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潮風に台風の予感がすると、胸がザワザワします



 子供の頃は台風がくるとちょくちょく停電しました。今は余程のことがないと停電しませんね。停電するということは他にもかなり被害が出ているような状況だといえるかもしれません。
 ぼくは子供の頃から台風が好きでした。もちろん被害は怖いですが、あの低気圧が迫ってきて、町や人がちょっと緊急時な感じを見ると、なんとなく胸がザワザワします。
 大人になってもそれは変わらなくて、なんとなく雲の流れが速くなり、風に湿り気が混じってきたなと思うと、波の音が高まってきたりして、そうするとなんとなくソワソワします。意味もなく砂浜に行ってみたりします。
 やがて風に潮の匂いが強くなり、木々の揺れる音が大きくなり、雨が断続的に強くなったり弱くなったりします。そうすると上下を雨具に着替えて、傘もささず、再び砂浜に降りていって、大波が押し寄せる様子を眺めたりします。
 危ないからやめなさいと相方にはいわれますが、家の中にジーとしていることができません。
 そんな日の海は凶暴というか圧倒的というか、もうその力の前にはなすすべもない、自分がまったく無力な小さな存在だと感じます。穏やかな日の海と台風の日の海。同じ海の大きな変化は、自分の知っていることや自分のできることの範囲が有限であることを実感させます。
 終わりなく続きそうな大波をただただ呆然と眺めていて、気がつくと1時間くらい経っていたりします。
 あの台風の日のザワザワ感やソワソワ感はなんなんでしょう?
 いったいぼくの中の何が家の中にジッとさせないのでしょう?
 自分が無力で有限な存在であることを確認するためでしょうか?
 それとも気圧の変化にぼくの脳が影響されたのでしょうか?
 理性では危険だとわかっていながら、面倒くさいのにわざわざ着替えて海に行く、合理性があるのでしょうか?
 よくわかりません。
 あんなに終わりなく続くと思われた荒れた海も、翌日には穏やかな海に戻っています。まるで何もなかったかのように…







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東京湾が近づくと寂しくなりますねえ



 旅に出たくなります。ムラムラと、唐突に…
 特に離島に行きたくなります。
 この衝動は、新しい病気か、生い立ちに問題があったのではないかと、母ちゃんに訊いてみたくなるほど強いもので、結構困ってしまいます。衝動買いというのはよく聞きますが、ぼくの場合は衝動旅ですね。
 仕事を休みが取れれば、沖縄なり海外の離島に行けばいいんですが、なかなかそんなに休みが取れません。
 そんなぼくが、大学時代からこれまで、離島へ旅立ちたい衝動が起きたときに行くのは伊豆七島です。特によく行くのは八丈島、三宅島、新島、大島ですね。
 八丈島は飛行機で行くことが多いですが、その他の島は船で行きます。
 なにせ金曜の夜、仕事が終わったら旅立って、日曜の夜に帰ってくればいいんです。
 そうすれば会社の誰に後ろ指を指されることなく、堂々と衝動旅ができます。
 八丈や三宅まで行くと、陽射しもギラギラと強く、植生もどことなく南国です。海の青さも外洋の色です。ぼくはスキューバーダイビングをしますから、このあたりの海に潜ればけっこう大物が見られるかもなあとワクワクしてしまいます。リゾートへ来たという嬉しさは堪りません。
 そんな週末離島旅をこれまで何度してきたことでしょう。
 若い頃お金がないときは八丈も船で行っていました。あの頃は飛行機のチケットが取りづらいということもありました。船のよさは飛行機に比べ減圧症の心配をせず潜れることです。理想的なダイブプロフィールでは、飛行機搭乗の24時間前までにダイビングを終えていないといけません。18時間とかいろいろな時間がいわれていますが…
 なので、船便を選択した場合、竹芝から乗船します。
 金曜日の夜、スーツを着替えて浜松町のコインロッカーに入れて、Tシャツ・短パン・ビーサンに着替えたときの解放感は、感動的でさえあります。そこから竹芝桟橋まで歩いて、途中で酒とつまみをしこたま買って、八丈行きの船に乗り込みます。船に乗った時から、日常のあれやこれやからは離れることができて、その解放感はやはり旅ならではでしょう。
 船から島影が見えてきたときというのも嬉しいものです。
 島ではほとんどスキューバーダイビングをして過ごします。
 潜って、宿に帰って、酒飲んで寝る。翌日は、船に乗って東京へ帰るわけですね。三宅島だと午前中に1本か2本潜れますけど…
 いつもいつもそうなんですが、八丈や三宅から帰ってくる船というのはどことなく寂しいのです。そして本州が見えてくると、だいたい伊豆半島か房総半島が見えてくるわけですが、そうなるとかなり寂しいのです。リゾートの世界から日常の世界戻って来ちゃった感じがします。ぼくなどは毎回このタイミングで号泣してしまいます。橘丸のデッキで号泣しているオジサンがいたらそれはたぶんぼくです。
 東京湾というのは海もちょっと灰色っぽくて、空も青くないんですよね。
 ああ東京湾…アア東京ベイ…って一曲できちゃいそうです。
 海外旅行の帰りに成田に着いたときも同じような寂しさがありますから、旅の終わりというのは寂しいものかもしれません…






