海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
清浄寺の前 神奈川県三浦郡葉山町 for Local
清浄寺の前 神奈川県三浦郡葉山町 for Local
【コメント】
※「for Local」の海岸に訪れる際は、注意事項を読んでください。
朝起きたら海辺を散歩。
夜、風呂に入ったら、夕涼みのために海辺を散歩。
ちょっと海辺でお茶をする。
買い物のついでに少し海辺でボーッとする。
犬の散歩で砂浜を歩く。
家の掃除が一段落したら、ちょっと海を眺める。
海辺で暮らしている人にとっての海は、住んでいる本人にとっては当たり前になっていますが、日常に溶け込んでいて、さりげなくて、日々の暮らしに少し潤いを与えてくれるものだったりします。
ぼくは、遠くから海に観光に来る人を見ていて、それはそれで海を楽しんでいていいとは思うんですが、どこか違うんじゃないか…って思っていました。そういう海との付き合い方では、海の本当のよさってわからないし、海辺に暮らしているよさってわからないだろうなあって思っていました。
それがこのビーチガイドfor Localを書こうと思ったきっかけです。
潮風にさらされた漁師小屋。
一面に干してあるワカメ。
風が止まった時のむせるような磯の匂い。
漁師さんとの雑談。
近所の人同士のヒジキやカメノテのおすそわけ。
1年に数回あるかないかの、すごく気持ちのいい日。
ぼくらは、こうしたちょっとした幸せな時間を心の糧に、日々を暮らしているんじゃないでしょうか。
今回ご紹介する名もない海岸は、小さな小さな砂浜です。
葉山マリーナと森戸海岸の間、近所の人は知っている人が多いのですが、ちょっと離れたエリアの人は知らなかったりします。
コンビニで缶ビールを買って、小さな砂浜に座って夕陽を眺めているひととき。
波の音、木々が風で揺れる音。
潮と海藻の匂い。
また、明日は忙しい日になりそうですが、でも少なくとも今日は無事に終わりそうです。
【評価】
水の美しさ ☆
砂浜の美しさ
景色 ☆
アクティビティ シーカヤック、SUP、釣り
自然の豊かさ
ノンビリ度 ☆☆
トイレ 無
駐車場 無
総合評価 ☆
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ぼくが湘南から引っ越したワケ…
雑誌などを読んでいると、「湘南暮らしがオシャレ」とか「湘南暮らしの憧れ」みたいな記事を目にしたりすることがありますが、ぼくにはそのよさがよくわかりません。
というぼくも以前、湘南と呼ばれるエリアに住んだことがあります。藤沢市の鵠沼海岸から10分ほど陸側に入ったエリアです。
閑静な住宅地でしたが、住んでいるうちに不満がたまったので引っ越しました。
その不満を説明する前に、なぜぼくが海辺に引っ越したかを説明させてください。
それまでは東京の区内に住んでいました。職場まで地下鉄で20分くらいでした。
ただそこの暮らしがとてもイヤだったのです。
まず通勤時の満員電車です。20分とはいえ、とても人間の扱いではないくらいの混みようでした。
それから車の騒音です。国道に面していたため通行量が多く、昼も夜もうるさかったです。洗濯物をベランダに干しておくと排気ガスの粒子がついてしまい、手でこすると炭のように黒い部分が広がるような感じでした。
次は治安です。街を歩いていると、ちょっとヘンな若者がたむろしていて、妻は駅から自宅までの道のりを歩くのを怖がっていました。また、うちはオートロックのマンションでしたが、何軒かに空き巣が入りました。幸いわが家は被害に遭いませんでしたが、不安なことは変わりません。
次は混雑です。道も混むし、レストランも混むし、スーパーも混むし、郵便局も混むし、区役所も混んでいるんです。何かをするのに列に並ばないということはあり得ないという感じでした。
それから自然がないことです。公園はありましたが、まともな木々はありませんでした。
