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ハイビスカスやブーゲンビリアみたいな雰囲気がいいですね



 なんてことないんですが、沖縄とか八丈島とかを訪れて、そこらへんにハイビスカスとかブーゲンビリアが咲いていると「あぁ南の方に来たんだなあ。うれしいなあ」と思っちゃいます。
 子供の頃、憧れていた南の島のリゾートのイメージそのまま…
 なぜかなー。ぼくにはずっと南への憧れがあるような…
 ハイビスカスもブーゲンビリアも鮮やかな明るい色。この派手なわかりやすさがさらに南国感を出しています。
 他にもレモンとかパイナップルとかケンチャやしとかサトウキビとか、南国っぽい植物は多いんですが、彩りが明るいという点では、ハイビスカスもブーゲンビリアが目を惹きます。
 侘び寂び、ではなく、オープンで直射日光当たりまくりな感じが、ぼくは好きなんでしょう。
 そういえば、ぼくは思春期の頃から体育会系。同級生で文学とか映画とか音楽とか好きなヤツとかいて、なんかこだわったり、少し病弱だったりしつつも自分の世界をアピールしてたりするのが好きじゃありませんでした。
 あくまで強く、明るく、裏表なく、元気いっぱい。
 ぼくの生き方のイメージとハイビスカス・ブーゲンビリアのイメージはとても近いのでした。
 これからもそんな風に生きていきたいなあと思います。







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伊豆諸島の地物の食材はいいなあー



 八丈や三宅にお邪魔することがあります。

 スキューバーダイビングをすることが多いんですが、美しい海、島という適度な閉鎖感、山や森の独特な植生、南国っぽい雰囲気、などなども併せて楽しんでいます。

 もうひとつ楽しみなのが、その宿のご飯です。もう10年以上同じ宿に通っているので、その季節ごとにいろいろおいしいメニューを出してくれます。

 宿の人に教わって知った食材もあります。
 島オクラ、明日葉、島らっきょう、細筍、芋餅、くさや、アカモク…

 だいたい宿の畑で採れたものだったり、漁港であがったばかりのものだったりするので、新鮮でおいしいんです。

 初めて食べたときにびっくりしたのは、島オクラです。すごくでかくて、味が濃くて、それまで食べてたオクラと全然違っていました。土や水や陽射しが違うから味も違うんでしょう。

 そういう食材を食べると、ぼくは気のせいか体調がいいようなのです。

 ぼくは体質的に海辺で暮らすのが合ってるみたいですね。









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都会生活の海、田舎暮らしの海



 以前、東京湾沿岸の町に住んでいたことがありました。
 職場にある程度近くて、できる限り海のそばで暮らしたい思いとの妥協案でした。
 自分は「湾」とか「港」というのは好きではないんだな、とそのときはっきりわかりました。
 コンクリートで固められて、機械類があって、たいてい埋立地でノペーとした平面的な土地で、碁盤の目のように太い道が通っていて、そういう人工的な環境に馴染めませんでした。
 先日、東京湾岸のタワーマンションに住む友人の家に招かれて、以前の自分のストレスフルな気持ちを思いだしたのでした。
 それでぼくは「湾」とか「港」ではない相模湾沿岸の土地に引っ越しました。そこは比較的自然が残っていて、田舎の海辺の漁村の雰囲気が残っているところで、ぼくはそこの土地は気に入ったのです。
 都会での仕事を終えて、自宅に帰ってきて自然を眺めるとホッとするからでしょう。
 同じ海でもずいぶん違うんですよね。
 よく行く八丈や三宅から船で帰ってくるとき、房総半島や三浦半島が見えてきて、やがて東京湾に入るわけですが、それまでの紺碧の海から黒く濁った海に変わります。そして沿岸の風景はコンクリートで固められたグレーになります。
 楽しい旅行から帰ってきて、明日から仕事ということと、東京湾の薄暗い風景があいまって、なんとかく下向きな気分になるのです。
 でも、自分も首都圏に生活する身として、東京湾の港に陸揚げされる物資を消費し、コンビナートで作られた素材でできた製品を使い、電気やガスの恩恵を受けて暮らしているわけなので、東京湾が汚くて暗いと一方的に非難するのもどうかな、と思ったりします。
 ぼくなどは、海を汚して得た快適な現代生活と、住む場所は比較的自然が残された海という両方のいいところを利用させてもらっているわけで、ある意味、いいとこ取りをしているともいえます。
 人が暮らすうえで現実的に工業化が必要なのだとしたら、そうした設備が集積する場所と、人が暮らしやすい場所は分けた方がいいかもしれないと思ったりするのです。
 たとえばですが、東京湾のあるエリアには港や工場群が集積していて、それ以外の場所は自然を残し住居として快適な街造りをするというようにしたらどうでしょう。
 今の東京湾は千葉から神奈川までほとんど工業地帯になっていて、あまりにも暮らしにくいと思うのですが…
 それは太平洋ベルト地帯全般にいえることですが、たとえば静岡県なんて、太平洋に面している沿岸の距離は長いわけですが、工業エリアと自然保護エリアと分けたら、ずいぶん魅力的な海辺に変わると思います。
 高度成長期に工業化を進めたことは日本にとって大切なことだったのでしょうが、時代が変わって、人々が工業地帯が続く風景を味気ないものと感じ、もっと自然を大切にしたいという機運が強くなっている時代に、街造りはついていっていないような気がするのです。






