忍者ブログ

自然と街のちょうどいい距離とは?



 ぼくは神奈川県の三浦半島というところに住んでいます。
 三浦半島もとてもいい土地ですが、できればもっと自然が豊かなところに住みたいなあと思って、今に至りました。
 こういうぼくの願望については、海仲間でも考えが分かれます。
 三浦半島のいいところは、適度に便利で、適度に自然があるところだという人もいます。
 実際、生活するとなると、ドラッグストアやDIYの店や100均などがあった方が便利です。少し足を伸ばせば、横浜や東京に買い物に行けます。大きな総合病院もいくつかありますし、小学校から大学まであります。
 そう、今回は、自然が豊かな住環境と便利な街との距離をどうとるかということについて考えてみたいのです。
 これは自然が好きな人であっても、人により考えに違いが出ると予想されます。
 このブログを読む方は、自然が好き、海が好き、ということが大前提で話が進みます。
 自然が好きで、海が好きだけど、最寄りのスーパーまで車で片道1時間以上かかるようなところを好むのかどうか?ということです。ぼくはそれくらい町との距離が離れているところに住みたいなあと思っているわけですが…
 逆の例を出すと、熱海みたいな町があるわけで、あそこは観光地とかリゾートとして認識されています。いくら温泉があっても、海の幸が豊富でも、熱海の町中には、ぼくは住みたくないわけで…
 やはりこれは意見の分かれるところでしょうね。
 自然は好きだけど、なかなかそこまでは…という人も多いのではないでしょうか。
 じゃあ、街との望ましい距離感はどの程度なんでしょう。
 ぼくとしては、生活に不便じゃないギリギリのところまで自然の豊かな土地に住みたいので、その境界が望ましい距離感ということになります。
 ここからは具体例で考えてみましょう。
 古くからの友人で蓼科の山奥に住んでいるヤツがいます。そいつの家は、最寄りのJAのスーパーまで車で30~40分。茅野市街まで1時間くらい。まあなんとかなっているようです。ぼくが彼の立場になっても全然アリな選択です。
 ぼくが20年くらい通っている三宅島のダイビングサービスは、最寄りの雑貨屋さん(オシャレな雑貨屋さんじゃなくて、なんでも扱っている何でも屋さん)まで車で10分くらい。もともと三宅島にスーパーなどありません。郵便局もガソリンスタンドも10分とか20分くらいです。何かあれば飛行機か船で東京へ行くという暮らしです。これもアリでしょう。
 でも八丈島の方が暖かくていいかも…とは思いますけど。
 よく行く南伊豆のダイビングサービスは、下田まで車で30分、松崎までもそのくらいかなー。最寄りのコンビニまで車で20分くらい。下田はひととおり何でもある町ですから生活で不便なことはないでしょう。どうしても必要であれば、沼津か横浜か東京に出られます。これもアリです。
 こうして考えてみると、食料品やガソリンを手に入れるのに車で片道1時間というのは、ぼくにとってギリギリな気がします。歳をとったらなおさらかったるくなるでしょう。まあ、30~40分というのが現実的な選択といえるかもしれません。
 今はアマゾンとか通販でたいていのものが手に入りますし、だいたい田舎暮らしの人は、自宅に普通の冷蔵庫の他に、冷凍専用の冷凍庫を持っていたりして、そこに肉やら野菜やら冷凍食品などをストックしているので、いきなり生活に困るようなことはないでしょう。
 不便であるといっても、たいていのところで人間は暮らしていますし、海外に行くと地の果てのようなところでも、人は暮らしていますから、できなくはないんです、きっと。
 じゃあぼくは何に引っかかっているんでしょうか?
 やはりどこかで町の便利さを求めているんでしょうか?
 それとも重病になったときのことを心配しているんでしょうか?
 あるいは子供が家族を持ったときに遊びに来て欲しいとか、孤独死が怖いとか心配しているんでしょうか?
 そういうことを気にし出すようなタイプの人間なら、たぶん街に住んだ方がいいんでしょう。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!





