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自然の中での自分、そして生き方




 海を眺めながらボーッと考えることがあります。
 生きるときに辛いとか苦しいことは多々あります。それは誰もがそうなわけです。ただどの程度辛いと感じるかはその人の考え方次第だったりします。
 客観的な状況が大変だとしても、―例えば自分が重病であるとかが、肉親が重病であるとか、勤務先が倒産して収入がなくなるとか―それをどの程度辛いと受けとめるかはその人次第です。
 そのあたりは様々な先達が心の持ち方を書いておられます。中村天風、山岡荘八、松下幸之助…
 先達は立派な方ばかりですが、一般人のぼくらでもちょっとした心掛けで幸せになることができます。
 例えばこんな人と一緒に仕事をしたことがあります。
 職場で自分は普通くらいに頑張って、ミスもしていないし、業績も上げている。上司へのゴマすりもばっちり。なのにイマイチぱっとしない。部下がついてこない。周りの評価が高くない。そんな人が職場に一人くらいいますよね?
 こういう人は自分の持つ世界観が周囲とズレているんですよね。もう少しいうと、周りの人は、経験によって多面的な物の見方や価値観を身につけて、いろいろな立場の人の気持ちを推察できるようになっているのに、この人の場合は、精神的な成長が周囲の人に追い付いていないんですね。
 精神的な成長という視点で、いろいろな人を見ていると能力や年齢とはあまり比例しないみたいですね。
 こういう人が近くにいた場合の対処法は、敬して遠ざけるのが一番です。近づくと中身が子供なので、ろくな目に遭いません。
 ではどうしたらそういう人にならないでいられるか?
 これは苦労すれば大丈夫。苦労人にそういう人はまずいません。それから体育会に入ると先輩、同僚、後輩に揉まれますから、そういう人になる可能性は低くなると思います。
 海とか自然とかそういう命がかかっている場所で、チームワークで行動するスポーツをやるのも効果的です。
 海などの自然は、刻一刻と状況が変わり、それらに注意を払いつつ、瞬時に判断をくださなければなりません。また、メンバーの体力、性格、癖などを頭に入れて、こういう状況ではあいつはたぶんこのように行動するはずだ、みたいなことを考えなければならないので、先ほど書いたような人になることは少ないと思います。
 そして自然を相手にするというのも大切だと思います。
 とにかく自然の力はときに圧倒的ですから、その強さを目の当たりにすると、人間の力の限界や弱さを感じずにはいられません。そうすると自然と謙虚になります。
 自然の恩恵を受けながらそこで生かしてもらっているという感覚です。
 それに自然の変化は人間にはどうしようもありません。こちらの都合とは関係なく変わります。それに合わせて生きていくしかありません。
 共通しているのは自分がどれほど努力しても、どうしようもない状況があって、そこでなんとか生きていくしかないという点です。周りを自分に合わせるのではなく、自分が生き延びるために周りの状勢に合わせる。そして気長にいつか自分のやりたいことができる方向に持っていくということです。
 ただ、己を殺して、忍従し、卑屈になれといっているのはありません。
 自分のやりたいことができるような時期を待つのだと思います。
 と、これまでいろいろ書いてきましたが、これはすべてぼく自身にいい聞かせるために、まとめているんですね。ぼくは忘れっぽいので、こうして何度も思い返すしかありません。