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伊豆でおいしいオサカナを食べたくなるワタクシ



 自分でもよくわからないんですが、伊豆が好きで月に何度か行きます。
 たぶん大学生の頃からスキューバーダイビングで、毎週のように伊豆に行っていて、それが今まで続いてきたんだと思います。
 だから伊豆に行かないと、あの風景を見ないとなんとなく寂しくて、そろそろ行こうかーという感じになります。
 ぼくにとっては大学生の頃からおじさんになる今まで伊豆通いが習慣になっているんです。

 で、伊豆に行くと海遊びとセットなのが、温泉と地物の魚を楽しむこと。
 そう、伊豆の温泉は肩こりのぼくにはとても合っているみたいです。
 そして、おいしい地先の魚を食べると身体が喜びます。
 なんかそういうことってありませんか? おいしい魚が食べたいなあという時…ぼくはけっこうあります。
 煮物も焼き物もいいんですが、やっぱり刺し身が好き。
 だからおいしい刺身が出る店はけっこうチェックしてます。

 値段も手頃でおいしいなあと思うのは、西伊豆弓ヶ浜のそばの「信」と伊豆高原の回転寿司の「魚磯」。おいしい魚が食べたいときは、とりあえずどちらかに行きます。
 以前は魚磯の向かいの海女屋に行ってましたが、ある頃から魚磯に行くようになりました。

 海で遊んで、太陽を浴びて、温泉を浴びて、海の恵みをいただくことで、ぼくはエネルギーを補充しているような感じがします。






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もっとノンビリ暮らそう



 ぼくは幼い頃から、ボーッとしていて、マイペースな劣等生タイプです。
 なので、周りを仕切ったり、オラオラという感じでお山の大将のように振る舞わないと気が済まないという生き方とは無縁でした。
 それから、優等生でバリバリガリガリ勉強も運動もできます、仕事もすごくできます、切れ者です、というような生き方とも無縁でした。
 あと、アメリカと中国とロシアのパワーバランスが崩れると、原油価格が不安定になるため、我が国のエネルギー安全保障のためになんちゃらかんちゃらというような、世界とか国という抽象的なものに対して議論したり考えたりすることとも無縁でした。
 そういう人が周囲にいても、まあそういう人はそういう人なんだな、ぼくはそういうふうにはできないので、おにぎりください、という感じで生きてきたのです。
 そういうタイプだから、海辺の田舎暮らしが性に合っているんでしょう。
 ぼくはノンビリ・マイペースで、あぁ今日の海はいいなあとか、庭のブルーベリーが実をつけたなあ、などとつぶやきつつ、自分の身の回りのことだけ考えて、とりあえず今日一日が楽しければいいやあ、なんて感じで生きてきたし、これからもそんな感じで生きていきたいと思っているのです。
 これはぼくの欠点でもあり、長所でもあります。でもそういう風にしか生きられないんだからしょーがありません。
 自分のペースを乱さず、ノンビリ、ゆっくり過ごす暮らしを大切にしたいのです。
 いえいえ、もしかしたらぼくはまだまだ急いで暮らしているかもしれません。もっとノンビリするために改善できることがあるかもしれません。
 もう少し歩くスピードを遅くしたり、何時間も窓の外の海を眺めていたり、「あぁ気がつくと夕方だ、晩ご飯の支度しなきゃ」なんていいつつビールを飲んで寝ちゃう、みたいな暮らしにしなければいけない、人は日々目標を持って生きなければいけないのだ、と本田宗一郎さんやドラッカーさんも言っていたような気がするのですが、まあそれはおいといて、今日は昨日よりもノンビリ暮らしたいと思っているのです。




