海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
朝、カーテンを開けると海が…
毎朝起きるとすること、そう誰もがすることでしょうが、カーテンを開けることが好きです。
特に晴れた日は…
カーテンを開けると海が望め、朝陽と共に海面がきらめいています。
ぼくはもう30年近くウォータースポーツをしていますから、その日の海況が気になります。波の高さ、うねりの強さ、風向き、潮汐、定置網の位置…
こうして海が眺められて、とりあえず今日は元気です。
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空気・水・社会、そして暮らし…
海辺に住んで、街に仕事に行っています。
もちろん地元のそばに仕事があればその方がいいのでしょうが、なかなかすべてが思うままにはいきません。
街のリズムに従って暮らしてしまうと、ときとしてイライラすることがあります。あれはなんなんでしょうね?
ぼくなど友達の間ではゾウガメのようにノンビリしているとの評価が定着しているようなのですが、それでも一応内心ではイライラしていたりします。
話は変わりますけど、植物というのは同じ種類でも、育つ環境によって~それは土や気温や空気や太陽によって~育ち方や味が変わってくるんだそうですね。まあ、それはわかる気がします。
人もそういう面があるのかなーなんて思ったりします。
もともとの性質や性格はもちろんあるでしょうが、ノンビリしたところで暮らすのと、人の多い東京の都心部で暮らすのとでは暮らしのリズムが違うでしょう。それによってストレスの度合いが変わるということもありそうです。
空気や水も違うでしょう。毎日確実に身体に取り入れるものですから、空気と水がきれいなところと汚れたところでは、おそらく10年も暮らしていれば、体調も変わってくるんじゃないかなって思います。
アトピーの方やアレルギーがある方が、都会から田舎に引っ越したら症状が少し治まったという話を耳にしますが、ストレスとの関連がある病気などは発症に変化があるかもしれません。
ぼくは気分的に落ち込んだり悩んだりすると、積極的に海に出るようにしています。そうすることで気持ちの中で何かが確かに変化します。ずいぶん楽になるのです。
人はときとして自分ではどうしようもなく悪い状況にはまってしまうことがあります。そんなとき、あるタイプの人がある状況の時、自然に接すると、自然から力を分けてもらえるということが、あるように思います。経験的に…
ぼくの実感としては、潮風を吸って、陽の光を浴びて、海水に浸かって、海辺のノンビリしたリズムの中で暮らすとずいぶんストレスが緩和されます。自分に合った気候とリズムの中で暮らしているという実感があります。
都会の満員電車でギュウ詰めなとき、人いきれや汗や香水のニオイでで充満した車内、そんな不快な状況の中で、ぼくは、海辺の空気や波の音を想像します。そうすると少しだけ気持ちを緩めることができるのです。

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入江はぼくにとっての楽園
シーカヤックは小回りのきく船ですので、岩場や小さな入江にも入っていけます。
そんな利点を活かして、ぼくは陸からはアクセスできない誰も来ない入江に行くのが好きです。
そして、そこでボーッとするのが好きです。
わかる方はわかると思いますが、人が来ない、あるいは外部から人が来るにしても来る方向が特定されているというのは、なかなか心が安らぐものです。生物の本能でしょうか…それとぼくの祖先が武士だからでしょうか…それとも単にぼくの個人的な傾向のせいでしょうか…
ぼく自身思うのですが、家の中で自分独りになる時間は結構とれるのですが、屋外で、しかも自分が好きな海で、独りになれる時間ってあまりとれないんです。誰も来ない入江だとそれができるわけですね、思う存分。
そしてその入江一帯はぼくの使いたい放題です。
水場もかまどもテントを貼る場所も自分の思うままにできます。
これは子供の頃喜んでやっていた秘密基地遊びそっくりではありませんか…
あるいは物語で読んだ、桃源郷や竜宮城やシャングリ・ラにさえ、ぼくには思えます。
スノーケリングしたり、魚を獲ったり、釣りをしたり、食事を食べたりはするんですが、それ以外の時間はボーッとしています。
聞こえてくるのは、波の音と鳥のさえずりくらい。そんな中でボーッとしています。
健康で、海で身体を動かせて、よく眠られれば、それでシアワセ…
最近やっと気温も湿度も少しさがりやっと過ごしやすくなってきました。
