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海に来て写真を撮るだけの人とマインドフルネスと幸せ



 休日はできる限り海遊びをしたり、海遊びができなければビーチでノンビリするようにしています。冬でも…
 波の音を聴き、潮風を浴び、太陽に照らされていると、とても幸せな気分になるのです。
 不思議なもので、冬でも太陽の光を浴びているとだんだん身体の芯から温かくなるのです。
 そして一日中海にいると、時間によって、太陽の強さや潮の満ち引きや風向きなどが変わっていくのがわかります。ぼくが住んでいるのは、三浦半島の西岸ですので、ビーチは西に向かって開いています。なので、午後から夕方に太陽が海の上にあることになり、その時間帯には、光が波に反射してキラキラとアルミホイルを散りばめたように輝きます。きらめく太陽光と海からの潮風に吹かれる夕方の時間帯が、ぼくは特に好きなのです。
 マインドフルネスとか瞑想に少し興味があって、我流ですがときどきやっています。今の時間、自分という存在に意識を向けることだと思うのですが、そうするとココロが穏やかになります。
 海で、海の様子にじっと意識を向けていても、同じようにココロが穏やかになります。どうやらぼくは、そういうココロの穏やかさが好きなようです。
 一方で、ぼくの住んでいるあたりには東京から観光客の人が来ます。
 この人達の多くは、ビーチに立って、わあーきれいといって、スマホで写真を撮って、帰ってしまうのです。その間だいたい5分から10分。こうした行動って、ぼくもたまにレストランとか雑貨屋さんとかでやります。これを仮に「SNSのための行動」とか「記録が目的の行動」と呼ぶことにしましょう。
「記録が目的の行動」の実態は、その行動をしながら、心ここにあらずな状態なんではないかな?と思うのです。記録したことで、その体験をしたことにしてしまって、次の体験することに気持ちは移っていく。時代はモノ消費からコト消費に変化しているといいますが、まさに行動や体験を次から次に消費しているわけです。
 でも、体験というのは数も大切ですが、どれだけ深く濃くその体験の本質に触れ合うか、あるいは体験をとおして考えを深めるかが大切なのではないかと思うのです。
 そして極端にいえば、「記録が目的の行動」は、マインドフルネスでやることと正反対のことをやっているのだと、ぼくは解釈しています。
 もし、今、日本で、いや世界中で「記録が目的の行動」を多くの人がしているとしたら、体験を深く濃く味っている少数派の人はとても貴重なことをしていると思いますし、そのよさを、「記録が目的の行動」の多くの人に伝えると、その人達ももっとハッピーになれるんじゃないかと思ったりするのです。
 いやその理屈の前提にあるのは、幸せな人生ってその人の主観だし、自分が、「ああ、今、幸せだな」と感じられる時間の濃さと深さがあれば幸せな人生だろうし、それは決して他者から評価してもらったり、「いいね」をしてもらった数ではない、という思い込みなんですけど…







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頭の中にあるモヤモヤは海で忘れる



 ぼくは海が好きで、海遊びが好きで、海遊びをする仲間が好きです。
 海と接している時間が大切で、そういう暮らしを作り上げてきました。
 一方で、普通に生活していると、公私で、雑事や瑣事など、面倒なことやイヤなことがいろいろありますよね。海で遊ぶと、そういうことを頭から一掃できます。
 自分の身の回りに起きることをイヤだと感じるか、そうでないかは、自分自身の問題で、自分の頭の中だけの問題です。実態はないのです。で、そういうネガティブな考えを頭の中に残さないのが、日々楽しく暮らすコツなわけで、ぼくが海と接する時間を取ることで、頭の中がスッキリするなら、それは積極的に定期的にやるべきだと思っています。
 ぼくの相方も、ぼくが勝手に海遊びしている道楽を容認しているのは、そういういわゆるストレス解消になっているって認めているところもあるんでしょう。
 この自分の頭の中にあるモヤモヤというのは、放っておくと自己増殖したり、勝手に同じことを何回も考えたり、自分を否定したり、他者を恨んだりして、いいことはありません。できるだけ早く、このモヤモヤを頭の中から追い出して、頭のスイッチを切り替えるのが良策です。
 海遊びのいいところは、海がとにかく広くて、都会や会社のような細かいルールがなくて、自由でノビノビできるところです。いわば都会や会社と正反対の環境なので、頭の中のモヤモヤを打ち消しやすいんじゃないでしょうか?
 実際、海遊びをすると気分がスッキリします。
 そして、大きな自然の中に身を置くと、自分がちっぽけな存在だと自覚しますし、そんなちっぽけな自分の頭の中のさらにちっぽけなモヤモヤなんて、まったく存在しないも同然なくらいだと思えます。
 何億年という地球の歳月のスケールからいけば、ぼくが生きている時期なんてほんの一瞬の点みたいなものです。ぼくがどうしようとどうなろうと、おそらくほとんど関係ないでしょう。だからいろいろあるけれど、気にしない気にしない、なんとかなるし、なんとかならなくても、いずれ自分も周囲もいなくなります。
 海では、ぼくはそうやって考える癖がついているので、日常生活で起こるモヤモヤってどうでもよくなっちゃうんです。
 そして、ぼくの存在なんて、地球にとってはほとんど関係しないも同然なので、どうせなら楽しく生きた方がいいし、やりたいことをやった方がいいなって、そんな風に今日も海で遊ぶワタクシなのでした。





