海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
どうせなら楽しくやろう!
いつものことですが、海でノンビリして、海遊びをしています。
「いい歳して。バカじゃない?」「この道楽者!」「奥さん大変だね」などなどの各方面の批判を受けつつも、そんなことはすぐに忘れてしまうのでした。バカっていいなあ。
重箱の隅にしか目がいかない、細かい小役人みたいなのは相手にしないのが良策。それが何か?あらっ、わたくし何か悪いことしたかしら?…なのであります。
そうです。ぼくは海バカですから…
どうせ人生なんて1度しかないし、もうオジサンであと何年生きるかわかんないから、やりたいことやって楽しむんだもーん、なんて思っています。
海バカのテーマソングを作ろうかな~と2分くらい考えましたけど、めんどくさいのでやめました。
海バカのテーマソングを作ろうかな~と2分くらい考えましたけど、めんどくさいのでやめました。
たまに眉間にシワ寄せて、何かすごく自分が頑張って世の中支えてるみたいなオジサンを見ますし、自分だけはいつも忙しくてテキパキしていて、あぁもう何であんたたち自分のことくらい自分でやりなさいよってイライラしているOLの方も見かけますけど、そんな風にしないで今日一日楽しく過ごしたらいいのに、などと端から見ているぼくです。
イライラしたり、何かに怒ったりしていると時間の無駄じゃないすか?っていきなりタメ口な問いかけをしてますけど、そう思わない人もいらっしゃるでしょうけど、話をどんどん進めます。
残り少ない人生(相方は長生きしそうな気がするっていってますけど…オレは太く短く生きたいの…)ですから、わずかな時間でも楽しく過ごしたいなあって思うんです。
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自然を浴びるといいって、本当ですか?
何かの雑誌の記事で脳科学者(でしたっけ?)の茂木健一郎さんが「自然を浴びるといい」っていうようなことを書いてたような気がします。
ちゃんと憶えてませんけど…あれ?書いてたよな?えっ?どうだったっけ?
この言葉をぼく的に勝手に共感しちゃうと、ぼくの場合、長い期間都会にいると体調の変化があります。たとえば敏感肌になったり、鼻水が出やすくなったりというようなことで、要はアレルギーっぽくなるみたいです。
オジサンになって自分の体調に気を配るようになったので、そのあたりの変化は結構ちゃんと感じます。
空気が汚いせいか、ストレスが多いせいかわかりませんが、自分の家に何日かいると、そんな症状は出なくなります。
あと確信はないんですが、地元で自然に接して暮らしていると、勘がよくなるような気がします。勘がよくなるというのは、自然の変化に対して主に見られます。たとえば雨が振りそうだとか、台風が近づいているとか、地震が起きそうとか、そういうヤツです。
これは日常的に自然の様子に気を配りながら暮らしているからでしょう。それが暮らしに大切だから…
茂木さんの記事は、自然を浴びると脳が活性化されるというような趣旨だったと思うんですが、たぶん…
で、きっとあの有名な茂木先生がいっているんだから、ぜったい本当なんだってぇ。たぶん…
ぼく的には、体調の変化とか気づきということを実感しているからですが、それも脳が何らかの働きをしているかもしれません。
ちなみにぼくは、海でちょっと危ない状況になると頭がよく働きます。いわゆるひとつのキン肉マン的にいうと、火事場の馬鹿力なんでしょう。
自然が豊かな場所で1週間以上いると、やっぱり生活のリズムとか体調とか変わってきます。
ぼくとしてはいい方に変わってきます。
それはさっき書いたことの反対で、アトピーっぽい症状がでなくなったり、イライラしなくなったり、夜熟睡できたり、風邪をひきにくくなったり、ネガティブなことを考えなくなったり…です。
科学的に証明できるか知りませんし、そんなんどっかのセンセイがやっとけよ、オレっち忙しいんだわ、というわけで、ぼくは個人的に実感しているのです。
自然が万能で、自然に帰れ、自然がすべてを癒してくれる、という60年代風なほど、物事は単純ではないと思います。でも、人間社会で起きる、うつになったり、自殺したりという、ちょっと複雑で原因不明なことって起きないんじゃないでしょうか?
