海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
潮風に吹かれながら囲む焚き火の喜び
焚き火。
アウトドア雑誌では定番のテーマのようで、よく見かけますね。
別にアウトドア雑誌に影響されたわけではないんですが、ぼくも焚き火が好きです。20年ほど前でしょうか、海辺でダイビングの後に車中泊をするようになって、海辺で炊さん、そして酒というのが定番メニューになりました。そしてやがて焚き火がそれに加わりました。
焚き火というのは、本当に不思議なもので、ただ木が燃えているというだけのことなのに、見ていると心が落ち着きます。
おそらく薪ストーブが流行るのも(本当に流行っているか知らないけど、ぼくの周りには家に薪ストーブがある人が多いです)火を眺めることに惹かれるからではないかな?と想像します。
ただ、多くの海辺では、焚き火は禁止されています。もちろん防火という面から焚き火を禁止するのはわかりますが、この禁止はどちらかというと海辺でよくある「なんでもかんでも禁止」の流れの中のものです。漁協が支配し、行政がそれを追認する海辺の特徴です。
本当は自覚ある意識の高い大人がやる分には構わないと思うんですが、最近の若者のレイブパーティなど違法な行為を含むどんちゃん騒ぎが行われていることが、漁協とそれに押される行政による海辺管理強化の理由になっています。
まあどちらも幼いという風にぼくには見えます。
そんなことはわきに置いておいて、潮風に吹かれながら、月明かりを浴び、波の音を聴き、酒を飲み、焚き火を見つめる、というのは海遊び後の最大の楽しみです。
そんな時間を年に何回か過ごせるだけで、気持ちの中心が柔らかく、穏やかになるのです。

にほんブログ村
PR
雨の日に海に出ることで、自分と向き合う
雨の海もいいものです。
真冬でなければ雨でも海に出ます。
どうせ濡れるんだしね。
雨の海でのアクティビティといえばぼくはスキューバーダイビングが多いです。
なんといっても海から上がってすぐ文化的な暮らしができるところがいいです。文化的な暮らしって大袈裟ですが、クラブハウスに戻れば屋根があるし、空調が効いてるし、熱いコーヒーだって飲めます。シャワーも浴びられる。すごいと思う。
もうひとつ多いアクティビティがシーカヤックです。これはスキューバーダイビングほど文化的ではありません。少なくても家に帰るとか、車に戻るとか、宿に着くまでは、自然と共に過ごすことになります。
これはこれでいいものです。
雨の日のウォータースポーツの良さはいろいろあります。
海がシーンとしているのがいいです。なぜだかわかりませんがシーンとしています。
水面に雨粒の落ちた円形の模様がちりばめられているのもいいです。普段見る海の表情とはまた違った表情が見られます。
いつもより孤独な感じがするのもいいです。周囲に人がいないせいでしょうか?
ぼくは海に出ると気分が高揚するというより、落着いて穏やかになることが多いんです。というか、すすんで落着いて穏やかになりたいんです。だから友達と海に行くのも好きですけど、独りで海に出ることが圧倒的に多いです。それで怖い目にも遭いますが、でも所詮死ぬだけのことです。海で死ねれば本望です。しかも独りでね…
そんなぼくにとって、雨の日のウォータースポーツは、より独りになれて、より落着いて穏やかになれる絶好の機会です。大きな海にポツンと自分独りだけ、そして自分とトコトンまで向き合うだけ…
そんな雨の日の海が好きです。

