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波とうねりについて、アレコレ思うこと…



 海で遊んでいるといろいろなことに敏感になるわけで、それはいくらいろいろといっても最近流行のスイーツとか奥渋谷のお店情報とか…ではなくて、風とか波とか雲とかそういうことに敏感になるわけです。
 今回は波について書いてみたいような気がしてきました。できれば日頃感じていることを、ダラダラと先々を考えず行き当たりばったりに書いてみたい、そんな気持ちです。
 サーファーであり、ダイバーであり、シーカヤッカーであり、セイラーであるぼくとしては、これまでの海遊び経験は波とのお付き合いの歴史といっても過言ではないでしょう。海といえば波…といってもいいんじゃないでしょうか。そして波が立つのは風のせいで、波といえば風…といってもいいでしょう。
 ぼくの方で波といい関係を築きたい、穏やかで大人な関係を維持したいと思っても、波の方は気ままです。ときに荒く、ときに穏やかです。そんな気ままな波の様子に合わせて、海遊びをしてきました。
 波というのは、じっくりお付き合いしてみるとなかなかいいヤツでして、ぼくは割りと好きです。
 今のところおおざっぱに波といっていますが、波にはうねりと波があります。気象用語では、波のことを風浪といい、風浪とうねりをまとめて波浪といいます。
 小難しいことは、気象庁のこちらのホームページに詳しいのでご覧くださいませ。いやあ気象庁ってすごいなあ。こういうのを利用して少しは税金の元をとりましょう。
 まず、海に出る前に、波や風や潮汐をチェックするわけですが、波というのは、ぼくの場合次のような感じで判断しているみたいです。
 ↓
  ベタ
   ↓no
   うねり
   ↓yes          ↓no
   高さ・波長がどうか?  波
               ↓
               高さ・波長・波の形・頭がどうか?
 うねりと波の判断はどちらが先でもいいんですが、ぼくの場合うねりの方が遊びの選択肢が増えるので、うねりかどうかの方が大切です。

 うねりがあるときにできるウォータースポーツは、サーフィン、シーカヤック、スキューバーダイビング、SUPが主なものでしょう。一方、波があるときにできるのは、セイリング、ウインドサーフィン、サーフィンという感じでしょうか? 波というよりは風によっているわけです。

 うねりにも大小と波長がありまして、うねりの高さが高いか低いかと波長が長いか短いかによってコンディションが違います。高さが低くて波長が長いとかなりベタに近くなりますし、高さが高くて波長が短いとほとんど波っぽくなります。
 うねりの違いでウォータースポーツのときどういう影響があるかというと、たとえばスキューバーダイビングでいうと、高くて長いうねりでは、水中でユラユラ揺れるようになります。うねりに押されるときにフィンキックをして距離を延ばすというようなコツを知っていると体力を消耗せずダイビングできます。
 他の例では、シーカヤックをやる際に、うねりの高さがわりとあって、波長が長いと、一見それほど荒れていないように見えるんですが、実際は岩や浜に叩きつける波しぶきは結構強かったりして、出航や上陸のとき、あるいは岸近くを漕ぐときは要注意だったりします。
 これはうねりというものが(波もですけど)、水深が浅くなると極端にそのパワーが目に見えるようになるためです。水深が深い海で、高くて波長が長いうねりだと、一見穏やかそうに見えるんですが、水深の浅いところだとかなり高い波になっていて、そういうときにブーマーと呼ばれる現象が表れます。ぼくがシーカヤックをやるときに一番嫌いなヤツです。

 ちなみに漁船のような小さめの船に乗っていると、うねりの強さは変わっていないのに妙に突き上げられるような感じがするときがありますが、それはそのあたりの水深が浅くなっていることが多いのです。
 これは一般に水面下に根(岩礁)があることが多くて、いわゆる隠れ根と呼ばれるヤツです。
 根には、魚がついていることが多いので、釣りのポイントの候補になります。
 うねりの見極めは、こだわると難しいので、その日ウォータースポーツをするかどうか迷ったりして、いっそ高い波で荒れていたら諦めもつくのになあと思うこともしばしばです。
 サーフィンをするときも波とうねりとどちらがいいかといわれれば、多くのサーファーがうねりと答えると思います。波はたいてい風を伴うので、波の頭が潰れたりして乗りにくいのです。ちなみにサーフィンに向いている波というのは、うねりの強さにもよりますし、ビーチの水底の地形にもよります。ビーチの地形によって乗りやすい波になったり、(崩れるのが)速すぎる波になったり、ダンパーといってバシャンと一気に崩れる波になったりします。水底の地形というのは同じポイントでも台風などが来ると変わってしまうことがあるので、サーフィンで気持ちよくいい波に乗ろうとするのはなかなかたいへんなのです。

