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海でノンビリすることのシアワセ



 海を眺めながら日がな一日ボーッとしているぼくであります。
 以前は、昼食や夕食に2時間くらいかけるイタリア人やフランス人の話などを、本などで読んだりして、「スゲーなー、いやーオレにはできないね」なんて、若干の軽蔑と少しの憧れをない交ぜにしつつ、小諸そば滞在時間5分だったりしたワケですが、堤防に座って海を眺めること数時間という芸当ができるようになったぼくに、ヨーロッパの人をとやかくいう資格なんてありません。
 たとえば春先のなんてことない休日に、相方と手分けして、掃除や洗濯をひととおり終わらせ、ちょっと一息お茶でも飲もうか、なんてわりとありがちなひとときに、我が家の場合、コーヒーなどを保温ボトルに入れて、海に行くのです。他の人からは唐突に思えるかもしれませんが、海辺に住んでいる人の一部には、ちょっと海に散歩とか、ちょっと砂浜を歩いてくるというのは、ごく普通の日課だったりするのです。
 ここまで読んで、「ちっ、優雅な暮らしの自慢かよ」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、ぼくは平凡な小市民でありまして、代々政治家を輩出する名家でもなく、ベンチャー企業の経営者でもなく、土地持ちの有閑一族でもないわけで、まあちょっと家のそばに海がある人なだけです。「ちっ、優雅な暮らしの自慢かよ」というような批判は、ぜひ他の方に向けていただきたいなあ、などと、かように考える次第であります。
 海辺の堤防に座って、コーヒーを飲みながら、ああ今日は穏やかな海だとか、子供が旅行に行く予定だとか、今度の法事はいつどこでやるのかとか、最近電子レンジの調子が悪いから今度買いに行こうとか、そんなことをしているうちにあっという間に夕飯の支度をしなければいけない時間になっていたりすることってありませんか?って急に質問されてもーって感じですよね。
 で、昼食に2時間の人もこういう時間を大切にしていたんではないかなあー、なんて思い当たるのです。そういう時間が週に何時間かあるだけで、なんとなく暮らしが楽しかったりしますよね?ってまた質問しつつ、海を何時間も眺めていると、まあ、細かいことはどうでもよくなってしまうのでした。





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自然が身近にある幸せ



 ぼくが住んでいるのは海辺です。
 山が迫った海辺です。
 なので家の前は海、後ろは山という感じです。
 何年か前、仕事の関係で東京に1週間ほど居なければならない状況がありました。忙しかったので家に帰れず、ビジネスホテルに寝泊まりしていたんです。
 ビジネスホテルの窓の外は、隣のビルが迫っていてコンクリートの壁が見えるだけでした。窓をわずかに開けると車の走る音が、昼夜問わずひっきりなしに聞こえてきます。
 都会を歩くとビルが多くて空が狭いです。
 緑もそんなに多くありません。
 その間は忙しいこともあって、なんだか殺伐とした気持ちになりました。
 で、我が家に帰ってきて、ホッとしたんです。
 家の前には海と空が広がっていて、目の前が広いんです。
 陽射しが窓から降り注ぎます。
 別の窓からは山の緑が見えます。一面の緑です。
 そして波の音、鳥のさえずり、木々の葉の擦れる音、リスやタヌキの動く音。
 そうした環境で暮らすことの素晴らしさを改めて実感しました。
 特に好きなのは朝です。
 鳥のさえずりで目が覚めます。はっきり目が覚めるまでしばらく鳥の鳴き声を聞いています。
 そしてカーテンを開けます。
 目が痛いほどに青い海が広がっています。
 そういうひとときは、ぼくにとってとても大切です。
 それの価値がわかる方は、たぶん海辺の暮らしが合っている方じゃないでしょうか。






