海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
海と自己
大学生の頃からサーフィンを始め、スキューバーダイビングをし、セイリングをし、シーカヤックをしてきました。
ぼくにとっては、大人の男になる過程でずっとウォータースポーツをしていたのです。
ぼくにとって海とは、「自然に癒される」「自由になる」「自分と向き合う」「自然の中で自己変革する」場なのだと思います。
なんだか堅そうな言葉が並びましたので、少し説明させてください。
自然に癒されるというのはイメージしやすいと思います。
多くの人が自然に接して、気持ちよくなったり、解放感を味わったり、気分転換できたりすることをいっています。まあ、これはそうですね。ぼくも、仮にウォータースポーツがなかったら、毎週のように海に出ていなかったら、偏屈なオヤジになっていたかもしれません。
自由になるというのは、社会や組織や街などで従わなければならないルールから解放されるということです。
これは自然に癒されるということと近いように思えるかもしれませんが、ぼくにとっては明らかに違います。
自然に癒やされるというのは、自然が持っている環境や空間的な広がりやなんらかの働きで、ぼくの身体自体がいい影響を受けるということです。
一方、自然の中で自由になるということの意味は、人間が作った仕組みやルールから離れて、そういったものから自由になるということです。ぼくから見れば、社会や組織や街という人が構築した環境というのは、ルールだらけで、それを守らなければならないですし、他人に迷惑をかけないようにいつも気を遣うので、気持ちが疲れてしまうのです。そういう自制心というのは、ぼくのようなタイプの人間には、かなり自分を抑圧するもののようで、ぼくもだいぶオジサンになってから気がついたんですが、そうとうココロに負荷をかけているようなのです。
もし、周囲に迷惑をかけないように意識されがちな方は、自然の中で暮らしてみると、ずいぶん楽になるんじゃないかと推測します。
ただし、自然の中で暮らすことで、人間が作った仕組みやルールから自由になったとしても、自然の中で生き抜かなければならないという別の制約が生じます。これはぼくの見解ですが、自然の中で自由になることとトレードオフです。
自然と向き合うということは、自分が今いる環境としての自然の中で、自分が生きるために、今の自然を観察し、自分が自然から受ける影響を見極め、自分が自然に及ぼす影響も見極め、また自然の中での自分の限界を知るということです。
社会や組織など人間が作った環境ですと、たいてい何年も今の状況が続くことを前提に話ができあがっていますから、先々のことまで考えてしまうんです。今に向き合わないところがあります。いつも先のこと先のことを考えてしまいます。
一方自然というのは、刻々と変わって先のことがわかりませんから、今の自然の状態に向き合うようになります。そしてその結果として今の自分と向き合って、今の自分として精一杯生きようとするようになります。
今のことだけ考えるとか、今このときをできる限り楽しむということは、他のことを考えず無心に近い心持ちになるので、精神的には安らかになれるのです。
自然の中で自己変革するということは、刻々と変わる自然の環境の中で、自分が生き延びるために、自然環境に適応するために、自分の認識、認識に基づく推測や判断、そしてその結果としての振る舞いをどんどん変えていくことです。それは大まかにいって、社会や組織や街での自己変革よりもスピードが速くて、自分が納得して変化しているだけにストレスが少ないという特徴があります。
また、その納得感は、自然が人間が存在するよりも以前からそこにあり、圧倒的に力強く、自分がコントロールできない所与のものだという認識から来ています。そう、自分ではどうしようもない状況で生き延びるために、自分の考え方や振る舞いを変えていくということです。
それは街での暮らしが、すべて人間のために構築されていて、人間が快適なように環境を変えていくこととは対照的です。街での暮らしは、すべてが人間の思い通りになるという幻想を与えてしまうのではないでしょうか。たまに地震や台風などの大きな災害が来ると、改めてそれを認識するようになります。そして想定外の災害だなんていいますが、所詮人間ができることなど自然の大きな力の前ではたいていのことが想定外なのではないでしょうか。想定外という言葉自体が人間の力を過大評価している象徴のように思えます。
自分がコントロールできないことがあることをきちんと理解すること、そのうえで、一番幸せな状態に自分を変えていくこと、いっていることは当たり前ですし、おそらく歴史的に人はそうやって幸せに生きてきたと思うんですが、人が個人として自由にいろいろなことをコントロールできるようになるにつれ、自分が変わらず周囲を変えることが多くなるにつれ、いざ自分がコントロールできないことに遭遇すると、すごくストレスを感じるようになったんじゃないかと思います。
ぼくはウォータースポーツをとおして、だいたいこんなことを経験し、考えるようになったわけです。そしてそれがブルー・エクササイズという活動にもつながっています。
ぼくは海に出ることで、自分の生と死に向き合い、自分の力の限界を思い知ることを繰り返しています。そしてその海での経験は、ぼくの生き方にも影響を与えています。その影響はマイナスなものではなくて、ぼくにとってはとてもプラスなことです。そんな考え方を教えてくれた海という自然に感謝していますし、その考え方が、ぼくが海からもらった最大の贈りものだと思います。
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ぼくは海に出ることで、自分の生と死に向き合い、自分の力の限界を思い知ることを繰り返しています。そしてその海での経験は、ぼくの生き方にも影響を与えています。その影響はマイナスなものではなくて、ぼくにとってはとてもプラスなことです。そんな考え方を教えてくれた海という自然に感謝していますし、その考え方が、ぼくが海からもらった最大の贈りものだと思います。
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無題
「盲亀の浮木」
人とのつながりは盲亀浮木の如く。
大海に住む盲目の亀が百年にただ一度だけ海面に浮かんでくる時に、
たまたま穴の開いた流木が浮いて、その流木の穴に首入れるという仏教の寓話があります。
言わば、めぐり合うことは非常に難しいことの例えです。
このように考えてみると、
血のつながる家族となることは、盲亀浮木のような奇跡の確率です。
生まれてくることは、両親がいます。
両親のそれぞれの両親、4人。時間軸をさかのぼっていくと、
10代を遡ったら自分と同じ血が流れている先祖は1024人。
20代前だと100万人!!