 ちなみに、ぼくが波を喩えるのにいつも使うんですが、いいうねりというのは、その曲線が、とても美しくて、美しい女性の体のラインのように美しいのです。
 ウォータースポーツをやる友達には「いや、オレ、その喩えよくわかんないけど」って引かれてますけど…
















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変えられない状況で楽しく過ごすぼくの方法



 ずっとウォータースポーツをしてきました。
 サーフィンにしろ、スキューバーダイビングにしろ、セイリングにしろ、海のコンディションが整わないと遊べません。
 一方でベストなコンディションでなくても、うまくやると楽しく遊べます。
 もともとぼくのウォータースポーツ遍歴は、お手軽体験コースみたいなのでサーフィンをやり、その後スキューバーダイビングでCカードをとり、その後自分のボードを買って本格的にサーフィンをするようになり、次にセイリングとシーカヤックをやるようになりました。
 それはスキューバーダイビングができないような波があるときはサーフィンをすればいいし、風が強い海がバシャバシャのときはセイリングをすれば楽しめる…みたいな感じで、その時その時の海のコンディションで楽しめるウォータースポーツをやってきたんです。で、だんだん嗜むウォータースポーツが増えてきたんです。
 そのベースにあるのは、とりあえず海の状況が変えられないから、その時に楽しめることをやればいいや、という考えです。
 さて、ここから話は人生訓っぽくなるんですが、ぼくは仕事で会社で働いて、その時々でなんとなく楽しくやればいいやって考えてるんですけど、そういう考えは、ウォータースポーツの経験から来ているような気がします。
 ご存知のように組織で働くと自分の思うようにならないことばかりです。もちろん頑張れば、ある程度自分の思いを反映することもできますが、それはごくごく一部のことです。他人の考えは変えられないし、組織の方針はトップダウンだし、上司も部下も自分の思うとおりになんてなりません。
 それでいちいち悩んでいてもしょうがないわけで、そんなこと考えるより、その日一日を楽しく過ごした方がいいや、っていうのがぼくの基本方針です。
 短期的にはその状況を楽しみながら、ジワジワと自分のやりたいことをやっていく感じ…それはセイリングで風上に上っていくのに似ています。
 あるいは向かい潮のときは無理せず岩の陰にじっとして、潮が止まったり、追い潮になったときにサッと移動するスキューバーダイビングの状況にも似ています。
"I can't change the direction of the wind, but I can adjust my sails to always reach my destination."という諺がありますが、まさにそんな感じの心持ちをぼくはウォータースポーツで身につけたように気がします。
 それが正しいのかどうかなんてわかりませんが、無理せず楽しくジワジワと自分の行きたい方向に行くという面では、なかなかいい方法だと自分では思っています。
 ままならない状況でも、まあそのとき一番マシなことをやればいいやと思っています。










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海にいるとわりと漠然としたことを考えてしまうワタクシ…



 あー、海は広いな大きいな…
 今日も海や空を眺めながら一日ボーッとしていました(いつもたいていボーッとしてるんだな、ボク…)。
 そういうときに、人の一生ってなんて儚いんだろうと思ってしまいます。
 家のそばの海からは、鎌倉の稲村ヶ崎が遠くに見えますが、それで思い出すのは新田義貞であり源頼朝であり鎌倉幕府でありその後の日本の歴史です(オレってヘンですかね?)。
 ざっくり1000年くらい前には、事実としてここにそうした人々がいて、斬ったり斬られたりをしていたんですもんね。そうした人々の喜びや悲しみは、今はどこにも存在していません。いくら頑張っても、いくらその時代に栄華を極めても、死んでしまえばすべては無かったかのようです。
 ちなみに稲村ヶ崎の岸壁は、崖崩れ防止工事でコンクリートで固められているので、一面白く見えます。なので、ボートなどで海を走っているときの目標にすることが多いんですね。
 話はさらに変わりますけど、会社や組織で上の人に尻尾振って出世する人もいますし、力ずくで他人を押さえ込む人もいます。頭はいいんだけどなんとなく他人から信用されていないとか、人望がないという人もいます。別に出世なんかしたくないんだけど、人柄や能力で大きな責任を担うことを求められる人もいます。得意なこと、長所短所、能力、個性は人それぞれですね。同じ人って一人もいませんもんね。なんとなくその人の持っている器に合わせた役割が来るように思えます。総理大臣とか社長とかやって、すぐ代わっちゃう人がいますけど、それは器じゃないのに役割が来てしまったのかもしれません。
 
