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自然・生物・人間・社会・正しさ



 これまでもなんとかなるさというテーマで文章を書いてきました。
 でもまだそのテーマで書いてみたいのです。
 ぼくはスキューバーダイビングやシーカヤックやサーフィンで何度も死にそうになりました。それ自体は怖いけど、実はそんなに怖くはないんです。いくらかの確率で死ぬかもしれないってわかっていて海に出るからです。
 ぼくにとっては、別なことの方が怖いです。
 それはたとえば仕事上で誰かに悪意を持たれて罠にはめられるとか、知り合いに恨まれて嫌がらせをされるとか、近所の人に憎まれているとか、別に身に覚えはないけど何か攻撃されるとか、そういうことです。
 友達に「海に出て怖くないの?」って訊かれたりしますが、いやいや、社会の人間関係のドロドロの方がはるかに怖いし、それって見えないことも多そうだし、どう対処したらいいかもわからないから、ずっと大変だって思います。
 父親がよく「誠実に勝る良策はない」といっていましたが、周囲の人から悪意や恨みを抱かれてしまうことを念頭に置くと、その言葉は確かにそうだと思います。誠実さというのは、数少ない防御策のひとつのように思えます。
 自然の脅威や力のすごさは、初めからわかっていてどうしようもないことですが、他人からの悪意や恨みというのは、自分の行いのせいかもしれないので、そっちは気になります。なんとか防げたかもしれないから…
 それでもなお、人の悪意や恨みや攻撃というのも、まあたいしたことがないと思うんです。
 完璧な人っていないでしょ。誰でもミスや過ちはありますし…それを理由に悪意を抱かれても、「すみません」と謝るしかないですね。それでも恨んでいたら、まあ、どうしようもないですね。

 それに、所詮、人の世の中は生き残りをかけての生存競争です。自分が生き残ろうとするのは、当然のことです。それで恨まれても「だからどうした」「しょうがない」わけです。
 この理屈をやり過ぎると他者に迷惑をかけますので、あくまでもバランスが大切だとは思いますけどね。
 いいたいのは、極度にナーバスになってもしょうがないし、完璧にいい人でいようと思っても、それは土台、無理な話だということです。
 世の中は基本的に混沌としていて、理路整然としている部分はごく一部だと思うから…
 自然は自然の摂理の中で混沌としていますし、その中で生きる一生物である人間も社会も混沌としています。人間が作った正義や倫理って、地球全体で見ればすごくちっぽけなものだと思うんです。そんな正義や倫理の中で絶対に正しくても、生物として正しいかなんてわからないんじゃないかな…
 もちろん他者に迷惑をかけるのはよくないし、様々な宗教が唱える善をぼくは尊重したいけれども、ざっくりした感想だけど、そうした善は、大筋生物としての人間を生かすような主張になっている気がします。

 話が長くなりましたが、生きているのが善で、いろいろ過ちがあるかもしれないけど、それはしょうがないということだということ。だから気にしないし、死んでしまえば何だって同じです。

 机上の理屈で正しいとかなんとかいってばかりいる人は、一度荒れた海に出てみるといいです。自然の力は圧倒的で、その前では人間の考える理屈なんて塵みたいなもので、しかも人は自分が生きるためになんでもするってわかりますから…












