海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
ストレスになるルール、ならないルール ~海は広いな大きいな~
以前にも海はルールがないから(あるいは少ないから)自由で好きだ、というようなことを書きました。と、のっけから見て欲しいアピールをしてしまいます。
都会や職場に比べると、確かに海は、より自由で、だからこそストレスが少ないといえるような気がします。そのことをあれからなんとなく考えてきて、ひとつ思いついたことがあるので書き留めたいと思います。
海にもルールがありますが、町で暮らすルールに比べれば少ないですし、より自由だ!というのがぼくの実感です。
気にすることが少ない状態を、「自由だ」と表現するのではないかと、最近のぼくは考えます。ということは今の世の中では、自由は絶対的な状態ではなくて、「より自由」とか「昔より自由」といった程度の状態を表すのではないかな、そんな気がするな、どうかな、違うかも知れないけど…と思ったりします。
そしてルールが少なければ少ないほど、より自由であればあるほど、生きていく上でのストレスは少ないんではないだろうか?違いますか?ねえ、そう思わない?というのが、ぼくのいいたいことなわけです。
気にすることが少ない状態を、「自由だ」と表現するのではないかと、最近のぼくは考えます。ということは今の世の中では、自由は絶対的な状態ではなくて、「より自由」とか「昔より自由」といった程度の状態を表すのではないかな、そんな気がするな、どうかな、違うかも知れないけど…と思ったりします。
そしてルールが少なければ少ないほど、より自由であればあるほど、生きていく上でのストレスは少ないんではないだろうか?違いますか?ねえ、そう思わない?というのが、ぼくのいいたいことなわけです。
で、さらに最近は、そのルールってヤツにも内容があるんじゃないの?というようなことを考えていたりするのです。
ぼくが思春期の頃はヤンキー(今となっては懐かしい言葉ですねえ)というか不良というのが社会現象になっていました。校舎の窓ガラスを割ったり、校庭に他の学校の不良がバイクで入ってきたりということもありました。尾崎豊の歌詞そのまんまです。
この不良達はルールを守ることに対しても反発していたんですが、このルールというのは、靴下は白で、10cmくらいで、三つ折りにすること、とか髪の毛は黒で、パーマは禁止とか、そういうまあどうでもいいようなルールでした。確かに不良でなくてもみんなバカバカしいと思っていましたが、逆らうのも面倒くさいので、なんとなく言うことを聞いていたというのが、その頃のクラスのみんなの総合的な思いであったような気がします。そりゃもうぼくだってそんなルールうっとうしかったです。
だから学校というのは、友達と遊ぶ以外は楽しいものではなくて、なんだか四六時中窮屈な感じがするところなのでした。
そして社会に出ると、学校とは別にいろいろなルールや法律があり、中にはとても大切な法律とザル法というようなあってもなくても誰も困らないような法律もあったりします。
大学の授業で六法全書を買わされましたが(ここでも受け身の表現)、「世の中に主だった法律でもこんなに数があるんだー。誰が作ったの?誰が守るの?たいがいにしといたらええんちゃうん?」とため息が出たものでした。
たとえば人を殺してはいけないという法律は、道徳的にも宗教的にも人の歴史からいっても社会で多くの人々が最大公約数的に求めるもので、法律としての「太さ」「強さ」があります。
一方で青年向けの書籍を販売してはいけないという条例がある都市がありますが、これは人間が、特に男性が強く性的衝動を持っていることとを、本性と認識するのならば、現実離れしたやや理想的な条例といわざるを得ないでしょう。そういう意味では、法律として「細く」て「弱い」ように思います。
法律までいかないルールやマナーとなるともっと細かくなって、たとえば朝の電車の何両目は女性車両とか、携帯電話はマナーモードにするか電源を切るとかそういうこといわれちゃうと、ぼくなんか、もうグッタリして、それだけで東南アジアのどこかの国に移住したくなります。
とか書いているうちに気がついちゃったんですけど、法律とかルールには、危険を防止するためにあるものと、社会を成り立たせるためにあるもがあるみたいです。
で、不良が反発したり、ぼくがグッタリするのは、社会を成り立たせるための法律とかルールの方で、これは結局、われわれのひいじたんとか、じいちゃんとかオヤジあたりの世代が作ったもので、ぼくは全然賛成してないのに、その法律が運用されているわけです。だから今ある法律をもう一度国会で審議しなおしてくれるなら、かなり真剣に選挙に行くと思いますが、昔できた法律を、世代を超えて、再審議もなく当然のように守らなければならないのは、それは法学的に正しいんでしょうか?
