海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
コンパクトシティって、どの程度のコンパクトさなんだろう?
これからの世の中コンパクトシティが大切になるそうなんですが、ぼくのようにそういうのが苦手な人はどうすればいいんでしょうか?
この間雑誌を読んでいたら書いてありました。
日本はこれから何十年かにわたって、高齢者が多くて若者が少ない社会が続くそうです。そして少子化の影響で人口も減っていくそうです。そうすると地方などでは自治体として成り立たない地域が出てくるかもしれないそうです。そのような社会では、できる限りみんながまとまって近いエリアに住んで、社会インフラとか行政サービスなどを最小限にしながら、そのサービスの税負担を少なくしていかないと、働き手は高税で大変だよ、まったく、暗い話ばっかりだぜ、みたいなことが書いてありました。
理屈としてはすごくわかりやすいなあと思いました。
北海道の町じゃないエリアで一世帯とか数世帯がポツンと住むのがたいへんで、効率的じゃないのはよくわかります。
それで、ぼくとしては、疑問が湧きまして、近いエリアっていうのはどの程度なんだろうなあ、ということなんです。どの程度の規模ならセーフなんでしょうか?
東京の23区とか、都下の市街地くらいなんでしょうか?
それともたとえば浜松市はok?浜松市に特に意味はないですけど…
それともたとえば東金市はok?東金市にも特に意味はないですけど…
じゃあ東京都の日の出町はどう?
って、どうしてそんなことが気になるかというと、ぼくは、東京都下の大きな街に住むのはイヤで、日の出町なら住みたい、って思う価値観の人間だからです。
いくら効率がよくても、あんまり建て込んだゴミゴミ密集したところに住みたくないという人は割りといるんじゃないかなあ。
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海はぼくにとって価値観転換装置
お気楽にテキトーに日々を送りたいと頑張っています。
自分でいうのもなんですが…、いえいえそんなめっそうもない、それじゃ失礼して…
若い頃のぼくというのは、せっかちで目標を定めると脇目も振らずに進んでいくタイプでした。体育会系なもので…
しかも、細部にこだわるタイプでもあったのです。
で、ある頃からそういうのって疲れるなあと思ったんです。なので、それから努めて、お気楽にテキトーに、目標とかいうものを敵視?して生きてきました。
その努力の甲斐があって、今では毎日ビールが飲めればまあいいかあ的な暮らしをしております。
目標とか自分のこだわりというのは、大雑把にいえばエゴです。社会の中で自分の我を通そうという行為なので、周囲と摩擦が起きて疲れるわけです。しかも目標に向かって自分を律するわけですから疲れるはずですよ、そりゃ。
目標をもってそれを成し遂げる人生が尊いのか、それともただその場限りが楽しい人生がいいのか、それはわかりません。それはその人の価値観によるのでしょう。
でも、自分が疲れるほどやるのはやりすぎで、もう少し楽に生きてもいいんじゃないかと思うのです。楽に生きるのは、周囲との摩擦を避けて、適当に流されるのがひとつの方法です。
なので、最近疲れるなーとか生きにくいなーと感じたら、それは自分が自分の価値観に固執しているか、目標を達成しなければなどと思い込んでいることが多いわけです。
そういうときは、「本当にそれってそんなに大切なの?」とか「自分が思ってるだけじゃない?」とか「他の見方もあるんじゃない?」とか「自分が一番正しいと思ってない?」とか「自分がいなけりゃ何も回らないと思ってない?」などと、少し引いた目で自分を眺めるのが効果的です。
ぼくはかれこれ30年くらいウォータースポーツをやってきました。ぼくと海遊びの相性がいいのは、海という自由な場は、ぼくのお気楽テキトー路線を支援してくれるようなところがあるからだと思います。海って、とにかく広くてルールがなくて人もいないので、そういう自分のこだわりみたいなものがちっぽけに感じられるのです。
以前も書きましたが、ぼくは海でボーッとしていると、どうでもいいことをいろいろ考えるのです。どうでもいいことって「伊豆半島は、何百万年前かしらないけど、本州にぶつかったんだよなー」とか「昔はこのあたりにも武士がいて、戦を繰り広げていたんだよなあ」とか「昔の人はエンジンもないのに、風と手漕ぎだけで、この大海原に漕ぎ出して、世界中を移動していたんだからすごいよなあ」とかそういう、本当にどうでもいいことです。
そうするとまあ自分のことがどうでもよくなるんです。もう少しちゃんというと、自分の価値観がちっぽけなものに思えてくるんです。
そういう意味で、海というのはぼくにとって価値観転換装置なんだよなあとしみじみ思うのです。チェンジ・オブ・ペースできる最高の場なんです。そういう場がぼくにはあってよかったと、それは誰に対してだかわかりませんが、感謝してます。

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ねぇねぇ、アーシングだってー
アーシングってご存知ですか?
