海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
たいていのことはどうでもいい、わたくし…
まあいろいろ心配なことがありますよね。それから悩んだり、ウジウジ考えたりすることもあります。
その程度のことで思い悩むかは人それぞれ基準が違って、それが良いとも悪いともいえなくて、その人らしさなわけですけど…
ぼくは海辺の町に住んでますけど、近所の漁師のAさんはおおらかです。
朝早くに起きるから、夕方の5時くらいに遊びに行くともう酔っぱらってるし、自分ちの車がぶつけられてへこんでも、しばらく(って何週間も)気がつかないとか、約束なんかかなりの確率で忘れるし…
でもぜんぜん普通に生活してますからね。別に殺されたりとか、飢え死にするわけではないんです。
周りの人は困ってるかもしれませんけど、本人は楽しそうに暮らしてるんですもん。
Aさんを引き合いに出すのは良くないかもしれませんが、たいていのことはなんとかなるもんです。
こんなこというと台無しですが、出来事の98%くらいはどうでもいいんですよ。
あと100年もしたら、自分のこと知っている人なんて誰も生きてないし、お墓が残ってればまだましなくらいです。
10年くらい前かなー、ぼくんちのそばの海辺に豪華な邸宅が建ったんです。別荘っぽい感じでした。で、竣工して2ヶ月くらいして大きな台風が来て、その家壊れちゃってね、土台のコンクリートがやられちゃったんで、その家は放置されてました。今は更地になってますけど…
なんかヘンな話になってますけど、いくらお金があって、いくらすごい建築物を建てても、自然の前ではゴミみたいなものなんだなあーって、ぼくは、ひがみもあるかもしれないけど、そう思ったんですよ。
それで、うーんと、なんとかならないとか、何々しなきゃいけないとか、自分が頑張らなきゃいけないなんて思っているのは、自分の錯覚というか、認知の歪みかもしれないわけで、ぼくもそれはたまに疑うようにしてます。
どうせ暮らすんなら楽しい方がいいですからね。

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豊かな人生って、どういうもんなのでしょうか?
島が好きでよく島に行きます。島が好きな理由はいろいろありますが、その上位にくるのが島の人の魅力です。
優しくて穏やかでマイペースでのんびりしている人が多いような気がします。
少なくとも首都圏で仕事をしている我が身から見れば、そう感じます。
表面的には楽しそうに見えます。
もちろん島の人や島の暮らしにもいろいろな問題があるのは、うすうすは想像がつきますし、島の人からの愚痴やニュースで多少はわかるんですが、そういうのって多くの地方でもあることですし、それでも楽しそうに暮らしているように見えます。
島の人の生き方を見ていると、ぼくらも気持ちの持ちようで、そんなにガリガリやらなくても楽しく暮らしていけるんではないか?と思うことがあります。
特に沖縄の離島が好きです。
さとうきびを刈っている島の人の笑顔が目に浮かびます。
舟で港に戻ってくる漁師さんの日焼けした顔が忘れられません。
先日、恵比寿でお年寄りが横断歩道を渡ろうとしているのに出くわしました。ゆっくり歩くので歩行者用信号の青いランプが点滅し始めました。右折しようとしている大きめのベンツが、何度もクラクションをそのお年寄りに鳴らしていました。
豊かな幸せな人生というのは、どういうことを指すのでしょう?