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早朝、砂浜、散歩、自然を浴びて目覚める



 日中は暑いほどの季節になりました。
 真夏とはいえないまでも、春から一気に夏になってしまったみたいな気候です。春ってこんなに短かったでしたっけ?
 でも、真夏よりも湿度が低くて、風は爽やか。この季節って朝晩は涼しいんですよね。
 そんな早朝に砂浜を散歩するのって、すごく気持ちいいんですよね。
 いつもよりも少し早起きして、家の前の砂浜を相方と一緒に散歩します。
 陽が昇りかける頃、誰もいない砂浜をゆっくり歩きます。
 波の高さ、うねり、風の方向や強さ、潮回り、海の透明度、海藻の成長具合を見たり、感じながらゆっくり歩くのです。
 目・耳・鼻・肌が自然の情報で刺激されているのがわかります。
 ぼくは勝手に「自然を浴びる」とか「自然に乾布摩擦を受ける」とか呼んでます。
 身体が刺激を受けて目覚めるのがわかります。
 昨日もなんとか無事に暮らせました。
 今日も楽しく過ごせるといいなあと思います。



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心はまだ見ぬ遠くの海をさすらう



 海が好きで、日本の海、外国の海にいろいろ出かけてきました。ぼくが今住んでいるところも海辺ですが、以前から「ここの海はいいなあ」と気に入っていた場所です。
 旅好きな人は多いと思いますが、だいたい2つのタイプに分かれるようで、初めてのところに行きたいというタイプと、勝手がわかっている馴染みのところに行きたいというタイプです。
 ぼくは前者です。
 ダイビング雑紙や旅雑誌をめくりながら、まだ行ったことのない海のことを想像するのが好きです。
 行きたい場所は、数が多すぎてきりがありません。日本の海だって、まだまだ行きたいところはたくさんあるのです。世界となるともう…
 海辺に住んで、毎日海を眺め、ビーチを散歩しているのに、まだ海を旅したいと思う自分に、「ちょっと変なんじゃないか」「子供の頃頭を強く打ったからなあ」などと思ったりもしますが、これは性分なのでたぶん直らないでしょう。
 まだ見たことのないあの国の海や風や太陽はどんな感じなんだろう、そこでは人々はどんな暮らしをしているんだろう、どんな魚がいるんだろう、などと考えていると楽しくなってきます。
 仕事のとき、家族と話しているとき、ぼくの心はまだ訪れたことのない海をさすらっているのです。


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ウォータースポーツをすることと生きること



 ぼくはかれこれ25年くらいウォータースポーツをしてきました。サーフィン・スキューバーダイビング・セイリング・シーカヤック…
 それらの共通点は、海に出ること、そこで楽しむこと、そして無事に戻ってくることの3つの過程があることです。当たり前といやあ当たり前ですけど。
 山登りも多分そうだと思うんですが、自然の懐に入っていくこと、そしてそこから生きて帰ってくることは、とても大切なことです。
 これがうまくいくように、海況や気象情報を集め、自分の体調をチェックし、事前に計画を立てて、シミュレーションをして、抜けや漏れがないか確認して、装備を準備し、実際に海に出ます。海に出れば、刻々と状況が変化するので、その変化を見逃さず、的確に判断し、行動します。それらがすべてうまくいって、無事に陸に帰ってくることができます。
 入念な計画と準備、そして予想外の出来事への対応、そしてすべて自分が判断するということ…
 ぼくはこうしたウォータースポーツの過程を何度も経験するうちに、どうもそうした思考回路が頭にできてしまったらしく、普段の暮らしにも同じような思考パターンで臨むようになったようです。で、それがだいたい当てはまるようなのです。
 日々の暮らしは予想外の出来事の連続で、計画どおりにはいきません。かといって計画がないと自分の思ったようには進みません。計画はきちんとたてて、準備はするけど、でも臨機応変に対応していくということでは、ぼくはわりとうまくやれるようなのです。そして周りがどうしようと、自分の経験とか体力とか能力を踏まえて、自分なりの判断をするしかないということ。
 これはまさにぼくが海遊びから学んだことの効果だといっていいと思うのです。
 そして最も大切なことを学びました。それは死んだら元も子もないということです。
 もちろん貴重な機会というのがあります。
 長年計画してやっと行くことができた南の島。
 何年かに1度のいい波。
 とても大切な大会。
 それらすべて貴重かもしれませんが、また再び手に入るかもしれないのです。生きていれば…
 どのような貴重な機会も命をかけるほどのものではありません。