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楽園という夢




 ぼくが中学生の頃でしょうか。
 やたら南の島に憧れたことがありました。
 それは当時、1980年代だったかな、海外旅行がブームで、雑誌やテレビで見たような南の島のリゾートに行くということが現実的になってきたことと少し関係しています。
 珊瑚礁、白い砂、青い海、青い空、ヤシの木…というお決まりのイメージです。
 そこはもしかしたら楽園かもしれない。
 日本のようなギスギスした競争ばかりで、なんでも金のような社会ではない、かなり楽園に近いところかもしれない。
 そんな風に思いました。
 もちろんその後、海外旅行もし、いろいろな島やリゾートに行き、世の中のことが少しわかるようになって、楽園というのは幻想だということは理解できるようになりました。
 どちらかというと島の暮らしというのは、自然環境という面でも、経済的な面でも厳しいことも知りました。
 それでもなお、ぼくの中には南の島は楽園に近いのではないかという思いがあります。
 それは昔のような単純な楽園のイメージではなくなりましたが…
 たとえば日本や欧米の経済的に豊かな国というのは、民主主義、資本主義、法治国家、競争社会、効率重視、成長重視という概念を共有していて、それが良いとされていて、それに対立する概念として共産主義や社会主義のような考え、あるいは最近ではイスラム原理主義的な考えを仮想敵と見なしています。
 世界にはいくつかの対立軸しか、存在のあり方がないかのように思わせられていますが、実際に世界を旅してみれば、そうしたイデオロギーとは関係なく日々を暮らしている人々の方が圧倒的に多いように感じます。
 つまりなんとか主義とか、競争とか効率とか成長とは関係なく、日々の暮らしや人間関係でコミュニティが成り立っているのではないかと思います。コミュニティの集積が国であったとしても、個人が暮らすうえで直接関係するのは家族だったりコミュニティだったりするわけで、国とかイデオロギーってそんなに大事ではないかもしれない。でも宗教は大切ですけど…
 南の島が楽園に近いと思う理由は、以下のとおりです。
・暖かい。暖かいと人は寒さで死ぬことはない。作物も育ちやすい。住居や服も簡素で住む。暖房のための燃料やそのための費用が要らない。暖かさは人類が生きることを容易にする。
 四季があり(つまり冬があり)プロテスタントである国で資本主義が発達したと社会学の古典でいわれているように、寒いことで人は、何かを保存したり、貯蓄したりすることの必要性に迫られる。そこから貧富の差や競争や効率という考え方が育つ。
 暖かいとだいたい人はリラックスして、オープンに、おおらかになる傾向がある。
・海がある。海産物を獲ることで食べていける。
・島というのは、たいてい人口が少なく、海で隔てられているため外からの敵が襲って来にくかった。競争や戦争からは比較的遠い風土があった。仮にどこかの大国の属国になってもそれはあくまで遠隔地としての属国である。これはヨーロッパや中東のように、競合する隣国と接している地域とは状況が違う。
 理屈をツラツラと書きましたが、その元になっているのは、これはもう実感レベルのことでして、南の島に何週間か滞在して、東京に戻ってくると、その時間の流れの速さや人口密度やギスギス度合いなどの違和感で頭がクラクラしてしまいます。
 なぜ、ぼくは東京(というか関東ですけど)では、すごく緊張して暮らしているのに、南の島に滞在している間は、あんなにリラックスして、ゆったり、のんびり過ごしていたのだろう?ということが、南の島楽園説の始まりです。
 いくら分析してみても分析しきれないものはたぶん存在するのではないか、そしてそのひとつが南の島の雰囲気ではないかと思います。





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地理、地点間の移動は大きな意味を持つのではないかとの思い




