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早朝散歩・砂浜・霧



 賑やかな夏が終わり、落ち着いた秋の海辺になりました。
 夏のあいだ、我が家のそばのビーチは海水浴場になります。海水浴場になるということはどういうことかというと、ビーチのある部分はブイとフロートで区切られ「海水浴エリア」が儲けられ、ライフセーバーの方々が常駐し、海の家が建ち、海水浴客の方々が来る、ということです。
 ご近所の逗子の海水浴場で飲酒やドラッグ、大音量の音楽、海水浴客同士のトラブル多発などで、海水浴場のルールが厳格化されたことからわかるように、海水浴場ができるといろいろと問題が発生するのです。
 なので、ぼくは日中はなるべく海水浴場の方へは近づかず、遠巻きから海の端っこから海に出て、ずっと海の上にいたり、ひっそりとした入江で一日過ごすことが多くなります。
 ぼくにとっては、海で遊ぶことの重要さのかなりの部分を「ヘンな人に会わない」ことが占めるからです。
 そんな風に地元の海なのに肩身狭く海遊びをしていると、顔なじみの地元の友達も同じような行動パターンを取っているらしく、海の上で遭って苦笑いをしたりして、夕方海から上がったら一緒に飲む約束をしたりします。
 うむうむ今日もうまい酒を飲んで一日終われそうだ、などとうれしくなります。
 海水浴場問題は避けがたくぼくの前に立ちはだかっていますが、でも夏の海辺というのはやはりいいものでして、それを楽しめるのは、早朝です。
 我が家は5時くらいに起きますが、それからぼくは砂浜を散歩します。Tシャツ・短パン・漁サンで…
 早朝の海は、昨日の喧噪が波と一緒に洗い流されているようで、スッキリしています。真新しい一日が始まる感じが漲っています。
 遠くの山には霧がかかり、森の緑が少しぼやけています。
 波の音と遠くの漁船のエンジン音が聞こえます。
 いつも会うご近所のオバサンが犬の散歩をしています。いつものように挨拶します。
 砂浜についた自分の足跡をときどき振り返ります。
 遠くの江の島や葉山の岬を眺めながら、「たぶんこの風景は200年前も500年前もそんなに変わっていないんだろうな。人はどんどん代わるのにな。しょせんぼくだってそうした入れ代わる人の1人なんだよな。入れ代わって、ぼくはどうなるんだろう。往生っていうからあの世へ往って生きるんだろうか?オヤジやじいちゃんやばあちゃんは、どうしてるだろうか?」なんて漠然と考えを巡らせたりします。
 ぼくはこうしたノンビリ、マイペースで、ときどきボーッとしながら過ごす時間が好きです。何か目標に向かって、時間を気にしながら、慌てながら、追い立てられるように過ごす時間が嫌いです。よく自分が社会人をやってるなあ、とつくづく不思議ですが、それは世を忍ぶ仮の姿といっても過言ではありません。
 朝の散歩の時間は、ぼくが素のぼくに戻れるとても大切なものなのです。






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いつも海の気配を感じていられる暮らし



 海バカを自認しているぼくとしては、海辺で、海の近くで暮らせているのは幸せなことです。都会に住んでいる人には、通勤に時間がかかるでしょうとか、別荘を持って週末通うようにしたらとかいわれますけど…
 朝、目が覚めるときから、波の音が聞こえ、それでその日の海況がなんとなくわかります。
 ベッドサイドの窓を開けると朝日にきらめく海が見えます。
 朝の光と波の音と潮の香りを感じながら朝ご飯を食べます。
 デッキに出て海を眺めながらコーヒーを飲みます。
 その日の海況をチェックして、その日に合ったウォータースポーツをします。波があるときはサーフィン、海が静かなときはスキューバーダイビング、少し涼しい日はシーカヤック、風があるときはセイリング、どれもできないときはビーチを散歩します。
 一度海に出ると夕方まで遊んでいます。
 帰ってくると、海遊び道具を洗って、メンテします。
 そしてシャワーを浴びます。
 さっぱりしたら、デッキでビールを飲みます。潮風を浴びながら、波の音を聞きながら…
 夜は音楽を聴きながら、窓の外の海灯りを眺めています。海岸線の車のライト、漁船の灯り、灯台の明滅…眺めながらボーッとしていると、昔旅した海のことがいろいろ思い出されます。
 そして波の音を聞きながら眠りにつきます。
 朝から晩まで海の気配を感じながら暮らせるのは、海好きなぼくには何ものにも代えがたいことなのです。







