海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
海辺で穏やかに暮らしたい
ぼくは海が好きで、三浦半島の海辺の田舎町に移り住みました。
子育ての環境を考えたり、仕事一辺倒で一生過ごしていいのかなという思いがあったりして、移住に踏み切りました。
本当はもっとノンビリした場所、というか率直にいうと田舎、を選びたい気持ちもありましたが、家族や仕事のことが制約になりました。
同じ首都圏近郊の海辺でも、茅ヶ崎とか藤沢とか鎌倉とか勝浦とか鴨川に引っ越さなかったのは、ノンビリ穏やかに暮らしたかったからです。海が好きでしたから、首都圏近郊の海はだいたい何度も訪れていて、しかも藤沢や大磯には何年か暮らしていましたから、土地勘みたいなのはありました。
ぼくの理想のイメージは、(夏でも)人がいないビーチでウォータースポーツしたり散歩したり、近所の人と親しくお付き合いするというものだったんですが、先ほど書いた町は、文字どおり町で、ビーチは人が多く、道も慢性的な渋滞で、休日は観光客でワサワサしていました。まあ大雑把にいうと東京近郊の住宅地と日々の暮らし自体はさほど変わらないと思いました。
ぼくが海辺に引っ越したかったのは、穏やかに暮らしたかったからなのです。
静かな環境と豊かな自然とノンビリした人々との暮らしの中で、家族を中心にして、ウォータースポーツなどで海と接する日々を送りたい。そんな暮らしが、ぼくにとってはとても価値の高いものなのです。
仕事もおもしろいですし、町で付き合う友人との時間も楽しいです。しかしそれはぼくにとっては最優先の事柄ではありません。やはり海にからんだ時間が大切です。
ただ海に関係していればいいのかというとそうでもありません。
それから海関係の友人をやたら増やしたり、人脈を構築してどうのこうのというのにも関心がありません。
以前、スキューバーダイビングで知り合った人と、ダイブトリップに行ったことがありますが、この人がせっかちで、旅先で何かやっていないと気が済まないという人でした。次から次へとアクティビティのスケジュールが入って、一緒に旅行していて疲れてしまいました。
ぼくはノンビリ穏やかに海辺での時間を過ごしたいんです。
そんなぼくとペースが合う人と付き合えればいいやと思っています。
偏屈かもしれませんが、今さら自分の好みを抑制してまで友人を増やそうとは思いません。今付き合っている友人達だって、スケジュール調整して年に数回遊ぶのがやっとなんですから…
季節によって少しずつ変わっていく雑木や草花の様子を眺めたり、そこにやってくる鳥の種類を調べたり、海で季節の魚や海藻をとって料理をしたり、日々変わる海の様子を感じたり、野菜を直売所で買って旬の味を楽しんだり、そういうひとつひとつのことを、丁寧に慌てないで行いながら、過ごしたいなあと思います。

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海好きは今日もまた海へ出ていく
ぼくはオジサンでして、海遊びをする仲間の多くは同年代の人が多いです。もちろんおじいさんもいますし、若者もいますが…
同年代の仲間のその人生的な状況というのは、奥さんがいて子供がいて、職場でも相応の地位だったりします。それなのにまだ海遊びをしているというのは、やはりどこかしら海が好きでしょうがないような人ばかりといっていいでしょう。
だいたい家族ができて仕事が忙しくなるあたりで、趣味はそこそこにしてしまう人が割合としては多いんじゃないでしょうか。それはぼくのようなタイプの人からは「歳をとった」「魂を会社に売った」「自分らしさをなくした」とケーベツの気持ちを含むあからさまな視線を注がれるわけですね。
でも世間の常識からすれば「仕事を一生懸命やっている」「家族思いの人」「常識をわきまえた人」と評価されるだろうと思います。
ぼくは相方と結婚する前からずっと海遊びをしてきました。
それこそ有給休暇を使いまくり、上司や同僚の冷たい視線を軽いジョークでかわしつつ国内海外の海へ行っていました。そのころはスキューバダイビングとサーフィンがメインでした。
若さ故に無理目のダインビングをしたり、かなり高いうねりの中でサーフィンをしたりしました。今思えばよく死ななかったなと思います。
そして相方と結婚し、子供もでき、いわゆる普通の家庭を築いてきたわけですが、それでもよく海遊びに行きます。(子供が小さい頃は一応子供の世話をしてましたよ!)