それから社会を成り立たせるためのルールというのは「太く」て「強い」ものは、まあたいていみんな賛成でしょうけど、「細く」て「弱い」ものは賛否両論があっただろうけど、法律として成立してしまったものもあるはずで、その場合、反対意見の人は、法治国家だから従いますけど、日常生活的な実感としては守りたくないわけです。
その主に2点に不良が窓ガラスを割って反発する原因とぼくがグッタリしたあげく海へエスケープする原因が隠されているような気がしてますが、だいたいここまで読んでくださっている方というのはいらっしゃるのでしょうか?
読んでくださっている方はたいへん奇特な方といってもよく、きっといいことがあるでしょう。ラッキーカラーはオレンジ。
いや、読んでくれなくてもいいんだい。どんどん書いちゃおう。
で、海遊びをするうえで関係する法律やルールというのは、たいがい命を守るためのものです。その意味も納得できますし、守らなければ自分が危険な目に遭うので、守るわけです。そういうルールはそんなにストレスを生まないんじゃないかなーと思いますが、どうでしょうか?というか逆に「ああそんな法律があって命が助かった。ありがとう」となるんではないでしょうか。というか法律とかルールというのは本来そういうものばかりでなければならないんではないのか、と考える今日この頃です。みなさんいかがお過ごしでしょうか?黒柳徹子です。
ぼくは、というか自然を相手に何かすることが好きな人は、社会で何かすることにストレスを感じる人が比較的多い気がします。だから自然という場所だと生き生きするという方もいるんではないでしょうか。で、その根っこの辺りにあるのは…
自然を相手にして生きる=死なないで生きればok
社会でうまくやる=人間関係的にうまくやらなければいけない
ということで、さっきのルールとか法律の話でいえば…
自然を相手にして生きる=命を守るルールを守る
社会でうまくやる=社会を成り立たせるためのルールを守る
ということになるのだろうと思います。
そいでね、あたしそれぞれに適応できる人とそうでない人がいるだろうと思うのね。で、だんだん考えるの面倒くさくなってきたので、まとめていってしまうと、ぼくは海にいるとすごくリラックスしてストレスが少なくて楽しく過ごせるので、これ以上海に関するルールとか法律とか作らないでください、ということなのです。

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モノはタフで防水なのを使う場合の意外な弊害
海遊びを中心に日々の生活が回っています。
海遊びといっても竜宮城で乙姫様と遊びたいと思っているんですが、身体をこき使うウォータースポーツで、シーカヤックとかスキューバーダイビングで結構上級者向けのハードなポイントへ行きます。
そんな生活を20年以上も続けていると、持ち物は防水性のあるタフなものが増えて、気がつけばそんなものばかりになってしまいました。
時計もそうですし、スマホも防水の耐衝撃性能のあるものを選んでしまいます。今はGalaxy Active neoというのを使っています。
ライトもスキューバーダイビングで使う防水で丈夫なのを使っているので、濡れるのが当たり前。ぶつけるのも当たり前。
ライトもスキューバーダイビングで使う防水で丈夫なのを使っているので、濡れるのが当たり前。ぶつけるのも当たり前。
デジカメはオリンパスのTG-3というのを使っています。これはスキューバーダイビングのときに使うハウジングが純正で出ていて割安なので重宝しています。
サングラスはOAKLEYがヤワというかフレームが折れやすいので、Gillか720armourを使っています。これもワリとタフで長持ちします。