 もちろん成長することにより、人はどんどん変わっていけるわけですけど、その人の地みたいなものはありますね。それはやっぱり個性とか器みたいなもんだと思います。その地がもとにあって、志や信念があれば、成長によっていい方向に伸びるということはあるかもしれません。
 一方で、人は多かれ少なかれ競争心やプライドがあります。欲もあるし、他人を妬む心や嫉む心もあります。それが志や信念を邪魔しちゃうというのもよく見かけますね。
 なかなか正しい道を歩むのは難しい感じがします。
 でも、正しかろうと正しくなかろうと人生は人生。すべては100年もすれば、この世に存在せず、誰も憶えてはいないでしょう。
 ぼくは海にいるとよくこういう漠然としたことを考えます。会社とかでは考えないんですけどね。もしかするとそういうところも海のよさかもしれません。









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何はともあれ家ではのんびりしています



 平日は町へ通勤し、土日は海辺の我が家で過ごす日々をおくっています。
 若い頃は町で暮らし、金曜の夜に海に行き、土日に海で遊んで月曜日の朝、仕事に直行するということをやっていましたが、いろいろ考えて海辺に住むことにしました。
 そうすると違ってくることが多々あります。
 毎日海を見られるのがいいですね。
 ぼくのように海遊びが趣味なタイプにとっては海況を目で見られるというのは、たとえ週末しか時間がとれなくても、その週末にどんなウォータースポーツができるのか予定できるだけでもずいぶん違います。週末するのが、サーフィンなのかスキューバーダイビングなのかシーカヤックなのか、だいたい予定が立つのです。
 もちろんサーフィンなんかだったら朝早く起きて1時間くらい乗って仕事に行くこともできます。
 それになにより、毎日少しでも海を眺められて、潮風にあたり、波の音を聞きながら晩酌できるというのは、海好きにとっては最上のことでしょう。
 週末のんびりできるのもいいですね。
 金土日と海に遊びに行く状態は旅行ですけど、今は我が家の暮らしです。何時に起きてもいいし、何かしてもいいし、海を眺めながらボーッとしてもいいといった具合に、旅先のように制約されることがありません。もちろん旅行に出てもいいわけです。行きたい海はたくさんあるので…
 この自由な感じは完全にオフになった気持ちがベースにあるから出てくるのかなあって思うんです。
 金曜日の夜は、シャワーを浴びた後、デッキで海を眺めながら、潮風を浴びながら、波の音を聞きながらビールを飲みます。明日は何をしようかなあなんて思いながら…
 土曜日は5時か6時くらいに起きます。で、海の様子をチェックして今日やることをだいたい決めます。海に出られるか、サーフィンかスキューバーダイビングかシーカヤックかセイリングか…
 朝ごはんを食べて、コーヒーを淹れて、ゆっくりします。
 それから支度をして海に出るのがだいたい8時くらい。夕方までたっぷり遊べます。
 夕方帰ってきたら、後は金曜日の夜と同じです。
 日曜日も同じです。海で遊べれば遊びますし、海に出られなければ家のことをやります。
 とにかく家では海のことを考えていますし、海でどれほど楽しく遊べるかを考えていますし、のんびりしています。慌てず、○○をやらなきゃいけないと思わないようにしています。
 慌てないというと少しニュアンスが違うので、正確に書きます。家では努めて今やっていることに集中するようにしています。コーヒーを淹れているときに掃除のことを考えず、パソコンをやっているときに洗濯物のことは考えないようにしているということです。意識を目の前のことに集中することで、のんびり感はすごく増します。
 逆にいうと、いろいろやらなければいけないと焦って気もそぞろだと、気持ちも疲れるし、一日が終わったところで振り返っても忙しかったけど何をやったか覚えていないということになるんだと、気がつきました。それでそういうの、やめることにしました。少なくとも家では…
 気分が切り替わるのもいいですね。
 会社から我が家までは電車で1時間30分以上かかります。我が家に近づくにつれ、電車の窓の外の景色がビルとネオンばかりだったのが、だんだん低層住宅が多くなり、山々が見えるようになり、なんとなく海の雰囲気が感じられるようになってきます。この電車に乗っている間にぼくの気持ちは、仕事からプライベートに完全に切り替わります。ぼくは電車の中でときどき瞑想をしたりしますから、ぼくにとって電車は移動する機械というよりも気持ちを切り替える機械のような感じです。というかぼくとしては「こっちの楽園の世界にワープ」している感覚です。
 同僚の中には家でも仕事をするとか、メールを処理するとか、仕事のことを考えるという人がいますが、ぼくの場合、電車の中で「こっちの楽園の世界にワープ」してしまったので、仕事のことは考えません。
 その切り替えをスムーズにやるのにちょっとしたコツがありまして、金曜日の夜、会社を出る1時間くらい前に、来週やることの見通しをだいたいつけてしまうんです。月曜日はこれをやって、火曜日はこれをやって、みたいな感じです。そうすることで月曜日に頑張ればいいから今週の仕事はおしまい、シャッターガラガラピシャリと、気持ちが仕事を離れやすくなります。
 海辺の駅に着くと、海こそ見えませんが空気は潮の香りがしますし、風は潮っぽいんです。時間はどことなくゆっくり流れている気がします。すぐにでも短パン・Tシャツ・ビーサンに着替えたくなります。あぁ自分は自由なんだと感じる瞬間です。
 通勤時間の1時間30分以上を無駄と考えるかどうかは、その人の価値観によると思うんですが、海辺で楽しく暮らすことがぼくの人生の目的なので、無駄だとは思っていません。むしろ海辺の家の近くに職を得るにはどうしたらいいかを考えています。
 こんな自分の生活について、自分では満足しています。それをわざわざ世間様に公開する必要があるかということなんですが、ぼくは仕事のために仕事をしている人や、金や世間体や自分のプライドのために仕事をしている人の生き方に賛成していません。はっきりいうと軽蔑しています。サラリーマン向けの自己啓発本にはそういう価値観の著作が多いので、若い人や真に受けやすい人に、そうじゃない人もいるということを知ってもらってもいいんじゃないかと思います。










