海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
からっぽの時間って大切ですね
毎日忙しくすごしていらっしゃる方が多いんではないかなーと思います。
特に大きな用事がなくても、細々したことをやっているうちに一日が過ぎてしまった、なんていう経験は誰しもお持ちのことでしょう。
ああなんだか忙しいですね、というのはもう日常会話の時候のあいさつみたいな感じです。
そう、やることというのは、際限がないですね。さらに家事などの細部にこだわっていくと、やることは尽きません。
休日に、今日はちょっとノンビリしようかなと思っていて、掃除を始めたら、結構大掃除になってしまって、一日が終わってしまったなんてこともあります。
そうなんです、何かをやるとキリがないんです。
それはそれでいいんですけど、それだけだと疲れてしまうこともあります。
そういう日々からエスケープするために、ぼくは海で遊ぶ時間は、それしかやらないことにしてます。
たとえばビーチでお茶するとき、海辺を散歩するとき、スキューバーダイビングをするとき、シーカヤックをするとき、セイリングをするときは、ぼくはそれだけしかしないようにして、頭の中も他のことは考えないようにしています。そういう風に努力しているといえるかもしれません。海にいるときに、ぼくは、意識のある回路のスイッチをオフにしてしまうのです。
というわけで、ぼくが海にいるときは基本的にからっぽの時間なんです。もちろん何かをやっているんですが、それだけに集中しているので、頭は結構休んでいる気がします。シーカヤックなんていい例ですが、ひたすらパドリングをするわけです。自分のペースを守って、自分の身体の使い方に集中してパドリングします。そうすると頭の中がからっぽになります。
この感覚は、座禅をしているときと似ている感じです。そう、ぼくは年に何回か建長寺で座禅を体験します。そのときの感覚に似ているのです。
そして座禅や瞑想の効用としていわれることですが、頭をからっぽにすると、気持ちがとてもラクになりますし、頭からくる疲れ(自律神経系のなどの疲れ)がとれるような気がします。
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自然に囲まれた暮らしを丁寧に楽しみたい
ずいぶん前のことですが、伊豆を旅行したときのことです。こぢんまりとした旅館に泊まったのですが、山の斜面にあり、宿全体が緑に囲まれて、でも高台にあるので海が望めるという宿でした。当時東京の街中のビルに囲まれたマンションに暮らしていたので、緑に囲まれた安らぎ、海が目の前に開けている解放感が印象的でした。夜には虫の声を聴きながら眠りにつき、朝は鳥の声で目が覚めます。朝、カーテンを開けると海の青と森の緑が朝陽に照らされて目に飛び込んできました。そのとき自然に囲まれて過ごす素晴らしさを実感したのでした。それ以来、緑に囲まれて、かつ海を眺めながら暮らすことに憧れていました。
ぼくが今の家を探すまで、いろいろな土地や家を見て回ったのですが、求めていたイメージは、このときの伊豆の宿の立地でした。森の中にあって、海が望めるという条件です。
幸い巡り合わせがあって、イメージどおりの土地に出会いました。
夏は蝉の声がうるさいくらいに聞こえ、夏が終わりに近づくにつれ、夜には虫の声が混じるようになります。朝もいろいろな鳥の声が聞こえます。ぼくは虫や鳥の種類がわからないので、そういう点ではすごくもったいない暮らしをしていると思います。
夜、目をとじると虫の声と波の音が聞こえます。それを聞きながら眠りにつくのはとても幸せなことだと思っています。
ときどき出張で街中のホテルに泊まることがありますが、ビルに囲まれて全体に灰色の閉塞感のある空間にいると、ちょっと息苦しささえ感じます。早く家に帰りたいなと思います。
いつの頃から自分がこんなに自然を求めるようになったのかわかりません。もしかしたら年齢を重ねるごとに、自分の嗜好も都会的なものからナチュラルなものへと変化したのかもしれません。
よくテレビや雑誌などで定年後に田舎暮らしをする人の事例が出てきますが、あの気持ちはよくわかります。人の加齢による変化というのは不思議ですね。
自分の身の丈に合わせて生きていきたい
偏屈なのかもしれない話ですが、自分が苦手な人達がいまして、それは、映画とかテレビドラマで必死に働いて目標を達成したりする人達だったり、東京のビジネス街とかで仕事ができるビジネスマン的に早足で歩く人だったり、黒塗りの車の後部座席に座って、自分が日本を動かしているみたいにふんぞり返っている人だったり、高速道路の追越し車線を前の車をやたら煽って急いでいる人だったり、まあそういうタイプの人というのが苦手で、友達にはなりませんし、そういう人がそばにいると離れるようにしています。
