海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
母島旅情
離島が好きで、いろいろな島を旅してきました。
離島というのは到着してしまうと、隔絶感というのか、なんというのか、えーっと「おこもり感」というか「隠れ家にいる感」というか、うまくいえませんがそういう安心感があります。
なのでぼくは島旅が好きでして、しかも大きな島よりも小さな島の方が好きです。
人口は1000人以下だと、かなり好ましいですが、3000人以下でも好ましいです。
人口が少ないと何がいいかというと、島の人が優しいというのと、隔絶感がより強く、安心感が高いからです。おそらく誰が何をやっていて、どんな旅行者が入ってきているか把握できているというのと、人が少ないと競争よりは調和や助け合いの気持ちが強くなるからではないかなあと思ったりしますが根拠はありません。たぶん東京のような都会がギスギスしている感じがするのは、競争が激しくて、人は自分の序列をより上に上げようとしているからではないかと思います。
上といっても所詮、相対的な、あるいは主観的なものであって、それは幸せ感とは異なります。都会の人が経済的に豊かだけれどどことなく幸せに暮らしている印象が薄いのは、そういう面があるのかもしれないですね。
そして、より不便な島が好きです。最寄りの便利な場所から遠ければ遠いほどぼくにとっては魅力的です。
なので、ずっと小笠原に行ってみたかったんです。しかも母島に行ってみたかったんです。母島は小さな島で、不便(たぶん)です。
人口は約450人。島には、なんでも扱う雑貨屋が1軒、農協と郵便局と小学校と警察と役場が徒歩2~3分のエリアにあります。
そしてぼくがこれまでしてきた島旅の中で最高にいいところでした。
1週間滞在しました。スキューバーダイビングして、山をトレッキングして、その後風呂に入って、堤防でビールを飲む日々。だんだん島の人に顔を覚えられて、あいさつしたり、飲みの席に誘ってもらったりして、なんともいい居心地でした。
沖縄の離島との大きな違いは、古くから住んでいる人が少なくて移住者が多いところ。沖縄がローカルと外来者を峻別して、しかも外来者を温かく迎え入れる感じなのに対し、小笠原の島は、よそ者に開かれているというか、ローカルと外来者が同列な感じがしました。それが居心地のよさの一番の理由でした。
PR
まとまった休みに海に出つづけると、とてもリラックスできますねえ
盆暮れには仕事がわりと長い休みに入るという方は多いのではないでしょうか?
ぼくもそうです。
なんで長期の休みは盆暮れだけなのか?という大問題もあるわけですが、それは今回勘弁してあげましょう。
ぼくは仕事よりも海で遊んでいるのが好きなので(多くの人がそうでしょうね。いや、そうじゃない人もいるんだよなー)、長期の休みは心身共に奥の方までリラックスできて、とても嬉しいのです。
というのも、住んでる地元はノンビリした海辺の田舎町で、仕事場は一応都会なのです。都会に出るとなんだかギスギスしてるし、ワサワサ慌ただしいし、空気はあまりキレイじゃないし、いろいろな音がうるさいし、人が多いし、空が狭いし、どうも気疲れしてしまうんです。そんなに嫌いなら都会に行かなきゃいいじゃないかという話なんですが、仕方がありません。食べていくためには働かなければいけません。
週に5日は都会に出稼ぎに行って、2日は海辺でノンビリしているわけですが、2日だと、どこかしら仕事モードが抜けない面もあります。いやー、だいたいぼくがそれを望んだわけじゃなくて、常識的にそうなっているだけであって、ぼく的には、4日働いて3日休みでも、いっそのこと7日全部休みでもいいわけです。会社側は、そんな遠慮なさらず、そのような制度にしていただいても構いません、いえいえどうもどうも…
それが長期の休みになるともっとずっとノンビリできるわけで、そういう身体の芯の部分までリラックスできるというのがぼくにとっては大切なんだと思います。