スキューバーダイビングでボートダイブするときに、オンボードで持っていくものを入れるケースは、ペリカンケースをもう20年くらい使っています。これも頑丈でいいですね。これはシーカヤックのときも荷室に入れています。
こんな風にタフな道具が好きなんですが、それで困ることがあります。それは普通の道具、というか、まあ正確にいうと普通の家庭用家電を使うときに荒っぽく使ってしまってよく壊してしまうんです。
たとえば掃除機の持ち手の部分を高い位置から手を放してしまって、そのまま床にバカンって落として壊してしまったり、電子レンジの扉をバタンって閉めてしまって壊してしまったりとか、まあそういうことがワリとあります。
たとえば掃除機の持ち手の部分を高い位置から手を放してしまって、そのまま床にバカンって落として壊してしまったり、電子レンジの扉をバタンって閉めてしまって壊してしまったりとか、まあそういうことがワリとあります。
それひとつひとつは大したことがないようですけど、それが続くと相方との関係に微妙な空気が流れてしまいます。
「ぼくとしては、なんでそんなことで壊れるの?ヤワな奴だ。ケッ」などと軽蔑気味に思うわけですが、相方からすれば、ぼくの使い方が荒っぽいと見えるんでしょう。
「ぼくとしては、なんでそんなことで壊れるの?ヤワな奴だ。ケッ」などと軽蔑気味に思うわけですが、相方からすれば、ぼくの使い方が荒っぽいと見えるんでしょう。
そんなこんなでモノは大切にしなければならないということを、改めてココロに思い出させているわけですが、ぼくの場合、モノを大切にする気持ちがないわけではなくて、使い方が荒いことに問題があるわけです。
最近の家電は、素材を軽量化したりしているせいか、以前より壊れやすくなっているんじゃないかと、そんな不平をいっても仕方がありません。とにかくモノを大切にすること自体は良いことですし、ましてやそれが夫婦関係に影響を及ぼすとなると、その優先度は格段にアップします。
アバウトで超テキトーなワタクシですが、何か?
自分では若いつもりでおりました。
光陰矢のごとし、っていいますが、矢を使ったことがないのでイマイチ実感がわかないんですが、この間まで大学生だったよなと思ったら、もうオジサンです。
一応、家族もいて、会社でも働いていますが、それはぼくの仮の姿じゃないかと思うことがよくあります。
そんな「それっぽい社会人」をやっていると、やっぱり大事や雑事などが山ほどあって、そういったこともかろうじてなんとかやっているんですが、ぼくの本性としては、すごくうっとうしいんですね。
できるならばやりたくないです。そういう瑣事をちゃんとやっているのは、やはりぼくではなくて、ぼくのクローンか影武者か小さい頃にワケあって生き別れた双子なのではないかと思わざるを得ません。
もともとのぼくは、めんどくさがりでアバウトで超テキトーなんです。
大学生の頃は、何日も風呂に入らず大学に行ったり女の子と話すのも気にせず、電気代を支払いに行くのがめんどくさくて、電気を止められ、それでもめんどくさくて、しばらく電池式ライトで暮らしていたこともありました。洗濯物も何週間かまとめて洗って、部屋に干して、その日着る分をハンガーから外して着る、みたいなめんどくさがりでした。
そんな人間も会社勤めをするとやっぱりだんだん鍛えられていくもので、時間厳守、締切厳守、身なりはキチンとする、といった具合に少しずつまともな人に近づいていったのでした。最初はネクタイと革靴の日々が気が狂いそうなくらいイヤだったんですが…
そんなぼくだから海が好きなのか、海が好きだからテキトーでアバウトになったのかわかりませんが、海辺で過ごす日々というのがとてもラクです。