にほんブログ村
平和のためにぼくができることはあるのでしょうか?…せめて心穏やかに…
ニュースでは国内外で人が殺されたり、人を殺したりすることが起きています。幸いぼくの近い周囲ではそんなことは起きていませんが、だからいいのかというとそうでもないでしょう。でもぼくに何ができるのか?
人がやってはいけないルールは様々な成り立ちや理由で社会にたくさんありますが、そのうち、最も基礎にあって最も守らなければならないのが自分も含めて人を傷つけないということです。
これは古今東西そういう認識は共有されていると思うのですが、実際守るのが難しいルールでもあります。
ぼくはかれこれ40年以上生きていますが、世界中で戦争や殺人事件がなかった年を知りません。
過去の歴史を少しだけ読んでも、ぼくの知る範囲では、人は平和を求めるのと同じように戦いを求めているように見えます。
ぼくが平和や殺人のない状態を望む理由は明かです。
自分が殺されるのはイヤです。それは痛く苦しいです。また、自分の家族や知り合いが目の前で殺されるなんてそんなことは耐えられません。それは生きている中でおそらく一番辛く悲しいことだと想像できます。
ぼくらはなぜ他人に怒りを抱いてしまうのでしょうか?
そしてなぜ他人に殺意を抱いてしまうのでしょうか?
そしてなぜ人を殺すことを正当化してしまうのでしょうか?
そのような人間として根源的な心のありようをうまく自分の中で位置づけたいのですが、理屈ではなかなか納得がいきません。歴史を紐解いても答えは見つかりません。だからといって宗教に没入することもできません。現に信教が原因で起きる戦争だってありますから…
「人を殺すことはいけない」だけでは納得いきません。そんなのたいていの人が、そう思っているのに、実際には人は人を殺し続けているではないですか。
法制度が整っていても、殺人を防げずいるではないですか。
話し合いといっても先に攻撃されて殺されてしまっては、元も子もないから武器を準備するのしょう。
力のバランスといっても戦争はなくならないではないですか。武器を持てば使ってみたくなるものです。
悪い指導者が国を支配したから戦争になったといっても、それは国民が望んだことだからです。多少なりとも誰かがそれを望まなければそういう人が国を支配するということに至らないと思うのです。
現在まで人間は根本的に人が人を殺すことをコントロールできずにいるのです。
一方で歴史からは次のようなことがわかります。
平和を希求した人は、長期的に人々から支持されます。逆に殺人や戦争を求めた人は、長期的に人々から忌避されます。
戦争を求める人もずっと戦い続けることはできません。
そんなモヤモヤした理念的なことと自分の日常生活がうまく結びつけられないのですが、今のところぼくがやれることは、海に出ることしかありません。
理屈とか、よくわかりません。
海に出ると、自分独りです。家族や周囲の人々への感謝の気持ちが湧いてきます。
海に出ると、海は大きく美しいです。世の中は辛く汚いものばかりではなく、美しいものがあることが再確認できます。
海に出ると、事故れば死ぬかもしれません。死ぬ可能性が自分のそばにあります。だから生きていることのありがたさを認識できます。ただ平和で無事で健康で生きていることがどれほど素晴らしいことか、もう一度確認できます。
海に出ると、理屈ではなく前提としてそれが存在することを受け入れることになります。海も自分も何の理由もなく存在し、存在し続けているのです。物事の発生や生起に理由や理屈が必然ではないことを思い知らされます。
ぼくができることは取るに足らないことです。ぼくはかなり無力ですし、自分や自分の属する身近な集団を穏やかに保つことで精一杯なのです。
ただ自分の心を穏やかに保つこと、それを続けることで、少なくとも自分の周囲の平穏さは保てるのではないかと願っています。
厭離穢土
欣求浄土

にほんブログ村
独りでボーッとできる極上のひととき…
海辺に住んでいます。
いわゆる行楽地というか観光地というか、まあとにかく休みの日になると他所から人が遊びに来る場所です。
特に夏のお盆休みの期間は地元の人よりも他所の人が多いくらいです。
海辺に住んでいる方ならば、おそらく似たような環境に置かれていることが多いのではないかと想像します。
海遊びをする身としては、ビーチが混雑すると何かと不便です。海へのエントリー・エキジットの場所が限られますし、トイレに行くのも人混みを迂回しなければならないし…などなど。
だいたいぼくが町から離れて海辺の田舎に住んでいるのは、混雑した町中がイヤだからなので、若干人嫌いの気もあるかなーというくらいなのです。そんなぼくが住んでいるあたりに人がやって来て混雑するというのは何ともやるせないことです。
ぼくは人が集まるところが嫌いなので余計にそう感じるかもしれませんが、世の中には人が集まって混雑するところへわざわざ行く人が結構いるんだなあということに驚きます。
ぼくが人がいないところが好きなように、そういう人は人が集まるところが好きなのでしょう、おそらく…
で、人が集まってきてウンザリなので、そういう時はシーカヤックかゴムボに乗って、人が来ない入江まで行きます。シーカヤックやゴムボで移動するのは、浅い入江にまで入っていけるから。
人が集まるところが嫌いで田舎に住んでいるぼくが、他所の人が集まるのがイヤだから、さらに人の来ない静かな入江に、わざわざ舟を出して移動するというのは一体どういうことか…
ともかく人が来ない入江というのは、本当に人が来ないので、そんなところで海を眺めたり、磯の生物を観察したり、スノーケリングしたり、メシを喰ったり、コーヒーを飲んだり、ボーっとしたりすると、心の芯の方からほぐれていくというか、力が抜けていくというか、そんな感じでとてもラクなのです。
そんで、だんだん寛いできて、ビーサンを履くのも面倒くさくなったり、海パンを穿くのもうっとうしかったりして、裸足のノーパンで、入江の砂浜に寝転がっているのは、もう極上のひとときなのであります。