社会人の中には、仕事から長いこと離れる不安という人もいて、こういう人はワーカホリックだと思いますが、ぼくは全然そういうことはなくて、仕事から離れられればセイセイするというか、できることならばずっと離れていられて、なおかつ給料だけはもらいたいという立派な心掛けのヒトなのです。
海辺にいるとやることはたくさんあって、セイリングしたりシーカヤックしたりサーフィンしたりスキューバーダイビングしたり海遊びしたり海遊びしたりで、暇な時間などありません。
1週間くらいそんな感じで海辺の田舎モードに浸ると、ようやく心身共に奥の方のコリがほぐれてくる感じがします。ぼくとしては2週間、いやいや1ヶ月、もう一声半年、いっそのことずっと、海辺の田舎モードの中で過ごすと、フニャフニャの軟体動物みたいになれるんではないかと期待している今日この頃であります。
さて、ところでなんでぼくは海辺の田舎モードだとリラックスできるのか、ということを考えてみたんですが、大きな要因としては、仕事を強制されないということ、自然の中にいるということの2点があると思うのです。
人は無理矢理やらされてイヤイヤやるとストレスになるけれども、同じ事を進んで、自分からやりがいを持ってやると楽しく感じられるということは、何かの本で読んだ気もしますし、実感としてもうなずけます。
それから野生の動物を動物園に入れると不適応で具合が悪くなるということ聞いたことがありますが、これは人間にとってもいえるのかもしれず、人にとってもある程度の野生というのは必要ではないのかと思ったりするわけです。
個人差があるでしょうが、周りの男達を見ていると、自然や野生に接していないと落ち着かないタイプというのが、一定層いるような気がします。
まあ、人間は、社会的な動物であるということと、狩猟や採集や農耕を営んで食べ物を得ていたということを学校で習ったので、生活の糧を自然を相手に得ていくタイプがいても不思議ではありません。会社と家庭という社会的な場のみで暮らしが完結してしまうのが性に合わないぼくのような人間は、何日かでも自然の中にいることで自分の本能的なバランスをとっているんでしょう。
とても気持ちのいい日
海辺に住んでいて、1年のうちに何度かとても気持のいい日というのがあります。自分のスケジュールが空いていて、気温もほどよく、湿度も高くなく、さっぱり爽やかな日というのは意外に多くないんです。
そんな日に当たれば、ぼくもそうですが、近所の人もこぞってビーチに出ます。だいたいいつも同じ顔ぶれのご近所さん。
散歩したり、お弁当を食べたり、お茶を飲んだり、たいしとこをやらなくても、お金をかけなくても、ビーチで、潮風を浴びながら、太陽の下でいられれば、それはとても楽しい時間になります。
ちょっとした幸せ…
大きな幸せというのはどういうものかよくわかりませんし、それがどれくらい長く続くのかもわかりません。
でもちょっとした小さな幸せは、ぼくには簡単にイメージできます。そしてそれはタイミングさえつかめばすぐそこにあるんです。お金も要らないし、社会的地位も不要です。みんなに等しくあります。
それをつかむかどうか…
それを楽しめるかどうか…
それをつかむかどうか…
それを楽しめるかどうか…
そんな楽しいひと時があれば、生きているのが楽しくなります。
放浪したい欲求と人生の不思議…
これまで何度も海旅をしてきました。恋人と妻と家族と、そして仲間と…
ぼくは海が好きで、海旅というだけでゴキゲンなんですが、それぞれに楽しい思い出があります。
やはり誰かと一緒に行く旅というのは楽しいものです。
中でもぼくと同じくらい海が好きで、ウォータースポーツができる仲間と一緒に行く海旅は格別です。ウォータースポーツを通じてある程度共通認識がありますから、余計なことを話さなくても気持ちややりたいことが通じるのがいいですね。
でも、それでもぼくは独りの海旅の楽しさについても大切にしたいと思うのです。
独り海旅の楽しさは、誰かと行く海旅とは違った楽しさがあります。
自分の好きなようにできます。
好きなところへ行けます。そこにずっと居続けることもできます。
好きなように時間を使えます。
話さなくてもいいです。
いくら考えごとをしていてもいいのです。
計画を勝手に変えることができます。