 ぼくはン十年前に都心から郊外の海辺の田舎町に移り住みました。
 これはいろいろ迷いや思い切りが必要でした。
 一番の問題は通勤時間でした。
 片道2時間弱の通勤時間をどう考えるか…
 それまでの生活は週末は早起きして道路が混む前に海辺に移動して、ウォータースポーツを楽しんで、宿で1泊して日曜日の夜遅く、渋滞が解消してから自宅に帰って、翌朝出勤するというものでした。
 自宅から職場までは地下鉄で20分ほどでしたが、すごく混雑していて、乗れないで何本かやり過ごすような生活でした。
 郊外に住めば、通勤時間は2時間ですが、満員電車とは関係ありません。始発で必ず座れるとわかっていましたから…
 そして毎日海を感じられる、あるいはアサイチ(早朝にサーフィンすること)だってできる。
 そのどちらを選択するかです。
 おそらくぼくのような海バカは、いずれ海辺に移住したのだと思います。だから結果は、「移住に満足している」というものになるのは初めから決まっていたのでした。
 ただ移住してみて、当初予想していなかった良いことがありました。
 いろいろありますが、一番大きいのは、職場と物理的に距離が離れることで、気持ちが切り替わる効果です。
 これはどなたでも経験されていることではないかと思います。
 たとえば旅行はその最たるものではないでしょうか。
 移動すること、日常の暮らしから距離的に離れることで、気持ちが切り替わる。あるいは日常の暮らしとまったく違う土地に移ることで気持ちが切り替わる。そういったことは経験的にあるのではないでしょうか。
 ぼくが海辺の町に移住して感じたのはこのことです。
 職場の近くに住んでいた頃は、終電までに帰ればいいやとか、いざとなればタクシーで帰ればいいや、あるいは仕事で何か起きれば夜中でも駆けつけなければならないとか、仕事がすごく立て込めば休日に出勤すればいいや、みたいな気持ちが心の奥にあったんじゃないかと思います。それが心理的には仕事からずっと離れられないような状況を作っていたんではないでしょうか。
 こんな心理的な作用はかなりぼくの個人的な性格によるものかもしれません。そんな心理になるのは、ぼくが、仕事も好きで一生懸命やりたいという気持ちもありつつ、学生時代からずっと海が好きで、ウォータースポーツを続けてきて、もし仮にウォータースポーツで食べていければ、それもいいなあと思った若い頃もあったという両面が、ぼくの気持ちの中に確かにあるからかもしれません。
 ただ、今思えばン十年前に郊外に移り住むという決断をしていなかったら、ぼくは過労でココロが病んでいたかもしれないなあと、たまに思います。
 そんなわけで今は、職場から電車に乗って、あるエリアを過ぎると気持ちが完全にプライベートモードに切り替わります。
 スイッチがパチンとオフになります。
 もう職場から緊急の電話がかかってきても、もういけないもんね、と思います。
 ここからは海の男の自分だもんね、と思います。
 職場の○○さんじゃなくて、海辺の○○さんであり、父や夫としての○○さんだもんね、と思うのです。
 ぼくは自分の気持ちの中にある、仕事も大事、海辺の暮らしも大事、という2つの気持ちを、距離の移動によって切り替えているのかもしれません。
 もし、これを読まれている方が、ぼくのような心理状況で、海好きであるならば、移住することをオススメします。





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プライベートビーチでココロの重荷を解き放つ




「プライベートビーチ」というのは、ぼくのような海好きな人間にとっては、なかなか魅力的な言葉です。
 キャバクラとかギャルとかアバンチュールという言葉も魅力的ではありますが、ぼくはもうすでにそういう欲求も減退気味で、プライベートビーチという言葉の方が圧倒的に大差を持って魅力的です。
 田舎に行けば、人がいないビーチというのはそんなに珍しいものではありません。
 ただ都市部近郊の海辺では、人がいないビーチというのは貴重です。
 もちろん冬の早朝なんかですと、ぼくの家のそばのビーチも人気はありませんが、それはたまたま人がいないだけで、そういうのをプライベートビーチといっていいのかよくわかりません。
 ただ、シーカヤックをしていると関東近郊の海辺でもプライベートビーチを見つけることはできます。
 海というのはたいてい岬と岬が連なっていて、そのあいだの入江がビーチになっているというのが、日本でよくある地形です。で、道があるところは人が来るわけですが、中には道がない入江もあるわけで、そういうところが、関東近郊でのプライベートビーチになるのです。
 ぼくはそういうプライベートビーチが好きで、休日になるとシーカヤックで移動しては楽しんでいます。
 ときには泊まることもあります。
 テントを持って行くんです。
 まあ食料と水があればたいていなんとかなるもので、人が来ない自分だけの空間を、秘密基地みたいにするのが楽しいですね。
 テント場を見つけて、テントを張って、石を集めてかまどを作って、薪を集めて、湯を湧かして、メシを作ります。焚き火を見ながら、酒を飲みます。自分だけの空間、自分だけの時間…
 人が来ないというのは、やってみるとこれがなかなか解放感があって、自分というのは、普段、無意識に、他者を警戒していたというかバリアを張っていたんだなと思います。
 そういう無意識の何かを解放すると気持ちがずいぶんリラックスできます。
 たぶんですが、そういうもろもろの荷物みたいなものをぼくらは抱え込んで生きていいるのかもしれません。
 ぼくはたまたま海遊びのプライベートビーチという空間で、心理的な重荷を解放する機会を発見したわけですが、もしかしたら他にもいろいろな方法があるかもしれません。