お盆とかで1週間くらい続いた休みがあると、本来のテキトーめんどくさがりが発揮されます。海に浸かって、昼間からビールを飲んで、髭も剃らず、Tシャツと短パンとビーサンよりもちゃんとした格好は絶対にせず、あとなんだか思い浮かばないですけど、とにかくやらなくて済むことは一切やらない、その割り切り方が男らしくてステキと近所の奥様方達の間でもっぱらの評判、らしいです。髭づらの、寝癖のままの、Tシャツと短パンビーサン姿がワイルドで母性本能をくすぐるともっぱらの評判、らしいです。
朝起きて、パジャマ(といってもTシャツと短パン、短パンの下は下着を着ないのがぼく流コーデ、なぜって下着はゴムに締め付けられてうっとうしいから…ワタシはナチュラルでありのままの自分でいたいの)のまま、海の様子をチェックし、ラッシュガードとウェットを着て海へ行きます。
サーフィンしたり、シーカヤックしたり、セイリングしたり、スキューバーダイビングしたりして1日過ごすのが、ワタシ流。この4Sがワタシをリセットして、新しい自分に生まれ変わらせてくれるの…アナザースカイ…
で、海から上がったら、シャワーを浴びて、デッキでビールを飲みます。あとは近所を散歩したり、音楽を聴いたり、本を読んだりして、寝る。以下この繰り返しです。こんなことしていると1週間くらいの休みってあっという間に終わっちゃうのが、現時点での課題であり、次の四半期には絶対に改善するようにと本部長もいっておられた、らしいです。

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理想の海辺の家の家について想像してみました
個人的に勝手に、「理想の海辺の家」を空想(想像?)するのが好きです。
これまで海遊び仲間の家に遊びに行ったりして、ああこういうのっていいなあ、とか、こんな工夫があるんだなあ、なんていうのを盛り込みながら、無制限に空想するのが好きです。
これまでぼくが空想した理想の(ありえないかもしれない)家の項目を、勝手に一方的にまとめてみたいなあと思います。ぼくとしてはすごくマジメ、もうこれ以上ない!というくらいに考えました…
まず立地から…
・少し高台(海抜20~40mくらい)で海が眺められる
・眺めの中に電線などの人工物がない
・周囲に隣家がない
・森に囲まれている
・大通りから何本か奥まっている
・海まで徒歩3分以内
・海まで階段がなくカートなどを引いて降りられる
・どん詰まりの家で、人通りがない
・西に開いた海が望める(夕陽が見える・西風が当たる)
・家から海まで自分の土地である
・海はプライベートビーチとプライベート岩場である
次に家のこと…
・メインの部屋(リビングダイニング)の開口が大きく、窓ガラスのサッシが少ない
・メインの部屋から続きで広いデッキが広がっている
・そのデッキから家の前の海に飛び込める
・メインの部屋から海が望める
・眺めと高さのことを考えると2階リビング・ダイニングかもしれない
・デッキの続きにサニールームがあって雨の日も半屋外気分が味わえる
・家の屋根が開いてサンダーバード2号が発進できる
・外構に海遊び道具を収納するスペースがある、というかいっそのこと艇庫がある
・外構にマリングッズの洗い場と干し場がある
・家に船(3艇以上)が係留できて、家から船が出せる
・家の前の海でスキューバーダイビングができる
・スキューバーダイビングのタンクのエア充填室がある
・外構にトイレとシャワーがある
・ツリーハウスがある
・庭にハンモックが吊せるようになっている(ハンモックが吊せる木がある)
・庭に焚き火場がある
・庭でバンジージャンプができる
・庭でニワトリと山羊と羊と犬と猫が飼える
・庭にホームバーがある
・庭がジャングルみたいになっていてたまに行方不明者が出る
・庭から家に行くアプローチの途中に吊り橋がある
・庭が兼六園みたいである
・車寄せがあってガレージがある
・風呂から海が眺められる
・風呂にサウナとジャグジーがあって、いつもビキニの美女がいる
