海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
海あるいは自然は人を矯正してくれるか?
ぼくが若い頃、なのでずいぶんむかーし昔、戸塚ヨットスクール事件というのがありました。
知らないーそんなのーなにそれーっていう若い人のために大雑把に説明しますと、グレたり、ワルだったり、引きこもりな青少年で、もう親もどうしようもないっていう子達を受け入れて、合宿生活をさせ、ヨットを通して更正させるというようなことを、戸塚ヨットスクールというところがやっていました。で、ヨットのトレーニング中などに子供達が亡くなったんですね。
それについては当時いろいろな議論がありました。
まあそれは置いといて、今でもたまにウォータースポーツは若者を矯正させる力があるというような話を聞いたりします。
ウーム。
そうでしょうか?
よくわかりません。ぼくなんかにわかるわけがない。
ただ、ぼく自身の経験からいうと、ウォータースポーツに限らず、自然の中で何かするというのは、頭を使うし、命がかかっているし、人が最低限生きるために必要なことがわかるということはあったりするかもしれまへんな。そやろ、健ちゃん、あんさんもそう思うやろ。
カナダの太平洋側を旅した際、大自然の中、自給自足で、何もかも自分達で作ってみたいな生活をしている人達を見ましたが、生きるとか、自由とか、知恵とか、自然との対し方ということの基本的な意味を初めて気づかされました。
これは日本の町中で生まれ育った人には、たぶんわからない、想像もつかない感覚だと思います。町の生活は、インフラが整備され、欲しい物は店にあるし、自分の生活はそういう複雑なプロセスの土台の上に成り立っていて、生活するということの実感が得にくいんではないかいな、と思うとります。
その点、自然の中で暮らすと、必要な物は自分で作るとか、食べるものは獲ってくるとか、育てるとか、すごくわかりやすいし、そういうことをやらないとすぐに生命の危機が実感できる面があると思います。
そういう感覚を知るとか身につけるということは、もしかしたら引きこもりみたいな状態に効果があるかもしれません。
わかりまへんけどな、そんなん知らんがな、実際、ホンマ。
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ただ気持ちいいから
リアルに自然の中に身を置くことでしか感じることができないこと
webで情報収集するのが当たり前で、何かする時に検索するのが、無意識な行動になってしまいそうな今日この頃です。
海に行く前もwebで情報収集するのも定番の行動です。天気・波・風・天気図・潮汐などなど…
ただウォータースポーツというアウトドアスポーツをするものとして、いつも感じるのはリアルのすごさです。webでどれだけ情報収集しても、疑似体験しても、リアルにはかないません。
実際に海に入って過ごす時間。その間に感じるさまざまなことは、たぶんすごい情報量なんだと思います。
視野に入るものすべて、波や木々の音、潮風の匂い、肌にあたる風、呼吸する空気…とても言葉ですべてを語れないような気がします。
そのすべてを感じ、そこに素晴らしさがあるからこそアウトドアに行きたくなるのでしょう。
雨の日や寒い日に「海に出るのかったるいな」と思う時があります。それでもぼくは意図的に、そういうときこそ海に出るようにしています。海に出れば必ず「ああ、海に出てよかった」と感じるからです。
自然の中で五感を総動員して、自然を感じるということに、すごく大切なことがあるような気がします。
「うねり」フェチなワタクシ
よく「フェチ」な話がでたりします。
男同士で飲んだりすると、女性のふくらはぎが好きだとか、お尻が堪らんなどと、それぞれプチフェチな思いが多少はあるようです。
で、ぼくの場合、女性よりも海方面に、フェチ的感性が発揮されるらしく、同じ海好きな仲間から唖然とされるほどです。
たとえば「うねりフェチ」です。
ぼくは海のうねりが大好きで、少し沖に出て、台風がフィリピンあたりにある時に相模湾に入ってくる、くらいのうねりが割といいことが多いんです。
どんなうねりがステキなのか?