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「運が悪けりゃ死ぬだけさ」




 ぼくはずーっと昔の若い頃、日テレで放送していた『俺たちは天使だ』が好きで、再放送を録画したのを何度も見ていました。日テレのアクション物ファンは大勢いて、『気まぐれ天使』『探偵物語』『プロハンター』などと、それぞれ好きな番組が微妙に違っていて、その話をし始めると、酒を飲みながらかなり盛り上がるわけです。

 まあそれはおいといて、『俺たちは天使だ』の中でキマリの台詞がありまして、それは「運が悪けりゃ死ぬだけさ」というものです。
 海遊びをン十年続けてきたぼくの気持ちは、この言葉にとってもしっくりくるのです。

 これまで多くの友人・知人にこの話をしましたが、すごく共感してくれる人と引く人とはっきりわかれます。大学生の頃付き合っていた優等生の彼女には、「そんな運任せな考えはよくない。人は自分の最善を尽くすべき。ましてやすぐに死ぬとかいってはいけない」というようなことをいわれました。
 パチパチ(拍手)。
 まったくごもっともですね。

 ぼくの好きな言葉で、もうひとつ別なのがありまして、それは「敦盛」の「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」です。
 われわれが歯を食いしばって、すごく頑張って、ベンツを買ったり、大きな家を建てたり、大儲けをしたり、天下をとっても(現代で天下をとれる人がいるのか知りませんけど)、そんなの別な世界から見れば、とるに足らない、瞬く間の出来事なんだと思うんです。

 それを受けて、だからすべて運任せ、何やっても、努力しても無駄だからどうでもいいやというわけじゃなくて、ぼくの場合、だから細かいことを気にしないで自分の好きなことを思いっきり、全部やってしまおう、という考えになっていくわけでございますね。ぼくがどんなによほど頑張って大きな事をやってもたぶん大したことではないでしょう。

 海に出るとそれが身に浸みて感じられます。
 海の岩、根、地形、砂浜は、何千年、何万年という歳月を経てそこにあるわけです。
 おそらくぼくが触ったその岩には、縄文時代の人も触ったかもしれません。以来、いろいろな時代の人間がその岩に触ったかもしれませんが、その岩はただそこに変わらず存在するのです。一方で人の方といえば、誰が存在したかさえ、今やもう、誰にもわからないんですよね。
 ぼくは三浦半島に住んでいまして、油壺には三浦氏の城跡がありますし、鎌倉に行けば源氏の史跡がたくさんあります。
 およそ千年前には、そうした人達がまさにその場所を行き来し、戦っていたわけですが、その人達は今は誰も生きてはいません。

 ぼくがこうして海の上にいる瞬間、気を抜けば死ぬのは簡単でしょうし、もしかしたら今、どこかで大地震が起きて、津波がこちらに向かって来ているかもしれません。
 あるいはいつもの習慣で、歩いてすぐのコンビニに買い物に行く途中で交通事故に遭って死ぬかもしれません。ビルの建築現場の下を通るとき、上から物が落ちてきて下敷きになって死ぬかもしれません。

 ぼくには大きく分けてコントロールできないこととコントロールできることの2つがあって、おそらくコントロールできることが圧倒的に少ないんじゃないかと推測します。
 これも海に出るとしみじみ実感できることです。

