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人はなぜ海に漕ぎ出したんだろう? 補陀落渡海・浄土・桃源郷・リスク



 離島を旅するたびに感じるのは、昔の人は、今のような動力がない船で、どうやってこんな絶海の孤島に辿り着いたんだろうか?ということです。それはテクニックももちろん、なぜそんなリスクを冒したのかということに興味があります。もちろん生きるために魚を獲らなければいけなくて、より遠くに漕ぎ出さなければならなかったということはあるでしょう。あるいはたまたま漂流して辿り着いたということもあるでしょう。
 海洋史によると、ずいぶん昔から、ポリネシア、ミクロネシア、フィリピン、台湾、中国、琉球列島、日本と人間が行き来していたといわれています。
 さて、ここで話が変わるのですが、海が好きなので、海辺の寺社仏閣にときどき行きます。そんなに信仰心があるわけではありません。
 そんな流れでいつ頃からか補陀落渡海(ふだらくとかい)のことを知りました。
 補陀落渡海のことはウィキペディアから引用すると次のとおりです。
概要
この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。
最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという[1]。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
渡海船
補陀落渡海に使う渡海船についての史料は少ないが、那智参詣曼荼羅には補陀落渡海が描かれており、補陀洛山寺には復元された渡海船が置かれている。これによると、一般的な貨客のための渡海船とは異なり、和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に四つの鳥居が建てられている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあり、この場合は門のそれぞれに「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」との名称がある。
箱の中には三十日分の食物や水とともに行者が乗り込むが、この箱は船室とは異なり、行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。図には帆が描かれているが、一般には艪、櫂なども含めて航行のための道具は備えていない。これは、生還することなく遺骸となっても戻ってこないことが浄土へ至った証との思想に基いている。沖合まで伴走船が曳航した後、人々が海流に流されて漂流していく船を見送る。
思想的および地理的背景
仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。
浄土信仰が民間でも盛んとなった平安後期から、民衆を浄土へ先導するためとして渡海が多く行われるようになった。渡海は概ね黒潮が洗う本州の南岸地域で行われた。特に南紀・熊野一帯は、それより以前から密教の聖地、さらに遡って記紀の神話も伝わる重層的な信仰の場である。『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。黒潮は地球規模でも強い海流の1つであり、この流れに漂流するとかなりの確率でそのまま日本列島の東側の太平洋に流されていき、戻ってくることがない。 ごくまれに南下する親潮により南への循環流に乗り、再び日本の沿岸へ漂着することがある。
琉球における影響
『琉球国由来記巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間(1265年~1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。また琉球に漂着した日秀上人は、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったり、金武町に金武観音寺を建立した。
 以上が引用部分です。
 補陀落渡海のことを知って、ぼくが最初に連想したのは、即身成仏のことです。修行僧が死を前提とてして厳しい修行をする事例は多くあります。次に連想したのは、この海の向こうのどこか遠くに浄土があるんだという思いです。こういう発想の枠組み自体は、桃源郷とかシャングリ・ラとか古今東西いろいろな話が多く見られます。
 また、海や山といった自然が信仰や修行の場や対象になることもよく見られることです。
 さてさて、ここからはぼくのつまらない考えなんですが、ぼくは、海にいるときに、この太平洋の先に本当にアメリカがあるんだろうか?と考えたりします。もちろん地図にはそう書いてありますし、googleマップで調べればそう出てきます。
 いやでも本当だろうかと…
 実際ぼくはそれをやっていないし、自分の目で見たわけじゃない…
 それはそういわれているだけで、実は別な世界が広がっているんじゃないか?
 あるいは、途中で別の次元の世界に入り込んでしまうんではないか?
 はたまた何かの拍子に、まだ人間が踏み込んだことのない未知の場所に着いてしまうんじゃないか?
 そしてそこは桃源郷のように、みんなが幸福に暮らしている理想の世界があるんじゃないか?
 21世紀に生きるぼくでさえ、海の向こうの行ったことのない土地についてこんな考えを巡らせるんです。ましてや世界全体の知識や情報が不完全だった昔ならなおさらだったんではないでしょうか?
 そして、飢饉や人口増加や政治的に追放されるなど、今の土地で生きるのが厳しい時に、もしかしたら人は、桃源郷、いやそこまで素晴らしくなくても、今よりもマシなまだ見ぬ土地目指して危険な航海に出たかもしれない。それは十分あり得るんではないかと思ったりするのです。