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海ではみんなが楽しそう…



 海っていいなあ、と思いながら海辺で暮らし、海遊びをしているうちに何十年も経ってしまいました。
 海っていいなあと思う理由はいくつもありますが、そのひとつについて今日は書きたいと思います。
 特に夏休みですが、海に遊びに来ている人はみんな楽しそうです。子供なんて、はしゃぎすぎて、大丈夫かな?って心配になるほど…
 大人だって街では見せない生き生きとした、くつろいだ表情をしています。
 デートにやってきている恋人同士も幸せそうです。
 ぼくはみんなが幸せそうになる海ってすごいな、いいなって思うんです。
 やはりそこには確かに何かがあるのでしょう。海に来るとみんなが楽しそうでくつろげるような何かがあるんだろうと思うんです。
 それがぼくが海が好きな理由のひとつです。
 海の人を幸せにする力が、仮にあるとして、それは今のところ科学的には証明できていないようです。でも、やはり経験的にそれはあると思います。海のそうした力を活用して元気に健康になることを、ぼくは勝手に「ブルーエクササイズ」と呼んでいます。
「ブルーエクササイズ」って別に難しいルールやお作法があるわけじゃありません。ただ、海や海辺で身体を動かすということです。だから既存のウォータースポーツも「ブルーエクササイズ」に含まれます。
「ブルーエクササイズ」でみんなが元気で健康で幸せになるといいなあと思っています。






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気軽に楽しく自然を満喫…小網代の森



 三浦半島の三浦に小網代の森というのがあります。
 京急の三崎口からバスで10分程度でしょうか…
 ここは三浦半島でも有数の葦原で、いわゆる谷戸とか入江と呼ばれるような谷間だったところが、海の水位が後退して葦原になったのです。そして谷間なので、水が流れ、一部湿地になったり、森になったり、葦原になったり、干潟っぽくなったりしています。
 国道134号線を走っていると、内陸側の結構奥から谷間になっていて、それが海まで続いている様子がわかります。その谷の大きさは、三浦半島ではわりと大きいなーと思います。

 潮の満ち引きで干潟には、アカテガニなどいくつかの種類のカニがいます。もちろんハゼや貝類もたくさんいて、見どころはたくさんあります。
 ダイバーの方なんか、見ているだけで1日たっぷり楽しめると思います。
 唯一の難点は、気軽に干潟に入っていけないことでしょうか…NPOの人達がちゃんと監視しているので…
 ほとんどのコースで木道が整備されていて歩きやすいし、一番長い距離でも1時間程度で歩けるので、ちょっとしたお散歩コースとして適しています。
 森があり、海があり、葦原がありで景色や見晴らしが変わるので、あまり飽きも来ず、歩けます。
 おそらく東京から電車で1時間程度の神奈川県で、こんなに豊かな自然に接することができるのって、すごいことだと思います。鎌倉も横須賀も三浦も結構豊かな自然が残されています。

神奈川県のHP

かながわトラストみどり財団のHP

 夏の尾瀬とかに何時間もかけて行って、着いたら着いたで、人がいっぱいで、木道が渋滞だったりすることを考えると、ほとんどすれ違う人もなく自然を楽しめるのは、時間と効果で考えると、かなりいいと思うんです。
 金曜日に遅くまで仕事をして、あるいは横浜で結構飲んじゃって、土曜日の朝、寝坊して、遅いブランチを食べて、それからちょっと身体動かそうかなという時に、小網代の森を散歩して、自然にどっぷり浸かって、途中、カフェで森や海を眺めながらノンビリする、というのは、ぼくのちょっとした楽しみです。