・風呂が温泉で、源泉掛け流しで、湯の花が浮いている 湯もみの美女がいる
・2階まで江の島エスカーで行ける
・と思ったけど、上がり下がりが面倒くさいので、眺めがよければ平屋がいい
・服をたたまないで収納できるクローゼットがあるというか、洗濯物を入れて全自動で干して、すぐ着られるようになる完全全自動洗濯システムがある
・自動で部屋と風呂とキッチンのシンクとレンジの掃除をしてくれる
・ハイテクを駆使して、空調とか照明とかなんだかよくわからないけど、生活パターンを予測して全自動でやってくれる
・ダストシューターがあって、そこにゴミを入れると、ゴミ処分場に直送される
・門のそばに冷蔵宅配ボックスがあって、食料なんかはネットで注文して、宅配業者が宅配ボックスに入れてくれるとそれが自動で運ばれて屋内の冷蔵庫に保存される
・というか若くてかわいいお手伝いさんが家事をやってくれる
・太陽光発電と風力発電と雨水利用と汲み取りの要らない浄化槽があってエコである
・震度7でも大丈夫な免震・耐震の家である
・靴箱の容量が大きい
・茶室がある
・掘りごたつがある
・囲炉裏がある
・薪ストーブがある
・庭と同じく家の中にもハンモックがある
・冬でも家中暖かい、夏でも家中涼しい
・窓がやたらあって空気が抜ける
・ベッドルームは狭くて暗くて洞窟の中みたいになっている
・大奥とかプレイボーイクラブがあるといいなと思ったけど面倒くさそうだからやっぱり要らない
休日のビールの楽しみと海との相乗効果とその経済価値について
ぼくの休日の楽しみのひとつが晩酌でビールを飲むことです。
そういうオジサンは結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。
ぼくの場合、ベストな休日の過ごし方としては…
朝から海に出る
↓
スキューバーダイビングとかシーカヤックとかサーフィンなどで身体を動かす
↓
夕方まで海で遊んで、ビーチでボーっとする
↓
家に戻って、風呂に入る
↓
ビールを持って、近くのビーチに行く
↓
ビールを飲みながら、夕陽を眺めながら、潮風に吹かれる
というわけで、1日のすべてが1杯のビールの旨さを楽しむためにあるという、アル中可能性大偏屈快楽主義的性向ともいえる過ごし方なのですね。
こんないかにもオジサン的な休日の過ごし方を見聞きした若い女性などが「チョーキモイんだけどー」などといっても、オジサンというのはそんなこと気にするわけもなく、「別に自分が楽しいんだから他人になんといわれてもいいけどよ、フン」と開き直ってみたりするんですね。
目下の最重要課題というのは、いかに尿酸値を上げずに、持続的にビールを楽しめる身体を維持していくかという個人的な事柄に集中しているので、間違ってもTPPの影響とか中国と北朝鮮との力関係の変化とか、そういう国際的な事柄には展開していかないのでした。
まあせいぜい「なぜ町の酒場で飲むよりも、海辺で飲むビールはうまいのか」とか、「だったら人工ビーチがあるビアガーデンなどというものがあったら、そこで飲むビールははたして旨いのか」とか、「そんなビアガーデンがあったら、客は来るのか?投資額は回収できるのか」といったくだらない妄想に終始するくらいなのです。
んなわけで、毎日おいしいビールが飲めればいいですねー、それが当面続けば、まあそれでいいんじゃないでしょうか、いやーいわゆるひとつのシアワセっていうんですか………という刹那的な日々を過ごしているのであります。

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人はなぜレジャーをするのでしょうか?「レジャー=生き残りモデル」
ぼくはスキューバーダイビングやシーカヤックやサーフィンをします。周りからは「道楽者ですねえ」っていわれますが、いや、それほどでもー。
