海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
海で養われる生きる力
都会に暮らしていると、自然の脅威から、ほぼ隔絶されています。たまに台風や激しい気象などで混乱することがありますが、それで人が死ぬということはほとんどありません。地震などで災害になったりして、想定外の災害なんていいますが、それほど都会の暮らしは整備されている、と思うのです。
ぼくの友人に、住んでいるマンションが駅直結で、職場も地下街からオフィスビルに入れるという人がいますが、この人は雨や台風などの気象を前ほど意識しなくなったといいます。
こういうのって都会で暮らしていることの典型的な例じゃないかなんて思うんですねー。
一方でぼくは離島を旅するのが好きでして、そこで見聞きする島の人の暮らしは、気象を意識しないではいられないものです。島の人は誰でも、風の音や風向き、波の音でだいたいの天気がわかりますし、天気がわかると、その日やる行動が決まります。台風が近づけば、船が欠航するかもしれないので、食料を買いだめしたりします。
人々の暮らしは、自然の大きな力に翻弄される前提で成り立っていて、それをみんなが自覚しています。そこにある共通の前提は、人間の技術や力は限界があり、今の暮らしや人生は、自然の力の前で、かりそめの状態で成り立っているという意識ではないかと思うのです。
そういう暮らしをしていると、生きる、あるいは死なないということが、都会ほど当たり前ではなくなります。
食べる、暑さ寒さをしのぐ、雨風をよける、病気にならない、といった生きるために、最低限のこと~都会では当たり前のこと~が、当たり前でない環境で暮らしているとき、日々の暮らしに生きる力が必要となり、それがやがて生きていることの実感とか、生きていることへの感謝の気持ちに繋がるのかもしれないなーと思ったりするのです。
まあぼくが勝手に思っているだけで全然違うかもしれません。
突然話が飛びますが、青少年で無気力になっている人や非行にはしっている人の中には、ぼくの勝手な想像では、生きるのが当たり前でない環境、先ほどの例でいうところの離島で暮らすと、おそらく無気力や非行といった態度が消える人が多少はいるのではないかなーと思います。そういう実例を見たわけではないので、あくまでも想像です。それに無気力とか非行という状態になっているのもいろいろな理由があると思うので、一概にはいえないでしょう。ただ、そうした状態の中には、自然環境で生きる力を取り戻せるケースもなくはなかろうとぼくは想像しているということをいいたいわけです。それは、自然の状態というのは無気力や非行をやっていると生きていけない、死ぬわけで、その本能的恐怖はなかなか乗り越えられないだろうと思うのです。
また、一方で、無気力とか非行という状態の青少年が都市で暮らすと、社会的なダークサイドの力に引きずり込まれて抜け出すことができなくなるおそれの方が多いわけで、それであれば自然の豊かな環境で自給自足していくというのもひとつの可能性ではないかとも思います。
都会という人が暮らす環境が整備されたところで生きていると、だんだん生きている実感が薄れ、一方で都会という場で、人間のつくる社会の構造は複雑で、弱者や貧困者は何かしら搾取されたりします。そういう都会で暮らすよりは、よりシンプルに生きることに向き合える場所で暮らした方がいいんじゃないかとも考えたりします。
そしてさらに話は飛ぶんですが、食べる、暑さ寒さをしのぐ、雨風をよける、病気にならない、といった生きるために、最低限のことが当たり前でない環境に身を置くということは、アウトドアスポーツやウォータースポーツである程度再現可能ではないかと思うのです。なので、たとえば冬山登山とか太平洋横断とか、そこまでいかなくてもボーイスカウト・ガールスカウトとか、テント暮らしを1週間くらいするとか、そういうことでも、生きる力は湧いてくるのではないかと思うのです。
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枯れる草花の美しさしたたかさ
相方が花が好きで、ぼくもだんだん興味を持つようになりました。
知識はぜんぜんありませんが、鉢植えを買ったり、庭に木や花を植えたりしています。
うちは海辺で潮風があたりますし、夏は陽射しが強いので、そんな環境に合う植物と合わない植物があっておもしろいなあと思います。
冬になるといつも思うんですが、草花や木々はなぜ枯れるんでしょうか?