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海の男というのはテキトーなもんです



 宮田珠己さんの日記風のエッセイを読んでいたら、だいたいこんな主旨の件がありました。
~これまで居丈高をいじょうだかと読んでいた。会社員のときは、おざなりとなおざりがゴッチャになっておなざりといってしまった~
 と、まあだいたいこんな内容だったと思います。
 宮田さんといえば、頭のいい教養もある人だと思いますが、そんな人でも結構間違えているんだなと笑えると共に、こちらも気が楽になりました。ぼくだったらさしずめ「オナずり」と間違えたいなあ、その方が妙な雰囲気が漂っていいなあ、職場の女性にどん引きされそうだし、酒の席でのネタになりそうだし…などと思うのでした。
 って、まあ、そんなにちゃんとした文章を書く必要もなく、そんなにちゃんと生きなければいけないという法律があるわけでもありません。
 といってもそれは、ぼくの暮らしている周囲の人がとてもちゃんとしている人が多くて、税金もちゃんと納めているし、ゴミの日は間違えないし、マイナンバーカードはちゃんと受けとってキチンと貴重品箱に保存しているし、有給休暇だってフルにとったことはないし、仕事の締め切りをオーバーしたことはないし、NHKの受信料も払っているし…以下たくさん続けようと思えば続けられるけどやめときます。
 そんな人ばかりに囲まれてるレベルで、ちゃんとし過ぎなくてもいいといっているので、働けるけど働かないで生活保護受けてるとか、法律違反ギリギリのことをするとか、家をゴミ屋敷にして近所の人に迷惑をかけるとか、そういうことをいっているのではないのですね。
 あくまでもフツーの人のフツーの暮らしのレベルで、フツーの市民として生きていく範囲で、そんなに全力で一生懸命ちゃんと正しく生きなければいけないなんて考えると疲れちゃうんじゃないですか?ということがいいたいのです。
 
 ぼくは海遊びをしてきて、友達はサーファーやダイバーやセイラーですが、そんな人達というのは、もちろんちゃんとした人もいるんですけど、やっぱりどこかマイペースというか、アバウトというか、海の男というか、小さなことなんか気にせんでよか、男はどーんと大五郎、みたいな人が多いんです。
 ぼくはそういう人達の中にいると気がラクでとっても快適に暮らせるんですけど、ワリと几帳面なぼくの相方などはちょっと苦手みたいです。
 毎日、海に出て酒飲んで、その日が楽しくて、それが毎日続けば、まあいいんじゃない…みたいな生き方とか、ちょっと今、南米の海がいい感じだから、半年くらい行って来るわ、でその後、アフリカにも寄って来ようかな…みたいな生き方とか、そんな人達がぼくの周囲には大勢いて、ぼくもそんな風になりたいなあなどと思う春の宵なのでした。