それも大学時代からやっていますから、かれこれ二十数年以上やっているんです。
で、ときどきなんで自分は海遊びをするのか、飽きもせずウォータースポーツをするのか考えたりします。今日はそうして考えた屁理屈を書いてみたいと思うのです。
最初は、海に癒されるからウォータースポーツをやるのかな?って思っていました。確かにそういう面はあるんです。
もう一つはいわゆるレジャーとかリフレッシュという意義があるからやるんだとも思いました。確かにそういう面もあるんです。
でもそれだけじゃないんじゃないか…というのが今のぼくの考えです。
世の中を見渡すと、レジャーのような趣味に没頭している人(なんとなく男性が多い気がする)は大勢いて、ぼくよりもずっと激しくのめり込んでいる人もいます。どうしてそういうことになるんだろうと…
一般に趣味とか道楽というのは身代を潰すといわれていますから、刹那的な快楽を求めるとか現実逃避とかそういう理由で、依存症的な面があるのかなと思ったりもします。
要するに経済合理性や社会的規範からは少し外れた行為だろうということです。
それをなぜしてしまうのか?
ぼくは、それを現実から束の間逃れてリフレッシュしたいから、だけでは説明できないような気がするんです。
なぜかというと、ぼくの場合、スキューバーダイビングにしろシーカヤックにしろ、結構ハードな海況でやることが好きで、それを無事になんとか乗り切って帰ってくる、そこに楽しみを見いだしている面もあるからです。
やっているときは、「なんでこんなツラいことをすすんでやっているんだ」「やるんじゃなかった」「今回こそ死ぬかも」と思いながらやるんです。
それに結構忙しいスケジュールの間を縫って、身体が疲れていて、本当だったら1日静養したいような日であっても、ウォータースポーツをやりに行くんです。これは気分転換とかリフレッシュとはいえないような気がします。
難行苦行の類に近いと思います。
そういう動機ってなぜなんだろうと考えました。
普通に考えれば安全な方がいいし、ラクな方がいいし、お金と時間を使ってまでそんなことをするのって経済合理的ではないわけですから…
で、考えついたのが、元々本能のひとつに、何かに挑戦するとか、危険な状況にトライするということの必要性が入っているんではないか?という理屈です。
現代社会には未知の海も、フロンティアも、身近な危険もないわけですから、レジャーでそれを求めているのではないでしょうか?
そして人間として種の保存のため、敢えてリスクを冒して新しい状況に挑戦した方が、人間という種がいろいろなところに広がっていいわけですし、もしかしたら新しく食べていける何かが見つかるかもしれないわけで、それは本能としては合理的ではないか?ということです。
その一連の理屈を、仮に「レジャー=生き残りモデル」と呼ぶことにしたいと思います。
自分として少し課題だなと感じているのはレジャーと冒険とは少し違うかもしれないということですが、そこのところは自分でもまだよく考えられていないので、後で考えることにしようと思います。
「レジャー=生き残りモデル」にはもうひとつの側面があります。
おそらく経済的に豊かな先進国の方がレジャーや冒険は盛んに行われていると思うのですが、それは時間的・経済的余裕があるからでしょう。
ただ、それだけではないと思うのです。先進国は今後経済成長をしようとすると既存の産業や技術に頼っていたのではダメで、革新的な何かが必要だと、国民的に潜在意識の中で認識されているのではないでしょうか?もしかしたら人間の本能としてインプットされているから、それが社会的制度に現れているのかもしれません。
だから一見ムダに思えるようなレジャーや冒険のようなことに打ち込む人を容認するというか賞賛する雰囲気というのがあるのではないでしょうか?