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自分の思うままにならない状況を楽しむ楽しみ
海遊びに限らず、自然を相手にするスポーツは、どうしても自分の思うままにならないことがあります。
ぼくはそのことからずいぶんいろいろなことを学んだなと感じています。
というのもですね、以前一緒に仕事をした人で、非常に細かいことまでこだわって、すべてがきちんと自分の思うまま、計画どおりでないと気が済まない人がいたんですね。
いやー、その人はいろいろな人とモメモメしてましたね。
ぼくは大雑把&お気楽なんで、適当にハイハイなんていい返事ばっかりしてましたけど…
海遊びって、自分の思うようにならないことばかりじゃないですか。
自然がどんどん変わっていくのに合わせて、自分がその状況でも楽しいことを見つけるわけで、まあそこがおもしろいし、頭を使うところですね。
それに刻々と状況が変わるのもいいですよね。同じパターンというのがないですから。
善悪がないのもいいですね。海はただ存在してるだけです。ぼくが楽しかろうが苦しかろうが、関係なくずーと以前から存在してるだけです。
そういう海という場で、自分の経験を踏まえながら、先に起きることを予想して、最悪の事態にどう対処するか考えつつ、楽しく過ごすというか、海に合せて楽しく過ごさせてもらうというのが、海遊びの醍醐味だと思うんです。自分の思うままにならない状況を楽しむことに楽しみを見いだすといいますか…
所詮長い時の流れの中では、ぼくなんて、ちっぽけな取るに足らないものだと思います。
砂浜の砂粒、よりは少し大きいけど、まああんなもんです、自然から見たら…

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海で慌ただしい気持ちをリセット
毎日やることはたくさんありますね。ぼくは昔っからじっとしていられない性質もあるせいか、何かしらやることがあります。
ビジネスマンはもちろん主婦の方も忙しいでしょうね。
「時間に追われている」感を持っている方はけっこういらっしゃるんではないでしょうか?
ぼくの場合、できる限りノンビリするようにしているんですけど、セカセカするスピードから抜け出して、ノンビリしたスピードにシフトチェンジするのが難しかったりします。
たとえば日中慌ただしくて、そのまま夜になって、慌ただしい気持ちのままベッドに入ってもなかなか寝つけないというようなときがあったりします。
あるいは忙しい日が続いていて、急に暇になってもやることがないときに、手持ち無沙汰で、やらなくてもいいことをやってしますようなときもあったりします。
そういうときは海、です。ぼくの場合。
時間を見つけて海遊びをするとか、ちょっと海辺を散歩するとかで、ノンビリスピードに切り替えることができます。
よくおばあちゃんに「忙しいという字は心を亡くすと書くんだよ。忙しいと感じたときは気をつけなさい」といわれましたが、本当にそうで、忙しいときほど自分のペースに戻すことを意識した方がいいと、オジサンになって実感します。
ノンビリスピードに切り替えて、来し方行く末を考えると、自分の良いところ悪いところにも気づくことができるし、これからやらなければならない本当に大切なことがハッキリわかることもあったりするのではないかなーと思います。

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海遊びをして昔のような無邪気な気持ちを取り戻して…
できるだけ、いつも楽しくしていようと思います。
ぼくも一応オジサンになりまして、公私共に良識ある判断や行動を期待されますし、いろいろな物事がキチンと進んでいるか見る立場であることが多くなります。そうするとどうしても視点が粗探しっぽくなってしまって、それが進むと他人の欠点ばかりが目につくようになります。そして「まったくなっとらんな」が口癖になります。
それから人の発言の裏の本音を考えるようになりますね。
一種の職業病というか年代病ですかねー。
てな、立場的な変化のせいか、加齢のせいか、以前は天真爛漫さがあったと思いますが、それが次第に少なくなってきたように思います。
そんなぼくも海遊びをしているときは、粗探し的視点からわりと自由になれて、若い頃のような無邪気さを取り戻すことができます。
ぼくにとって海遊びをする時間は、気持ちをリセットしたり、リラックスする、change of pace的な役割を果たしているのです。
ちょっと温泉に行くとか、映画やコンサートに行くとか、てもみんに行くとか、そういう役割を果たしています。
そこで気持ちがリフレッシュしたら、なるべき楽天的に物事や人のいい面を見るように心掛けて、能天気な抜けてるオジサンになるように心掛けております。

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海で、のほほん…
海遊びをしますが、いつもいいコンディションではありません。
荒れているときも、雨のときも、寒いときも、暑いときもあります。
それでも海に出られればハッピーですし、べつに海を眺めているだけでも十分です。
目の前に広がる海と潮風とゆっくり流れる時間の中に身を置くだけで、自分のココロがほぐれて、のほほんとした感じになります。
もう何十年もそうしているのですが飽きません。なぜかはわかりません。
今日も飽きずに海に行きます。

