海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
自然がそばにあるシアワセ
若い頃はともかく、30歳くらいから自然に接することがとても好きになりました。それまでも普通の人よりはアウトドアが好きでしたが、自分でもハッキリわかるほど、自然に接するとホッとするようになったんです。
広々とした海に出たり、青々とした森の中に入っていったりすると、ココロが柔らかくなって、シアワセを実感するようになりました。逆な場合で、仕事が忙しくてなかなか海に出られないと、気持ちが殺伐とすることもありました。
それを象徴するような出来事があって、自分でもハッキリ覚えているんですが、それまではいい建築物を見たり入ったりするのがワリと好きだったんです。名建築とか有名な建築家の設計した建物は、できるだけ行くようにしていました。人間が考え尽くした物ってすごいなあと思っていたんです。
でも、あるときから、建築物というのは、それが建つ自然とか地形にフィットするものが、より素晴らしいんじゃないかと思うようになったんです。
ぼくは海辺に住んでいて、そこには無数の建物があるわけですが、その土地に合わない建物というのが確かにあります。一方で、その土地に合っていて、人々がなんとなく集まる建物というのもあります。それは材料の高い安いではなく、広い狭いでもありません。
不思議なものです。
自然と人というのは対立するものではなくて、人の生活は自然の懐に抱かれているんじゃないかなあと思うのです。自然の力とその時間軸は人間を圧倒していて、人間はごく短い時間を自然の中で暮らしている、というのがぼくのイメージなのです。
海の音を聞き、潮風を肌で感じ、海の青さを眺める。そうした時間が自分にとってはとても大切なんだなあと思うんです。自然の大きさを感じるということは、ぼくにとっては自分の(人間の)儚さや無力さを改めて自覚するということです。それがぼくにとっては癒やしになるし、シアワセを実感できることなのです。
1日のうち少しでもいいから自然を感じる時間を作りたい、そんな風に思って、通勤に時間がかかっても海辺の田舎町に住むようになりました。ちょっとしたシアワセを感じられる時間、それで日々暮らしていかれれば、それでいいんじゃないかなあって思うんです。

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藪を切り開くようなときが好き
自分の性格とか好みを考えると、ぼくは決められたことに従うよりも、何もないところに新しいものを作るのが好きだなあと思います。
突然こんなことを書いてもわけがわからないかもしれないので、いくつか具体的なことを思い浮かべてみたいと思います。
スキューバーダイビングですと、ダイビングスポットは決められています。これはサービスの有無もありますが、地元の漁協との関係である程度潜れる場所を決めているわけです。ぼくはそういう決められたスポットだとなんだかイヤで、自分で勝手に好きなところに潜りたくなっちゃいます。
あとはテーマパークとか公園とか海水浴場というのも好きではありません。テーマパークは作り手が意図を持って作っていて「どうです、このアトラクション面白いでしょう」というのが見え見えで、作り手の意図に乗りたくありません。
公園もここが砂場です、ここは滑り台です、野球をしてはいけません、大声を出してはいけませんといった具合にルールがたくさんあってうっとうしいです。できれば何もない広場にして欲しいですが、もっといえばぼくとしては野山で十分楽しいんです。
海水浴場というのも大きなお世話で、ぼくは自分が入りたい海に入りたいんです。
こんなことを書くとかなり偏屈な性格みたいですが、まあ確かにそうです。歳をとってだいぶマイルドになりましたが、若い頃はルールとか決まりとかに従いたくありませんでした。この世の中は原則自由だろうと突っ張っていました。
もう少し具体例を書くと、道を通るのも苦手です。道って道路です。道路って、右を歩けとか、制限速度が何キロだとか、一時停止だとか、シェア・ザ・ロードとかルール多過ぎです。ウルセーつーの。
なので、海を航海するとスッキリします。
そういえば思い出しましたが、ぼくは山でも道がついているところよりは、道がない藪みたいなところをガサゴソ開いていくのが好きです。海に降りる道も、道を通らずに草っ原を通っていったりします。