相方はそんなぼくに対して不満があるかというとそうではないといいます。まあ本心はどうか知りませんけど…
たとえば女や博打にはまるよりいいとか、いってもどうせ聞かないしとか、海遊びをやめさせてストレスが溜まってもいけないとか、そういう打算的なことを考えているかもしれません。
でも、ぼくは20代からずっと海遊びをしてきましたし、他の趣味をするわけでもなく(実際ぼくはどんなに誘われてもゴルフやスキーはやらないことにしています)、ずっとそれを続けてきました。それに対し相方は相方なりに、ぼくのそういうこだわりを尊重しているように感じます。そしてそれがぼくという人間であり、それをとったらぼくはぼくでなくなるということを理解しているようにも思えます。
そして子供達もぼくがそういう海遊びで、かなりハードな状況でも海に出て無事に帰ってきたり、あるいは世界のかなり辺境の島に行ったりすることに対して、「かっこいい」と思っているような気がします、たぶん… もしかしたら内心は「しょーがねえオヤジ」と思っているかもしれません。
自分でこんな事を書くのは恥ずかしいですけど…だいたい自己評価というのは甘いものです。
海遊びはぼくにとって、直らない習慣であり、青年時代からぼくをぼくたらしめてきた要素であり、ストレス解消法であり、人生を過ごしていくうえでの学びの場なのです。
島の人達の暮らしから生きることの原点を思う
ぼくは離島が好きです。それもできる限り人口が少ない観光客があまり来ない離島が好きです。
離島が好きな理由はいろいろあるので別な機会に書くことにします。
離島に行くたびに感じるのは、島の人の暮らしというのは非常にわかりやすいなということです。
まず、人口が少ないのでサービス業のような第三次産業はあまり盛んではないです。
商店が1軒か2軒。飲み屋も1軒か2軒。自動車整備工場が1軒。ガソリンスタンドも1軒。役場、小中学校。あとは漁業か農業です。
で、島の人と話すと、だいたい今日食べるものが獲れればまあいいんでないの、みたいな考えでいらっしゃるわけですね。
このあたりがすごくわかりやすいなあと思うわけです。
ぼくは東京に働きに出ていて、オフィスワークをします。そして給料をもらって生計をたてています。やっぱり仕事ですからキツいなとか、大変だなという時期もありました。そのたびに思い浮かべていたのは島の人の暮らしです。
いざとなれば人というのは、その日食べるものを収穫して暮らしていけるのだということを、知っているのと知らないのとでは、これはずいぶん気持ちというか世界観として違うと思うような気がします。
ワタクシは一応家庭がありまして、子供がいます。
子供は勉強して、学校に行って、会社に入ろうなんて、よくあるイメージを持っているようですが、子供にはときどき離島に連れて行って、島の人達の暮らしを見せるようにしています。
自然の中での自分、そして生き方
海を眺めながらボーッと考えることがあります。
生きるときに辛いとか苦しいことは多々あります。それは誰もがそうなわけです。ただどの程度辛いと感じるかはその人の考え方次第だったりします。
客観的な状況が大変だとしても、―例えば自分が重病であるとかが、肉親が重病であるとか、勤務先が倒産して収入がなくなるとか―それをどの程度辛いと受けとめるかはその人次第です。
そのあたりは様々な先達が心の持ち方を書いておられます。中村天風、山岡荘八、松下幸之助…
先達は立派な方ばかりですが、一般人のぼくらでもちょっとした心掛けで幸せになることができます。
例えばこんな人と一緒に仕事をしたことがあります。
職場で自分は普通くらいに頑張って、ミスもしていないし、業績も上げている。上司へのゴマすりもばっちり。なのにイマイチぱっとしない。部下がついてこない。周りの評価が高くない。そんな人が職場に一人くらいいますよね?
こういう人は自分の持つ世界観が周囲とズレているんですよね。もう少しいうと、周りの人は、経験によって多面的な物の見方や価値観を身につけて、いろいろな立場の人の気持ちを推察できるようになっているのに、この人の場合は、精神的な成長が周囲の人に追い付いていないんですね。
精神的な成長という視点で、いろいろな人を見ていると能力や年齢とはあまり比例しないみたいですね。
こういう人が近くにいた場合の対処法は、敬して遠ざけるのが一番です。近づくと中身が子供なので、ろくな目に遭いません。
ではどうしたらそういう人にならないでいられるか?
