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可処分時間を海に充てる



 可処分所得という言葉を大学の経済学の講義で教わった気がします。まあ、なんとなく覚えている感じですけど…
 で、それと似たように可処分時間という言葉を使う人がいます。いわゆる勝間和代さん的な生き方をする人たちが使う言葉です。
 そういう人たちの話しでは、自分の自由になる時間をどう最大化するか、そしてそれをどう使うかがテーマになるわけで…
 その考え方に合わせると、ぼくは可処分時間を海のそばで過ごすことに、かなり努力してきたと思うんです。そういう意味ではぼくは自分を褒めて差し上げたい。パチパチ。
 毎日通勤にかなりの時間をかけています。それでも朝と晩に海を眺め、海を感じられるのなら、その通勤時間はぼくにとっては見合うものです。
 同じ海好きの同好の士でもこのあたりの価値観は人によって違うようです。ある人は平日は職場と家は近い方がよくて、できる限り平日の生産性を上げて、休日は海でゆっくり過ごす、ということをよしとする人もいます。
 それはそれでひとつのあり方なんだろうなあと思います。
 ぼくは毎日出稼ぎといった感じで、日々、仕事とそれ以外の時間をはっきり分けたいという欲求が強いようです。
 職場の近くの街に住んでいるとそれがゴチャゴチャになりそう、あるいは仕事の時間がズルズルと長くなりそう、という不安があります。
 そして街の息苦しい雰囲気の中で暮らすのは、けっこうツラいのです。
 ぼくは30代くらいで、海辺に引っ越し、遠距離通勤をするようになりましたが、もしあのまま都会で暮らしていたら、もしかしたら途中で頭がおかしくなっていたんじゃないかと想像することがあります。それぐらいストレスフルでツラいと感じます。
 
 そういうタイプの人間は遅かれ早かれ海辺の田舎町に住むことになっていたでしょう。
 もしこの駄文を読んでいるあなたが、似たような気持ちを感じているとしたら、早く決断したらきっとハッピーになるんじゃないかと、他人のことはわかりませんけど、そんな風に思います。


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イライラ・カリカリするのはやめようっと



 日々いろいろありますねえ。なにかと忙しい人が多いんではないでしょうか?
 忙しいと、焦ったり、イライラしたりしますね、人って、やっぱり。
 特に、都会で、会社で働いている方は、たいてい忙しいわけで、それもただ忙しいんじゃなくて、とにかく何かに追われるように忙しいらしいです。
 そんな忙しい日々だと、やはり気持ちに余裕がなくなり、次のタスク、次のタスクに目がいきます。焦るでしょうし、イライラ・カリカリするでしょう。
 それ自体はしようがないと思うんです。だって人なんだもん。
 でもイライラ・カリカリすることで、気持ちが疲れたり、親しい人との中が悪くなったり、自己嫌悪に陥ったり、シリアスな場合うつっぽくなったら、それは残念なことですね。
 ぼくが自分もときどきそうなるので、そういうときはかなり意識して気持ちを切り替えるようにしています。そしてぼくの場合海がとても大切な役割を果たしているので、一般の忙しい状況にいらっしゃる方に対して、海に遊びに来て、気持ちを切り替えませんか?ということを書いてみたいのです。
 ぼく自身が日々海に接することで、気持ちを切り替えています。
 ぼくも街にある会社で仕事をしていますが、住んでいる場所は海辺です。長い時間をかけて通勤しているわけです。
 なぜそんなことをするのかといえば、海が好きで、日々海に接することで気持ちがリセットできるからです。
 会社で仕事に追われて日々過ごしているわけですが、ぼくの場合、海辺の家に帰ることで気持ちが切り替わって、ゆったりノンビリします。詳しくいえば通勤電車の中で気持ちのスイッチがパチンと切り替わるんです。そして海が見えてくると、完全にダラダラ・グダグダの自分になります。
 街にいる自分は頑張って大人の社会人をやっている自分で、海にいる自分は子供の頃からの悪い癖が抜けないそのまんまの自分です。
 そんなこんなで、俗ないい方をすれば「自然の癒やし効果」は、自ら実証済みです。
 自然が大嫌いな方(そういう人いるんですよね)でなければ、別に海でなくても、山でも川でも、おそらく自然の豊かな、都会でないところであれば同じ効果が期待できると思います。
 毎日通勤するのはたいへんでしょうから、休みの日に海に来てはどうでしょうか?
 ずっと広がる大きな海。青い空。なだらかにカーブする砂浜。松林。
 そんな景色を眺めると、ずいぶん気持ちが安らぐんではないかなあと思います。
 イライラ・カリカリした気分が和らぐでしょう、たぶん。
 気持ちがゆったりすればその人もラクに楽しくなるでしょうし、そういう人が増えれば、都会も過ごしやすくなる、かもしれません。
 病気やいざこざや事故や犯罪も減る、かもしれません。