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海辺の仲間との距離感



 ウォータースポーツをします。
 サーフィン、スキューバーダイビング、シーカヤック、セイリング…
 よく独りで、ときどき仲間と…
 で、ぼくはだいぶオジサンなので周りの海遊び仲間もオジサンが多いのです。たいていサーフィン歴30年とかスキューバーダイビング歴40年とかそういう人ばかりです。
 そういう人と一緒に遊んでいて楽しいのは、その距離感。
 よくスキューバーダイビングに行く友達は、なんとなく頃合いのいい時期に連絡が来ます。ダイバーはわかると思いますが、伊豆あたりで潜るとするとコンディションがよくて魚が多く見られる時期ってだいたい決まっています。だからそういう時期にふとメールが来て、「来週末に行こうかー」ってなって、「アレが見たいから伊豆ならこのポイントで、このショップで、じゃあ予約しとく」という具合ですぐ決まっちゃいます。
 ダイビング当日も現地集合。
 基本無愛想。会話は必要最低限。
 話すとしても、今ちょっと右足が腫れてるから、あんまり長距離は泳げないかも、みたいなこれからのダイブに必要な事実だけ。
 水中でも自己責任が前提だし、お互いに相手の技術と力を知ってるから、付かず離れず。でもトラブルがないかは目の端で見ている感じ。
 相手がサインを出しているその先を見れば、珍しい魚がいて、いいたいことはすぐわかる。
 相手が一心にあるところを見ているとだいたい何がいるかわかる。
 相手の目配せで何をいおうとしているのかわかる。
 ダイビング後も宿に向かって、温泉に入って、酒を飲みながら飯を食う。話はするけど、別にはしゃぐでもなく愚痴るでもない。
 翌朝、別れるときも、じゃあまた、って素っ気ない。
 ぼくは、こんな海仲間との付き合いが好きです。その距離感が好きです。
 相手に頼らず、頼られず、それぞれが物事をよく知っていて判断力がある、そんな関係って、とても気持ちがいいものです。無駄な説明をしなくていいし、簡単な説明でも深い理解を共有できるのです。
 双方が独立していて、双方が互いに敬意を持っている関係、そんな関係が好きです。
 海仲間にはそういう人がわりといて、ぼくが海遊びを続ける理由のひとつも、そんな仲間がいるからかもしれません。












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海にいるとわりと漠然としたことを考えてしまうワタクシ…



 あー、海は広いな大きいな…
 今日も海や空を眺めながら一日ボーッとしていました(いつもたいていボーッとしてるんだな、ボク…)。
 そういうときに、人の一生ってなんて儚いんだろうと思ってしまいます。
 家のそばの海からは、鎌倉の稲村ヶ崎が遠くに見えますが、それで思い出すのは新田義貞であり源頼朝であり鎌倉幕府でありその後の日本の歴史です(オレってヘンですかね?)。
 ざっくり1000年くらい前には、事実としてここにそうした人々がいて、斬ったり斬られたりをしていたんですもんね。そうした人々の喜びや悲しみは、今はどこにも存在していません。いくら頑張っても、いくらその時代に栄華を極めても、死んでしまえばすべては無かったかのようです。
 ちなみに稲村ヶ崎の岸壁は、崖崩れ防止工事でコンクリートで固められているので、一面白く見えます。なので、ボートなどで海を走っているときの目標にすることが多いんですね。
 話はさらに変わりますけど、会社や組織で上の人に尻尾振って出世する人もいますし、力ずくで他人を押さえ込む人もいます。頭はいいんだけどなんとなく他人から信用されていないとか、人望がないという人もいます。別に出世なんかしたくないんだけど、人柄や能力で大きな責任を担うことを求められる人もいます。得意なこと、長所短所、能力、個性は人それぞれですね。同じ人って一人もいませんもんね。なんとなくその人の持っている器に合わせた役割が来るように思えます。総理大臣とか社長とかやって、すぐ代わっちゃう人がいますけど、それは器じゃないのに役割が来てしまったのかもしれません。
 