拍手[0回]

PR

田舎の海辺暮らしの自給自足の気風



 ぼくの住んでいるところの男衆は、たいていDIYをします。暮らしに必要なものがあったら、まず自分で作ったり修理したりできないか考えます。
 それが当たり前になっているので気にもしませんでしたが、1年くらい前に同じ町内に東京から引っ越してきた家族がいまして、そこの旦那さんがびっくりしていました。みんなDIYするんですね、と。
 で、その旦那さんもだんだんDIYするようになってきたんですが、庭で何かやっていると、通りがかった近所のオッサンがいろいろアドバイスをするんですね。木材には必ずペンキを塗れとか、廃材はどこどこでただでもらえるとか、ネジを打つ向きはそっちじゃないとか、いろいろと。
 おせっかいな気もしますが、ぼくはそういうのに慣れてしまったのでなんとも思いませんし、そんな押しつけがましい好意もあたたかさだなあなどとポジティブに受けとめています。
 それがきっかけで気づいたんですが、ぼくの住んでいる田舎の海辺で、少なくともぼくの知り合いは、暮らしで何か足りないものや壊れたものがあったら、買うとかプロに修理を頼むことが頭に浮かぶんではなくて、まず自分でなんとかならないか考えるようなんですねえ。しかもなるべく安くあげようとする感じです。
 で、どうしてもプロに頼まなきゃいけない、家の基礎とか、ガスの配管とか、そういうのも知り合いのツテをたどって、自分も手伝うから安くやってもらうということが多いんです。
 もちろんぼくの知り合いがあまり裕福でないのもあるかもしれませんが、というより、やはり自分の身の回りのことは自分でやるという意思が強いのと、自分の住んでいる家の構造とかは自分で知っておきたいという気持ちが強いような気がするんです。
 そういう目で見てみると、自分ちで食べる野菜を自分の庭で育てるのも、なるべく医者にかからないように食生活に気をつけるのも、同じ心持ちから出た行為といえるかもしれません。
 海辺の田舎がどこもそうだとはいえませんが、田舎暮らしには往々にしてそういう気風があるのかもしれないので、移住を考えている方で、DIYが苦手だとか、人付き合いがイヤだとか、そういう人は移住先を選ぶときに注意した方がいいんじゃないでしょうか。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

俗っぽい人に近寄らないようにします



 海辺の小さな田舎町で暮らしています。
 近所の人や海遊び仲間は気のいい人が多くて、毎日楽しく暮らしています。
 そんな海辺の田舎が暮らしで脅威といっていいことを発見しました。
 それは何か?
 津波。それはそうです。
 塩害。それもそうです。
 今回発見した脅威は俗っぽい人です。
 俗っぽい人はどこにでもいて、どんなことも世俗的な利害に引き寄せて考える人です。俗っぽい人との距離は、かなり遠くて埋めようとしても時間の無駄です。お互いに違うのはしょうがないので、適当な距離を保つに限ります。といってもわかりにくいでしょうから、ぼくと海仲間の会話と俗っぽい人との会話を再現して、その違いを具体的にできればいいなあと思います。
 海仲間との会話
ぼく>今度さあ、知床半島をシーカヤックで回るツアーに行きたいと思ってるんだ。
海仲間>あっ、いいね。すごくいいらしいね。
ぼく>そうらしいね。野生生物がまだまだ多いらしいから、今のうちに行ってこようかなと思ってね。
海仲間>そうだね。だいぶ観光地化してるらしいから、今のうちに行っといた方がいいかも…。エゾシカとかヒグマとか見たいよね。行くなら夏かな?
ぼく>うん。やっぱりベストシーズンは夏みたい…
 俗っぽい人との会話
ぼく>今度さあ、知床半島をシーカヤックで回るツアーに行きたいと思ってるんだ。
俗っぽい人>シーカヤックって?いくらかかるの?
ぼく>シーカヤックって自分で漕ぐ小さい船だよ。だいたいツアー費だけで13万円くらいらしいよ。
俗っぽい人>えー。自分で漕いで疲れるじゃん。それに高いわ。それだったらいい宿に泊まっておいしいもの食べられるよ。ていうかアウトレットでブランド物買った方がいいなあ。
ぼく>でも、野生動物が間近で見られるし、知床の自然の中にずっといられるんだぜ。
俗っぽい人>野生動物みたってしょーがないし、危ないじゃん。
 俗っぽい人とどんな会話をしてもロマンティックにならないし、ワクワクした楽しさにつながりません。
 ぼくのようなタイプの人間は近寄らない方がいいです。それが今回学んだことです。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!