これは苦労すれば大丈夫。苦労人にそういう人はまずいません。それから体育会に入ると先輩、同僚、後輩に揉まれますから、そういう人になる可能性は低くなると思います。
海とか自然とかそういう命がかかっている場所で、チームワークで行動するスポーツをやるのも効果的です。
海などの自然は、刻一刻と状況が変わり、それらに注意を払いつつ、瞬時に判断をくださなければなりません。また、メンバーの体力、性格、癖などを頭に入れて、こういう状況ではあいつはたぶんこのように行動するはずだ、みたいなことを考えなければならないので、先ほど書いたような人になることは少ないと思います。
そして自然を相手にするというのも大切だと思います。
とにかく自然の力はときに圧倒的ですから、その強さを目の当たりにすると、人間の力の限界や弱さを感じずにはいられません。そうすると自然と謙虚になります。
自然の恩恵を受けながらそこで生かしてもらっているという感覚です。
それに自然の変化は人間にはどうしようもありません。こちらの都合とは関係なく変わります。それに合わせて生きていくしかありません。
共通しているのは自分がどれほど努力しても、どうしようもない状況があって、そこでなんとか生きていくしかないという点です。周りを自分に合わせるのではなく、自分が生き延びるために周りの状勢に合わせる。そして気長にいつか自分のやりたいことができる方向に持っていくということです。
ただ、己を殺して、忍従し、卑屈になれといっているのはありません。
自分のやりたいことができるような時期を待つのだと思います。
楽園という夢
ぼくが中学生の頃でしょうか。
やたら南の島に憧れたことがありました。
それは当時、1980年代だったかな、海外旅行がブームで、雑誌やテレビで見たような南の島のリゾートに行くということが現実的になってきたことと少し関係しています。
珊瑚礁、白い砂、青い海、青い空、ヤシの木…というお決まりのイメージです。
そこはもしかしたら楽園かもしれない。
日本のようなギスギスした競争ばかりで、なんでも金のような社会ではない、かなり楽園に近いところかもしれない。
そんな風に思いました。
もちろんその後、海外旅行もし、いろいろな島やリゾートに行き、世の中のことが少しわかるようになって、楽園というのは幻想だということは理解できるようになりました。
どちらかというと島の暮らしというのは、自然環境という面でも、経済的な面でも厳しいことも知りました。
それでもなお、ぼくの中には南の島は楽園に近いのではないかという思いがあります。
それは昔のような単純な楽園のイメージではなくなりましたが…
たとえば日本や欧米の経済的に豊かな国というのは、民主主義、資本主義、法治国家、競争社会、効率重視、成長重視という概念を共有していて、それが良いとされていて、それに対立する概念として共産主義や社会主義のような考え、あるいは最近ではイスラム原理主義的な考えを仮想敵と見なしています。
世界にはいくつかの対立軸しか、存在のあり方がないかのように思わせられていますが、実際に世界を旅してみれば、そうしたイデオロギーとは関係なく日々を暮らしている人々の方が圧倒的に多いように感じます。
つまりなんとか主義とか、競争とか効率とか成長とは関係なく、日々の暮らしや人間関係でコミュニティが成り立っているのではないかと思います。コミュニティの集積が国であったとしても、個人が暮らすうえで直接関係するのは家族だったりコミュニティだったりするわけで、国とかイデオロギーってそんなに大事ではないかもしれない。でも宗教は大切ですけど…
南の島が楽園に近いと思う理由は、以下のとおりです。
・暖かい。暖かいと人は寒さで死ぬことはない。作物も育ちやすい。住居や服も簡素で住む。暖房のための燃料やそのための費用が要らない。暖かさは人類が生きることを容易にする。
四季があり(つまり冬があり)プロテスタントである国で資本主義が発達したと社会学の古典でいわれているように、寒いことで人は、何かを保存したり、貯蓄したりすることの必要性に迫られる。そこから貧富の差や競争や効率という考え方が育つ。
暖かいとだいたい人はリラックスして、オープンに、おおらかになる傾向がある。
・海がある。海産物を獲ることで食べていける。
・島というのは、たいてい人口が少なく、海で隔てられているため外からの敵が襲って来にくかった。競争や戦争からは比較的遠い風土があった。仮にどこかの大国の属国になってもそれはあくまで遠隔地としての属国である。これはヨーロッパや中東のように、競合する隣国と接している地域とは状況が違う。