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世の中のことはたいていなんとかなる



 以前にも似たような記事を書いているんですが、そういうことを書くのが好きなので、何度も書きます。
 これまでウォータースポーツを30年近くやってきてつくづく思うんですが、まあ、「なんとかなる」ということです。死ななければなんとかなるということです。スキューバーダイビングとかサーフィンとかシーカヤックとかやってれば、慎重な人でも一度はヤバいとか死にかけたという目に遭うものです。でも、まあなんとかなっているわけです。生きているからこんなことを書けるわけで、なんとかなっていないで死んでいる人もいるので、生存者の意見といえるかもしれません。
 それはともかく、逆によくないのはヤバい状況(危機的な状況)で取り乱したり、パニクったりすること。
 そうなるとまだまだなんとかなるかもしれないのに、その可能性を自ら潰してしまいます。
 まさに敵は自分自身。
 自ら、自分の墓穴を掘るとはこのこと。
 それを別な書き方にすると、パニックに陥らず、心の平静を保てば、最後の最後まで可能性はあるわけです。最後の最後と死との一線をぼくは超えたことがないので、どこまで心の平静を保てるかわかりませんが、おそらく微分的にそのギリギリはグレーゾーンとしてずっとぼくの目前に立ち現れているんじゃないかと想像できます。
 どこまで心の平静を保てるんだろう…
 でも、グレーゾーンのぎりぎりまで心の平静を保てば、そこまではなんとかなっているわけで、それはそれでいいんじゃないかと思うのです
「なんとかなるさ」というのは、死の間際でなくても普段の生活で使えるものでして、その日一日がなんとかなればいいや、後はなんとかなるさと考えると少し気持ちが楽になります。
 ぼくの気持ちとしてベースに流れているこの「なんとかなるさ」という信条の多くはウォータースポーツによって作られたものだと感じます。












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ぎりぎりの状況・気持ちの持ち方・生き方…



 ウォータースポーツやアウトドアスポーツをしていて幾度となく経験していることがあります。それは「あぁこんなことするんじゃなかった。どうしよう。でもやるしかない。」ということです。
 抽象的なので具体例を挙げてみます。
 ぼくは海が好きで海辺歩きをするんですが、日本の海辺というのは、砂浜があって岩場があって、また砂浜があってということが繰り返されている地形が多いんです。なので、海辺歩きをしていると必ず岩場を登る場面があります。あるとき砂浜を歩いていると、先の方に急な岩場というか岸壁が見えていました。このままいくとその岸壁を登らなくてはなりません。あるいは砂浜から陸地に入り、陸側から岸壁を越えるルートがあるかもしれないので、そっちのルートをとる方法もあります。その決断をするなら今という状況。
 こういう状況の時、ぼくはたいてい判断を先送りにしてしまう癖があるので、ズルズルと砂浜を歩いてしまいます。
 で、だんだん岩場に来て、いよいよ岸壁っぽくなってきます。岩を見るとところどころ急ですが、なんとか登れそうな気がします。でも、結構急で、確実に手がかり足がかりが続いていると断定できません。
 こういうときにぼくはたいてい前に進んでしまいます。たとえばぼくの高校からの友人のA君は慎重な人なので、彼なら絶対に引き返しているでしょう。
 岩場を登り始めます。だんだん登っていって、この先、急で手がかり足がかりが少なそうです。来た方を振り返ると結構な高さで、今来たところを引き返すのはとてもできなさそうです。岩場というのは、たいてい登るよりも下る方が大変なものです。
 下の方、どうでしょうざっくり15mくらい下には岩場と海が…落ちたら、頭を打ったら死ぬでしょう。打ち所がよくても骨折は免れないかなーって思います。
 また上を眺めます。手がかりになりそうな岩を探しますが、なんとか指が入るかどうか…つかめず滑ったら、あの岩場混じりの海…
 そんなことを想像すると身体がすくんでしまって、手が震えてくるんです。
 そう、ぼくの状況は、引き返すこともできず、前に進むのもリスクがあり、そのままとどまってもいずれ力尽きて落ちてしまう、そんな感じなのです。
 過去のぼくの経験では、こういうときに一番悪手は、パニックになることです。それさえ避ければ、あとは前進と後退のどちらがリスクが低いか冷静に見積もって、一度決断したら恐怖心を無にしてただ目の前の一歩に集中するしかない、そういうことは学んでいました。
 登った方が落ちるリスクが少ないことは、すぐに判断できました。
 次は恐怖心を無にして、手を次の岩に移すことです。落ちるとは考えない、なんとかなる。今は手を動かし足を動かそう、それに集中しよう。
 右手を動かし、左手を動かし、右足を動かし、左足を動かす。それを繰り返してぼくはなんとか岩場を登りきったのでした。
 アウトドアスポーツをする人は、たいていこれに類する経験をしているんではないでしょうか?
 そして、それは単に危機を乗り切った体験談というだけではありません。ぼくの場合、そういう経験が実生活にも生きているんです。
 家族や自分の重病や事故、自分の仕事での困難な状況、生きていれば、いろいろなことがあって、時につらい状況もあります。引き返すこともできず、前に進むのもリスクがあり、そのままとどまることもできない、そんな状況に遭遇することは、ままあります。
 そんなときは、パニックにならず過去を振り返らず、将来のリスクを恐れず、ただ今日の今に意識を集中する、そしてそれを繰り返す、そうすることで、事態を打開できることが結構あります。というかぼくはそうしてきました。
 たぶん生きるとか何かに向かって進むという、不可逆的な方向性を持っていることにはたいてい当てはまるような気がします。