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やっぱりワタシ、都会で暮らせないわ



 わけあって都内の親戚の家に1週間ほど滞在し、そこから通勤する機会がありました。
 親戚の家は渋谷まで電車で10分程度の住宅街のマンションの高層階です。
 それで感じたのは、やっぱりぼくは都会では暮らせないなということです。
 なんだか息がつまりそうなのが一番の理由です。
 なんで息がつまりそうなのかなと考えていたんですが、自分家と比べると、空が狭いですね。そして当たり前ですが、海がなくて山がないです。窓からの景色もマンションが見えるので、景色が抜けていない、広がっていないです。そしてどこに行っても人がいる。それも結構な人口密度で…
 で、なんだか疲れてしまった1週間なのでした。
 普段我が家にいるとそれが当たり前になっていて、最近ありがたみを感じていなかったんですが、海が見えて、潮騒が聞こえて、潮風の匂いがして、山の緑があって、鳥のさえずりが聞こえて…っていろいろあるわけですが、そういう海辺に住んでいると当たり前のことが、自分にはとても大切なことだとわかりました。
 もちろん津波など自然災害のことは心配なのですが、そういう自然災害のリスクはおそらく日本に住んでいると、どこの地域でも多少はあるでしょうから、自分が安らげる場所で暮らすのは、やはり大切なんだろうなあと思うのです。
 こういう自分は、もっと自然が豊かなところで暮らす方がいいんでしょうけど、家族のこととか、仕事のこととか、様々なしがらみがあって、今はその妥協点みたいな感じの選択をしています。それはそれで、現状では一番よい選択だろうと思っているんですが、実はもっと自由で、いろいろなタガを外して生きてもいいんだろうなあとも思います。
 大学時代の友達で、やたら世界中を旅して、今もそうして暮らしているヤツがいますが、そいつの話を聴くと、自分が常識的でつまらない人間に思えてきて、若干自己嫌悪になったりもします。
 正しい生き方なんてないと思いますし、自分は自分なわけですが、全開で自分らしく振る舞っているわけでもない現在の自分の、その中途半端さが、自分でイヤだなと思う今日この頃なのでした。