ぼくにとっては、うねりのカーブが大切です。波長が長く、緩やかで、しかも上下の幅が大きいうねりが好きです。堪りません。女性の美しいボディラインに似て、ステキ。
シーカヤックやサーフィンでなどで、ちょっと沖に出て、大きくて緩やかな極上のうねりを乗り越える時、なんともいえない心地よさを感じます。マイルドなジェットコースターに乗っているというか、ハンモックに寝転んで揺られているというか、なんだか幼い頃揺りかごで揺られている時ってこんな感じだったんじゃないか、と思うほどです。
そういううねりが入ってきそうな海況というのは限られていて、そういう気配があるときは、ぼくは嬉々として海に出ます。そういうときはシーカヤックがいいですね。
それでちょうどほどよいところまで沖に出て、うねりを眺めたり、うねりに身を任せたりします。もうウットリ。
なんかすごく特異な話を書いて、読んでる方がひいてる気もするんですが、まあ、そういう人も世の中にはいるんだということで、よろしく。
大洋にポツンと立つ岩礁に見入ってしまうワタクシ
シーカヤックやボートで沖へ出て、岩礁のそばを通ることがあります。
もちろん陸地づたいに岬や岩場に行ける場合もあるんですが、海の真ん中に突きだしている根や岩礁は独特の迫力があるなあ、ああ、いとおかし、というわけですね。
んで、波やうねりがある時に、そういった岩礁を見ると、ゾクゾクするんです。
波が岩礁にぶつかって砕けてるし、岩礁の周りには、きっと隠れ根があるんでしょう、妙に渦巻いてたり、変な流れがあったりして、見えないだけに不気味な感じです。
しかもかなり強い波やうねりがガンガンぶつかっても、岩礁はびくともしません。
スゲー、ツェー、かっけーと思っちゃうわけです。
男らしい。
惚れ惚れしちゃう。
大洋の中にポツンと立つ岩礁。
風雨や波浪にもびくともしない岩礁。
そんな男にワタクシはなりたい。
自由
メディアなどでは、世間が保守化、右傾化してきているといわれています。本当かどうか知りませんし、メディア自体が煽っているかもしれませんが…
時代の雰囲気というのは、その時々でびっくりするほど変わります。(バブルの頃って凄かったですね。テレビで全共闘の映像が流れても意味分かりませんね)
で、そんな変化する時代の空気がどうであろうと、ぼくは可能な範囲でより自由であるべきだと思っています。
可能な範囲というのは、社会に迷惑をかけないとか、まあそういう制約の中でということです。おそらく100%の自由ってないかなーって直感があるので…
そして、自由であることと、独立していること(経済的にも思想的にも精神的にも、いろいろな意味で…)はセットだとも思っています。
その自由への身近な入口が、ぼくにとっては海だったりウォータースポーツだったりします。
海にもルールや制約はありますが、街中に比べればずいぶん少ないんです。
ただただ目の前に広がる海。
海自体は、ぼくにルールを押しつけてくることはありません。
そこで生き残っていけるかは自分次第。どこまで行くか、どこまでやるか、やり過ぎて死ぬのも自分次第。
自由。
ぼくは原則として、基本的に自由。
サンゴが豊かな海であること・あるいは人の暮らし方について
ダイバーの端くれとして気になるのがサンゴの状態です。
サンゴが元気な海というのは、さまざまな面で健全で、その他の海洋生物も豊かであろう事が推測されます。
サンゴが傷んでくるということは、その地域の海洋状態がなにかしら異変が起きていると、個人的には考えています。
20年以上前から定期的に沖縄へ潜りにいってますが、昔は慶良間諸島に行けばサンゴがありました。生い茂るというほどではありませんが…
石垣や宮古やその周辺の離島に行くと、生い茂るといってもいいほど一面がサンゴでした。
サンゴが元気な海というのはなんともいえない美しさです。海が生き生きとしている感じがします。こちらまで元気になるような気がします。自然が豊かであることが、ぼくに与える喜びというのは、とても大きいものなんですね。
それから年々、沖縄では死んだサンゴが目に付くようになり、90年代後半の白化現象、オニヒトデの食害、土地開発などいろいろな理由により、サンゴが激減しました。
サンゴが死んだ海中の風景というのは、白い砂漠のような、殺伐とした印象です。骨を砕いて敷き詰めたような、寂しい-あえていえば不吉な-風景だと、ぼくは感じました。
サンゴが減少した理由はいろいろいわれています。それに対し、オニヒトデの駆除やサンゴの養殖(というのかな?)など様々な対策がなされているようです。
サンゴマップ実行委員会による「みんなでつくるサンゴマップ」という取り組みもなされています。
ここ数年は以前よりも持ち直している印象がありますが、20年以上前まで戻っているとはとてもいえません。
原因が様々で、特定されていないものもあり、あるいは地球規模で起きていることもあるかもしれず、決め手となる有効な対策というのは難しいかもしれません。
でも、なんらかの取り組みが必要であろうという直感はあります。
サンゴが元気な海が存在し続けるということは、単にそれが大切だというより、おそらく人間が地球で長く暮らしていけることと密接に関係がありそうで、そういう意味で、人間の暮らし方の見直しを含めた取り組みが必要なのかなと思います。
もしかして将来「なぜ昔の人は自然を損なってまで、開発とか経済成長ばかりいっていたの?」なんていう時代が来るかもしれません。
ご参考ホームページ
○WWFサンゴ礁保護研究センター
○CORAL NETWORK
気楽さ・自由・自分らしさ・金で買えないもの…
海辺に住んでいます。