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駅・空港・港 旅立ちの場所はいいですねぇ



 旅立ちの場所というのは、なんだかドラマティックな感じがします。
 駅のホーム、空港…
 非日常と日常の境界だからでしょうか?別れの場所だからでしょうか?それとも新しい未来を感じさせるからでしょうか?
 ぼくはこうした場所が好きです。旅の行程はいろいろありますが、旅の出発の場所にいるときが一番好きかもしれません。
 海を旅行することが多いぼくにとっては、空港なんて懐かしい思い出がありますが、海旅行で特に印象的なのは、港です。
 離島の旅行をするときに船旅はつきものです。船旅はぼくにはとっては特別なものです。
 伊豆七島への旅、石垣島から離島への旅、宮古島から多良間島への旅、どれも楽しい思い出です。
 ここで豪華客船の船旅とか、リゾートアイランドへの旅の話を書かない(書けない)ところが、自分らしいなあと、思ったりするわけです。
 離島への船便というのは、地元の人の生活の足であったり、日用品の運搬手段であったりもするわけで、そういう暮らしと密着した人間くさいところもいいですね。ぼくはそういうところに垣間見える人々の暮らしに興味があるんですね。この人はどんな暮らしをしているんだろう、この人はどんな人生を過ごしてきたんだろう、なんて想像したりするのが好きだったりします。旅で地元の人の日常に接することができると、「ああいいなあ」と思ってしまうんです。自分は非日常の旅の途中なのに、この人は日常的な暮らしの中にどっぷり居て、それが同じ場所で交差する不思議さに惹かれるのかも知れません。
 とても個人的な好みの話を書いてしまっているので、そういうことに全然興味がない方にはつまらないかもしれませんが…あぁ、ぼかぁロマンチストかもしれないなぁ…あぁ海はいいなあぁ…
 さあ、ここで問題です。こんな感じで、海が好きなうえに、旅が好きなぼくは、このまま普通の社会人を続けられるでしょうか?
 答えはCMの後すぐ…





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社会という複雑さから、少し距離を置くために…



 ウォータースポーツが好きで、海辺に日がな一日いるのが好きです。
 潮風に吹かれて、波の音を聴きながら、ボーッとしていると、あっという間に時間が経ってしまいます。
 仕事上の知り合いで、休みが1週間もあると時間を持てあましてツライという人がいたりしますが、ぼくにはそういう気持ちはわかりません。1週間だろうが2週間だろうが、やることがたくさんあって時間をもてあますことはありません。
 先日テレビを見ていたら、大学3年生が「就活を頑張ります、やるぞー」みたいなことをやっていましたが、たいへんだなーと思います。えらいなーとも思います。ぼくが大学生の頃は就職活動というのは、イヤだけどしょーがないからやるかという感じでした。友達で実家が豊かで、別に無理して働かなくてもいいというヤツがいましたが、マジメに羨ましかったです。
 働いて、税金を納め、選挙に行き、パートナーを探し、結婚し、子供を産み・育て、親の介護をする…ということで、一人前の社会人として振る舞うのは、ぼく的には「めんどくさい」のでした。
 人によっては、貯金をしたり、流行の服を着たり、見栄えのいいマンションに住んだり、高級車に乗ったり、浮気をしたり、いろいろ熱心にやっている方もいるようですが、そのマメさに感心してしまうぼくなのでした。
 いい歳した男が引きこもりで、親の年金で暮らしていますみたいなドキュメンタリーをやっていますが、他人事ではありません。ぼくももう少しやる気がないタイプに生まれていたら、あるいはちょっとした育てられ方の違いで、そんな風になっていたかもしれません。もともとぼくはだらしのない、やる気のない人間なのだと思います。
 ウォータースポーツをしていると、海というのは一応ルールがありますが、それは死なないための最低限のルールです。ウォータースポーツをするときに考えているのは、いかに死なずに楽しむかだけでして、一人前の社会人として振る舞うためにやらなければいけないことの1000分の1くらいしかやることがありません。とてもシンプルです。たぶんぼくはそういうシンプルさと、そのシンプルさからくるであろう自由さが好きなんだと思います。
 沖縄の離島に行くと、島のオジサンは、日中はサトウキビを刈ったり、漁に出たりしますが、後はテレビを見ながら酒を飲んでいます。年中、Tシャツ・短パン・ビーサンです。そういう温暖な海辺がもたらすであろう暮らし方も好きです。たぶん生きるために必要なこと以外がほとんどないから、ぼくは好きだと感じるんだと思います。
 生きるということは、もともとは今日一日健康で食べていけるかということでいいはずですが、社会に出るとか、社会で周りの人と比べてどうとか、自分達でいろいろと複雑にしちゃって、よけいに面倒にしちゃっているんじゃないかなあと思います。
 海辺で暮らすというのは、多少なりともそういった複雑さから遠ざかるひとつの手段なのかもしれません。