歴史を振り返ってみれば、革新的な技術的進歩や新しいフロンティアの発見というのは、最初はある人の趣味的なこだわりが結実した結果だったりすることは、ままあることです。
レジャーや冒険にのめり込む人というのを、世間の人々は非難したり責めたりはしません。場合によっては少し呆れるというのはあるかもしれませんが…
それはとりもなおさず、レジャーや冒険が社会的に公共の不利益ではないということが合意されているのだと思います。
「レジャー=生き残りモデル」にはさらにもうひとつの側面があります。
我が家では、命の危険があるようなウォータースポーツにでかけるぼくを、妻は認めてくれています。そのあたりはぼくの妻がよくできた人なのかもしれません。あるいは浮気やギャンブルや酒に走るよりはいいと思っているかもしれません。
ただ、子供に対して、自分の好きなことについては、たとえ危険であっても周囲が何をいってもどんどんやっていく父親像を見せることを、教育上いいことだと考えているとはいっていました。
それは将来社会に出て、子供が一人で食べていかなければならないときに、社会的にレールが敷かれたいわゆる大企業のサラリーマンみたいな職業だけが、その選択肢でないことを伝えるのにいいからだそうです。
要は食べていければいいわけで、そのためには自分の好きなことでもなんでも、壁にぶつかっても世間から認められなくても続けていける強さが必要だからだそうです。
妻の中では「レジャー=生き残りモデル」は、個人や家族を支える食や住処を獲得するための疑似的訓練だと解釈されているわけです。
とりとめもないことを書いてしまいましたが、だから趣味やレジャーにうつつを抜かすオジサンを責めてはいけません。どちらかというと人類の未来を切り開くために頑張っているんだと尊敬しよう!ということをいいたくて書いたわけじゃありませんよ。

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海辺の観光地における地元民と観光客の社会的格差と対立につきまして
ぼくの住んでいるあたりというの海辺の田舎町でして、休日のオジサン達は、ビーサンに、ヨレヨレの短パンに、首の伸びたTシャツなどを着て、髪の毛は寝癖がついていて、髭はボウボウで、スーパーに買い物行く、とか郵便局に行く、みたいなのがフツーなのです。
まあ、男衆というのはだいたいそんな格好をして、その辺をブラブラしているんですね。
で、海遊びの仲間に会うと、最近の海の話をしたりして、近所の飲み屋か、それぞれの家で飲むみたいなことをやっているわけです。
逆に休日なのにちゃんとした格好をしていると「どうしたの?」「なんかあったの?」と訊かれます。5分くらい歩くと知り合いにあって訊かれ、また5分ほど歩くと知り合いに訊かれと、そんなに珍しいか?というくらいなんです。
で、そういうのは気楽でいいんですけど、たとえば初夏とか夏休みの休日になると、観光客のみなさまがいらっしゃるんですね。客商売の知り合いは、観光客ようこそ、お・も・て・な・しのココロって大切ですね、という感じなんですが、ぼくはフツーのサラリーマンなので、よそ者が来やがって、道が混むじゃねえか、みたいな基本姿勢の違いがあるわけです。
しかもですねぇ、この観光客というのがたいてい都内とかから来てたりして、スポーティな外車に乗ったカップルで、男はアイロンで折り目の付いたパンツとブランド物であろうカットソーとデッキシューズとサングラス、女性はよくわからないけど洒落た格好でやっぱりサングラスをかけてたりするわけです。
この人達がこういうキメキメの格好でスーパーとかで買い物しているわけですね。
で、一方地元民は、ヨレヨレなわけです。そういう両者がレジの列に並んだりするんですねぇ。
そこになんとなく緊張感というか、社会的格差というか、ひがみ根性というか、「海ってリラックスする場所なんだから、格好つけてんじゃねえよ」というか、「今どきデッキシューズ履くセイラーなんていねえよ」というか、「海に何時間もいるわけでもないのにサングラスいらねえだろ」などなどと、悪意と最初から戦う気満々の人間関係が醸成されていくわけですね。