というわけで、ときどき無性に独りで海旅に行きたくなるぼくです。できれば1週間とか1ヶ月とか半年とかそういう長さで、海辺を旅したいと思います。行きたいところへ、計画もなしに旅したいのです。
世に放浪癖という言葉がありますが、ぼくの中にはそういう性向が多少はあるような気がします。寅さんほど強くはないにせよ、時折何かのタイミングで、海辺を放浪したいという気持ちが顔をのぞかせます。そういう気持ちが一旦表面化するとその衝動というのは強くて、抑えるのに苦労します。独りで好きなように好きなところを旅し続けたくてどうしようもなくなるほどです。
海が好きだという気持ちと旅をしたいという気持ちと放浪したいという気持ちが必ずセットで存在するのかわかりません。ぼくの海遊び仲間を見ていると、どうやらそれは別物のようです。ただぼくの中には、海が好きだという気持ちと放浪したいという気持ちはセットで存在しています。そして旅をしたいという気持ちは放浪したいという気持ちと同じなのです。そして旅をしたい=放浪したいだからこそ、独りで旅をしたいという欲求になるようなのです。
こんな自分が、なんとか人並みに働き、家族もいるわけですが、これは本当は自分の人生ではないんじゃないかとときどき思います。本当の自分は今頃、ミクロネシアの小島を旅しているのではないかと思います。夜、Suzanne VegaのCDを聴きながらウイスキーを飲んでいるときによくそういうことを考えます。
海好きな放浪癖を抑えて、よくぞ普通の暮らしをしているものだと、自分のこれまでを振り返ったりします。なぜぼくは、強い放浪衝動を抑えて、いわゆる人並みといわれるような暮らしをし続けられるのでしょうか?
答えはでません。
そして、ぼくはこの先、どこへ行くのだろうか、どんな人生を過ごすのだろうか考えたりします。
自分のペースって
時間があると海にでている今日この頃です。
大きなカイシャとかで、すごくマジメに働いている人いますね。お疲れ様です。頑張ってください。
といいつつぼくはそういうことしないんですね。
別に悪いことをしようとかサボってやろうとかそういうことを思っているわけじゃないんですけど。
ぼくは自分のペースでやりますから、よろしく!ということです。あるいはそこんとこよろしく!といってもいいし、よろしく哀愁!といってもいいわけです。
自分のペースって難しいですね。会社とかだと、ちょっと頑張ると、「お、A君やるじゃないか」なんていわれて褒められたり、周りから認めてもらえます。そうするとやっぱり嬉しいですもんね。人間が不思議なのは、この頑張るA君って、それが普通になってしまうわけで、しばらくすると周囲はなんとも思っちゃいません。
で、会社って年々成長しなければいけないことになっているらしく、そうするとA君はもっと頑張って欲しいといわれるわけです。
で、A君は周囲に褒められたいから、またちょっと頑張っちゃう。そうすると「やっぱりA君すごいね。さすがだね。」ってなって、次ももう少し高い目標、さらに次もという感じになっていくわけです。
で、お読みの方はだいたい想像がつくと思うんですが、A君は疲れてしまってメンタルの病になって、しばらくお休みするというわけです。
自分のペース…
周りに褒められようとしない。格好つけない。周りの評価によって自分を変えない。
ぼくが組織で働いていて驚くのは、在職中すごく尊敬されていた人とかすごく影響力があった人が亡くなったときです。そのときは全社に衝撃が走るわけです。で、告別式に社内外から多くの人が参列します。で、で、それで2週間とか1ヶ月もすると何もなかったかのように組織は動いていて、その亡くなった人のことは、もしかしたらたまに思い出すかもしれませんが、みんな忘れているわけです。
それが組織のいいところでもあり、怖いところでもあります。
組織の側から見れば、組織の継続性の担保ですし、個人の側から見れば、組織のために個人が歯車~交換可能な部品~になるという風にいえるかもしれません。
最初の話に戻ると大きなカイシャというのはたいてい長く続いていて伝統があったりするわけです。そうすると社員も「我が社の伝統を継承するため」なんつって頑張っちゃうんですが、そういうのってすごく崇高な精神のようですけど、個人を犠牲にしかねないので、あんまり近寄らない方がいい気がしています。