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過疎化とコンパクトシティと海辺の田舎暮らし



 田舎暮らしに憧れているぼくです。人が多いところが苦手です。
 コンパクトシティという発想がありますね。
 コンパクトシティって、ドーナツ化現象による弊害への対処のため、都市中心部に職住を集めて活性化しようということだと思います。
 日本では地方都市でシャッター通りのような象徴的な現象が起きていますが、高齢化する社会、行政の赤字が問題となる社会では、コンパクトシティというのはその解決方法として有効だといわれています。
 高度成長期の日本のように人が多くて、過密な人口集中が問題となっている時代ならいざしらず、現代のように人口が少なく、高齢化し、過疎化する地域が多く、限界集落が社会問題になる時代では、人はできる限り集まって暮らして、行政サービスやインフラ整備を効率的に行った方がいいというのは、まあ正論なのでしょう。
 電気や水道を引くのだって、5世帯しかいない地域に引くのと、100世帯がまとまって住んでいる地域に引くのとではコストパフォーマンスが違いますもんね。そういうインフラってメンテが重要ですから、メンテ費用についてもコストパフォーマンスという視点を忘れてはいけません。
 なんか概念的な話題を書いてしまって、お尻のあたりが痒くなっちゃうんですが、ぼくのように田舎に住みたい人間にとっては、コンパクトシティというのはあんまり推奨して欲しくないわけです。
 どちらかというと行政サービスとか医療とかは整備しないで、どんどん削減していただいて、ヨボヨボの老人になったときには都市部に引っ越すし、大病したときだけ病院の近くに住もうかと思っています。
 インフラも、自家発電・プロパンガス・井戸水・雨水利用・浄化槽で、●●電力とか××ガスのお世話にならないように生きていきたいと考えているのです。できれば自分で漁をして、家庭菜園をやって食べ物も自給できたらなあと思っています。
 だいたい日本ではお役所とか大企業は、やらなくてもいいのに自組織の保全のために仕事を作るところがあって、そして組織の階層も多層に及んでいて、こうした組織のお世話になると結果として割高な支払いをしなければいけないのです。農協も医師会も銀行も、日本を支えている多くの業種で非効率が起きていて、それを効率化して欲しいという市民の意見が反映されないため、社会全体が非効率・高コストになっています。また、そうした産業に就いている人も消費者・生活者であるわけで、その人達は自分の仕事の安定性を考えるでしょうから、進んで非効率を解消しようとはしないでしょう。
 過去に行政改革とか規制緩和とかの取組みがありましたが、効果が上がっていない経緯を見てきたぼくとしては、そういう日本の体質には期待していません。
 それよりも数戸単位で田舎に住んで、自給自足ができる環境配慮型の持続可能な小規模コミュニティを作って、さまざまな政治的意思決定や議会代表者の選出はそうした単位でやってしまったらいいんじゃないかと思うんです。
 そして全体に権限委譲して、中央政府は小さく、県はなくして、今の市区町村が行政単位でいいんじゃないでしょうか。
 なんて実現性のないことをいっていますが、ぼくとしては顔の見えるコミュニティで持続可能な生活を送りたい、そういう選択肢を持つ自由が欲しいということです。望んでもないのに、電気やガスや光ファイバーを選択肢のない会社から買いたくない、のです。ぼくは関東圏に住んでいて電気は選択肢もなく○○電力ですが、原発の件やこれまで様々な横暴な権勢をふるっていたのを見ていて、その会社から電気を買いたくないということは、将来もしかしたら考えるかもしれません。
 きれいでいつでも泳げる海、そこから獲れる海の幸、そうした豊かな自然が将来いつまでも保てるといいなあと思います。また、高齢化・人口減社会であるからこそ無駄のない、必要なところに必要なお金が配分される社会であったらいいなあと思います。そしてそのためにぼくはやれることがいろいろあるんだと思います。