だいたい台風のことを除けば10月・11月というのは海遊びに最適の時期でして、仕事が休みの日で天気がいい日は海に出たいと思うわけです。
遠い親戚の法事なんかも、できればなんとか2月あたりにズラしてもらえないかと不謹慎なことを考えてしまうほどです。
思えばうちの子供が小さい頃は、運動会だの遠足だのの行事があって、「あぁ今日は海に出るといい日だよな」などと思いながら運動会の応援をしていたことを思い出します。うちの近所はお父さんがウォータースポーツをしていることが多くて、パパ友と話すと「今日はサーフィン日和だよね」なんつったりして、みんな同じことを考えているのでした。もちろん子供はかわいいけど、気候のいい日で休みの日というのもなかなか貴重なわけです。
そんな日々なので、スキがあれば海に出ています。この季節は、砂浜にいるだけで、あるいは海辺を散歩しているだけでも気持ちがいいものです。
海が穏やかならばスノーケリングかスキューバーダイビングかシーカヤックをやり、波があればサーフィンをやり、どれもできないくらい海が荒れていれば、海辺をジョギングしたり歩いたりしています。
いやもうその気持ちがいいこと…
暑くもなく寒くもないので、海が荒れていなければ、雨でも海に出るわけです。それでも気持ちがいいことに変わりはありません。
朝から夕方まで海遊びで身体を思いっきり動かして「いや、もう疲れた、筋肉がきつい、腕が上がらない、脚も上がらない、ヘトヘト」というくらいまでにもっていくのが好きです。
好きな島の目安・人口が少ない・信号がない・コンビニがない・離島…
島を旅するのが好きで、どんな島に旅しようか決めるときにけっこう気にするのが、人口です。日本の場合、人口によってだいたいそこに何があるかわかります。それは島でも島じゃなくてもそうですが…
具体的には、経験的に人口が1000人台の島だとコンビニはありません。ちゃんとしたスーパーマーケットもありません。たいてい何でも売っている商店があるだけです。人口が10000~30000人くらいだとパチンコ屋とかカラオケボックスがあったりします。地元の人向けのスナックみたいなのも現れ始めます(1000人台の島だと民宿や旅館の食堂が島の男達の飲み場所も兼ねていたりします)。50000人を超えると、マックスバリューはありますが、イオンはありません。ドラッグストアもあります。
横道にそれますが島や村の中心地を探すのは簡単で、役場・警察署・消防署・郵便局・JAがあるところです。いい方を変えると数百人の島でも村でも、それが中心地であれば、郵便局は日本全国どこにでもあります。そういう点では郵便局ってすごいですね。で、町の中心地にはたいてい食堂や雑貨店があります。
なので、島で宿を探す時のひとつの目安は、港や空港からの距離と、島の中心地がどこかということです。
さらに横道にそれますが一見してもわからないことですが、NTTと携帯電話と電力会社の施設は島の中心地から少し離れたところにあります。それが何の関係があるかというと、NTTと電力会社の施設があるということは、その従業員が定住・駐在・出張しているということなので、そのあたりにも宿や食堂や雑貨店がある可能性が高いということです。
いよいよ本題ですが、ぼくが好きな離島は人口100人台のところです。なので、郵便局と雑貨屋はあります。それ以外はありません。信号もありません。いえ、正確にいうと宿はあります。JAもあります。警察も消防もあります。漁協もあります。自販機もあります。
信号がないというのは、ぼくが行きたい島の目安として大切なものです。これは車が少ないということで、「信号なんかなくってもみんな安全に走るさ」ということなのです。もっとちゃんというと本当は1000人台の島でも信号が必要ないところはたくさんあるのです。ただ、子供達の教育上「高校で那覇に行ったら困らないようにしないとさあ」という理由で、信号を設置しているのです。
コミュニティを維持するためのルールが少ないとか、ルールのための設備が少ないということは、より効率的で自由で住みやすい可能性が増えることなので、ぼくはそういうところが好きなのです。逆にルールやマナーでがんじがらめの場所というのは苦手です。
なぜ人口が少ない島が好きなのかという前に、なぜ島が好きなのかというのは、そこが外部のコミュニティと物理的に隔絶されているからです。ぼくはそこにかすかに、桃源郷とかシャングリ・ラのような人が辿り着くのが難しい楽園の雰囲気を感じとります。
外部と離れているのとひっついているのでは、気持ち的にだいぶ違うと思う理由は、韓国人と日本人の国境というものへの感覚が違うんじゃないかと推測されるのと、理屈としては同じです。
