海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
時間と人生とウォータースポーツ
ウォータースポーツって、海という自然を相手にする遊びです。海は刻々と状況が変わりますし、天気予報や気圧配置をチェックしても、海況の急変は起こりえます。いくらリスクを管理しても想定外のことが起きるのがウォータースポーツ。
ときどき、知人に「わかっていて、なぜそんな危ないことをするのか?」と訊かれることもあります。
それはウォータースポーツに限らず、車の運転でも同じで、安全に十分に注意しても、それ以上の危険が起きる可能性は絶対にゼロにはならないんじゃないか、というのが、ぼくの答えですが。ちゃんと理由を話すにはもっと長い言葉が必要です。
リスクがあっても、リスクがゼロにならなくても海に出ていきます。
なぜか?
もちろんウォータースポーツが楽しいから…というのが一番の理由かもしれませんが、でももっと根本には、ぼくの中にある価値観があるからだと思います。その価値観のためにぼくのそうした行動パターンは出てきています。その価値観は若い頃は直感的に身についたものでしたが、いつからかそれを理屈として考えるようになりました。
で、なぜそんな風な行動パターンなんだろうと考えるんですが、ぼくにとっては日々暮らす=生きること自体がリスクの塊で、何をしても何もしなくても、リスクはなくならない、だったら好きなこと・やりたいことを精一杯やろうという気持ちがココロの奥底に絶えずあり続けているからなんだと思うんです。
ここでいうリスクというのは、地震とか火事とか病気とか怪我とか失業とか家族の死とか自分の死とか、そういった人生において誰の身にも起こりえるモロモロのことなんですが、そういう大きなリスクって、たぶん誰の身にも確率的には起こり得るんじゃないでしょうか?
たまたま隣人に起きて自分には起きてないけど、次の瞬間には自分にも起きるかもしれない、起きない理由なんてないし、日々を暮らすということは、そういうリスクに遭遇する確率と共にあることだと思います。
だからリスクの確率を減らすために、家にじっとしているとか車の運転をしないとか火を使わないとか、そういうのって、ごく限られた範囲では正しいかもしれないんですけど、人生全体で見ると何の解決にもなっていないんじゃない、というのがぼくの考えです。
というのも、病気になる可能性もあるし、家族が突然死ぬこともあり得るし、生まれてくる赤ちゃんが障害を持っているかもしれないし、地震が起きるかもしれないし、富士山が噴火するかもしれないし、ICBMが飛んでくるかもしれないから…
というのも、病気になる可能性もあるし、家族が突然死ぬこともあり得るし、生まれてくる赤ちゃんが障害を持っているかもしれないし、地震が起きるかもしれないし、富士山が噴火するかもしれないし、ICBMが飛んでくるかもしれないから…
心配したら何もできないし、どうせリスクがある人生なら好きなことややりたいことを精一杯やろう、という延長線上にぼくの海遊びはあります。海遊びのリスクなんて、生きる上で抱えているリスクの総量からしたら、たぶんぜんぜん大したことがないとぼくには思えます。
話が回り道をしてしまいましたが、やれることはやれるうちにやりきってしまいたいとぼくは思っているということです。
そして人生のリスクで最大のものは何かというと、自分の死だろうと思います。次は家族の死だと思います。家族の死をさらに分解すると、よりリスクが高いのは、子供(次の世代を担う人・自分より若い人)の死だろうと思います。それ2つ以外はどのリスクも似たり寄ったりだとぼくは捉えています。
そして最大のリスクである自分の死と家族の死は、必ずやってくるということです。このことから、人生の長さは有限であり、個人の持ち時間は有限であり、そこでできることは有限であるという、現時点での真理があります。
ただ、死というのはいつかは必ずやってくるとはいうもののそれがいつやってくるかはわからないという点が特徴です。
100年以内に確実に起きることではあるけれど、それが10歳の時に起きるか70歳の時に起きるかで、死の意味は社会通念上大きな違いを持つといえるでしょう。年齢による死の意味の社会通念上の違いをどう評価するかによって、おおよそ、その人の価値観や行動パターンは変わります。60歳で死ぬのと70歳で死ぬその10年の差に大きな違いがあると考える人は、健康に留意して用心深く慎重になるでしょうし、そんなの大きな違いでないと考える人は、積極的にリスクテイクしていくでしょう。
もうひとつの視点として、10年の差を単に時間の長さの問題として考えるだけでなく、その10年をいかに密度を高く過ごすかという、時間の密度の問題ががあります。長生きしてもそれほど密度の濃くない人生を過ごす人もいるでしょうし、短命でも多くのことを成し遂げたり、自分のやりたいことをかなりやる人もいます。
つまり人生は有限で、0から約100年の間で可変する、そしてその時間は単に時間の長さだけでなく、その時間をどれだけ充実させるかという時間の密度の2つの軸があるということです。人生の充実度は時間の長さと時間の密度のかけ算だということです。
別の視点として、人生の長さが0から約100年の間で変化するけれど、死に至らせる出来事が起きるリスクの確率は、自分でコントロールできる要素と自分でコントロールできない要素に分けられます。
これを詳しく説明します。
たとえば人はいずれ病気になるものですが、それは日々の生活習慣を整えることで、病気になる確率を下げることができます。
また、別の例でいえば交通事故に遭うリスクを低下させるために、車に乗らない選択肢をとることはできます。ただ、車に乗って旅行したり、楽しい生活を送ることが、自分の時間の密度に関係するとなると、交通事故に遭うのを減らすために車に乗らない選択肢が自分にとって価値があるのかないのかはよく考えなければなりません。それは時間の長さと密度のかけ算の総量がどうなるかを考えるということだと思います。
ぼくが危ないとわかっていてもウォータースポーツをするのは、まさにこの基準で判断していることになります。ぼくにとってウォータースポーツをすることはリスクがありますが、そもそもぼくにとって日々の暮らしはウォータースポーツによって充実しているものになっているので、リスクを減らして長生きしたいがためにウォータースポーツをしないという選択肢は本末転倒ということです。
もうひとつまったく別の視点として、自分個人の時間は有限ですが、自分の意思とかやりたいことを次の世代に引き継ぐことによって、意思自体を延長することができるかもしれないということがあります。
それは、子供に意思を託したり、弟子をとったり、組織を作ったりと様々な選択肢がありますが、注意すべきは、自分の意思を次の世代に引き継ごうとすることを半ば強制することは、次の世代のある個人の人生の充実度の総量を損なうおそれがある点です。ですから自分の意思を次の世代に引き継ぎたいと考える場合、その意思はかなり公益性の高いことの方が、無難で説得力があることに留意しなければなりません。
こうした諸条件の中でベストな選択は、時間の密度を上げる、人生の長さを延長するために自分でコントロールできることはできる限り行う(ただし、人生の長さを求めるために時間の密度を下げる選択をするときは時間の長さと密度のかけ算である総量を慎重に検討しなければならない)、自分の意思を次の世代に引き継ぐ体制を作っておく、という3つのことです。
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