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のんびり、ボーッとするのが好きです



 ぼくの趣味はウォータースポーツですが、それよりも好きなことがありまして、それは、のんびり、ボーッとすることです。
 ここまで読んで、こいつはバカなんじゃないか、と思った方もいらっしゃると思います。それは間違っていませんけど、ぼくはわりと意識的にのんびりとボーッとするようにしています。
 なんといいますか、大げさですが、現代人はたいてい忙しくて、さらに働いている人はこれはまあ、ほとんどの人が時間が足りないと思っているんじゃないでしょうか。ちょっと暇な時間があるとスマホをいじったり、パソコンで何かやったり、テレビ見たりしてます。ボーッとすることってあんまりないような気がするんですね。
 ぼくもそうで、仕事はもちろん、趣味のこともありますし、日々の暮らしの雑用もあり、やることは山のようにあります。なので、朝起きてから夜寝るまでいつも何かしています。
 そういう日々だからこそ、ある特定の時間だけは、意識的に何もしないでのんびり、ボーッとするようにしています。
 ぼくの場合は、休日の朝はコーヒーを飲むことにしていますが、このコーヒーを飲む時間は、他に何もしないようにしています。スマホを触らず、音楽も聴かず、テレビも見ず、本も読みません。ただコーヒーを飲んで、その日の天気を感じたり、窓の向こうの海を眺めたり、考えごとをしたりします。できれば考えごともしたくないのですが、頭に浮かんできてしまいます。
 もう一つのんびりする時間は、ウォータースポーツをするときです。スキューバーダイビングやシーカヤックやセイリングをするときは、できる限り慌てず、時間を意識せず、いつもよりゆっくりのペースでいろいろなことをやるようにしています。
 特にスキューバーダイビングは、月に2回くらいは伊豆半島に潜りに行くことにしていますが、おいしいものを食べて、温泉に入って、行きつけの整体でマッサージもしてもらって、身体をケアする日にしています。
 のんびり、ボーッとすると、ぼくの実感では、なんとなくですけど、新しい発想が浮かぶとか、それまですごくシリアスに考えていたことが大したことではなく思えるとか、将来とか変化を楽観的に捉えられるようになる、といった変化がある気がします。
 感覚的には「アタマが柔らかくなる」とでもいうんでしょうか。
 できれば、毎日、海を眺めて、のんびり、ボーッとしていたいんですが、なかなかそれは無理みたいです。





