忍者ブログ

自分の身の丈に合わせて生きていきたい



 偏屈なのかもしれない話ですが、自分が苦手な人達がいまして、それは、映画とかテレビドラマで必死に働いて目標を達成したりする人達だったり、東京のビジネス街とかで仕事ができるビジネスマン的に早足で歩く人だったり、黒塗りの車の後部座席に座って、自分が日本を動かしているみたいにふんぞり返っている人だったり、高速道路の追越し車線を前の車をやたら煽って急いでいる人だったり、まあそういうタイプの人というのが苦手で、友達にはなりませんし、そういう人がそばにいると離れるようにしています。
 そういうタイプの人にはその人の価値観があって、やりたいことがあって、一生懸命やっているので、それはそれで勝手にやればいいわけですが、自分はそういう風に生きないし、そういう人に近づかないということです。
 ましてやそういうタイプの人が自分の価値観ややり方を押しつけてきたり、こちらを軽蔑してきたりすると、それはキッチリ反抗します。
 もう少し正確に言うと、夢や目標があるのは別にいいと思うんですが、そのやり方の不自然さに違和感があるんです。
 そんなにカリカリ、自分は一生懸命やってるぞどうだ的にやらなくてもいいんじゃないの?って思うんです。別に誰も一生懸命やってくれって頼んでいないと思うんですけど…
 それに経験的にいって世の中のことって、そんなに自分がカリカリしなくても、まあたいていなんとかなるわけです。その人がいなくても回っていくわけです。もっといえば、その人がどんなにスゴいことをやっても50年か100年すれば、たいてい跡形もなく消えてしまうものです。
 ぼくだって、やはりこだわりやどうしてもやりたいことは一生懸命やってしまいますし、やることがなければ、やらなくてもいいことまで一生懸命やったりします。それでうまくいかないとイライラしたりしまうんです。そんな自分に気がつくと、「オレは何をやっているんだろう」って思ってしまいます。
 これを徹底してしまうと、虚無的な、世捨て人的な生き方になるのかもしれませんが、そういう考え方自体が昔からあったということは、やはりぼくと同じように考える人がいるということでしょう。
 世捨て人的に諦めるんじゃなくて生涯を全うすればいいと思うんですが、それがライバル心だったり、他者と比べて自分が幸せだと認識するのはちょっと違うんじゃないかなと思うんです。
 まるで「アリとキリギリス」の話みたいになっちゃいますが、実際、本物の蟻が自分よりも大きな荷物を背負って運んでいるのを見ると、自分を見ているようで身につまされます。
 もし宇宙人とか神様みたいな存在がいて、その人が地球を遠くから眺めていたら、人間はその蟻そっくりに見えるだろうなーと想像します。
 責任感を持って、一生懸命やろうと頑張って、そして疲れてしまう。ましてや人によっては追い詰められて鬱病を発症したり自殺してしまう。そういうのって本末転倒じゃないでしょうか?
 童話ではキリギリスは冬に飢えてしまって蟻に助けを求めるんですが、ぼく的には、たぶん蟻の中には働き過ぎて疲弊して寿命が短くなったり、病気になったりしている蟻(さすがに蟻は自殺しないような気がしますが…)がいるんじゃないかと思います。
 いろいろ想像してみるとキリギリスだって蟻だって所詮は儚い人生ではないですか。
  
 ぼくにはぼくの生まれつきがありますし、身の丈があります。それに合わせて暮らしていきたいなと思うわけです。あまりこだわらず囚われず日々の暮らしを楽しんで過ごしたいと思います。






にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

PR

スキューバーダイビングを趣味として、若い頃からこれまでのこと




 いやーこの間まで大学生で、会社でも若手で、飲み会のセッティングしたり、飲み会後の送りのために上司やお客様のタクシーの配車とかしていたんですが、あっという間にオジサンになってしまい、自分がされる側になってきました。
 たぶんオジサンが自分のことをオジサンと自覚していないのは、この間の忙しさと時間の経つのの速さのせいだと思います。
 まず仕事が忙しくて時間の経つのが速いですね。それから結婚して、子供ができるとさらに時間の経つのが速くなります。
 ぼくの会社でワリとというかかなりみんなに嫌われている管理職がいるんですが、この人は趣味もなく、独り者で、親しい仲間もいなくて、部下のプライベートをネットやSNSを検索して、その行動をこまめにチェックして上司にチクっているという、もうなんというか、ぼくが会った人のなかで最も不可解な性格の人なんですが、この人などは暇だからこういうことをするんではないかなーと思います。
 そんなに暇なら趣味を持ったり、ボランティア活動をしたりすればいいと思うんですが、そういう外向きの性格なら、そもそもこういう人生にはならなかったでしょう。
 自分の子供がこんな風に育ったら、ぼくは子育て失敗宣言をして、頭丸めて高野山で修行してご先祖様に懺悔しなければならないでしょう。
 さてさて話が横道に逸れました。元に戻しましょうね。
 ぼくはスキューバーダイビングを大学生の頃から続けているんですが、ダイビングってだいたい5人以内のチームで潜るんですよね。で、しかも相方としてのバディがいるという状態です。本当はバディ同士で潜ればいいんですが、今の日本(海外のリゾートも)では、ガイドがいて道案内をしてくれて、その後をみんながゾロゾロついていくダイビングスタイルが普通になっているので、数人のチームになるわけです。
 このチームは、その日ダイビングサービスに集まった人をサービス側のガイドが適当に振り分けるんです。たとえば2人できている女子なんかが離ればなれのチームになることはありませんし、なんとなく若い子は若い子同士でチームになることが多いわけです。
 まあ、それはガイド側の心理からすれば、お客様にできる限り盛り上がってもらいたいわけで、当然そうするでしょう。ぼくもたまにお手伝いでガイドをしますが、やっぱりそうします。
 1990年代にスキューバーダイビングが若い人の間で流行ったのは、やっぱりそういう出会いの場としての機能があったからという面はあると思います。
 ぼくも若い頃は、若いグループに混ぜてもらえたんですが、今や絶対にオジサングループに振り分けられます。
 そういう時にも、自分の年齢を感じてしまいます。別にオジサン同士は気楽でいいんですが、若いグループが「キャッキャッ」っていいながら、独特の楽しい盛り上がりをしていると、オレも混ぜて欲しいなあと思います。
 これはぼくの人格に関わることなので、きちんと書いておきたいんですが、この混ぜて欲しいというのは、自分が若い子にもてたいという邪な思いやタテシマな思いがあるわけでなくて、若い雰囲気の中に混じって、自分も若い頃のノリを取り戻したいという気持ちなのです。
 そこはキチンと表明しておかなければなりますまい。
 ぼくがスキューバーダイビングを始めたとき、オープンウォーター講習のインストラクターは、かわいいちょっと年上の女性でした。陽に焼けて健康そうで明るくて痩せていて長い髪がサラサラでって、長くなるのでやめましょう。まあ早い話、ぼくのタイプ(ぼくは運動神経のいい、活発な女性がタイプみたいです。最近自覚しましたけど…)だったわけです。ぼくはその後、ダイビングにはまり、PADIの講習をダイブマスターまで取ることになるんですが、その理由の一部には、この女性インストラクターの影響があるノではないか、とアメリカの有力シンクタンクは分析しているらしいです。
 ダイビングがうまくなって、女性インストラクターに褒められたり、他のゲストのケアを頼まれたり、アイコンタクトができるようになったりするのが、疑似恋愛的に嬉しかったのを憶えています。
 社会人になって、休みがあると、あちこちの海で潜っていたんですが、やっぱり若い頃は、旅先で出会って、たまたま一緒に潜ることになった女の子と仲良くなったり、それがきっかけで付き合ったりするようになりました。
 そればぼくが特別スケベだとか女好きというわけでは、たぶん…なくて、まあ、そういうことってあります。なんてったって20代というのは、そういう年頃ですから…
 そういう甘酸っぱい思い出が、スキューバーダイビングと海とセットになって、ぼくの中にはあるわけです。
 オジサンとなった今は、そういう甘酸っぱい経験はできなくなりましたが、それでつまらないかというと、そうでもないんです。
 オジサンというのは、それだけで何やってもあまり突っ込まれないというか、諦めてもらえるところがあります。それからダイブサービスのオーナーと同年代かこっちの方が年上だったりするので、なんとなく年齢的に下には置かれないところがあります。ぼくもダイブマスターとしてダイビング業界を20年も見ているので、商売的なことも理解できますから、そういう面でも話が合います。
 ダイビング後に宿でたいてい飲み会(アフターダイブといったりします)をやりますが、そういうところでもオジサンだから、あまり格好つけずに気楽に酔っ払えるというメリットもあります。
 若い頃は年頃の女の子が飲み会の席にいると、やっぱりちょっと格好つけてしまうようなところがあって、素の自分を隠して酔っていた気がしますが、今は、女性がいようとお構いなしで、マイペースで酔っ払えるのがすごく楽しいです。格好つけないってこんなにラクで楽しいんだなって、オジサンになってわかりました。
 そんなこんなで、ぼくは若い頃からオジサンになるまで、海と絡んで、特にスキューバーダイビングを中心に生きてきたわけですが、今思えばそれはすごくいい選択だったなあと感じます。スキューバーダイビングを趣味として選択して、ぼくの人生はかなり充実したものになったと思います。
 これからも身体を鍛えて、なるべく長くスキューバーダイビングを続けていきたいと思います。




にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

離島にみる共同体の在り方



 ぼくは離島が好きで、これまで国内外のいろいろな島に行ってきました。
 特に人口が少なくて、便利のいいターミナル的なところから遠い(不便な)、小さな島が好きです。便利のいいターミナル的なところから遠いというのは、たとえば横須賀の猿島とか熱海の初島とか伊豆大島とかは当てはまらないわけです。石垣島も宮古島も当てはまりません。
 そういう人口が少なくて、不便な、小さな離島が好きなのは、外との隔絶感があって、安心感があって、島の人達が優しいからです。
 それで今回はなぜ島の人が優しいのかなあって、日頃考えていることを書いてみます。ぼくが勝手に考えていることで、特に根拠とかないので、さらーっと読み流してくだされば幸甚でございます。益々のご健勝とご多幸をお祈りしております。いえいえそんなめっそうもございません。
 
 離島の人と対比したいのが、たとえば東京の渋谷とか池袋にいる人です。渋谷を歩いていると緊張感があります(ぼくだけっすか?)。基本的に誰がどんな人だか関心がありません。今すれ違った人がどんな人だか記憶にありません。人は速く歩き、前の人を追い越そうとしています。あるいは、明らかに裕福であることがわかる服や車などで、他の人より自分がすごいということを誇示しようとする人もいます。
 一方で人口が500人程度の小笠原諸島の母島を例として見てみましょう。500人の島民は誰がどんな人なのか把握しています。どんな年齢・家族構成・仕事・好き嫌い・性格なんかもだいたい把握しています。だから○○さんをこの2日見なくて心配だから様子を見に行こうなんて感じになります。それから観光客も来ますが、船でしか来ないし、どんな人が来たかだいたい把握しているものです。
 ここで両者の違いは、人数と匿名性です。
 前から感じてたんだけどさー、人って数が多いものは雑に扱って、数が少ないものは大切にするとこってなくない?人も同じで、人が大勢いると、うっとおしいなあって感じてしまって、何日も人に会わない場所で、久しぶりに一人の人と会ったら、やっぱり少し話がしたくなったり、同士とか仲間みたいな気持ちが湧き上がると思うんだよねー。
 というわけで都会で人が多いところだと、人は人を大切にしない傾向があるかもしれないです。逆に島ではみんなで助け合おうとする傾向があるかもしれません。
 あとね、思うんだけど、これはよくいわれていることだけど、自分だとわかるような状態だと人ってちゃんとしようとするよね。ぼくもそうだけど、人が見てるとゴミを捨てたり、ツバを吐いたりしないもんね。でも、渋谷の街中で、自分が誰だかわからない状態だと、ちょっと羽目を外すようなことを少しやっちゃったりして、神様・お父様・お母様ごめんなさいということを心では思いながら、ついやってしまうことってありますね。
 さすがに母島だと誰かが見ているよいうな気がしてあんまりヘンなことしないから、で、みんながちゃんとしようとするから、島全体の秩序は保たれているというわけではないでしょうか?
 というわけで、匿名な状態だと秩序は乱れ、誰が何をやっているかわかる状態だと、秩序は維持されやすいということがいえるかもしれません。
 そしてこの文脈の延長上に匿名性がない、人口の少ない共同体が助け合うために町内会があり、青年団があり、職業組合があり、祭りがあったりするのでしょう。
 離島が安心感があって、島の人が優しくて、トータルで暮らしやすかったり、居心地が良かったりするのは、そういう共同体の在り方が関係しているんじゃないかなあと、ぼくは以前から考えていたのでした。