一旦は枯れて、次の年にまた花咲く多年草もありますが、1年だけで枯れてしまう草花もあります。木々も生きてはいても、冬の間、葉を落とす種類があります。
それってなぜなんだろうと…
ダーウィン的な種の保存からいえば、いつも元気で花を咲かせ、実をつけ、種を出した方が、その草花としてはいいんではないかと考えるんですが、割りと多くの草花が枯れます。夏と冬ではそんなに太陽のパワーが違うんでしょうか?
これは植物学的な面から考えればいろいろ答えがあると思うんですが、人から見た人生訓としての面から考えてみるとおもしろいなあと思うんです。
人も生まれて死ぬので、それはわかります。生命というのはそういうものです。ぼくが勝手に想像しているだけですが、物質は消耗したり劣化したりするので、永遠ということはありえないのでしょう。また、種としては、代替わりをすることで、変化に適応しやすくしているのでしょう。
そして同じ人の一生でも盛りの時期と耐える時期があるのかなあと思ったりします。花を咲かせ、実を結ぶ時期と、耐えて、生き抜くことに集中する時期があるのでしょう。
生き延びるために、なんとかする力をウォータースポーツから学んだ気がします
日々いろいろあって、たいへんなこともあれば、悲しいこと、ツラいこともあったりしますね。
たまたま運が悪いということもあるでしょうし、自分の思慮が浅いために招いたこともあるでしょう。はたまた、理由のない他者の悪意によることもあるかもしれません。
世の中、自分でコントロールできないことの方が圧倒的に多いですから、なぜ自分がこんな目に遭うんだ、ということが起きてもしかたがない、と考えるようにしています。理不尽といえば理不尽、運命の不思議といえば運命の不思議。
まあ、生きてるんだからしかたがありません。生きていなければそもそもツラさなど感じないでしょうから…と、ぼくは考える人間なんですが、むかーし昔、若い頃に付き合った女性に「そんな投げやりな考え方はよくない」といわれたことがありました。
なるほど、確かにそんな考え方もありますね。いろいろなことをしかたがないと考え始めると、ほとんどすべてのことを運命のせいにしてしまい、努力をしなくなるだろうと、彼女はそういいたかったんだと思います。
ぼくは暇さえあれば海に出ていますが、自然というのも、人間から見ればとても理不尽だと思います。そもそも自然に意図はありません。たとえば地震が東北や熊本で起きなくて別な場所で起きてもいいですし、あの時起きなくても別な時でもよかったわけです。でも、人間側から見れば、それで犠牲になった人がいるわけで、なぜあの時あの場所なんだと考えざるを得ません。
海では天候が急変して荒れたりすることはしょっちゅうですし、いろいろな要素が絡み合って深刻な状況になることもあります。想定外のこと、理由のわからないことばかり…それでも「なぜなんだ」とか「なんでオレがこんな目に遭わなきゃいけないんだ」愚痴ってもしかたがないわけで…とにかくその状況を切り抜けて生き延びるしかありません。
「事前によく考える。一旦海に出たら、生き延びるために、その場その場の状況に対処しながら、できる限りのことをする」というのが、ぼくがウォータースポーツから学んだことです。
一例ですが、スキューバーダイビングをするときは、その日の潮回り、海水温、潜るポイントの典型的な潮の流れ、天候、海の様子、風の様子、自分の体調、一緒に潜る人の体調やスキルレベルなどをすべて考え合わせてダイビングプランを作ります。そして器材のチェックをして、そしてなお、万が一起きうるトラブルを想定して、その対処策を頭に思い浮かべながら潜り始めるのです。
水中でも、潮の流れ、透明度、水温、残圧、体内窒素量、器材の状態、一緒に潜っている人の様子などをウォッチしながら潜ります。何かしら予兆を感じたらすぐに最善の策を考え判断し行動します。1分でも判断が速ければ、それだけ生き延びる可能性が高まるから。
ぼくがスキューバーダイビングにハマったのは、ダイビングのプロセスで頭を使うからです。スキューバーダイビングを含めたウォータースポーツは、身体を動かすのはもちろん、かなり知的な作業なのです。そこがおもしろい、とぼくは思います。
