海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
初夏の霧の朝が好き
以前にも書いたんですが、すごく書きたいのでまた書きます。
ぼくは海辺に住んでるんですけど、朝の霧が好きです。
海辺では主に初夏の朝に霧が出ます。特に海に山が迫っている地形だと出やすいような気がします。特に初夏というのは霧が出やすくて、それはたぶん朝と昼の気温差が大きいからだと思います。しかも朝の気温が海水温より低いと霧が出るんではないかと、ぼくが勝手に考えています。正確な知識ではありません。ご存知の方は教えてください。
霧の朝が好きなの理由を考えてみたので以下にまとめます。
・なんだかとても幻想的
霧ってさあ(って突然タメ口)幻想的ですよね。
・だいたい初夏なので爽やか
初夏の朝って基本的に1年のうちでも爽やかで気持ちいい季節です。早起きして散歩したくなりませんか?
・海が夏っぽくなる
人間側の思い入れかもしれませんが、冬の間の海って、荒々しくて寒そうで人を遠ざける雰囲気がありますけど、初夏の海はこれから訪れる夏に向けて人を受け入れる気配が漂っている気がします。
・朝だから空気が凜としている
これもぼくの勝手な思いかもしれませんが、朝の空気は、まだ人の活動によって汚されていないまっさらな感じがします。それは海辺でもそうで、爽やかでキリリと引き締まった感じがとても気持ちいいです。
そんなわけで、大好物である初夏の朝の霧をぼくが放っておくわけがなく、そんな日は朝からビーチを散歩したりジョギングしたりするのでした。なんだか体中がキレイになるような気がします。

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海が怖いってわかっているのになぜ海に出るのか?
小さい頃から海が好きでしたが、サーフィンを始めたのが大学生の頃でした。
その頃は今みたいにどっぷり海にハマるなんて思いもしなかったんです。その後スキューバーダイビング、セイリング、シーカヤック…
それからかれこれ30年が経とうとしています。30年…
その間、何度もというか何十回も海で危うく死にそうになりました。
やっぱり怖いです。
でも、自分でも不思議ですし、相方も不思議そうにしてますが、海に行くのをやめようとか、ウォータースポーツをやめようとは思いません。今でも、できる日は必ずウォータースポーツをします。
「よっぽど好きなのね」と相方はいいます。
そうですね。よっぽど好きなんでしょう。我ながらなぜなんでしょうか?
海は怖いですが、それ以上に海は優しいとぼくは感じます。
海という自然は人間の社会ほど怖くはありません。一応ぼくも社会人として働いていて、日々いろいろなことが起きつつ、今までやってきましたが、人や人の作る組織は時に怖いと感じます。海にはそれがありません。
海にいると安らげる、癒されるというのも、海が好きな理由です。
自然と接することで癒されるという面が、あるタイプの人には備わっていると思うのです。潮風、海水、波、太陽の光、そのすべてが好きです。人類は地球で生きていますが、太古の人もぼくと同じように、潮風、海水、波、太陽の光を感じていたのです。そういうことを考えると、人は自然と接しながら生きてきた期間の方が長いんじゃないかなって思います。
海にいると自分に向き合えるというのも理由としてはあります。
海に出れば、それが一人であろうと仲間とであろうと、生きて帰ってくるのはそれぞれの責任です。そして、生きて帰ってくるのが善です。すごくわかりやすいわけです。
そして、生きて帰ってくるために、自然の状況と自分の力と過去の経験をもとに絶えず判断するわけですが、その判断はすべて自分にはね返ってくるのです。このシビアさがとても好きです。誰の責任でもなく自分の責任で自分の命をコントロールしている実感が好きなのです。逆にいうと、人間社会では100%自分の命をコントロールできていない不安感がぼくにはあります。
自分の判断が甘ければ、自分が辛いだけ。安全側に振りすぎれば、自分を臆病なヤツだと自分が思うだけ。
海で身体を動かすとスッキリするというのも理由のひとつです。
スポーツをして身体を動かすと気分がスッキリするものですが、海で身体を動かすとそのスッキリ度はさらに増すような気がしています。なので、海が荒れたりして何日も海に出られないと、なんだか悶々としてしまいます。「あー早く海に出てぇー」と感じます。
しがらみやルールから逃れられるのも、海に出る理由です。
海にもルールはありますけど、陸の社会ほど細かいルールはありません。道もありませんし、信号もありません。海に出ることで、いったん社会から離れられる気がするのも海に出る理由です。もしかしたらぼくは社会的な何かから逃避したいのかもしれません。
これらが海に出る理由ですが、それが命をかけてまでやることなのかっていわれると困ってしまうんですが、自分がそう行動しているので、きっとそうなのでしょう。