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朝、カーテンを開けると海が…



 毎朝起きるとすること、そう誰もがすることでしょうが、カーテンを開けることが好きです。
 特に晴れた日は…
 カーテンを開けると海が望め、朝陽と共に海面がきらめいています。
 ぼくはもう30年近くウォータースポーツをしていますから、その日の海況が気になります。波の高さ、うねりの強さ、風向き、潮汐、定置網の位置…
 こうして海が眺められて、とりあえず今日は元気です。
 それだけで幸せです。









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空気・水・社会、そして暮らし…



 海辺に住んで、街に仕事に行っています。
 もちろん地元のそばに仕事があればその方がいいのでしょうが、なかなかすべてが思うままにはいきません。
 街のリズムに従って暮らしてしまうと、ときとしてイライラすることがあります。あれはなんなんでしょうね?
 ぼくなど友達の間ではゾウガメのようにノンビリしているとの評価が定着しているようなのですが、それでも一応内心ではイライラしていたりします。
 話は変わりますけど、植物というのは同じ種類でも、育つ環境によって~それは土や気温や空気や太陽によって~育ち方や味が変わってくるんだそうですね。まあ、それはわかる気がします。
 人もそういう面があるのかなーなんて思ったりします。
 もともとの性質や性格はもちろんあるでしょうが、ノンビリしたところで暮らすのと、人の多い東京の都心部で暮らすのとでは暮らしのリズムが違うでしょう。それによってストレスの度合いが変わるということもありそうです。
 空気や水も違うでしょう。毎日確実に身体に取り入れるものですから、空気と水がきれいなところと汚れたところでは、おそらく10年も暮らしていれば、体調も変わってくるんじゃないかなって思います。
 アトピーの方やアレルギーがある方が、都会から田舎に引っ越したら症状が少し治まったという話を耳にしますが、ストレスとの関連がある病気などは発症に変化があるかもしれません。
 ぼくは気分的に落ち込んだり悩んだりすると、積極的に海に出るようにしています。そうすることで気持ちの中で何かが確かに変化します。ずいぶん楽になるのです。
 人はときとして自分ではどうしようもなく悪い状況にはまってしまうことがあります。そんなとき、あるタイプの人がある状況の時、自然に接すると、自然から力を分けてもらえるということが、あるように思います。経験的に…
 ぼくの実感としては、潮風を吸って、陽の光を浴びて、海水に浸かって、海辺のノンビリしたリズムの中で暮らすとずいぶんストレスが緩和されます。自分に合った気候とリズムの中で暮らしているという実感があります。
 都会の満員電車でギュウ詰めなとき、人いきれや汗や香水のニオイでで充満した車内、そんな不快な状況の中で、ぼくは、海辺の空気や波の音を想像します。そうすると少しだけ気持ちを緩めることができるのです。












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入江はぼくにとっての楽園



 シーカヤックは小回りのきく船ですので、岩場や小さな入江にも入っていけます。
 そんな利点を活かして、ぼくは陸からはアクセスできない誰も来ない入江に行くのが好きです。
 そして、そこでボーッとするのが好きです。

 わかる方はわかると思いますが、人が来ない、あるいは外部から人が来るにしても来る方向が特定されているというのは、なかなか心が安らぐものです。生物の本能でしょうか…それとぼくの祖先が武士だからでしょうか…それとも単にぼくの個人的な傾向のせいでしょうか…