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もうシットオンでいいんじゃないか…



 この項でいいたいことはシーカヤックはシットオンでいいんじゃないか、今のシットオンならかなり荷物も詰めるし、スピードも出るし、長距離も漕げるし、ということです。
 もう20年くらい前に近所に住む海仲間がシーカヤックを始めました。それを見ていて、ぼくもやろうと思い、シーカヤックを始めたのです。1990年代の中頃のことです。
 その頃はいわゆるシーカヤックに乗っていました。キャビンの中に下半身を入れて、スプレースカートでカバーをするヤツです。この文章ではそれをシーカヤックと表現します。
 で、なんだかんだ紆余曲折を経て、ぼくもだんだん面倒くさがりになって(体力が落ちるといろいろ面倒くさくなるんだなーって、自分が歳をとってよくわかりました)、家の前の海でパドリングするときは、シットオンタイプのシーカヤックに乗ることが多くなったのです。ここではそれをシットオンと表現します。
 シットオンというのは、リゾートによくあるカヤックデッキ部分の上に乗るタイプですね。
 スプレースカートやビルジポンプといった小道具が要らないのと、ぼくは海の上で気になった場所があると、ドボンとスキンダイビングを始めてしまうので、シットオンがシーカヤックよりもはるかに便利なんです。
 ただ、ぼくがシーカヤックを始めた20年前は、シットオンはマリブオーシャンカヤックという製品がメジャーで30kg以上の重さがありました。形状も安定性を重視した横広でした。長距離を漕ぐとかスピードを出すということは想定されていなくて、安定性や耐久性を重視して作られていたんじゃないかと思います。その頃のシットオンは、ちょっとしたお遊びとか釣りを想定して作られていたのです。
 一方、シーカヤックは20kgくらい。形状はさまざまなタイプがありましたが、総じてシットオンよりもスピードが出る形状でした。
 それが、ここ十年くらいで、ハリケーンカヤックスから20kg台のシットオンが発売されました、形状もスピードがある程度出るものです。また、国産メーカーのロックンロールカヤックスからデスペラードというシットオンが発売されました。これも20kg台です。
 このあたりからシットオンのデメリットであった、重いとかスピードが出ないという点はかなり改良されたといえるでしょう。
 そんなシットオンで海に出るうちにぼくはだんだんとシーカヤックに乗らなくなってしまいました。理由は先ほど書いたとおり、ぼくのシュノーケリングしたりするという使い方だとシットオンの方が便利だということと、軽くてスピードも出るようになったので一日程度のパドリングならシットオンでも別に不都合はなくなったということと、いろいろな装備や気を遣うことが少なくなったためです。
 さらにシットオンを乗りたくなる理由があって、シーカヤックだと荒れているときとか、うねりがあって海岸近くを漕ぐときにブーマーにヤラれる可能性があるときは、沈をしないように気を遣います。沈をしてロールで起き上がればいいんですが、予期しないブーマーでヤラれるとき、とっさにロールできるか、ぼくには自身がありません。そうすると沈脱して再乗挺してビルジングするということになります。その面倒くささを考えると、さらにシットオンでいいんじゃないかと思ってしまうんです。
 こうしてみるとシットオンは気室が必ず確保されていて、ビルジングしなくてもいいというのが、何よりもメリットなんだなあと思います。この特徴は荒れた海を漕いでいるとかなりの安心感です。沈しようが何しようがシットオンが浮力になるので、シットオンから離れさえしなければ、万が一のことがあっても溺れ死ぬことはないわけですから…
 で、再乗挺して落ち着いたところで118とかで救難要請すれば、おそらく見つけてもらえるんではないかと思います。PFDだけで浮かんでいるよりはずっと発見されやすいでしょう。
 こういう感覚はぼくがスキューバーダイビングをしていて何度か流されたことがあるからかもしれません。スキューバーダイビングでもBCという浮力体は付けていますが、体ひとつで海を漂う心細さと恐怖感は、今でも夢に見るほどです。
 その点、内部に水が入ってしまうと浮力体としても使えない可能性が高いシーカヤックは、万が一のときのことを考えると不安です。
 少し前は、ちょっと遠出するときはシーカヤックに乗っていましたが、最近は、いろいろ考えるのが面倒くさいて迷わずシットオンを選ぶようになりました。もうぼくの中では、シットオンでいいじゃないかということになっています。