拍手[1回]

ダラダラ・グズグズ・フニャフニャと過ごしていきたいですう



 ぼくは小さい頃から性格がダラダラ・グズグズ・フニャフニャしていると、ご近所でも評判だったそうです。自分でもそう思いますし、成長しても人の性格ってそんなに変わらないものです。
 いい歳したオッサンになっても、基本、ダラダラ・グズグズ・フニャフニャなわけです。
 そんなぼくでも一応生きていて、税金を納めたり、家族がいたりしているわけで、世の中なんとかなるものというか、頑張った自分にご褒美をあげたいというか、えーっとなんでしたっけ?
 それで一応社会人として働いているワケですが、すごくキレッキレのビジネスマンなんかと接すると、ワリとひいちゃいます。
 ひくというか、見ていて小っ恥ずかしくなるという方が近いですかねえ。
 いや、もう、そういう人って優秀で仕事ができて、日本経済とか引っ張ったり、グローバルに活躍したりしてるんでしょうけど、そんなもん全面に出されたら、フツーひくっつーの。
 ぼくはできればダラダラ・グズグズ・フニャフニャと日々を過ごしたいんです。
 というわけで、そういうキレッキレのビジネスマンが近くにいると、何か無理な仕事を振られるんじゃないかと警戒して、できれば近寄らないようにして、これまで過ごしてきました。
 これからも海に出て遊んだり、ビーチを散歩したり、ビールを飲んだり、カトレアの鉢に水をやったり、アフタヌーンティを楽しんだり、ちょっとアンニュイにため息ついたりして、それから少し仕事をしてもいいかなという感じで、日々乗り切っていきたいですねえ。






にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

海辺に移住したい人に役に立つかな?と思われる情報提供みたいなこと



 海辺の小さな田舎町に引っ越してもう20年くらいたとうとしています。それ以前も海辺の町を転々としていました。その経験を書いてみたいと思います。海辺の町に住みたいと思っている方に参考になるかなあと…
 以前に似たような記事を書いたことがあるのでそちらもご参考まで…
 海辺に住む際の土地探しでポイントになるのが、海が見える眺めを重視した立地を選ぶか、海に行きやすい立地を選ぶかということです。この2つを満たす土地もあり得ます。
 詳しく説明しますと、たとえばセイリングやシーカヤックやウインドサーフィンといったウォータースポーツをする方の場合、海が自分のやりたいウォータースポーツに適しているか、海まで近いか、階段などの段差なしで海まで行けるルートがあるか、砂浜などの海へ入りやすい場所があるかがとても大切です。なのでウォータースポーツのやりやすさを重視する方は、このあたりにとてもこだわります。そうした場合、たいてい海の眺めは優先順位が下がるので、往々にして自宅からの眺めはたいしたことないことが多いんです。
 一方、ウォータースポーツをしなくて、たまに砂浜を散歩するというような方の場合、海がいかに美しく見えるかにこだわります。住宅雑誌によく出てくるような、リビングの大きなガラス越しに全面ガラス張りで、その向こうに海ということにこだわるわけです。そうした方の場合、海の眺め、灯台があるかどうか、富士山や大島や江ノ島といったアクセントになる風景があるか、窓からの海の眺めに電線や道路が入らないか、リビングからもダイニングからも寝室からも浴室からも海が見えるかといったことにこだわります。
 この2点は両立もできますが、どちらかへのこだわりが強ければ強いほど両立しづらくなります。どちらを選ぶかはとても大切です。
 ぼくの経験では、海までの距離が歩いて3分より遠くなると、ボードやシーカヤックを運ぶのが結構しんどいです。
 また、海に近すぎると風や潮や砂の影響を受けて、日々の暮らしに影響があるので、できれば防風林などがあった方がいいです。
 そして海からの眺めを重視して納得した立地を得ても、日頃の暮らしの中で、いつも海を眺めているかというとそうでもありません。海の眺めが当たり前になってしまって、5年もすれば海なんて見もしなくなるということはよくあります。
 海を見ておもしろいとか海を見て飽きない人というのは、潮目がわかるとか、海に出られるか海況が気になるとか、気象や海況に関心が高い人で、そういう人は、たいていウォータースポーツをやるわけで、そうするとそういう人は海の眺めよりは海へのアクセスのよさを選ぶのです。
 というわけで眺めだけがウリの立地というのは、意外に住人の移り変わりが激しくて、つまり眺めがよくて引っ越して来たけど、飽きてまた引っ越して行ったということが繰り返されているのです。もう少しいうと、そんなに海が好きでもなくて、たまのドライブで海に来て「ああー海。やっぱりいいね」なんていいつつ、なんとなく海の眺めがいいところでの生活に憧れていた程度の人が、眺めがいいだけの立地を選ぶ傾向があるわけです。
 このあたり少し悪意のあるような表現になっているかもしれませんが、悪意はありません。ぼくの近所でもそうやって短い期間で引っ越して行く人を結構見てきたので、結構そういう人っているんだなー、割りと深く考えないで行動する層もいるんだなーということを感じたのです。
 ぼくの海関係の知り合いはほとんど海好きで、海遊びがライフワークになっているような人とか海のある部分にこだわりがある人ばかりなので、そういうぼくらから見れば、海の眺めが好き=移住ってよくわからないのです。旅行とか別荘でいいんじゃないかと思えるわけです。
 あくまでも海で暮らしている者からの経験に基づく情報提供がしたかったのでした。






にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

海辺の暮らしとペンキとわたし



 海辺の暮らしをしていて感じるのは、ぼくはやたらとペンキを塗るようになったなーということです。
 なぜかなーと考えてみたんですが、やっぱり海辺の家は木造がいいし、木造だとどうしても木材を長持ちさせるために、ペンキ塗りが必要だし、海辺だからこそ、夏のギラギラした陽射し、潮風、台風などにさらされてペンキの持ちが悪いからだと思い当たりました。
 なんとなくそれが頭にあったせいでしょうか、そういえば周りの人もペンキを塗っている人が多いのですね。気候の穏やかな晴れが続く季節は、そこここでペンキを塗っている姿を目にします。
 晴れた日の休日に、芝生をはった庭を挟んで、オジサンがペンキをペタペタ塗っている姿は、なかなか微笑ましくて、平和で、ぼくは好きです。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!



拍手[0回]

海バカ・海道楽を続けていきたい



 人からもいわれ、自分でもつくづく思いますが、自分は海バカだな、道楽者だなと感じる今日この頃です。
 物心つく頃から海が好きで、中学くらいには独りで電車に乗って、海に遊びに行っていました。音楽も好きでしたが、海っぽい音楽をなんとなくいつも探しているようなところがありました。NHKの番組で海中の映像を見て、スキューバーダイビングというものの存在を知り、いつかやってみたい、自分で海中を動き回って魚を観察したいと思いました。
 大学生になってからは、レンタルボード・レンタルウェットスーツでサーフィンを始め、そして念願のスキューバーダイビングの講習を受けたのです。そしてセイリングをやっている同級生からクルーを探しているといわれ、セイリングを始めたのも大学生の頃でした。
 社会人となり独身のうちは、仕事が休みの時はたいてい前日夜から海に遊びに行き、月曜の朝、海からそのまま出勤するということ何年も続けていました。給料の多くを海遊びに消費し、貯金はほとんどありませんでした。でも、お金よりもやりたいことを優先するという自分の直感的な信念は今でも正しかったと思っています。
 結婚してからも海遊びの頻度は減りましたが、それでも月の休みの半分以上は海にいたと思います。
 子供が生まれてからはさすがに、子育てを優先していました。ただそれも子供の手が離れてしまってからは、昔のように休みの多くを海遊びして過ごしています。
 これを道楽といわずしてなんといいましょうか。道楽というと日本人としてはマイナスなイメージを感じますので、自分としては、レトリックを駆使して、道楽といわずにライフワークというようにしています。
 何といおうと、何といわれようと、好きなことはなかなかやめられるものではありません。そしてもうだいぶ歳をとってきましたので、たぶんこのまま海バカを続けていくのだと思います。
 波と風は日々違い、同じコンディションはありません。そんな違いを楽しみながらウォータースポーツをしていきたいのです。世界にも日本にも行きたい海、潜りたい海は無数にあり、死ぬまでに全部行きたいものだなあと漠然と考えています。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[0回]