月の光の道は幻想的だったりして…
海辺に住んでいます。
夜に出かけたり散歩に出たりすると、何かのタイミングで、月が出ていて、満月で、しかも大きくて、それが海の上にあることがあります。
月の光の道
月が海の上に大きくあると、海に月の光が映って、光の道のようになります。
ちゃんと計算すれば、どのくらいの時期にどのくらいの頻度でそうなるかはわかると思いますが、めんどくさいので、そんなことはしなくて、「あぁ今日はきれいな月だなー」って思います。
観光地でそういうのをウリにするところもあるようですね。
特に海が凪いでいて、鏡のように穏やかな日に、満月の月が海の上にあると、光の道がクリアにできます。
そんな日はビールを持って、近くの防波堤に行きます。防波堤の冷たいコンクリートの感触をお尻に感じながら、光の道を眺めています。
大きく息を吸って吐いて…身体の奥の方の力が抜けてほぐれていくような気がします。
30分もすると自分がどこにいるのかわからない不思議な感覚になります。
大きく息を吸って吐いて…身体の奥の方の力が抜けてほぐれていくような気がします。
30分もすると自分がどこにいるのかわからない不思議な感覚になります。
こんなちょっとした時間も海辺の暮らしの楽しみのひとつです。
あえてゆっくり歩いてみる
休日は海を眺め、海で遊び、今日もいいなあーなんていいながら、ビールを飲んで寝るような日々を送っています。
朝起きて、コーヒーを丁寧に淹れて、味わって飲み、それから海の様子をチェックして、今日やるウォータースポーツを決めます。ウォータースポーツができなければ、砂浜を散歩したり、砂浜でひなたぼっこします。
平日は、仕事で電車に乗って街に行くんですけど、人々がせかせかしているのに驚きます。特に休み明けの月曜日は、そのギャップを強く感じます。
ぼくは道もゆっくり歩きますし、街並みや行き交う人の様子や街路樹や家々の庭の草木なども眺めながら歩いているので、たぶん速く歩いている人の邪魔になっていることでしょう。
ぼくも実はせっかちでして、もちろん歩くのも速いほうでした。若い頃は特にせっかちだったと思います。結論を急いで損をしたことも多々あります。
でも、ある時期から努めてゆっくり気長に行動するようにしました。
理由はいろいろあるんですが、急ぐといい結果がでないことが多いことに気づいたのが一番大きな理由です。これは年齢的にも公私共に責任を負うことが多くなってきて、急がず慌てず物事をキチンと先々のことも見通して考えることが重要になってきたせいもあるでしょう。もちろんそれまでせっかちで、拙速でよくない面があったからその反省ということもあります。
あとはゆっくり、のんびり、マイペースに過ごすことでストレスが減ることも理由のひとつです。何かに追われて急ぐことは、気持ちがあせってストレスが溜まりますもんね。
あとは急ぐと見逃してしまうことがあることも理由です。たとえば道を目的地に向かって急いで歩いていると、その途中の店や家や木々や鳥などを見過ごしてしまうことがあります。目的に向かって邁進してしまうと、その過程がただの通過点になってしまうわけで、これはよくある結果よりもプロセスが大切だということと同じことをいっています。特に人生においては、目的は何かの結果を出すことよりもそのプロセスをが、時間の多くを占めているので、プロセスを楽しむことが人生を楽しむことと、ほとんどイコールだったりします。
実際、ゆっくり歩くと気持ちもゆったりしてなんとなく楽しくなります。
海・大らかさ・幸せ…
ぼくの友人でとても大らかなヤツがいます。瑣事にこだわらず、いつもマイペースで、人当たりもよく、楽しそうにしています。ぼくはヤツのことが好きで、よく海で遊んだり、飲んだりしています。
そうすると自分があまりに小さいことにこだわる小者な気がして、自己嫌悪になったりもしますが…
人によっては、大らかな友人のことを、大雑把で、あてにならない人と悪くいうこともありますが、まあそれはその人の価値観ですから、まあそういう見方もあるのかなあという感じです。
確かに細かな事務的な作業とかは向いていないかもしれないなとは思いますが、それを補ってあまりあるほど、ヤツは気がいいし、敵を作らないし、大物な感じがします。ヤツがいるだけで、場が和んで、楽しい雰囲気になります。
そしてその大らかな友人と一緒にいると、ぼくもこういう大らかな人でありたいなーと思います。
もうひとつ自分が大らかでありたいと思うことがありまして、それは海に出ることです。海に出る度に、自分がいかに小さい存在か、身にしみます。
海は広く、時に穏やかで、時に荒々しいわけですが、その存在は地球の歴史という長い期間で変わることがありません。
そんな海を目の当たりにすると、自分がいかに小さくつまらないことにこだわって汲々としている人間なんだろうと感じます。
