカヤックしたり、シュノーケリングしたり、バーベキューしたりと勝手に遊ぶのが好きなんです。
 ルールのないところで自分なりに遊ぶのが好きです。
 もちろん海にもルールはありますが、陸に比べればそれはかなり少ないと思います。

 こんなの当たり前だと思っていらっしゃるでしょうが、陸上では普通の道を通るのさえめんどくさいルールが山ほどあるじゃないですか。
 やれ左側通行だとか、信号があったりとか、自転車は左側の車道を走れとか、そういうのが…

 なんにもない海の上を気ままにシーカヤックで漕いでいると、陸のルールの多さをあらためて感じます。

 よくよく思い出してみると、ぼくは子供の頃からルールが苦手でした。遊具のある公園よりも、ただの原っぱで自分達で遊びを考える方が好きでした。
 でも、ぼくの子供は違うみたいで、まあそれはしかたないんですが、例の遊園地に行くと思うと気が重いなあ。

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The Endless Summerのようにさすらいたい


 イージーライダーを気取る気もないんですが、さすらうことに憧れがあります。しかも世界中の海辺を…

 サーフムービーで記念碑的な作品に『The Endless Summer』(You Tube)がありまして、これは数人のサーファー仲間が世界中の波がいいところを旅してまわるというストーリーです。
 サーファーなら誰もが憧れます…かね?

 季節ごとに一番過ごしやすい海辺を転々と移り住んでいく、それがぼくの憧れです。
 海はそれぞれに特徴や良さがありますから、どこって決めるのがツライんですね。どこの海もそれぞれにいいところがありますから、それを味わいたいんです。

 あとは2、3年ぐらいで引っ越していくというのもいいかもしれません。
 暮らしてみて季節がひと回りするとその土地のよさがわかるということもありますから…

 とにかく世界中にはたくさんの魅力的な海辺があって、とうてい死ぬまでに巡りきれないんですが、行けるところまで行ってみたいという気持ちが年々強まっているぼくです。

 あー、海っていいですね。




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岬の灯台の灯りに癒されたりして

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 ときどき夜の海を散歩します。
 夜の海の散歩というのは、日中の散歩とはまた違った良さがあります。
 たとえば灯台や漁り火。

 家からしばらく歩くと灯台の灯りが見える場所があります。
 灯台の灯りというのは、他の灯りと違った味わいのあるものでして、切ないような、心細いような気持ちになります。
 月明かりのない暗い夜ですと、真っ暗な中で、周期的に光る灯台の灯りが、ひときわ印象的です。
 灯の当たる一時だけ風景が見渡せて、あっという間に暗闇に紛れてしまいます。
 その陰影と儚い感じが切ない気持ちにつながるのでしょう。

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海は広くて自由である

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 休日に田舎の海で遊んで、平日に街で仕事をする、そんなふたつの世界を行ったり来たりしていると、街の暮らしとはなんてルールが多いんだろうと思います。

 人間が寄り集まって暮らすということは、これほどまで個人の自由を制約するものなんだなあとつくづく感じます。

 電車に乗るとき、歩道を歩くとき、エスカレーター、エレベーター、レストランやカフェ、どこもルールでいっぱいです。

 いつも違和感を感じるのは、田舎の暮らしでは、家も車も鍵をかけないのが普通です。車の鍵なんか付けっ放しです。
 でもそれって街の暮らしでは、あり得ないことですよね。そればかりか街角や電車でバッグや貴重品なども不用意に置いておけません。

 ひつひつのことは細かいことなんですが、そういう細かいことがすごくストレスに感じるんですね。

 そんなルールは当たり前のことなので、普段は無意識にやっているわけです。でも休日に海で自由に遊んで、ルールのない世界に浸ってしまうと、街の暮らしのルールにすごく違和感を感じてしまいます。
 それが以下に心理的に負荷を与えているかを実感します。
 無意識のストレス…なんて言葉が浮かびます。

 生活上の心配がなければ、ずっとルールの少ない世界で暮らしたいわけですが、なかなか簡単にはいきません。

 ぼくはたまたま街の暮らしのルールの違和感を自覚できているわけですが、もし、その暮らししか知らないで、そのルールの当たり前として暮らしている人は、いったいどんなココロの状況になっているんだろうと想像するんです。