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ダラダラのんびり過ごしたい



 ぼくはいい加減が好きです。ちゃんとするのが苦手です。休みの日もダラダラのんびりしていると、「ああ、充実した日を過ごしたなあ」と感じます。
 友人には「そういうのってわからない」っていわれます。「一日がもったいないじゃん」と。彼は朝からいろいろなことをやるのが充実した日なのだそうです。
 友人同士でもずいぶん違うもんですねえ。

 休みの日といっても、まあ、なんだかんだ、やらなければいけないことはあるもので、完全にやることがない日というのは貴重です。
 そんな日にボーッと海を眺めながら一日過ごすのが、ぼくにとってはとても嬉しいのです。
 海の色、波のたち方、陽射し、風の向き・強さ、潮の香り、木々の葉音、鳥の鳴き声、そんな周囲の様子をていねいにじっくり感じるのが好きです。
 今日も一日元気で、こうして海を眺められて幸せだなあ、なんて思える日がなによりも大切です。



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海は隠れ家



 小さい頃、自分だけの秘密基地を持ってませんでしたか?
 ぼくは持っていましたよ。
 その癖が大人になった今でも残っているみたいです。そう今のぼくにとって、海は逃げ場、隠れ家。疲れた時、独りになりたい時、海に遊びに行くのです。
 相方はそんなぼくを、怪訝な、あるいはいつまでも子供なんだから、というような目で眺めています。
 考えるに、ぼくはどこにいてもそこが本来の自分の場所でないように思えるようです。いいかえると本来の自分の場所がどこかにあるんじゃないかと思えるようなのです。それってけっこうヤバイ精神状態かもしれません。
 そういうぼくにとって海は格好の隠れ家で、そして、海の向こうには理想郷や桃源郷があるんじゃないかと胸のどこかがウズウズとするんです。
 なので、海辺の人が来れないような入江や島に渡り、キャンプしながら、海の向こうの理想郷ってどんな感じかなー、なんて考えたりする独りの時間がとても楽しいんでしょう。なんだか寂しいようで、ホッとする時間、そんな時間がとても貴重なんです。
 そしてそんなぼくを受け入れてくれて、何の関心もないような素振りの海というでかい自然がとても好きです。

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今日も笑って過ごそう



 世の中、難しく考えようと思えば、難しく考えられますし、仮想敵を作って競争的に考えれば、そのような日々になります。
 テレビのニュース番組では、いろいろ込み入った話題が報道され、難しい問題が山積しているように思われます。いえ確かにそうなのでしょう。
 そんなときぼくが思い浮かべるのは、沖縄の離島の人々の暮らしです。みなさんすごくお金持ちというわけではありませんが、日々の暮らしを楽しんで、ノンビリ過ごしていらっしゃいます。畑を耕し、あるいは漁をし、家族と食事をし、語らい、お酒を飲んで唄い踊って、眠る。その瞬間瞬間の、人々の笑顔が思い出されます。
 ニュースは幾人もの頭脳で作られたショーですが、沖縄の人々の暮らしは現実です。
 世の中は、概念的に考えることもできますし、一個人の現実として捉えることもできます。
 ぼくが大切にしたいのは、個人としてどう生きるか、どのように日々楽しく生きるかです。
 戦争中でも平和時でも人々は生活しているのであり、封建時代でも民主主義の時代でも人々は暮らしているのであり、ロシアでもアメリカでも人々は同じように生きているのです。
 人の暮らしは、朝起きて、食事をして、家族や友人と語らい、眠ることから構成されていて、すべての人にとって1日は24時間、これは世界中どこに行ってもさして変わりはありません。
 日々を楽しく過ごすことができれば、楽しい人生。それでいいではないかと、ぼくは思うのです。
 バカといわれようと、ノンポリ(懐かしい言葉ですね)といわれようと、アハハと笑って、今、このときを過ごせればいいなあと思います。悩んで生きても人生、笑って生きても人生。どうせ何百年もすれば、誰もぼくが存在したことなど知りもしないでしょう。
 沖縄の人々の笑顔を思い出して、今日も笑って暮らそうと思うのです。