だからさぁ、ユーもちょっと自然浴びちゃいなよー。
って、よくわからないし、知らないことだらけなので、この文章のことを信じないで…
だからさぁ、ユーもちょっと自然浴びちゃいなよー。
って、よくわからないし、知らないことだらけなので、この文章のことを信じないで…
まあどうでもいいや
海遊びが好きだとか、海辺のノンビリした暮らしが好きだとか、ぼくはそういう生き方を選んできたんですが、そういう自分を見つめてみると、やっぱり大らかな考え方が好きなんだと思います。
逆に嫌いなのは、束縛されたり、自分らしさを抑えなくてはならなかったり、カッチリ・キッチリやらなければならなかったりする生き方です。
世の中にはこだわりやキッチリが大切な仕事がたくさんあると思うんですが、そうした仕事についていらっしゃるみなさんは、本当にすごいなあと尊敬してしまいます。
ぼくのテキトーでアバウトな性格というのは、大雑把にまとめると、死なないで楽しければいいという原則の上になりたっているようです。最低限大切なことだけキープできれば、あとはどうだっていいんじゃないか?というのが、テキトーでアバウトな性格の原点です。
たいていの場合、こうしたテキトーでアバウトな性格はあまり歓迎されませんが、多少は役に立つかもしれないと思える状況があるんですね。
たとえばですが、スキューバーダイビングをするときなどにそういう状況があります。
すべてが計画どおりに進んでいるときは、細やかでキッチリした性格が大切です。リスクをチェックしたり、器材の異常をチェックしたり、ゲストをもてなしたりといった場面で役に立ちます。
でも、すごく海が荒れて、命からがら何はともあれ陸にたどり着かなくてはいけない、みたいな状況だと、テキトーでアバウトだけれど、命だけは大切、それ以外のことはどうでもいいという性格が生きてきます。
残念ながら高度に発達した現代日本社会では、そういう非常事態はめったにないので、普段はテキトーでアバウトな性格は疎んじられるだけです。
ぼくの友達には、これまで書いてきたようなテキトーでアバウトな、だけれど一番大切なことは守るというタイプの人が多くて、冒険家だったり、紛争地帯のジャーナリストだったり、さすらいの人だったりするんですが、もしかしたら、そういうタイプの人は日本社会というのは生きにくいのかもしれません。
だって、メーカーかなんかの社員だったりして、すごくこだわりのある製品を作らなくてはならなくて、でもコストを抑えつつ、環境に配慮して、ダイバーシティーも尊重して、法令順守しながら、リスクを最小限にしつつ、社内政治も乗り切るなんて芸当は、ちょっとぼくには無理です。
海で大きな自然の時の流れを感じる
海で遊んでいると日常生活に何の役にも立たないことをいろいろ考えたりします。役に立たないけど、そういうこと考えるの好きなんすよね。
たとえば、変わった形の岩を見ると、波の浸食でこうなったんだな、何年くらいかかるんだろうとか…昭和初期の湘南の写真を見ると、今よりも砂浜が広く長かったんだなとか…伊豆半島はすごく昔(すごく大雑把ですけど)に本州にぶつかったことになってるんだよなあとか…由比ヶ浜あたりでサーフィンしていると、ずっと昔鎌倉幕府が本当にこの場所にあったんだよなあとか…
他のウォータースポーツをする人が何を考えるのか訊いたことがないんでわかりませんが、ぼくはわりとそういうことを考えます。
いろいろ考えるわりに結論は似たようなところに落ち着くんですが、それは、人間の営みなんて儚いなあ、ということです。
海という自然に密に接しているからそんなことを考えるのかもしれません。
海で遊んでいると、潮の満ち引きやうねりや波で、海のはるか向こうのことを想像します。それは地球のことに関連してますし、宇宙のことを連想させます。
だから余計に人間の小ささとか自分のちっぽけさを感じてしまうのかなあ、なんて思います。
地球が誕生して、海や陸ができて、そこに人間が生まれていろいろなことが起きたと思うんですが、自然の営為の時間スケールの長さや大きさや力は圧倒的です。人間だって、ビルを建てたり防波堤を作ったり、すごくいろいろなことができるようになってますけど、それでも自然の力と比べると大したことないですもんね。
しかも自然はそれを何百年、何万年、何億年という時間スケールの中で存在しています。
以前、台風のときに、ぼくんちの近所の防波堤がそっくり波で流されたことがありましたけど、それなんか自然の力のすごさを垣間見た一例です。
話が逸れちゃうんですけど、ぼくは戦国時代の歴史小説を読むのが好きですが、いくら信長がすごいとか、秀吉がすごいとか、家康が徳川幕府が300年続いた礎を作ったのはすごいとかいいますけど、確かにすごいですけど、それは人間の時間スケールの話ですね。自然の時間スケールと比べたら、ささやかなことのように見えます。
ぼくは海で遊ぶたびに、そんな自然に圧倒されています。
最初に日常生活に何の役にも立たないことだと書きましたけど、少しだけ役に立っていることがあります。
それは、怒りの感情が湧き出したとき、そういうときってたいてい自分のこだわりみたいな概念が原因になっているわけですけど、自然の営みと比べると、どうでもよくなっちゃって、怒るのがバカバカしくなることでしょうか。