 自分が小さく凝り固まっているか、無意識のストレスで心身が疲れているか、ストレスに強くなっているか…

 いずれにしろぼくはそういう人とは、たぶん友達にはなれないでしょうね。

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里山を散歩しつつ、海を眺めつつ

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 ぼくの家の近くに子安の里という山里があります。
 今は湘南国際村という開発地なんかができてしまって、だいぶ自然が失われてしまいましたが、以前はもっと緑が深い山里でした。
 今でもその面影は残っています。

 この山里を散歩するのがちょっとした楽しみです。

「今は梅雨だろう」って、そんなお侍さんご冗談をおっしゃちゃあいけません。休日は雨が降っていようと、家の中にいるくらいなら、濡れた方がよっぽどましなオイラです。

 まず、なんといってもノンビリしていること、そして緑が多くて、木々や鳥などを眺めるのがおもしろいこと、そしてときどき山あいを縫って海がキラキラと輝いて見えることです。
 特にこの時期は新緑が濃くなって、そんな緑の中にいると、緑の命の勢いみたいなものを実感できます。
 もうちょっとスピリチュアルなアブナイ系のいい方をすると「なんか緑のパワーをもらっているみたいなの」っていう感じです。

 細い山道を登っていると、野菜の無人販売所があります。そこで格安の野菜を買うのも楽しみのひとつです。
 先日も赤ちゃんくらいの大きさの三浦大根を100円で買って帰るときは、これをどう料理しようかとニマニマしながら帰ってきました。

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自由な生き方への媒介としての海

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自由に生きたいって思ってもそれができる人はほとんどいなくて、誰でも何かしらの制約の中で生きているのではないでしょうか?

ただどの程度自由かというのは、人によってだいぶ差があるような気がします。
ぼくには想像できないですが、もしかしたら自由じゃない方がいいという人もいるかもしれません。(きっちりした組織で忙しそうに、でも楽しそうにしている人を見るとそんなに少数派というわけでもなさそうです)

自由であればあるほどいいのですが、どの程度実現できるかは、人それぞれ事情があるのでなんともいえません。
ぼくにとってのささやかな自由は海で遊ぶこと、海と接することです。
海にだってルールはありますが、基本的に自分が死なないで、人に迷惑をかけなければいいというところがあります。そのシンプルさが好きです。
自由だと感じます。
何かから解放される実感が確かにあります。


例えばシーカヤックで海に出ると、とりあえず日頃の雑多な用事からは離れることができます。心理的にも物理的にも…。
海の上では、自分が安全に航海して戻ってくることだけに専念できます。
仕事の課題とか家族の用事とか自分の悩みからは解放されます。
海の上には、道路も信号もありませんし、どこへ行くのも自由です。正確には航海のルールがありますし、他の船が多い時は注意すべき事があります。それでもやっぱり、かなり自由だと感じます。
ぼくにとってはルールがたくさんあって安全な場所より、多少危険でも自由なところが、居心地がよく感じます。
たぶんこのあたりの感覚の差が、自由をどの程度求めるのかという個人差になってくるのでしょう。
ルールがキチンとしていて、安全で、組織に帰属している状態を快適と感じる人も当然いるわけですね。

ぼくにとって、海にでることは、世の中の雑多な制約から少しだけ離れることができる媒介です。
もしあなたがもう少し自由であることを望んでいるのであれば、海に接してみるというのも、ひとつの手かもしれません。もちろん他にいろいろな方法があるとは思いますが…


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休日はノンビリしています

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 なぜ通勤に時間をかけても海辺に住むのか?