こういう性格を何タイプというのか知りませんが、似たようなタイプの人をたまに見かけるので、すごく稀というわけでもない気がします。
なぜそんなことをするのか自分でも考えてみるんですが、ルールに従うとか誰かの後についていくというのが、好きではないのでしょう。それに誰も行ったことがないところは、自分だけの場所という気がします。一番うれしい状況は、みんなが通る道は渋滞していて、自分で切り開いた道はもちろん誰もいなくて、で、その道端に人知れず素敵な場所(きれいな花が咲いているとか、景色が素晴らしいとか…)があったりするのを見つけたときです。
たぶん自分が満足する状況は、自分独特だし、それは自分で苦労して探さないと見つからないだろうと勝手に思っているのかもしれません。
こういう話を相方にすると、まったく理解できないという反応が返ってきますが、人の価値観というのはいろいろで、理解できるわけでもないんですよね。世の中は複雑で多様です。やっぱり常識とかルールとかできる限りなくしちゃえ。

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都会の雨音、海辺の田舎の雨音
海辺の田舎で暮らして、とてもいいなあと感じたことがあります。
そのひとつは雨の音が柔らかいことです。
都会に降る雨の音は、ザーっていう音です。水滴がアスファルトとかコンクリートに落ちる音。
田舎に降る雨の音は、いろいろな音が混ざっていて柔らかいんです。海に落ちる音。砂浜に落ちる音。木々の葉に落ちる音。土に落ちる音。どれもアスファルトとかコンクリートに落ちる音よりも柔らかい音がします。
ポトポト、シトシト、サワサワ、シンシン…
そういう柔らかい音を聴くようになってから、雨の日も好きになりました。
ウインドブレーカー、短パン、ビーサンで準備を整えて、雨の中、ビーチを散歩することもよくあります。
あるいは家の窓から雨に濡れる森の木々を眺めていることも結構あります。
そんなちょっとしたことが海辺の田舎暮らしの魅力といえるかもしれません。
海辺の霧の日がとても好き
初夏の時期、海辺は朝に霧が出ることが多いんです。
ぼくは毎朝、砂浜を散歩しますが、霧が出始めると夏だなあと感じます。
霧が好きで、海辺に住んでよかったことのひとつは、けっこうな頻度で霧に遭遇できることです。
朝だから、温度も湿度は高くありません。爽やかで涼しい空気なんです。砂浜から海に立ち上がる山々に霧がかかります。霧が濃いときは、砂浜も海も霧で、もやっています。
そうなるとすごくうれしい。ワクワクします。
そういえば、ぼくは高原で出る霧も好きなのでした。
なんでかな?
神秘的な感じがするからでしょうか?
ちょっとトワイライトゾーン的な…
霧のかかった砂浜は、普段自分が知っている海辺ではなくて、遠いところの初めて来た海辺みたいなんです。
なんだか旅行気分がします。
傷だらけの人生…やりたいことやる生き方…
いろいろ心配事は尽きないものですね。
健康とかお金とか天災とかトラブルとか…考えればきりがありません。しかもそうした心配事に備えようとすればいくらでもやることはあるので、心配事に備えているだけで人生が終わってしまうということもあるかもしれません。
ぼくはサーフィン、スキューバーダイビング、シーカヤック、セイリングをやります。やりたいと思ったら、多少危なくても、お金がなくてもやってきました。自画自賛ですが、今振り返っても、時間だけは取り戻せないので、そのときやりたいことをやってきたことは、よいことだったと思います。
ぼくは以前こんな人に遭ったことがあります。ぼくがサーフィンをするという会話をしていたときに、ちょっとした知り合いに「なぜそんな危ないことをするのか?」と尋ねられたことがあります。
ぼくとして、その質問に、とても驚いたのを覚えています。
で、そんなこといったらいろいろ危ないことってあるよなあーと思ったので、試しにその人に「危ないというのであれば、たとえば車の運転なんてできませんね?」と訊いたら、その人は「そうです。とてもリスクが高いので、自分は運転はしません」という答えが返ってきました。
人にはいろいろな考え方や生き方があって、どれが正しいとか悪いとかはないと思うので、それはそれでいいんですが、ぼくは、そういう生き方をしたくないなーと思うんです。
生きている以上いつかは死にますし、その間の人生に苦楽はあっても、それはそういうものです。それから逃れることはできません。