ぼくはこうした都会の暮らしがイヤで海辺に引っ越すことにしました。引っ越し先が湘南の鵠沼海岸でした。
ところが、湘南の藤沢あたりも、けっこう街です。
なので、基本的な不満は解消されなかったのです。
とはいえ満たされたこともあります。それは自然がわりと豊かなこと、治安がいいこと、閑静であることです。
ただ、スーパーやレストランは混雑していました。役所も混雑していました。車も結構走っていました。一番イヤだったのは、夏になると観光客で街も海も道路も混雑するし、観光客のマナーが悪く殺伐とすることです。
このときぼくが認識したのは、ぼくは田舎のノンビリした暮らしを望んでいるということです。自然が豊かで、寂しいくらいに人気がなくて、昭和な田舎の漁師町が好きなんだと気づきました。
ぼくは大学生の頃からスキューバーダイビングをしており、よく伊豆に潜りに行っていました。特に西伊豆のノンビリした感じに惹かれていました。西伊豆の小さめの漁村がぼくのイメージに近かったのです。
そういうぼくにとって湘南という場所は、やはりまだまだ街だったのです。
ぼくの望む生活には、オシャレな雑貨屋とか人気のレストランとかレジェンドがやっているサーフショップは必要ないのです。寂れた定食屋と地元の人がやっている小さなスーパーと暇そうにしているガソリンスタンドがあるような、これぞ漁村!というような雰囲気が好きなのです。
というわけで、職場に通えるギリギリの線で、海辺の田舎町を探しそこに引っ越しました。
そこもぼくの望むほどの田舎ではありませんが、それでも車も少なく、観光客が来るほど有名でもありません。
この町に引っ越してから、列に並ぶということはほぼありません。列ができていると「おっ、今日はなんだ? 何があるんだ?」という感じです。
道ですれ違う人はたいてい知り合いで、挨拶しますし、スーパーで買い物していると知り合い同士で雑談が始まります。
海に行けばよく知った顔ぶればかりです。
町全体をのんびりした雰囲気が包んでいます。
こののんびりさとストレスのなさを、ぼくはとても気に入っていて、意図して作られているものではないので、何よりも価値が高いと思っています。
楽しく時間を過ごすことに集中しよう
日々いろいろなことがありますよね。
楽しいこともあれば、イヤなことも悲しいこともあります。どちらかというと楽しいことの方が少ないかもしれません。
「生きていれば仕方がないことだよな」なんて、ぼくは思います。
イヤなことや悲しいことがあったら、ぼくは海で遊びます。スキューバーダイビングやシーカヤックやサーフィンをします。
そうするとわりとスッキリして、前向きな現実的なことを考えられるようになるんです。
科学的な根拠はわかりませんが、経験的には確かにそうなんです。
先日、テレビのちょっとしたコーナーで、落ち込んだり鬱にならないためにどういうことをすればいいかというのをやっていて、太陽の光を浴びるたり、運動したりするといいとのことでした。
そうすると、ぼくのやっていることは当てはまっているんだなと思いました。これを科学的な根拠とまで、いいきっていいかはわかりませんけど…
大きな空と海。果てしなく打ち寄せる波。光り輝く太陽。そんな自然に包まれていると自分のつらい状況がちっぽけなことに思えてきます。
つらいとか悲しい状況は、何かしらそういう外部環境があるからそうなることが多いと思います。そんなときに環境を変えようとしてもなかなかうまくいかないし、疲れるだけだったりします。
結局自分が楽しく日々を送るとか、楽しい時間を過ごすことが何より大切なので、つらい状況を「つらい」とか「イヤだ」とか「悲しい」と思っていても仕方がないわけで、さっさと気分を切り替えて、楽しい自分に戻った方がお得です。
I can’t change the direction of the wind, but I can adjust my sails to always reach my destination.