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通販で田舎暮らしはずいぶん便利になりました



 海辺の田舎町に住んでるんですが、ってそのことは何度も書いていますけど、ぼくとしてはもっと田舎に住みたいと思っています。そのときに医者と郵便局とホームセンターは、車でせめて1時間以内の場所にないと困るよなと思っていました。
 そのことをふと口にしたとき、相方の「えっ」という声質が今でも忘れられません。おそらくその「えっ」は「5分とか15分じゃなくて1時間以内かよ!」の「えっ」だと想像するのです。夫婦生活というのは、何十年一緒に居てもなかなか分かり尽くすことのできない深い部分があるものですね。
 そのことは置いといて、医者と郵便局の必要性は多くの方にわかっていただけるんじゃないかと思いますが、ホームセンターには引っかかる方もいるかもしれません。ホームセンターってそんなに必要なの?と…
 ぼくの中には、田舎暮らし→DIY→ホームセンターという理屈がありまして、今住んでいるところでもDIYとホームセンターなしでは、生活が困ることが多いんです。というのも、ぼくは自分でできることはたいてい自分でやってしまいます。たぶん家も、基礎のコンクリート打ちだけ専門業者にやってもらえば、後は自分でできるんかないかと、根拠のない自信を持っています。あえて根拠があるとしたら、人間ができることなら、たぶん自分でもできるはず…という信念です。
 ぼくのような種類の人間にとってホームセンターはないと困るんです。
 ただ最近はAmazonとか楽天などの通販がすごく便利で、たいていのものはネットで手に入ります。北海道と沖縄と島嶼部は送料が高くて大変そうですが、少なくとも郵便局の人かクロネコヤマトさんか佐川急便さんが配達に来てくれる所に住んでいれば、暮らしはなんとかなりそうです。
 しかも最近さらに重宝しているのがMonotaRO(モノタロウ)で、ホームセンターで手に入るDIY用品はもちろん、ホームセンターに置いていないようなプロ仕様の物まで通販で手に入るようになりました。今ではぼくはMonotaROを結構利用していますし、一生あなたに付いていきますので、MonotaROさん、きび団子ください。
 しかししかし、MonotaROを利用しているぼくとして、それでもホームセンターは近くにあって欲しいんです。というのも、DIY関連の物というのは現物を見ないとなんとも判断がつかないことがあるのです。ボルトの大きさとか長さとか材質とか、まあ細かいこというとキリがないのですが、そういうことです。webページに書いてあっても、やっぱりに見ないとわかんないよなあということが多々あります。
 そんなわけで今より田舎に引っ越しても、ホームセンターがどのくらいの距離にあるかは、気にすると思います。間をとって車で30分以内のところにあるといいなあ…