そういうタイプの人にはその人の価値観があって、やりたいことがあって、一生懸命やっているので、それはそれで勝手にやればいいわけですが、自分はそういう風に生きないし、そういう人に近づかないということです。
ましてやそういうタイプの人が自分の価値観ややり方を押しつけてきたり、こちらを軽蔑してきたりすると、それはキッチリ反抗します。
もう少し正確に言うと、夢や目標があるのは別にいいと思うんですが、そのやり方の不自然さに違和感があるんです。
そんなにカリカリ、自分は一生懸命やってるぞどうだ的にやらなくてもいいんじゃないの?って思うんです。別に誰も一生懸命やってくれって頼んでいないと思うんですけど…
それに経験的にいって世の中のことって、そんなに自分がカリカリしなくても、まあたいていなんとかなるわけです。その人がいなくても回っていくわけです。もっといえば、その人がどんなにスゴいことをやっても50年か100年すれば、たいてい跡形もなく消えてしまうものです。
ぼくだって、やはりこだわりやどうしてもやりたいことは一生懸命やってしまいますし、やることがなければ、やらなくてもいいことまで一生懸命やったりします。それでうまくいかないとイライラしたりしまうんです。そんな自分に気がつくと、「オレは何をやっているんだろう」って思ってしまいます。
これを徹底してしまうと、虚無的な、世捨て人的な生き方になるのかもしれませんが、そういう考え方自体が昔からあったということは、やはりぼくと同じように考える人がいるということでしょう。
世捨て人的に諦めるんじゃなくて生涯を全うすればいいと思うんですが、それがライバル心だったり、他者と比べて自分が幸せだと認識するのはちょっと違うんじゃないかなと思うんです。
まるで「アリとキリギリス」の話みたいになっちゃいますが、実際、本物の蟻が自分よりも大きな荷物を背負って運んでいるのを見ると、自分を見ているようで身につまされます。
もし宇宙人とか神様みたいな存在がいて、その人が地球を遠くから眺めていたら、人間はその蟻そっくりに見えるだろうなーと想像します。
責任感を持って、一生懸命やろうと頑張って、そして疲れてしまう。ましてや人によっては追い詰められて鬱病を発症したり自殺してしまう。そういうのって本末転倒じゃないでしょうか?
童話ではキリギリスは冬に飢えてしまって蟻に助けを求めるんですが、ぼく的には、たぶん蟻の中には働き過ぎて疲弊して寿命が短くなったり、病気になったりしている蟻(さすがに蟻は自殺しないような気がしますが…)がいるんじゃないかと思います。
いろいろ想像してみるとキリギリスだって蟻だって所詮は儚い人生ではないですか。
ぼくにはぼくの生まれつきがありますし、身の丈があります。それに合わせて暮らしていきたいなと思うわけです。あまりこだわらず囚われず日々の暮らしを楽しんで過ごしたいと思います。

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海辺暮らしの日常生活~散歩編~
海辺の暮らしのよさをしみじみと感じられるのは、散歩とビーチでボーッとする時間ではないかと、歳をとってきたぼくとしては思うのですね。
旅先の海では時間を惜しむように観光し、地元にいるときは朝からウォータースポーツをしてきたぼくです。若い頃はただの海水浴客をバカにし、海に来てBBQしかやることがない奴を無能呼ばわりしていたぼくですが、そんな以前の自分を反省し、悔い改めている今日この頃です。ああ神様…
最近の我が家のよくあるパターンは、相方と一緒に、チェアとテーブルとお茶とお菓子とアウトドア用のバーナーと水を持って地先のビーチに行きます。
それも突然。散歩は突然やって来る、とは相方の言葉です。
天気がよくて、用事がなくて、ちょっと時間が空いたときに、ちょっと海に散歩に行ける、というところが海辺の暮らしのとてもいいところです。そういえば昔都会で暮らしていたときは、今度の週末は海に行くぞーと計画を立てて、出かけていましたっけ。
ビーチの風の来なさそうな、日当たりのよさそうな場所(季節やその日の風向きによって違います)にお店を広げます。
とりあえずチェアに座ってボーッとします。
といいつつ、ぼくは海を見ると反射的に風向きとかうねりとか波とか潮流が気になるので、そういった海況を観察してしまいます。
目の前は海と空、そして海と空、やっぱり海と空。