大らかな友人のように、あるいは海のように、広くて、大きくて、いろいろなものを受け止められて、妬みや嫉みの心がなくて、マイペースで、泰然自若としていて、周囲の人々を幸せする、そんな人になりたいなあと思います。

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海に来て写真を撮るだけの人とマインドフルネスと幸せ
休日はできる限り海遊びをしたり、海遊びができなければビーチでノンビリするようにしています。冬でも…
波の音を聴き、潮風を浴び、太陽に照らされていると、とても幸せな気分になるのです。
不思議なもので、冬でも太陽の光を浴びているとだんだん身体の芯から温かくなるのです。
そして一日中海にいると、時間によって、太陽の強さや潮の満ち引きや風向きなどが変わっていくのがわかります。ぼくが住んでいるのは、三浦半島の西岸ですので、ビーチは西に向かって開いています。なので、午後から夕方に太陽が海の上にあることになり、その時間帯には、光が波に反射してキラキラとアルミホイルを散りばめたように輝きます。きらめく太陽光と海からの潮風に吹かれる夕方の時間帯が、ぼくは特に好きなのです。
マインドフルネスとか瞑想に少し興味があって、我流ですがときどきやっています。今の時間、自分という存在に意識を向けることだと思うのですが、そうするとココロが穏やかになります。
海で、海の様子にじっと意識を向けていても、同じようにココロが穏やかになります。どうやらぼくは、そういうココロの穏やかさが好きなようです。
一方で、ぼくの住んでいるあたりには東京から観光客の人が来ます。
この人達の多くは、ビーチに立って、わあーきれいといって、スマホで写真を撮って、帰ってしまうのです。その間だいたい5分から10分。こうした行動って、ぼくもたまにレストランとか雑貨屋さんとかでやります。これを仮に「SNSのための行動」とか「記録が目的の行動」と呼ぶことにしましょう。
「記録が目的の行動」の実態は、その行動をしながら、心ここにあらずな状態なんではないかな?と思うのです。記録したことで、その体験をしたことにしてしまって、次の体験することに気持ちは移っていく。時代はモノ消費からコト消費に変化しているといいますが、まさに行動や体験を次から次に消費しているわけです。
でも、体験というのは数も大切ですが、どれだけ深く濃くその体験の本質に触れ合うか、あるいは体験をとおして考えを深めるかが大切なのではないかと思うのです。
そして極端にいえば、「記録が目的の行動」は、マインドフルネスでやることと正反対のことをやっているのだと、ぼくは解釈しています。
もし、今、日本で、いや世界中で「記録が目的の行動」を多くの人がしているとしたら、体験を深く濃く味っている少数派の人はとても貴重なことをしていると思いますし、そのよさを、「記録が目的の行動」の多くの人に伝えると、その人達ももっとハッピーになれるんじゃないかと思ったりするのです。
いやその理屈の前提にあるのは、幸せな人生ってその人の主観だし、自分が、「ああ、今、幸せだな」と感じられる時間の濃さと深さがあれば幸せな人生だろうし、それは決して他者から評価してもらったり、「いいね」をしてもらった数ではない、という思い込みなんですけど…

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頭の中にあるモヤモヤは海で忘れる
ぼくは海が好きで、海遊びが好きで、海遊びをする仲間が好きです。
海と接している時間が大切で、そういう暮らしを作り上げてきました。
一方で、普通に生活していると、公私で、雑事や瑣事など、面倒なことやイヤなことがいろいろありますよね。海で遊ぶと、そういうことを頭から一掃できます。
自分の身の回りに起きることをイヤだと感じるか、そうでないかは、自分自身の問題で、自分の頭の中だけの問題です。実態はないのです。で、そういうネガティブな考えを頭の中に残さないのが、日々楽しく暮らすコツなわけで、ぼくが海と接する時間を取ることで、頭の中がスッキリするなら、それは積極的に定期的にやるべきだと思っています。
ぼくの相方も、ぼくが勝手に海遊びしている道楽を容認しているのは、そういういわゆるストレス解消になっているって認めているところもあるんでしょう。
この自分の頭の中にあるモヤモヤというのは、放っておくと自己増殖したり、勝手に同じことを何回も考えたり、自分を否定したり、他者を恨んだりして、いいことはありません。できるだけ早く、このモヤモヤを頭の中から追い出して、頭のスイッチを切り替えるのが良策です。
海遊びのいいところは、海がとにかく広くて、都会や会社のような細かいルールがなくて、自由でノビノビできるところです。いわば都会や会社と正反対の環境なので、頭の中のモヤモヤを打ち消しやすいんじゃないでしょうか?