 ここから今回は話が一般的な方向に展開していくのですが、すべからく人の共同体というのは少人数で構成した方が、居心地がいいし、その単位を維持するコストが少なくて済むんではないかというのがぼくの考えです。隣組の発想に近くてイヤな感じをもたれる方もいらっしゃるかもしれませんが、独居老人の孤独死とか若者の引きこもりなんていうのは、おそらく都市化した共同体に見られる現象ではないでしょうか?
 過度の共同体による個人の束縛はイヤなものですが、適度だったらいいのではないかというのがぼくの現時点での思いです。
 といいつつ今度はぼく個人のリアルな体験に話が戻るんですが、そういえばぼくは思春期の頃は、町内会の集まりとか祭りとかが好きでない時期がありました。正確にいうと子供の頃はそういう集まりが楽しい時期があって、思春期の頃はそういう集まりがうっとおしくて、オジサンになるとまたそういう集まりが楽しくなってきたのです。
 それはおそらく思春期の頃が、いろいろと多感で不安定であるのと、構成員の立派な一員となるべく共同体からいろいろと目に見えない圧力を受けるのがイヤだったんじゃないかと思います。そしてオジサンになると、今度は自分が社会を維持する責任を担わなければならないので、そういう共同体を好ましく思うようになったのではないかと、自分で自分の気持ちの変化を分析してみたりするのでした。
 すごく大まかにいって、若者が都会や都会的な暮らしに憧れ、ある程度歳をとると田舎暮らしをしてみたくなる人が増えるのも、そういった成長によって、自分が社会に果たす役割とか地位などと関係しているのかもしれません。
 話がだいぶ右往左往してますが、離島というのは、そうした共同体の在り方がすごく先鋭的に現れるような気がするんです。
 離島を旅していると、その共同体を維持する選択肢はいろいろあることを見ることができます。まず、他の地域からの移住者を積極的に受け入れる島(仮にAタイプとしましょう)と、他の地域からの移住者を受け入れない島(Bタイプ)があります。
 Aタイプの中に、移住者を積極的に受け入れて都市的な匿名性社会になっていく島(仮に1タイプとしましょう)があり、一方で、移住者を積極的に受け入れつつ共同体の儀礼を厳格に課す島(2タイプ)もあります。
 Bタイプの島はその選択の結果として、若い世代がその島に定着し、子孫を増やさないと、島の人口が減ってやがて無人島になってしまうところもあります。日本全体に少子高齢化している昨今では、移住者の受け入れをしない島は、人口減少に直面し、限界集落となっていくパターンが多いのです。ただ、想像するにBタイプの島で暮らすと、島の人口が増える方向にいくにしろ、限界集落の方向にいくにしろ、その共同体を維持するための責任や束縛がすごく重そうで、ちょっと暮らしにくいかもしれないなあなんて思ったりします。
 これも想像ですが、人口が極端に少なくなると、共同体を維持するために一人が担わなければならない役割や仕事が多くなるので、快適な人口構成の下限というのはありそうです。ぼくが訪れた島の様子からいって、ざっくりいって3000人程度が下限ではないかなあと思います。そして匿名性が生じてしまうのは、たぶん10000人程度からではないでしょうか。
 なので、ぼくが島に移住するのであれば、Aの1タイプで、人口が3000人に近い島を選ぶか、Aの2タイプで10000人に近い島を選ぶことでしょう。ぼくの好みとしては前者を選びたい気がします。
 おお、長々といろいろ書いてきましたが、一応結論らしいものが出て、よかったよかった。ではではみなさんまた来週。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