海辺の観光地に住んでいると、観光客の多い時期というのは、道は混むし、店は混むし、うるさいしというのは、もう慣れっこなんですね。
ただやっぱり、やってくる向こうは非日常を楽しみたいのに、ヨレヨレの地元民らが挑戦的な目つきで見てきて不愉快という感じですし、いつもの休日で、今日はネクタイもしなくて革靴も履かなくてよくてうれしいなったらうれしいなという休日ノンビリグダグダモードのオジサンからすると、ヘンに緊張感とワクワク感を持って、地元民を睥睨するような観光客は、もうちょっと普通にすればいいじゃねえの、という感じなのですね。
とラチもあかないことを書いているわけですが、この観光地に住んでいる人の、観光客ウエルカムと地元優先の相克というのは、どこでも昔から多かれ少なかれあるわけで、その程度や雰囲気というのは、その土地土地によって多少の差があるようなので、風光明媚な田舎で観光地に移住したい方は、そのあたりを気をつけたらいいんじゃないかと思います。

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地物の春野菜が嬉しい季節ですね
春はいろいろな植物が芽吹き、成長する頃ですね。
ぼくの住んでいるあたりでは、農協の直売所や個人の無人販売所に、春野菜が並びます。
野菜好きなぼくとしては、とても嬉しい時期なのです。
春キャベツ
菜の花
葉ショウガ
筍
アシタバ
フキノトウ
蕗
ゼンマイ
イタリアンパスレー
どれもこれもおいしくて、大地や太陽の力を間接的にいただいているようで、食べると身体が喜んでいるような気がします。
休みの日には自転車でいくつかの無人販売所に立ち寄って、野菜を品定めするのが、この季節の恒例行動パターンになっています。
遊びに積極的になれない人は信用しないようにしています
仕事人間と呼ばれる人がいます。ぼくの周りにもいますが、仕事はできますが、革新的でなかったり、新しいアイデアを潰してしまったり、過度に形式的だったりします。平常時は十分力を発揮しますが、大きな変化が起きるとうまく対応できない人もいます。
ぼく的にざっくりまとめりと、まじめだけど遊びがなくて、発想が硬直化しているということでしょうか?
ぼくが考えるに、遊びや趣味に積極的な人のほうが仕事の仕方に広がりがあるような気がします。
特に遊びで積極的に新しいことを作っていく人というのは、話していて面白いし、人間的に魅力があって、ぼくは好きです。
なんでかなーと考えてみたんですけど、そういう人って、目標とかイメージとかビジョン、えーっといいかえると自分が実現したい将来の絵があって、それを実現するために手段を選ばないし見た目を気にしないというところがあるような気がします。
個人的な好き嫌いの話ですが、当然ぼくは遊びや趣味に積極的な人が好きです。もうちょっというと、人としても信用します。
逆に自分の趣味がない人というのはあまり信用できません。
何かその人が依って立つ基準がはっきりしなくて得体が知れないような気がするからです。
ぼくが人を信用するのは、その人の価値観や信条がはっきりしていて、それに対してぼくがある程度理解できる(ぼくと一緒であるとはいってません)からではないかと思うのです。
そしてぼくはそうした情報に基づいて、その人ならこういう局面では、こう行動するだろう、こう判断するだろうということが想像できるから、ぼくの方でも心構えができるし、数手先が読めるから、安心なんですね。
今日の海は荒れ荒れでしたが、波乗りして、気分スッキリ…
雨風にもかかわらず、420で海に出ようと準備してましたが、さすがに荒れ荒れでやめました。
そのかわり午後から波が落ち着いてきたので、サーフィン。
うねりは強く、頭以上はありました。
風でアタマが潰れ気味でしたが、ダンパーになっていなくて、まあまあ。
少しでも海に入ると気分がスッキリして、やっぱりいいもんです。暖かくて、陽射しもあって、少し春を感じられる一日でした。

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