それでもなお自然の中ではいろいろなことが起きます。また自然の力は圧倒的に強くて、いくら人間が頑張ってもどうしようもないときもあります。
その場合は、しようがないのです。ただただ生き延びるために最善の行動をとるだけです。結果、ぼくは今無事で、こうして文章を書いていますが、もしかしたら次に海出るときには死んでしまうかもしれません。
「なぜそんな思いまでして海に出るのか?」と尋ねられることがありますが、ぼくにとってその質問の意味がよくわからないんです。ぼくからすれば、日々生活することも海に出ることと、ほとんど同じだと思うから。アクシデントやトラブルが起きる密度は違うかもしれませんが、自分がコントロールできないことで満ちている点は同じです。いや、ぼくからすれば、家庭や会社などでの人間社会での活動の方が、自然よりも読みにくい点で、難しいとさえ思います。
ニュースを見ていると、ビルの工事現場で物が落ちてきて、たまたま下を歩いていた人に当たって亡くなったり、老人の運転する車にひかれて亡くなったり、精神的な病の人に刺されて亡くなったり、というような事件・事故が起きます。
ぼくにとっては自然よりもそういう事件・事故の方が予想しにくくて怖いように思えます。
ぼくは、ぼくのコントロールできない状態で生きなくてはいけなくて、だからどうしようもないことが起きてもなんとかしていくしかないし、なんとかする力をウォータースポーツから教わったと思います。

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母島旅情
離島が好きで、いろいろな島を旅してきました。
離島というのは到着してしまうと、隔絶感というのか、なんというのか、えーっと「おこもり感」というか「隠れ家にいる感」というか、うまくいえませんがそういう安心感があります。
なのでぼくは島旅が好きでして、しかも大きな島よりも小さな島の方が好きです。
人口は1000人以下だと、かなり好ましいですが、3000人以下でも好ましいです。
人口が少ないと何がいいかというと、島の人が優しいというのと、隔絶感がより強く、安心感が高いからです。おそらく誰が何をやっていて、どんな旅行者が入ってきているか把握できているというのと、人が少ないと競争よりは調和や助け合いの気持ちが強くなるからではないかなあと思ったりしますが根拠はありません。たぶん東京のような都会がギスギスしている感じがするのは、競争が激しくて、人は自分の序列をより上に上げようとしているからではないかと思います。
上といっても所詮、相対的な、あるいは主観的なものであって、それは幸せ感とは異なります。都会の人が経済的に豊かだけれどどことなく幸せに暮らしている印象が薄いのは、そういう面があるのかもしれないですね。
そして、より不便な島が好きです。最寄りの便利な場所から遠ければ遠いほどぼくにとっては魅力的です。
なので、ずっと小笠原に行ってみたかったんです。しかも母島に行ってみたかったんです。母島は小さな島で、不便(たぶん)です。
人口は約450人。島には、なんでも扱う雑貨屋が1軒、農協と郵便局と小学校と警察と役場が徒歩2~3分のエリアにあります。
そしてぼくがこれまでしてきた島旅の中で最高にいいところでした。
1週間滞在しました。スキューバーダイビングして、山をトレッキングして、その後風呂に入って、堤防でビールを飲む日々。だんだん島の人に顔を覚えられて、あいさつしたり、飲みの席に誘ってもらったりして、なんともいい居心地でした。
沖縄の離島との大きな違いは、古くから住んでいる人が少なくて移住者が多いところ。沖縄がローカルと外来者を峻別して、しかも外来者を温かく迎え入れる感じなのに対し、小笠原の島は、よそ者に開かれているというか、ローカルと外来者が同列な感じがしました。それが居心地のよさの一番の理由でした。
まとまった休みに海に出つづけると、とてもリラックスできますねえ
盆暮れには仕事がわりと長い休みに入るという方は多いのではないでしょうか?