理屈をツラツラと書きましたが、その元になっているのは、これはもう実感レベルのことでして、南の島に何週間か滞在して、東京に戻ってくると、その時間の流れの速さや人口密度やギスギス度合いなどの違和感で頭がクラクラしてしまいます。
なぜ、ぼくは東京(というか関東ですけど)では、すごく緊張して暮らしているのに、南の島に滞在している間は、あんなにリラックスして、ゆったり、のんびり過ごしていたのだろう?ということが、南の島楽園説の始まりです。
地理、地点間の移動は大きな意味を持つのではないかとの思い
ぼくはン十年前に都心から郊外の海辺の田舎町に移り住みました。
これはいろいろ迷いや思い切りが必要でした。
一番の問題は通勤時間でした。
片道2時間弱の通勤時間をどう考えるか…
それまでの生活は週末は早起きして道路が混む前に海辺に移動して、ウォータースポーツを楽しんで、宿で1泊して日曜日の夜遅く、渋滞が解消してから自宅に帰って、翌朝出勤するというものでした。
自宅から職場までは地下鉄で20分ほどでしたが、すごく混雑していて、乗れないで何本かやり過ごすような生活でした。
郊外に住めば、通勤時間は2時間ですが、満員電車とは関係ありません。始発で必ず座れるとわかっていましたから…
そして毎日海を感じられる、あるいはアサイチ(早朝にサーフィンすること)だってできる。
そのどちらを選択するかです。
おそらくぼくのような海バカは、いずれ海辺に移住したのだと思います。だから結果は、「移住に満足している」というものになるのは初めから決まっていたのでした。
ただ移住してみて、当初予想していなかった良いことがありました。
いろいろありますが、一番大きいのは、職場と物理的に距離が離れることで、気持ちが切り替わる効果です。
これはどなたでも経験されていることではないかと思います。
たとえば旅行はその最たるものではないでしょうか。
移動すること、日常の暮らしから距離的に離れることで、気持ちが切り替わる。あるいは日常の暮らしとまったく違う土地に移ることで気持ちが切り替わる。そういったことは経験的にあるのではないでしょうか。
ぼくが海辺の町に移住して感じたのはこのことです。
職場の近くに住んでいた頃は、終電までに帰ればいいやとか、いざとなればタクシーで帰ればいいや、あるいは仕事で何か起きれば夜中でも駆けつけなければならないとか、仕事がすごく立て込めば休日に出勤すればいいや、みたいな気持ちが心の奥にあったんじゃないかと思います。それが心理的には仕事からずっと離れられないような状況を作っていたんではないでしょうか。
こんな心理的な作用はかなりぼくの個人的な性格によるものかもしれません。そんな心理になるのは、ぼくが、仕事も好きで一生懸命やりたいという気持ちもありつつ、学生時代からずっと海が好きで、ウォータースポーツを続けてきて、もし仮にウォータースポーツで食べていければ、それもいいなあと思った若い頃もあったという両面が、ぼくの気持ちの中に確かにあるからかもしれません。
ただ、今思えばン十年前に郊外に移り住むという決断をしていなかったら、ぼくは過労でココロが病んでいたかもしれないなあと、たまに思います。
そんなわけで今は、職場から電車に乗って、あるエリアを過ぎると気持ちが完全にプライベートモードに切り替わります。
スイッチがパチンとオフになります。
もう職場から緊急の電話がかかってきても、もういけないもんね、と思います。
ここからは海の男の自分だもんね、と思います。
職場の○○さんじゃなくて、海辺の○○さんであり、父や夫としての○○さんだもんね、と思うのです。
ぼくは自分の気持ちの中にある、仕事も大事、海辺の暮らしも大事、という2つの気持ちを、距離の移動によって切り替えているのかもしれません。
プライベートビーチでココロの重荷を解き放つ
「プライベートビーチ」というのは、ぼくのような海好きな人間にとっては、なかなか魅力的な言葉です。
キャバクラとかギャルとかアバンチュールという言葉も魅力的ではありますが、ぼくはもうすでにそういう欲求も減退気味で、プライベートビーチという言葉の方が圧倒的に大差を持って魅力的です。
田舎に行けば、人がいないビーチというのはそんなに珍しいものではありません。
ただ都市部近郊の海辺では、人がいないビーチというのは貴重です。
