海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
なぜぼくは海辺の田舎町で暮らしているのか…
海辺の田舎町に住んでいます。
なぜと訊かれることもときどきあるんですが…
広く青い空
潮風
潮の香り
波の音
大きく広がる海
緩やかに延びる砂浜
様々な海遊びができるところ
地物のおいしい魚と野菜
ゆったり流れる時間
気のいいご近所さん
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都会では感覚を閉ざすようにしています
用があるので都会に行きます。そうすると地元の海辺の田舎町にいるときより、いろいろストレスに感じることがあります。
ぼくだけなのかもしれませんけど…
ひとつひとつは些細なことなんです。
たとえば、人が大勢いるとか、駅で前から歩いてくる人がスマホを見ていてぶつかってくるとか、横入りされるとか、前の人のリュックが当たるとか、定食屋で食券を買っていて時間がかかると後ろの人に舌打ちされるとか、女子高生が道いっぱいに広がっていて歩けないとか、書店で本を選んでいると後ろを歩く人に突き飛ばされるとか、ATMに行列ができているとか…そんな細かいことです。
どれも地元では起きないことなんです。
以前はなんでこんなことが起きるんだろう、こんな目に遭うんだろうって考えてたんですが、最近は考えなくなりました。考えないようにしています。
都会に行くときには、些細なイヤなことが起きるのはいつものことなので、それについては感覚を閉ざすことにしています。起きても何も感じないかのように自分の感覚を途中で閉ざすのです。そして、何かを考えたり感情がこみ上げることを抑えるのです。
すごく不自然なことなので、自分ではイヤなんですが、普通にしているとストレスが強くて耐えられません。
これは間違いなく、仕事によるストレスではなくて、都会で過ごすことによるストレスです。
休みの日にはずっと地元にいられるので、ほぼストレスを感じることはありません。
そこには海があり森があり、自然と共に過ごす暮らしがあります。鳥の声に耳を澄まし、潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、太陽の光を肌で感じられます。周囲の人々はノンビリ暮らしていて、少なくともみんな人として接してくれます。
水の音のストレス解消効果
先日、相方と街に出かける用がありました。
なんちゃらヒルズみたいなところに行かなければならなくて、ぼくの苦手なヤツです。ぼくは、人混みの、コンクリートだらけのところに長時間いるとすごくイライラするんです。
「あー、もー、いやーねー、疲れるわ」と意味なく女言葉になって、用事を済ますために一日都会にいました。
「あー、もー、いやーねー、疲れるわ」と意味なく女言葉になって、用事を済ますために一日都会にいました。
ぼくはかなりイライラしていたみたいです。
相方もそんなぼくの特徴は知っていて、ビルの中のコーヒーショップのテラス席で休もうと提案してくれました。
席に座ってコーヒーを飲んでいると、遠くに水の音がするような気がします。
あれーと思って見回してみると、人工のせせらぎがありました。よくビル街にありますよね。人工の滝とか噴水とか…
水の音を聞くと、少し涼しげな気がしてきて、イライラがすーっと収まりました。
ぼくは休みの日はたいてい海に出ています。海に出て身体を動かすとストレス解消になるんですが、水音の効果もあるのかもしれないなと思いました。海では、当然ですが、波の音を聞いたり、水の音を聞いたりします。それがぼくが思っているよりも気持ちに働きかけているのかもしれません。
思い出せば、波の音を聞きながらビールやコーヒーを飲んで、ノンビリしていると幸せだったりします。特に波が砂浜でブレイクするときの音というのはズーッと聞いていると気持ちが穏やかになって、眠くなるほどです。