 もちろん成長することにより、人はどんどん変わっていけるわけですけど、その人の地みたいなものはありますね。それはやっぱり個性とか器みたいなもんだと思います。その地がもとにあって、志や信念があれば、成長によっていい方向に伸びるということはあるかもしれません。
 一方で、人は多かれ少なかれ競争心やプライドがあります。欲もあるし、他人を妬む心や嫉む心もあります。それが志や信念を邪魔しちゃうというのもよく見かけますね。
 なかなか正しい道を歩むのは難しい感じがします。
 でも、正しかろうと正しくなかろうと人生は人生。すべては100年もすれば、この世に存在せず、誰も憶えてはいないでしょう。
 ぼくは海にいるとよくこういう漠然としたことを考えます。会社とかでは考えないんですけどね。もしかするとそういうところも海のよさかもしれません。









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何はともあれ家ではのんびりしています



 平日は町へ通勤し、土日は海辺の我が家で過ごす日々をおくっています。
 若い頃は町で暮らし、金曜の夜に海に行き、土日に海で遊んで月曜日の朝、仕事に直行するということをやっていましたが、いろいろ考えて海辺に住むことにしました。
 そうすると違ってくることが多々あります。
 毎日海を見られるのがいいですね。
 ぼくのように海遊びが趣味なタイプにとっては海況を目で見られるというのは、たとえ週末しか時間がとれなくても、その週末にどんなウォータースポーツができるのか予定できるだけでもずいぶん違います。週末するのが、サーフィンなのかスキューバーダイビングなのかシーカヤックなのか、だいたい予定が立つのです。
 もちろんサーフィンなんかだったら朝早く起きて1時間くらい乗って仕事に行くこともできます。
 それになにより、毎日少しでも海を眺められて、潮風にあたり、波の音を聞きながら晩酌できるというのは、海好きにとっては最上のことでしょう。
 週末のんびりできるのもいいですね。
 金土日と海に遊びに行く状態は旅行ですけど、今は我が家の暮らしです。何時に起きてもいいし、何かしてもいいし、海を眺めながらボーッとしてもいいといった具合に、旅先のように制約されることがありません。もちろん旅行に出てもいいわけです。行きたい海はたくさんあるので…
 この自由な感じは完全にオフになった気持ちがベースにあるから出てくるのかなあって思うんです。
 金曜日の夜は、シャワーを浴びた後、デッキで海を眺めながら、潮風を浴びながら、波の音を聞きながらビールを飲みます。明日は何をしようかなあなんて思いながら…
 土曜日は5時か6時くらいに起きます。で、海の様子をチェックして今日やることをだいたい決めます。海に出られるか、サーフィンかスキューバーダイビングかシーカヤックかセイリングか…
 朝ごはんを食べて、コーヒーを淹れて、ゆっくりします。
 それから支度をして海に出るのがだいたい8時くらい。夕方までたっぷり遊べます。
 夕方帰ってきたら、後は金曜日の夜と同じです。
 日曜日も同じです。海で遊べれば遊びますし、海に出られなければ家のことをやります。
 とにかく家では海のことを考えていますし、海でどれほど楽しく遊べるかを考えていますし、のんびりしています。慌てず、○○をやらなきゃいけないと思わないようにしています。
 慌てないというと少しニュアンスが違うので、正確に書きます。家では努めて今やっていることに集中するようにしています。コーヒーを淹れているときに掃除のことを考えず、パソコンをやっているときに洗濯物のことは考えないようにしているということです。意識を目の前のことに集中することで、のんびり感はすごく増します。
 逆にいうと、いろいろやらなければいけないと焦って気もそぞろだと、気持ちも疲れるし、一日が終わったところで振り返っても忙しかったけど何をやったか覚えていないということになるんだと、気がつきました。それでそういうの、やめることにしました。少なくとも家では…
 気分が切り替わるのもいいですね。
 会社から我が家までは電車で1時間30分以上かかります。我が家に近づくにつれ、電車の窓の外の景色がビルとネオンばかりだったのが、だんだん低層住宅が多くなり、山々が見えるようになり、なんとなく海の雰囲気が感じられるようになってきます。この電車に乗っている間にぼくの気持ちは、仕事からプライベートに完全に切り替わります。ぼくは電車の中でときどき瞑想をしたりしますから、ぼくにとって電車は移動する機械というよりも気持ちを切り替える機械のような感じです。というかぼくとしては「こっちの楽園の世界にワープ」している感覚です。
 同僚の中には家でも仕事をするとか、メールを処理するとか、仕事のことを考えるという人がいますが、ぼくの場合、電車の中で「こっちの楽園の世界にワープ」してしまったので、仕事のことは考えません。
 その切り替えをスムーズにやるのにちょっとしたコツがありまして、金曜日の夜、会社を出る1時間くらい前に、来週やることの見通しをだいたいつけてしまうんです。月曜日はこれをやって、火曜日はこれをやって、みたいな感じです。そうすることで月曜日に頑張ればいいから今週の仕事はおしまい、シャッターガラガラピシャリと、気持ちが仕事を離れやすくなります。
 海辺の駅に着くと、海こそ見えませんが空気は潮の香りがしますし、風は潮っぽいんです。時間はどことなくゆっくり流れている気がします。すぐにでも短パン・Tシャツ・ビーサンに着替えたくなります。あぁ自分は自由なんだと感じる瞬間です。
 通勤時間の1時間30分以上を無駄と考えるかどうかは、その人の価値観によると思うんですが、海辺で楽しく暮らすことがぼくの人生の目的なので、無駄だとは思っていません。むしろ海辺の家の近くに職を得るにはどうしたらいいかを考えています。
 こんな自分の生活について、自分では満足しています。それをわざわざ世間様に公開する必要があるかということなんですが、ぼくは仕事のために仕事をしている人や、金や世間体や自分のプライドのために仕事をしている人の生き方に賛成していません。はっきりいうと軽蔑しています。サラリーマン向けの自己啓発本にはそういう価値観の著作が多いので、若い人や真に受けやすい人に、そうじゃない人もいるということを知ってもらってもいいんじゃないかと思います。