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海遊びの危険とかリスクについて思うこと…



 海遊び、最近はスキューバーダイビングとシーカヤックをすることが多いです。
 ぼくにとって海遊びのおもしろさは、自分ではどうしようもない状況の中で、なんとかする、どうにか生き延びることにあります。そしてその状況は刻々と変わります。
 そうしたことを観察し、判断し、対応する、そしてその結果無事帰ってくることができる、そのことが自分自身の判断や行動の正しさの証明になります。
 たとえば海況が急に変化して荒れそうなときがあります。経験的にはこうした海況がすぐに好転する可能性は低いことがわかっているんです。でも目の前の状況は、まだそれほど深刻にはなっていません。そんなとき、まだ大丈夫じゃないか、まだまだ行けるんじゃないか、今その判断をするのは性急なんじゃないかと迷ったりすることがあります。でも、もし海況がさらに悪くなるとしたら、今がその判断のとき…
 そんな状況では、自分との闘いです。判断のミスは自分の命に関わってくるのです。そういうシビアさがとわかりやすさがぼくは好きなんだと思います。
 これが組織の場合、誰の力がどう働いてどんな結果が出たのかわかりにくい状況が多いと思うんですが、それに比べて、全部自分の判断、自分の力、自分の責任です。
 友人にそのことを話してもたいてい「わかんない」といいます。海好きな友人に話せばわかってもらえます。登山好きな友人に話してもわかってもらえます。そのあたりのことがわかるかどうかは、ぼくが人を見るときのひとつの尺度になっています。
「わかんない」という人は、なぜわざわざ自分から進んで危険があるとわかっているところへ出ていくのかわからないといいます。別にそんなことしなくても、砂浜で遊んでいればいいし、海の見えるレストランでおいしいものを食べてもいいし、映画を見てもいいし、ショッピングをしてもいいじゃないかと…わざわざ危ないとわかっていることをするなと…
 確かにね。ごもっともですね。
 それに対するぼくの考えは、こうです。
 まず、海遊びの楽しさというのはやってみるとわかるものです。そしてスキューバーダイビングやシーカヤックをはじめとする海遊びの楽しさは、その危険を見込んでも十分やるに値します。
 それから、すべてを自分で判断し行動し結果が出るという全体をコントロールしている実感は、なかなか日常生活にはないんです。それを体験することが、自分を取り戻すいい機会になっています。それは誰かが与えてくれる娯楽では味わえません。
 最後に、ぼくからすれば、暮らしの中で危険がないことなんてないと思えます。車でドライブするのも交通事故の可能性がありますし、事故の確率でいえば、スキューバーダイビングで死ぬのと車の運転で自分や誰かを死なせる確率は、たぶん後者の方が高いんではないかと思います。人々はリスクがあるからといって車の運転をやめたりはしません。
 それから映画を見るのも、ショッピングをするのも、火事や地震やテロや流行の病気への感染や頭のおかしな人いきなり襲われるといったような危険があります。それは確率が低そうですが、自分が何かをコントロールしようとしていない分、ぼくにとっては怖いです。不意打ちされるような怖さがあります。極端な例を出すと、ぼくにとっては荒れた海に出るよりも、池袋の町を歩く方が怖いです。
 だいたい安全で安定した人生なんて、どこにも存在しないでしょう。
 なんだかめんどくさい話になってしまいました。そんな文章にお付き合いくださってありがとうございます。 



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海辺のひなびた喫茶店が好きですが、何か?



 ぼくの大好物に海辺の定食屋とひなびた喫茶店があります。
 これらを見ると立ち寄らずにはいられません。
 特にひなびた喫茶店(カフェではなく)は大好きで、地元はもちろん旅先でも見かけると入ってしまいます。
 たいてい偏屈そうなオジイサンとかオジサンがマスターで、無愛想で、めんどくさそうに注文をとりにきます。
 黄ばんだ壁紙や雑然としたインテリアやクッションがへたったソファなんかがあったりすると、ぼくはすごく居心地がいいのです。
 地元にもそういう店で行きつけの店が2軒ほどあります。
 最近は小洒落たカフェとか、わざと昭和感をだしたカフェとかがありますが、そういうところだとなんとなく落ち着きません。
 そんな喫茶店のソファに座って、海を眺めながら、気だるい午後を過ごすのって、なんだかとても安らぐんですが、そういうのって共感してもらえないんですよね。別にいいけど…