実際、海遊びをすると気分がスッキリします。
そして、大きな自然の中に身を置くと、自分がちっぽけな存在だと自覚しますし、そんなちっぽけな自分の頭の中のさらにちっぽけなモヤモヤなんて、まったく存在しないも同然なくらいだと思えます。
何億年という地球の歳月のスケールからいけば、ぼくが生きている時期なんてほんの一瞬の点みたいなものです。ぼくがどうしようとどうなろうと、おそらくほとんど関係ないでしょう。だからいろいろあるけれど、気にしない気にしない、なんとかなるし、なんとかならなくても、いずれ自分も周囲もいなくなります。
海では、ぼくはそうやって考える癖がついているので、日常生活で起こるモヤモヤってどうでもよくなっちゃうんです。
そして、ぼくの存在なんて、地球にとってはほとんど関係しないも同然なので、どうせなら楽しく生きた方がいいし、やりたいことをやった方がいいなって、そんな風に今日も海で遊ぶワタクシなのでした。

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海ではみんなが楽しそう…
海っていいなあ、と思いながら海辺で暮らし、海遊びをしているうちに何十年も経ってしまいました。
海っていいなあと思う理由はいくつもありますが、そのひとつについて今日は書きたいと思います。
特に夏休みですが、海に遊びに来ている人はみんな楽しそうです。子供なんて、はしゃぎすぎて、大丈夫かな?って心配になるほど…
大人だって街では見せない生き生きとした、くつろいだ表情をしています。
デートにやってきている恋人同士も幸せそうです。
ぼくはみんなが幸せそうになる海ってすごいな、いいなって思うんです。
やはりそこには確かに何かがあるのでしょう。海に来るとみんなが楽しそうでくつろげるような何かがあるんだろうと思うんです。
それがぼくが海が好きな理由のひとつです。
海の人を幸せにする力が、仮にあるとして、それは今のところ科学的には証明できていないようです。でも、やはり経験的にそれはあると思います。海のそうした力を活用して元気に健康になることを、ぼくは勝手に「ブルーエクササイズ」と呼んでいます。
「ブルーエクササイズ」って別に難しいルールやお作法があるわけじゃありません。ただ、海や海辺で身体を動かすということです。だから既存のウォータースポーツも「ブルーエクササイズ」に含まれます。
気軽に楽しく自然を満喫…小網代の森
三浦半島の三浦に小網代の森というのがあります。
京急の三崎口からバスで10分程度でしょうか…
ここは三浦半島でも有数の葦原で、いわゆる谷戸とか入江と呼ばれるような谷間だったところが、海の水位が後退して葦原になったのです。そして谷間なので、水が流れ、一部湿地になったり、森になったり、葦原になったり、干潟っぽくなったりしています。
国道134号線を走っていると、内陸側の結構奥から谷間になっていて、それが海まで続いている様子がわかります。その谷の大きさは、三浦半島ではわりと大きいなーと思います。
潮の満ち引きで干潟には、アカテガニなどいくつかの種類のカニがいます。もちろんハゼや貝類もたくさんいて、見どころはたくさんあります。
潮の満ち引きで干潟には、アカテガニなどいくつかの種類のカニがいます。もちろんハゼや貝類もたくさんいて、見どころはたくさんあります。
ダイバーの方なんか、見ているだけで1日たっぷり楽しめると思います。
唯一の難点は、気軽に干潟に入っていけないことでしょうか…NPOの人達がちゃんと監視しているので…
ほとんどのコースで木道が整備されていて歩きやすいし、一番長い距離でも1時間程度で歩けるので、ちょっとしたお散歩コースとして適しています。
森があり、海があり、葦原がありで景色や見晴らしが変わるので、あまり飽きも来ず、歩けます。
おそらく東京から電車で1時間程度の神奈川県で、こんなに豊かな自然に接することができるのって、すごいことだと思います。鎌倉も横須賀も三浦も結構豊かな自然が残されています。