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海は広いし大きいし自由だし



 青い海、遠くまで広がる水平線、それと接する空、見渡す限りの海、ありきたりな表現ですが、そんな風景が好きです。
 早朝散歩しながら、休日海遊びしながら、そんな風景を飽きもせず眺めています。
 これもありきたりな表現ですが、でっかい海を見ていると、日常生活のイヤなことや悩みってどうでもよくなるんです。すべてはとるに足らない小さなことで、何十年、何百年もすれば跡形もなく、誰も知ることもなくなってしまうと思うと、それに思考を割いている自分がバカバカしくなります。
 っていうか、もともとかなりバカで愚かな存在だと思うので、まあしょーがないっていえばしょーがないわけですけど…
 そいでね、奥さん、アタシ思うのよー、っていきなりオバサンになってしまいますが、そうしたことを強く感じるのも、アタシが普段は、というか平日は、会社というところで、細かいことを気にしながら仕事をしなければならない状態で、それをとるに足らないくだらないことだ、もうちょっとはっきりいえば「どうーでもいいじゃねぇか」と本心では思いながらも、食べていくためにそうした環境でソツなく過ごさなければならないからでしょう。だからこそ対照的な海という自然をより素晴らしく感じるのでしょう。
 ぼくの中の感覚にある、その対象を文字にすると…
平日は灰色=建物のコンクリートやオフィスの壁紙の色
休日は青色=海の色
です。
 そしてもう少しいうと…
平日は不自由=会社や社会のルールに縛られている
休日は自由=海はみんなのものだし、あまり大したルールはない
です。
 そいでね、さらにいうとさー…
平日は守られている=街のインフラとか治安とか会社という組織に守られている
休日は自分の身は自分で守る=自由である代わりに死なないように怪我しないように飢えないように自分で気をつけなければならない
という感じなのよ。アハハ。わかってもらえないかもしれないけどー。
 ぼくは、ふと、会社勤めをしないで、ずっと海辺の田舎で生計を立てながら暮らしていきたいなあと思ったりしますが、そうしたときに果たして今ほど海のありがたさを実感しながら日々を送れるかなあと疑問に思ったりします。今は、平日の不自由さとか、くだらないヤツとの接触があって、そこから解放される海という存在の特別感があるわけですが、それが日常になったら今ほど嬉しいだろうか、と考えたりしますが、みなさんそんな風に考えることありますか?っていきなり訊かれても困るかもしれませんけど…
 卑近なたとえですが、いつもは発泡酒を飲んでいて、たまにプレミアムモルツを飲むとおいしいわけですが、毎日プレモル飲んでいるとそれが当たり前になっちゃって、有り難みや嬉しさが感じられなくなるんじゃないかなあ。 
 まあ、それはともかく海でも山でも自然の中に入っていって、独りであるいは気心の知れた仲間だけで行動したりする人の気持ちはよくわかりますし、隠れ家みたいな場所を作って、自分の世界に没頭したい人の気持ちはわかります。本来的に男はいつまでたってもガキなんではないでしょうか?
 大人の男として、社会や家庭という場で、そこそこ役割を果たさなければならないわけでー、これもありきたりな表現ですけど、普段は社会人・夫・父としての役割を演じなければならなくて、でもたまには本来のガキの自分に戻りたいがために、社会や家庭という場から隠れてしまいたいという欲求を持つのではないでしょうか。