海辺暮らしの日常生活~散歩編~



 海辺の暮らしのよさをしみじみと感じられるのは、散歩とビーチでボーッとする時間ではないかと、歳をとってきたぼくとしては思うのですね。
 旅先の海では時間を惜しむように観光し、地元にいるときは朝からウォータースポーツをしてきたぼくです。若い頃はただの海水浴客をバカにし、海に来てBBQしかやることがない奴を無能呼ばわりしていたぼくですが、そんな以前の自分を反省し、悔い改めている今日この頃です。ああ神様…
 最近の我が家のよくあるパターンは、相方と一緒に、チェアとテーブルとお茶とお菓子とアウトドア用のバーナーと水を持って地先のビーチに行きます。
 それも突然。散歩は突然やって来る、とは相方の言葉です。
 天気がよくて、用事がなくて、ちょっと時間が空いたときに、ちょっと海に散歩に行ける、というところが海辺の暮らしのとてもいいところです。そういえば昔都会で暮らしていたときは、今度の週末は海に行くぞーと計画を立てて、出かけていましたっけ。
 ビーチの風の来なさそうな、日当たりのよさそうな場所(季節やその日の風向きによって違います)にお店を広げます。
 とりあえずチェアに座ってボーッとします。
 といいつつ、ぼくは海を見ると反射的に風向きとかうねりとか波とか潮流が気になるので、そういった海況を観察してしまいます。
 目の前は海と空、そして海と空、やっぱり海と空。
 海と空しかないのが、海好きじゃない人にはつまらないようですが、ぼくにとっては、だから落ち着けるというわけです。
 海と空を眺めながら、相方ととりとめのないことを話したり、話さなかったり、景色を見たり、見なかったり、そんな時間が流れたところで、ビーチを散歩します。広げたお店はそのままです。別に誰かが盗るわけもなく、片づけるのも面倒ですから。
 ゆっくりのんびりビーチの端まで歩きます。相方はときどき流れ着いたガラスの破片や貝殻を拾っています。
 散歩が終わって、またチェアに座ってボーッとします。なんだかやたらボーッとしてますが、実際そうです。海と空を眺め、木々の色合いで季節の移り変わりを実感します。潮風を深呼吸します。空を舞う、鳶やカモメや海鳥を眺めます。
 なんとなく頃合いを見て、ぼくはバーナーをセットし、ヤカンに水を入れて湯を沸かします。ぼくはドリップコーヒーを淹れ、相方は紅茶を淹れます。わざわざ湯を沸かしてお茶を淹れるのは、淹れたてがおいしいからですが、やはり温かい物を飲むとホッとするということもあります。
 お茶を飲みながらお菓子をつまみます。
 ゆっくりお茶を味わう時間。しかも屋外で、海のそばで、ゆっくりお茶を味わう時間。お茶を味わうことに集中する時間。お茶を味わうこと以外しない時間。そんな時間を1日に30分でも1時間でもとれたらいいのになと思ったりします。今は何も用がない週末になんとか時間がとれる程度です。
 そんなことをしていると家族で散歩している知り合いがとおりかかったりして、世間話をします。一緒にお茶を飲んだりします。
 海辺ではみんながのんびりしていて、いつもより和気あいあいとした雰囲気になるような気がします。もしかしてみんながこんな気持ちで暮らせれば、世の中は平和になるのかも、いやいやそんな単純なことではないでしょう。
 空はどこまでも広く、海もずっと先まで広がっています。
 毎日やらなければいけないことはたくさんあります。先々を見てもやることはたくさんあります。やってもやってもやるべきことは、また新たに発生します。目標を立ててたどり着いても、次の目標があらわれます。お金を貯めてもさらに貯めたくなるでしょう。会社を興して、順調でも、もっと大きくしたくなるでしょうし、業績が悪くならないように日々気にしなければならないでしょう。
 なんとかこれまで生きてきました。今のところ、家族は健康で、今日明日、とりあえず食べることに不自由はなさそうです。
 それでじゅうぶんではないか、と自分に確認します。これまでも何度も思ったことですが、もう一度確認します。
 そう、それでじゅうぶん。








にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

SPDCの意義について



  SPDCという組織があります。正式名称は「特定非営利活動法人 静岡県ダイバーズ協議会」というそうです。その存在を知るようになったのは、ぼくがやたら伊豆でスキューバーダイビングをするわけで、そうすると利用するダイビングショップやサービスのHPにSPDC加盟などと書いてあるためです。
 そう、スキューバーダイビングを20年以上やっていると、自分もダイビング事故に遭いそうになったヒヤリハットは結構ありますし、潜っているポイントで他のグループが事故を起こしいるのに遭遇したこともありました。
 スキューバーダイビングはもともとリスクのあるスポーツですが、事故を減らそうとする努力は必要です。
 SPDCはスキューバーダイビングの事故をインストラクターやガイド側の力量のアップによって減らそうという試みです。これはとても意義のあることですね。
 まあ、20年以上スキューバーダイビングをやっていて、ダイブマスターの資格を持っていますと、若手のなりたてのガイドに引率されるときには、「大丈夫か?」「それって違うだろ」って感じることが、たまに、いやときどきあります。そういうときにぼくは意見をいうか、「ぼくは○○するからよろしく」っていうようにしています。ガイドはいるにしろどちらかといえばセルフダイビングに近い感じです。
 でもスキューバーダイビングの基本は自己責任。自分の命は自分で守らなければならないし、体調や体力は各自違うわけですから、結局自分で判断するしかありません。
 ツアーでみんながやるというのに自分だけやらないのは勇気が要りますが、そういうときは「ぼくはついていくけど、残圧が○だったら、水深○mまでしか潜らないから、浅いところでで見てるね」とかなんとかいっておけばいいと思います。
 また、インストラクターやガイドの方にとっては、お客さんにもいろいろな方がいるわけで、中には困った方もいるでしょう。そういう場合の対処方法の情報共有においても、このSPDCのような意見交換の場は意義があると思います。
 リスクのあるスポーツですから、できる限り安全に楽しみたいですね。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