ウォータースポーツのとき意識を五感に向ける
ぼくはかれこれ30年くらいウォータースポーツをしてきました。そしてあるときから海辺の田舎町に引っ越しました。
仕事をしに町に行きますが、休日は海辺でのんびりしています。
そんな話をすると、休日はストレス解消ができるでしょう、といわれます。
そう、わかりやすい表現を使えばストレス解消なんですが、ぼくの中で起きていることはもう少し違ったものです。
それまでは、いつものようにウォータースポーツをしていました。
30代のあるとき、ある出来事が起きたのです。そのときのことを今でも覚えています。
その日はシーカヤックで地先の海から漕ぎ出して何時間か漕いでいました。海況は穏やかでしたが、だんだん空模様が怪しくなり雨が降ってきました。風も強まりました。雨の中シーカヤックで漕ぐこと自体はよくあることでどうってことありません。海が荒れていなければ怖いこともありません。
ただその日は雨がかなり強く降ってきたのです。
雨は海と自分のウェアに叩きつけるように強く降ります。
雨のせいで10m先くらいしか見通せません。
厚い雲のせいで夕方のように暗いんです。
そんな中を1時間ほど漕いでいるうちに、ぼくは自分がどこにいるのかわからなくなってきたんです。自分が海の上にいるのか、海の中にいるのか、空に浮かんでいるのかさえわからなくなってきました。
音さえも聞こえないような気がしてきました。いえ、雨の音は聞こえているんですが、それ以外の音がしないんです。
怖さはなくて、自分が自然の中に溶け込んだ安心感がありました。
自分はただいつもやるようにパドルを漕ぐことしかしていなくて、あとは雨と海を見つめているんです。そのときぼくはそれまで感じたことのない穏やかな気持ちになれたんです。
その後もウォータースポーツでそのスポーツに集中しているときに、そういう経験がたびたび起きました。雨でなくても晴れでも起きました。季節を問わず起きます。
シーカヤックのような単調なスポーツの方が起きやすいんですが、スキューバーダイビングのように、自分が慣れ親しんでいて、一つひとつの作業に意識を向けなくても自然に身体が動くようなときにもそれは起きます。
どうやら天気というよりも自分の気持ちの状態によって起きるようなのです。考えごとをしないで(実際シーカヤックでパドリングをしているといろいろなことを考えてしまいます)、五感に集中すると起きやすいようです。
こうした体験をストレス解消と呼んでいいのかわからないんですが、自分の気持ちが楽になるのは間違いありません。正確な表現を探すとすれば、気持ちが軽くなるとか、頭がスッキリするとか、頭の中のモヤが晴れるとか、そんな感じです。
普段の暮らしでこんなことをいうとスピリチュアルな人だと思われそうなので、あまりいわないようにしていますが、ぼくが海辺でウォータースポーツをする暮らしを続けている理由のひとつとしては、そんなこともあるのです。

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都会では五感が鈍る気がします
ぼくは海辺の田舎町に住んでいます。
そこでの暮らしは、いつも太陽の光、風の向きや強さ、雲の流れ、雨の強さ、波の音、鳥の声などに注意を払う日々です。
そんなの当たり前と思う人がいるかもしれません。
でも、それは当たり前じゃないようなんです。
ぼく職場の同僚で、都内の駅直結のタワーマンションに住んでいる人がいます。この人は屋外に出ず、電車に乗って職場まで来ることができるので、暑さ寒さや雨のことをあまり気にしていないようなんですね。
職場の最寄りの駅から職場まで屋外を数分歩くんですが、そのときに初めて寒いとか雨がすごく強いとかに気がつくそうです。
そんなこともあるかもね、いやよくあることだよね…なんて、ぼくには聞き流せませんでした。