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うねりに女性の身体のラインを思い浮かべてしまうワタクシ

 

 犬が好きとかやっぱり猫が好きとかいう人はよくいます。
 まあそうでなくても山登りが好きとか、高原が好きとか、海が好きという人も、まあいますね。日常会話に出てきても驚いたりはしません。
 もちろんぼくも海は好きですけど…
 ただぼくの場合、海のいろいろな魅力の中でもうねりが好きなのです。波も好きなのです。日常会話の中で、「ぼくはうねりが好きです。休日はうねりを見て一日過ごします」なんていうと、若干その後の会話に影響がありそうです。
 海遊びをしている人にとって、うねりと波の違いは明かなのですが、「わたしは海遊びをしない」とか「そもそも海がそれほど好きじゃない」という方もいらっしゃると思いますので、一応説明を書くことにしますが、厳密な定義は検索していただくとして、ぼくの実感的両者の違いとしては、次のような感じになると思います。
波=風が吹いていると起きる。海の表面が波立つ。波長が短くて、波頭は尖っていて、バシャバシャしている。
うねり=風が吹いていなくてもある。海全体が盛り上がったり、下がったりする。波頭みたいなものはなかったりする。波長は長く、緩やかなカーブを描く。
 それで、うねりと波の違いは、ウォータースポーツをやるときにすごく実感します。一番影響があるのはサーフィンです。
 サーフィンではうねりが強くて波長が長いほど、ビーチで大きくブレイクしますから、サーファーにとっていいうねりは大好物です。大きくていいうねりは、日本のたとえば湘南などの場合、年に数回あるかどうかという感じなので、いいうねりが入ってきた日には、サーファーは仕事を休んででも海に行きます(もちろんそんなサーファーばかりではありません)。一方、波はサーフィンしにくいのです。波は小さくてバシャバシャしているので、うまく乗れないのです。また、ときに、うねりと波が同時に来た場合、うねりの良さを波が打ち消してしまうことさえあります。
 サーフィン以外のウォータースポーツ、たとえばスキューバーダイビングなどでも波とうねりは、及ぼす影響に大きな違いがあります。スキューバーダイビングでうねりに遭遇した場合、水中ではうねりの来る方向にゆらゆらと揺られます。水中全体が揺られて動くような感じです。波の場合は、水面では揺られますが、潜ってしまえばそれほど影響はありません。それから水面でスノーケルで移動したり、待機したりする際にやたら上下したり、水がスノーケルに入ってきたりします。
 特にボートダイブの場合、エキジットといって、ダイビングを終えて、船に上がるタイミングがあるんですが、うねりがあるときは、船もダイバーもうねりに合わせて上下しますので、タイミングを見てうまく船に上がる必要があります。うねりもときに2m以上ある日も潜りますから、そんな日は、船から海を眺めた場合、ダイバーがうねりの谷に入ると、まったく見えなくなってしまうこともありますし、船によじ登ろうとして跳ね上げられてしまうこともあります。
 ずいぶん前の経験になりますが、ダイビングを始めて間もない頃、結構大きなダイビングボートがうねりの間に間に2m以上も上下する光景を初めて見たときは、圧倒的な海の力の感じたものでした。ダイバーなんてゴミのようなものだなと思いました。