 海に出るたび、自然の圧倒的な大きさと力強さ、そして自分の無力さを認識します。そして自分でコントロールできることに最善を尽くすのです。
 あとはコントロールできないのだからしようがない、でもそれに備えることはします。それを恐れはしません。恐れてはいけません。恐れては一歩も前に進めなくなります。たとえ何が起ころうとも、運が悪けりゃ死ぬだけなんですから…






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大切なひととき




 海好きが昂じて、海辺に住むようになり20年くらい経つでしょうか。
 それでも飽きず毎日海を眺めています。
 もちろんずっと眺めているわけではないですけど、家事の合間にふと海を眺めます。

 自分でもどうしてこうも飽きないのかなあと不思議でなりません。
 たいていのことは飽きっぽいんですから…

 朝、昼、夜と海の様子は違いますし、季節によっても違います。もちろん海況によっても違います。
 それらを感じ取るのが好きなんだと思います。
 ふとした瞬間がすごくいいなあと思うんですね。

 ぼくの好きな瞬間というのをいくつかあげてみたいと思います。

 初夏の霧の朝の海辺が好きです。
 まだ気温が上がっておらず、少し涼しい初夏の朝、風が緩やかに海から陸に吹いています。そんなとき海に迫った山から霧が下りてきて、海辺も霧に包まれます。別な世界の海辺に来たような気がしてきます。
 薄く白く煙った空気の中に波の音が聞こえてきてます。波打ち際は見えますが、遠くは見えません。そんな砂浜をポクポクと歩いていくと、なんだか心が落ち着きます。

 真夏の夕暮れの海が好きです。
 太陽がだんだん西に傾き、遠くの山々に沈もうとしています。海から心地よいオンショアが吹いてきて、昼間の暑さが和らぎます。
 さっきまでジリジリ陽射しに焼かれた肌がほてって、そんな身体を冷ましたいのか、冷たいビールをゴクゴクと流し込むのは小さい幸せです。
 ビールを飲んでいるうちに日が山の陰に隠れ、山際が紫とも青ともいえない色になります。
 そしてやがて周囲が薄暗くなり、左手の灯台の光が目につくようになります。

 夜の海が好きです。
 夜、防波堤に座ってビールを飲みます。潮風に吹かれながら飲むビールは特にうまいものです。
 遠くに灯台の灯り、海辺の道沿いに車のライト、真っ暗な海には点々と漁り火。
 いい歳をして恥ずかしいんですが、なんだか切ない気持ちになります。

 海へ下る右にカーブした道が好きです。
 ぼくの家の近所には県道が通っています。その道は海沿いに海に向かって下るように伸びています。
 道は右手に緩やかにカーブしています。そのカーブの向こうに海が見えます。
 初夏の夕方には、その海が西に傾いた太陽に照らされて、キラキラと光っています。
 海へ下る道をゆっくり歩きながら、海を眺めるひとときは大切な時間です。

 いろいろな好きな瞬間があって、それを年に何度か目にするだけでとても幸せな気持ちになります。 




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秋の一日、値千金




 この季節、風が爽やかで、空も高くて気持ちいいですね。
 夏のあいだはあんなに暑くて、湿気も多くてうんざりしていたのが、ほんの1~2ヶ月でまったく違った気候になってしまうんですから、日本の季節というのは面白いですね。
 10月と11月はぼくの海遊びにおいては、すごく大切な時期です。
 台風が来ない限り気候が安定しているし、西風もまだ強くない、北風も吹いていない、気温はほどよく、空気は爽やか、海の中はまだ温かい。
 スキューバダイビングよし、セイリングよし、シーカヤックよしとやることはたくさんあります。
 そんな感じなので、休日は1日たりとも無駄にしたくないというのが本音です。
 やむを得なく出張が入ったり、それほど親しくない人の結婚式が入ったりすると、ムムムという気持ちになります。
 秋の一日、値千金ですね。




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人口の少ない離島の旅が好きです



 離島好きです。
 ぼくがリアルタイムで知っているわけではないですが、昔、離島ブームというのがあったそうです。1970年代の頃から続いていたようです。
 ぼくの記憶の隅にあるのは、新島に若者が大挙して行っていたとか、与論島ツアーがやたらテレビCMで流れていたということです。