ぼくは最近知りました。
湘南のあたりで、ベアフットというコジャレた活動が微妙に繰り広げられているのは知っていましたけど…
アーシングってearthingのことで、電気製品をアースするといいように、人もアースした方がいいということのようです。似たような意味でグラウンディングという言葉も使われるようです。
人も電気を帯びていて、それが身体に悪い作用を及ぼすことがあるんだとか…それを定期的にアーシングすることで、解消するということのようです。いわゆる電磁波関係健康問題の範疇に入るんですかね。
電磁波が身体に悪いというのは以前からテーマとしてありましたよね。
電磁波が身体に悪いというのは以前からテーマとしてありましたよね。
電磁波というと、なんだか少しオカルトっぽい感じがしないでもないなあと若干冷ややかに眺めてます。
検索してみるといろいろなページがあって、一応研究もされていて、エビデンスもあるみたいです。
でもねえ、本当かな?
やることは別に難しくなくて、素足で土のうえを歩くだけ。
特に海水を含んだ砂浜などは電気を通しやすいんで、アーシングに向いているそうです。
効果としては、熟睡できるとか、痛みを軽減できるということのようです。
それでですね、ワタクシとしましては、いろいろ疑問がありまして、ぼくはシーカヤックとかスキューバーダイビングとかして、日々海に浸かってますけど、あれはアーシングになってるんでしょうか?
やっぱり土じゃなきゃいけないんでしょうか? もちろんコンクリートやアスファルトじゃなきゃダメだとう理屈はわかりますが…
教えてよ、メーテル…
やっぱり土じゃなきゃいけないんでしょうか? もちろんコンクリートやアスファルトじゃなきゃダメだとう理屈はわかりますが…
教えてよ、メーテル…
海水なので、アースできているような気もしますが…
たとえば手を海に浸けるだけで、アーシングになるんでしょうか?
よく家でもどんな建物でもアースをとっていると思うんですが、そこに触ればいいんじゃないかとも思うんですけど…それじゃダメなの?
ぼくは電気関係のことがよくわからなくて、電磁波と電波と電気の違いだってちゃんとわかりません。
教えて、クララ…
教えて、クララ…
それから人は生まれてから死ぬまで必ず電気を帯びていると思うんですけど、それって、やはり身体に悪い影響を及ぼすんでしょうか?
よく電磁波要注意系団体の方は、自然の電磁波と人工の電磁波は、人体に及ぼす影響が違うっていうんですけど、何がどうちがうんでしょうか?
ていうか、地球自体が電気を帯びてるんじゃないの?
それからよくニュースで大きな太陽フレアが観測されているので、注意してください、みたいなのを見ますけど、あれも電磁波じゃないの?
それからよくニュースで大きな太陽フレアが観測されているので、注意してください、みたいなのを見ますけど、あれも電磁波じゃないの?
ねえ、どうなの?あなたわたしのことどう思ってるの?あの女とはいつからできてるの?もうわたしのこと好きじゃないの?