桃源郷と竜宮城への憧れ



 桃源郷の物語を知ったのはたぶん小学生の頃でした。
 頭の中に浮かんだその風景にぼくはすごく惹かれたのです。
 隠れ里で、食べるものに困らずみんなが幸せに暮らしている楽園を想像すると、なんだかワクワクしてきました。
 当然ながら、それ以前に浦島太郎の昔話は知っていたわけですが、浦島太郎の物語はハッピーエンドではないので、その当時のぼくにとってはあまりいい印象でなく、桃源郷の物語と結びつかなかったのです。
 でも、今なら、竜宮城だってすごくいいんじゃないか、綺麗な乙姫様がいて、おいしい酒と食べ物があれば、それで年月が経っても別にいいじゃん、ハッピーじゃん、贅沢いうなよ、と思えるわけです。
 なので、いい歳してもぼくの中では桃源郷と竜宮城は憧れの地なのでした。ウォータースポーツをしているときに、亀が来ないかなあ、竜宮城に連れて行ってくれないかなあ、なんて思うわけです。ホイチョイプロの方に「わたしを竜宮城につれてって」という映画を作って欲しいと思います。
 空想の楽園に憧れる気持ちは誰しもあると思いますが、ぼくの場合はその憧れが海好きという嗜好になって、今も続いている気がします。
 キーワードは…
知る人のみが辿り着ける
人里離れて隠れている
みんないい人、いい人しか住めない
みんながハッピー
衣食住に困らない
ということです。
 そんな社会はあり得ないとわかっていても、それでも夢見てしまいます。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!



拍手[0回]

海辺の田舎暮らしのよさは、おそらく旅行者ではわからないのでしょう



 旅行ではわからないこと、海辺に移住して、田舎の海辺で暮らしてみて初めてわかること、というのがあります。それはそうです。短期間ではわからないこと。旅行者では体験できないことというのがあります。
 自分が旅行しているときにも、旅先でうすうす感じているわけですが、地元の生活者と旅行者というのは見えない壁で画されています。それはどうしようもありません。地元の人はその土地のその共同体の一員であり、いろいろな責任やしがらみの中で生きているわけですから。旅行者は来訪者であり、よそ者であり、お金を落としてくれる人であり、責任を負わない人であり、いつかいなくなる人です。
 両者がまったく同じということはないでしょう。
 海辺に暮らしてみて初めてわかることには、いいことと悪いことがあります。それをまとめてみたいと思います。
●いいこと
・気が向いたときにすぐに海に行ける(たとえば金曜日の夜に飲み会があって遅く帰ってきた次の土曜日に昼まで寝ていたりしても、起きてから海に行ける)
・波の音が聞こえる
・潮の匂いがする
・住民がのんびりしている
・買い物や移動は車である
・行政サービスや郵便局やバスや電車や道路(夏は除く)などが混雑していない
・建て込んでいない(空いている空間が多い)ので、町が抜けていたり、空が広い感じがする
・自然が豊か(森が多い、鳥やリスやタヌキなどの生き物が多い)である
・気候が穏やか(夏は暑すぎず、冬は寒すぎない)である
・静か
・地物の魚や野菜が新鮮で安く手に入る
・ウォータースポーツをする仲間ができる
・町内会とか祭りとかの地域の催しが楽しい
・近所の人と親しく付き合える、近所の人の人となりがだいたいわかっている
・海を眺められる
・海を眺めながらビールが飲める(車を運転して帰る必要がない)
・ビーチで過ごせる
・ビーチを散歩できる
・自然の移り変わりを味わい、楽しむことができる
・治安がいいので、家の鍵とか車のロックとかしなくてもいい
●悪いこと
・物が錆びる
・夏は道路が混雑する
・ムカデやモグラやヘビやハチなどの害虫が多い
・潮風が強いときは洗濯物が塩っぽくなる
・大きな病院が遠い
・たとえば進学校みたいな学校が遠いか、ない
・デパートとかアウトレットとか専門店のような東京にあるような店がない
・町内会のような地域の役割があって、忙しいときはちょっと負担
 どんな土地でもいいところと悪いところがあると思います。
 ぼくはもともと海が好きで、そしてウォータースポーツをやっていました。だから他の人よりは、海辺の田舎暮らしに価値観が寄っていると思います。
 加えて、家族ができて、子供を都会で育てるのはちょっとイヤだな、伸び伸び大らかに育てたいなと思うようになりました。
 しかも、30代半ばあたりから、街ではなく、自然の豊かなところでノンビリ暮らしたいという気持ちがとても強くなりました。
 そんな価値観の人間は遅かれ早かれ海辺の田舎にたどり着いていたんだろうな、と今では、自分のことを思うことができるのです。
 ぼくは海辺の田舎に移住して、そろそろ十数年になろうとしています。今ではすっかり馴染んでしまって、日々の暮らしが、海などの自然と共に、そしてそれらの四季の移り変わりと共に、成り立っています。
 思えば都会から移住した人で、本当に海辺の田舎暮らしが適していない人は、早くて1年、そしてだいたい2年くらいすると、また都会に戻ってしまいました。残る人は、先述のいいことのいずれかが、自分にとって優先度の高い価値であるようです。
 そういう事例を参考にするならば、海辺の田舎暮らしに興味がある方は、ためしに賃貸物件でも借りて、1年とか2年くらいの想定で、試し移住してみるのもいいのではないかなあと思ったりします。