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海はぼくにとって価値観転換装置



 お気楽にテキトーに日々を送りたいと頑張っています。
 自分でいうのもなんですが…、いえいえそんなめっそうもない、それじゃ失礼して…
 若い頃のぼくというのは、せっかちで目標を定めると脇目も振らずに進んでいくタイプでした。体育会系なもので…
 しかも、細部にこだわるタイプでもあったのです。
 で、ある頃からそういうのって疲れるなあと思ったんです。なので、それから努めて、お気楽にテキトーに、目標とかいうものを敵視?して生きてきました。
 その努力の甲斐があって、今では毎日ビールが飲めればまあいいかあ的な暮らしをしております。
 目標とか自分のこだわりというのは、大雑把にいえばエゴです。社会の中で自分の我を通そうという行為なので、周囲と摩擦が起きて疲れるわけです。しかも目標に向かって自分を律するわけですから疲れるはずですよ、そりゃ。
 目標をもってそれを成し遂げる人生が尊いのか、それともただその場限りが楽しい人生がいいのか、それはわかりません。それはその人の価値観によるのでしょう。
 でも、自分が疲れるほどやるのはやりすぎで、もう少し楽に生きてもいいんじゃないかと思うのです。楽に生きるのは、周囲との摩擦を避けて、適当に流されるのがひとつの方法です。
 なので、最近疲れるなーとか生きにくいなーと感じたら、それは自分が自分の価値観に固執しているか、目標を達成しなければなどと思い込んでいることが多いわけです。
 そういうときは、「本当にそれってそんなに大切なの?」とか「自分が思ってるだけじゃない?」とか「他の見方もあるんじゃない?」とか「自分が一番正しいと思ってない?」とか「自分がいなけりゃ何も回らないと思ってない?」などと、少し引いた目で自分を眺めるのが効果的です。
 ぼくはかれこれ30年くらいウォータースポーツをやってきました。ぼくと海遊びの相性がいいのは、海という自由な場は、ぼくのお気楽テキトー路線を支援してくれるようなところがあるからだと思います。海って、とにかく広くてルールがなくて人もいないので、そういう自分のこだわりみたいなものがちっぽけに感じられるのです。
 以前も書きましたが、ぼくは海でボーッとしていると、どうでもいいことをいろいろ考えるのです。どうでもいいことって「伊豆半島は、何百万年前かしらないけど、本州にぶつかったんだよなー」とか「昔はこのあたりにも武士がいて、戦を繰り広げていたんだよなあ」とか「昔の人はエンジンもないのに、風と手漕ぎだけで、この大海原に漕ぎ出して、世界中を移動していたんだからすごいよなあ」とかそういう、本当にどうでもいいことです。
 そうするとまあ自分のことがどうでもよくなるんです。もう少しちゃんというと、自分の価値観がちっぽけなものに思えてくるんです。
 そういう意味で、海というのはぼくにとって価値観転換装置なんだよなあとしみじみ思うのです。チェンジ・オブ・ペースできる最高の場なんです。そういう場がぼくにはあってよかったと、それは誰に対してだかわかりませんが、感謝してます。







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気にしない気にしない



 海外(の海があるところ)とか離島を旅するのが好きです。
 海外旅行をすると、特に発展途上国を旅すると、日本人っていろいろ細かいことを慮ってよくないな、と思うのです。もっとKYで鈍感でマイペースでいいんじゃないでしょうか。で、お互いにいいたいことを言い合うといいんじゃないかって…
 あと、みんな気楽に生きてるよなーって思うんです。日本より経済的には恵まれていないのに、そんなに先のことを心配していない感じ。日本はといえば経済的にはGDP世界第3位です。一方自殺率は7位。高齢化対策、少子化対策など課題が山積していますが、そんなに悲観することもないような気がするんです。というか、将来のことを考えすぎるから子供を作らないんじゃないかって思ったりもして…
 日本のたとえば沖縄方面の離島とか旅してると、地元の人はノンビリ、気楽に暮らしてますよね。もちろん悩みはあるに決まってます。でも楽しそう。あくせくしてないように見えます。内地に比べれば仕事も少ないし賃金水準も高くないでしょう。
 でも、日々暮らすということでいえば、暮らしていけるわけで、それでいいんじゃないでしょうか…
 朝ゆっくり起きて、ゆっくり朝ご飯食べて、お茶飲んで、掃除と洗濯して、隣のサトウキビ畑の手入れして、昼ご飯食べて、昼寝して、近所の友達らと井戸端会議して、夕方はサツマイモ畑の手入れして、夕ご飯食べて、ビール飲んで寝る。
 一方、東京の大企業の課長さんはといえば…
 朝、6時頃起きて、朝食を食べて(何を食べたか覚えていない)、たまプラーザにある一戸建て5LDKの家(愛車はBMW)を出て、たまプラーザ駅から満員の田園都市線に乗って、痴漢に間違われないように最新の注意を払って、また満員の山手線に乗り換えて会社に着いて、会議と部下の営業の付き添いがずっーとあって、営業の見積り資料にミスがあって、それの対応で昼飯が喰えなくて、部長から呼び出されて、先週の重要顧客からクレーム来た件の対応状況を問いただされて、不十分だと叱られて、部下と臨時の対応ミーティングをして、気がつくと夜の9時で、それからまた満員電車に揺られて帰って、夕飯食べて(何を食べたか覚えていない)、1年前から不眠で精神科で処方された睡眠薬を飲んで寝る。
 