海辺で暮らして、日々海を眺めていると、目の前の島は何万年前の噴火でできたんだとか、伊豆半島は200万年前くらいに本州にぶつかったんだよな、それまでは島だったのかなとか、このあたりの地形が隆起したのはいつなんだろうとか、そんなことを考えるわけで、せいぜい100年とか300年とかで伝統なんていって青筋立てているオッサンの顔を思い浮かべると笑っちゃいます。それ自体が人間の物差しで、しかもちっぽけ。中国が4000年の歴史といわれますが、自然とか地球の物差しで見れば、数万年単位ですもん。
そんな時間の中で、多くの人が生まれては死に、生まれては死んで、今の自分が存在しているんですが、そんなちっぽけな自分だからこそ何も気にしないで精一杯やりたいように生きればいいんだなあ、なんて思います。周りに褒められようとか、周囲の人がああしてるから、自分だけ浮かないように同じようにしようとか、格好つけようとか、歴史に名を残そうとか、そんなこと気にすることはないんじゃないかなあ、なんて思います。あと100年もすれば誰も憶えちゃいません。

ランキングに参加しています。クリックお願いします!
ランキングに参加しています。クリックお願いします!
からっぽの時間って大切ですね
毎日忙しくすごしていらっしゃる方が多いんではないかなーと思います。
特に大きな用事がなくても、細々したことをやっているうちに一日が過ぎてしまった、なんていう経験は誰しもお持ちのことでしょう。
ああなんだか忙しいですね、というのはもう日常会話の時候のあいさつみたいな感じです。
そう、やることというのは、際限がないですね。さらに家事などの細部にこだわっていくと、やることは尽きません。
休日に、今日はちょっとノンビリしようかなと思っていて、掃除を始めたら、結構大掃除になってしまって、一日が終わってしまったなんてこともあります。
そうなんです、何かをやるとキリがないんです。
それはそれでいいんですけど、それだけだと疲れてしまうこともあります。
そういう日々からエスケープするために、ぼくは海で遊ぶ時間は、それしかやらないことにしてます。
たとえばビーチでお茶するとき、海辺を散歩するとき、スキューバーダイビングをするとき、シーカヤックをするとき、セイリングをするときは、ぼくはそれだけしかしないようにして、頭の中も他のことは考えないようにしています。そういう風に努力しているといえるかもしれません。海にいるときに、ぼくは、意識のある回路のスイッチをオフにしてしまうのです。
というわけで、ぼくが海にいるときは基本的にからっぽの時間なんです。もちろん何かをやっているんですが、それだけに集中しているので、頭は結構休んでいる気がします。シーカヤックなんていい例ですが、ひたすらパドリングをするわけです。自分のペースを守って、自分の身体の使い方に集中してパドリングします。そうすると頭の中がからっぽになります。
この感覚は、座禅をしているときと似ている感じです。そう、ぼくは年に何回か建長寺で座禅を体験します。そのときの感覚に似ているのです。
そして座禅や瞑想の効用としていわれることですが、頭をからっぽにすると、気持ちがとてもラクになりますし、頭からくる疲れ(自律神経系のなどの疲れ)がとれるような気がします。
自然に囲まれた暮らしを丁寧に楽しみたい
ずいぶん前のことですが、伊豆を旅行したときのことです。こぢんまりとした旅館に泊まったのですが、山の斜面にあり、宿全体が緑に囲まれて、でも高台にあるので海が望めるという宿でした。当時東京の街中のビルに囲まれたマンションに暮らしていたので、緑に囲まれた安らぎ、海が目の前に開けている解放感が印象的でした。夜には虫の声を聴きながら眠りにつき、朝は鳥の声で目が覚めます。朝、カーテンを開けると海の青と森の緑が朝陽に照らされて目に飛び込んできました。そのとき自然に囲まれて過ごす素晴らしさを実感したのでした。それ以来、緑に囲まれて、かつ海を眺めながら暮らすことに憧れていました。