物理的に外部と離れていると、外から入ってきた人はすぐにわかります。それがコミュニティ全体の安心感に繋がっていると思います。反面、外部に対しての警戒心が強いとか、排他的であるともいえるかもしれません。ぼくはそういう感覚を肯定的に受け止めています。
では次に人口。なぜ人口が少ない島が好きかというと、ぼくの勝手な仮説というか実感として、人は稀少なものをありがたがる傾向があって、それは人であってもダイヤモンドであっても、同じではないかと考えているからです。ちょっといい方に角が立つので、別ないい方をすると、人は、人口密度が高いか低いかで他者に対する認識を変えるんじゃないかとぼくは考えているのです。
たとえば渋谷のセンター街とか通勤時間帯の埼京線とかでは、人は他者を「うっとおしいなあ」と感じる(そう感じている人が多いんじゃないかなあとぼくが思っているだけかも…)のに、峠道を一日歩いて、その日初めて向こうから来た人に対しては「あぁ人だ。どうも、どうも!どちらから来たんですか?」と振る舞ったりするんじゃないでしょうか。
島でも同じことが起きていて、宿や店などでもすぐに顔を覚えてもらえて、だんだん馴染んでくるといろいろ声をかけてもらえます。
実際にぼくが人口の少ない離島を旅するときは、できる限り1週間以上滞在するようにしています。たとえばですが、10日間の休みがとれたとして、宮古島と池間島に5日ずついるということはせずに、池間島に10日間いるようにするということです。
島を旅すると最初の2、3日は、島の人がぼくのことを「あぁ旅行者だな」と認識するのが伝わってきます。
5日目くらいで、「あぁ、あんたは●●さんとこに泊まってる人だね。どこから来たんだい?」ということになります。島の人はぼくのことを個人として認識したことがわかります。そしてどこどこに泊まっている東京から来た人(実際は神奈川といってもわかってもらえないので、横浜とか東京とかいうことが多いです)と認識されたわけです。
5日目以降は、島の人と突っ込んだことをいろいろ話すようになります。お互いの職業とか家族とか、そういうことを話します。そうすると島の人が「こいつは悪いヤツではなさそうだ」と認識するのがわかります。このあたりから、島の人がいろいろ話してくれて、優しくしてくれるようになります。優しくって別に膝枕して頭を撫でてくれるわけじゃなくて、お茶でも飲んでけとか、黒糖をやるからもってけとか、レンタカーのガソリン代はいらないとか、立ち寄り温泉の値段を安くしてくれるとか、まあそんなことです。
島の人に受け入れられる感じとか、そこまでの島の人のぼくに対する気持ちが変わっていく様子が、ぼくにとってはおもしろいんです。そんなわけで、ぼくは島を旅するのが好きです。
島に行くたびいつもすごいなと思うのは、近くに陸や島がない、孤島のようなところだと、昔の人はよくこんな島に移り住んで暮らしたな、と人間のたくましさに感心します。
歴史の本を読むと、かなり以前、紀元前からずーっと、中国・台湾・沖縄・フィリピン・インドネシアあたりの島々、もっとミクロネシアとかポリネシアもそうですけど、人が行き来していたようです。まあそりゃそうです。人が移り住んだんでしょう。でも、実際エンジンも帆船もない頃に丸木舟かなんかで、何千キロも航海したというのはすごいことですよね。
それから日本の歴史という点から見ても、日本が西洋に目を向ける前は、主に中国に目がいっていたわけで、その頃の日本人にとってみれば、中国からフィリピンあたりというのは今よりもずっと近い感覚だったのかなあ、なんて思ったりします。
とりとめもなくそんなことを考えるのも島旅の楽しさです。
島好き、離島好きな人は一定数いるみたいで、それぞれがそれぞれの魅力を感じて島を訪れているんだと思います。それだけ魅力のある場所だということはいえるかもしれません。

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人はなぜ海に漕ぎ出したんだろう? 補陀落渡海・浄土・桃源郷・リスク
離島を旅するたびに感じるのは、昔の人は、今のような動力がない船で、どうやってこんな絶海の孤島に辿り着いたんだろうか?ということです。それはテクニックももちろん、なぜそんなリスクを冒したのかということに興味があります。もちろん生きるために魚を獲らなければいけなくて、より遠くに漕ぎ出さなければならなかったということはあるでしょう。あるいはたまたま漂流して辿り着いたということもあるでしょう。
海洋史によると、ずいぶん昔から、ポリネシア、ミクロネシア、フィリピン、台湾、中国、琉球列島、日本と人間が行き来していたといわれています。