ぼくもそうです。
なんで長期の休みは盆暮れだけなのか?という大問題もあるわけですが、それは今回勘弁してあげましょう。
ぼくは仕事よりも海で遊んでいるのが好きなので(多くの人がそうでしょうね。いや、そうじゃない人もいるんだよなー)、長期の休みは心身共に奥の方までリラックスできて、とても嬉しいのです。
というのも、住んでる地元はノンビリした海辺の田舎町で、仕事場は一応都会なのです。都会に出るとなんだかギスギスしてるし、ワサワサ慌ただしいし、空気はあまりキレイじゃないし、いろいろな音がうるさいし、人が多いし、空が狭いし、どうも気疲れしてしまうんです。そんなに嫌いなら都会に行かなきゃいいじゃないかという話なんですが、仕方がありません。食べていくためには働かなければいけません。
週に5日は都会に出稼ぎに行って、2日は海辺でノンビリしているわけですが、2日だと、どこかしら仕事モードが抜けない面もあります。いやー、だいたいぼくがそれを望んだわけじゃなくて、常識的にそうなっているだけであって、ぼく的には、4日働いて3日休みでも、いっそのこと7日全部休みでもいいわけです。会社側は、そんな遠慮なさらず、そのような制度にしていただいても構いません、いえいえどうもどうも…
それが長期の休みになるともっとずっとノンビリできるわけで、そういう身体の芯の部分までリラックスできるというのがぼくにとっては大切なんだと思います。
社会人の中には、仕事から長いこと離れる不安という人もいて、こういう人はワーカホリックだと思いますが、ぼくは全然そういうことはなくて、仕事から離れられればセイセイするというか、できることならばずっと離れていられて、なおかつ給料だけはもらいたいという立派な心掛けのヒトなのです。
海辺にいるとやることはたくさんあって、セイリングしたりシーカヤックしたりサーフィンしたりスキューバーダイビングしたり海遊びしたり海遊びしたりで、暇な時間などありません。
1週間くらいそんな感じで海辺の田舎モードに浸ると、ようやく心身共に奥の方のコリがほぐれてくる感じがします。ぼくとしては2週間、いやいや1ヶ月、もう一声半年、いっそのことずっと、海辺の田舎モードの中で過ごすと、フニャフニャの軟体動物みたいになれるんではないかと期待している今日この頃であります。
さて、ところでなんでぼくは海辺の田舎モードだとリラックスできるのか、ということを考えてみたんですが、大きな要因としては、仕事を強制されないということ、自然の中にいるということの2点があると思うのです。
人は無理矢理やらされてイヤイヤやるとストレスになるけれども、同じ事を進んで、自分からやりがいを持ってやると楽しく感じられるということは、何かの本で読んだ気もしますし、実感としてもうなずけます。
それから野生の動物を動物園に入れると不適応で具合が悪くなるということ聞いたことがありますが、これは人間にとってもいえるのかもしれず、人にとってもある程度の野生というのは必要ではないのかと思ったりするわけです。
個人差があるでしょうが、周りの男達を見ていると、自然や野生に接していないと落ち着かないタイプというのが、一定層いるような気がします。
まあ、人間は、社会的な動物であるということと、狩猟や採集や農耕を営んで食べ物を得ていたということを学校で習ったので、生活の糧を自然を相手に得ていくタイプがいても不思議ではありません。会社と家庭という社会的な場のみで暮らしが完結してしまうのが性に合わないぼくのような人間は、何日かでも自然の中にいることで自分の本能的なバランスをとっているんでしょう。
とても気持ちのいい日