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「どうでもいいや」と「なんとかなるさ」



 ぼくは人からよく「おおらかだね」といわれます。あるときはもっと率直に「大雑把だね」といわれることもあります。
 そうなんです。自分でもそう思います。
 たいていのことはどうでもいいよなあと考えてしまいます。
「今日一日楽しけりゃ、あとはどうでもいいや、なんとかなるさ」という感じで日々生きているのです。
 そういうタイプだからこそ、海辺の暮らしに安らぎを感じるのかもしれません。

 一応ぼくにも考えがありまして、それは「こだわりだすとキリがない」というものです。
 考えといってもとても単純なことなのでした。
 人って、食べることに困らず、文化的な暮らしをして、時間があれば、自分の興味のあることにどんどんこだわっていこうとします。持っているリソースをすべて使えるまで使ってしまうと思うんじゃないかなって思うんです。
 そのことを実感するのが不便な土地への旅行です。ぼくは海辺の旅が好きで、それも辺境の土地が好きだったりします。
 日本で暮らしていて、たまたま暇だったりすると、ハブラシはサンスターで、歯磨きペーストは花王で、一日2回はサプリを飲んで、腕時計はG-shockで、靴はなんとかのブランド、パソコンはmac bookじゃなきゃだめ、みたいなことをやっているわけですが、水も電気も十分でない土地に行くととりあえず食べるものがあって、暑さ寒さがしのげればいいという状態なわけですよね。でも、それでも1週間もすればそうした生活に慣れて「自分って、思ったよりどこでも生活していける人間だったんだ」と気づかされて、そういう暮らしが妙に心地よかったりします。
 それからぼくの海好きで、ウォータースポーツ好きなのもこうした考えに影響しているかもしれません。
 なにせ海遊びは、ちょっと間違ったら死にますから…
 ただ重要なことをキチンとして、あとの生き死にと関係ないことはこだわらないというのが、海遊びを安全に楽しむために大切なことです。
 こうした考えを支えているのは、人は生きていればいい、あとはどうでもいいという姿勢です。そしてそれとセットの考えは、生きるくらいならなんとかなるさというものです。「どうでもいいや」と「なんとかなるさ」がぼくの2大骨太方針です。
 ぼくはこれをけっこう本気で考えています。一日に1回というのは大げさにしても、ことあるごとにそう考えます。「どうでもいいや」と「なんとかなるさ」と…
 こんなぼくの考え方について批判する人もいます。批判は批判でいいと思います。ぼくは別に気にしてませんから…
 で、そうした批判の要点は「あまりに大雑把すぎる」「なげやりだ」「人は可能限り最善を尽くすべきである」ということです。
 そういう批判をする人の多くはマジメでちゃんとした人です。ちゃんと仕事をし、ちゃんと家族を養い、ちゃんと税金を納め、ギャンブルをせず、趣味もない、ちゃんとちゃんとな人、全日本ちゃんとした人代表みたいな人がそういう批判をします。オリンピックに行けそうな感じです。
 ちゃんと行動し、いっていることが正しいだけに、ぼくとしてはなんともいえません。そして批判する人が自分は正しいと何の疑いもなく考えているのが、少しシャクに障ります。
 マジメな人だけにけっこう向きになって批判してくるわけですが、大雑把なぼくには、なぜ他人のことにそこまでマジメに怒るのかよくわかりませんし、ぼくとしては面倒くさいので、ハイハイすみませんって聞いてます。
 ぼくが学生の頃付き合った彼女がまさにそういう人でした。
 とてもマジメでキチンとした人でした。なのでぼくの大雑把な、こだわりのない態度が「なげやり」に見えたようです。そして許せなかったようです。
 ぼくとしては、ぼくのことを許せないほどに真剣に思ってくださってありがたい限りなんですが、許せなくて、怒らせてしまって、疲れさせてしまい、誠に申し訳ございませんでした、全社で再発防止に努めてまいります…
 人はなかなか自分の考え方の癖から抜け出せないものです。ぼくは相変わらず「どうでもいいや」と「なんとかなるさ」という方針で生きていますし、たぶんこれからも変われないでしょう。誠に遺憾でございます。
 ちなみにオジサンになって、「それがどうした」という方針が加わりました。「どうでもいいや」と「なんとかなるさ」と「それがどうした」の3大方針でふてぶてしいオジサンのできあがりです。