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湿気のないときの海辺の気持ちよさ
9月から11月というのは気持ちがいい時期ですね。食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋といわれるのもこの時期ですもんね。
もちろん海辺も気持ちがいいです。
なんでこんなに気持ちがいいんだろうって、この間砂浜で寝ころがりながら考えたんですけど、やっぱり湿気ですね。
今年は特にそうですけど、湿度が低いと風が爽やかで気持ちいいんですね。
いやー、いい加減長く生きてて、そんなことにやっと気がつくなんてね。
というわけで、ウォータースポーツする方はもちろんですけど、ただ海辺を散歩するだけでも気持ちいいですよ。
爽やかな風、ちょっと強い日差し、寒くもなく暑くもなく、広がる海、いやーたまらないですね。

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潮風に吹かれながら囲む焚き火の喜び
焚き火。
アウトドア雑誌では定番のテーマのようで、よく見かけますね。
別にアウトドア雑誌に影響されたわけではないんですが、ぼくも焚き火が好きです。20年ほど前でしょうか、海辺でダイビングの後に車中泊をするようになって、海辺で炊さん、そして酒というのが定番メニューになりました。そしてやがて焚き火がそれに加わりました。
焚き火というのは、本当に不思議なもので、ただ木が燃えているというだけのことなのに、見ていると心が落ち着きます。
おそらく薪ストーブが流行るのも(本当に流行っているか知らないけど、ぼくの周りには家に薪ストーブがある人が多いです)火を眺めることに惹かれるからではないかな?と想像します。
ただ、多くの海辺では、焚き火は禁止されています。もちろん防火という面から焚き火を禁止するのはわかりますが、この禁止はどちらかというと海辺でよくある「なんでもかんでも禁止」の流れの中のものです。漁協が支配し、行政がそれを追認する海辺の特徴です。
本当は自覚ある意識の高い大人がやる分には構わないと思うんですが、最近の若者のレイブパーティなど違法な行為を含むどんちゃん騒ぎが行われていることが、漁協とそれに押される行政による海辺管理強化の理由になっています。
まあどちらも幼いという風にぼくには見えます。
そんなことはわきに置いておいて、潮風に吹かれながら、月明かりを浴び、波の音を聴き、酒を飲み、焚き火を見つめる、というのは海遊び後の最大の楽しみです。
そんな時間を年に何回か過ごせるだけで、気持ちの中心が柔らかく、穏やかになるのです。

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雨の日に海に出ることで、自分と向き合う
雨の海もいいものです。
真冬でなければ雨でも海に出ます。
どうせ濡れるんだしね。
雨の海でのアクティビティといえばぼくはスキューバーダイビングが多いです。
なんといっても海から上がってすぐ文化的な暮らしができるところがいいです。文化的な暮らしって大袈裟ですが、クラブハウスに戻れば屋根があるし、空調が効いてるし、熱いコーヒーだって飲めます。シャワーも浴びられる。すごいと思う。
もうひとつ多いアクティビティがシーカヤックです。これはスキューバーダイビングほど文化的ではありません。少なくても家に帰るとか、車に戻るとか、宿に着くまでは、自然と共に過ごすことになります。
これはこれでいいものです。
雨の日のウォータースポーツの良さはいろいろあります。
海がシーンとしているのがいいです。なぜだかわかりませんがシーンとしています。
水面に雨粒の落ちた円形の模様がちりばめられているのもいいです。普段見る海の表情とはまた違った表情が見られます。
いつもより孤独な感じがするのもいいです。周囲に人がいないせいでしょうか?
ぼくは海に出ると気分が高揚するというより、落着いて穏やかになることが多いんです。というか、すすんで落着いて穏やかになりたいんです。だから友達と海に行くのも好きですけど、独りで海に出ることが圧倒的に多いです。それで怖い目にも遭いますが、でも所詮死ぬだけのことです。海で死ねれば本望です。しかも独りでね…
そんなぼくにとって、雨の日のウォータースポーツは、より独りになれて、より落着いて穏やかになれる絶好の機会です。大きな海にポツンと自分独りだけ、そして自分とトコトンまで向き合うだけ…
そんな雨の日の海が好きです。