 人にはそれぞれ価値観があって、何をシアワセと感じるかはみんな違います。離島の暮らしがシアワセと感じられる人もいれば、都会の暮らしがシアワセと感じられる人もいます。
 ねぇ、ぼくはいつも戸惑うんですが、どちらもシアワセかもしれませんが、あえていえば先ほどの例の2人のどちらの人生がシアワセなんでしょうか? もし自由に選んでいいといわれたら、ぼくはどちらの人生を選ぶんでしょうか?
 そんなの一概にいえませんけど、自殺率7位ってどうなんでしょう? どこかに直さなければいけないところがあると思うんですけど、それがどこかわからないところが日本の深刻な点じゃないかと思うんです。
 あとね、細かいことにこだわったりしますよね。それは美徳でもあるんですけど、そのこだわりが変な発揮のされ方をするとちょっとややっこしくなります。あいつの態度が気に入らないとか、会議でいったあの発言は何か裏があるんじゃないのかとか、この間の部下のミスは、実は部下が別な部署の部長とつるんでいて、オレを陥れようとしているんじゃないか…とかね。
 細部を気にする神経の細やかさがそっち方面に発揮されると、だんだん病んでいくような気がするんですよね。
 ぼくは歴史小説が好きなんですが、今の日本の状況って、平安時代の貴族の暮らしとか、江戸時代末期の幕府の上層部の暮らしに似ているなーって思います。何が似ているかというと、制度がガチガチに固まっていて、暮らしぶりは豊かで、日々決められた行事の繰り返しで、その制度の中で、細かなことばかりが配慮されて、大切な骨子の部分が抜け落ちているところです。そして、みんな減点されないように上の人の顔色ばかりうかがって生きているところです。
 体制が整うと、日本人ってやっぱりいつの時代もこうなっちゃうんでしょうか?
 一時期「鈍感力」という言葉が使われることが多かったように思いますが、確かに日本人には鈍感力って大切かもしれません。あとKY力とか…
 ぼくは忙しくなったり、なんとなく気持ちがモヤモヤするときは、沖縄の離島の人達の暮らしぶりとか、海外の発展途上国の人達の暮らしぶりとかを思い浮かべるようにしています。そうするとなんだか自分が、すごく些細なことを気にする世界の住人のように思えてきてバカらしくなります。
 みんな同じ人間、同じように生きているだけですもん。
 少なくとも、ぼくはなんとか食べることはできる恵まれた国に暮らしているし、安全といえばまあ安全だし、頑張れば報われるだけの自由はあるし、何も思い悩むことはない、気にするな、なんとかなるさ、ちょっと一時期忙しいだけじゃないかと、自分にいいきかせます。
 あと何年かすればすべていい思い出になります。