それって不自然で、少しヤバいかもなって思いました。
天気などの自然環境に注意を払わないって、人としてというか、生き物としてありえないぐらい不自然なことじゃないかって、ぼくには思えたんです。
ぼくの感覚が変なのかもしれないけど…
暑いとか寒いとか、雨が降るとか風が強いとかって、腹が減ってメシが喰いたいってのと同じくらい日常的なことでしょう。その感覚がないって、けっこうマズいんじゃないの?って思いました。
朝起きるとき、夜寝るときに、天気のことを気にするのは無意識にしてしまうことです。あるいはベッドにいるとき、ふとした風の音、木々の擦れ合う音、波の音で、天候の急変を感じて起きることもよくあります。
そのおかげで、風で屋外のものが飛ばされる前に家の中に取り込んだり、雨戸を閉めたりして、被害を軽減したことはよくあります。
あるいは今は晴れているんだけど、ちょっと今日は崩れるんじゃないかなって予感がして、天気図をチェックすると大きめの低気圧が近づいているなんてこともあります。
他には、地震のときに揺れる少し前に直感的にわかるということもあります。
「それってけっこう大事だよな」というのがぼくの考えです。
五感を常に働かせることで、身体の中で大切な何かが保たれているんじゃないかと思っています。それを科学的に証明しろなっていわれても無理なんですけど、ぼく的にはそんな気がしています。
ちなみに先ほど登場した人とは別の都会に暮らす友人は、ぼくの家に遊びに来ると、海を見るでもなく、砂浜に出るでもなく、酒を飲んで帰って行きます。彼は砂浜に出ると靴が汚れるし、全身が潮っぽくなるからイヤだそうです。なぜウチに遊びに来るんでしょう?いや、遠いからムリして来なくていいのに。街であえばいいのに。こっちが行くのに。
いまだによくわかりません。
そいつと話していても、ときどき埋めがたい溝があることを感じることがあります。
そしてぼくの感覚がおかしいような気がしてくるんです。
海遊びの仲間と話しているときは、みんな1週間くらい先の天気はだいたい頭に入っていて、ミクロネシアあたりで台風が発生しただの、低気圧が近づいているだの、潮回りがどうだのというのは、当然の前提事項になっているんです。
なので、台風でもないのに強風だとか、遠い外国の地震で津波が来ないかとか、そういう予兆を把握するのがみんな速いんです。
いや、それ自体を自慢したり褒めてるわけでなくて、その感覚、アンテナの張り方って大切だよな、というのがぼくの考えです。うまくいえないんだけど、緊張感とか体内のバランスとか勘とかそういうことにつながっている気がします。
でも、こういうことって、感じたことがない人には伝わらないんでしょうね。
でね、こういう身体全体で無意識に働かせている感覚って、街でしばらく暮らしたり、街で暮らしている人ばかりのところにいると鈍ると思うんです。身体が街の暮らしの感覚に順応しちゃうんじゃないかな…
たとえが悪いかもしれないけど、腸内の乳酸菌が抗生物質を飲むと死んでしまうように…
気楽にやろう
友人にいわせれば、ぼくはノンビリお気楽に生きているそうです。
そういわれて、ぼくとしては腹が立つとかではなく、うれしく感じました。
というのも、気楽にやろう、なんとかなるさ、というのは、日頃ぼくが思っていることだからです。
ぼくは、自分の性格として、変なところにマジメだったり一生懸命だったりするところがあると自覚しています。特に若い頃はそういう面が強かったですね。そんな自分がイヤで苦しくて、海遊びをしたり、海辺の田舎町に引っ越したのでした。日々の暮らしをノンビリすることで、自分の変にマジメな面は多少はよくなったんじゃないかなあと思っています。
経験的に感じていることがあって、それは、自分が気になっていることとか、考え込んでいることがあったら、一旦そこから離れてみるといいということです。どうせ考えるなら違う角度から、違う立場から考えた方がいいようです。