海と空しかないのが、海好きじゃない人にはつまらないようですが、ぼくにとっては、だから落ち着けるというわけです。
海と空を眺めながら、相方ととりとめのないことを話したり、話さなかったり、景色を見たり、見なかったり、そんな時間が流れたところで、ビーチを散歩します。広げたお店はそのままです。別に誰かが盗るわけもなく、片づけるのも面倒ですから。
ゆっくりのんびりビーチの端まで歩きます。相方はときどき流れ着いたガラスの破片や貝殻を拾っています。
散歩が終わって、またチェアに座ってボーッとします。なんだかやたらボーッとしてますが、実際そうです。海と空を眺め、木々の色合いで季節の移り変わりを実感します。潮風を深呼吸します。空を舞う、鳶やカモメや海鳥を眺めます。
なんとなく頃合いを見て、ぼくはバーナーをセットし、ヤカンに水を入れて湯を沸かします。ぼくはドリップコーヒーを淹れ、相方は紅茶を淹れます。わざわざ湯を沸かしてお茶を淹れるのは、淹れたてがおいしいからですが、やはり温かい物を飲むとホッとするということもあります。
お茶を飲みながらお菓子をつまみます。
ゆっくりお茶を味わう時間。しかも屋外で、海のそばで、ゆっくりお茶を味わう時間。お茶を味わうことに集中する時間。お茶を味わうこと以外しない時間。そんな時間を1日に30分でも1時間でもとれたらいいのになと思ったりします。今は何も用がない週末になんとか時間がとれる程度です。
そんなことをしていると家族で散歩している知り合いがとおりかかったりして、世間話をします。一緒にお茶を飲んだりします。
海辺ではみんながのんびりしていて、いつもより和気あいあいとした雰囲気になるような気がします。もしかしてみんながこんな気持ちで暮らせれば、世の中は平和になるのかも、いやいやそんな単純なことではないでしょう。
空はどこまでも広く、海もずっと先まで広がっています。
毎日やらなければいけないことはたくさんあります。先々を見てもやることはたくさんあります。やってもやってもやるべきことは、また新たに発生します。目標を立ててたどり着いても、次の目標があらわれます。お金を貯めてもさらに貯めたくなるでしょう。会社を興して、順調でも、もっと大きくしたくなるでしょうし、業績が悪くならないように日々気にしなければならないでしょう。
なんとかこれまで生きてきました。今のところ、家族は健康で、今日明日、とりあえず食べることに不自由はなさそうです。
それでじゅうぶんではないか、と自分に確認します。これまでも何度も思ったことですが、もう一度確認します。
日々を、丁寧に、充実して、過ごしたい
蓼科のハーバルノートシンプルズの萩尾エリ子さんの書かれた本、『八ヶ岳の食卓』が好きで、何度も読み返しています。
特に仕事が忙しいとか、追い込まれた局面で読むと気持ちが落ち着くのです。
日々、起きることが淡々と丁寧に書かれていて、本を読んでいると、その落ち着いた雰囲気に、自分の気持ちがシンクロするような感じがします。
生きていれば、楽しいことも悲しいこともあります。そうした出来事を喜んだり悲しんだりするのも、人である以上仕方のないことです。ですが、そうした出来事はあっという間に過ぎ去り、忘れられていきます。なので、あまりそうした感情に流されすぎないようにした方がいいような気がします。
人生は、長いようで短いようにも思えます。ただ、何十年という人生は、毎日の積み重ねなのですね。その毎日を丁寧に過ごす、楽しむ、充実して過ごす、ことに集中できれば、それが後で振り返れば充実した30代とか○○代だったり、思い出に満ちた人生だったりするのかなあと思います。
そうした心持ちが本として読み手の目の前に提示されるのが『八ヶ岳の食卓』です。
萩尾エリ子さんはハーブを育て、ハーブに関する商品を作っていらっしゃいます。ぼくは以前から感じていたのですが、ガーデニングとか林業などといった植物を相手に仕事をする人というのは、なんとなく落ち着いた、穏やかな方が多いような気がするのです。
植物というのは自分では動きません。じっとその場所に根を生やし、春夏秋冬が過ぎ去ります。それを自分が動くことなく、ただ受け入れているだけなのです。自分が生きるために、他の動物を襲ったり、争ったり、殺し合ったりもしません。それでも自身は少しずつ成長していくわけです。
そういう植物を相手に仕事をしていると、人間の方も何らかの影響を受けるんではないか、というのがぼくの推測です。
暑い日も寒い日も、楽しさも辛さも、やって来る人も去る人も、自分の身に起きることを受け入れて、自分らしさを見失わず、日々を充実して過ごす。そして年月を重ねていく。そんな生き方をされている方が多いような気がします。