さて、ここで話が変わるのですが、海が好きなので、海辺の寺社仏閣にときどき行きます。そんなに信仰心があるわけではありません。
そんな流れでいつ頃からか補陀落渡海(ふだらくとかい)のことを知りました。
補陀落渡海のことはウィキペディアから引用すると次のとおりです。
概要
この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。
最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという[1]。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
渡海船
補陀落渡海に使う渡海船についての史料は少ないが、那智参詣曼荼羅には補陀落渡海が描かれており、補陀洛山寺には復元された渡海船が置かれている。これによると、一般的な貨客のための渡海船とは異なり、和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に四つの鳥居が建てられている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあり、この場合は門のそれぞれに「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」との名称がある。
箱の中には三十日分の食物や水とともに行者が乗り込むが、この箱は船室とは異なり、行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。図には帆が描かれているが、一般には艪、櫂なども含めて航行のための道具は備えていない。これは、生還することなく遺骸となっても戻ってこないことが浄土へ至った証との思想に基いている。沖合まで伴走船が曳航した後、人々が海流に流されて漂流していく船を見送る。
思想的および地理的背景
仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。
浄土信仰が民間でも盛んとなった平安後期から、民衆を浄土へ先導するためとして渡海が多く行われるようになった。渡海は概ね黒潮が洗う本州の南岸地域で行われた。特に南紀・熊野一帯は、それより以前から密教の聖地、さらに遡って記紀の神話も伝わる重層的な信仰の場である。『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。黒潮は地球規模でも強い海流の1つであり、この流れに漂流するとかなりの確率でそのまま日本列島の東側の太平洋に流されていき、戻ってくることがない。 ごくまれに南下する親潮により南への循環流に乗り、再び日本の沿岸へ漂着することがある。
琉球における影響
『琉球国由来記巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間(1265年~1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。また琉球に漂着した日秀上人は、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったり、金武町に金武観音寺を建立した。
以上が引用部分です。
補陀落渡海のことを知って、ぼくが最初に連想したのは、即身成仏のことです。修行僧が死を前提とてして厳しい修行をする事例は多くあります。次に連想したのは、この海の向こうのどこか遠くに浄土があるんだという思いです。こういう発想の枠組み自体は、桃源郷とかシャングリ・ラとか古今東西いろいろな話が多く見られます。
また、海や山といった自然が信仰や修行の場や対象になることもよく見られることです。
さてさて、ここからはぼくのつまらない考えなんですが、ぼくは、海にいるときに、この太平洋の先に本当にアメリカがあるんだろうか?と考えたりします。もちろん地図にはそう書いてありますし、googleマップで調べればそう出てきます。
いやでも本当だろうかと…
実際ぼくはそれをやっていないし、自分の目で見たわけじゃない…
それはそういわれているだけで、実は別な世界が広がっているんじゃないか?
あるいは、途中で別の次元の世界に入り込んでしまうんではないか?
はたまた何かの拍子に、まだ人間が踏み込んだことのない未知の場所に着いてしまうんじゃないか?
そしてそこは桃源郷のように、みんなが幸福に暮らしている理想の世界があるんじゃないか?
21世紀に生きるぼくでさえ、海の向こうの行ったことのない土地についてこんな考えを巡らせるんです。ましてや世界全体の知識や情報が不完全だった昔ならなおさらだったんではないでしょうか?