もちろん冬の早朝なんかですと、ぼくの家のそばのビーチも人気はありませんが、それはたまたま人がいないだけで、そういうのをプライベートビーチといっていいのかよくわかりません。
ただ、シーカヤックをしていると関東近郊の海辺でもプライベートビーチを見つけることはできます。
海というのはたいてい岬と岬が連なっていて、そのあいだの入江がビーチになっているというのが、日本でよくある地形です。で、道があるところは人が来るわけですが、中には道がない入江もあるわけで、そういうところが、関東近郊でのプライベートビーチになるのです。
ぼくはそういうプライベートビーチが好きで、休日になるとシーカヤックで移動しては楽しんでいます。
ときには泊まることもあります。
テントを持って行くんです。
まあ食料と水があればたいていなんとかなるもので、人が来ない自分だけの空間を、秘密基地みたいにするのが楽しいですね。
テント場を見つけて、テントを張って、石を集めてかまどを作って、薪を集めて、湯を湧かして、メシを作ります。焚き火を見ながら、酒を飲みます。自分だけの空間、自分だけの時間…
人が来ないというのは、やってみるとこれがなかなか解放感があって、自分というのは、普段、無意識に、他者を警戒していたというかバリアを張っていたんだなと思います。
そういう無意識の何かを解放すると気持ちがずいぶんリラックスできます。
たぶんですが、そういうもろもろの荷物みたいなものをぼくらは抱え込んで生きていいるのかもしれません。
ぼくはたまたま海遊びのプライベートビーチという空間で、心理的な重荷を解放する機会を発見したわけですが、もしかしたら他にもいろいろな方法があるかもしれません。
「運が悪けりゃ死ぬだけさ」
ぼくはずーっと昔の若い頃、日テレで放送していた『俺たちは天使だ』が好きで、再放送を録画したのを何度も見ていました。日テレのアクション物ファンは大勢いて、『気まぐれ天使』『探偵物語』『プロハンター』などと、それぞれ好きな番組が微妙に違っていて、その話をし始めると、酒を飲みながらかなり盛り上がるわけです。
まあそれはおいといて、『俺たちは天使だ』の中でキマリの台詞がありまして、それは「運が悪けりゃ死ぬだけさ」というものです。
海遊びをン十年続けてきたぼくの気持ちは、この言葉にとってもしっくりくるのです。
これまで多くの友人・知人にこの話をしましたが、すごく共感してくれる人と引く人とはっきりわかれます。大学生の頃付き合っていた優等生の彼女には、「そんな運任せな考えはよくない。人は自分の最善を尽くすべき。ましてやすぐに死ぬとかいってはいけない」というようなことをいわれました。
パチパチ(拍手)。
まったくごもっともですね。
ぼくの好きな言葉で、もうひとつ別なのがありまして、それは「敦盛」の「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」です。
われわれが歯を食いしばって、すごく頑張って、ベンツを買ったり、大きな家を建てたり、大儲けをしたり、天下をとっても(現代で天下をとれる人がいるのか知りませんけど)、そんなの別な世界から見れば、とるに足らない、瞬く間の出来事なんだと思うんです。
それを受けて、だからすべて運任せ、何やっても、努力しても無駄だからどうでもいいやというわけじゃなくて、ぼくの場合、だから細かいことを気にしないで自分の好きなことを思いっきり、全部やってしまおう、という考えになっていくわけでございますね。ぼくがどんなによほど頑張って大きな事をやってもたぶん大したことではないでしょう。
海に出るとそれが身に浸みて感じられます。
海の岩、根、地形、砂浜は、何千年、何万年という歳月を経てそこにあるわけです。
おそらくぼくが触ったその岩には、縄文時代の人も触ったかもしれません。以来、いろいろな時代の人間がその岩に触ったかもしれませんが、その岩はただそこに変わらず存在するのです。一方で人の方といえば、誰が存在したかさえ、今やもう、誰にもわからないんですよね。
ぼくは三浦半島に住んでいまして、油壺には三浦氏の城跡がありますし、鎌倉に行けば源氏の史跡がたくさんあります。
およそ千年前には、そうした人達がまさにその場所を行き来し、戦っていたわけですが、その人達は今は誰も生きてはいません。
ぼくがこうして海の上にいる瞬間、気を抜けば死ぬのは簡単でしょうし、もしかしたら今、どこかで大地震が起きて、津波がこちらに向かって来ているかもしれません。