自分のこと、家族のこと、仕事のことなどでいろいろなことが起きるんですが、それをすべて真剣に受け止めていたら疲れてしまいます。どこかで、自分が頑張らなくてもなんとかなるさ、気楽にやろう、と考えておいた方が楽だし、うまくいくこともあるんじゃないでしょうか。
そう、自分が何もかも責任を持たなくても、引き受けなくても、自分がやらなきゃ誰かがやってくれるし、誰かがやった方が、自分がやるよりも上手くいったりします。
だったら、なにも自分の時間を使って課題に頭を使うよりも、海遊びのことを考え、今度の休みの楽しみを考えていた方がいいかなあって思います。
自分がどれだけ悩み、どれだけ真剣に考えても、海に行けば、風が吹き、波が立ち、鳥が飛んでいます。そんな変わらない風景を何百年前の人達も見ていたはずです。すべては過ぎ去り、大きな枠組みは何も変わらないのです。

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自然の中に身を置くことの大切さ
先日読んだ『最高の体調』という本に、ダーウィン医学とか進化医学について書かれている箇所がありました。進化医学って、やたら何万年も前に人間はこんな暮らしをしていて、それが急速に現代のような社会になったのだから、人間の身体や脳が適応していない、だからいろんな病気が起きるっていうことだと書いてあるんですが、それって根拠あんの?って疑問に思うことが、ぼくとしてはよくあります。
ただぼくの場合、これまで生きてきた経験で、家の中に閉じこもっていると体調が悪くなるとか、人混みとか人口密度が高いところにいるとイライラするとか、自分のそういう傾向はわかっています。反対に、自然の中、特に海のそばにいると体調がよいというのは実感しています。
こういった実感レベルの体験について、そのメカニズムを、人間というのが元々自然の中で暮らしている時代が何万年もあって、それに身体や脳が適応しているからだ、って理屈を付けられちゃうと、「あぁそうですか」としかいえません。理屈の形式としては、すべて遺伝子のせいだとか、すべて守護霊のせいだというのと、大差ないんじゃないでしょうか?
ちなみに同じ『最高の体調』という本に引用されていたのですが、ダービー大学の研究で「自然とのふれ合いはどれだけ体にいいのか?」を調べたもので「自然とのふれ合いにより、確実に人体の副交感神経は活性化する」という結果だそうです。
まあ、そういう理論は専門家にまかせておいて、こちらはそれを楽しむのに専念しましょう。
ぼくが好きなのは、誰もいない海、できればそんなに広くない入江で、一人ボーッとすることです。
気が向いたら素潜りし、疲れたらアウトドアチェアでまどろみ、バーナーでお湯を沸かしてコーヒーを淹れ、日がな一日過ごすと、自覚できるくらい癒やされます。もっといいのはそこでテントを張ってキャンプすることでして、そうすると次の日は別の自分になっているような気がするくらいです。なんというか自分が野生化したような感じというんでしょうか?
ぼくのようなだらしない人間の場合、このままずっとここで寝泊まりして家に帰らず仕事にも行かなくなりそうなので、自制しています。
休みがとれれば、沖縄の離島や母島などに1週間以上旅行するようにしています。
1週間、ずーっと海のそばで過ごし、ゆったりした島時間の中で暮らし、島の食べ物を摂り、人口密度の低いところでノンビリしていると、心の垢が落ちていくような気がします。ぼくは普段海辺の田舎町で暮らしていますが、それでもどこか自覚していないところで都会的な暮らしにヤラれちゃっているんだなって思います。
この「自覚していない」というのが曲者でして、都会で見かける病んでいる人とか、せっかちな人とか、高飛車な人というのは、元はいい人だったのかもしれませんが、本人が自覚しないうちに、都会のギスギスした環境の中で、そんな風になってしまったんじゃないかな?