→神奈川県のHP
→かながわトラストみどり財団のHP
夏の尾瀬とかに何時間もかけて行って、着いたら着いたで、人がいっぱいで、木道が渋滞だったりすることを考えると、ほとんどすれ違う人もなく自然を楽しめるのは、時間と効果で考えると、かなりいいと思うんです。
金曜日に遅くまで仕事をして、あるいは横浜で結構飲んじゃって、土曜日の朝、寝坊して、遅いブランチを食べて、それからちょっと身体動かそうかなという時に、小網代の森を散歩して、自然にどっぷり浸かって、途中、カフェで森や海を眺めながらノンビリする、というのは、ぼくのちょっとした楽しみです。

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海はぼくにとって価値観転換装置
お気楽にテキトーに日々を送りたいと頑張っています。
自分でいうのもなんですが…、いえいえそんなめっそうもない、それじゃ失礼して…
若い頃のぼくというのは、せっかちで目標を定めると脇目も振らずに進んでいくタイプでした。体育会系なもので…
しかも、細部にこだわるタイプでもあったのです。
で、ある頃からそういうのって疲れるなあと思ったんです。なので、それから努めて、お気楽にテキトーに、目標とかいうものを敵視?して生きてきました。
その努力の甲斐があって、今では毎日ビールが飲めればまあいいかあ的な暮らしをしております。
目標とか自分のこだわりというのは、大雑把にいえばエゴです。社会の中で自分の我を通そうという行為なので、周囲と摩擦が起きて疲れるわけです。しかも目標に向かって自分を律するわけですから疲れるはずですよ、そりゃ。
目標をもってそれを成し遂げる人生が尊いのか、それともただその場限りが楽しい人生がいいのか、それはわかりません。それはその人の価値観によるのでしょう。
でも、自分が疲れるほどやるのはやりすぎで、もう少し楽に生きてもいいんじゃないかと思うのです。楽に生きるのは、周囲との摩擦を避けて、適当に流されるのがひとつの方法です。
なので、最近疲れるなーとか生きにくいなーと感じたら、それは自分が自分の価値観に固執しているか、目標を達成しなければなどと思い込んでいることが多いわけです。
そういうときは、「本当にそれってそんなに大切なの?」とか「自分が思ってるだけじゃない?」とか「他の見方もあるんじゃない?」とか「自分が一番正しいと思ってない?」とか「自分がいなけりゃ何も回らないと思ってない?」などと、少し引いた目で自分を眺めるのが効果的です。
ぼくはかれこれ30年くらいウォータースポーツをやってきました。ぼくと海遊びの相性がいいのは、海という自由な場は、ぼくのお気楽テキトー路線を支援してくれるようなところがあるからだと思います。海って、とにかく広くてルールがなくて人もいないので、そういう自分のこだわりみたいなものがちっぽけに感じられるのです。
以前も書きましたが、ぼくは海でボーッとしていると、どうでもいいことをいろいろ考えるのです。どうでもいいことって「伊豆半島は、何百万年前かしらないけど、本州にぶつかったんだよなー」とか「昔はこのあたりにも武士がいて、戦を繰り広げていたんだよなあ」とか「昔の人はエンジンもないのに、風と手漕ぎだけで、この大海原に漕ぎ出して、世界中を移動していたんだからすごいよなあ」とかそういう、本当にどうでもいいことです。
そうするとまあ自分のことがどうでもよくなるんです。もう少しちゃんというと、自分の価値観がちっぽけなものに思えてくるんです。
そういう意味で、海というのはぼくにとって価値観転換装置なんだよなあとしみじみ思うのです。チェンジ・オブ・ペースできる最高の場なんです。そういう場がぼくにはあってよかったと、それは誰に対してだかわかりませんが、感謝してます。

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