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変わらない自分と一緒に生きていこう



 若い頃から他人と競争して、ガリガリやるのが苦手でした。みんなで群れるのも好きではありませんでした。クラスの優等生が机上の空論を弁舌爽やかに話すことに違和感がありました。
 ボーッとしたマイペースな奴というのが、大方のクラスメイトの評価だったんだろうと思います。
 そんなぼくですから、なるべくして、海遊びにはまり、独りで海辺の旅をすることに安らぎを感じ、海という自然と向き合って生きるか死ぬか自分次第という環境が好きになったんでしょう。
 人口が少ない離島を旅して、人のいない砂浜で日がな一日ボーッとするのが好きです。
 ビーチの地形や水中生物を観察しながら、いろいろ考えを巡らせるのが好きです。
 人間臭い地元の人と飲み明かすのが好きです。
 ハードなダイビングポイントを潜り、冷や冷やしながら無事ダイビングできたりすると喜びを感じます。
 結構荒れた海をシーカヤックで目的地まで行くのが好きです。
 人は変わることができますが、本質の部分で変わらないところもあります。
 ぼくは相変わらずマイペースでのんびりしています。これはよくいえば、ぼくの長所ですし、悪くいえば短所です。でも、まあ、それがぼくなのだからしかたがありません。人は誰でもたいていそういう面を持っているものです。
 今日も砂浜で潮風に吹かれながら、海遊びをして暮らします。
 そうした日々が続けば、まあぼくとしてはそれでいいのです。
 幸運なことに、海はそんなぼくを受け入れてくれます。





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海辺の風に吹かれて…



 海辺の町の匂いってありますね。ぼくはアレが好きです。
 海藻が陽に照らされた匂い。
 漁船の匂い。
 魚の匂い。
 潮の匂い。
 海辺にいるとそんな匂いがして、なんだか懐かしいような感じがします。ぼくはそんな匂いを嗅ぐと気持ちが落ち着くようです。ゆったり、ノンビリします。
 海の匂いがいっぱいの風に吹かれながら、ぼくはいつからそんなに海が好きになったんだろうと、昔のことを思い出そうとしますが、よくわかりません。
 まあ、いいんです。今、海にいて満ち足りているんですから…