 ぼく自身思うのですが、家の中で自分独りになる時間は結構とれるのですが、屋外で、しかも自分が好きな海で、独りになれる時間ってあまりとれないんです。誰も来ない入江だとそれができるわけですね、思う存分。
 そしてその入江一帯はぼくの使いたい放題です。
 水場もかまどもテントを貼る場所も自分の思うままにできます。
 これは子供の頃喜んでやっていた秘密基地遊びそっくりではありませんか…
 あるいは物語で読んだ、桃源郷や竜宮城やシャングリ・ラにさえ、ぼくには思えます。
 スノーケリングしたり、魚を獲ったり、釣りをしたり、食事を食べたりはするんですが、それ以外の時間はボーッとしています。
 聞こえてくるのは、波の音と鳥のさえずりくらい。そんな中でボーッとしています。
 誰にも干渉されず、自分の自由。こんなことが今の世の中ではとても贅沢なことだというのが、なんだか不思議に思えます。











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健康で、海で身体を動かせて、よく眠られれば、それでシアワセ…




 最近やっと気温も湿度も少しさがりやっと過ごしやすくなってきました。
 だいたい台風のことを除けば10月・11月というのは海遊びに最適の時期でして、仕事が休みの日で天気がいい日は海に出たいと思うわけです。
 遠い親戚の法事なんかも、できればなんとか2月あたりにズラしてもらえないかと不謹慎なことを考えてしまうほどです。
 思えばうちの子供が小さい頃は、運動会だの遠足だのの行事があって、「あぁ今日は海に出るといい日だよな」などと思いながら運動会の応援をしていたことを思い出します。うちの近所はお父さんがウォータースポーツをしていることが多くて、パパ友と話すと「今日はサーフィン日和だよね」なんつったりして、みんな同じことを考えているのでした。もちろん子供はかわいいけど、気候のいい日で休みの日というのもなかなか貴重なわけです。
 
 そんな日々なので、スキがあれば海に出ています。この季節は、砂浜にいるだけで、あるいは海辺を散歩しているだけでも気持ちがいいものです。
 海が穏やかならばスノーケリングかスキューバーダイビングかシーカヤックをやり、波があればサーフィンをやり、どれもできないくらい海が荒れていれば、海辺をジョギングしたり歩いたりしています。
 いやもうその気持ちがいいこと…
 暑くもなく寒くもないので、海が荒れていなければ、雨でも海に出るわけです。それでも気持ちがいいことに変わりはありません。
 朝から夕方まで海遊びで身体を思いっきり動かして「いや、もう疲れた、筋肉がきつい、腕が上がらない、脚も上がらない、ヘトヘト」というくらいまでにもっていくのが好きです。
 そして家に帰って、シャワーを浴びて、ビールを飲んで、夜の9時頃にスコンと眠るのがぼくにとってはシアワセな一日なのです











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好きな島の目安・人口が少ない・信号がない・コンビニがない・離島…