にほんブログ村
思考が負のスパイラルに陥ったら、海に出ます
ときどき自分が細かいことにこだわるようになってしまう時があります。
自分でも悪い癖だと思います。
ぼくの場合、細かいことへのこだわり方が、正義感や承認欲求や他者との差別化からきているような気がします。
自分は正しいんだ、自分はお前らとは違うんだということでしょうか…
なぜそんな風に考えてしまうのか? その時期を抜けると考えなくなるので、体調とか季節とか、期間限定をする何かの要素があるのか? と、いろいろわからないことだらけです。
自分が正しいことをいってみても、他人が悪いということをいってみても、何の解決にもならないし、自分の時間が損するだけだとわかっています。
それにぼくの基本的なキャラが、そんな細かいことを気にするようなタイプではないのです。
それなのに、ときどきこの考えにはまってしまうのです。
もちろんぼくは宗教家でもなく、解脱しているわけでもなく、欠点だらけの小さな俗物なので、当然といえば当然ですが…
そんなときは、現実的にそんなことを考えて何の得があるのか冷静に考えてみたり、海を眺めて自分や自分の頭の中にある考えがいかにちっぽけなものかを思い知ったり、わざと荒れた海に出て、生きていること、ただ生きているだけでどれだけ幸せかを味わったりします。
一度そういう思考の負のスパイラルから抜け出せば、あとはいつものお気楽で能天気な自分に戻れます。

にほんブログ村
夏、海辺の朝の「なんかいいなあ」
夏ですね! 暑いですね!
確かに暑いんですが、海辺で暮らしていると朝晩は海風が吹いてきて、都心のような嫌な暑さではありません。
朝などは、ともすると涼しいくらいです。
窓から陽射し
波の音
木々の擦れる音
鳥の声
潮風がカーテンを揺らす
そんな朝を迎えると「なんかいいなあ」って感じて、今日はどんな海遊びをしようか考えながら、朝メシとコーヒーの準備を始めます。
いいですねえ、海辺の朝。

にほんブログ村
「物事をどのように受けとめるかはその人次第」という言葉と眼前に広がる海
先日の休みは朝からカラッとしたいい空気で、ずーっとビーチでぼーっとしていました。
たまにはなんのウォータースポーツもせず、ビーチにいるのもいいものです。
ぼーっと海と空を見ていたら、いろいろ考えました。
「出来事はひとつ、それの感じ方はいろいろ」という言葉があります。
認知療法から来ている言葉だと思うのですが、同じ出来事が起きても、ある人は不幸だと感じ、ある人は楽しいと感じる。その人の感じ方でなんとでもなるということで、経験的によくいわれることです。
確かにそうで、ちょっとしたことでも愚痴っぽい人もいれば、ぼくからすれば結構シリアスなことでも平気で前向きに暮らしている人もいます。
もちろんぼくは後者のような人になりたいと思っていますが、なかなか未熟で…
生きているだけで幸せで、家族が元気なだけで幸せで、健康であればいうことないですね。
感謝しなければ… 何に感謝するのかはよくわかりませんが…
もちろん出来事について、それをどれほど前向きに捉えようと、ぼくが何を考えようと、目の前に海は広がっています。それらは何万年も前からきっとそうでしたでしょうし、これからもたぶんそうでしょう。何も変わりません。
ぼくがどう感じようと、どう考えようと、取るに足りない、ちっぽけなことです。