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マジメにやるの、やめよう



 自分でいうのもなんですけど、わりとマジメな性格だったんじゃないかと思うんです。いや、マジメというのとは違うかな…他人に嫌われたくないから、自分の居場所が欲しいから、一応ちゃんとしようとしてきたのかなーって思います。
 で、ご想像がつくと思いますが、そういう性格だと、ときに気を使いすぎたり自分を抑えたりして疲れます。って、自分でいうのもなんですけど…
 ぼくは海が好きで、自然の中にいると心が安まるんですが、それって、この他人に嫌われたくないことから解放されるからかもしれないって、いつの頃からか、そう考えるようになりました。
 もちろん社会の煩わしいルールに従いたくないけど従わなければならない状況から、しばし逃げられるということも、海に出る理由ではあります。
 で、そういうのってよくないんじゃないかと思いたち、他人に好かれようとか、いい人に思われようとしないように心掛けています。
 たまにすごくマイペースで自分のことばかりいう人がいますが、そういう人にあったら爪の垢でもいただきたいくらいにマネするポイントをチェックしています。
 友人にそのことを話すと「お前さあ、頑張る方向まちがってんじゃない?」といわれます。確かに社会の常識的にはそうかもしれませんね。でも、ぼく的には、鈍感で、マイペースで、自分勝手で、マジメじゃなくて、不義理で、頼りにならない、だらしない、ダメな人になりたいんです。もちろん法律には従わなければなりませんけど…
 その方が、自分は楽だし、シアワセです。他人がどうだろうと、自分がよければいいじゃないか…って最近はすごくそう思うんです。
 って、そういう人が増えると他の人は迷惑でしょうねえ。
 それは裏返すと、日本では、法律には書いてない、他人に迷惑をかけない気遣いとかマナーがいっぱいあって、それをちゃんとやる人は「大人」「いい人」「素敵な人」「頼りになる人」っていわれますけど、それをやり過ぎると結構疲れますよね。いやーそこまでやらなくてもいいんじゃないの?法律守るので十分じゃないの?って思うんです。
 ちゃんと毎日働いて、税金も払って、子供も育てて、親の通院にも付き添って、家の前の道も掃き掃除してって、もう十分でしょう…
 ぼくの考えの向いている方向を堕落と呼ぶか、個人の自由を最大化するよい行為だとするかは、多くの社会構成員の思いなのでアレなんですけど、どちらと考えるかで10年もすると社会自体はずいぶん変わってくると思います。