 よくダイバーの漂流事故がありますが、ボートがそばにいてもうねりがあると、うねりのタイミングでダイバーが見えなくなってしまうんです。そのわずかな時間に潮の流れがあるので、ダイバーは別な場所に流されていて、それが繰り返されてボートからダイバーを見失うんだと思います。
 そういう状況で、できる限り見つけてもらいやすくするために、ダイバーによってはオレンジとかイエローといった目立つ色の器材を使う人もいます。海上保安庁の方がオレンジ色の器材を使っていますが、あれはレスキューオレンジといって、やはり意味のある色なんだと思います。
 ウォータースポーツをする際のうねりと波を違いを思いの外長々と書いてしまいましたが、実はこれからが本題なのです。あきれてもう読む気がなくなった方もおられると思いますが、そんなあなたは正しいと思います。すばらしい。人間こんなことで時間を無駄にしてはいけないと、近所のオジイサンもいっていました。
 海に入ると、時に怖いこともあるうねりと波ですが、ビーチから眺める分には怖くありません。
 ぼくはうねりや波を眺めるのが好きです。三度の飯よりは好きではありませんし、女性とあんなことやこんなことするよりも好きではありません。
 でも、ウォータースポーツをした後、シャワーを浴びて、ビールを飲みながらうねりや波を見る時間は好きです。はたまた気の合う仲間と海辺のキャンプで、焚き火を囲みながら、夕陽に照らされるうねりや波を見る時間も、とても好きなのです。
 特にうねりというのは、とても緩やかで滑らかなカーブを描くのです。ぼくはその曲線が好きです。男であるぼくは、曲線に女性らしさを感じますが、うねりの曲線はすごく素敵なモデルの身体のラインほどに美しいのです。たとえが卑近な感じになってきましたが、実際、ぼくはうねりの曲線を見ると女性の背中からおしりにかけてのラインを思い浮かべてしまうのです。ああ、ぼくってヤツはいい歳してどうしようもない生き物ですね。
 うねり、特に波長が長くて、力の強いうねりというのは、見た目はそれほど激しさや荒々しさは感じないんですが、それがビーチでブレイクすると予想以上の大きな波だったりします。そのあたりに自然の力のすごさを感じたりします。よく台風などで、堤防が壊れたりしますが、自然の力の前に人間の構造物の儚さは切ないくらいです。
 思うにサーフィンというのは、うねりという自然の力と戯れる楽しさがありますね。うねりに揺られ、うねりの美しいカーブの背中に乗り、自然の力と絡んでいるところがステキです。しかもぼくの中ではうねりのカーブは女性の身体の曲線を連想させるので、サーフィンというのは自然の力との前戯みたいな感じなのかもしれないと、今、そんな風に考えました。
 波も眺めるのは楽しいです。うねりとは違って、バシャバシャした尖り加減が魅力的です。似ているものとして焚き火の炎があります。炎を眺めていても飽きませんが、波を見ているのは、それに似ています。自然の造形なのに部分的に鋭角で、しかも同じ形がほぼないというのも炎との共通点かも知れず、見ていて飽きない理由かも知れません。
 うねりや波の魅力をここまで書いてきて、読んでいる人に呆れられているかもとか、この人はヘンな人なのではないかと思われているかもと、少し反省しました。でも、そう思われてもいいやと開きなおれるのがオジサンの楽なところです。イエイイエイ。ビバ!オジサン。