ぼくらは何かしらの偶然か縁かわかりませんが、生まれてきたのは事実で、その瞬間からリスクだらけの中を生きていくわけです。もちろんリスクに備えることはできますが、100%ゼロにはできません。リスクを抑えるために自分のやりたいことをどのくらい我慢するかは、その人の価値観によりますが、ぼくはできる限りやりたいことをやりたいと思うんです。
たとえリスクがあって、苦しいことがあったり、心や体が傷だらけになっても、それでもやりたいことをやりたいと思うんです。
海でノンビリすることのシアワセ
海を眺めながら日がな一日ボーッとしているぼくであります。
以前は、昼食や夕食に2時間くらいかけるイタリア人やフランス人の話などを、本などで読んだりして、「スゲーなー、いやーオレにはできないね」なんて、若干の軽蔑と少しの憧れをない交ぜにしつつ、小諸そば滞在時間5分だったりしたワケですが、堤防に座って海を眺めること数時間という芸当ができるようになったぼくに、ヨーロッパの人をとやかくいう資格なんてありません。
たとえば春先のなんてことない休日に、相方と手分けして、掃除や洗濯をひととおり終わらせ、ちょっと一息お茶でも飲もうか、なんてわりとありがちなひとときに、我が家の場合、コーヒーなどを保温ボトルに入れて、海に行くのです。他の人からは唐突に思えるかもしれませんが、海辺に住んでいる人の一部には、ちょっと海に散歩とか、ちょっと砂浜を歩いてくるというのは、ごく普通の日課だったりするのです。
ここまで読んで、「ちっ、優雅な暮らしの自慢かよ」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、ぼくは平凡な小市民でありまして、代々政治家を輩出する名家でもなく、ベンチャー企業の経営者でもなく、土地持ちの有閑一族でもないわけで、まあちょっと家のそばに海がある人なだけです。「ちっ、優雅な暮らしの自慢かよ」というような批判は、ぜひ他の方に向けていただきたいなあ、などと、かように考える次第であります。
海辺の堤防に座って、コーヒーを飲みながら、ああ今日は穏やかな海だとか、子供が旅行に行く予定だとか、今度の法事はいつどこでやるのかとか、最近電子レンジの調子が悪いから今度買いに行こうとか、そんなことをしているうちにあっという間に夕飯の支度をしなければいけない時間になっていたりすることってありませんか?って急に質問されてもーって感じですよね。
で、昼食に2時間の人もこういう時間を大切にしていたんではないかなあー、なんて思い当たるのです。そういう時間が週に何時間かあるだけで、なんとなく暮らしが楽しかったりしますよね?ってまた質問しつつ、海を何時間も眺めていると、まあ、細かいことはどうでもよくなってしまうのでした。

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自然が身近にある幸せ
ぼくが住んでいるのは海辺です。
山が迫った海辺です。
なので家の前は海、後ろは山という感じです。
何年か前、仕事の関係で東京に1週間ほど居なければならない状況がありました。忙しかったので家に帰れず、ビジネスホテルに寝泊まりしていたんです。
ビジネスホテルの窓の外は、隣のビルが迫っていてコンクリートの壁が見えるだけでした。窓をわずかに開けると車の走る音が、昼夜問わずひっきりなしに聞こえてきます。
都会を歩くとビルが多くて空が狭いです。
緑もそんなに多くありません。
その間は忙しいこともあって、なんだか殺伐とした気持ちになりました。
で、我が家に帰ってきて、ホッとしたんです。
家の前には海と空が広がっていて、目の前が広いんです。
陽射しが窓から降り注ぎます。
別の窓からは山の緑が見えます。一面の緑です。
そして波の音、鳥のさえずり、木々の葉の擦れる音、リスやタヌキの動く音。
そうした環境で暮らすことの素晴らしさを改めて実感しました。
特に好きなのは朝です。
鳥のさえずりで目が覚めます。はっきり目が覚めるまでしばらく鳥の鳴き声を聞いています。
そしてカーテンを開けます。
目が痛いほどに青い海が広がっています。
そういうひとときは、ぼくにとってとても大切です。
早朝、砂浜、散歩、自然を浴びて目覚める
日中は暑いほどの季節になりました。
真夏とはいえないまでも、春から一気に夏になってしまったみたいな気候です。春ってこんなに短かったでしたっけ?