海辺に住んでいて、1年のうちに何度かとても気持のいい日というのがあります。自分のスケジュールが空いていて、気温もほどよく、湿度も高くなく、さっぱり爽やかな日というのは意外に多くないんです。
そんな日に当たれば、ぼくもそうですが、近所の人もこぞってビーチに出ます。だいたいいつも同じ顔ぶれのご近所さん。
散歩したり、お弁当を食べたり、お茶を飲んだり、たいしとこをやらなくても、お金をかけなくても、ビーチで、潮風を浴びながら、太陽の下でいられれば、それはとても楽しい時間になります。
ちょっとした幸せ…
大きな幸せというのはどういうものかよくわかりませんし、それがどれくらい長く続くのかもわかりません。
でもちょっとした小さな幸せは、ぼくには簡単にイメージできます。そしてそれはタイミングさえつかめばすぐそこにあるんです。お金も要らないし、社会的地位も不要です。みんなに等しくあります。
それをつかむかどうか…
それを楽しめるかどうか…
それをつかむかどうか…
それを楽しめるかどうか…
そんな楽しいひと時があれば、生きているのが楽しくなります。
放浪したい欲求と人生の不思議…
これまで何度も海旅をしてきました。恋人と妻と家族と、そして仲間と…
ぼくは海が好きで、海旅というだけでゴキゲンなんですが、それぞれに楽しい思い出があります。
やはり誰かと一緒に行く旅というのは楽しいものです。
中でもぼくと同じくらい海が好きで、ウォータースポーツができる仲間と一緒に行く海旅は格別です。ウォータースポーツを通じてある程度共通認識がありますから、余計なことを話さなくても気持ちややりたいことが通じるのがいいですね。
でも、それでもぼくは独りの海旅の楽しさについても大切にしたいと思うのです。
独り海旅の楽しさは、誰かと行く海旅とは違った楽しさがあります。
自分の好きなようにできます。
好きなところへ行けます。そこにずっと居続けることもできます。
好きなように時間を使えます。
話さなくてもいいです。
いくら考えごとをしていてもいいのです。
計画を勝手に変えることができます。
というわけで、ときどき無性に独りで海旅に行きたくなるぼくです。できれば1週間とか1ヶ月とか半年とかそういう長さで、海辺を旅したいと思います。行きたいところへ、計画もなしに旅したいのです。
世に放浪癖という言葉がありますが、ぼくの中にはそういう性向が多少はあるような気がします。寅さんほど強くはないにせよ、時折何かのタイミングで、海辺を放浪したいという気持ちが顔をのぞかせます。そういう気持ちが一旦表面化するとその衝動というのは強くて、抑えるのに苦労します。独りで好きなように好きなところを旅し続けたくてどうしようもなくなるほどです。
海が好きだという気持ちと旅をしたいという気持ちと放浪したいという気持ちが必ずセットで存在するのかわかりません。ぼくの海遊び仲間を見ていると、どうやらそれは別物のようです。ただぼくの中には、海が好きだという気持ちと放浪したいという気持ちはセットで存在しています。そして旅をしたいという気持ちは放浪したいという気持ちと同じなのです。そして旅をしたい=放浪したいだからこそ、独りで旅をしたいという欲求になるようなのです。
こんな自分が、なんとか人並みに働き、家族もいるわけですが、これは本当は自分の人生ではないんじゃないかとときどき思います。本当の自分は今頃、ミクロネシアの小島を旅しているのではないかと思います。夜、Suzanne VegaのCDを聴きながらウイスキーを飲んでいるときによくそういうことを考えます。
海好きな放浪癖を抑えて、よくぞ普通の暮らしをしているものだと、自分のこれまでを振り返ったりします。なぜぼくは、強い放浪衝動を抑えて、いわゆる人並みといわれるような暮らしをし続けられるのでしょうか?