人生は謎だらけ…
人生は謎だらけ…
と、長ったらしい文章ですが、結論として、ぼくは、アーシングの健康効果についてはいろいろ疑問があるということなんです。
続いて、裸足であることが健康によいという主張の人達もいて、いわゆるベアフットナチュラル系団体の方もいますねえ。
この方々のご主張としては主に3点あって、元々人類は裸足で歩いていた。だからそれがナチュラルな本来の在り方だ、という論点。もうひとつは靴に頼らないで歩いたり走ったりすることで体幹や関節などが鍛えられるという論点。もうひとつは裸足で歩くと、足の裏にはたくさんのツボがあり、それが刺激されて身体にいいという論点です。
1番目の論点は、よくある「ナチュラルであることが最善」論法でして、3番目はツボの刺激は身体にいいということです。2番目は、ぼくにはよくわかりません。知識がないから、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないと思います。
ただ、まあ、この3つの中では、ツボの刺激が身体にいいという理屈の方が筋はいいように思えます。勘ですけど…
ただ、まあ、この3つの中では、ツボの刺激が身体にいいという理屈の方が筋はいいように思えます。勘ですけど…
「ナチュラルであることが最善」論法派の人達は、その身体に悪い対象が、水道水の塩素から、空気中の微粒子や汚染物資、食物に含まれる農薬、洗濯した後の衣類に残る洗剤の成分、塗り薬を通して人体に吸収される経皮毒、家具に使われている接着剤が揮発する際の化学物質、魚に蓄積した化学物質と、ありとあらゆることに影響していって、人間はネアンデルタール人であった頃に戻らないと絶対ダメみたいな話になってしまうので要注意です。
お前、今までに医者に行ったことないのか? 薬飲んだことないのか?とツッコミのひとつも入れたくなりますが、世の中にはいろいろな人がいるから、人のことはいいの、とおばあちゃんがいってました。
お前、今までに医者に行ったことないのか? 薬飲んだことないのか?とツッコミのひとつも入れたくなりますが、世の中にはいろいろな人がいるから、人のことはいいの、とおばあちゃんがいってました。
で、大きくとらえると、アーシング推進派の人達は、この「ナチュラルであることが最善」論法派の部類に入るわけですね。その中の電磁波要注意派です。
いろいろな健康法があって、次から次へと出ては消え、流行っては廃れ、その様はさながら80年代のアイドルのようです。
ぼくは海に出ることが身体や気持ちにいい影響を及ぼしていると実感しているので、自然と接することの大切さは疑わないのです。
なので裸足で砂浜を歩くことも、海に出るたびにやっているので、まあそうかなと思うんですけど、実感として、砂浜を裸足で歩くことより、自然の中に身を置くこと、そこで太陽を浴び、海水に浸かり、広々したところで身体を動かすことによる気持ちよさの方がずっと影響が大きくて、裸足のよさ云々が霞んでしまっていると感じます。
ぼくは海に出ることが身体や気持ちにいい影響を及ぼしていると実感しているので、自然と接することの大切さは疑わないのです。
なので裸足で砂浜を歩くことも、海に出るたびにやっているので、まあそうかなと思うんですけど、実感として、砂浜を裸足で歩くことより、自然の中に身を置くこと、そこで太陽を浴び、海水に浸かり、広々したところで身体を動かすことによる気持ちよさの方がずっと影響が大きくて、裸足のよさ云々が霞んでしまっていると感じます。
だし粉って便利ですよね
ぼくの家のそばに漁港がありまして、その漁港に直売所があるんです。今、流行の道の駅的な洒落た直売所じゃなくて、漁協のなんとなく田舎くさい直売所です。
そこは地の魚や地の野菜や手作りの漬物やカップラーメンやお菓子など、コンセプトの甘い品揃えなんですが、値段は安くて、品物は新鮮で、地元の人が愛用している「なかなかやる店」なのです。品揃えが大手のスーパーにあるものと違っているというのも人気の理由かもしれません。カップラーメンなら、日清食品ではなくて、見たこともないようなブランドだったり、お菓子もグリコとかじゃなくて、おしるこサンドとかがあったりします。別に名古屋の漁港じゃないんですけど…おもしろいですね。
で、そこにだし粉が売っているんですね。だし粉自体はテレビで紹介されて一時期人気が出たので、ご存知の方も多いと思います。ただ、その直売所のだし粉はなぜかちょっと安いんです。よくあるだし粉なんですけどね。オリジナルとかではなく…
だし粉って便利ですよね。入れると味わいが深く濃くなります。和風っぽいものなら何に入れてもokですしね。
我が家では、アオサ、すりごま、だし粉は料理のかくし味として多用されています。
味噌汁にひとふり、うどんにひとふり、ラーメンにひとふり、煮物にひとふり、雑煮にひとふり…
冬でも海に出ると気持ちよくなくない?