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桃源郷に憧れますね




 桃源郷というのはなんともワクワクする言葉ですね。
 ぼくも今度引っ越すときには桃源郷のようなところに引っ越したいと思っています。
 ちなみにぼくの桃源郷への思いを高めるために原典を振り返ってみたいと思います。
---------
陶淵明、桃花源記より
晋の太元のころ、武陵にひとりの漁師がいた。漁師はある日、いつものように
小舟を操り、魚を求めて山峡の川に沿って上がっていった。
どれほど舟を進めたことだろう。ずいぶん遠く、見覚えのないところ
へ出た。と、そこらあたり一面に桃花の林が広がっていた。その広さ
はどうやら数百歩ほどあったろうか。だがそのなかには一本も雑樹は
見当たらず、桃の木ばかりがえもいえぬ甘美な香りを漂わせ、美しい
花片が華やかに舞っていた。
見事な景観に、漁師はしばらく見惚れていたが、やがてその林のもっと
先を突き止めてみたくなった。そこでさらに舟を進めて行くと、水源の
あたりで山に突き当たった。その山には小さな穴が開いていて、
ぼんやりと明るいので、漁師は舟を下りてその入り口から中に入って
いった。初めはやっとひとりの人間が通れるほどの広さが、五、六十歩
も歩くうち、にわかにぱっと四囲が明るく開けた。
眩しい眼を見開いて眺めると、土地は四方に広がり、住居がきちん
と建ち並び、遠近に地味豊かな田畑があり、桑や、竹も育っている。
田のなかの路も縦横に通じ、鶏や犬の鳴き声も聞こえるし、畑仕事の人々や
往来する男女はみな異国人のような装いをし、黄髪の老人も子供たちも
にこやかに楽しそうであった。
ぼんやりと突っ立ている漁師に気付いた人々は見慣れぬ男に驚いて、
どこからやって来たのかと訊ねた。漁師がありのままをつぶさに答え
ると、さっそく彼を一軒の家に案内し、酒をつけ鶏をつぶして馳走をつくり、
大いに歓待するふうであった。やがて漁師のことを伝え聞いた村中の人々が
集まってきて、交々彼に訊ねるのであった。
そして人々の言うのには、
「私どもの祖先が、妻子ともども村の者たちと秦の世の戦乱を逃れて
 この絶境に来て以来、一度もここを出ませんので、とうとう他所
 の人さまとまったく関わり合いがなくなってしまいました。ところで、
 今は一体どういう時世なのですか?」
と、漢のことも知らなければ、もちろん、魏・晋のことも知らない。
漁師が詳しく説明すると、みな感に堪えたように聞いている。
こんなことで、漁師は家から家へと連れて行かれ、酒食を振る舞わ
れては人々に話をするので、四・五日もいてしまった
やっとその村に別れを告げて、元の舟を繋いだ所に出、川沿いに
帰路についた。帰り際に、「私どものことは言うほどのこともありませんから、
他所さまにはお話しにならないでください。」と、言われたものの、
途中所々に目印を残しておいた。
さて家へ辿りついた漁師は、さっそく郡の太守のもとへ行き、
自分の珍しい体験談を話した。太守も大いに興を覚え、人を差し向
けて再びそこへ案内させた。しかし、帰途につけた目印はいくら探し
ても見当たらず、前に行った路を見出すことはできなかった。
たまたま、南陽に劉子驥(りゅうしき)という君子がおり、
この話を伝え聞き、欣然としてその仙境へ行こうとしたが、その志
を果たさぬうちに病で世を去った。こののち再び赴こうとする者は
なかったということである。
---------
 ぼくが好きなのは「その山には小さな穴が開いていて、
ぼんやりと明るいので、漁師は舟を下りてその入り口から中に入って
いった。初めはやっとひとりの人間が通れるほどの広さが、五、六十歩
も歩くうち、にわかにぱっと四囲が明るく開けた。」という件です。
 で、その先には平和な村の営みが広がっているというのも堪りません。
 ぼくは常々思うんですが、社会って(おぉっ大げさな物言い)心根のいい良識ある知的な人が集まってこそよい社会ができるのではないでしょうか。
 それって極端な選民思想に繋がる危険性はあるのですが、われわれが1000人以内の集落に住んでいれば、子供達は集落のみんなで育て、教育をし、集落のすべての人と密な意思疎通をすることで、その共同体は平和に知的に維持できるのではないかと思うのです。
 今の世の中はおそらく逆で、様々な生い立ちや立場や宗教観の人が互いに意見を交わし、智恵を絞ることで、これまでになかった新しい良いものが生まれるであろう。それこそが社会を革新するパワーの源泉である、というのが大まかな思想的な枠組みだと思うんですね。ぼくも理念的には理解できます。でも現実はうまくいかない。相互理解不足と無関心と差別と貧富と争いが絶えません。
 それはおそらく人が直感的に把握できる日常生活レベルでの集団というのは、多くても100人、適性規模だと20人くらいだと思うんです。それをグローバルだ世界規模だ地球は1つだとかいいだすと、いろいろな問題が表面化してしまうんではないでしょうか。
 それでもそうした多様性を受容するグローバルでの人間社会がうまく機能するようになれば、人はもっと平和に楽しく暮らせるようになるかもしれません。
 ただ、ぼくはもうオジサンでして、あと20年~30年生きればいいとこでしょう。
 だからぼくは限られた人による小さな共同体を作ったほうがいいんじゃないかなーという気がします。
 というか小さな把握可能な共同体の方がいいというのは、ぼくのかねてからの持論です。国家とか県とか何百万人なんていう市だと、みんなの共同体への帰属意識が薄くなるから、たぶん1000人以下のみんなが何してるかなんとなく把握できるような規模が共同体としてベストだというのがぼくの持論です。そこでの公務員の役割はみんなが当番制でやると。なので公的セクターを支える税金は少なくて済む。そうした共同体が連邦するような形で国が存在するというのが理想なのではないかと思っています。
 どの共同体に属するかは選べるようにするわけで、そうすると競争や富を蓄積するのが好きな人は、そういう共同体に属すればいいですし、ノンビリ過ごしたい人はそういう共同体を選べばいい。エコで自給自足な価値観を大切にする人が集まるとオーストラリアのクリスタル・ウォーターみたいなところを選ぶといいのでしょう。
 桃源郷はさながら良識あるノンビリ派の人達の集まりなのかなあと思います。
 ぼくだったら、海辺で、みんながノンビリしていて、あくせく働かなくて、ウォータースポーツを楽しんでいるような共同体を選びたいですね。湘南の一画にそんなのできないかなー。