窓を開け、波の音を聞きながら眠るのが好きです
夏、我が家はみんな窓を開けて寝ます。
家族はみんなエアコンが苦手なんです。
うちは田舎なので、窓を開けても危ないことはありません。(そういえば都会に住んでいた頃は、危険じゃないかということを気にして暮らしていました。)
海辺の田舎は、日が暮れれば、海風が吹いてきて、割りと涼しくなります。まあなんとかエアコンなしでも暮らせます。コンクリートとアスファルトで建て込んだ都会の夜は暑いので、それとはだいぶ違います。
窓を開けて寝ていると、朝方は寒いくらいなのです。
ぼくは窓を開けるのが好きで、風が入ってきて、空気が動いている感じに安心できます。そして風と共に、木々の葉音、虫の声、波の音が聞こえます。そんな音を聞きながら眠りにつくのって結構シアワセだったりします。
自然がそばにあるシアワセ
若い頃はともかく、30歳くらいから自然に接することがとても好きになりました。それまでも普通の人よりはアウトドアが好きでしたが、自分でもハッキリわかるほど、自然に接するとホッとするようになったんです。
広々とした海に出たり、青々とした森の中に入っていったりすると、ココロが柔らかくなって、シアワセを実感するようになりました。逆な場合で、仕事が忙しくてなかなか海に出られないと、気持ちが殺伐とすることもありました。
それを象徴するような出来事があって、自分でもハッキリ覚えているんですが、それまではいい建築物を見たり入ったりするのがワリと好きだったんです。名建築とか有名な建築家の設計した建物は、できるだけ行くようにしていました。人間が考え尽くした物ってすごいなあと思っていたんです。
でも、あるときから、建築物というのは、それが建つ自然とか地形にフィットするものが、より素晴らしいんじゃないかと思うようになったんです。
ぼくは海辺に住んでいて、そこには無数の建物があるわけですが、その土地に合わない建物というのが確かにあります。一方で、その土地に合っていて、人々がなんとなく集まる建物というのもあります。それは材料の高い安いではなく、広い狭いでもありません。
不思議なものです。
自然と人というのは対立するものではなくて、人の生活は自然の懐に抱かれているんじゃないかなあと思うのです。自然の力とその時間軸は人間を圧倒していて、人間はごく短い時間を自然の中で暮らしている、というのがぼくのイメージなのです。
海の音を聞き、潮風を肌で感じ、海の青さを眺める。そうした時間が自分にとってはとても大切なんだなあと思うんです。自然の大きさを感じるということは、ぼくにとっては自分の(人間の)儚さや無力さを改めて自覚するということです。それがぼくにとっては癒やしになるし、シアワセを実感できることなのです。
1日のうち少しでもいいから自然を感じる時間を作りたい、そんな風に思って、通勤に時間がかかっても海辺の田舎町に住むようになりました。ちょっとしたシアワセを感じられる時間、それで日々暮らしていかれれば、それでいいんじゃないかなあって思うんです。

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藪を切り開くようなときが好き
自分の性格とか好みを考えると、ぼくは決められたことに従うよりも、何もないところに新しいものを作るのが好きだなあと思います。
突然こんなことを書いてもわけがわからないかもしれないので、いくつか具体的なことを思い浮かべてみたいと思います。
スキューバーダイビングですと、ダイビングスポットは決められています。これはサービスの有無もありますが、地元の漁協との関係である程度潜れる場所を決めているわけです。ぼくはそういう決められたスポットだとなんだかイヤで、自分で勝手に好きなところに潜りたくなっちゃいます。
あとはテーマパークとか公園とか海水浴場というのも好きではありません。テーマパークは作り手が意図を持って作っていて「どうです、このアトラクション面白いでしょう」というのが見え見えで、作り手の意図に乗りたくありません。
公園もここが砂場です、ここは滑り台です、野球をしてはいけません、大声を出してはいけませんといった具合にルールがたくさんあってうっとうしいです。できれば何もない広場にして欲しいですが、もっといえばぼくとしては野山で十分楽しいんです。
海水浴場というのも大きなお世話で、ぼくは自分が入りたい海に入りたいんです。
こんなことを書くとかなり偏屈な性格みたいですが、まあ確かにそうです。歳をとってだいぶマイルドになりましたが、若い頃はルールとか決まりとかに従いたくありませんでした。この世の中は原則自由だろうと突っ張っていました。
もう少し具体例を書くと、道を通るのも苦手です。道って道路です。道路って、右を歩けとか、制限速度が何キロだとか、一時停止だとか、シェア・ザ・ロードとかルール多過ぎです。ウルセーつーの。
なので、海を航海するとスッキリします。
そういえば思い出しましたが、ぼくは山でも道がついているところよりは、道がない藪みたいなところをガサゴソ開いていくのが好きです。海に降りる道も、道を通らずに草っ原を通っていったりします。