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海辺でボーッとすることの効能



 海が好きです。それも田舎の人があまりいない海辺が好きです。
 逆にいえば都会のビルが立ち並んでいるところが苦手です。1日そういう場所にいると頭が痛くなり、気持ちの芯のあたりが疲れます。
 ウォータースポーツをして身体を動かすのも好きですが、海辺でボーッとしたり、砂浜を散歩したりするのも好きです。
 ボーッとするといっても、海を眺めたり、空を眺めたり、雲を眺めたり、鳥を眺めたり、波を眺めたりしているわけですが、だからといって、そういう自然を観察しているわけではありません。ただなんとなく視線が動いているだけです。なので、やっぱりこれはボーッとしているんだと思います。
 外見はボーッとしているように見えても、実は頭の中で、仕事の戦略を考えたり、世界情勢を分析しているかというと、そんなことはありません。ほとんど何も考えていません。いや本当に何も考えないことは結構難しいんで、何か頭に浮かぶことがあってもそれはどんどん移ろっていきます。何かを考えようとはしていません。ただ今「○○が頭に浮かんだな」という風に自覚するようにはしています。
 なぜボーッとするのか?
 それはボーッとするのが好きだからですが、そういう時間を過ごすと気持ちがゆったりして、軽くなって、落ち着いて、安らかになるからというのが正確な理由です。カッコイイ言葉でいえば心の安寧が得られるからです。
 海という自然に囲まれて、頭の中の雑事の大掃除をしているような感じがするんです。
 ぼくは海の力を借りて自分の体調を向上させる行為を「ブルー・エクササイズ」と勝手に呼んでいますが、この海辺でボーッとすることはブルー・エクササイズの良さが一番感じられることです。
 ぼくがやっていることは瞑想というほど大げさなことではありません。ぼくは正式に瞑想を習ったことはありません。ただ本を読んで、自律訓練法はやるようにしています。腹式呼吸(丹田呼吸)をして、思考を身体のどこかの部位に集中させることで、余計なことを考えないようにして気持ちを鎮め楽にするのです。
 なので、ぼくが海辺でボーッとしているとき、無自覚に自律訓練的なことをやっている可能性はあります。自律訓練法に近くて、瞑想まではいっていない行為だと、自分では分析しています。
 気持ちがいらだったり、疲れたり、悩みがあったり、悲しかったり、心配ごとがあったり、あるいはすごくテンションが高かったり、妙にソワソワしたり、はしゃいだり、あるいは人を恨んだり、嫉んだり、そんな気持ちのアップダウンが顕著なときに、海辺でボーッとすると特に効果があります。
 もしこれを読んでいる方で、日々の都会の暮らしの中で自分本来の安らかな気持ちを忘れがちになっている方がいらっしゃったら、今年の夏に人のいない海辺に行って、ゆっくりボーッとした時間を過ごされてみてはいかがでしょうか?









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海を眺めて、今日も一日いいなあ、なんて思うひととき



 朝起きるとカーテンを開き、窓を全開にします。そうするとちょっと遠くに海が見えます。青くて朝日に照らされキラキラしている海です。遠くには富士山や伊豆半島や大島が見えます。
 そこでたいていぼくは大きく深呼吸と伸びをします。
 普通の大人に比べれば、もしかしたらぼくは気楽にやっている方かもしれませんが、それでも一応心配事みたいなものはあります。
 そんなときに海を眺めると、海は日々様子が違って、荒れているときもあれば穏やかなときもあります。でも、富士山や伊豆半島や大島や海岸線といった地形は、何百年とか何千年単位でないと目に見えて変化しません。いつもと同じように潮が満ち、そして引き、朝になり夜になるんだなーなんて考えたりします。あるいは、あの伊豆半島が何万年も前に本州にぶつかっったんだな、それってスゲーなとか、伊豆七島って火山の噴火でできたんだなー、それってスゲーなと考えたりします。
 この風景を前の世代の人もその前の世代の人も見たのでしょう。江戸時代の人も見たのでしょう。おそらく源氏の誰かも同じような風景を見たことでしょう。でもそんな人達も今は跡形もないもんなあー、なんて考えたりします。
 文字で書くとしつこく考え込んだりしてるみたいですが、伸びをして、首のあたりをカクカク回したりしている間に、なんとなく考えたりしているんです。まあ、きっとそういう時間って誰にでもありますよね。
 毎朝、そうして海を眺めていると、たいていのことはどうでもいいことだなと思えてきます。
 もちろん心配事などはぼくの頭の中にはあって、それはぼくにとってはワリと大切なことなのですが、そんな自分の頭の中のことを少し引き離して眺めることができるようになります。
 ぼくにとっての心配事など、他人からはわからないし、ましてや心配事があろうとなかろうと、いや、ぼくが存在していようといまいと、それは海という自然の在り方からすれば、ほとんど関係のない誤差のような、あるいは塵芥のようなものなんだろうなと思えるのです。
 だから自暴自棄になるという考え方もあるかもしれませんが、ぼくの場合は、どうせ誤差のような、塵芥のような一生なんだから、楽しくやりたいことをやってしまえという方向に考えるのです。なぜかはわかりませんがそう考えます。
 そうすると気持ちが楽になって、ああ今日もなんかいいなあ、今日一日楽しければいいなあ、なんて思えてきます。