 あぁいいなあ。そういうの。

 桃源郷とかユートピアというのは、歴史的に人の欲求のひとつなのでしょう。
 殺人や戦争が歴史的になくならないのと同じように、歴史的に人はより良い、より幸せな社会の実現に向けてこれからも少しずつ進歩していくと信じています。







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湘南、いろいろな時代、いろいろな人々、そして海…




 観光客がいつもやってくる町、湘南。
 地元の人は湘南とはいいませんが、あの一帯を指すには便利な言葉なので、必要な時に限ってぼくは使います。
 夏になるといつもにも増して人がやってきます。
 無邪気に海で休日を楽しんでいる人を見るとなんとなく考えごとをしてしまいます。



 湘南あたりの観光地は、観光客や暴走族や不良などが夏になると集まる場所と、地元の比較的裕福な人が行動するエリアは、はっきりと明確に分かれています。
 そういう人達の人間模様を見ていると、日本って決して平等な社会でもないし、格差が少ない社会でもないと思います。というよりかなり階層が固定化されつつある格差のある社会ではないでしょうか。

 たとえば七里ケ浜のセブンイレブンで相模ナンバーのヤン車を駐めて、からあげ棒をかじっている若者からおよそ5km離れた、七里ケ浜の丘の上の1億円くらいの家では、近所の奥様方のティーパーティーが開かれています。
 小田急で鵠沼海岸にやってきた大学生が、砂浜で日焼けしている頃に、松が岡の邸宅では、芝生を貼った広い庭のデッキチェアに寝転んでノンビリ過ごす奥様がいます。
 東京から横須賀線でやってきた観光客が逗子海岸まで歩いている時に、逗子マリーナでは自分のクルーザーを出して、洋上でパーティーを開いたりしている人がいます。
 

 もともと葉山、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、大磯は、明治の頃から政財界の人達の別荘地でした。なので、いまだにそうしたコミュニティが残っています。

 たとえば、ぼくの友人はフツーのサラリーマンですが、それでも大学の卒業生の会のなんたら支部というのに入っていて、年に何度か会合があるようです。しかも彼はヨット部だったので、部の先輩後輩との付き合いもかなり濃厚なようです。
 会合は馴染みの料亭で開かれ、わりと有名な顔ぶれの先輩達に励まされ、活を入れられるというような、下積みの20数年という典型的年功序列型の人生。
 その先輩のじいちゃん達が政治家の子供だとか、親戚だとか、孫だとか、宮家の血筋だとか、有名な会社の相談役だとか、監査役だとか、代々、外交官だとか、そういう面々が揃っていて厳然と実権を持っているので、いろいろ利害があって頭が上がらないそうです。今の会社も先輩の紹介で入ったといっていました。