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あぁ今日もいいなあ



 ぼくの日課の話です。
 朝起きて、カーテンを開けて、窓の外の海を眺めて、「あぁ今日もいいなあ」とつぶやくのです。
 まあ、ただそれだけの話です。



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海と自己



 大学生の頃からサーフィンを始め、スキューバーダイビングをし、セイリングをし、シーカヤックをしてきました。
 ぼくにとっては、大人の男になる過程でずっとウォータースポーツをしていたのです。
 ぼくにとって海とは、「自然に癒される」「自由になる」「自分と向き合う」「自然の中で自己変革する」場なのだと思います。
 なんだか堅そうな言葉が並びましたので、少し説明させてください。
 自然に癒されるというのはイメージしやすいと思います。
 多くの人が自然に接して、気持ちよくなったり、解放感を味わったり、気分転換できたりすることをいっています。まあ、これはそうですね。ぼくも、仮にウォータースポーツがなかったら、毎週のように海に出ていなかったら、偏屈なオヤジになっていたかもしれません。
 自由になるというのは、社会や組織や街などで従わなければならないルールから解放されるということです。
 これは自然に癒されるということと近いように思えるかもしれませんが、ぼくにとっては明らかに違います。
 自然に癒やされるというのは、自然が持っている環境や空間的な広がりやなんらかの働きで、ぼくの身体自体がいい影響を受けるということです。
 一方、自然の中で自由になるということの意味は、人間が作った仕組みやルールから離れて、そういったものから自由になるということです。ぼくから見れば、社会や組織や街という人が構築した環境というのは、ルールだらけで、それを守らなければならないですし、他人に迷惑をかけないようにいつも気を遣うので、気持ちが疲れてしまうのです。そういう自制心というのは、ぼくのようなタイプの人間には、かなり自分を抑圧するもののようで、ぼくもだいぶオジサンになってから気がついたんですが、そうとうココロに負荷をかけているようなのです。
 もし、周囲に迷惑をかけないように意識されがちな方は、自然の中で暮らしてみると、ずいぶん楽になるんじゃないかと推測します。
 ただし、自然の中で暮らすことで、人間が作った仕組みやルールから自由になったとしても、自然の中で生き抜かなければならないという別の制約が生じます。これはぼくの見解ですが、自然の中で自由になることとトレードオフです。
 自然と向き合うということは、自分が今いる環境としての自然の中で、自分が生きるために、今の自然を観察し、自分が自然から受ける影響を見極め、自分が自然に及ぼす影響も見極め、また自然の中での自分の限界を知るということです。
 社会や組織など人間が作った環境ですと、たいてい何年も今の状況が続くことを前提に話ができあがっていますから、先々のことまで考えてしまうんです。今に向き合わないところがあります。いつも先のこと先のことを考えてしまいます。
 一方自然というのは、刻々と変わって先のことがわかりませんから、今の自然の状態に向き合うようになります。そしてその結果として今の自分と向き合って、今の自分として精一杯生きようとするようになります。
 今のことだけ考えるとか、今このときをできる限り楽しむということは、他のことを考えず無心に近い心持ちになるので、精神的には安らかになれるのです。
 自然の中で自己変革するということは、刻々と変わる自然の環境の中で、自分が生き延びるために、自然環境に適応するために、自分の認識、認識に基づく推測や判断、そしてその結果としての振る舞いをどんどん変えていくことです。それは大まかにいって、社会や組織や街での自己変革よりもスピードが速くて、自分が納得して変化しているだけにストレスが少ないという特徴があります。
 また、その納得感は、自然が人間が存在するよりも以前からそこにあり、圧倒的に力強く、自分がコントロールできない所与のものだという認識から来ています。そう、自分ではどうしようもない状況で生き延びるために、自分の考え方や振る舞いを変えていくということです。
 それは街での暮らしが、すべて人間のために構築されていて、人間が快適なように環境を変えていくこととは対照的です。街での暮らしは、すべてが人間の思い通りになるという幻想を与えてしまうのではないでしょうか。たまに地震や台風などの大きな災害が来ると、改めてそれを認識するようになります。そして想定外の災害だなんていいますが、所詮人間ができることなど自然の大きな力の前ではたいていのことが想定外なのではないでしょうか。想定外という言葉自体が人間の力を過大評価している象徴のように思えます。
 自分がコントロールできないことがあることをきちんと理解すること、そのうえで、一番幸せな状態に自分を変えていくこと、いっていることは当たり前ですし、おそらく歴史的に人はそうやって幸せに生きてきたと思うんですが、人が個人として自由にいろいろなことをコントロールできるようになるにつれ、自分が変わらず周囲を変えることが多くなるにつれ、いざ自分がコントロールできないことに遭遇すると、すごくストレスを感じるようになったんじゃないかと思います。
 ぼくはウォータースポーツをとおして、だいたいこんなことを経験し、考えるようになったわけです。そしてそれがブルー・エクササイズという活動にもつながっています。
 ぼくは海に出ることで、自分の生と死に向き合い、自分の力の限界を思い知ることを繰り返しています。そしてその海での経験は、ぼくの生き方にも影響を与えています。その影響はマイナスなものではなくて、ぼくにとってはとてもプラスなことです。そんな考え方を教えてくれた海という自然に感謝していますし、その考え方が、ぼくが海からもらった最大の贈りものだと思います。



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ウォータースポーツも人生も「なんとかなるさ」でやってきました