 人生は一度きりですし、どんな人生を送るかはひとつしか選べません。ただ、どんな人生を選ぶかは、原則として自由であるはずです。そこでやりたいことをやって生きるか、なんらかの事情やしがらみを踏まえて生きるか、そこは人それぞれなんでしょう。







にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

離島にみる共同体の在り方



 ぼくは離島が好きで、これまで国内外のいろいろな島に行ってきました。
 特に人口が少なくて、便利のいいターミナル的なところから遠い(不便な)、小さな島が好きです。便利のいいターミナル的なところから遠いというのは、たとえば横須賀の猿島とか熱海の初島とか伊豆大島とかは当てはまらないわけです。石垣島も宮古島も当てはまりません。
 そういう人口が少なくて、不便な、小さな離島が好きなのは、外との隔絶感があって、安心感があって、島の人達が優しいからです。
 それで今回はなぜ島の人が優しいのかなあって、日頃考えていることを書いてみます。ぼくが勝手に考えていることで、特に根拠とかないので、さらーっと読み流してくだされば幸甚でございます。益々のご健勝とご多幸をお祈りしております。いえいえそんなめっそうもございません。
 
 離島の人と対比したいのが、たとえば東京の渋谷とか池袋にいる人です。渋谷を歩いていると緊張感があります(ぼくだけっすか?)。基本的に誰がどんな人だか関心がありません。今すれ違った人がどんな人だか記憶にありません。人は速く歩き、前の人を追い越そうとしています。あるいは、明らかに裕福であることがわかる服や車などで、他の人より自分がすごいということを誇示しようとする人もいます。
 一方で人口が500人程度の小笠原諸島の母島を例として見てみましょう。500人の島民は誰がどんな人なのか把握しています。どんな年齢・家族構成・仕事・好き嫌い・性格なんかもだいたい把握しています。だから○○さんをこの2日見なくて心配だから様子を見に行こうなんて感じになります。それから観光客も来ますが、船でしか来ないし、どんな人が来たかだいたい把握しているものです。
 ここで両者の違いは、人数と匿名性です。
 前から感じてたんだけどさー、人って数が多いものは雑に扱って、数が少ないものは大切にするとこってなくない?人も同じで、人が大勢いると、うっとおしいなあって感じてしまって、何日も人に会わない場所で、久しぶりに一人の人と会ったら、やっぱり少し話がしたくなったり、同士とか仲間みたいな気持ちが湧き上がると思うんだよねー。
 というわけで都会で人が多いところだと、人は人を大切にしない傾向があるかもしれないです。逆に島ではみんなで助け合おうとする傾向があるかもしれません。
 あとね、思うんだけど、これはよくいわれていることだけど、自分だとわかるような状態だと人ってちゃんとしようとするよね。ぼくもそうだけど、人が見てるとゴミを捨てたり、ツバを吐いたりしないもんね。でも、渋谷の街中で、自分が誰だかわからない状態だと、ちょっと羽目を外すようなことを少しやっちゃったりして、神様・お父様・お母様ごめんなさいということを心では思いながら、ついやってしまうことってありますね。
 さすがに母島だと誰かが見ているよいうな気がしてあんまりヘンなことしないから、で、みんながちゃんとしようとするから、島全体の秩序は保たれているというわけではないでしょうか?
 というわけで、匿名な状態だと秩序は乱れ、誰が何をやっているかわかる状態だと、秩序は維持されやすいということがいえるかもしれません。
 そしてこの文脈の延長上に匿名性がない、人口の少ない共同体が助け合うために町内会があり、青年団があり、職業組合があり、祭りがあったりするのでしょう。
 離島が安心感があって、島の人が優しくて、トータルで暮らしやすかったり、居心地が良かったりするのは、そういう共同体の在り方が関係しているんじゃないかなあと、ぼくは以前から考えていたのでした。
 ここから今回は話が一般的な方向に展開していくのですが、すべからく人の共同体というのは少人数で構成した方が、居心地がいいし、その単位を維持するコストが少なくて済むんではないかというのがぼくの考えです。隣組の発想に近くてイヤな感じをもたれる方もいらっしゃるかもしれませんが、独居老人の孤独死とか若者の引きこもりなんていうのは、おそらく都市化した共同体に見られる現象ではないでしょうか?