テレビの天気予報では「今季最大の寒波が…」「冬将軍が…」なんていってますね。寒い地域の方や雪がたくさん降る地域の方はたいへんなんだろうなと同情しつつ、ぼくはそういうところに住んだことがないので、その大変さというのは実感としてはわからないのです。すみません。
お天気オネーサンにぜひお願いしたいんですが、寒い時に「今年の最低気温」とか「初霜」とか「最大の寒波」とかいわないで欲しいですね。余計に寒くなりますから…
ここは「あと6ヶ月もすれば夏です」とか「気温は氷点下ですが、体感温度は10度です。わたしのハートは36度よ」とか優しく微笑みながらいって欲しいです。何事もポジティブに考えるのが大切だって、高校の先生もいってました。
ぼくが住んでいるところは、冬でも零下になることは数えるくらいで、最高気温は10度くらいにはなります。
そんな土地ですし、ウォータースポーツを始めた頃から、冬でもサーフィンをやってましたし、PADIのレスキューダイバーの講習を受けたのも冬のドライスーツの時期でしたから、冬に海に出ることは当たり前という雰囲気の中で育ってきたのです。「なにー寒いだとぉー今寒いっていったヤツ一歩前に出ろっ」という雰囲気の中で育ってきたのです。
なので今でも冬でも海に出ます。そんなの当たり前です。もちろんです。
スキューバーダイビング・サーフィン・シーカヤック・セイリング…
海に出た方が、というか海に出ないと体調が悪くなります。身体を動かすからか、自然の中に出るからなのか、海に出るからなのか、その理由はよくわかりませんが、実感としてしばらく海に出ないと、体調がなんとなくスッキリしません。
このあたりの理由をぜひ研究者の方に研究していただきたいなあと思ったりします。
ぼくは遊ぶことに忙しくて理由なんて調べてるヒマはないので、そういうのは専門の方にお願いしたいと、かように思うわけであります。
でも、冬に海遊びしている仲間と話すと同じようなことをいう人が結構いて、「ちょっと寒いけど海に出た方が調子がよくなる」「海で遊ぶと気持ちいい」「海に出ないと運動不足になる」「お肌のハリとツヤが違う」「最初はちょっと怖かったけど、一度経験したらすごく気持ちよかった」(少しウソが入ってます)などなどとお客様からの絶賛の声が数多く寄せられている、らしいです。
都会で暮らす一般的な社会人の方にこんなことをうっかり話すと、別の星から来た地球外生命体のような目で見られるので話しませんが、今は道具類が進歩していて、寒さを緩和するウェアとかもたくさんありますし、いうほど寒くはないんです。海から上がればシャワーや風呂にも入れますしね。それに水温というのは相模湾あたりだと15度くらいあります。気温が10度でも水温は15度。というわけで、海の中の方が暖かいし、身体を動かしていればなおさらです。
しかも、気分もスッキリ、運動不足も解消できると…
ぼくの住みたい海辺は、田舎の漁村
ぼくは海辺に暮らしています。
東京に通わなくてはいけないので、日本全国どこの海辺でも住めるというわけではありません。
せいぜい神奈川とか千葉とかなんです。それでも住みたい海辺というのはあって、できる限りそういうところに引っ越してきました。
ぼくが住み心地がいいなあと思う海辺は、もう、まさしく、ジャストで、ザ・昔からある日本の漁村、というところです。たとえば寅さんが訪れそうな…古いですね…浜ちゃんが行きそうなところ…です。
小さな漁船が港に上げてあって、漁師小屋があって、季節の海藻や魚が干してあって、軽トラが停まっていて、猫が日なたぼっこしているような漁村が好きなんです。
ぼくは漁村の生まれ育ちではないんですが、子供の頃から漁師さんとか農家のオジサン・オバサンと打ち解けるところがあって、それは成長しても変わらず、自分がオジサンになった今となっては、漁師さんと話がはずんで意気投合するようになりました。今では「アンタはいい漁師になれるよー」とまでいっていただけるようになりました(ちょっとウレシイ)。
そんなぼくにとって漁村というのはすごく住みやすいんです。
以前、湘南の鵠沼というところに住んでいましたが、ちゃんとした町で、ちゃんとした住宅街で、どちらかというとちょっと洒落ていて、住んでいる人も中流以上の暮らしをしている場所でした。そこはあまり住み心地がよくなかったんです。なんか気取った雰囲気に馴染めませんでした。
鎌倉にも一時期住んでいましたが、芸術家っぽい人とか、会社員でも高給取りっぽい人とかが多くて、ちょっとなあと感じました。
漁村の何が暮らしやすいかというと、気取らないでいいというところです。
たとえば休みの日に髪の毛ボサボサで、安物の短パン・Tシャツ・ビーサンの黄金の海辺セットで道をブラブラしていても、郵便局に行っても、スーパーに行ってもぜんぜん平気です。
家族で大声でケンカしても、別に近所の人は笑ってますし、ときにはどうしたどうしたと話を聞いてくれたりします。
お祭りや子供の運動会も町中で一緒にやりますし、ぼくはそういうのが好きみたいです。
そういうのって人それぞれの好みなので、たぶん苦手な人は苦手でしょうね。
ガンガンいこう!