 ぼくの身近なフツーのサラリーマンの友人でさえこんな感じなので、もっとコアな人達はさらに独特なコミュニティがあると思います。
 ぼくが漠然と感じているのは、何代かにわたってそういう感じの層とただのお金持ちは別なコミュニティらしいということです。
 コミュニティが細分化されているのですね。
 そう、仲間は限られた同士の方が連帯が強くなりますから…


 一方で目を転じると、海が広がっています。
 海はおそらく何万年も変わらずそこに存在していたのです。
 そして今日も変わらずそこにあります。
 海から見たら人の営みというのは、どんな風に見えるのでしょう。

 湘南という土地を踏まえるとなお一層感慨深いのです。
 少し遡るだけで、そこでは三浦氏が権勢を誇り、源氏に滅ぼされ、源氏も滅び、北条氏も滅び、江戸の末期には浦賀にペリーがやってきて、その後江戸幕府は大政奉還し、昭和には陸軍・海軍の基地があったのです。
 それぞれの時代にその時代の権力を握った人がいて、それが100年も経たないうちに移り変わった。そしてそれが繰り返されている…


 そんなことを考えていると、なんとなく切なくなってきます。
 この切なさはどこからくるのか?自分でもよくわかりません。
 人はいつまでたっても変わらないのでしょうか?






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海はテキトーでいられるからいいな




 ぼくは物心ついた頃から大雑把な性格のようで、よく周りの人からいわれてきました。よくいえば大らか、悪くいいえば大雑把・アバウト・テキトー。
 でも性格というのは直らないようでして、オジサンになっても相変わらず大雑把なままで、たぶんこのまま大雑把なまま死んでいくでしょう。
 一方、ぼくは海が好きでして、海が居心地がいいんですが、それは大雑把さを受け入れてくれるからかなーと思います。
 基本的に海は誰のものでもなく、って正確には国のものだったり、漁業権がありますが、私有地ではないという意味で自由です。それに自治体が管理している公園のように「あれは禁止、これも禁止」という何もできないような場所に比べると、はるかに自由です。
 アウトドアスポーツをする人による、アメリカなど海外に比べ日本の自然利用の不自由さを嘆く声はずっと続いてきましたが、まあそれはそうだと思いますが、「都会なんかよりもずっと自由だもんね。だから比較的ラクなんだもんね」とぼくは思っています。
 海という自然自体がたいていのものを受け入れてくれる感じがします。それはもちろん極少ない数の人間の場合ですが…
 たとえばぼく一人が海辺で海藻をとったり、おしっこをしたりしても(すみません。できる限り公衆トイレを使うようにしてます)、それはほとんど影響がないわけで、そういう感じが好きなのかなあと思います。
 短パンにビーサンにTシャツ、寝癖の髪の毛、髭ぼうぼうって都会だとヘンな人だと思われますが、海辺では別にどうってことありません。
 気候がよければ、砂浜で寝られます。
 砂浜で一日ボーッとしていても、誰も何とも思いません。
 大きな声を出したり、鼻歌を歌ったり、砂浜を走り回ったりしても大丈夫です。
 シーカヤックやボートで海の上に出ればもっと自由です。
 そういうのって大したことじゃないようですが、町ではできないことで、それができるっとやっぱり気が楽です。
 それから、死ななきゃいいみたいなところがあるのも、大雑把なぼくには好ましいですね。
 そう、海で遊ぶうえで大切なことは、この死なないで帰ってくるということで、とてもわかりやすいですね。そのわかりやすさがいいです。