そして、飢饉や人口増加や政治的に追放されるなど、今の土地で生きるのが厳しい時に、もしかしたら人は、桃源郷、いやそこまで素晴らしくなくても、今よりもマシなまだ見ぬ土地目指して危険な航海に出たかもしれない。それは十分あり得るんではないかと思ったりするのです。

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海辺の仲間との距離感
ウォータースポーツをします。
サーフィン、スキューバーダイビング、シーカヤック、セイリング…
よく独りで、ときどき仲間と…
で、ぼくはだいぶオジサンなので周りの海遊び仲間もオジサンが多いのです。たいていサーフィン歴30年とかスキューバーダイビング歴40年とかそういう人ばかりです。
そういう人と一緒に遊んでいて楽しいのは、その距離感。
よくスキューバーダイビングに行く友達は、なんとなく頃合いのいい時期に連絡が来ます。ダイバーはわかると思いますが、伊豆あたりで潜るとするとコンディションがよくて魚が多く見られる時期ってだいたい決まっています。だからそういう時期にふとメールが来て、「来週末に行こうかー」ってなって、「アレが見たいから伊豆ならこのポイントで、このショップで、じゃあ予約しとく」という具合ですぐ決まっちゃいます。
ダイビング当日も現地集合。
基本無愛想。会話は必要最低限。
話すとしても、今ちょっと右足が腫れてるから、あんまり長距離は泳げないかも、みたいなこれからのダイブに必要な事実だけ。
水中でも自己責任が前提だし、お互いに相手の技術と力を知ってるから、付かず離れず。でもトラブルがないかは目の端で見ている感じ。
相手がサインを出しているその先を見れば、珍しい魚がいて、いいたいことはすぐわかる。
相手が一心にあるところを見ているとだいたい何がいるかわかる。
相手の目配せで何をいおうとしているのかわかる。
ダイビング後も宿に向かって、温泉に入って、酒を飲みながら飯を食う。話はするけど、別にはしゃぐでもなく愚痴るでもない。
翌朝、別れるときも、じゃあまた、って素っ気ない。
ぼくは、こんな海仲間との付き合いが好きです。その距離感が好きです。
相手に頼らず、頼られず、それぞれが物事をよく知っていて判断力がある、そんな関係って、とても気持ちがいいものです。無駄な説明をしなくていいし、簡単な説明でも深い理解を共有できるのです。
双方が独立していて、双方が互いに敬意を持っている関係、そんな関係が好きです。
海にいるとわりと漠然としたことを考えてしまうワタクシ…
あー、海は広いな大きいな…
今日も海や空を眺めながら一日ボーッとしていました(いつもたいていボーッとしてるんだな、ボク…)。
そういうときに、人の一生ってなんて儚いんだろうと思ってしまいます。
家のそばの海からは、鎌倉の稲村ヶ崎が遠くに見えますが、それで思い出すのは新田義貞であり源頼朝であり鎌倉幕府でありその後の日本の歴史です(オレってヘンですかね?)。
ざっくり1000年くらい前には、事実としてここにそうした人々がいて、斬ったり斬られたりをしていたんですもんね。そうした人々の喜びや悲しみは、今はどこにも存在していません。いくら頑張っても、いくらその時代に栄華を極めても、死んでしまえばすべては無かったかのようです。
ちなみに稲村ヶ崎の岸壁は、崖崩れ防止工事でコンクリートで固められているので、一面白く見えます。なので、ボートなどで海を走っているときの目標にすることが多いんですね。
話はさらに変わりますけど、会社や組織で上の人に尻尾振って出世する人もいますし、力ずくで他人を押さえ込む人もいます。頭はいいんだけどなんとなく他人から信用されていないとか、人望がないという人もいます。別に出世なんかしたくないんだけど、人柄や能力で大きな責任を担うことを求められる人もいます。得意なこと、長所短所、能力、個性は人それぞれですね。同じ人って一人もいませんもんね。なんとなくその人の持っている器に合わせた役割が来るように思えます。総理大臣とか社長とかやって、すぐ代わっちゃう人がいますけど、それは器じゃないのに役割が来てしまったのかもしれません。