早朝散歩・砂浜・霧
賑やかな夏が終わり、落ち着いた秋の海辺になりました。
夏のあいだ、我が家のそばのビーチは海水浴場になります。海水浴場になるということはどういうことかというと、ビーチのある部分はブイとフロートで区切られ「海水浴エリア」が儲けられ、ライフセーバーの方々が常駐し、海の家が建ち、海水浴客の方々が来る、ということです。
ご近所の逗子の海水浴場で飲酒やドラッグ、大音量の音楽、海水浴客同士のトラブル多発などで、海水浴場のルールが厳格化されたことからわかるように、海水浴場ができるといろいろと問題が発生するのです。
なので、ぼくは日中はなるべく海水浴場の方へは近づかず、遠巻きから海の端っこから海に出て、ずっと海の上にいたり、ひっそりとした入江で一日過ごすことが多くなります。
ぼくにとっては、海で遊ぶことの重要さのかなりの部分を「ヘンな人に会わない」ことが占めるからです。
そんな風に地元の海なのに肩身狭く海遊びをしていると、顔なじみの地元の友達も同じような行動パターンを取っているらしく、海の上で遭って苦笑いをしたりして、夕方海から上がったら一緒に飲む約束をしたりします。
うむうむ今日もうまい酒を飲んで一日終われそうだ、などとうれしくなります。
そんな風に地元の海なのに肩身狭く海遊びをしていると、顔なじみの地元の友達も同じような行動パターンを取っているらしく、海の上で遭って苦笑いをしたりして、夕方海から上がったら一緒に飲む約束をしたりします。
うむうむ今日もうまい酒を飲んで一日終われそうだ、などとうれしくなります。
海水浴場問題は避けがたくぼくの前に立ちはだかっていますが、でも夏の海辺というのはやはりいいものでして、それを楽しめるのは、早朝です。
我が家は5時くらいに起きますが、それからぼくは砂浜を散歩します。Tシャツ・短パン・漁サンで…
早朝の海は、昨日の喧噪が波と一緒に洗い流されているようで、スッキリしています。真新しい一日が始まる感じが漲っています。
遠くの山には霧がかかり、森の緑が少しぼやけています。
波の音と遠くの漁船のエンジン音が聞こえます。
いつも会うご近所のオバサンが犬の散歩をしています。いつものように挨拶します。
砂浜についた自分の足跡をときどき振り返ります。
遠くの江の島や葉山の岬を眺めながら、「たぶんこの風景は200年前も500年前もそんなに変わっていないんだろうな。人はどんどん代わるのにな。しょせんぼくだってそうした入れ代わる人の1人なんだよな。入れ代わって、ぼくはどうなるんだろう。往生っていうからあの世へ往って生きるんだろうか?オヤジやじいちゃんやばあちゃんは、どうしてるだろうか?」なんて漠然と考えを巡らせたりします。
ぼくはこうしたノンビリ、マイペースで、ときどきボーッとしながら過ごす時間が好きです。何か目標に向かって、時間を気にしながら、慌てながら、追い立てられるように過ごす時間が嫌いです。よく自分が社会人をやってるなあ、とつくづく不思議ですが、それは世を忍ぶ仮の姿といっても過言ではありません。
いつも海の気配を感じていられる暮らし
海バカを自認しているぼくとしては、海辺で、海の近くで暮らせているのは幸せなことです。都会に住んでいる人には、通勤に時間がかかるでしょうとか、別荘を持って週末通うようにしたらとかいわれますけど…
朝、目が覚めるときから、波の音が聞こえ、それでその日の海況がなんとなくわかります。
ベッドサイドの窓を開けると朝日にきらめく海が見えます。
朝の光と波の音と潮の香りを感じながら朝ご飯を食べます。
デッキに出て海を眺めながらコーヒーを飲みます。
その日の海況をチェックして、その日に合ったウォータースポーツをします。波があるときはサーフィン、海が静かなときはスキューバーダイビング、少し涼しい日はシーカヤック、風があるときはセイリング、どれもできないときはビーチを散歩します。
一度海に出ると夕方まで遊んでいます。
帰ってくると、海遊び道具を洗って、メンテします。
そしてシャワーを浴びます。
さっぱりしたら、デッキでビールを飲みます。潮風を浴びながら、波の音を聞きながら…
夜は音楽を聴きながら、窓の外の海灯りを眺めています。海岸線の車のライト、漁船の灯り、灯台の明滅…眺めながらボーッとしていると、昔旅した海のことがいろいろ思い出されます。
そして波の音を聞きながら眠りにつきます。
駅・空港・港 旅立ちの場所はいいですねぇ
旅立ちの場所というのは、なんだかドラマティックな感じがします。
駅のホーム、空港…
非日常と日常の境界だからでしょうか?別れの場所だからでしょうか?それとも新しい未来を感じさせるからでしょうか?