答えはでません。
そして、ぼくはこの先、どこへ行くのだろうか、どんな人生を過ごすのだろうか考えたりします。
自分のペースって
時間があると海にでている今日この頃です。
大きなカイシャとかで、すごくマジメに働いている人いますね。お疲れ様です。頑張ってください。
といいつつぼくはそういうことしないんですね。
別に悪いことをしようとかサボってやろうとかそういうことを思っているわけじゃないんですけど。
ぼくは自分のペースでやりますから、よろしく!ということです。あるいはそこんとこよろしく!といってもいいし、よろしく哀愁!といってもいいわけです。
自分のペースって難しいですね。会社とかだと、ちょっと頑張ると、「お、A君やるじゃないか」なんていわれて褒められたり、周りから認めてもらえます。そうするとやっぱり嬉しいですもんね。人間が不思議なのは、この頑張るA君って、それが普通になってしまうわけで、しばらくすると周囲はなんとも思っちゃいません。
で、会社って年々成長しなければいけないことになっているらしく、そうするとA君はもっと頑張って欲しいといわれるわけです。
で、A君は周囲に褒められたいから、またちょっと頑張っちゃう。そうすると「やっぱりA君すごいね。さすがだね。」ってなって、次ももう少し高い目標、さらに次もという感じになっていくわけです。
で、お読みの方はだいたい想像がつくと思うんですが、A君は疲れてしまってメンタルの病になって、しばらくお休みするというわけです。
自分のペース…
周りに褒められようとしない。格好つけない。周りの評価によって自分を変えない。
ぼくが組織で働いていて驚くのは、在職中すごく尊敬されていた人とかすごく影響力があった人が亡くなったときです。そのときは全社に衝撃が走るわけです。で、告別式に社内外から多くの人が参列します。で、で、それで2週間とか1ヶ月もすると何もなかったかのように組織は動いていて、その亡くなった人のことは、もしかしたらたまに思い出すかもしれませんが、みんな忘れているわけです。
それが組織のいいところでもあり、怖いところでもあります。
組織の側から見れば、組織の継続性の担保ですし、個人の側から見れば、組織のために個人が歯車~交換可能な部品~になるという風にいえるかもしれません。
最初の話に戻ると大きなカイシャというのはたいてい長く続いていて伝統があったりするわけです。そうすると社員も「我が社の伝統を継承するため」なんつって頑張っちゃうんですが、そういうのってすごく崇高な精神のようですけど、個人を犠牲にしかねないので、あんまり近寄らない方がいい気がしています。
海辺で暮らして、日々海を眺めていると、目の前の島は何万年前の噴火でできたんだとか、伊豆半島は200万年前くらいに本州にぶつかったんだよな、それまでは島だったのかなとか、このあたりの地形が隆起したのはいつなんだろうとか、そんなことを考えるわけで、せいぜい100年とか300年とかで伝統なんていって青筋立てているオッサンの顔を思い浮かべると笑っちゃいます。それ自体が人間の物差しで、しかもちっぽけ。中国が4000年の歴史といわれますが、自然とか地球の物差しで見れば、数万年単位ですもん。
そんな時間の中で、多くの人が生まれては死に、生まれては死んで、今の自分が存在しているんですが、そんなちっぽけな自分だからこそ何も気にしないで精一杯やりたいように生きればいいんだなあ、なんて思います。周りに褒められようとか、周囲の人がああしてるから、自分だけ浮かないように同じようにしようとか、格好つけようとか、歴史に名を残そうとか、そんなこと気にすることはないんじゃないかなあ、なんて思います。あと100年もすれば誰も憶えちゃいません。

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からっぽの時間って大切ですね
毎日忙しくすごしていらっしゃる方が多いんではないかなーと思います。