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海は心や体を癒してくれる、たぶん…



 科学的根拠があるのか?と問われるとわかりませんが、ぼくの実感としては確かにあるんです。
 何の話かというと、休みの日に海に行くと気分がスッキリするということです。
 たとえば仕事が忙しいとか、いろいろ雑用が重なったとかで「あー疲れた」というときの休みの日ってなんとなくダラダラとテレビを見ちゃったりするんです。でもそういうときこそ、シーカヤックするとかスキューバーダイビングするとか、それが億劫だったら海辺を散歩するようにしています。
 疲れているときこそ海に行くと、疲れがとれて気分がスッキリします。経験的にほぼ100%そうなります。
 理屈はわかりませんが、たぶんそれと似たようなことはみなさん経験したことがあるのではないでしょうか?ゴルフとかテニスとか旅行とか…
 ぼくにとってはそれが海という自然と接することなんです。
 気分転換といってしまえば、まあそうなんですが、もう少し自分の中で起きていることを詳しく思い出してみます。
 疲れているときというのは、身体が疲れているときと、気持ちが疲れているときがあるような気がします。気持ちが疲れているときというのをさらに詳しく見てみると、忙しい日々が続いているとか、自分のキャパ以上の仕事が来ているとか、先が見通せない仕事であるとか、板挟みに遭うとか、かなり気を遣うことがあるとか、あと仕事以外だと家族の健康のことととか家計のことととか、自分の場合だいたいそんな感じです。
 で、身体の疲れと気持ちの疲れだと、2:8くらいじゃないかと思うんです。で、その2つは相互に影響し合っているようです。つまり気持ちが疲れていると身体の疲れを増幅させるし、身体が疲れていると気持ちも上がらないのです。
 休みの日に海で遊ぶと気持ちの疲れの部分を一時的に頭から追い出すことができるんです。海にいるときはそれを楽しむことしか考えていませんから、仕事関係のことや家の心配事など気にかかっていることを、意識のほとんどから、一時的にクリアできているようです。
 しかも最近特に思うんですが、気持ちの疲れの要因となっているいろいろなことや心配事は、頭にあるだけで、けっこう心身に負担をかけているんじゃないかな?ということです。人を機械にたとえるのもどうかと思うんですけど、パソコンのメモリを不要なことに使っている感じと近いかもしれません。
 なのでこのあいだ試しに、海遊びに行く前に、自分が気になっていることをノートに書き出してみました。これは確か心理学的な効果があると巷でいわれているらしい手法です。頭の中にあることをどんどんどんどん書き出していくと、自分の意識していなかったことも出てきて、とてもスッキリするというのを本で読んだ気がします。科学的根拠はどうなのか知りません。
 その作業の後海遊びをすると気分がさらにスッキリするんです。海遊びに集中できます。
 先ほど身体の疲れと気持ちの疲れは2:8の比率で、その2つは相互に影響し合っていると書きましたが、身体を動かすとさらに気分がスッキリします。これも多くの方が実感したことがあるでしょう。
 これもぼくの感覚なのですが、ぼくのような物心ついた頃から運動が好きで、学校でも運動部に入って、授業よりも体育の授業が好きだったという「カラダでっかち」タイプにとっては、たとえ受験とか資格試験のために勉強しなければいけない状況であっても、机にかじりついて勉強だけするというのは、耐えられないし、かえって効率が悪かったりするのです。一日のうちでも身体を動かす時間をとった方が勉強に集中できるんだということを大学受験のときに実感しました。
 えーと何の話かというと、なんだか難しい課題を抱えていたり、いいアイデアが出なくて行き詰まっていたり、忙しくて気持ちが疲れていたりするときほど、身体を動かした方がいいというのが経験的なぼくの持論です。そしてそれはぼくの場合、海でウォータースポーツすることが一番いいのです。
 次の話として、なぜ自然の中で遊ぶと気分転換できるのかということなんですが、これって理由が難しいなと思うんです。ぼくの場合、海が好きなので海で遊ぶことがいいというのはわかりやすいと思うんです。
 でも、そんなに海が好きじゃない人でもたまに海に来ると、大はしゃぎしてテンションが上がったりするのをよく目にします。
 海という存在に魅力があるんだといえば、まあそうなのかもしれません。
 あるいは人間というのは自然の中で癒されるのかもしれません。
 参考になるかわかりませんが、ぼくが海が好きな理由をまとめてみます。
①広いし、開けている。
②自由である。
③人口密度が低い。
④危険と隣り合わせで、死なないために頼りになるのは自分だけだ。
⑤一度として同じ状況がない。
⑥ぼくはアレルギー体質なんだけど、潮風や海水に接するとアレルギーが少しよくなる。
⑦太陽の光を浴びるのは気持ちがいい
 特に④がぼくにとっては大切で、ウォータースポーツをするときには危険や死と隣り合わせなんですが、無事に生きて帰ってくるために自分で考え、適切に判断して、行動することが必要なんです。ぼくはこのプロセスがすごく好きで、それでウォータースポーツををやっているような面があります。
 それが海で遊ぶことで心身共に疲れが癒されるのと、すごく強く関係していることを自覚しています。
 というのも仕事とか家庭のこととか、社会で暮らすために必要だとされていることって、社会的なルールなのです。それって大切なんですけど、次元として高度で、複雑で、ときとしてそのルールが何のためにあるのかわからなくなったりすることもあります。あるいはルールができた本来的な意味がだんだん忘れられて、ルールを守ること自体が重要視されたりします。要は生死や安全に直接関係のないルールを守らなければならないということです。
 例を挙げますと、歩行者として信号を守るというルールがありますが、これは、安全のためです。ぼくが住んでいる人口の少ない町で、たとえば深夜に信号が赤でもそれに従う意味って、まあ、ほぼありません。車はほとんど走りませんし、出歩いている人もいないんです。でも、もしかしたら車が来るかもしれないし、他の歩行者がいるかもしれませんが、経験的に確率が低いし、ザッと見回せば車や人がいる気配はないなのです。それでも赤信号を無視して渡れば法律違反でしょう。
 たとえば中学とか高校の校則で靴下の色とか髪の長さとかが決められていて従わなければならないわけですが、それ自体守っても守らなくても、人の生死や安全や健康には全然関係ありません。それに影響があるルールなら多くの人が納得して守るでしょう。
 今のは一例ですが、人が集団で行動するときに、お互いにできる限り快適に暮らすために、あるいは組織を維持するために、法律やマナーといったルールが存在するんだと思いますが、それが形式化していても、それを守ることに対して、あまり気にならずに従える人もいれば、すごく違和感を持つ人もいるんだと思います。
 ぼくは、意味のないルールを守のはバカバカしいと思う質です。でも一応社会人のいい歳した大人として、ルールは守るわけですが、それは自分を抑えているわけで、そこにストレスがたまる原因があります。
 海で遊ぶというのは、そういう社会的かつ形式化したルールから解放されることでして、それがぼくは嬉しいんです。
 海にもルールはありますが、ほとんどが生死や安全に関係することです。それを守らないと自分や他人が死んでしまうということですから、納得して守ることができます。しかも死なないことというのがルールの大元ですから、シンプルでわかりやすいのです。要は人が死ななければいいんです。
 次にまた別の話をします。
 自然を相手にするスポーツはたいていそうだと思いますが、自然の懐に入って、自分の力だけで、前に進んで、最終的には無事に戻ってくるという仕組みになっています。その内容もシンプルでわかりやすいですよね。
 死なないことが善であり、それを実現するのは自分の判断と行動だけです。バカな上司とか、無責任な同僚とか、ワガママな後輩とか、無理をいう取引先とか、社内政治とかそういう自分がコントロールできない面倒なものがないのです。ああステキ。そして会社で実績が出るかどうかというのは、自分の能力ももちろん大切なんでしょうけど、景気の状況、自分のいる部署の状況、一緒に働くチームのメンバーの力などといった偶然の要素が割りと大きいようにぼくには思えます。一方、自然を相手にするスポーツでは、まあそんなことはなくて、自分の力が最大の要素です。
 それって自己効力感に影響を与えると思います。
 なので、会社みたいな組織生活ですり減った自己効力感を、自然の中でするウォータースポーツで補充しているというのが、ぼくの現状です。
 これが自然の中で遊ぶと元気になる要素のひとつだと考えています。
 それ以外に自然の中で遊ぶことで気分転換できる理由として考えられるのは、マイナスイオンが多いとか、フィトンチッドが空気に含まれているとか(これは森だっけ?)、海水に含まれている成分がいいんだとかいろいろいわれていますが、これは科学的に分析できそうなことなので、専門家のデータを調べなければならないでしょう。自分の感覚では、そういうこともあるかもしれないなあ、くらいに受けとめています。
 ここまで書いてきたことは、自然の中で遊ぶことが好きな方には、少しはわかってもらえるんじゃないかと思うんです。やっぱり自然の中で遊ぶことって楽しいよね、というところは変わらないでしょう。
 可能性としてあるのは、都会で暮らしていて、休みの日は一日中家に居て、テレビを見てるみたいな人が、その内側に溜め込んだストレスを変な形で発散している(もしかしたら大なり小なり他人に迷惑をかけている)というような場合があるとしたら、そうした人が自然の中でストレスを解消したり気分転換したりすることで、変な形で発散されているものがなくなる分だけ、世の中がよくなるかもしれないということでしょう。それがどの程度なのか見当もつきませんけど…