にほんブログ村
なんか慌ただしいなと思ったら、海に出てペースを落とすようにしています
もう立派な、押しも押されもせぬオジサンとなったワタクシとしまして、よく感じるのが、「最近疲れ気味だな」「最近飲み過ぎてるな」「最近忙しいな」ということです。自分で自分の状態がわかるようになってきたのは、若い頃になかったオジサンならではのメリットだといえるでしょう。ぼくも成長したものです。思えば遠くへ来たもんだ。
若い頃はただただ日々突っ走っていて、自分の心身の状態に意識が向いていませんでした。無理が利いたともいえるでしょうし、前しか向いていなかったともいえるでしょう。
そういう「最近○○」系のバージョンのひとつに「最近慌ただしいな」というのがあります。
「慌ただしい」というのはイマイチ正確な表現ではないかもしれません。
なんていうかな、「ワサワサ」というか「バタバタ」という感じです。うーん、ちょっと違うかな? やることが一杯あって、それをこなすことに追われて、今、現在に意識が向いていない状態というんでしょうか。あるいは地に足がついていないというんでしょうか。
まあ、年に何回かはそんな心理状態になります、ぼくの場合。
そんなときぼくは海に出ます。海に出られないときは、海辺に行きます。
ぼくにとって海に出るというのは、サーフィンとかシーカヤックとかスキューバーダイビングで海水に浸かることを意味し、海に行くというのは、海水に浸からず、ビーチなどで海のそばにいることを意味します。
そんな心理状態にならなくても毎週のように海に出ているんで、わざわざ海に出るというのもナンですが、そういう心理状態の時は、そのことを意識して海に出ます。
そうすると、チェンジ・オブ・ペース的な現象が起きまして、「ワサワサ」したココロが穏やかな普段のペースに戻ります。
海に出て、波のリズムを感じて、潮風に吹かれ、雲の流れを眺め、遠くの水平線を見ると、自分の「ワサワサ」した心理状態がはっきり認識できて、肩の力が抜けて、呼吸がゆっくり深くなり、穏やかな気持ちになります。
同じような効果があるのが座禅と瞑想ですが、海に出た方がより深くココロのペースを切り替えることができます。
おそらく人それぞれ、そういう気持ちを切り替える、気分転換的な、「何か」があるんだろうなと想像します。
ぼくの場合それが海でして、そのことにわりと早い時期に気づけてラッキーだったなと思います。

にほんブログ村
海に行くと心のスイッチがオフになってしまいます
海に行くと心のスイッチがオフになってしまいます。
もう20年以上も前からです。
その頃ぼくは大学生で、授業に出たりバイトをしたりサークルで遊んだりといわゆるよくいる大学生だったわけですが、若いからと調子に乗ってかなりバイトを入れてしまい、早い話、疲れていました。それで風邪をひいてしまうわけですが、医者にも行かず放っておいたら咳が止まらなくなりました。
いい加減ヤバイなと感じて医者に行ったら、ひどくなっていたみたいで、しばらく自宅で安静にするようにいわれました。
話は続くんですが、風邪が治ったかなという頃に、付き合っていた彼女にフラれてしまいました。
てな具合で、いろいろあった時期なわけですが、ふと久しぶりに海に行こうと思ったわけですね。
小田急に乗って鵠沼海岸まで行って、ビーチに出ました。それからビーチを茅ヶ崎方面に歩いたんです。
目の前に広い海があって、潮風を感じて、陽の光を浴びているうちに、気持ちの芯のあたりがほぐれていくような気がしました。身体の力が抜けていくような感じもしました。
自分が気がつかないうちに、リキんで暮らしていたんだなと思いました。
そして気持ちのスイッチがパチンと音を立ててオフになったような気がしました。
そうするとあれこれ考えなくなりました。気持ちが真っ白になって、遠くの波頭がはっきり見え、波や風の音が聞き分けられるようになりました。感覚が敏感になったんだと思います。
ビーチを歩いたり、ときどき座って休んだり、1日ブラブラしているうちにぼくはずいぶん元気になりました。
このときにはっきりと「ぼくには海が必要だ」と自覚しました。
それからは半ば義務のように海に行くようにしました。
食べて寝るだけでなく、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりすることが大切なように、ぼくにとっては海に行くことが大切なことです。久しぶりに大好きなアーティストのコンサートに行くと音楽が心に染みるように入ってくることがありますが、ぼくは海に行くと心のスイッチがオフになって、そしてカラカラに乾いた心に水分が補給されるように、何かが満たされていきます。
今、ぼくは海のそばに住むようになりました。そして相変わらず朝晩海を眺め、できるだけ海に出るようにしています。