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通勤時間と海辺の暮らしのほど良い関係って…



 テレビで遠距離通勤者の一日みたいなことやる番組がありますね。ぼくはその手の番組を見ると、自分のことと比較して考えちゃいます。
 ぼくも遠距離通勤者だと思うから。
 といっても首都圏で働いている人の通勤事情は時代と共に少しずつ変わっていて、バブルの頃は地価が上がって、遠距離通勤者は増えたんですよね、たしか…その後日本経済の長い停滞期があって、地価がどんどん下がると、わりと都心寄りに家を買う人が増えました。で、また最近、地価が上がっているので、テレビなんかで遠距離通勤の話題などを見かけるようになったんでしょう。
 そこには2つのタイプが見られるワケで、ひとつは本当は都心に住みたいけど価格との折り合いで遠距離通勤をしている人と、住環境などを重視して好んで遠距離通勤している人です。
 この2タイプの違いは、けっこう大切だとぼくは思います。
 投資家でもない限り、一軒家やマンションを買う時期というのは、だいたい自分の家族構成が大きく変わる時期です。よくあるのが結婚して子供ができるあたりで家を買うというパターンかなと思うのです。一生のうちで、必要に迫られて家を買う時期というのがあって、なにも経済状況で買ったり買わなかったりするわけではないのです。なので、バブルのピークの頃がそういう家を買う時期にあたっていた人は、とても気の毒だといえるでしょう。
 ぼくの場合は、マンションが嫌だということと、子供を自然がある場所でノビノビ育てたかったということと、相方の実家から遠くに離れられない事情があったので、遠距離通勤になったのでした。
 遠距離通勤の場合、他人からも訊かれるし、自問自答するのが、毎日往復何時間もかけて移動して、その時間と遠距離に住む価値のバランスの問題です。
 ぼくの場合海が好きで、毎日海を少しでも眺められるなら移動時間は気にならないので、迷うことなく遠距離通勤をしています。後悔もしていません。なんなら海辺に住むために転職してもいいと思います。
 それは、ぼくが大学生の頃からウォータースポーツを続けていて、社会人になってからも毎週金曜日の夜に海に行って、月曜日の朝に海から職場に直行するという暮らしをしていて、週7日のうち3日とか4日とか海にいるなら海辺に住んじゃった方がいいなというくらいの海バカだからです。
 毎日10分でも海を眺めたり、ビーチを散歩したりできると、とてもハッピーなので、長い時間かけて海辺に帰ってきても、ああよかったなあと思えます。
 それから電車で都会から自宅に戻るときに、車窓の風景に緑が増えてきて、車内の乗客の雰囲気も田舎っぽくなってくると、気持ちがフッと楽になる、スイッチがオフになるというのも好きです。
 そんなぼくの例は一般の方の参考にはならないかもしれませんが、だいたいそれくらい何かが好きならば遠距離通勤は苦にならないという目安にはなるかもしれません。
 それが海ではなくて、山だったり高原だったり豊かな自然だったり温泉だったりと、人それぞれ興味の対象は違うかもしれませんが、自分のこだわりを大切にする人が、ぼくと同程度重症?であれば、たぶん遠距離通勤はよい選択だと思います。
 何年も海辺に住んでいると、毎年都会から移住してくる人がいて、定着する人もいるし、また都会に戻る人もいて、その割合は2:8とか3:7くらい。
 周囲を見回して、自分の趣味やこだわりをずっとライフワーク的に続けられる人の割合とだいたい一致しているような気もします。すごく直感的で大雑把ですけど…
 ぼくの超個人的な思い込みですが、世の中の大半の人は自分の「これ」というものがなくて、その時の流行や周囲の人の動きに流されて、日々の選択の意思決定をしているのではないのかなあという気がしています。その割合がだいたい8割とか7割。
 ここに書かれたことに共感した方は、おそらく遠距離通勤しても後悔しないでしょう。もし自分が8割とか7割に入るかもと感じた方は、遠距離通勤はできるなら避けた方がいいんじゃないでしょうか?





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