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海で養われる生きる力



 都会に暮らしていると、自然の脅威から、ほぼ隔絶されています。たまに台風や激しい気象などで混乱することがありますが、それで人が死ぬということはほとんどありません。地震などで災害になったりして、想定外の災害なんていいますが、それほど都会の暮らしは整備されている、と思うのです。
 ぼくの友人に、住んでいるマンションが駅直結で、職場も地下街からオフィスビルに入れるという人がいますが、この人は雨や台風などの気象を前ほど意識しなくなったといいます。
 こういうのって都会で暮らしていることの典型的な例じゃないかなんて思うんですねー。
 一方でぼくは離島を旅するのが好きでして、そこで見聞きする島の人の暮らしは、気象を意識しないではいられないものです。島の人は誰でも、風の音や風向き、波の音でだいたいの天気がわかりますし、天気がわかると、その日やる行動が決まります。台風が近づけば、船が欠航するかもしれないので、食料を買いだめしたりします。
 人々の暮らしは、自然の大きな力に翻弄される前提で成り立っていて、それをみんなが自覚しています。そこにある共通の前提は、人間の技術や力は限界があり、今の暮らしや人生は、自然の力の前で、かりそめの状態で成り立っているという意識ではないかと思うのです。
 そういう暮らしをしていると、生きる、あるいは死なないということが、都会ほど当たり前ではなくなります。
 食べる、暑さ寒さをしのぐ、雨風をよける、病気にならない、といった生きるために、最低限のこと~都会では当たり前のこと~が、当たり前でない環境で暮らしているとき、日々の暮らしに生きる力が必要となり、それがやがて生きていることの実感とか、生きていることへの感謝の気持ちに繋がるのかもしれないなーと思ったりするのです。
 まあぼくが勝手に思っているだけで全然違うかもしれません。
 突然話が飛びますが、青少年で無気力になっている人や非行にはしっている人の中には、ぼくの勝手な想像では、生きるのが当たり前でない環境、先ほどの例でいうところの離島で暮らすと、おそらく無気力や非行といった態度が消える人が多少はいるのではないかなーと思います。そういう実例を見たわけではないので、あくまでも想像です。それに無気力とか非行という状態になっているのもいろいろな理由があると思うので、一概にはいえないでしょう。ただ、そうした状態の中には、自然環境で生きる力を取り戻せるケースもなくはなかろうとぼくは想像しているということをいいたいわけです。それは、自然の状態というのは無気力や非行をやっていると生きていけない、死ぬわけで、その本能的恐怖はなかなか乗り越えられないだろうと思うのです。
 また、一方で、無気力とか非行という状態の青少年が都市で暮らすと、社会的なダークサイドの力に引きずり込まれて抜け出すことができなくなるおそれの方が多いわけで、それであれば自然の豊かな環境で自給自足していくというのもひとつの可能性ではないかとも思います。
 都会という人が暮らす環境が整備されたところで生きていると、だんだん生きている実感が薄れ、一方で都会という場で、人間のつくる社会の構造は複雑で、弱者や貧困者は何かしら搾取されたりします。そういう都会で暮らすよりは、よりシンプルに生きることに向き合える場所で暮らした方がいいんじゃないかとも考えたりします。
 そしてさらに話は飛ぶんですが、食べる、暑さ寒さをしのぐ、雨風をよける、病気にならない、といった生きるために、最低限のことが当たり前でない環境に身を置くということは、アウトドアスポーツやウォータースポーツである程度再現可能ではないかと思うのです。なので、たとえば冬山登山とか太平洋横断とか、そこまでいかなくてもボーイスカウト・ガールスカウトとか、テント暮らしを1週間くらいするとか、そういうことでも、生きる力は湧いてくるのではないかと思うのです。
 ゴチャゴチャといろいろ書きましたが、自分の主張は、昔からいわれている「自然に還れ」という主張とそんなに差がないなあなんて思いました。







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枯れる草花の美しさしたたかさ



 相方が花が好きで、ぼくもだんだん興味を持つようになりました。
 知識はぜんぜんありませんが、鉢植えを買ったり、庭に木や花を植えたりしています。
 うちは海辺で潮風があたりますし、夏は陽射しが強いので、そんな環境に合う植物と合わない植物があっておもしろいなあと思います。
 冬になるといつも思うんですが、草花や木々はなぜ枯れるんでしょうか?
 一旦は枯れて、次の年にまた花咲く多年草もありますが、1年だけで枯れてしまう草花もあります。木々も生きてはいても、冬の間、葉を落とす種類があります。
 それってなぜなんだろうと…
 ダーウィン的な種の保存からいえば、いつも元気で花を咲かせ、実をつけ、種を出した方が、その草花としてはいいんではないかと考えるんですが、割りと多くの草花が枯れます。夏と冬ではそんなに太陽のパワーが違うんでしょうか?
 これは植物学的な面から考えればいろいろ答えがあると思うんですが、人から見た人生訓としての面から考えてみるとおもしろいなあと思うんです。
 人も生まれて死ぬので、それはわかります。生命というのはそういうものです。ぼくが勝手に想像しているだけですが、物質は消耗したり劣化したりするので、永遠ということはありえないのでしょう。また、種としては、代替わりをすることで、変化に適応しやすくしているのでしょう。
 そして同じ人の一生でも盛りの時期と耐える時期があるのかなあと思ったりします。花を咲かせ、実を結ぶ時期と、耐えて、生き抜くことに集中する時期があるのでしょう。
 庭の枯れた花を見ると、美しいなと感じ、そしてなんだか勇気づけられるのです。






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生き延びるために、なんとかする力をウォータースポーツから学んだ気がします