ぼくはこうした場所が好きです。旅の行程はいろいろありますが、旅の出発の場所にいるときが一番好きかもしれません。
海を旅行することが多いぼくにとっては、空港なんて懐かしい思い出がありますが、海旅行で特に印象的なのは、港です。
離島の旅行をするときに船旅はつきものです。船旅はぼくにはとっては特別なものです。
伊豆七島への旅、石垣島から離島への旅、宮古島から多良間島への旅、どれも楽しい思い出です。
ここで豪華客船の船旅とか、リゾートアイランドへの旅の話を書かない(書けない)ところが、自分らしいなあと、思ったりするわけです。
離島への船便というのは、地元の人の生活の足であったり、日用品の運搬手段であったりもするわけで、そういう暮らしと密着した人間くさいところもいいですね。ぼくはそういうところに垣間見える人々の暮らしに興味があるんですね。この人はどんな暮らしをしているんだろう、この人はどんな人生を過ごしてきたんだろう、なんて想像したりするのが好きだったりします。旅で地元の人の日常に接することができると、「ああいいなあ」と思ってしまうんです。自分は非日常の旅の途中なのに、この人は日常的な暮らしの中にどっぷり居て、それが同じ場所で交差する不思議さに惹かれるのかも知れません。
とても個人的な好みの話を書いてしまっているので、そういうことに全然興味がない方にはつまらないかもしれませんが…あぁ、ぼかぁロマンチストかもしれないなぁ…あぁ海はいいなあぁ…
さあ、ここで問題です。こんな感じで、海が好きなうえに、旅が好きなぼくは、このまま普通の社会人を続けられるでしょうか?
社会という複雑さから、少し距離を置くために…
ウォータースポーツが好きで、海辺に日がな一日いるのが好きです。
潮風に吹かれて、波の音を聴きながら、ボーッとしていると、あっという間に時間が経ってしまいます。
仕事上の知り合いで、休みが1週間もあると時間を持てあましてツライという人がいたりしますが、ぼくにはそういう気持ちはわかりません。1週間だろうが2週間だろうが、やることがたくさんあって時間をもてあますことはありません。
先日テレビを見ていたら、大学3年生が「就活を頑張ります、やるぞー」みたいなことをやっていましたが、たいへんだなーと思います。えらいなーとも思います。ぼくが大学生の頃は就職活動というのは、イヤだけどしょーがないからやるかという感じでした。友達で実家が豊かで、別に無理して働かなくてもいいというヤツがいましたが、マジメに羨ましかったです。
働いて、税金を納め、選挙に行き、パートナーを探し、結婚し、子供を産み・育て、親の介護をする…ということで、一人前の社会人として振る舞うのは、ぼく的には「めんどくさい」のでした。
人によっては、貯金をしたり、流行の服を着たり、見栄えのいいマンションに住んだり、高級車に乗ったり、浮気をしたり、いろいろ熱心にやっている方もいるようですが、そのマメさに感心してしまうぼくなのでした。
いい歳した男が引きこもりで、親の年金で暮らしていますみたいなドキュメンタリーをやっていますが、他人事ではありません。ぼくももう少しやる気がないタイプに生まれていたら、あるいはちょっとした育てられ方の違いで、そんな風になっていたかもしれません。もともとぼくはだらしのない、やる気のない人間なのだと思います。
ウォータースポーツをしていると、海というのは一応ルールがありますが、それは死なないための最低限のルールです。ウォータースポーツをするときに考えているのは、いかに死なずに楽しむかだけでして、一人前の社会人として振る舞うためにやらなければいけないことの1000分の1くらいしかやることがありません。とてもシンプルです。たぶんぼくはそういうシンプルさと、そのシンプルさからくるであろう自由さが好きなんだと思います。