「なんとなかるさ」というのが、海遊びをするときのぼくの基本的な心構えです。
 いえいえ、ぼくはそんな感じで生きてきました。
 一度海に出てしまえば、急に天候が荒れるかもしれないし、津波が来るかもしれないし、人食い鮫の群れに襲われるかもしれませんし、ゴジラが出てくるかもしれません。
 それはちょっと大げさですが、海にエントリーするときは穏やかだったのに、1時間もすると大荒れになっていたなんてことを何度経験したか…
 先のことなんかわからない。わかりっこないもん…
 でもわかんないから、怖いからやらないかっていうと、どうせ一度の人生だし、どうせみんな死ぬんだし、だったら好きなことをやろうと思うんです。ぼくはある頃から、たぶん大学生の頃からだと思いますが、そう思うように自分にいいきかせて生きてきました。
 そういう生き方と海遊びとは、ぼくの中では不可分で、切り離せないものとなっています。
 ぼくの中で海遊びというウォータースポーツと人生というのはかなり似たものとして分類されているのです。
 どこが似ているかというと、自分の周囲の環境が複雑で、コントロールができなくて、所与のものであるということ、そしてその環境の中で、自分の考え方を適応させながら楽しむというところが似ています。
 一方、ぼくの中で正反対のところに分類されているのが、大学受験とか資格試験です。出る問題は必ず答えがあって、しかもだいたいの傾向があって、出題範囲も限りがあります。みんなが同じ尺度で競争して、結果が点数化されて明白です。出題は歴史的に、科学的に正しいと検証されているものであって、それに対して疑う必要はないとされています。とても人工的で構造がかっちりしていて、計画を立てて努力すればするだけ結果が出ます。そのずべてが人生を生きることと正反対です。そういう意味で、大学受験や試験といった学生生活で課される事柄は、人生を生き抜くことに役立ちもしないというか、足かせになる事柄かもしれません。社会に出る準備段階としての学校という社会的役割を考えると皮肉なことです。
 自分の力が及ばないことを心配したり、しゃかりきになってコントロールしようとしないで、「なんとかなるさ」って考えて、とりあえず楽しむようになったのです。そう考えでもしなければ、怖くて海に出られないし、生きられません。明日のこと、いえいえ1時間先は誰にもわからないし、どうなるかわからない、ただただ今を楽しむだけです。

 そういう考え方を教えてくれた海に、ぼくは感謝しているのです。



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お気楽に生き延びていきたい



 先日、学生時代からの友人と飲みました。
 その席で、友人が会社で重要で難しい仕事を任されて、それが結構たいへんでプレッシャーを感じているという話が出たのです。彼にとってはそれがとても心配なことのようで、その話ばかりしていました。
 ぼくは能天気目お気楽科その日暮らし属のヒトなので、また、そうありたいと思っているので、何か自分の望まないことでプレッシャーとか感じないように生きてきました。
 何かあれば海遊びをして、その日を楽しく過ごせればいいと、これまで生きてきた、いい加減オジサンなのです。
 そういう心持ちってぼくは沖縄とか南の島の旅行で身につけた気がします。いい意味でノンビリゆったり適当な感じ。それってぼくにとってはとても大切なことなんです。
 ただやっぱり社会の中で生きていると、しかもオジサンになれば、何かしら役割とか責任はつきまとうもので、それをすべてかわしながら生きていけるのなら、それはそれですごい才能ではないか、パチパチパチと拍手してもいいんじゃないかと思うのです。自分もそうなりたいけど、なかなかそうなれません。
 なので、お気楽なぼくでも友人のその心配事には共感したのです。
 じゃあぼくが友人の立場に置かれたらどうするんだろうって想像してみました。
 仕事上役割を任せられた。嫌だけどやらざるを得ない。家族の生活があるので仕事をやめるわけにはいかない。部下や上司の期待もある。会社の利益もある。
 ムムム…辛いですね。
 こういうときってどうすればいいんだろう?
 ぼくならまず「成功させよう」「うまくやろう」「ちゃんとやろう」って考えないようにします。それが自分自身を縛ることになりそうです。
 それに他人って自分が思ってるほど、人のことを考えたりしやしません。人の目を気にしないことも大切ですね。
 それから「失敗したって、なんとかなるさ」と考えます。世の中のことはたいていどうにかなるもので、それで世界が終わったりするわけではありません。最低限人が死なないのなら、まあ良しとしようと自分にいい聞かせます。
 金丸信さんのいった言葉としてぼくは認識しているんですが、「この世のことはこの世でなんとかなる」(だったかな?正確には忘れました)というフレーズがあります。意味がわかるようなわからないような感じですが、なんとなくそうかなと思えます。
 そしていざとなったらその場から逃げます。
 そう、生きてこそなので、責任とか意地とかプライドとかを考えないで逃げて、どこかで生き延びます。






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