 島を旅するのが好きで、どんな島に旅しようか決めるときにけっこう気にするのが、人口です。日本の場合、人口によってだいたいそこに何があるかわかります。それは島でも島じゃなくてもそうですが…
 具体的には、経験的に人口が1000人台の島だとコンビニはありません。ちゃんとしたスーパーマーケットもありません。たいてい何でも売っている商店があるだけです。人口が10000~30000人くらいだとパチンコ屋とかカラオケボックスがあったりします。地元の人向けのスナックみたいなのも現れ始めます(1000人台の島だと民宿や旅館の食堂が島の男達の飲み場所も兼ねていたりします)。50000人を超えると、マックスバリューはありますが、イオンはありません。ドラッグストアもあります。
 横道にそれますが島や村の中心地を探すのは簡単で、役場・警察署・消防署・郵便局・JAがあるところです。いい方を変えると数百人の島でも村でも、それが中心地であれば、郵便局は日本全国どこにでもあります。そういう点では郵便局ってすごいですね。で、町の中心地にはたいてい食堂や雑貨店があります。
 なので、島で宿を探す時のひとつの目安は、港や空港からの距離と、島の中心地がどこかということです。
 さらに横道にそれますが一見してもわからないことですが、NTTと携帯電話と電力会社の施設は島の中心地から少し離れたところにあります。それが何の関係があるかというと、NTTと電力会社の施設があるということは、その従業員が定住・駐在・出張しているということなので、そのあたりにも宿や食堂や雑貨店がある可能性が高いということです。
 いよいよ本題ですが、ぼくが好きな離島は人口100人台のところです。なので、郵便局と雑貨屋はあります。それ以外はありません。信号もありません。いえ、正確にいうと宿はあります。JAもあります。警察も消防もあります。漁協もあります。自販機もあります。
 信号がないというのは、ぼくが行きたい島の目安として大切なものです。これは車が少ないということで、「信号なんかなくってもみんな安全に走るさ」ということなのです。もっとちゃんというと本当は1000人台の島でも信号が必要ないところはたくさんあるのです。ただ、子供達の教育上「高校で那覇に行ったら困らないようにしないとさあ」という理由で、信号を設置しているのです。
 コミュニティを維持するためのルールが少ないとか、ルールのための設備が少ないということは、より効率的で自由で住みやすい可能性が増えることなので、ぼくはそういうところが好きなのです。逆にルールやマナーでがんじがらめの場所というのは苦手です。
 なぜ人口が少ない島が好きなのかという前に、なぜ島が好きなのかというのは、そこが外部のコミュニティと物理的に隔絶されているからです。ぼくはそこにかすかに、桃源郷とかシャングリ・ラのような人が辿り着くのが難しい楽園の雰囲気を感じとります。
 外部と離れているのとひっついているのでは、気持ち的にだいぶ違うと思う理由は、韓国人と日本人の国境というものへの感覚が違うんじゃないかと推測されるのと、理屈としては同じです。
 物理的に外部と離れていると、外から入ってきた人はすぐにわかります。それがコミュニティ全体の安心感に繋がっていると思います。反面、外部に対しての警戒心が強いとか、排他的であるともいえるかもしれません。ぼくはそういう感覚を肯定的に受け止めています。
 
 では次に人口。なぜ人口が少ない島が好きかというと、ぼくの勝手な仮説というか実感として、人は稀少なものをありがたがる傾向があって、それは人であってもダイヤモンドであっても、同じではないかと考えているからです。ちょっといい方に角が立つので、別ないい方をすると、人は、人口密度が高いか低いかで他者に対する認識を変えるんじゃないかとぼくは考えているのです。
 たとえば渋谷のセンター街とか通勤時間帯の埼京線とかでは、人は他者を「うっとおしいなあ」と感じる(そう感じている人が多いんじゃないかなあとぼくが思っているだけかも…)のに、峠道を一日歩いて、その日初めて向こうから来た人に対しては「あぁ人だ。どうも、どうも!どちらから来たんですか?」と振る舞ったりするんじゃないでしょうか。
 島でも同じことが起きていて、宿や店などでもすぐに顔を覚えてもらえて、だんだん馴染んでくるといろいろ声をかけてもらえます。
 実際にぼくが人口の少ない離島を旅するときは、できる限り1週間以上滞在するようにしています。たとえばですが、10日間の休みがとれたとして、宮古島と池間島に5日ずついるということはせずに、池間島に10日間いるようにするということです。
 島を旅すると最初の2、3日は、島の人がぼくのことを「あぁ旅行者だな」と認識するのが伝わってきます。
 5日目くらいで、「あぁ、あんたは●●さんとこに泊まってる人だね。どこから来たんだい?」ということになります。島の人はぼくのことを個人として認識したことがわかります。そしてどこどこに泊まっている東京から来た人(実際は神奈川といってもわかってもらえないので、横浜とか東京とかいうことが多いです)と認識されたわけです。
 5日目以降は、島の人と突っ込んだことをいろいろ話すようになります。お互いの職業とか家族とか、そういうことを話します。そうすると島の人が「こいつは悪いヤツではなさそうだ」と認識するのがわかります。このあたりから、島の人がいろいろ話してくれて、優しくしてくれるようになります。優しくって別に膝枕して頭を撫でてくれるわけじゃなくて、お茶でも飲んでけとか、黒糖をやるからもってけとか、レンタカーのガソリン代はいらないとか、立ち寄り温泉の値段を安くしてくれるとか、まあそんなことです。
 島の人に受け入れられる感じとか、そこまでの島の人のぼくに対する気持ちが変わっていく様子が、ぼくにとってはおもしろいんです。そんなわけで、ぼくは島を旅するのが好きです。
 島に行くたびいつもすごいなと思うのは、近くに陸や島がない、孤島のようなところだと、昔の人はよくこんな島に移り住んで暮らしたな、と人間のたくましさに感心します。
 歴史の本を読むと、かなり以前、紀元前からずーっと、中国・台湾・沖縄・フィリピン・インドネシアあたりの島々、もっとミクロネシアとかポリネシアもそうですけど、人が行き来していたようです。まあそりゃそうです。人が移り住んだんでしょう。でも、実際エンジンも帆船もない頃に丸木舟かなんかで、何千キロも航海したというのはすごいことですよね。
 それから日本の歴史という点から見ても、日本が西洋に目を向ける前は、主に中国に目がいっていたわけで、その頃の日本人にとってみれば、中国からフィリピンあたりというのは今よりもずっと近い感覚だったのかなあ、なんて思ったりします。
 とりとめもなくそんなことを考えるのも島旅の楽しさです。
 島好き、離島好きな人は一定数いるみたいで、それぞれがそれぞれの魅力を感じて島を訪れているんだと思います。それだけ魅力のある場所だということはいえるかもしれません。