「だいたいまともなヤツはサーフィンとかスキューバーダイビングなんかしないんだよ」
ぼくの大学時代からの友人で、現在誰もが知っているような大企業で管理職をやっている人の意見です。
ヤツの真意は、ウォータースポーツというのは危険で、社会でちゃんとした役割があったり、家庭があったりするような責任ある大人のすることじゃない、ということです。
大学時代は仲がよくて、結構無茶なこともしたんですが、ずいぶんつまらない大人になったものです。
ぼくは一応会社で働いていますが、ヤツのようには考えていません。組織というのは不思議なもので、誰が抜けてもなんとか回るものです。今の日本の会社で働くということは、どんどんリスクを取って、これまでにないような局面を切り開いていかなきゃいけないということなので、ちょっとくらい横着なヤツの方が向いていると思います。
ぼくの友人のような保守的なヤツばかりの会社は、そのうち危なくなるんじゃないかって予想します。
とはいえヤツのような考えは、多くの「まともな」社会人の標準的な考え方なんだろうなとも思うんです。ぼくの方が異端であるというのは、なんとなく自覚しています。
できる限りリスクを取らない、できる限り平穏な人生を望んでいる人は結構いるんでしょう。
以前も書きましたが、ぼくはやりたいことをやって密度の濃い人生を過ごしたいと思っているので、そういう「まともな」大人の考え方には反対です。
日本はまがりなりにも自由で民主的な国だということになっていますから、やりたいことをガンガンやればいいんじゃないでしょうか?それで失敗したり怪我したり病気したり死んだりしてもそれが何だというのでしょうか。ぼく一人がどんなに横着なことをしたってたいしたことではないでしょう。
よく父が酒を飲みながら話してくれた「男は、挑戦して失敗してまた挑戦して、心も身体も傷だらけになっても、それでも何もなかったように前に進み続けるものだ」という言葉を、ぼくは最近になって、本当にそうだなと思うようになりました。
ウォータースポーツをしていて、ふと思いを馳せるのは、大海に出ていくのは現代のようなテクノロジーが発達し、情報が十分な時代でも恐怖を伴うものですが、昔の人というのは、木造の小舟で世界中の海を行き来していたという事実についてです。
その勇気、それは勇気だったのか、それとも生きるためにやむを得ずだったのかわかりませんが、その未知の世界に踏み出していこうという挑戦心に、ぼくは驚くのです。畏敬の念を抱くのです。すごいよね…
でも、おそらくそういう無謀ともいえる数々の挑戦と数々の犠牲の歴史的積み重ねのうえに、今のわれわれの生活は成り立っているのは間違いありません。
それは今でいうところの起業とかベンチャーキャピタルとか、そういう既存の枠組み外の挑戦だったのではないでしょうか?