人・社会・自由
ぼくが海が好きな理由はいくつかありますが、そのうちの大きなものとして海の自由さがあります。
自由というのは適切な言葉ではないかもしれません。
海辺の暮らしは街の暮らしに比べると、比較的自由で平等で人間的だと思うのです。それがぼくが海辺で暮らす理由です。ちなみにここでいう海辺というのは、湘南みたいな市街化された海辺ではありません。
そんな自由さに惹かれて、もう20年以上も前に東京から海辺の田舎町に引っ越しました。東京での暮らしが嫌になったからです。
街の暮らしには、様々な面で社会的な上下関係があります。
お金持ちの方がより自由で豊かな暮らしがおくれます。零細企業に勤めているより、有名な大企業に勤めている方が、ローンの審査が通りやすかったり、様々な面で信用されます。高価なオシャレな身なりをしている方が、店などでは丁寧に扱われます。高価な外車に乗っている方が、ホテルやガソリンスタンドなどでは丁寧に扱われます。
これらはいわゆる階層的な格差だと思いますし、その人の本質とは少し離れた物差しで、その人を測っているような気がします。
海辺の暮らしにもそういう尺度がまったくないわけではありませんが、ずいぶん少ないように思います。もちろんお金は必要です。でも、組織や企業に入らなくても、多額の資金がなくても、猟をしたり作物を育てて、家族が生きていくだけの食料を得ることができる選択肢があるというのは、すごく大きな違いだと思います。
それに海辺では、お金があってもそれを使う先が街ほど多くはないでしょう。
街の暮らしにはいろいろなルールやマナーがあります。
右側を歩けとか、列に並べとか、エスカレーターは右側は急ぐ人のために空けておけとか、マンションの自室であっても階下の人を気にして大きな音を出さないとか、人気のある店に行きたいときは予約が必要とか、夜公園とかを歩いていると警察官に職務質問されるからやめておこうとか、細かいことをいいだすと切りがないわけですが、そういうのがたくさんあります。
慣れてしまえばどうってことありませんけど、そういう細かなルールやマナーがない状態に身を置くとすごく解放された感じで、あの街での暮らしはストレスフルだったと気づくのです。
おそらくそのルールやマナーは大勢の人が寄り集まって暮らさなければならず、お互いに嫌な思いをしないために発生したものではないかと、ぼくは推測しているんですが、まあ、要するにみんなが不快な思いをしないために、個人の自由を制限しているわけです。
海辺の暮らしには、こうしたルールが少ないと思います。一部の人が多い海辺は違うかもしれませんが…
街の暮らしは、ギスギスしているように感じるのはぼくだけでしょうか。
みんな急いでいるし、満員電車や駅などでは、ちょっとした揉め事が起きているのを目にします。
街を歩いていると、マスクをして、ヘッドホンをして、スマホを見ながら歩いている人がいて、あれは外部との接触を断とうとしているように見えてしまいます。
家とか車とか自転車に鍵をかけなくてはいけないし、スリとか置き引きとかチンピラにからまれないように、なんとなく警戒してしまいます。
混雑した道を車で走っていると、ちょっと車間が空いただけで、他の車が入ってきます。車線変更も頻繁で、せわしなく感じます。
ぼくがたまに東京に行くと、そういうのって異常に感じます。
そして、どうしてこんなにギスギスして暮らしにくいんだろうって思います。
街の暮らしには自然が少ないですね。
公園や街路樹といった人工的な自然はありますけど…
以前、東京のある街に親水公園という人工的な川があるのを見て、ぼくは寂しくなりました。
自然が多い方が、心が癒されると思うんですが、都会に住んでいる人は、そういうことを切実には感じていないんでしょう。
街じゃないと仕事がないということはあるでしょう。それでも東京という選択肢ではなくて、地方の都市の方がもっと人間的な暮らし方ができるんじゃないかなって思うんです。
田舎の漁村ぽい感じが癒されます 荒崎と長井の間のちょっとした浜 神奈川県横須賀市長井 for Local
※「for Local」の海岸に訪れる際は、注意事項を読んでください。
【コメント】
ぼくはコッテコテの漁村が好きです。
古びた小さな漁船があって、漁具を入れる漁師小屋あって、ワカメやヒジキが干してあって、漁港のスロープで猫が寝転がっていて、夕方から漁師のオッチャンがドラム缶で焚き火をしながら飲んだくれてような、そんな生活感のある海が好きです。
寅さんが歩いていても違和感のない町並み、ハマちゃんがねじり鉢巻きで釣り糸を垂れていそうな防波堤、そんな海が好きです。
そんな海で、ハマちゃんの横で、猫と並んで、寝転がっていたい、できれば毎日、というのがぼくの夢です。
そんなぼくですから、湘南あたりのコジャレたキレイな海が苦手です。コジャレたレストランに、外車でキメキメでデートしている人を見ると、なんだかお尻のあたりがムズムズしてきます。(あくまでも個人の感想です。)
そういう点では、ぼくのような好みがあるヤツは、湘南じゃないエリアに行った方がいいわけで、なので、今回は長井あたりをご紹介します。
みなさん、長井という海に行ったことがあるでしょうか?