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人はなぜ海に漕ぎ出したんだろう? 補陀落渡海・浄土・桃源郷・リスク



 離島を旅するたびに感じるのは、昔の人は、今のような動力がない船で、どうやってこんな絶海の孤島に辿り着いたんだろうか?ということです。それはテクニックももちろん、なぜそんなリスクを冒したのかということに興味があります。もちろん生きるために魚を獲らなければいけなくて、より遠くに漕ぎ出さなければならなかったということはあるでしょう。あるいはたまたま漂流して辿り着いたということもあるでしょう。
 海洋史によると、ずいぶん昔から、ポリネシア、ミクロネシア、フィリピン、台湾、中国、琉球列島、日本と人間が行き来していたといわれています。
 さて、ここで話が変わるのですが、海が好きなので、海辺の寺社仏閣にときどき行きます。そんなに信仰心があるわけではありません。
 そんな流れでいつ頃からか補陀落渡海(ふだらくとかい)のことを知りました。
 補陀落渡海のことはウィキペディアから引用すると次のとおりです。
概要
この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。
最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという[1]。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
渡海船
補陀落渡海に使う渡海船についての史料は少ないが、那智参詣曼荼羅には補陀落渡海が描かれており、補陀洛山寺には復元された渡海船が置かれている。これによると、一般的な貨客のための渡海船とは異なり、和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に四つの鳥居が建てられている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあり、この場合は門のそれぞれに「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」との名称がある。
箱の中には三十日分の食物や水とともに行者が乗り込むが、この箱は船室とは異なり、行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。図には帆が描かれているが、一般には艪、櫂なども含めて航行のための道具は備えていない。これは、生還することなく遺骸となっても戻ってこないことが浄土へ至った証との思想に基いている。沖合まで伴走船が曳航した後、人々が海流に流されて漂流していく船を見送る。
思想的および地理的背景
仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。
浄土信仰が民間でも盛んとなった平安後期から、民衆を浄土へ先導するためとして渡海が多く行われるようになった。渡海は概ね黒潮が洗う本州の南岸地域で行われた。特に南紀・熊野一帯は、それより以前から密教の聖地、さらに遡って記紀の神話も伝わる重層的な信仰の場である。『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。黒潮は地球規模でも強い海流の1つであり、この流れに漂流するとかなりの確率でそのまま日本列島の東側の太平洋に流されていき、戻ってくることがない。 ごくまれに南下する親潮により南への循環流に乗り、再び日本の沿岸へ漂着することがある。
琉球における影響
『琉球国由来記巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間(1265年~1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。また琉球に漂着した日秀上人は、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったり、金武町に金武観音寺を建立した。
 以上が引用部分です。
 補陀落渡海のことを知って、ぼくが最初に連想したのは、即身成仏のことです。修行僧が死を前提とてして厳しい修行をする事例は多くあります。次に連想したのは、この海の向こうのどこか遠くに浄土があるんだという思いです。こういう発想の枠組み自体は、桃源郷とかシャングリ・ラとか古今東西いろいろな話が多く見られます。
 また、海や山といった自然が信仰や修行の場や対象になることもよく見られることです。
 さてさて、ここからはぼくのつまらない考えなんですが、ぼくは、海にいるときに、この太平洋の先に本当にアメリカがあるんだろうか?と考えたりします。もちろん地図にはそう書いてありますし、googleマップで調べればそう出てきます。
 いやでも本当だろうかと…
 実際ぼくはそれをやっていないし、自分の目で見たわけじゃない…
 それはそういわれているだけで、実は別な世界が広がっているんじゃないか?
 あるいは、途中で別の次元の世界に入り込んでしまうんではないか?
 はたまた何かの拍子に、まだ人間が踏み込んだことのない未知の場所に着いてしまうんじゃないか?
 そしてそこは桃源郷のように、みんなが幸福に暮らしている理想の世界があるんじゃないか?
 21世紀に生きるぼくでさえ、海の向こうの行ったことのない土地についてこんな考えを巡らせるんです。ましてや世界全体の知識や情報が不完全だった昔ならなおさらだったんではないでしょうか?
 そして、飢饉や人口増加や政治的に追放されるなど、今の土地で生きるのが厳しい時に、もしかしたら人は、桃源郷、いやそこまで素晴らしくなくても、今よりもマシなまだ見ぬ土地目指して危険な航海に出たかもしれない。それは十分あり得るんではないかと思ったりするのです。