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マジメにやるの、やめよう



 自分でいうのもなんですけど、わりとマジメな性格だったんじゃないかと思うんです。いや、マジメというのとは違うかな…他人に嫌われたくないから、自分の居場所が欲しいから、一応ちゃんとしようとしてきたのかなーって思います。
 で、ご想像がつくと思いますが、そういう性格だと、ときに気を使いすぎたり自分を抑えたりして疲れます。って、自分でいうのもなんですけど…
 ぼくは海が好きで、自然の中にいると心が安まるんですが、それって、この他人に嫌われたくないことから解放されるからかもしれないって、いつの頃からか、そう考えるようになりました。
 もちろん社会の煩わしいルールに従いたくないけど従わなければならない状況から、しばし逃げられるということも、海に出る理由ではあります。
 で、そういうのってよくないんじゃないかと思いたち、他人に好かれようとか、いい人に思われようとしないように心掛けています。
 たまにすごくマイペースで自分のことばかりいう人がいますが、そういう人にあったら爪の垢でもいただきたいくらいにマネするポイントをチェックしています。
 友人にそのことを話すと「お前さあ、頑張る方向まちがってんじゃない?」といわれます。確かに社会の常識的にはそうかもしれませんね。でも、ぼく的には、鈍感で、マイペースで、自分勝手で、マジメじゃなくて、不義理で、頼りにならない、だらしない、ダメな人になりたいんです。もちろん法律には従わなければなりませんけど…
 その方が、自分は楽だし、シアワセです。他人がどうだろうと、自分がよければいいじゃないか…って最近はすごくそう思うんです。
 って、そういう人が増えると他の人は迷惑でしょうねえ。
 それは裏返すと、日本では、法律には書いてない、他人に迷惑をかけない気遣いとかマナーがいっぱいあって、それをちゃんとやる人は「大人」「いい人」「素敵な人」「頼りになる人」っていわれますけど、それをやり過ぎると結構疲れますよね。いやーそこまでやらなくてもいいんじゃないの?法律守るので十分じゃないの?って思うんです。
 ちゃんと毎日働いて、税金も払って、子供も育てて、親の通院にも付き添って、家の前の道も掃き掃除してって、もう十分でしょう…
 ぼくの考えの向いている方向を堕落と呼ぶか、個人の自由を最大化するよい行為だとするかは、多くの社会構成員の思いなのでアレなんですけど、どちらと考えるかで10年もすると社会自体はずいぶん変わってくると思います。









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ありがたい海の幸をいただく



 ときどき特定のものがすごく食べたくなりませんか?
 ぼくの場合は、刺身が食べたくなります。別ないい方をすると生魚。こうやって書くと、なんか残酷な感じ…
 海で遊び、スキューバーダイビングなどで、魚が元気に泳いでいるのを見ると、なんだか刺身が食べたくなるんです。それってすごく悪趣味な気がするんですが…でも、なんだかそうなんです。
 たぶんずっと以前からスキューバーダイビングに行ったら、立ち寄り湯→海鮮居酒屋→宿に戻って宴会というパターンをずっとやっていて、そこでおいしい刺身を堪能したからかもしれません。条件反射的に刺身が食べたくなるのかなあ。
 もうひとつこれもちょっと悪趣味ですが、自分が疲れている時とか元気がない時に、刺身をいただくことで元気をいただくという面があります。ぼくの場合それはかなりの場合、疲れてくると刺身が食べたくなります。特にイカ。特にコウイカとかアオリイカとか…
 本当にイカ一族はじめ魚類一族には申し訳ない思いでいっぱいです。
 いやー本当に…もし宇宙人がいて、その宇宙人の食事のメニューのひとつに人間の刺身とかがあって、ぼくがその刺身として食べられたらすごくいやですから…そういう死に方だけはしたくないです。それと同じことをぼくは魚にやっているわけで…でも、生きるということは所詮自分以外の者を損ないながら自分だけは生き延びるということなんだろうと思います。
 話が逸れましたけど、ぼくの近所に海鮮丼とか刺身定食を1300円くらいで食べられる定食屋があるんですが、そこに行くのも好きです。できるだけ地魚を盛ってくれるし、いろいろな種類の魚を盛り込んでくれる(だいたい10種類くらい)ので飽きないし新たな発見があります。この店で始めて食べた刺身というのも結構あります。1300円という値段は、その内容からすればとてもお得な気がします。
 その店に行って、窓越しに海を眺めながら、魚をいただくというのが、わりと幸せなひとときです。
 そんな幸せも海辺の暮らしならではかもしれません。