 過度の共同体による個人の束縛はイヤなものですが、適度だったらいいのではないかというのがぼくの現時点での思いです。
 といいつつ今度はぼく個人のリアルな体験に話が戻るんですが、そういえばぼくは思春期の頃は、町内会の集まりとか祭りとかが好きでない時期がありました。正確にいうと子供の頃はそういう集まりが楽しい時期があって、思春期の頃はそういう集まりがうっとおしくて、オジサンになるとまたそういう集まりが楽しくなってきたのです。
 それはおそらく思春期の頃が、いろいろと多感で不安定であるのと、構成員の立派な一員となるべく共同体からいろいろと目に見えない圧力を受けるのがイヤだったんじゃないかと思います。そしてオジサンになると、今度は自分が社会を維持する責任を担わなければならないので、そういう共同体を好ましく思うようになったのではないかと、自分で自分の気持ちの変化を分析してみたりするのでした。
 すごく大まかにいって、若者が都会や都会的な暮らしに憧れ、ある程度歳をとると田舎暮らしをしてみたくなる人が増えるのも、そういった成長によって、自分が社会に果たす役割とか地位などと関係しているのかもしれません。
 話がだいぶ右往左往してますが、離島というのは、そうした共同体の在り方がすごく先鋭的に現れるような気がするんです。
 離島を旅していると、その共同体を維持する選択肢はいろいろあることを見ることができます。まず、他の地域からの移住者を積極的に受け入れる島(仮にAタイプとしましょう)と、他の地域からの移住者を受け入れない島(Bタイプ)があります。
 Aタイプの中に、移住者を積極的に受け入れて都市的な匿名性社会になっていく島(仮に1タイプとしましょう)があり、一方で、移住者を積極的に受け入れつつ共同体の儀礼を厳格に課す島(2タイプ)もあります。
 Bタイプの島はその選択の結果として、若い世代がその島に定着し、子孫を増やさないと、島の人口が減ってやがて無人島になってしまうところもあります。日本全体に少子高齢化している昨今では、移住者の受け入れをしない島は、人口減少に直面し、限界集落となっていくパターンが多いのです。ただ、想像するにBタイプの島で暮らすと、島の人口が増える方向にいくにしろ、限界集落の方向にいくにしろ、その共同体を維持するための責任や束縛がすごく重そうで、ちょっと暮らしにくいかもしれないなあなんて思ったりします。
 これも想像ですが、人口が極端に少なくなると、共同体を維持するために一人が担わなければならない役割や仕事が多くなるので、快適な人口構成の下限というのはありそうです。ぼくが訪れた島の様子からいって、ざっくりいって3000人程度が下限ではないかなあと思います。そして匿名性が生じてしまうのは、たぶん10000人程度からではないでしょうか。
 なので、ぼくが島に移住するのであれば、Aの1タイプで、人口が3000人に近い島を選ぶか、Aの2タイプで10000人に近い島を選ぶことでしょう。ぼくの好みとしては前者を選びたい気がします。
 おお、長々といろいろ書いてきましたが、一応結論らしいものが出て、よかったよかった。ではではみなさんまた来週。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 海辺の暮らしへ
ランキングに参加しています。クリックお願いします!




拍手[1回]

最新記事

(07/06)
(07/05)
(06/29)
(06/28)
(06/22)
(06/21)
(06/15)
(06/14)
(06/08)
(06/07)
(06/01)
(05/31)
(05/25)
(05/24)
(05/18)
(05/17)
(05/11)
(05/10)
(05/04)
(05/03)
(04/27)
(04/26)
(04/20)
(04/19)
(04/13)

ブログ内検索

PR

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4
7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

最新コメント

PR

google

最新トラックバック

RSS

follow us in feedly

アクセス解析