気にしない気にしない
海外(の海があるところ)とか離島を旅するのが好きです。
海外旅行をすると、特に発展途上国を旅すると、日本人っていろいろ細かいことを慮ってよくないな、と思うのです。もっとKYで鈍感でマイペースでいいんじゃないでしょうか。で、お互いにいいたいことを言い合うといいんじゃないかって…
あと、みんな気楽に生きてるよなーって思うんです。日本より経済的には恵まれていないのに、そんなに先のことを心配していない感じ。日本はといえば経済的にはGDP世界第3位です。一方自殺率は7位。高齢化対策、少子化対策など課題が山積していますが、そんなに悲観することもないような気がするんです。というか、将来のことを考えすぎるから子供を作らないんじゃないかって思ったりもして…
日本のたとえば沖縄方面の離島とか旅してると、地元の人はノンビリ、気楽に暮らしてますよね。もちろん悩みはあるに決まってます。でも楽しそう。あくせくしてないように見えます。内地に比べれば仕事も少ないし賃金水準も高くないでしょう。
でも、日々暮らすということでいえば、暮らしていけるわけで、それでいいんじゃないでしょうか…
朝ゆっくり起きて、ゆっくり朝ご飯食べて、お茶飲んで、掃除と洗濯して、隣のサトウキビ畑の手入れして、昼ご飯食べて、昼寝して、近所の友達らと井戸端会議して、夕方はサツマイモ畑の手入れして、夕ご飯食べて、ビール飲んで寝る。
一方、東京の大企業の課長さんはといえば…
朝、6時頃起きて、朝食を食べて(何を食べたか覚えていない)、たまプラーザにある一戸建て5LDKの家(愛車はBMW)を出て、たまプラーザ駅から満員の田園都市線に乗って、痴漢に間違われないように最新の注意を払って、また満員の山手線に乗り換えて会社に着いて、会議と部下の営業の付き添いがずっーとあって、営業の見積り資料にミスがあって、それの対応で昼飯が喰えなくて、部長から呼び出されて、先週の重要顧客からクレーム来た件の対応状況を問いただされて、不十分だと叱られて、部下と臨時の対応ミーティングをして、気がつくと夜の9時で、それからまた満員電車に揺られて帰って、夕飯食べて(何を食べたか覚えていない)、1年前から不眠で精神科で処方された睡眠薬を飲んで寝る。
人にはそれぞれ価値観があって、何をシアワセと感じるかはみんな違います。離島の暮らしがシアワセと感じられる人もいれば、都会の暮らしがシアワセと感じられる人もいます。
ねぇ、ぼくはいつも戸惑うんですが、どちらもシアワセかもしれませんが、あえていえば先ほどの例の2人のどちらの人生がシアワセなんでしょうか? もし自由に選んでいいといわれたら、ぼくはどちらの人生を選ぶんでしょうか?
そんなの一概にいえませんけど、自殺率7位ってどうなんでしょう? どこかに直さなければいけないところがあると思うんですけど、それがどこかわからないところが日本の深刻な点じゃないかと思うんです。
あとね、細かいことにこだわったりしますよね。それは美徳でもあるんですけど、そのこだわりが変な発揮のされ方をするとちょっとややっこしくなります。あいつの態度が気に入らないとか、会議でいったあの発言は何か裏があるんじゃないのかとか、この間の部下のミスは、実は部下が別な部署の部長とつるんでいて、オレを陥れようとしているんじゃないか…とかね。
細部を気にする神経の細やかさがそっち方面に発揮されると、だんだん病んでいくような気がするんですよね。
ぼくは歴史小説が好きなんですが、今の日本の状況って、平安時代の貴族の暮らしとか、江戸時代末期の幕府の上層部の暮らしに似ているなーって思います。何が似ているかというと、制度がガチガチに固まっていて、暮らしぶりは豊かで、日々決められた行事の繰り返しで、その制度の中で、細かなことばかりが配慮されて、大切な骨子の部分が抜け落ちているところです。そして、みんな減点されないように上の人の顔色ばかりうかがって生きているところです。
体制が整うと、日本人ってやっぱりいつの時代もこうなっちゃうんでしょうか?
一時期「鈍感力」という言葉が使われることが多かったように思いますが、確かに日本人には鈍感力って大切かもしれません。あとKY力とか…
ぼくは忙しくなったり、なんとなく気持ちがモヤモヤするときは、沖縄の離島の人達の暮らしぶりとか、海外の発展途上国の人達の暮らしぶりとかを思い浮かべるようにしています。そうするとなんだか自分が、すごく些細なことを気にする世界の住人のように思えてきてバカらしくなります。
みんな同じ人間、同じように生きているだけですもん。
少なくとも、ぼくはなんとか食べることはできる恵まれた国に暮らしているし、安全といえばまあ安全だし、頑張れば報われるだけの自由はあるし、何も思い悩むことはない、気にするな、なんとかなるさ、ちょっと一時期忙しいだけじゃないかと、自分にいいきかせます。