ぼくが今の家を探すまで、いろいろな土地や家を見て回ったのですが、求めていたイメージは、このときの伊豆の宿の立地でした。森の中にあって、海が望めるという条件です。
幸い巡り合わせがあって、イメージどおりの土地に出会いました。
夏は蝉の声がうるさいくらいに聞こえ、夏が終わりに近づくにつれ、夜には虫の声が混じるようになります。朝もいろいろな鳥の声が聞こえます。ぼくは虫や鳥の種類がわからないので、そういう点ではすごくもったいない暮らしをしていると思います。
夜、目をとじると虫の声と波の音が聞こえます。それを聞きながら眠りにつくのはとても幸せなことだと思っています。
ときどき出張で街中のホテルに泊まることがありますが、ビルに囲まれて全体に灰色の閉塞感のある空間にいると、ちょっと息苦しささえ感じます。早く家に帰りたいなと思います。
いつの頃から自分がこんなに自然を求めるようになったのかわかりません。もしかしたら年齢を重ねるごとに、自分の嗜好も都会的なものからナチュラルなものへと変化したのかもしれません。
よくテレビや雑誌などで定年後に田舎暮らしをする人の事例が出てきますが、あの気持ちはよくわかります。人の加齢による変化というのは不思議ですね。
自分の身の丈に合わせて生きていきたい
偏屈なのかもしれない話ですが、自分が苦手な人達がいまして、それは、映画とかテレビドラマで必死に働いて目標を達成したりする人達だったり、東京のビジネス街とかで仕事ができるビジネスマン的に早足で歩く人だったり、黒塗りの車の後部座席に座って、自分が日本を動かしているみたいにふんぞり返っている人だったり、高速道路の追越し車線を前の車をやたら煽って急いでいる人だったり、まあそういうタイプの人というのが苦手で、友達にはなりませんし、そういう人がそばにいると離れるようにしています。
そういうタイプの人にはその人の価値観があって、やりたいことがあって、一生懸命やっているので、それはそれで勝手にやればいいわけですが、自分はそういう風に生きないし、そういう人に近づかないということです。
ましてやそういうタイプの人が自分の価値観ややり方を押しつけてきたり、こちらを軽蔑してきたりすると、それはキッチリ反抗します。
もう少し正確に言うと、夢や目標があるのは別にいいと思うんですが、そのやり方の不自然さに違和感があるんです。
そんなにカリカリ、自分は一生懸命やってるぞどうだ的にやらなくてもいいんじゃないの?って思うんです。別に誰も一生懸命やってくれって頼んでいないと思うんですけど…
それに経験的にいって世の中のことって、そんなに自分がカリカリしなくても、まあたいていなんとかなるわけです。その人がいなくても回っていくわけです。もっといえば、その人がどんなにスゴいことをやっても50年か100年すれば、たいてい跡形もなく消えてしまうものです。
ぼくだって、やはりこだわりやどうしてもやりたいことは一生懸命やってしまいますし、やることがなければ、やらなくてもいいことまで一生懸命やったりします。それでうまくいかないとイライラしたりしまうんです。そんな自分に気がつくと、「オレは何をやっているんだろう」って思ってしまいます。
これを徹底してしまうと、虚無的な、世捨て人的な生き方になるのかもしれませんが、そういう考え方自体が昔からあったということは、やはりぼくと同じように考える人がいるということでしょう。
世捨て人的に諦めるんじゃなくて生涯を全うすればいいと思うんですが、それがライバル心だったり、他者と比べて自分が幸せだと認識するのはちょっと違うんじゃないかなと思うんです。
まるで「アリとキリギリス」の話みたいになっちゃいますが、実際、本物の蟻が自分よりも大きな荷物を背負って運んでいるのを見ると、自分を見ているようで身につまされます。
もし宇宙人とか神様みたいな存在がいて、その人が地球を遠くから眺めていたら、人間はその蟻そっくりに見えるだろうなーと想像します。
責任感を持って、一生懸命やろうと頑張って、そして疲れてしまう。ましてや人によっては追い詰められて鬱病を発症したり自殺してしまう。そういうのって本末転倒じゃないでしょうか?