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平和のためにぼくができることはあるのでしょうか?…せめて心穏やかに…
ニュースでは国内外で人が殺されたり、人を殺したりすることが起きています。幸いぼくの近い周囲ではそんなことは起きていませんが、だからいいのかというとそうでもないでしょう。でもぼくに何ができるのか?
人がやってはいけないルールは様々な成り立ちや理由で社会にたくさんありますが、そのうち、最も基礎にあって最も守らなければならないのが自分も含めて人を傷つけないということです。
これは古今東西そういう認識は共有されていると思うのですが、実際守るのが難しいルールでもあります。
ぼくはかれこれ40年以上生きていますが、世界中で戦争や殺人事件がなかった年を知りません。
過去の歴史を少しだけ読んでも、ぼくの知る範囲では、人は平和を求めるのと同じように戦いを求めているように見えます。
ぼくが平和や殺人のない状態を望む理由は明かです。
自分が殺されるのはイヤです。それは痛く苦しいです。また、自分の家族や知り合いが目の前で殺されるなんてそんなことは耐えられません。それは生きている中でおそらく一番辛く悲しいことだと想像できます。
ぼくらはなぜ他人に怒りを抱いてしまうのでしょうか?
そしてなぜ他人に殺意を抱いてしまうのでしょうか?
そしてなぜ人を殺すことを正当化してしまうのでしょうか?
そのような人間として根源的な心のありようをうまく自分の中で位置づけたいのですが、理屈ではなかなか納得がいきません。歴史を紐解いても答えは見つかりません。だからといって宗教に没入することもできません。現に信教が原因で起きる戦争だってありますから…
「人を殺すことはいけない」だけでは納得いきません。そんなのたいていの人が、そう思っているのに、実際には人は人を殺し続けているではないですか。
法制度が整っていても、殺人を防げずいるではないですか。
話し合いといっても先に攻撃されて殺されてしまっては、元も子もないから武器を準備するのしょう。
力のバランスといっても戦争はなくならないではないですか。武器を持てば使ってみたくなるものです。
悪い指導者が国を支配したから戦争になったといっても、それは国民が望んだことだからです。多少なりとも誰かがそれを望まなければそういう人が国を支配するということに至らないと思うのです。
現在まで人間は根本的に人が人を殺すことをコントロールできずにいるのです。
一方で歴史からは次のようなことがわかります。
平和を希求した人は、長期的に人々から支持されます。逆に殺人や戦争を求めた人は、長期的に人々から忌避されます。
戦争を求める人もずっと戦い続けることはできません。
そんなモヤモヤした理念的なことと自分の日常生活がうまく結びつけられないのですが、今のところぼくがやれることは、海に出ることしかありません。
理屈とか、よくわかりません。
海に出ると、自分独りです。家族や周囲の人々への感謝の気持ちが湧いてきます。
海に出ると、海は大きく美しいです。世の中は辛く汚いものばかりではなく、美しいものがあることが再確認できます。
海に出ると、事故れば死ぬかもしれません。死ぬ可能性が自分のそばにあります。だから生きていることのありがたさを認識できます。ただ平和で無事で健康で生きていることがどれほど素晴らしいことか、もう一度確認できます。
海に出ると、理屈ではなく前提としてそれが存在することを受け入れることになります。海も自分も何の理由もなく存在し、存在し続けているのです。物事の発生や生起に理由や理屈が必然ではないことを思い知らされます。
ぼくができることは取るに足らないことです。ぼくはかなり無力ですし、自分や自分の属する身近な集団を穏やかに保つことで精一杯なのです。
ただ自分の心を穏やかに保つこと、それを続けることで、少なくとも自分の周囲の平穏さは保てるのではないかと願っています。
厭離穢土
欣求浄土

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