釣り人には結構有名な漁港です。ぼく好みの昭和な漁港風景が広がっています。
そこからちょい先は荒崎という岬なんですが、その間には、岩場と防波堤と小さな浜の入り混じったなんてことない海があります。別に風光明媚でもなくインスタ映えもしない海です。
そのあたりの空いているところにテキトーに座って、ボーッと海を眺めていると、シアワセです。今日も平和で、健康で、なんとかご飯が食べられて、おまけに発泡酒まで飲めて、ぼくちゃんシアワセ、です。
【評価】
水の美しさ ☆
砂浜の美しさ
景色 ☆
アクティビティ シーカヤック、SUP、釣り
自然の豊かさ
ノンビリ度 ☆
トイレ 無
駐車場 無
離島の好きなところアレコレ
海旅が好きです。
島旅、特に離島の旅が好きです。
なぜ好きなのか、離島の旅の魅力を表現するのが難しいのですが、離島に行くたびに湧き上がってくる思いがあるのは確かです。
遠くまで来たなあという思いもあります。
隔離されている感があります。
安心感もあります。
孤立感もあります。
懐かしいような思いもあります。
都会にいると、物資や水が不足して暮らし自体が立ち行かなくなるというのは、よほどの災害の時でしょう。離島は、嵐や台風で船が何日か来ないと、途端に店から物がなくなります。今ではだいぶ解消されましたが、水不足で困るのも多くの島の課題でした。
何がいいたいかというと、自然が人の暮らしに及ぼす影響が、本土よりも都会よりもずっと大きいので、自ずと自然の様子に敏感になるし、自分たちの非力さを自覚するんだと思います。
その謙虚になる気持ちが、ぼくの感性と合うような気がするんです。
島に行くと、隣の島を眺めることがあります。八重山列島も南西諸島も伊豆諸島も瀬戸内の島々も、たいてい隣の島が見えます。
島から島を眺めるのも感慨深いのです。
島にいると孤立感がありますが、隣の島が見えると少し安心します。
ぼくはシーカヤックをするんですが、あそこの島まで漕げるかな?なんて考えるのも楽しいです。晴れた日で肉眼で見えるのは、だいたい40km圏内の島。ぼくが1日に頑張って漕げるのは30kmくらいですから、見えればギリギリ漕げるかもなあ…なんて考えたりします。
昔の人はエンジンもないのに、よく長い距離を航海したなあなんて想像を巡らしたりします。
初めて島旅をしたのは、三宅島でした。その頃ぼくは、田舎から上京して大学に通っていて、いささか都会の暮らしに疲れていました。
友達に誘われて、島旅をしたのです。1週間三宅島に滞在したのですが、島にいるとどんどん自分が解放されているのがわかりました。何から解放されたかというと、自分の気持ちの奥にある警戒感や緊張感です。
都会の暮らしでは、家や自転車や車に鍵をかけなければなりませんでした。当たり前といえば当たり前ですが…
道を歩くのも電車に乗るのも、まったく無防備というわけにはいきません。たまにヘンな人がいますから…
家に居ても、新聞勧誘とかNHKの集金とか宗教の人とかが来ます。電話だってヘンなのがかかってきます。
たぶんそういう諸々に対して、自分でも自覚しないうちに緊張していたんでしょう。
それが島で1週間ほど過ごしたら、その緊張感がほぐれていきました。肩こりなどは、凝っているときは自覚しないけど、ほぐしてもらうと「あのときは肩が凝っていたんだ」とわかります。あのときの感覚に似ています。
ストレスというのが、無自覚に体や心の奥に力が入ることだとすれば、都会で暮らしていたぼくはストレスがかかっていたんでしょう。そして無自覚なストレスは心身にとって危険だと思いました。
また、ストレスというのは、ストレスがなくなってみて初めてその存在を自覚できるようなところがあるんだとも思いました。
ぼくは島での1週間の滞在で、自分の身体や心に垢のようにこびりつくストレスの存在に気づくことができたのです。
都会の暮らしに合う人、田舎の暮らしに合う人
何十年も前に海辺の田舎町に引っ越したのは、都会に疲れていたのかもしれません。もちろん海が好きだし、自然の豊かな場所で子育てしたかったというのも理由です。でも、一番強かったのは都会での暮らしに疲れて、イヤになってたからなんだと思うんです。
ぼくはよく人から、お人好しでおっとりしているといわれます。
それは元々そういう性格だというのもありますが、人に好かれたくて(人に嫌われたくなくて)自分でわざとやっている面もあります。
そういうタイプの人間が都会で暮らしていると、損をしたり、割を食ったり、イヤな思いをすることがあります。
お人好しな性格は、長期的にメンバーが変動しないコミュニティでは、信頼感が蓄積されてコミュニティメンバーに一目置かれるようになるので、お人好しによる短期的な損は、長い目で見ると相殺されるか得になるのです。