 時間効率至上主義の方々から見れば「人生の無駄だ」なんて一蹴されてしまいそうです。

 いやだからそのあの、海が好きだからです。
 仕事が終わったら、空間的にも気持ち的にも仕事から距離をおいて、プライベートな時間を楽しみたいからです。

 通勤の途中で海を眺めることができるんですが、そのときは行きも帰りもホッとします。海の様子をチェックして、次の休日にどんなウォータースポーツをしようか思いを巡らすのは楽しい時間です。

 仕事で忙しい時、テンパっている時、少しでも海を眺めると、気分が変わります。今の場所に住んでなくて、もっと都心の職住近接した場所に住んでいたら、ぼくは健康を害していたでしょう。

 海辺の暮らしの良さは休日です。
 うれしくて朝から早起きしてしまいます。ウォータースポーツに出かけることもありますし、海を眺めながらノンビリすることもありますが、とにかく休日の充実度合いは最高で、この楽しみを味わうために生きているんだとさえ思ったりしてしまいます。

 本当なら海辺の仕事、できればウォータースポーツ関係の仕事なら、もっといいんでしょうが、それも一概にはいえません。
 以前、スキューバーダイビングのインストラクターをしている友人と話したのですが「飽きる」こともあるようです。「趣味のうちは楽しいけど、仕事となると違う」ということもあるようです。

 そういう意見もあるということは、ぼくの今の状況もそれはそれでいいのかな、って思ったりします。

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都会人の友達が遊びに来たときの違和感

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 先日、大学時代の友人が我が家に遊びに来ました。彼は東京の港区のマンションで暮らしていて、仕事もそのあたりの外資系の会社なんですね。

 最寄りの駅まで迎えに行き、我が家まで戻る途中、海が見えるポイントがあるんですが、彼は「オッ海だ」と喜んでいました。
 海が見えることに喜んでくれたことに、ぼく自身も嬉しくなりました。

 家に着いて、荷物を下ろして、まずはお茶でもということで、コーヒーを飲みながら、昔のことをいろいろ話しました。

 そのうち友人が海が見たいというんで、海に向かいました。

 ぼくはどんどん波打ち際へ向かって歩いていたんですが、彼は砂浜の手前で彼は止まってしまうんです。彼がついて来ないんで、どうしたのかと思って、彼のところまで引き返しました。
 そうしたら靴が砂で汚れるのがイヤだから、ここで海を見るだけでいいそうです。

 ぼくは「出たな」と思いました。
「こういうヤツいるんだよな」と思いました。

 我が家には年に何人もお客さんが遊びに来るんですが、彼のようなタイプが少しだけいます。正直いって海好きなぼくとしては、こういうお客さんは海に連れて行き甲斐がないんですね。
 なんか肩すかしを喰ったような感じです。

 別にみんながみんな海が好きでなくてもいいんですが、せっかく遠いところ来てくれたわけなんで、ちょっとは楽しんで欲しいなと思うわけです。

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「男はいつまでもガキ」ですね。

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 隙があれば、やれスキューバーダイビングだ、シーカヤックだ、サーフィンだと遊び呆けておりますです。

 ときどき相方の冷ややかな視線を浴びることがありますが、見なかったことにして、遊びまくっています。
 彼女にいわせると男というのはいつまでたってもガキで、どうしようもないそうです。

 そのことを聞いて、「あっそれいいな!」って思いました。そうです「男はいつまでもガキ」なんです。それでいいんです。

 ぼくの友人だって突然タヒチに移住しちゃったり、自分家の庭にツリーハウスを作っちゃたり、シーカヤックで伊豆大島まで遠征しちゃったり…そんな人がいっぱい。

 まさにガキの頃の夢を追いかけている人達。

 でも、夢があっていいじゃないですか。
 飯だけ喰って、金を貯めて死んだってそんな人生つまらないですもん。
 どうせ生まれてきて一度の人生なんだからやりたいことをやればいいかなーって。

 「男はいつまでもガキ」ですね。

 それで思い出したんですが、八ヶ岳の麓の原村でカナディアンファームをやっているハセヤンという、その世界では有名な人がいまして、この人なんかは、ガキがそのまま大きくなった典型(あくまでも最上級の褒め言葉です)。
 ぼくもハセヤンの生き方に影響を受けてます。

 ちなみに「男はいつまでたってもガキ」というフレーズは、「彼女が水着にきがえたら」というホイチョイの映画の中で田中美佐子さんが使っていました。
 とてもいいフレーズですね。



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