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海はリアルに体験しないとね



 リア充という言葉が一時期使われてましたね。
 ぼくには意味がよくわかりませんけど…たぶん勝手に想像すると、ネットの世界を中心に活動している人達に対比して、普通に?生活しているけどネットも使うみたいな人達のことをいうんだろうかなあーなんて思っています。そういう人達はネットだけでなくリアルな生活も充実していると…違うかなあ?
 ネットでいろいろなことができて、ぼく自身買い物とか調べ物とかやたらネットを使います。ちょっと検索してクリックすれば、いろいろできるって便利です。
 行きたい海を調べるのもネットで調べたりします。
 ただ行ってみないとわからないというのが海のおもしろさですね。
 海のでかさを感じて、光の強さに目を細め、湿気を含んだ潮風を肌に感じる。それがシアワセです。
 以前から感じているんですが、ネットやテレビという画面を通した情報というのは、やっぱり平面的で情報量が圧倒的に少ないですね。しかもネットの情報は、よくいわれますが、玉石混淆です。
 ネットで海の画像とか見てもフラストレーションが溜まるだけですが、実際の海に行けば気分がスッキリします。
 これに似たことって、多かれ少なかれみなさん体験されたことがあるのではないでしょうか…
 たぶんおそらくですが、バーチャルリアリティ(VR)がすごく高度になっても現実を再現するのは難しいんじゃないでしょうか。
 海でいえば、潮騒がありますし、潮の香りがありますし、風景の広がりがあります。太陽の光を肌で浴び、潮風の湿り気を肌で感じます。
 そういう諸々が、海に遊びに来て「やっぱり海っていいなあ」という気持ちに繋がっているんだろうと思うんです。
 そういうのってやっぱり仮想と現実では隔たりが、どこまでもあるんじゃないかと思ったりします。
 ただ、あんまりこむつかしいことを考えるとめんどくさくなるので、やめて、泡盛飲んで、三線ひいて、踊りましょう、テケテケ…
 この極私的ブログを読んでくださっている奇特な方は、たいてい海好きでリアルに充実した海辺生活を営まれていると想像しますが、もし万が一、海に行ったことがなくて、ネットだけで海の情報に触れているような方がいらっしゃったら、それはもう、そういうのってやめた方がいいんじゃないかと思います。かえってフラストレーションが溜まるだけでしょうから…
 今度の休日に海に来てください。
 そして海辺の空気を思い切り吸い込んでください。そして、五感を総動員して海を感じてください。
 たぶん海はそんなあなたに数え切れない把握不可能なくらい多くの情報を与えてくれるんじゃないでしょうか…