馴染みの喫茶店が閉店してしまった欠落感
ぼくが長年通っていた家の近所の喫茶店がずいぶん前に閉店してしまいました。
長年通っていてこんなことをいうのもなんなんですが、すごい特徴があるわけでもない普通の喫茶店でした。カフェブームが起きて、個性的なカフェが乱立している今だからよけいにそう思うのかもしれません。
海辺の町にあって、海が見えるわけでもなくて、まわりが木々に囲まれていて、少し山小屋っぽくて、薪ストーブがあって、天井が高くて、気取らない、いついっても静かな喫茶店でした。
ただ、不思議なもので、その喫茶店はなんとなく落ち着くんです。居心地がいいので、結構長居してしまうのでした。
人の家に遊びに行ったときも感じますが、その建物が新しくて、高価で、キレイで、こだわりがあっても、居心地がいいと感じるとは限らない気がします。
その空間が居心地がよくなるのは、設計者の意図によるものなのか、施工者の技術によるものか、住み手の生活のしかたにあるのか、あるいはいくつかが混ざりあっているのかはわかりません。
ただ、確かにいえるのは、居心地がいい空間とそうでない空間があるということです。
その行きつけの喫茶店は観光客を相手にした店ではありませんでした。お客はたいてい地元の人でした。混んでいることはめったになくて、馴染みのお客がポツポツといるという感じでした。
コーヒーの香りとゆったりした時間が漂っていました。
なんとなく自宅以外のところで、ゆっくりコーヒーが飲みたいなと思うと、その喫茶店に行っていました。特にすごく行きたいと思ったわけではないのです。なんとなく行っていたのです。ぼくの中では、自宅の別室とか離れみたいな感じでした。
でも、店がなくなった今となっては、なんとなく行く場所がなくなった欠落感が、思いのほか大きいことに自分でも驚いています。
そういうことって、他でもありますよね…

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スキューバーダイビングで危なかった話~テトラポットには気をつけろ!編~
ヤバいよヤバいよシリーズということで、スキューバーダイビングのリスク管理とかこれまで経験したヤバイことは以前まとめたことがあります。
で、今回はその追記です。
結論は、テトラポットには気をつけろ、ということです。これは自分のために、自分の判断ミスを忘れないためにも記すものですが、他のタイバーの参考になれば、それは何よりもうれしいことです。
何年か前に東伊豆でダイビングしたときのこと。だからぼくが40歳前半くらいだったかな…
ビーチダイブで漁港のスロープからエントリーして防波堤の向こう側に出て、ぐるっと回って戻ってくるというコース。最大水深も15m。通常ならなんてことのない初心者向けコースです。
ただその日は低気圧が張り出していて、うねりが入っていました。それもかなり強め。ざっくりいって2m以上はありました。普通はクローズして西伊豆に流れるコンディションです。ぼくだけだったらそうするでしょう。
ただそのときは、ガイドとぼくとバディの3人。ぼくもバディもダイブ経験は多少はあります。本数でいうと300本程度。しかもバディは久しぶりに休みが取れて、けっこう潜りたいモードなので、ガイドは潜ることに決めました。
エントリー後、30分間、問題なくダイビングが進みましたが、ビーチに戻る直前の防波堤のテトラのそば、水深5mくらいで、上昇する潮流に巻き込まれました。もうあっという間、BCのエアを抜いているヒマもなく数秒程度で水面に浮かんでしまったのです。肺の過膨張障害だけは避けること、テトラに入り込まないようにしたことは、今でも憶えています。
水面に浮かぶと、ぼくの目の前にはテトラの塊が…距離として2mくらい。周囲を見回すと水面にいるのはぼくだけ…つまり上昇する潮流に巻き込まれたのは、ぼくだけだったんです。
今思えば、外洋から強いうねりが入っていて、それがテトラにぶつかってあるところで上昇潮流が起きていたんだと思います。まあ、そういう潮の流れがあっても全然おかしくないです。いや、テトラに吸い込まれる潮流じゃなくてホントよかった。ぼくは今生きてこうしてPCに文字を打ち込んでいます。あぁ、生きるってステキ…
背後を見るとテトラに向かって外洋からうねりがガンガン入ってきます。つまり、ぼくの背後からぼくをテトラに打ち付けるようにうねりが来るわけ。ダイバーとして、いやウォータースポーツをする人としてテトラに入り込むのだけは避けたいじゃないですか…