で、周りで付き合いのある人を見ていると、個性的というか、自由というか、お気楽というか、ノンビリしている人がわりと多い気がするんです。ぼくの思い込みかもしれませんが…
むかーし、田園都市線の住宅地に住んでいたことがありますが、そこでは、近所の人がみんな勤め人で、スーツで出勤して、夜遅く帰ってくるみたいな所でした。平日に休みをとって散歩していると、奥様方から「大丈夫ですか?」っていわれたり、微妙に怪訝な顔で見られました。スーツでないカジュアルな服装で出勤すると、ちょっと軽んじられているような視線を感じたような気がします(ぼくの被害妄想かもしれません)。まあ、とにかくある種の息苦しさを感じて、引っ越しをすることにしました。
それと比べると、今の土地は、いい歳した働き盛りの男が、Tシャツ・短パンで昼間からサーフボード抱えていても、何もいわれないというか、どちらかというと賞賛される(まではいかないかもしれないけど)雰囲気があります。
みんなどんな風に生計を立てているのか知りませんが、まあなんとか暮らしているようだし、奥さんや子供も養えているようです。
自分なりに楽しんでいる人にエールを送るような雰囲気があります。手作りで家を作っちゃったり、カヌーを作ったり、子供たちと海や山に入っていったり、ハンモックでノンビリしたり、海で海藻を採ったり、山菜を採ったり…ってキリがないですけど、そういう人は「あの人すごいね。おもしろいね」っていう感じになります。
一方で、建築家が設計した小洒落た家に住んで、高級そうな外車に乗って、特に趣味もない、みたいな人は、わりとケーベツされるようなフシがあります。
何を根拠にそんなこといっているかというと、だいたい知り合いや友人づきあいでわかります。それが露骨に表れるのがバーベキューパーティです。
今の場所は、各家庭がバーベキューパーティを開きまして、知り合いやご近所さんを誘うみたいな雰囲気があります。そうすると前者にはなんだかやたらみんなが集まって和気あいあいとなるわけですが、後者に誘われても最初は行きますが、そのうち行かなくなります。
急に話が変わりますが、メディアで就活の話題を目にすることが多くて、大学生諸君はちゃんとした企業に就職するためにずいぶん頑張ってたり、就活うつとか自殺とかの話題まで目にします。
で、その話題に触れるたびに田園都市線沿線の住宅地に住んでいた頃の息苦しさを思い出すわけです。
企業に入らなくちゃいけないみたいなティピカルな考えというのがどうしてそんなに強くなったのかわかりませんが、仮に有名な企業に就職できたとしても、その後どうなるかわからないというのは、ぼくらは、もう、ものすごい数の事例を見てきたわけで、そういう体験を若い人に伝えた方がいいんじゃないかと思いました。
バブル崩壊を経験し、エリートとされる人が入っていた銀行や証券会社が潰れたり、合併したり、はたまた急成長したベンチャーが勢いをなくしたり、いわゆる有名企業が業績低迷で苦しんでいたり、電力会社のような財界の重鎮のような企業が、かなり短期間のうちに社会的評価が変わったりしています。
そういうのを見ていて、それでも大学生が有名企業に入りたがるというのは、ぼくにはちょっと理解できないし、その心理を知りたいと思います。
一方で、自分なりの個性や特徴や能力があれば、なんとなく食べていけるというのも事実としてあるわけで…そういうことも伝えた方がいいかなーと思います。
で、また話が戻りますが、ぼくの近所の男達は、それぞれに生計を立てています。もしかしたら悩んでいるかもしれませんが、少なくとも海でお気楽そうに遊んでいます。
基本的にはなんとなかなると考えているようです。自分なりに楽しむことに真剣です。自分の価値観に誇りを持っています。自由であることを大切にしています。そして何より金で買えないものを知っている…ような気がします。
ボッーとするのが好きです
価値観・そのときしかない時間・一度しかない時間
今までの自分を思い出してみると「寄り道」ばかりしていたなーと思います。
こうと決めた目標に向かってひたすら頑張るということってなくて、その時自分がしたいことをフラフラやっていました。
一流企業のサラリーマンやキャリア官僚の人や金持ちを目指す成り上がり志向の人からすれば、「ダメなヤツ」てなことになるんでしょうなー、ハッハッハッ。
でも今振り返ってみると、その時々で自分の興味のあることをやってきたのはよかったなーと思えます。
やっぱり年齢ごとに興味のあることって移り変わっていくことが多々あるでしょうし、その時にしかやれないことっていうのもあると思います。
それをそのまま正直にやってきたし、これからもそうしたいなと思います。
人によって価値観はそれぞれですし、それはそれでいいと思うんですが、ぼくにとっては、そのときの時間が一番大切です。
そんな価値観になったのは、やはりウォータースポーツをやってきたからかなーと思います。
というのも、海に出られる日というのは、そのときの海況に左右されますし、仮に出られたとして、同じ状況の日というのは1日もないんですね。そして、すごく気持ちのいい日とそうでない日というのもあります。
ぼくは20数年ウォータースポーツをやっていますが、「今日はすごく気持ちのいい日だな」といのは20~30回くらいだと思います。仮にぼくがあと20年元気に生きられても、すごく気持ちいい日に巡り会うのはその程度の回数なんだと思うんです。
そういうことを考えていると、そのときの時間は一番大切。その日、その時間を逃すと2度と取り戻せないです。いくらお金があっても。
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