ただ都会のように、コミュニティメンバーの匿名性が高いとか、メンバーがどんどん変わるコミュニティでは、短期的に得をすることが最善策です。結果的にぼくのような性格の人は損ばかりすることになります。
それはたとえば、町内会とかマンションの管理組合とかPTAのようなボランティアベースのコミュニティ活動をイメージしてもらうと、わかっていただけるかもしれません。
だからきっと、ぼくのような性格の人間は都会の暮らしに合わなかったんでしょう。
今ぼくが住んでいる海辺の田舎町では、マンションやアパートという賃貸物件はありません。みんな一軒家で持ち家です。引っ越しで出て行く人や入って来る人は、たまにある程度です。
そんな町では、どこの誰がどういう人かというのはだいたいわかっているんです。人に嫌われない性格というのは、そういうところだとなかなか居心地がいいのです。いい人だと思われますし、みんなも自分を認めてくれて、ちょっと無理なお願いも聞いてくれたりします。
もちろん都会でうまくいかない人が、みんな田舎でハッピーになれるといっているわけではありません。たまたまぼくの経験でこの部分だけは理屈として成り立つことがあっただけです。
おそらくそういう町だと、自分だけの短期的な得だけを求めるガツガツした人は、長く暮らすうちに疎んじられるんだと思います。というのも、自分の得というのは誰かの損の上に成り立つことが多いと思うんですが、その損するのが町の人だとあっという間に関係がこじれるし、得の源泉である町の人もそんなに多いわけではなくて、いずれ自分の得も頭打ちになるから…
もちろん町外の人から得を持ってくれば、町の中はハッピーなんですが、それがうまくできる人とできない人はいるでしょう。
ぼくはなかなかそんなに器用にはできません。
もし、この駄文を読んでいて、都会の暮らしで何かうまくいかないと感じている人がいらっしゃったら、もしかしたらあなたは田舎の方がうまくいくタイプかもしれません。

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ノンビリ、ボーッとするのが好きなワタクシ
ノンビリするのが好きです。ボーッとするのが好きです。
急かされて何かをするのが苦手です。次から次へとやらなければならないことがあって、ワサワサするのが苦手です。
休みの日に予定が入っていなくて、海を眺めながらデッキでコーヒーを飲んでいたりすると、とても幸せです。これから何をしようかなって、自分で決められるのがいいんです。
つくづく自分は怠惰で、社会に適応していないなあと感じます。
旅先でも、予定を詰め込まないようにしています。
だからパックツアーはありえません。
行き先を決めず、できれば宿を決めず、そのとき行きたいところに行くようにしています。途中で見たいところがあったらゆっくり見ます。
離島好きの、スキューバーダイビング好きですが、普通、ダイバーは潜りをぎっちり入れます。そういうこともしません。潜らない日を作って、空いている時間にレンタカーやレンタサイクルで島をまわったり、カフェでボーッとしたり、ビーチを散歩したり、知り合った人(島のオジイとかオバアとか)とおしゃべりしたりします。別にそうしようとしているわけではなくて、なんとなくしたいことをダラダラとしていたらそうなったという日を作るようにしています。
実際は、休日でも予定が入っていないということはあまりなくて、やらなければならないことが結構ありますねえ。
だからこそ、何もしない日とか特定の目的を持たない日を作って、自分が自由であることを確認するようにしています。
無理に何かをしない方がいいと、直感が教えるとき…
だいぶおじさんのボクとしては、経験的に、これはやった方がいいなと思うことがあります。それと同時に、今はやらない方がいいなと思うことがあります。
ウォータースポーツをするようになって、危険な目に遭うことも多くなり、危険察知能力的な第六感が発達したのか、ますますその直感は当たるようになった気がします。
いろいろあるのですが、そのひとつとして、自分の体調がいまいちなときに無理に元気に動かない方がいいというものがあります。
これは天気や海況や自分の体調になんとなく違和感を感じるときに海に出るとろくなことがない経験と似ています。
なんとなく直感が行くなといっている感じとでもいいましょうか…
体調が悪いといっても、風邪をひいたとかじゃなくて、なんとなくここのところ調子が出ないなとか、自分の置かれている周囲の状況が自分に対して逆風が吹いているな、というときです。
そういう時期って、何年かに一度はやって来るように感じます。
みなさん、そう感じることってないですか?