童話ではキリギリスは冬に飢えてしまって蟻に助けを求めるんですが、ぼく的には、たぶん蟻の中には働き過ぎて疲弊して寿命が短くなったり、病気になったりしている蟻(さすがに蟻は自殺しないような気がしますが…)がいるんじゃないかと思います。
いろいろ想像してみるとキリギリスだって蟻だって所詮は儚い人生ではないですか。
ぼくにはぼくの生まれつきがありますし、身の丈があります。それに合わせて暮らしていきたいなと思うわけです。あまりこだわらず囚われず日々の暮らしを楽しんで過ごしたいと思います。

ランキングに参加しています。クリックお願いします!
ランキングに参加しています。クリックお願いします!
海辺暮らしの日常生活~散歩編~
海辺の暮らしのよさをしみじみと感じられるのは、散歩とビーチでボーッとする時間ではないかと、歳をとってきたぼくとしては思うのですね。
旅先の海では時間を惜しむように観光し、地元にいるときは朝からウォータースポーツをしてきたぼくです。若い頃はただの海水浴客をバカにし、海に来てBBQしかやることがない奴を無能呼ばわりしていたぼくですが、そんな以前の自分を反省し、悔い改めている今日この頃です。ああ神様…
最近の我が家のよくあるパターンは、相方と一緒に、チェアとテーブルとお茶とお菓子とアウトドア用のバーナーと水を持って地先のビーチに行きます。
それも突然。散歩は突然やって来る、とは相方の言葉です。
天気がよくて、用事がなくて、ちょっと時間が空いたときに、ちょっと海に散歩に行ける、というところが海辺の暮らしのとてもいいところです。そういえば昔都会で暮らしていたときは、今度の週末は海に行くぞーと計画を立てて、出かけていましたっけ。
ビーチの風の来なさそうな、日当たりのよさそうな場所(季節やその日の風向きによって違います)にお店を広げます。
とりあえずチェアに座ってボーッとします。
といいつつ、ぼくは海を見ると反射的に風向きとかうねりとか波とか潮流が気になるので、そういった海況を観察してしまいます。
目の前は海と空、そして海と空、やっぱり海と空。
海と空しかないのが、海好きじゃない人にはつまらないようですが、ぼくにとっては、だから落ち着けるというわけです。
海と空を眺めながら、相方ととりとめのないことを話したり、話さなかったり、景色を見たり、見なかったり、そんな時間が流れたところで、ビーチを散歩します。広げたお店はそのままです。別に誰かが盗るわけもなく、片づけるのも面倒ですから。
ゆっくりのんびりビーチの端まで歩きます。相方はときどき流れ着いたガラスの破片や貝殻を拾っています。
散歩が終わって、またチェアに座ってボーッとします。なんだかやたらボーッとしてますが、実際そうです。海と空を眺め、木々の色合いで季節の移り変わりを実感します。潮風を深呼吸します。空を舞う、鳶やカモメや海鳥を眺めます。
なんとなく頃合いを見て、ぼくはバーナーをセットし、ヤカンに水を入れて湯を沸かします。ぼくはドリップコーヒーを淹れ、相方は紅茶を淹れます。わざわざ湯を沸かしてお茶を淹れるのは、淹れたてがおいしいからですが、やはり温かい物を飲むとホッとするということもあります。
お茶を飲みながらお菓子をつまみます。
ゆっくりお茶を味わう時間。しかも屋外で、海のそばで、ゆっくりお茶を味わう時間。お茶を味わうことに集中する時間。お茶を味わうこと以外しない時間。そんな時間を1日に30分でも1時間でもとれたらいいのになと思ったりします。今は何も用がない週末になんとか時間がとれる程度です。
そんなことをしていると家族で散歩している知り合いがとおりかかったりして、世間話をします。一緒にお茶を飲んだりします。