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風が流れている場所へ~海辺・潮風・生きていくこと~



 ぼくが幸せを感じる状況は、ウォータースポーツをし終わって、砂浜で夕陽を見ながら潮風に吹かれているときです。
 流れる風を肌に感じ、その中に身を置いていると不思議と安心するようなのです。
 格好つけるワケじゃなくて、本当に、海を前にお外でボーっとしているのが好きです。
 都会のビルだと窓がはめ殺しになっていて、全館空調というのが今は当たり前ですね。この窓が開かないというのは、ぼくにとってはかなりツライというか、息苦しいというか、すごく不自然な感じがする状況です。
 というか、もうちょっと本音をいうと頭がおかしくなりそうなくらい閉塞感を感じるのです。
 全館空調だと、すべて中央のコントロールで外気の導入割合とか、温度設定とか細やかにやって省エネで、1年中快適ですよ、飛び降り自殺の心配もなくて安全ですしね、というのが設計会社・ゼネコン・空調設備会社側の言い分だと思うんですが、ぼくの実感ではそんなことはありません。たとえ全館空調であっても、陽が当たる側と廊下側だと温度が違って、そこまで細やかに空調のコントロールができている建物って経験したことがありません。全館空調の建物は冬は暑すぎて、夏は寒すぎるというのがぼくの全般的な感想です。それにダクトだって機械だって汚れたりホコリが溜まったりするでしょうし、導入する外気だって都会の空気をどこから吸っているかによって清浄さの度合いは違うでしょう。いくらフィルターで綺麗にするといっても、そのフィルターをどの程度いい物を使っているかわかりません。
 何がいいたいかというと、全館空調ってそもそも不自然だし、綺麗な外気を窓を開けっ放しにして、風が通るようにするのが一番だということです。
 そうすればホコリだって抜けていくし、カビだって生えないし、結露もしないし…
 頼むからそういう建物建てないで欲しいけど、ぼくの頼みなんか誰も関心ないでしょうから、ぼくの方からゴメンだい!
 さらにさらに問題なのは外気がそこまで綺麗か?ということですが、これはかなり深刻な問題です。ぼくは外気が綺麗なところに移住します。
 我が家は年中エアコンはつけません。夏も外気と扇風機です。それでなんとか過ごせます。汗をかきますが、日に何度かシャワーを浴びて着替えます。逆に夏にエアコンの効いた部屋に1日中いると体調が悪くなります。たぶん汗をかかないからだと思います。
 冬はさすがに窓は閉めていますが、日中の暖かい時間は窓を開けます。それに換気扇やシーリングファンがどこかで必ず回っていますから、空気が流れている感じがあります。たぶん省エネという点では良くないでしょうが、それよりも新鮮な外気で家中を満たして、それを呼吸する方が大切だと思うんです。気分が落ち着きます。
 風が通って、空気が流れている感じが心地よさを生むのかなって思います。

 沖縄の離島に遊びに行って、そいで、夕方、民宿の縁側で扇風機にあたってたりするととても幸せです。眼下に海が見渡せたりしてね。海風が吹いてきて、オリオンビールなんか飲んじゃったりして…いいなあ、そういうの。

 おそらくこういう生活って都会では難しいかもしれません。都会は外気自体が排気熱やヒートアイランド現象で暑くなっていますし、近隣への騒音にも気を配らないといけません。
 なので、やはり長い目で見ると、自分はそういう場所に住んではいけないんだろうな、と思います。そういうところに住んでいるとストレスが澱のように溜まって、結果としていいことは起きないだろうなという直感があります。
 そういう場合は、自分が快適に暮らせる土地に移り住むのがいいのでしょう。
 すべての人が自由に住まいを選べるわけではないでしょう。職があるかが大切ですし、それに地縁・血縁というのがあります。お墓や先祖の土地を大切にすることも重要です。
 でも、やはり人は生き延びるのが大切で、外部環境が変化する以上、それに合わせて生きられる土地へ移っていくというのも、生き残りの大切な選択なのではないでしょうか?
 話がだいぶ大きくなり、そして逸れましたが、ぼくは空気が動いて風が抜けている場所が好きです。
 シーカヤックで数泊の旅に出ますが、1日中外にいて、食事も外、テントも風の動きを感じられる、そんな時間を過ごすことができるとぼくはとても幸せなのです。
 年に1度か2度くらいですがおよそ1週間くらいの海旅に出ます。スキューバーダイビングかシーカヤックをするんですが、1週間くらい南の海辺にいると、自分の中の毒が抜けて、さっきいったような澱のようなものが身体の外へ流れていく気がします。まあそんな気がするだけのことですが…でも、それでも日々自分がどれほど自分にタガをはめて暮らしているか自覚させられます。
 南の海辺で、短パン・Tシャツ・ビーサンで、潮風に吹かれながら夕陽を見ていると、つくづくそう思うのです。






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