 実際、リアルタイムでぼくが島に行くようになったのは沖縄本島、石垣、宮古、伊豆大島、八丈島です。目的はスキューバーダイビング。
 そしてだんだんより人口が少ない離島に行くようなりました。

 多良間、西表、御蔵、小笠原父島、母島…

 行くのに時間がかかる人口の少ない島には独特の魅力があります。一方で手軽に行ける島は都会化してしまって少し残念です。旅行者のエゴ丸出しで恥ずかしいのですが…
 都会化してしまうというのは、いいたいことを正確にいっていない気がします。そうですねえ、島にいる客層が軟弱でチャラくなっていて、そういうお客を扱うために島の人もそれっぽくなっているのが残念という方がいいかもしれません。

 たとえば母島にいる旅行者と沖縄本島にいる観光客では、客層がかなり違います。前者は、自然とかツーリズムに対して気合いが入っているのに対し、後者は、ただの観光客です。
 たとえば沖縄本島や石垣島や八丈島は、東京から飛行機で1~3時間で行けます。3日休みがあれば、まあ楽しめます。それだけ手軽なんですが、そうすると島の感じというのは町とそんなに変わらない、ってやっぱり変わりますが、昔の石垣はもっとノンビリしていました。
 一方で小笠原の父島は東京の竹芝から船でしか行けませんし、船に乗っている時間は25時間です。そしてその船は通常1週間に1便しか出ないのです。つまり、6日間ないと父島には行って帰れないというわけです。さらに母島は父島から船で2時間かかります。
 これでは旅行者の層が違ってもしょうがないでしょう。

 それに人口の少ない島のよさというのは2、3日も滞在していると顔を覚えてもらえて、まあ、たいていみなさん優しいわけです。そこにずっと暮らすとなるとそれはそれでいろいろ煩わしいこともあると思うんですが、旅行している分にはその親密な感じは居心地がいいんですね。
 ぼくのこれまでの経験からいって、アットホームな感じが体験できるのは、人口が3000人以下で、できれば空港がない島です。それくらいだと、郵便局1つ、JAが1つ、雑貨屋みたいな商店が2つか3つ、飲み屋が数軒というのが相場でして、3日もいれば、同じ店に何度も行くし、島のメインストリート(って数百メートルの小径だったりしますが)を何往復もしているわけで、当然、島の人とも顔を合わせるし、挨拶するようになるし、そうなるとだんだんいろいろな話をするようになって、夜は飲みに誘われたりしてって、そういうのが楽しいんですね。

 そういうんじゃなくて、リゾートホテルに滞在して、プールで泳いで、エステやって、ホテルのバーで飲んで、後から考えると島の全体像はよくわからなくて、島のビーチに一歩も足を踏み入れなかった、足が汚れなくて潮臭くならないそんな旅が好き、という人もいると思うんですが、それはそれでいいと思いますが、ぼくはそういう人とは仲良くなれないと思います。

 人口が少なくて、空港がない島には、一種独特の閉塞感があって、それは守られ感というか、今、島にいる人の全容がだいたいみんな把握できている感じがあります。それは一方で匿名性がなくなるわけですが、そのメリットとデメリットは都会のマンションで暮らしているのと正反対に表れてくる気がします。
 都会のマンションで暮らしていると、隣の人が誰なのか、同じフロアの人がどういう人なのかわかりません。マンションのゴミ捨て場にルールを破ってゴミを捨ててもわかりません。自分が多少だらしがないことをやってもわからないという、悪い意味での自由さと無責任さがあります。そして一方で、すごく過密に人が住んでいるのに孤独を感じるということもあります。極端なケースでいえば、よくニュースで行方不明の人の遺体が山林で発見されたなんてことがあるわけですが、それって人が一人くらいいなくなっても誰も気にしない状況があるということなのかもしれません。