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どんな人でもシアワセに暮らせる理想的な海辺の町ってどんなふうなんだろう



 あなたの周りにヘンな人とかちょっと変わった人といわれる人っていませんか?
 今は発達障害ということが一般的になってきて、以前だったらちょっとヘンな人だったのが、今ではナンタラ障害といわれるようになってきました。それがいいのか悪いのかはよくわかりませんが、何かに名前がつくということは、それが認識しやすくなるという面はあるんじゃないでしょうか。
 で、ぼくの周囲の海遊びをする仲間や、海辺に住む仲間というのは、ヘンな人とかちょっと変わった人というのが結構います。よくいえばそういう人達でも暮らしやすい自由で寛容な雰囲気があるといえるかもしれません。
 別な見方をすると、都会とか大きな組織のキッチリしたルールがあるところでは生きにくい人達が、自然に携わる仕事に就いているという面もあるかもしれません。
 ぼくは、ヘンな人とかちょっと変わった人が好きでして、自分もそういう面があると思います。
 ヘンな人とかちょっと変わった人を含めていろいろな人がシアワセに暮らせる世の中というのは、それはかなりいい、理想に近い世の中でしょう。
 ぼくの住む海辺の町が、そんな理想に近い場所になるといいなあと思います。そして日本や、はたまた世界がそうなれば、本当に理想的ですよね。
 ちなみに千葉に鵜原理想郷っていう場所が、たしかあったような気がします。そういう場所を求める気持ちって、いつの時代にもあるんでしょう。
 でも、たぶんそうならない…人は誰でもココロに、清い面と邪悪な面を持っていて、時に邪悪な面が、差別や嫉妬や憎しみといった感情を生み、それが行動に繋がるんじゃないでしょうか。そして一人ひとりの邪悪な面が、社会的な問題を生み出すんじゃないかと、ぼくは思っています。要は、もし今の社会に問題があるとすれば、それは社会の問題でもなく、特定の誰かの問題でもなく、一人ひとりの中の問題が社会に顕在化したんではないか…って考えているんです。
 なので、もし理想郷を造るとしたら、そのコミュニティのルールは、住民は絶えず自分の邪悪な面を見つめ、それを最小限に抑えるように努めること、ということになるんじゃないでしょうか。