こういう性格を何タイプというのか知りませんが、似たようなタイプの人をたまに見かけるので、すごく稀というわけでもない気がします。
なぜそんなことをするのか自分でも考えてみるんですが、ルールに従うとか誰かの後についていくというのが、好きではないのでしょう。それに誰も行ったことがないところは、自分だけの場所という気がします。一番うれしい状況は、みんなが通る道は渋滞していて、自分で切り開いた道はもちろん誰もいなくて、で、その道端に人知れず素敵な場所(きれいな花が咲いているとか、景色が素晴らしいとか…)があったりするのを見つけたときです。
たぶん自分が満足する状況は、自分独特だし、それは自分で苦労して探さないと見つからないだろうと勝手に思っているのかもしれません。
こういう話を相方にすると、まったく理解できないという反応が返ってきますが、人の価値観というのはいろいろで、理解できるわけでもないんですよね。世の中は複雑で多様です。やっぱり常識とかルールとかできる限りなくしちゃえ。

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都会の雨音、海辺の田舎の雨音
海辺の田舎で暮らして、とてもいいなあと感じたことがあります。
そのひとつは雨の音が柔らかいことです。
都会に降る雨の音は、ザーっていう音です。水滴がアスファルトとかコンクリートに落ちる音。
田舎に降る雨の音は、いろいろな音が混ざっていて柔らかいんです。海に落ちる音。砂浜に落ちる音。木々の葉に落ちる音。土に落ちる音。どれもアスファルトとかコンクリートに落ちる音よりも柔らかい音がします。
ポトポト、シトシト、サワサワ、シンシン…
そういう柔らかい音を聴くようになってから、雨の日も好きになりました。
ウインドブレーカー、短パン、ビーサンで準備を整えて、雨の中、ビーチを散歩することもよくあります。
あるいは家の窓から雨に濡れる森の木々を眺めていることも結構あります。
そんなちょっとしたことが海辺の田舎暮らしの魅力といえるかもしれません。
海辺の霧の日がとても好き
初夏の時期、海辺は朝に霧が出ることが多いんです。
ぼくは毎朝、砂浜を散歩しますが、霧が出始めると夏だなあと感じます。
霧が好きで、海辺に住んでよかったことのひとつは、けっこうな頻度で霧に遭遇できることです。
朝だから、温度も湿度は高くありません。爽やかで涼しい空気なんです。砂浜から海に立ち上がる山々に霧がかかります。霧が濃いときは、砂浜も海も霧で、もやっています。
そうなるとすごくうれしい。ワクワクします。
そういえば、ぼくは高原で出る霧も好きなのでした。
なんでかな?
神秘的な感じがするからでしょうか?
ちょっとトワイライトゾーン的な…
霧のかかった砂浜は、普段自分が知っている海辺ではなくて、遠いところの初めて来た海辺みたいなんです。
なんだか旅行気分がします。
傷だらけの人生…やりたいことやる生き方…
いろいろ心配事は尽きないものですね。
健康とかお金とか天災とかトラブルとか…考えればきりがありません。しかもそうした心配事に備えようとすればいくらでもやることはあるので、心配事に備えているだけで人生が終わってしまうということもあるかもしれません。
ぼくはサーフィン、スキューバーダイビング、シーカヤック、セイリングをやります。やりたいと思ったら、多少危なくても、お金がなくてもやってきました。自画自賛ですが、今振り返っても、時間だけは取り戻せないので、そのときやりたいことをやってきたことは、よいことだったと思います。
ぼくは以前こんな人に遭ったことがあります。ぼくがサーフィンをするという会話をしていたときに、ちょっとした知り合いに「なぜそんな危ないことをするのか?」と尋ねられたことがあります。
ぼくとして、その質問に、とても驚いたのを覚えています。
で、そんなこといったらいろいろ危ないことってあるよなあーと思ったので、試しにその人に「危ないというのであれば、たとえば車の運転なんてできませんね?」と訊いたら、その人は「そうです。とてもリスクが高いので、自分は運転はしません」という答えが返ってきました。
人にはいろいろな考え方や生き方があって、どれが正しいとか悪いとかはないと思うので、それはそれでいいんですが、ぼくは、そういう生き方をしたくないなーと思うんです。
生きている以上いつかは死にますし、その間の人生に苦楽はあっても、それはそういうものです。それから逃れることはできません。
ぼくらは何かしらの偶然か縁かわかりませんが、生まれてきたのは事実で、その瞬間からリスクだらけの中を生きていくわけです。もちろんリスクに備えることはできますが、100%ゼロにはできません。リスクを抑えるために自分のやりたいことをどのくらい我慢するかは、その人の価値観によりますが、ぼくはできる限りやりたいことをやりたいと思うんです。
たとえリスクがあって、苦しいことがあったり、心や体が傷だらけになっても、それでもやりたいことをやりたいと思うんです。
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