テトラは防波堤の外側に30mくらいの幅で置かれているんです。つまり防波堤を保護するために防波堤の長さだけ置かれているんです。ぼくが浮上したのは、防波堤の港から一番遠いところ。ぼくの位置から水面移動で港の内側まで泳ぐのは相当な距離がありそうです。しかもうねりに逆らうように泳ぐ部分もあります。
防波堤と逆方向は、テトラがなくなって、ゴロタのビーチです。そっちの方はテトラを抜け出すのに5mくらい。そしてゴロタまで20mくらい。絶対そっちの方が距離が短いし、しかもうねりに押される方向です。
なのでBCにエアを入れて、ガイドとバディが浮上するのを待たず、ゴロタ方面まで水面移動を始めました。おそらく水面でガイドとバディを待っても、ぼくの近くには浮上しない可能性があるなと思いました。その場合、このうねりだと、お互いに近づくだけでも相当な体力を使うはずです。
このときの残圧は80。まあまだ大丈夫。
ここままでで、自分で振り返って気がついたんですが、2mくらいのうねりが押し寄せてくるのに、ビビらず、パニックにならず、意外に冷静に判断しているんですよね。そこは自分でも自分をほめてあげたいです。まあ死ぬときは死ぬので、どうせ死ぬなら落ち着いて死んだ方がいいし、まあなんとかなるさと思っていました。
なので、スノーケルを咥えず、レギュレーターのまま水面移動をしました。うねりが強くて、スノーケリングだと海水を飲む可能性があったからです。
しかし40歳前半のオッサンにとっては30m弱の水面移動はけっこうきついです。以前はPADIのレスキューダイバーの講習とかダイブマスターの講習では余裕だったんだけどなあ…でもそんなのもう何十年も前の話だしさ…
でもまあ、焦らず息を切らせないようにゆっくりとゴロタ方面に移動しました。
そうしたら、ガイドとバディが堤防の入口の潜行用ブイのところに浮上していて、大丈夫かあといっている様子。波の音がすごくて声は聞こえません。ぼくはokサイン。そしてガイドはそのままゴロタに上陸して堤防を歩いて、エントリーポイントまで戻ってこいとハンドシグナルを出しました。ぼくはokサイン。
ぼくの存在は認識してもらったようなので、万が一帰還できなくても、捜索して、遺体は回収してもらえるかもね…いやーひと安心…
おぉヤレヤレゴロタまであと5mくらいまで来たなあ、あのゴロタにどうやって上陸するか、なるべく小さなゴロタ、かわいいゴロタ、柔らかそうなゴロタ、地球にも人にも優しいゴロタを選ばないと、頭とか身体とかぶつけたら重症になります。ヘタしたら死にます。イヤだな岩に頭ぶつけて頭割るの…
で、微妙に方向を調節をしていると、これまでのうねりよりひときわ大きいうねりが来て、ぼくは一気にうねりにヤラれてしまいました。大きなうねりがブレイクするあたりにいたせいか、巻き込まれてもみくちゃになったのです。気がついたらゴロタに打ち付けられていました。
絶世の美女にヤラれてもみくちゃになるような目に一度は遭ってみたいと思っていたんですが、大きなうねりにスキューバーダイビングでもみくちゃにされるなんて…オレの人生そんなことばっかだよな…
そして次から次からうねりがやってきて、ぼくはゴロタの上をゴロゴロゴロゴロ翻弄されていたのです。まるで流木みたい。ゴロタの上をゴロゴロするのはとても痛いので、よい子はマネしてはいけません。
ゴロタに打ち上げられたぼくを次々にうねりが襲います。頭を岩にぶつけないように用心しながら、うねりの届かないところまで這い上がろうとしますが、息が上がっています。それにフィンがゴロタにひっかかったりします。フィンを外そうかと思いましたが、万が一、一際大きなうねりが来て、沖に戻されたらフィンがないと戻れないかもしれません。
なのでフィンを付けたまま、レギを咥えたまま、ゴロタをハイハイします。そうなんです。足下が悪くて立ち上がれないでやんの。なのでハイハイ。
波が届かないところまでハイハイしたところで、大きめの岩に座って、レギを外してひと休みしました。ヤレヤレ、ここまで来ればなんとか大丈夫だろうとやっと思えました。
で、しばらく休んで息を整えます。
それからはフィンを外して、ゴロタを歩いて防波堤を乗り越えて港内まで歩き、ガイドとバディと合流しました。
怪我がないことを確認して、ヤレヤレです。
今回の事例から教訓をまとめるとすると…
・海が荒れているときに海に出てはいけない。
・テトラとか岩とか構造物のそばには潮流がありうるから、特にうねりが強いときは近寄らない方がいい。
・パニックにならず冷静であることは大切。
・体力は大切。最後に自分を支えるのは体力。
・さすがにスキューバーダイビング歴20数年なので、細かな配慮や判断はこれまでのノウハウに基づいているんだろうと思われる。
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