 日々いろいろあって、たいへんなこともあれば、悲しいこと、ツラいこともあったりしますね。
 たまたま運が悪いということもあるでしょうし、自分の思慮が浅いために招いたこともあるでしょう。はたまた、理由のない他者の悪意によることもあるかもしれません。
 世の中、自分でコントロールできないことの方が圧倒的に多いですから、なぜ自分がこんな目に遭うんだ、ということが起きてもしかたがない、と考えるようにしています。理不尽といえば理不尽、運命の不思議といえば運命の不思議。
 まあ、生きてるんだからしかたがありません。生きていなければそもそもツラさなど感じないでしょうから…と、ぼくは考える人間なんですが、むかーし昔、若い頃に付き合った女性に「そんな投げやりな考え方はよくない」といわれたことがありました。
 なるほど、確かにそんな考え方もありますね。いろいろなことをしかたがないと考え始めると、ほとんどすべてのことを運命のせいにしてしまい、努力をしなくなるだろうと、彼女はそういいたかったんだと思います。
 ぼくは暇さえあれば海に出ていますが、自然というのも、人間から見ればとても理不尽だと思います。そもそも自然に意図はありません。たとえば地震が東北や熊本で起きなくて別な場所で起きてもいいですし、あの時起きなくても別な時でもよかったわけです。でも、人間側から見れば、それで犠牲になった人がいるわけで、なぜあの時あの場所なんだと考えざるを得ません。
 海では天候が急変して荒れたりすることはしょっちゅうですし、いろいろな要素が絡み合って深刻な状況になることもあります。想定外のこと、理由のわからないことばかり…それでも「なぜなんだ」とか「なんでオレがこんな目に遭わなきゃいけないんだ」愚痴ってもしかたがないわけで…とにかくその状況を切り抜けて生き延びるしかありません。
「事前によく考える。一旦海に出たら、生き延びるために、その場その場の状況に対処しながら、できる限りのことをする」というのが、ぼくがウォータースポーツから学んだことです。
 一例ですが、スキューバーダイビングをするときは、その日の潮回り、海水温、潜るポイントの典型的な潮の流れ、天候、海の様子、風の様子、自分の体調、一緒に潜る人の体調やスキルレベルなどをすべて考え合わせてダイビングプランを作ります。そして器材のチェックをして、そしてなお、万が一起きうるトラブルを想定して、その対処策を頭に思い浮かべながら潜り始めるのです。
 水中でも、潮の流れ、透明度、水温、残圧、体内窒素量、器材の状態、一緒に潜っている人の様子などをウォッチしながら潜ります。何かしら予兆を感じたらすぐに最善の策を考え判断し行動します。1分でも判断が速ければ、それだけ生き延びる可能性が高まるから。
 ぼくがスキューバーダイビングにハマったのは、ダイビングのプロセスで頭を使うからです。スキューバーダイビングを含めたウォータースポーツは、身体を動かすのはもちろん、かなり知的な作業なのです。そこがおもしろい、とぼくは思います。
 それでもなお自然の中ではいろいろなことが起きます。また自然の力は圧倒的に強くて、いくら人間が頑張ってもどうしようもないときもあります。
 その場合は、しようがないのです。ただただ生き延びるために最善の行動をとるだけです。結果、ぼくは今無事で、こうして文章を書いていますが、もしかしたら次に海出るときには死んでしまうかもしれません。
「なぜそんな思いまでして海に出るのか?」と尋ねられることがありますが、ぼくにとってその質問の意味がよくわからないんです。ぼくからすれば、日々生活することも海に出ることと、ほとんど同じだと思うから。アクシデントやトラブルが起きる密度は違うかもしれませんが、自分がコントロールできないことで満ちている点は同じです。いや、ぼくからすれば、家庭や会社などでの人間社会での活動の方が、自然よりも読みにくい点で、難しいとさえ思います。
 ニュースを見ていると、ビルの工事現場で物が落ちてきて、たまたま下を歩いていた人に当たって亡くなったり、老人の運転する車にひかれて亡くなったり、精神的な病の人に刺されて亡くなったり、というような事件・事故が起きます。
 ぼくにとっては自然よりもそういう事件・事故の方が予想しにくくて怖いように思えます。
 ぼくは、ぼくのコントロールできない状態で生きなくてはいけなくて、だからどうしようもないことが起きてもなんとかしていくしかないし、なんとかする力をウォータースポーツから教わったと思います。






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