もちろん成長することにより、人はどんどん変わっていけるわけですけど、その人の地みたいなものはありますね。それはやっぱり個性とか器みたいなもんだと思います。その地がもとにあって、志や信念があれば、成長によっていい方向に伸びるということはあるかもしれません。
一方で、人は多かれ少なかれ競争心やプライドがあります。欲もあるし、他人を妬む心や嫉む心もあります。それが志や信念を邪魔しちゃうというのもよく見かけますね。
なかなか正しい道を歩むのは難しい感じがします。
でも、正しかろうと正しくなかろうと人生は人生。すべては100年もすれば、この世に存在せず、誰も憶えてはいないでしょう。
何はともあれ家ではのんびりしています
平日は町へ通勤し、土日は海辺の我が家で過ごす日々をおくっています。
若い頃は町で暮らし、金曜の夜に海に行き、土日に海で遊んで月曜日の朝、仕事に直行するということをやっていましたが、いろいろ考えて海辺に住むことにしました。
そうすると違ってくることが多々あります。
毎日海を見られるのがいいですね。
ぼくのように海遊びが趣味なタイプにとっては海況を目で見られるというのは、たとえ週末しか時間がとれなくても、その週末にどんなウォータースポーツができるのか予定できるだけでもずいぶん違います。週末するのが、サーフィンなのかスキューバーダイビングなのかシーカヤックなのか、だいたい予定が立つのです。
もちろんサーフィンなんかだったら朝早く起きて1時間くらい乗って仕事に行くこともできます。
それになにより、毎日少しでも海を眺められて、潮風にあたり、波の音を聞きながら晩酌できるというのは、海好きにとっては最上のことでしょう。
週末のんびりできるのもいいですね。
金土日と海に遊びに行く状態は旅行ですけど、今は我が家の暮らしです。何時に起きてもいいし、何かしてもいいし、海を眺めながらボーッとしてもいいといった具合に、旅先のように制約されることがありません。もちろん旅行に出てもいいわけです。行きたい海はたくさんあるので…
この自由な感じは完全にオフになった気持ちがベースにあるから出てくるのかなあって思うんです。
金曜日の夜は、シャワーを浴びた後、デッキで海を眺めながら、潮風を浴びながら、波の音を聞きながらビールを飲みます。明日は何をしようかなあなんて思いながら…
土曜日は5時か6時くらいに起きます。で、海の様子をチェックして今日やることをだいたい決めます。海に出られるか、サーフィンかスキューバーダイビングかシーカヤックかセイリングか…
朝ごはんを食べて、コーヒーを淹れて、ゆっくりします。
それから支度をして海に出るのがだいたい8時くらい。夕方までたっぷり遊べます。
夕方帰ってきたら、後は金曜日の夜と同じです。
日曜日も同じです。海で遊べれば遊びますし、海に出られなければ家のことをやります。
とにかく家では海のことを考えていますし、海でどれほど楽しく遊べるかを考えていますし、のんびりしています。慌てず、○○をやらなきゃいけないと思わないようにしています。
慌てないというと少しニュアンスが違うので、正確に書きます。家では努めて今やっていることに集中するようにしています。コーヒーを淹れているときに掃除のことを考えず、パソコンをやっているときに洗濯物のことは考えないようにしているということです。意識を目の前のことに集中することで、のんびり感はすごく増します。
逆にいうと、いろいろやらなければいけないと焦って気もそぞろだと、気持ちも疲れるし、一日が終わったところで振り返っても忙しかったけど何をやったか覚えていないということになるんだと、気がつきました。それでそういうの、やめることにしました。少なくとも家では…
気分が切り替わるのもいいですね。
会社から我が家までは電車で1時間30分以上かかります。我が家に近づくにつれ、電車の窓の外の景色がビルとネオンばかりだったのが、だんだん低層住宅が多くなり、山々が見えるようになり、なんとなく海の雰囲気が感じられるようになってきます。この電車に乗っている間にぼくの気持ちは、仕事からプライベートに完全に切り替わります。ぼくは電車の中でときどき瞑想をしたりしますから、ぼくにとって電車は移動する機械というよりも気持ちを切り替える機械のような感じです。というかぼくとしては「こっちの楽園の世界にワープ」している感覚です。