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絶海の孤島への憧れ



 絶海の孤島っていう表現がありますね。
 ぼくも海遊びが好きで、海辺の旅をしてきましたから、船で八丈島に行ったり、小笠原に行ったり、沖縄の離島に行ったりしてきました。そうすると、本当に絶海の孤島だなーと思うことがあります。
 たとえば大島のことを絶海の孤島とはいわないと思いますけど、八丈島とか青ヶ島とか孀婦岩くらいだと絶海の孤島感があります。小笠原諸島だと文句なく絶海の孤島ですよね。
 こうした島に船で行くといろいろなことを考えます。
 いったいなぜ人間はこんなところに住むようになったのか?ていうか、鳥もいますけど、この鳥はどこから飛んできたのか?
 ちなみに船が海のど真ん中にあるときでも鳥は飛んでいますから、かなりの距離を飛ぶんだなあ、いやあ頑張ってるねーと思います。
 小さい頃、ジョン万次郎の話を教科書か伝記かテレビかで見た気がするんですが、そのときも人間ってすごいなあと思いました。
 それからポリネシア、ミクロネシア、東南アジア、日本におよぶ人種の分布とそれの渡来経路について読んだことがありますが、もう大昔から人は海上を行き来していたようです。
 現代の巨大な船で、小笠原航路に乗るとき台風に遭ったりすると、かなりヒヤッとしますけど、大昔の人は、まあ双胴船とか丸木舟でよくまあ航海したものだと、その勇気に感服してしまいます。すごいよね。
 ぼくは海が好きで、スキューバーダイビングで何度か流されて、それでも海遊びをやめない海バカですけど、そのぼくが絶海の孤島では、その孤立感や断絶感にときどき不安になるんです。いや小笠原の父島なんて大きな町ですけど、でも、度々離島の旅をしているから知ってますけど、こうした大きな島でも2週間も船が来ないと、物が足りなくなります。そういえば1980年代頃までは離島に行くと水か貴重で、宿に泊まっていてもときどき断水になったり給水制限があったりしました。そういうときには絶海の孤島にいるんだって改めて実感します。
 そしておもしろいなあって思うのは、孤立感や断絶感と共に解放感や自由さも感じるんです。あの感じはなんなんでしょう? でもあの感覚が好きで何度も何度も離島の旅に出てしまいます。