でも、真夏よりも湿度が低くて、風は爽やか。この季節って朝晩は涼しいんですよね。
そんな早朝に砂浜を散歩するのって、すごく気持ちいいんですよね。
いつもよりも少し早起きして、家の前の砂浜を相方と一緒に散歩します。
陽が昇りかける頃、誰もいない砂浜をゆっくり歩きます。
波の高さ、うねり、風の方向や強さ、潮回り、海の透明度、海藻の成長具合を見たり、感じながらゆっくり歩くのです。
目・耳・鼻・肌が自然の情報で刺激されているのがわかります。
ぼくは勝手に「自然を浴びる」とか「自然に乾布摩擦を受ける」とか呼んでます。
身体が刺激を受けて目覚めるのがわかります。
昨日もなんとか無事に暮らせました。
心はまだ見ぬ遠くの海をさすらう
海が好きで、日本の海、外国の海にいろいろ出かけてきました。ぼくが今住んでいるところも海辺ですが、以前から「ここの海はいいなあ」と気に入っていた場所です。
旅好きな人は多いと思いますが、だいたい2つのタイプに分かれるようで、初めてのところに行きたいというタイプと、勝手がわかっている馴染みのところに行きたいというタイプです。
ぼくは前者です。
ダイビング雑紙や旅雑誌をめくりながら、まだ行ったことのない海のことを想像するのが好きです。
行きたい場所は、数が多すぎてきりがありません。日本の海だって、まだまだ行きたいところはたくさんあるのです。世界となるともう…
海辺に住んで、毎日海を眺め、ビーチを散歩しているのに、まだ海を旅したいと思う自分に、「ちょっと変なんじゃないか」「子供の頃頭を強く打ったからなあ」などと思ったりもしますが、これは性分なのでたぶん直らないでしょう。
まだ見たことのないあの国の海や風や太陽はどんな感じなんだろう、そこでは人々はどんな暮らしをしているんだろう、どんな魚がいるんだろう、などと考えていると楽しくなってきます。
ウォータースポーツをすることと生きること
ぼくはかれこれ25年くらいウォータースポーツをしてきました。サーフィン・スキューバーダイビング・セイリング・シーカヤック…
それらの共通点は、海に出ること、そこで楽しむこと、そして無事に戻ってくることの3つの過程があることです。当たり前といやあ当たり前ですけど。
山登りも多分そうだと思うんですが、自然の懐に入っていくこと、そしてそこから生きて帰ってくることは、とても大切なことです。
これがうまくいくように、海況や気象情報を集め、自分の体調をチェックし、事前に計画を立てて、シミュレーションをして、抜けや漏れがないか確認して、装備を準備し、実際に海に出ます。海に出れば、刻々と状況が変化するので、その変化を見逃さず、的確に判断し、行動します。それらがすべてうまくいって、無事に陸に帰ってくることができます。
入念な計画と準備、そして予想外の出来事への対応、そしてすべて自分が判断するということ…
ぼくはこうしたウォータースポーツの過程を何度も経験するうちに、どうもそうした思考回路が頭にできてしまったらしく、普段の暮らしにも同じような思考パターンで臨むようになったようです。で、それがだいたい当てはまるようなのです。
日々の暮らしは予想外の出来事の連続で、計画どおりにはいきません。かといって計画がないと自分の思ったようには進みません。計画はきちんとたてて、準備はするけど、でも臨機応変に対応していくということでは、ぼくはわりとうまくやれるようなのです。そして周りがどうしようと、自分の経験とか体力とか能力を踏まえて、自分なりの判断をするしかないということ。
これはまさにぼくが海遊びから学んだことの効果だといっていいと思うのです。
そして最も大切なことを学びました。それは死んだら元も子もないということです。
もちろん貴重な機会というのがあります。
長年計画してやっと行くことができた南の島。
何年かに1度のいい波。
とても大切な大会。
それらすべて貴重かもしれませんが、また再び手に入るかもしれないのです。生きていれば…
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