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時間と人生とウォータースポーツ



 ウォータースポーツって、海という自然を相手にする遊びです。海は刻々と状況が変わりますし、天気予報や気圧配置をチェックしても、海況の急変は起こりえます。いくらリスクを管理しても想定外のことが起きるのがウォータースポーツ。
 ときどき、知人に「わかっていて、なぜそんな危ないことをするのか?」と訊かれることもあります。
 それはウォータースポーツに限らず、車の運転でも同じで、安全に十分に注意しても、それ以上の危険が起きる可能性は絶対にゼロにはならないんじゃないか、というのが、ぼくの答えですが。ちゃんと理由を話すにはもっと長い言葉が必要です。
 リスクがあっても、リスクがゼロにならなくても海に出ていきます。
 なぜか?
 もちろんウォータースポーツが楽しいから…というのが一番の理由かもしれませんが、でももっと根本には、ぼくの中にある価値観があるからだと思います。その価値観のためにぼくのそうした行動パターンは出てきています。その価値観は若い頃は直感的に身についたものでしたが、いつからかそれを理屈として考えるようになりました。

 で、なぜそんな風な行動パターンなんだろうと考えるんですが、ぼくにとっては日々暮らす=生きること自体がリスクの塊で、何をしても何もしなくても、リスクはなくならない、だったら好きなこと・やりたいことを精一杯やろうという気持ちがココロの奥底に絶えずあり続けているからなんだと思うんです。
 ここでいうリスクというのは、地震とか火事とか病気とか怪我とか失業とか家族の死とか自分の死とか、そういった人生において誰の身にも起こりえるモロモロのことなんですが、そういう大きなリスクって、たぶん誰の身にも確率的には起こり得るんじゃないでしょうか?
 たまたま隣人に起きて自分には起きてないけど、次の瞬間には自分にも起きるかもしれない、起きない理由なんてないし、日々を暮らすということは、そういうリスクに遭遇する確率と共にあることだと思います。
 だからリスクの確率を減らすために、家にじっとしているとか車の運転をしないとか火を使わないとか、そういうのって、ごく限られた範囲では正しいかもしれないんですけど、人生全体で見ると何の解決にもなっていないんじゃない、というのがぼくの考えです。
 というのも、病気になる可能性もあるし、家族が突然死ぬこともあり得るし、生まれてくる赤ちゃんが障害を持っているかもしれないし、地震が起きるかもしれないし、富士山が噴火するかもしれないし、ICBMが飛んでくるかもしれないから…
 心配したら何もできないし、どうせリスクがある人生なら好きなことややりたいことを精一杯やろう、という延長線上にぼくの海遊びはあります。海遊びのリスクなんて、生きる上で抱えているリスクの総量からしたら、たぶんぜんぜん大したことがないとぼくには思えます。
 話が回り道をしてしまいましたが、やれることはやれるうちにやりきってしまいたいとぼくは思っているということです。
 そして人生のリスクで最大のものは何かというと、自分の死だろうと思います。次は家族の死だと思います。家族の死をさらに分解すると、よりリスクが高いのは、子供(次の世代を担う人・自分より若い人)の死だろうと思います。それ2つ以外はどのリスクも似たり寄ったりだとぼくは捉えています。
 そして最大のリスクである自分の死と家族の死は、必ずやってくるということです。このことから、人生の長さは有限であり、個人の持ち時間は有限であり、そこでできることは有限であるという、現時点での真理があります。
 ただ、死というのはいつかは必ずやってくるとはいうもののそれがいつやってくるかはわからないという点が特徴です。
 100年以内に確実に起きることではあるけれど、それが10歳の時に起きるか70歳の時に起きるかで、死の意味は社会通念上大きな違いを持つといえるでしょう。年齢による死の意味の社会通念上の違いをどう評価するかによって、おおよそ、その人の価値観や行動パターンは変わります。60歳で死ぬのと70歳で死ぬその10年の差に大きな違いがあると考える人は、健康に留意して用心深く慎重になるでしょうし、そんなの大きな違いでないと考える人は、積極的にリスクテイクしていくでしょう。
 もうひとつの視点として、10年の差を単に時間の長さの問題として考えるだけでなく、その10年をいかに密度を高く過ごすかという、時間の密度の問題ががあります。長生きしてもそれほど密度の濃くない人生を過ごす人もいるでしょうし、短命でも多くのことを成し遂げたり、自分のやりたいことをかなりやる人もいます。
 つまり人生は有限で、0から約100年の間で可変する、そしてその時間は単に時間の長さだけでなく、その時間をどれだけ充実させるかという時間の密度の2つの軸があるということです。人生の充実度は時間の長さと時間の密度のかけ算だということです。