特に大きな用事がなくても、細々したことをやっているうちに一日が過ぎてしまった、なんていう経験は誰しもお持ちのことでしょう。
ああなんだか忙しいですね、というのはもう日常会話の時候のあいさつみたいな感じです。
そう、やることというのは、際限がないですね。さらに家事などの細部にこだわっていくと、やることは尽きません。
休日に、今日はちょっとノンビリしようかなと思っていて、掃除を始めたら、結構大掃除になってしまって、一日が終わってしまったなんてこともあります。
そうなんです、何かをやるとキリがないんです。
それはそれでいいんですけど、それだけだと疲れてしまうこともあります。
そういう日々からエスケープするために、ぼくは海で遊ぶ時間は、それしかやらないことにしてます。
たとえばビーチでお茶するとき、海辺を散歩するとき、スキューバーダイビングをするとき、シーカヤックをするとき、セイリングをするときは、ぼくはそれだけしかしないようにして、頭の中も他のことは考えないようにしています。そういう風に努力しているといえるかもしれません。海にいるときに、ぼくは、意識のある回路のスイッチをオフにしてしまうのです。
というわけで、ぼくが海にいるときは基本的にからっぽの時間なんです。もちろん何かをやっているんですが、それだけに集中しているので、頭は結構休んでいる気がします。シーカヤックなんていい例ですが、ひたすらパドリングをするわけです。自分のペースを守って、自分の身体の使い方に集中してパドリングします。そうすると頭の中がからっぽになります。
この感覚は、座禅をしているときと似ている感じです。そう、ぼくは年に何回か建長寺で座禅を体験します。そのときの感覚に似ているのです。
そして座禅や瞑想の効用としていわれることですが、頭をからっぽにすると、気持ちがとてもラクになりますし、頭からくる疲れ(自律神経系のなどの疲れ)がとれるような気がします。
自然に囲まれた暮らしを丁寧に楽しみたい
ずいぶん前のことですが、伊豆を旅行したときのことです。こぢんまりとした旅館に泊まったのですが、山の斜面にあり、宿全体が緑に囲まれて、でも高台にあるので海が望めるという宿でした。当時東京の街中のビルに囲まれたマンションに暮らしていたので、緑に囲まれた安らぎ、海が目の前に開けている解放感が印象的でした。夜には虫の声を聴きながら眠りにつき、朝は鳥の声で目が覚めます。朝、カーテンを開けると海の青と森の緑が朝陽に照らされて目に飛び込んできました。そのとき自然に囲まれて過ごす素晴らしさを実感したのでした。それ以来、緑に囲まれて、かつ海を眺めながら暮らすことに憧れていました。
ぼくが今の家を探すまで、いろいろな土地や家を見て回ったのですが、求めていたイメージは、このときの伊豆の宿の立地でした。森の中にあって、海が望めるという条件です。
幸い巡り合わせがあって、イメージどおりの土地に出会いました。
夏は蝉の声がうるさいくらいに聞こえ、夏が終わりに近づくにつれ、夜には虫の声が混じるようになります。朝もいろいろな鳥の声が聞こえます。ぼくは虫や鳥の種類がわからないので、そういう点ではすごくもったいない暮らしをしていると思います。
夜、目をとじると虫の声と波の音が聞こえます。それを聞きながら眠りにつくのはとても幸せなことだと思っています。
ときどき出張で街中のホテルに泊まることがありますが、ビルに囲まれて全体に灰色の閉塞感のある空間にいると、ちょっと息苦しささえ感じます。早く家に帰りたいなと思います。
いつの頃から自分がこんなに自然を求めるようになったのかわかりません。もしかしたら年齢を重ねるごとに、自分の嗜好も都会的なものからナチュラルなものへと変化したのかもしれません。
よくテレビや雑誌などで定年後に田舎暮らしをする人の事例が出てきますが、あの気持ちはよくわかります。人の加齢による変化というのは不思議ですね。
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