そのうちのただのひとりでも欠けたら、自分はいま存在していないです。
「命」を次につないできたから、現在の自分の「命」があります・・・
奇跡的なことのように思えます。
先祖に手を合わせて感謝の心は常に大切にしていきたいです。
人とのつながりは盲亀浮木の如く。
大海に住む盲目の亀が百年にただ一度だけ海面に浮かんでくる時に、
たまたま穴の開いた流木が浮いて、その流木の穴に首入れるという仏教の寓話があります。
言わば、めぐり合うことは非常に難しいことの例えです。
このように考えてみると、
血のつながる家族となることは、盲亀浮木のような奇跡の確率です。
生まれてくることは、両親がいます。
両親のそれぞれの両親、4人。時間軸をさかのぼっていくと、
10代を遡ったら自分と同じ血が流れている先祖は1024人。
20代前だと100万人!!
そのうちのただのひとりでも欠けたら、自分はいま存在していないです。
「命」を次につないできたから、現在の自分の「命」があります・・・
奇跡的なことのように思えます。
先祖に手を合わせて感謝の心は常に大切にしていきたいです。
- 大自然の法則
- 2017/04/02(Sun)00:07:29
- 編集
Re:無題
コメントくださりありがとうございます。
「盲亀の浮木」のお話、知りませんでした。勉強になりました。
命をつなぐことの大切さ、そのとおりですね。個人が権利として子供を産みたい産みたくないということを超えているように思いました。
>「盲亀の浮木」
>人とのつながりは盲亀浮木の如く。
>大海に住む盲目の亀が百年にただ一度だけ海面に浮かんでくる時に、
>たまたま穴の開いた流木が浮いて、その流木の穴に首入れるという仏教の寓話があります。
>言わば、めぐり合うことは非常に難しいことの例えです。
>
>このように考えてみると、
>血のつながる家族となることは、盲亀浮木のような奇跡の確率です。
>生まれてくることは、両親がいます。
>両親のそれぞれの両親、4人。時間軸をさかのぼっていくと、
>10代を遡ったら自分と同じ血が流れている先祖は1024人。
>20代前だと100万人!!
>
>そのうちのただのひとりでも欠けたら、自分はいま存在していないです。
>「命」を次につないできたから、現在の自分の「命」があります・・・
>奇跡的なことのように思えます。
>先祖に手を合わせて感謝の心は常に大切にしていきたいです。
>
「盲亀の浮木」のお話、知りませんでした。勉強になりました。
命をつなぐことの大切さ、そのとおりですね。個人が権利として子供を産みたい産みたくないということを超えているように思いました。
>「盲亀の浮木」
>人とのつながりは盲亀浮木の如く。
>大海に住む盲目の亀が百年にただ一度だけ海面に浮かんでくる時に、
>たまたま穴の開いた流木が浮いて、その流木の穴に首入れるという仏教の寓話があります。
>言わば、めぐり合うことは非常に難しいことの例えです。
>
>このように考えてみると、
>血のつながる家族となることは、盲亀浮木のような奇跡の確率です。
>生まれてくることは、両親がいます。
>両親のそれぞれの両親、4人。時間軸をさかのぼっていくと、
>10代を遡ったら自分と同じ血が流れている先祖は1024人。
>20代前だと100万人!!
>
>そのうちのただのひとりでも欠けたら、自分はいま存在していないです。
>「命」を次につないできたから、現在の自分の「命」があります・・・
>奇跡的なことのように思えます。
>先祖に手を合わせて感謝の心は常に大切にしていきたいです。
>
- 2017/11/08 07:46
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