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海辺の仲間との距離感



 ウォータースポーツをします。
 サーフィン、スキューバーダイビング、シーカヤック、セイリング…
 よく独りで、ときどき仲間と…
 で、ぼくはだいぶオジサンなので周りの海遊び仲間もオジサンが多いのです。たいていサーフィン歴30年とかスキューバーダイビング歴40年とかそういう人ばかりです。
 そういう人と一緒に遊んでいて楽しいのは、その距離感。
 よくスキューバーダイビングに行く友達は、なんとなく頃合いのいい時期に連絡が来ます。ダイバーはわかると思いますが、伊豆あたりで潜るとするとコンディションがよくて魚が多く見られる時期ってだいたい決まっています。だからそういう時期にふとメールが来て、「来週末に行こうかー」ってなって、「アレが見たいから伊豆ならこのポイントで、このショップで、じゃあ予約しとく」という具合ですぐ決まっちゃいます。
 ダイビング当日も現地集合。
 基本無愛想。会話は必要最低限。
 話すとしても、今ちょっと右足が腫れてるから、あんまり長距離は泳げないかも、みたいなこれからのダイブに必要な事実だけ。
 水中でも自己責任が前提だし、お互いに相手の技術と力を知ってるから、付かず離れず。でもトラブルがないかは目の端で見ている感じ。
 相手がサインを出しているその先を見れば、珍しい魚がいて、いいたいことはすぐわかる。
 相手が一心にあるところを見ているとだいたい何がいるかわかる。
 相手の目配せで何をいおうとしているのかわかる。
 ダイビング後も宿に向かって、温泉に入って、酒を飲みながら飯を食う。話はするけど、別にはしゃぐでもなく愚痴るでもない。
 翌朝、別れるときも、じゃあまた、って素っ気ない。
 ぼくは、こんな海仲間との付き合いが好きです。その距離感が好きです。
 相手に頼らず、頼られず、それぞれが物事をよく知っていて判断力がある、そんな関係って、とても気持ちがいいものです。無駄な説明をしなくていいし、簡単な説明でも深い理解を共有できるのです。
 双方が独立していて、双方が互いに敬意を持っている関係、そんな関係が好きです。
 海仲間にはそういう人がわりといて、ぼくが海遊びを続ける理由のひとつも、そんな仲間がいるからかもしれません。












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