環境というのはあなどれないものかもしれません。
自然・生物・人間・社会・正しさ
これまでもなんとかなるさというテーマで文章を書いてきました。
でもまだそのテーマで書いてみたいのです。
ぼくはスキューバーダイビングやシーカヤックやサーフィンで何度も死にそうになりました。それ自体は怖いけど、実はそんなに怖くはないんです。いくらかの確率で死ぬかもしれないってわかっていて海に出るからです。
ぼくにとっては、別なことの方が怖いです。
それはたとえば仕事上で誰かに悪意を持たれて罠にはめられるとか、知り合いに恨まれて嫌がらせをされるとか、近所の人に憎まれているとか、別に身に覚えはないけど何か攻撃されるとか、そういうことです。
友達に「海に出て怖くないの?」って訊かれたりしますが、いやいや、社会の人間関係のドロドロの方がはるかに怖いし、それって見えないことも多そうだし、どう対処したらいいかもわからないから、ずっと大変だって思います。
父親がよく「誠実に勝る良策はない」といっていましたが、周囲の人から悪意や恨みを抱かれてしまうことを念頭に置くと、その言葉は確かにそうだと思います。誠実さというのは、数少ない防御策のひとつのように思えます。
自然の脅威や力のすごさは、初めからわかっていてどうしようもないことですが、他人からの悪意や恨みというのは、自分の行いのせいかもしれないので、そっちは気になります。なんとか防げたかもしれないから…
それでもなお、人の悪意や恨みや攻撃というのも、まあたいしたことがないと思うんです。
完璧な人っていないでしょ。誰でもミスや過ちはありますし…それを理由に悪意を抱かれても、「すみません」と謝るしかないですね。それでも恨んでいたら、まあ、どうしようもないですね。
それに、所詮、人の世の中は生き残りをかけての生存競争です。自分が生き残ろうとするのは、当然のことです。それで恨まれても「だからどうした」「しょうがない」わけです。
この理屈をやり過ぎると他者に迷惑をかけますので、あくまでもバランスが大切だとは思いますけどね。
いいたいのは、極度にナーバスになってもしょうがないし、完璧にいい人でいようと思っても、それは土台、無理な話だということです。
いいたいのは、極度にナーバスになってもしょうがないし、完璧にいい人でいようと思っても、それは土台、無理な話だということです。
世の中は基本的に混沌としていて、理路整然としている部分はごく一部だと思うから…
自然は自然の摂理の中で混沌としていますし、その中で生きる一生物である人間も社会も混沌としています。人間が作った正義や倫理って、地球全体で見ればすごくちっぽけなものだと思うんです。そんな正義や倫理の中で絶対に正しくても、生物として正しいかなんてわからないんじゃないかな…
もちろん他者に迷惑をかけるのはよくないし、様々な宗教が唱える善をぼくは尊重したいけれども、ざっくりした感想だけど、そうした善は、大筋生物としての人間を生かすような主張になっている気がします。
話が長くなりましたが、生きているのが善で、いろいろ過ちがあるかもしれないけど、それはしょうがないということだということ。だから気にしないし、死んでしまえば何だって同じです。
机上の理屈で正しいとかなんとかいってばかりいる人は、一度荒れた海に出てみるといいです。自然の力は圧倒的で、その前では人間の考える理屈なんて塵みたいなもので、しかも人は自分が生きるためになんでもするってわかりますから…

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世の中のことはたいていなんとかなる
以前にも似たような記事を書いているんですが、そういうことを書くのが好きなので、何度も書きます。
これまでウォータースポーツを30年近くやってきてつくづく思うんですが、まあ、「なんとかなる」ということです。死ななければなんとかなるということです。スキューバーダイビングとかサーフィンとかシーカヤックとかやってれば、慎重な人でも一度はヤバいとか死にかけたという目に遭うものです。でも、まあなんとかなっているわけです。生きているからこんなことを書けるわけで、なんとかなっていないで死んでいる人もいるので、生存者の意見といえるかもしれません。
それはともかく、逆によくないのはヤバい状況(危機的な状況)で取り乱したり、パニクったりすること。
そうなるとまだまだなんとかなるかもしれないのに、その可能性を自ら潰してしまいます。
まさに敵は自分自身。