日々を、丁寧に、充実して、過ごしたい



 蓼科のハーバルノートシンプルズの萩尾エリ子さんの書かれた本、『八ヶ岳の食卓』が好きで、何度も読み返しています。
 特に仕事が忙しいとか、追い込まれた局面で読むと気持ちが落ち着くのです。
 日々、起きることが淡々と丁寧に書かれていて、本を読んでいると、その落ち着いた雰囲気に、自分の気持ちがシンクロするような感じがします。
 生きていれば、楽しいことも悲しいこともあります。そうした出来事を喜んだり悲しんだりするのも、人である以上仕方のないことです。ですが、そうした出来事はあっという間に過ぎ去り、忘れられていきます。なので、あまりそうした感情に流されすぎないようにした方がいいような気がします。
 人生は、長いようで短いようにも思えます。ただ、何十年という人生は、毎日の積み重ねなのですね。その毎日を丁寧に過ごす、楽しむ、充実して過ごす、ことに集中できれば、それが後で振り返れば充実した30代とか○○代だったり、思い出に満ちた人生だったりするのかなあと思います。
 そうした心持ちが本として読み手の目の前に提示されるのが『八ヶ岳の食卓』です。
 萩尾エリ子さんはハーブを育て、ハーブに関する商品を作っていらっしゃいます。ぼくは以前から感じていたのですが、ガーデニングとか林業などといった植物を相手に仕事をする人というのは、なんとなく落ち着いた、穏やかな方が多いような気がするのです。
 植物というのは自分では動きません。じっとその場所に根を生やし、春夏秋冬が過ぎ去ります。それを自分が動くことなく、ただ受け入れているだけなのです。自分が生きるために、他の動物を襲ったり、争ったり、殺し合ったりもしません。それでも自身は少しずつ成長していくわけです。
 そういう植物を相手に仕事をしていると、人間の方も何らかの影響を受けるんではないか、というのがぼくの推測です。
 暑い日も寒い日も、楽しさも辛さも、やって来る人も去る人も、自分の身に起きることを受け入れて、自分らしさを見失わず、日々を充実して過ごす。そして年月を重ねていく。そんな生き方をされている方が多いような気がします。
 ぼくもそんな生き方ができればいいな、なんて思いながら、もうずいぶん歳をとってしまいました。






にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

海ではとにかく目立つ色



 ウォータースポーツ全般にいえるかもしれませんが、特にスキューバーダイビングではハッキリいえることがありまして、それはプロとかダイビング歴の長い人は黒っぽい器材を選ぶということです。
 なぜかはわかりませんが、ぼくも気がつくと器材全体が黒っぽい感じになっています。
 もともとウェットもBCも黒い製品が多いんですよね。
 で、ダイビングのうまい人が黒っぽい器材でカッコイイから自分もそうしようと思っている方がいらしたら、それはちょっとよく考えてからにした方がいいかもしれません。
 ダイビングを始めた頃教わったように、はたまた数々の経験でわかっているように、海では目立つ色を身につけた方が万が一のときは安全だといえます。レスキューイエローやレスキューオレンジといった色が視認性が高いことは、科学的にも検証されているようです(その根拠を確かめたことはありませんけど、たぶんなんちゃら研究所で検証しているんではないんでしょうか?)。
 インストラクターやガイドの方なら、うねりの高い日のボートダイブで波のまにまにダイバーが見え隠れして、ふとした瞬間、海面のダイバーを見失いそうになったことはあるんではないでしょうか?そんなときもっと目立つ色を身につけてくれたらわかりやすいのにと思った経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
 安全面だけではありません。プロのインストラクターやガイドの場合、自分の受け持ちのグループのみんなからよく見えたり、あの人が自分のガイドだとわかったほうがいいわけですよね。これはわりと起こりがちなことですが、透明度が悪くて、グループの最後尾のダイバーから、先頭のガイドが見えなかったり、大瀬崎やIOPのようにいろいろなグループが大勢いるところだと、他のガイドと間違えたりということがあります。それを防ぐためにも、目立つ、わかりやすい色の器材というのは重要です。
 というわけで、なるべく目立つ色の器材を選ぼうとするわけですが、先ほども書いたように、表面積が大きいウェットとかBCというのは黒っぽい製品が多いわけですね。特に男性ものは、黒っぽいです。以前ぼくの友人のインストラクターが全身オレンジ色のウェットをオーダーしたことがありましたが、それぐらい思い切らないとなかなか目立つ色にはならないものです。その人は目立つには目立つわけですが、行く先々で話しかけられたり、ウェットの話題を振られてました。
 で、あと表面積の大きい器材はフィンですが、フィンもダイビング歴の長い人だと、ミューを使っていることが多くて、ミューのイエローとかオレンジというのもありがちで、他のガイドも使っていたりします。目立つには目立つけど、他者との差別化ができにくい点が課題のようです。
 ぼくの経験からいって、ダイビングで海況が悪いときは、洒落にならないくらいなわけで、もうそれは死と隣り合わせといってもいい状況です。そんなときには、結構本気で目立つ色にすればよかった、全身オレンジのウェットでも、全身蛍光生地のウェットでも、小林幸子さんの電飾ハデハデウェットでも、もしそんなものがあれば、目立つものならなんでも選べばよかったと自分の行いを後悔することもあります。
 もしスキューバーダイビング歴が浅くて、なんとなく格好いいから、うまそうに見えるからということで、黒っぽい器材を選ぼうとしている方がいたとしたら、少しでもいいのでイエローかオレンジの器材を混ぜることをオススメします。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

早朝散歩・砂浜・霧



 賑やかな夏が終わり、落ち着いた秋の海辺になりました。
 夏のあいだ、我が家のそばのビーチは海水浴場になります。海水浴場になるということはどういうことかというと、ビーチのある部分はブイとフロートで区切られ「海水浴エリア」が儲けられ、ライフセーバーの方々が常駐し、海の家が建ち、海水浴客の方々が来る、ということです。
 ご近所の逗子の海水浴場で飲酒やドラッグ、大音量の音楽、海水浴客同士のトラブル多発などで、海水浴場のルールが厳格化されたことからわかるように、海水浴場ができるといろいろと問題が発生するのです。
 なので、ぼくは日中はなるべく海水浴場の方へは近づかず、遠巻きから海の端っこから海に出て、ずっと海の上にいたり、ひっそりとした入江で一日過ごすことが多くなります。
 ぼくにとっては、海で遊ぶことの重要さのかなりの部分を「ヘンな人に会わない」ことが占めるからです。
 そんな風に地元の海なのに肩身狭く海遊びをしていると、顔なじみの地元の友達も同じような行動パターンを取っているらしく、海の上で遭って苦笑いをしたりして、夕方海から上がったら一緒に飲む約束をしたりします。
 うむうむ今日もうまい酒を飲んで一日終われそうだ、などとうれしくなります。
 海水浴場問題は避けがたくぼくの前に立ちはだかっていますが、でも夏の海辺というのはやはりいいものでして、それを楽しめるのは、早朝です。
 我が家は5時くらいに起きますが、それからぼくは砂浜を散歩します。Tシャツ・短パン・漁サンで…
 早朝の海は、昨日の喧噪が波と一緒に洗い流されているようで、スッキリしています。真新しい一日が始まる感じが漲っています。
 遠くの山には霧がかかり、森の緑が少しぼやけています。
 波の音と遠くの漁船のエンジン音が聞こえます。
 いつも会うご近所のオバサンが犬の散歩をしています。いつものように挨拶します。
 砂浜についた自分の足跡をときどき振り返ります。
 遠くの江の島や葉山の岬を眺めながら、「たぶんこの風景は200年前も500年前もそんなに変わっていないんだろうな。人はどんどん代わるのにな。しょせんぼくだってそうした入れ代わる人の1人なんだよな。入れ代わって、ぼくはどうなるんだろう。往生っていうからあの世へ往って生きるんだろうか?オヤジやじいちゃんやばあちゃんは、どうしてるだろうか?」なんて漠然と考えを巡らせたりします。
 ぼくはこうしたノンビリ、マイペースで、ときどきボーッとしながら過ごす時間が好きです。何か目標に向かって、時間を気にしながら、慌てながら、追い立てられるように過ごす時間が嫌いです。よく自分が社会人をやってるなあ、とつくづく不思議ですが、それは世を忍ぶ仮の姿といっても過言ではありません。
 朝の散歩の時間は、ぼくが素のぼくに戻れるとても大切なものなのです。






にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

いつも海の気配を感じていられる暮らし



 海バカを自認しているぼくとしては、海辺で、海の近くで暮らせているのは幸せなことです。都会に住んでいる人には、通勤に時間がかかるでしょうとか、別荘を持って週末通うようにしたらとかいわれますけど…
 朝、目が覚めるときから、波の音が聞こえ、それでその日の海況がなんとなくわかります。
 ベッドサイドの窓を開けると朝日にきらめく海が見えます。
 朝の光と波の音と潮の香りを感じながら朝ご飯を食べます。
 デッキに出て海を眺めながらコーヒーを飲みます。
 その日の海況をチェックして、その日に合ったウォータースポーツをします。波があるときはサーフィン、海が静かなときはスキューバーダイビング、少し涼しい日はシーカヤック、風があるときはセイリング、どれもできないときはビーチを散歩します。
 一度海に出ると夕方まで遊んでいます。
 帰ってくると、海遊び道具を洗って、メンテします。
 そしてシャワーを浴びます。
 さっぱりしたら、デッキでビールを飲みます。潮風を浴びながら、波の音を聞きながら…
 夜は音楽を聴きながら、窓の外の海灯りを眺めています。海岸線の車のライト、漁船の灯り、灯台の明滅…眺めながらボーッとしていると、昔旅した海のことがいろいろ思い出されます。
 そして波の音を聞きながら眠りにつきます。
 朝から晩まで海の気配を感じながら暮らせるのは、海好きなぼくには何ものにも代えがたいことなのです。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

駅・空港・港 旅立ちの場所はいいですねぇ



 旅立ちの場所というのは、なんだかドラマティックな感じがします。
 駅のホーム、空港…
 非日常と日常の境界だからでしょうか?別れの場所だからでしょうか?それとも新しい未来を感じさせるからでしょうか?
 ぼくはこうした場所が好きです。旅の行程はいろいろありますが、旅の出発の場所にいるときが一番好きかもしれません。
 海を旅行することが多いぼくにとっては、空港なんて懐かしい思い出がありますが、海旅行で特に印象的なのは、港です。
 離島の旅行をするときに船旅はつきものです。船旅はぼくにはとっては特別なものです。
 伊豆七島への旅、石垣島から離島への旅、宮古島から多良間島への旅、どれも楽しい思い出です。
 ここで豪華客船の船旅とか、リゾートアイランドへの旅の話を書かない(書けない)ところが、自分らしいなあと、思ったりするわけです。
 離島への船便というのは、地元の人の生活の足であったり、日用品の運搬手段であったりもするわけで、そういう暮らしと密着した人間くさいところもいいですね。ぼくはそういうところに垣間見える人々の暮らしに興味があるんですね。この人はどんな暮らしをしているんだろう、この人はどんな人生を過ごしてきたんだろう、なんて想像したりするのが好きだったりします。旅で地元の人の日常に接することができると、「ああいいなあ」と思ってしまうんです。自分は非日常の旅の途中なのに、この人は日常的な暮らしの中にどっぷり居て、それが同じ場所で交差する不思議さに惹かれるのかも知れません。
 とても個人的な好みの話を書いてしまっているので、そういうことに全然興味がない方にはつまらないかもしれませんが…あぁ、ぼかぁロマンチストかもしれないなぁ…あぁ海はいいなあぁ…
 さあ、ここで問題です。こんな感じで、海が好きなうえに、旅が好きなぼくは、このまま普通の社会人を続けられるでしょうか?
 答えはCMの後すぐ…





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!



拍手[0回]

最新記事

(09/20)
(09/14)
(09/13)
(08/31)
(08/30)
(08/24)
(08/23)
(08/17)
(08/16)
(08/10)
(08/09)
(08/03)
(08/02)
(07/27)
(07/20)
(07/19)
(07/13)
(07/12)
(07/06)
(07/05)
(06/29)
(06/28)
(06/22)
(06/21)
(06/15)

ブログ内検索

PR

カレンダー

01 2026/02 03
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

最新コメント

PR

google

最新トラックバック

RSS

follow us in feedly

アクセス解析