あるいはいつもの習慣で、歩いてすぐのコンビニに買い物に行く途中で交通事故に遭って死ぬかもしれません。ビルの建築現場の下を通るとき、上から物が落ちてきて下敷きになって死ぬかもしれません。
ぼくには大きく分けてコントロールできないこととコントロールできることの2つがあって、おそらくコントロールできることが圧倒的に少ないんじゃないかと推測します。
これも海に出るとしみじみ実感できることです。
海に出るたび、自然の圧倒的な大きさと力強さ、そして自分の無力さを認識します。そして自分でコントロールできることに最善を尽くすのです。
あとはコントロールできないのだからしようがない、でもそれに備えることはします。それを恐れはしません。恐れてはいけません。恐れては一歩も前に進めなくなります。たとえ何が起ころうとも、運が悪けりゃ死ぬだけなんですから…

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大切なひととき
海好きが昂じて、海辺に住むようになり20年くらい経つでしょうか。
それでも飽きず毎日海を眺めています。
もちろんずっと眺めているわけではないですけど、家事の合間にふと海を眺めます。
自分でもどうしてこうも飽きないのかなあと不思議でなりません。
たいていのことは飽きっぽいんですから…
朝、昼、夜と海の様子は違いますし、季節によっても違います。もちろん海況によっても違います。
それらを感じ取るのが好きなんだと思います。
ふとした瞬間がすごくいいなあと思うんですね。
ぼくの好きな瞬間というのをいくつかあげてみたいと思います。
初夏の霧の朝の海辺が好きです。
まだ気温が上がっておらず、少し涼しい初夏の朝、風が緩やかに海から陸に吹いています。そんなとき海に迫った山から霧が下りてきて、海辺も霧に包まれます。別な世界の海辺に来たような気がしてきます。
薄く白く煙った空気の中に波の音が聞こえてきてます。波打ち際は見えますが、遠くは見えません。そんな砂浜をポクポクと歩いていくと、なんだか心が落ち着きます。
真夏の夕暮れの海が好きです。
太陽がだんだん西に傾き、遠くの山々に沈もうとしています。海から心地よいオンショアが吹いてきて、昼間の暑さが和らぎます。
さっきまでジリジリ陽射しに焼かれた肌がほてって、そんな身体を冷ましたいのか、冷たいビールをゴクゴクと流し込むのは小さい幸せです。
ビールを飲んでいるうちに日が山の陰に隠れ、山際が紫とも青ともいえない色になります。
そしてやがて周囲が薄暗くなり、左手の灯台の光が目につくようになります。
夜の海が好きです。
夜、防波堤に座ってビールを飲みます。潮風に吹かれながら飲むビールは特にうまいものです。
遠くに灯台の灯り、海辺の道沿いに車のライト、真っ暗な海には点々と漁り火。
いい歳をして恥ずかしいんですが、なんだか切ない気持ちになります。
海へ下る右にカーブした道が好きです。
ぼくの家の近所には県道が通っています。その道は海沿いに海に向かって下るように伸びています。
道は右手に緩やかにカーブしています。そのカーブの向こうに海が見えます。
初夏の夕方には、その海が西に傾いた太陽に照らされて、キラキラと光っています。
海へ下る道をゆっくり歩きながら、海を眺めるひとときは大切な時間です。
いろいろな好きな瞬間があって、それを年に何度か目にするだけでとても幸せな気持ちになります。

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秋の一日、値千金
この季節、風が爽やかで、空も高くて気持ちいいですね。
夏のあいだはあんなに暑くて、湿気も多くてうんざりしていたのが、ほんの1~2ヶ月でまったく違った気候になってしまうんですから、日本の季節というのは面白いですね。
10月と11月はぼくの海遊びにおいては、すごく大切な時期です。
台風が来ない限り気候が安定しているし、西風もまだ強くない、北風も吹いていない、気温はほどよく、空気は爽やか、海の中はまだ温かい。
スキューバダイビングよし、セイリングよし、シーカヤックよしとやることはたくさんあります。
そんな感じなので、休日は1日たりとも無駄にしたくないというのが本音です。
やむを得なく出張が入ったり、それほど親しくない人の結婚式が入ったりすると、ムムムという気持ちになります。
秋の一日、値千金ですね。

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