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ボーッとする時間って大切だなーって思います




 みなさん毎日忙しい日々をお過ごしのことと存じます。
 といいつつ通勤電車なんかで見ていると、ひとかどのサラリーマンが、本を読むわけでもなく、ボーッとしているんですよね。そういう人が圧倒的に多いんですよね。
 ボーッとしている人と何かやっている人の割合は、だいたい8:2くらいだと思います。
 別にボーッとしているように見えても、たぶん頭の中では、仕事のこととか家庭のこととか恋人のこととか考えていると思うんですが…
 ぼくは海遊びをしているときに、いろいろ考えたりボーッとしたりしています。いろいろ考えるというのは、風や波や潮の流れなどの自然条件が変化していないかとか今の自分の判断は適切なのかといったようなことです。安全に海遊びをするためのことを考えているわけで、仕事のことを考えているわけではありません。
 あとはボーッとしています。
 つくづく思うんですが、このボーッとする時間って大切ですね。
 仕事に集中したり、難しい本を読んだり、テレビを見たり、パソコンやスマホを見ていると、ぼくの場合結構疲れてきます。身体ではなく頭の芯が疲れる感じです。で、ある一定のところまでいくと頭が働かなくなる感じがします。
 そういうときにボーッとするのって大切だなと思います。
 ぼくの場合、海でボーッとするのが一番ですね。
 気分がスッキリします。頭もスッキリします。






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さすらいたい




 海が好きで、旅が好きで、そんな日々を過ごしていたらオジサンになってしまいました。
 日本の海を巡りたい。
 世界中の海を訪れたい。
 そんな気持ちがいつもあります。
 さすがに家庭があるので実際はできませんが、年に何日かは海辺の旅をします。

 そこには知らなかった美しい海があり、人々の暮らしがあります。
 できれば気の向くまま旅を続けてみたいと思うことはしょっちゅうです。
 暮らしやすそうな海辺があれば、半年か1年かわかりませんが、居たいだけ居てみたいと思うこともあります。

 旅から帰ってくれば、次の行き先を考えるともなく考え始めています。
 地図を眺めて、赤道や南回帰線のあたりの島々の情景を想像します。強い陽射し、熱い砂、見たことがないような青さの海。
 ぼくの旅への思いは止むことがありません。




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海辺の森を散歩する冬の一日




 ぼくは海が好きですが、植物をはじめとした森や林も好きです。なので高原も好きなのですが、海がないことが多いのでそこが残念です。
伊豆高原のように海が近くて山があるなんていう土地はとても好きです。
 ぼくの家のあたりは海べりなのですが、ただ海が近いだけでなくて、海のそばまで山が、山といっても低い山ですが、迫っています。珊瑚礁の海やカリフォルニアのような海ではありません。でもそんな海と山が近い景色が好きです。
 例えば出張や旅行で地元から離れていて、数日ぶりに戻ってきた時など、海と山の風景が目に入ると、なんとも懐かしい思いと共に肩の力が抜けていきます。
 美しい風景だなと、豊かな自然をありがたく思います。
 大雑把に日本全体が火山島だと考えれば、火山が噴火して、あるいは土地が隆起して陸ができているわけですから、それ以外は海というのがよくある風景なわけで、そうした場合カリフォルニアのように平地がノペーっと続いている土地の方が少ないのではないでしょうか。
 ぼくの家のそばに小網代の森というのがあって、雑木林や葦などが群生しているところです。
 たぶんこれはずっと昔、山の根と根の間に海が入り込んで、入江になって、それからまた海が引いて陸になったところに葦などが群生したんじゃないかなと思います。
 そういう海と山が近くて両方の良さを楽しめる土地が好きです。
 海況のいい日は海で遊び、海が荒れてたり、すごく寒い時は山を散歩するというのが、ぼくの休日の過ごし方です。三浦半島の名もない山(というか岡)なんて誰も登りに来ないので、人に会うとびっくりするほどです。そんな山道をポクポク歩いて、ところどころで昼ご飯を食べたり、コーヒーを淹れて飲むなんてのが楽しいです。
 冬だと空気が抜けていて遠くの景色まで見渡せます。木々は葉を落としていますが、幹や枝振りがはっきりわかります。シンとした森の中にぼく1人だけジッとしていると、何かしら木々の気配を感じるほどです。
 ぼくにとっては冬の風の強い日が山日和、そんな冬の一日も楽しいものです。





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