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絶海の孤島への憧れ



 絶海の孤島っていう表現がありますね。
 ぼくも海遊びが好きで、海辺の旅をしてきましたから、船で八丈島に行ったり、小笠原に行ったり、沖縄の離島に行ったりしてきました。そうすると、本当に絶海の孤島だなーと思うことがあります。
 たとえば大島のことを絶海の孤島とはいわないと思いますけど、八丈島とか青ヶ島とか孀婦岩くらいだと絶海の孤島感があります。小笠原諸島だと文句なく絶海の孤島ですよね。
 こうした島に船で行くといろいろなことを考えます。
 いったいなぜ人間はこんなところに住むようになったのか?ていうか、鳥もいますけど、この鳥はどこから飛んできたのか?
 ちなみに船が海のど真ん中にあるときでも鳥は飛んでいますから、かなりの距離を飛ぶんだなあ、いやあ頑張ってるねーと思います。
 小さい頃、ジョン万次郎の話を教科書か伝記かテレビかで見た気がするんですが、そのときも人間ってすごいなあと思いました。
 それからポリネシア、ミクロネシア、東南アジア、日本におよぶ人種の分布とそれの渡来経路について読んだことがありますが、もう大昔から人は海上を行き来していたようです。
 現代の巨大な船で、小笠原航路に乗るとき台風に遭ったりすると、かなりヒヤッとしますけど、大昔の人は、まあ双胴船とか丸木舟でよくまあ航海したものだと、その勇気に感服してしまいます。すごいよね。
 ぼくは海が好きで、スキューバーダイビングで何度か流されて、それでも海遊びをやめない海バカですけど、そのぼくが絶海の孤島では、その孤立感や断絶感にときどき不安になるんです。いや小笠原の父島なんて大きな町ですけど、でも、度々離島の旅をしているから知ってますけど、こうした大きな島でも2週間も船が来ないと、物が足りなくなります。そういえば1980年代頃までは離島に行くと水か貴重で、宿に泊まっていてもときどき断水になったり給水制限があったりしました。そういうときには絶海の孤島にいるんだって改めて実感します。
 そしておもしろいなあって思うのは、孤立感や断絶感と共に解放感や自由さも感じるんです。あの感じはなんなんでしょう? でもあの感覚が好きで何度も何度も離島の旅に出てしまいます。













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海に降りる道は全部降りてみる ~無駄な行動の先にあるもの~



 何度も書いていて今さらですが、海が好きです。友人は遠慮なくぼくのことを海バカと呼びます。
 そんなぼくですからヘンな癖は山ほどありまして、たとえば初めて訪れる島や海辺の町では、海に降りる道は全部降りてみるのです。
 海好きな人はわかってもらえると思いますが、もうちょっと説明しますね。
 海辺って、幹線道路がたいてい海から少し離れたところを通っています。そうするとそこから漁港だとか畑だとか人家に降りる細い道が枝分かれしているんです。降りるというのは、海とか漁港ってたいてい標高が低いから…当たり前?…
 たとえば伊豆七島の三宅島を例にとりましょう。ぼくが初めて三宅島に行ったとして(というか三宅島は何度も行っていて、わりといろいろ知ってますけど)、まずレンタバイクを借ります。で、島をぐるっと一回りするわけです。島というのはたいていメインの道路が一本島を一周するように走っていて、そこから枝分かれする道があります。で、一回りする間に海に降りる枝道の目星をつけておきます。海に降りる道も太い道もあれば細い道もありますから…で、2周目は一本一本全部降りていくんです。
 どうしてそんなことをするかというと、島の全貌がわかるから、海の様子が分かるから、そして思いがけない、いい風景やいい場所が見つかることがあるからです。現にそういうことをしていて、石垣島では誰も人がいないサンゴがびっちり繁ったビーチに出会えて、そこでスノーケリングをして素晴らしい時間を過ごすことができました。八丈島では島の人が使う無人の共同温泉(島の人は無料・観光客は寸志を箱に入れる)を見つけて、海を見ながら温泉に浸かったりしてました。
 もちろんミスもあります。海に降りる道が、個人宅の私道で、降りていったら犬に吠えられたりしたこともありました。でも、それくらいかな…
 最近は便利になったので、グーグルマップの地形が出てくるヤツがありますね。あれで、事前に海の地形をチェックして、よさそうかどうか、道がついているか調べておきます。いやー便利になったもんですね。でも、たいていすべての道を降ります。それはやっぱり行ってみて見てみないとわからないから…
 こういうぼくの行動を馬鹿げたこと、無駄が多いことと批判するのは簡単ですけど、もしかしたらそこに教訓らしきものがあるかもしれません。とういのも、すごくいい状況、めったにお目にかかれない風景、感動する場面に出逢うということは、気になる枝分かれした道を一本ずつ降りるような行為によってしか達成できないんじゃないかってぼくは考えているからです。
 それはwebで検索して、人気があるとか評価が高いところを押さえて、最短のルートをとり、無駄のない行動をすることとは正反対にあります。他の誰かが通った道を要領よくなぞっているだけの、そんなできあいのありがちな行動なんて意味ないし、つまらない、とぼくは考えるんですけど、たまにぼくと似た価値観の人が、要領悪く、試行錯誤しながら何かをやっているのを見るとうれしくなって、応援してしまいます。