自ら、自分の墓穴を掘るとはこのこと。
それを別な書き方にすると、パニックに陥らず、心の平静を保てば、最後の最後まで可能性はあるわけです。最後の最後と死との一線をぼくは超えたことがないので、どこまで心の平静を保てるかわかりませんが、おそらく微分的にそのギリギリはグレーゾーンとしてずっとぼくの目前に立ち現れているんじゃないかと想像できます。
どこまで心の平静を保てるんだろう…
でも、グレーゾーンのぎりぎりまで心の平静を保てば、そこまではなんとかなっているわけで、それはそれでいいんじゃないかと思うのです
「なんとかなるさ」というのは、死の間際でなくても普段の生活で使えるものでして、その日一日がなんとかなればいいや、後はなんとかなるさと考えると少し気持ちが楽になります。
ぎりぎりの状況・気持ちの持ち方・生き方…
ウォータースポーツやアウトドアスポーツをしていて幾度となく経験していることがあります。それは「あぁこんなことするんじゃなかった。どうしよう。でもやるしかない。」ということです。
抽象的なので具体例を挙げてみます。
ぼくは海が好きで海辺歩きをするんですが、日本の海辺というのは、砂浜があって岩場があって、また砂浜があってということが繰り返されている地形が多いんです。なので、海辺歩きをしていると必ず岩場を登る場面があります。あるとき砂浜を歩いていると、先の方に急な岩場というか岸壁が見えていました。このままいくとその岸壁を登らなくてはなりません。あるいは砂浜から陸地に入り、陸側から岸壁を越えるルートがあるかもしれないので、そっちのルートをとる方法もあります。その決断をするなら今という状況。
こういう状況の時、ぼくはたいてい判断を先送りにしてしまう癖があるので、ズルズルと砂浜を歩いてしまいます。
で、だんだん岩場に来て、いよいよ岸壁っぽくなってきます。岩を見るとところどころ急ですが、なんとか登れそうな気がします。でも、結構急で、確実に手がかり足がかりが続いていると断定できません。
こういうときにぼくはたいてい前に進んでしまいます。たとえばぼくの高校からの友人のA君は慎重な人なので、彼なら絶対に引き返しているでしょう。
岩場を登り始めます。だんだん登っていって、この先、急で手がかり足がかりが少なそうです。来た方を振り返ると結構な高さで、今来たところを引き返すのはとてもできなさそうです。岩場というのは、たいてい登るよりも下る方が大変なものです。
下の方、どうでしょうざっくり15mくらい下には岩場と海が…落ちたら、頭を打ったら死ぬでしょう。打ち所がよくても骨折は免れないかなーって思います。
また上を眺めます。手がかりになりそうな岩を探しますが、なんとか指が入るかどうか…つかめず滑ったら、あの岩場混じりの海…
そんなことを想像すると身体がすくんでしまって、手が震えてくるんです。
そう、ぼくの状況は、引き返すこともできず、前に進むのもリスクがあり、そのままとどまってもいずれ力尽きて落ちてしまう、そんな感じなのです。
過去のぼくの経験では、こういうときに一番悪手は、パニックになることです。それさえ避ければ、あとは前進と後退のどちらがリスクが低いか冷静に見積もって、一度決断したら恐怖心を無にしてただ目の前の一歩に集中するしかない、そういうことは学んでいました。
登った方が落ちるリスクが少ないことは、すぐに判断できました。
次は恐怖心を無にして、手を次の岩に移すことです。落ちるとは考えない、なんとかなる。今は手を動かし足を動かそう、それに集中しよう。
右手を動かし、左手を動かし、右足を動かし、左足を動かす。それを繰り返してぼくはなんとか岩場を登りきったのでした。
アウトドアスポーツをする人は、たいていこれに類する経験をしているんではないでしょうか?
そして、それは単に危機を乗り切った体験談というだけではありません。ぼくの場合、そういう経験が実生活にも生きているんです。
家族や自分の重病や事故、自分の仕事での困難な状況、生きていれば、いろいろなことがあって、時につらい状況もあります。引き返すこともできず、前に進むのもリスクがあり、そのままとどまることもできない、そんな状況に遭遇することは、ままあります。
そんなときは、パニックにならず過去を振り返らず、将来のリスクを恐れず、ただ今日の今に意識を集中する、そしてそれを繰り返す、そうすることで、事態を打開できることが結構あります。というかぼくはそうしてきました。
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