にほんブログ村
「美しいうねり」は女性のボディラインと似ている?
サーファーの方にはわかってもらえるかもしれませんが、「美しいうねり」ってありますよね?
………
あれ?なんか違ったこといっちゃたかな?
ぼくはうねりが入ってくると好んで海に出て、ああこのうねりは美しいなと思ったりします。
………
ちなみにご存知の方が多いと思いますが、波とうねりは違います。
気象庁のホームページによりますと…
《 風浪とうねり 》
海面上で風が吹くと、海面には波が立ち始め、波は吹かれた方向(風下)へ進んでいきます。波が進むスピードより風が強いと、波は風に押されて発達を続けます。このように、その海域で吹いている風によって生じる波を“風浪”といいます。風浪は発達しつつある波で、個々の波は不規則で尖っており、強い風の場合、しばしば白波が立ちます。発達した波ほど、波の高さが大きく、周期と波長も長く なり、スピードも速くなります。
一方、こうして発達してきた風浪が風の吹かない領域にまで伝わった波、あるいは風が弱まった場合や風向が急に変化した場合に残された波を“うねり”といいます。うねりは減衰しながら伝播する波で、同じ波高の風浪と比較すると、規則的で丸みを帯び、波の峰も横に長く連なっていますので、沖合いではゆったりと穏やかに見えることもあります。しかし、うねりは波長(周期)が長いために水深の浅くなっている海岸(防波堤、磯、浜辺など)の付近では、海底の影響(浅海効果)を受けやすく、波長(周期)の短い風浪よりも波が高くなりやすいという性質を持っています。このため、沖合いから来たうねりが急激に高くなることがあり、波にさらわれる事故も起こりやすいので注意する必要があります。
うねりの代表例は土用波で、数千km南方の台風周辺で発生した波が日本の太平洋岸まで伝わってきたものです。うねりが伝わる速さは非常に大きく、時には時速50km以上に達することもあります。日本の南方にある台風が北上してくる場合には、太平洋高気圧に進路を阻まれて日本のはるか南海上を比較的ゆっくり進むことも多く、そのためスピードの速いうねりが台風自身の接近よりもかなり早く到達することもあります。
通常は、風浪とうねりは混在しており、それらをまとめて海の波を「波浪」と呼んでいます。時には、風が弱く風浪がほとんど無いことや、うねりが2つ以上の方向から伝わってくることもあります。非常に強い風の吹く台風の中心付近では、様々な方向からの風浪とうねりが混在して、波高が10メートルを超えることも それほど珍しいことではありません。
気象庁ホームページ 波浪の基礎用語-風浪とうねりより引用
(引用元はちゃんと書かないとね!)
ぼくの印象ではうねりは波長が長くて、海全体が盛り上がるような感じです。上記にあるように、東シナ海あたりで低気圧が起きたりするといい感じのうねりが相模湾に入ってきたりすることが多いです。
んで、そのうねりのカーブや盛り上がり方が美しいときがあるんです。そのうねりに揺られていると、ちょっとジェットコースターに乗っている的なワクワク感があります。というよりももっとマイルドな安らぎ感があります。
巨大なトトロのお腹の上に乗っている感じ(乗ったことないけど…)ってこんなかなーって思います。
うねりのカーブというのはいろいろで、サインカーブのように左右対称に近いものだったり、カーブが急だったり、すごく緩やかなカーブだったりして、その違いが見ていて飽きない理由です。
ぼくが好きなのは緩やかなヤツで、かなり遠くの方から盛り上がっているなーと思うんだけど、あれってうねりかな?と疑いつつ、そのうねりが近づいてくると結構大きな盛り上がりで、付近の海全体が盛り上がったみたいになるんです。そのカーブの美しさと力強さとダイナミックさに惹かれてしまうんです。
ちょっとヤバイですかねー、ぼく?
でも、いいんです。うねりフェチとして生きていきます。なんとでもいってください。
美しいうねりのカーブは男心をくすぐるというか、あのその…女性の身体の曲線が美しいのに似ているというか、男にはない柔らかい丸みというものに惹かれてしまうというか、なんだか興奮してきて、何書いているかわからなくなってきてますけど、男の本能に訴えかけるものがあるんじゃないかとぼくは思うんですが、いかがでしょう?
ちょっとエッチな表現だって思われると心外なのでクドいけど書きますが、男が女性の身体を見て興奮するというのももちろんありますし、ぼくもそういうときはありますけど、たとえばミロのビーナスを見ると興奮するというよりその美しさに感動するわけで、その曲線に見とれるといいますか、なんだっけ、えーとつまり本能的に好ましいと思うんだと思います。
で、ぼくの場合、多くの女性の身体を見る方面にはいかず、多くのうねりのカーブを見る方面にいってしまった、いや、いってよかったのかもしれませんけど、とにかくこれからも多くの美しいうねりを見たいなあと思っているのであります。
この話に共感してくれる海遊びの人達ってどのくらいいるんだろう?
「うねり好きの会」会員募集します!

にほんブログ村
カテゴリー
最新記事
(07/06)
(07/05)
(06/29)
(06/28)
(06/22)
(06/21)
(06/15)
(06/14)
(06/08)
(06/07)
(06/01)
(05/31)
(05/25)
(05/24)
(05/18)
(05/17)
(05/11)
(05/10)
(05/04)
(05/03)
(04/27)
(04/26)
(04/20)
(04/19)
(04/13)
最古記事
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
アーカイブ
ブログ内検索
PR
カレンダー
最新コメント
[10/31 TOM]
[06/10 TOM]
[06/10 TOM]
[11/09 porn]
[07/09 和]
PR
google