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海辺・焚き火・友との語らい



 焚き火が好きでちょくちょくやります。
 もうちょっというと海辺で酒を飲みながら焚き火をし、友人と語らうのが好きです。
 よくやるパターンは、シーカヤックに荷物を積んで、陸からは行けない入江や島に向かいます。そこでシュノーケリングやシーカヤックをして楽しみます。いい加減遊んで、日が落ちる前にテントを張ります。そして買い出しておいた食材や海で獲った食材で晩飯を作ります。晩飯ができたかなーという頃合いを見計らって、流木などで焚き火を始めます。その頃にはあたりは暗くなっています。
 ビールで乾杯。そして飯。焚き火、潮騒、真っ黒な海、そして夕陽にわずかに照らされた紫色の空。そんな中でポツリポツリと話をします。海遊びと日焼けで気だるくなった体に酒が回ります。焚き火の揺らめきが幻想的です。
 焚き火を囲みながら話をしていていつも思うのは、海での友人との距離感です。どういうことかというと、ウォータースポーツというのは時として危険があります。そんなとき頼りになるのは自分の判断力と体力。いくら友人といっても最後は自分のことは自分でなんとかしなくてはなりません。このことがわかっている人と遊び、酒を酌み交わすのは楽しいものです。一方が他方にいろいろなことを頼ってしまう関係では、お互いが対等に気持ちよく過ごせません。そういう点でいうとぼくのこれまでの経験では、そういう関係が成り立つことが多かったのは男の友人です。女の友人でもそういうタフな人はいましたが、多くはありませんでした。ぼくがわりとハードなウォータースポーツを好んでいたせいもあるかもしれません。海においては、頼られる関係やネチャっとした会話はゾッとします。プライベートの遊びの場でそんなのごめんです。お金をもらってもイヤです。
 もしかしたら日頃の夫婦関係とか会社での人間関係から違う場所に身を置きたいのかもしれません。あるいは根っこの部分でぼくは社会に適合できないところがあるのかもしれません。
 そんな友人とぶっきらぼうに言葉少なに語り合うのが好きです。しかも少し詰めの甘い答えをすると、友人の鋭い軽蔑したような視線が飛んでくるのもスリリングです。ぼくはそんなお互いに厳しい関係が好きなのです。
 やがて夜は更けて寝てしまいます。季節がいい頃はそのまま外で寝てしまいます。アウトドアチェアに座ったまま寝てしまうこともありますし、寝袋で寝ることもあります。海辺の砂浜や草が生えているあたりで寝袋に入って、星空を見ながら寝るのってなかなか気持ちいいものです。









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波の音を聴いていられるだけでシアワセ


 家にいて、ふとしたときに波の音が聞こえるのがぼくは好きです。
 お酒を飲んでいるとき、眠るとき、風呂上がりに髪の毛を拭いているとき、洗濯物を干しているとき…
 なんということもないんだけど、あぁ海がそばにあるんだなーという感じが、やっぱりワクワクするというか、胸がドキドキします。
 あぁ、やっぱりいいなーと思うのです。
 今日は南風が強かったから、海が荒れると思ったら、案の定荒れてきたなとか、明日は海に出られるかなとか考えたりしてます。
 日常のちょっとしたことでシアワセを感じられる、そうしたちょっとした時間で人生はなりたってるんじゃないかって思ったりします。










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朝・砂浜・散歩



 早朝の散歩って気持ちいいですよね。
 海辺だともっと気持ちいいんですよ。
 まだ空気が生まれたての新鮮な感じで…
 そんな中、人気のない砂浜の波打ち際を散歩するんです。
 すごくいい気持ちです。
 澄みきった空気、潮風、波の音、磯の香り、朝陽の光…
 ぼくが海辺に引っ越した理由のひとつに、こうした朝をできるだけ毎日過ごしたいというのがあります。







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