 人口が少ない島の特徴はそれと正反対です。
 誰がいつ何をやっているかはなんとなくわかる、だから各自はコミュニティのルールをきちんと守る。一方で誰かが困っていればすぐにわかるので、すぐに助ける。誰かが不意にいなくなるなんてことは考えられないわけです。
 そんな島では、家に鍵をかける人はいないし、車もキーはさしっぱなしだし、何か足りない道具があれば近所の人に貸してもらうし、収穫で人手が足りなければ手伝ってもらうということなのでしょう。
 ぼくはそういう中にいた方が安らげます。気持ちが楽になります。それはもしかしたら自分が歳をとったせいかもしれません。あるいはもともと自分の中にそういう性質があるのかもしれません。海辺の田舎町に住んでいるくらいですから…
 なかなか時間がないんですが、年に1度くらいはそんな離島の旅をしたいなあと思います。











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霧の砂浜をサクサクと…




 海辺に住んでいて、初夏から晩夏にかけての楽しみは、霧です。

 ぼくはたぶん早起きなほうでして、4時半から5時くらいに起きます。起き抜けにジョギングしたり散歩したりするわけですが、初夏から晩夏の間の朝方に霧が出ることがあります。
 気象的には当たり前なわけで、海からの温度の高い湿気を多く含んだ大気が、夜の陸の温度で冷やされて、霧になるわけなのでしょう。

 霧の朝というのは、いつも見慣れた風景が白っぽく霞んでいて、なんだが神秘的な印象です。
 そんな何もかも白っぽい日に、砂浜を散歩するのがとても好きです。
 まだ人がいないひっそりした砂浜が、数十メートル先が見えないほどの霧で包まれていて、そんな中をサクサクと歩いていきます。
 いつもは見える岬の灯台も今日は見えません。
 海風で霧が流れ、切れ間から山の緑がときどき見えかくれします。
 風景が見えないだけに、波の音はいつもよりもクリアに聞こえます。
 今は霧に煙っていますが、おそらくあと数時間もすると、太陽がギラギラと照りつけ、何もかもがその中で隠れるところもない見慣れた夏の海辺になることを想像すると、今の白い風景が別世界のことのように感じられます。

 こんな風に一日一日の自然を感じながら過ごせる喜びと、また今年も霧の季節が巡ってきて、過ぎ去っていくのだなあ、なんて考えながら、歩きます。






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夏の陽射しが好きです



 連日の猛暑で、熱中症になる方も多発する状況でこんなことを書くのは、不謹慎かもしれませんが、ぼくは夏の暑さが好きです。
 夏の陽射しは強すぎるという人もいますが、ぼくはべつに気になりません。歳をとってきたせいか、たまにキツいなと感じることもありますがたいてい好きです。
 もちろん紫外線を浴びることが健康上いいことではないことは知っていますが、そんなこといっていたら究極的には外に出られないわけで、ましてやウォータースポーツなんかやってられません。

 夏の陽射しが強くても、海の上で潮風に吹かれているとそれほどではありません。暑ければ頭から海水をかぶったり、海に浸かったりします。そしてまた潮風に吹かれると、ともすると涼しいというか肌寒いと感じるときもあるほどです。
 サーフィンをしていてもすごく暑いという感じにはならないのは、足が海に浸かっているせいでしょう。
 逆に冬の陽射しが弱い日に海出ると、寒くて、濡れた物が乾かなくて、ジメジメのベトベトのサムザムという状況になって、これならば夏の方が断然過ごしやすいと感じます。

 夏の海で辛いのは、風がないときでしょう。そんな日にビーチにいて、しかも日陰でなければ、それは暑いと思います。そういう日ならスノーケリングなどで、ずっと海に浸かっていると比較的快適です。

 海に入って、冷えたら上がって、太陽の光を浴びて、肌が塩を吹くくらいな感じがぼくは好きです。

 少し季節が秋めいて、陽射しが柔らかくなると、過ごしやすいなあと思う反面、少し寂しくなるのです。





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