沖縄の離島に行くと、島のオジサンは、日中はサトウキビを刈ったり、漁に出たりしますが、後はテレビを見ながら酒を飲んでいます。年中、Tシャツ・短パン・ビーサンです。そういう温暖な海辺がもたらすであろう暮らし方も好きです。たぶん生きるために必要なこと以外がほとんどないから、ぼくは好きだと感じるんだと思います。
生きるということは、もともとは今日一日健康で食べていけるかということでいいはずですが、社会に出るとか、社会で周りの人と比べてどうとか、自分達でいろいろと複雑にしちゃって、よけいに面倒にしちゃっているんじゃないかなあと思います。
海は広いし大きいし自由だし
青い海、遠くまで広がる水平線、それと接する空、見渡す限りの海、ありきたりな表現ですが、そんな風景が好きです。
早朝散歩しながら、休日海遊びしながら、そんな風景を飽きもせず眺めています。
これもありきたりな表現ですが、でっかい海を見ていると、日常生活のイヤなことや悩みってどうでもよくなるんです。すべてはとるに足らない小さなことで、何十年、何百年もすれば跡形もなく、誰も知ることもなくなってしまうと思うと、それに思考を割いている自分がバカバカしくなります。
っていうか、もともとかなりバカで愚かな存在だと思うので、まあしょーがないっていえばしょーがないわけですけど…
そいでね、奥さん、アタシ思うのよー、っていきなりオバサンになってしまいますが、そうしたことを強く感じるのも、アタシが普段は、というか平日は、会社というところで、細かいことを気にしながら仕事をしなければならない状態で、それをとるに足らないくだらないことだ、もうちょっとはっきりいえば「どうーでもいいじゃねぇか」と本心では思いながらも、食べていくためにそうした環境でソツなく過ごさなければならないからでしょう。だからこそ対照的な海という自然をより素晴らしく感じるのでしょう。
ぼくの中の感覚にある、その対象を文字にすると…
平日は灰色=建物のコンクリートやオフィスの壁紙の色
休日は青色=海の色
です。
そしてもう少しいうと…
平日は不自由=会社や社会のルールに縛られている
休日は自由=海はみんなのものだし、あまり大したルールはない
です。
そいでね、さらにいうとさー…
平日は守られている=街のインフラとか治安とか会社という組織に守られている
休日は自分の身は自分で守る=自由である代わりに死なないように怪我しないように飢えないように自分で気をつけなければならない
という感じなのよ。アハハ。わかってもらえないかもしれないけどー。
ぼくは、ふと、会社勤めをしないで、ずっと海辺の田舎で生計を立てながら暮らしていきたいなあと思ったりしますが、そうしたときに果たして今ほど海のありがたさを実感しながら日々を送れるかなあと疑問に思ったりします。今は、平日の不自由さとか、くだらないヤツとの接触があって、そこから解放される海という存在の特別感があるわけですが、それが日常になったら今ほど嬉しいだろうか、と考えたりしますが、みなさんそんな風に考えることありますか?っていきなり訊かれても困るかもしれませんけど…
卑近なたとえですが、いつもは発泡酒を飲んでいて、たまにプレミアムモルツを飲むとおいしいわけですが、毎日プレモル飲んでいるとそれが当たり前になっちゃって、有り難みや嬉しさが感じられなくなるんじゃないかなあ。
まあ、それはともかく海でも山でも自然の中に入っていって、独りであるいは気心の知れた仲間だけで行動したりする人の気持ちはよくわかりますし、隠れ家みたいな場所を作って、自分の世界に没頭したい人の気持ちはわかります。本来的に男はいつまでたってもガキなんではないでしょうか?
大人の男として、社会や家庭という場で、そこそこ役割を果たさなければならないわけでー、これもありきたりな表現ですけど、普段は社会人・夫・父としての役割を演じなければならなくて、でもたまには本来のガキの自分に戻りたいがために、社会や家庭という場から隠れてしまいたいという欲求を持つのではないでしょうか。

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