 別の視点として、人生の長さが0から約100年の間で変化するけれど、死に至らせる出来事が起きるリスクの確率は、自分でコントロールできる要素と自分でコントロールできない要素に分けられます。
 これを詳しく説明します。
 たとえば人はいずれ病気になるものですが、それは日々の生活習慣を整えることで、病気になる確率を下げることができます。
 また、別の例でいえば交通事故に遭うリスクを低下させるために、車に乗らない選択肢をとることはできます。ただ、車に乗って旅行したり、楽しい生活を送ることが、自分の時間の密度に関係するとなると、交通事故に遭うのを減らすために車に乗らない選択肢が自分にとって価値があるのかないのかはよく考えなければなりません。それは時間の長さと密度のかけ算の総量がどうなるかを考えるということだと思います。
 ぼくが危ないとわかっていてもウォータースポーツをするのは、まさにこの基準で判断していることになります。ぼくにとってウォータースポーツをすることはリスクがありますが、そもそもぼくにとって日々の暮らしはウォータースポーツによって充実しているものになっているので、リスクを減らして長生きしたいがためにウォータースポーツをしないという選択肢は本末転倒ということです。



 もうひとつまったく別の視点として、自分個人の時間は有限ですが、自分の意思とかやりたいことを次の世代に引き継ぐことによって、意思自体を延長することができるかもしれないということがあります。
 それは、子供に意思を託したり、弟子をとったり、組織を作ったりと様々な選択肢がありますが、注意すべきは、自分の意思を次の世代に引き継ごうとすることを半ば強制することは、次の世代のある個人の人生の充実度の総量を損なうおそれがある点です。ですから自分の意思を次の世代に引き継ぎたいと考える場合、その意思はかなり公益性の高いことの方が、無難で説得力があることに留意しなければなりません。
 こうした諸条件の中でベストな選択は、時間の密度を上げる、人生の長さを延長するために自分でコントロールできることはできる限り行う(ただし、人生の長さを求めるために時間の密度を下げる選択をするときは時間の長さと密度のかけ算である総量を慎重に検討しなければならない)、自分の意思を次の世代に引き継ぐ体制を作っておく、という3つのことです。
 たかだか海遊びをなぜやるのかということから大げさな話になってしまいましたが、結局ぼくの中の理屈ではそういうことになっています。





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海辺の田舎暮らしでココロ穏やかに暮らす



 海辺の田舎町に住んでいます。
 海辺にいれば、そこにはゆったりノンビリした時間が流れています。
 平和でココロ穏やかな暮らしがあるのです。
 そう、もうかれこれ20年とか30年前になりますが、ぼくは都会に住んでいたのでした。
 コンクリートとアスファルトで囲まれた暮らし。
 車の音が昼夜問わず鳴り響いている暮らし。
 歩いて数分のコンビニに行くのにも、家の鍵をキチンと締めなければ不安を感じる暮らし。
 隣に誰が住んでいるかわからない暮らし。
 相方が夜、出歩くのに、警戒しながら出歩かなければいけない暮らし。
 子供が気兼ねなく大声を出したり、走り回ったりできない暮らし。
 車でゆっくり走っていると煽られたり、クラクションを鳴らされたりする暮らし。
 休日に買い物に出ると、人混みでごった返している暮らし。
 そういう暮らしってけっこういびつだな、って改めて感じたんです。
 ぼくは若い頃から離島やいろいろな海辺へ旅をしていました。
 そこでは、時間がゆったり流れていました。
 集落の人はみな顔がわかっていて、旅行者も「○○に泊まっているお客さん」という風に認識されていました。
 家や車には誰も鍵なんてかけません。
 夜になれば、虫と波の音がするだけ、朝は鳥の声で目が覚めます。
 子供は集落の人みんなが見守っていました。
 ぼくはそういう暮らしの方が性に合っているなと思ったんです。
 今振り返っても、ずっと都会に住んでいたら、すごいストレスだっただろうなと思うんです。
 海辺の田舎暮らしがすべていいことばかりではないですが、ココロ穏やかに日々暮らせることだけで、ぼくは十分満足しています。






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