同僚の中には家でも仕事をするとか、メールを処理するとか、仕事のことを考えるという人がいますが、ぼくの場合、電車の中で「こっちの楽園の世界にワープ」してしまったので、仕事のことは考えません。
その切り替えをスムーズにやるのにちょっとしたコツがありまして、金曜日の夜、会社を出る1時間くらい前に、来週やることの見通しをだいたいつけてしまうんです。月曜日はこれをやって、火曜日はこれをやって、みたいな感じです。そうすることで月曜日に頑張ればいいから今週の仕事はおしまい、シャッターガラガラピシャリと、気持ちが仕事を離れやすくなります。
海辺の駅に着くと、海こそ見えませんが空気は潮の香りがしますし、風は潮っぽいんです。時間はどことなくゆっくり流れている気がします。すぐにでも短パン・Tシャツ・ビーサンに着替えたくなります。あぁ自分は自由なんだと感じる瞬間です。
通勤時間の1時間30分以上を無駄と考えるかどうかは、その人の価値観によると思うんですが、海辺で楽しく暮らすことがぼくの人生の目的なので、無駄だとは思っていません。むしろ海辺の家の近くに職を得るにはどうしたらいいかを考えています。
こんな自分の生活について、自分では満足しています。それをわざわざ世間様に公開する必要があるかということなんですが、ぼくは仕事のために仕事をしている人や、金や世間体や自分のプライドのために仕事をしている人の生き方に賛成していません。はっきりいうと軽蔑しています。サラリーマン向けの自己啓発本にはそういう価値観の著作が多いので、若い人や真に受けやすい人に、そうじゃない人もいるということを知ってもらってもいいんじゃないかと思います。

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マジメにやるの、やめよう
自分でいうのもなんですけど、わりとマジメな性格だったんじゃないかと思うんです。いや、マジメというのとは違うかな…他人に嫌われたくないから、自分の居場所が欲しいから、一応ちゃんとしようとしてきたのかなーって思います。
で、ご想像がつくと思いますが、そういう性格だと、ときに気を使いすぎたり自分を抑えたりして疲れます。って、自分でいうのもなんですけど…
ぼくは海が好きで、自然の中にいると心が安まるんですが、それって、この他人に嫌われたくないことから解放されるからかもしれないって、いつの頃からか、そう考えるようになりました。
もちろん社会の煩わしいルールに従いたくないけど従わなければならない状況から、しばし逃げられるということも、海に出る理由ではあります。
で、そういうのってよくないんじゃないかと思いたち、他人に好かれようとか、いい人に思われようとしないように心掛けています。
たまにすごくマイペースで自分のことばかりいう人がいますが、そういう人にあったら爪の垢でもいただきたいくらいにマネするポイントをチェックしています。
友人にそのことを話すと「お前さあ、頑張る方向まちがってんじゃない?」といわれます。確かに社会の常識的にはそうかもしれませんね。でも、ぼく的には、鈍感で、マイペースで、自分勝手で、マジメじゃなくて、不義理で、頼りにならない、だらしない、ダメな人になりたいんです。もちろん法律には従わなければなりませんけど…
その方が、自分は楽だし、シアワセです。他人がどうだろうと、自分がよければいいじゃないか…って最近はすごくそう思うんです。
って、そういう人が増えると他の人は迷惑でしょうねえ。
それは裏返すと、日本では、法律には書いてない、他人に迷惑をかけない気遣いとかマナーがいっぱいあって、それをちゃんとやる人は「大人」「いい人」「素敵な人」「頼りになる人」っていわれますけど、それをやり過ぎると結構疲れますよね。いやーそこまでやらなくてもいいんじゃないの?法律守るので十分じゃないの?って思うんです。
ちゃんと毎日働いて、税金も払って、子供も育てて、親の通院にも付き添って、家の前の道も掃き掃除してって、もう十分でしょう…
ぼくの考えの向いている方向を堕落と呼ぶか、個人の自由を最大化するよい行為だとするかは、多くの社会構成員の思いなのでアレなんですけど、どちらと考えるかで10年もすると社会自体はずいぶん変わってくると思います。

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