そういう時期に無理に元気を出したり、大きなことをやろうとしたりしない方がいいような気がします。ウォータースポーツでもそういう時期に大きな冒険系の活動はしないようにしています。
無理せず、のんびり、規則正しく日々の暮らしを丁寧に過ごすのがいいような気がします。
自分の直感を信じる力というものをぼくはウォータースポーツで身につけました。直感を信じるという表現は適切じゃないかもしれなくて、直感に気づく力でしょうか?
それが結構難しくて、なんとかく面倒くさいという感覚と間違わないように注意が必要で、胸騒ぎがするとか、ピンとこないとか、しっくりこないとかそういう感覚です。
スキューバーダイビングやシーカヤックをしていると、この穴には入らない方がいいとか、あの島の裏側にまわらない方がいいとかを感じるときがあります。
理屈では説明できないにしろ、過去の経験を基に様々な情報を総合して、そう直感しているんでしょう。
ウォータースポーツにしろ人生にしろ、別に病気でもないのに、ただなんとなくイヤな予感がするというだけで、やりたいことをやらないのは不完全燃焼感があるわけですが、「まあそのうち風向きも変わるし、身の回りの環境も変わるよー」なんて思いながら、海を眺めながらコーヒーでも飲むのがいいのでしょう。

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自然の強力さ・世の中のもろさ・確かなもの
海のそばで暮らし、自然の中で遊ぶようになって、ぼくの中で変わったことはいくつもあります。その中で特に大きなことは、世の中には圧倒的に強力なものがある、ということです。
ぼくは海辺に住んでいますし、しょっちゅう海旅にも行くのですが、折々に自然の強大なパワーを見たのが変化のきっかけです。
自宅の話しでは、たとえば台風が来た翌日、うちの近くの港の防波堤がすべて根こそぎなくなったことがあります。小さな防波堤ではなくて、30mくらいの長さがある防波堤のコンクリートのかたまりがすっかりなくなっていました。それだけはなくて、港の駐車場のアスファルトが剥がれてぐちゃぐちゃになっていたのです。
旅先で見た光景では、やはり台風の時、ホテルの近くの木造の家が、丸ごと飛んでしまったのを見ました。台風が過ぎた後、近辺を散策したら、昨日まで建っていた家が無く、コンクリートの基礎だけが残っていたのです。
このときぼくはそのパワーに圧倒され、怖いと思いました。自分がすがる何かが失われたような心細さを感じました。
これは一例ですが、その後、海と近く接する生活をする中で、自然のパワーに圧倒される経験を何度もしています。
それまでは、人間が造った橋やビルや道路や港が壊れることは頭の中にありませんでした。もちろん理屈では壊れることは理解していましたが、映像以外で実際に実物として壊れた様子を見たことはありませんでした。人間が造った物は、頑丈に安定的に、そこに存在すると思っていたのです。
それがわりとよく壊れる様子を見てからは、ぼくが当たり前の存在としている、社会の構造物は以外にもろいものだと考えるようになりました。
以前、不良施工されたマンションが傾くニュースが報道されていましたが、それは珍しいことでも不良のせいだけでもなく、しばしば誰の身にも起きうることだろうと思いました。
社会の構造物が意外にもろいと理解したのち、社会自体も実はもろいんじゃないかと思うようになりました。今の日本社会は戦後の自由主義・資本主義の世界観の秩序で構成されていますが、それもぼくが考えているよりももろいかもしれないと思うようになりました。
自然というか地球という地面は、けっこう変化するし、そうした変化の前では、自分はちっぽけな存在だし、人の営みもちっぽけなものだと思います。
そうした認識の変化がぼくの実生活にどう影響したかというと、簡単にいうと刹那的になりました。日々の暮らしというか、今日一日が無事暮らせればいいやと思うようになりました。
いろいろなことを心配しても、準備しても、対策をとっても、それはあくまでも自分が考えうる範囲のことだけであって、限定的で不完全なのです。それを完全にしようとする試みは、ぼくの人生の短さからすれば、ほぼ不可能であって、だったら不完全さを受け入れて、とりあえず短期的に幸せに暮らそうと思うようになったのです。自分が幸せを感じる瞬間瞬間は、ぼくの中では事実で変わらないものなのですから…

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