海辺ではみんながのんびりしていて、いつもより和気あいあいとした雰囲気になるような気がします。もしかしてみんながこんな気持ちで暮らせれば、世の中は平和になるのかも、いやいやそんな単純なことではないでしょう。
空はどこまでも広く、海もずっと先まで広がっています。
毎日やらなければいけないことはたくさんあります。先々を見てもやることはたくさんあります。やってもやってもやるべきことは、また新たに発生します。目標を立ててたどり着いても、次の目標があらわれます。お金を貯めてもさらに貯めたくなるでしょう。会社を興して、順調でも、もっと大きくしたくなるでしょうし、業績が悪くならないように日々気にしなければならないでしょう。
なんとかこれまで生きてきました。今のところ、家族は健康で、今日明日、とりあえず食べることに不自由はなさそうです。
それでじゅうぶんではないか、と自分に確認します。これまでも何度も思ったことですが、もう一度確認します。
日々を、丁寧に、充実して、過ごしたい
蓼科のハーバルノートシンプルズの萩尾エリ子さんの書かれた本、『八ヶ岳の食卓』が好きで、何度も読み返しています。
特に仕事が忙しいとか、追い込まれた局面で読むと気持ちが落ち着くのです。
日々、起きることが淡々と丁寧に書かれていて、本を読んでいると、その落ち着いた雰囲気に、自分の気持ちがシンクロするような感じがします。
生きていれば、楽しいことも悲しいこともあります。そうした出来事を喜んだり悲しんだりするのも、人である以上仕方のないことです。ですが、そうした出来事はあっという間に過ぎ去り、忘れられていきます。なので、あまりそうした感情に流されすぎないようにした方がいいような気がします。
人生は、長いようで短いようにも思えます。ただ、何十年という人生は、毎日の積み重ねなのですね。その毎日を丁寧に過ごす、楽しむ、充実して過ごす、ことに集中できれば、それが後で振り返れば充実した30代とか○○代だったり、思い出に満ちた人生だったりするのかなあと思います。
そうした心持ちが本として読み手の目の前に提示されるのが『八ヶ岳の食卓』です。
萩尾エリ子さんはハーブを育て、ハーブに関する商品を作っていらっしゃいます。ぼくは以前から感じていたのですが、ガーデニングとか林業などといった植物を相手に仕事をする人というのは、なんとなく落ち着いた、穏やかな方が多いような気がするのです。
植物というのは自分では動きません。じっとその場所に根を生やし、春夏秋冬が過ぎ去ります。それを自分が動くことなく、ただ受け入れているだけなのです。自分が生きるために、他の動物を襲ったり、争ったり、殺し合ったりもしません。それでも自身は少しずつ成長していくわけです。
そういう植物を相手に仕事をしていると、人間の方も何らかの影響を受けるんではないか、というのがぼくの推測です。
暑い日も寒い日も、楽しさも辛さも、やって来る人も去る人も、自分の身に起きることを受け入れて、自分らしさを見失わず、日々を充実して過ごす。そして年月を重ねていく。そんな生き方をされている方が多いような気がします。
カテゴリー
最新記事
(08/03)
(08/02)
(08/01)
(07/30)
(07/29)
(07/27)
(07/23)
(07/20)
(07/19)
(07/17)
(07/15)
(07/12)
(07/09)
(07/08)
(07/06)
(07/05)
(07/01)
(06/30)
(06/28)
(06/24)
(06/21)
(06/20)
(06/17)
(06/16)
(06/14)
最古記事
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
アーカイブ
ブログ内検索
PR
カレンダー
PR
google