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海という自然・小さなコミュニティ・幸せ…



 海でのんびりするといいですよ、自然の中で過ごすといいですよ、てなことをこのブログでは何度か書いてきました。いつもはバラバラと散発的に書いているので。今回はまとめてみたいと思います。
 ぼくは地方出身で大学から東京に来ました。大学時代に友人でサーフィンをしているヤツがいて、誘われてサーフィンを始めました。当時は小田急で鵠沼に行って波乗りしていました。小田急はJRよりも電車賃が安いですから…
 大学を出ると、東京の会社に就職して、職場に近く、通いやすいところを選んで住んでいました。これはすごくよくあることなんだろうと思います。
 そしてこれもよくあることなんですが、毎日終電くらいまで仕事をして、家で寝て、数時間後にはまた電車にのって会社に行くという生活をしていました。当時は今ほど残業についてもうるさくいわれなくて、まあ、若手として仕事をどんどんして、そうすると周囲から評価されて、また仕事を任されてというサイクルでした。
 昨今のライフワークバランスが尊重されるご時世に時代錯誤なことを書いてしまいますが、仕事というのはハマるとおもしろいものですし、自分なりにいろいろ調べたり工夫したりすると、どんどんおもしろくなります。そういった意味で、ぼくは仕事を遅くまでやるのが苦痛ではありませんでした。こんな感じで20代を過ごしていました。
 その代わり土日は朝から(というか3時とか4時から)家を出て、海に行き、土日まるまる海で遊んで月曜日の朝、自宅に帰ってシャワーを浴びて、スーツに着替えて会社に行くということをやっていました。その頃にはスキューバーダイビングやセイリングもやっていました。自然の中で海遊び仲間とワイワイやるのが楽しかったのです。行くのは、伊豆半島や八丈島や三宅島が多かったですね。
 そして年に何回かは、石垣島や宮古島や沖縄の離島、それから海外にもダイブトリップに出かけていました。
 離島にもはまっていたのです。
 離島好きな方はおわかりになっていただけると思うのですが、島の人というのはノンビリゆったり暮らしていて、金銭的に富裕というわけではないですけど、毎日楽しく過ごしています。そういう暮らし方に接していると自分の東京での生活ってどうなんだろうと考えることがありました。
 土日の海遊びと年に数回のダイブトリップでの自然と近い暮らし…それと比べて東京は人が多くて、ビルが建て込んで、空が小さくて、緑が少なくて…そういう雰囲気に息苦しさを感じるようになったのです。
 年代的にも30代になろうとしていました。結婚もし、そろそろ子供を…ということを考え始めたときに、もう少し自然のあるところ、そしてもちろん海のそばで暮らしたいし、そういうところで子供を育てたいなと本気で考えるようになりました。
 前置きが長くなりましたが、そのときのぼくの心の状態というのは、都会の暮らし×、自然の中での暮らし○となっていたのです。そしてぼくのそういう価値観を構成しているのは、離島など海辺の人達の暮らしぶりを見聞していたのとウォータースポーツでの自然と接する経験からなりたっていました。
~心のゆとり~
 人は忙しくなるとイライラしたり、怒りっぽくなったりします。東京ではたまに電車で男の人同士がもめたりしてますが、それなども忙しさのせいかもしれません。もともと働き盛りの男性というのは闘争心があるものです。それが仕事という社会的な場で発散されるといいんですが、ケンカとかに向かってしまうと犯罪になってしまいます。
 ぼくは、ウォータースポーツで、時に激しく厳しい自然の中で、なんとか生きて陸に帰ってくることを目指して格闘することで、そうした闘争心みたいなものを発散していたんだと思います。
 年に何度か離島に行くのが恒例になっているんですが、1週間も離島で暮らしていると、自分のリズムが変わってくるのがわかります。歩くのがゆっくりになり、呼吸が深く大きくゆっくりになり、ノビノビと胸をはって歩くようになります。空は広く、海は青くで、木々は緑です。
 呼吸する空気も飲む水も食べ物も、島の物です。身体全体が内側から島に馴染むような気がします。
 島の人との会話もノンビリしたやさしいものです。
 今でも強く印象に残っている経験があります。ぼくが東京で暮らしていたとき、先島諸島の多良間島に10日間ほどダイブトリップに行ったことがありました。島の人はたいてい家に鍵をかけません。車のロックもしません。ぼくは滞在中レンタカーを借りていたんですが、当たり前のように車をロックしていました。あるとき宿の駐車場で車の出し入れするときに、ぼくの車を動かさなきゃいけない状況になったらしいのですが、ぼくはそのときダイビングに行っていたのです。それで、宿の人から車にロックしないでくれ、どうせ誰も何も盗らないからといわれたことがあります。
 それってぼくにはけっこう衝撃的な経験で、東京だと近所のコンビニに買い物に行くときも家の鍵はかけてましたから…
 この経験が意味することは、単に鍵をかける手間が少なくてラクということだけではありません。鍵をかけるという行為は、その前提に外敵に自分の財産や暮らしを脅かされるかもしれないという警戒心があります。それがあるとないとでは、いかに自分の気持ちにかかるストレスが違うかということです。多良間島滞在の10日間で、ぼくはこの普段意識しないストレスから解放されてました。長年身体に張りついていた錘が剥がれたような爽やかさを感じたのです。
 おそらく都会での暮らしには、満員電車に乗るとか、スリに遭うとか、何かを盗られるとか、変な人に突然何かされるとか、そういう意識的だったり無意識的だったりするストレスというか緊張感があると思うのです。それが何年も何十年も人の心にあり続ける事って、心に負担をかけるし、価値観にも影響を与えるだろうし、対人関係も変わってくるだろうし、ひいては人生の全体に大きな影響を与えるんじゃないでしょうか?
 ここまで長々とぼくの経験を書きましたが、何がいいたいかというと心のゆとりって大切だということです。で、その心のゆとりって、生活する場の状態によるんだということです。
~自然と接すると人は癒されるのではないか~
 ぼくは今海辺の田舎町で暮らしています。東京で暮らしていて、東京で家族と過ごすのってイヤだな、ここで子育てするのはイヤだなと感じました。それはかなり直感的かつ本能的な感覚でした。相方も同じように感じていたようです。それで、かろうじて通勤できる海辺に引っ越したわけです。引っ越し先を選ぶときもできる限り海や山といった自然がそばにある家を探しました。そんなわけで、家に帰れば、そこは目の前は海で、背後は森です。
 ぼくが大学時代からずっとウォータースポーツをしていたのは先ほど書いたとおりです。社会人になってからは、平日は東京のビルの中で仕事、土日は海で過ごしていました。ぼくにとって土日に海にいる時間はとても大切なものだったのです。すごくありきたりないい方をすると海に接することで癒されていたんだと思います。
 それではあまりにも平板な物言いなので、詳しく書きましょう。
 海にいると、まず服装からして違います。短パン・Tシャツ・ビーサンです。冬は長袖長ズボンをはきますが、足下はビーサンです。これでだいぶリラックスできます。
 肩の力は抜けますし、歩くスピードはゆっくりになります。呼吸も深く大きくゆっくりになります。ぼくは10年ほど前から瞑想をするようにしていますが、海辺にいると短時間で瞑想に入ることができます。
 波の音を聴き、潮風に吹かれ、太陽の光をあび、海の水に浸かる。海が荒れているときは森の中を歩き、鳥の声や木々の葉や枝の擦れる音を聴き、木漏れ日を仰ぎます。こうした時間がぼくにとってはとても大切なのです。そしてこうした時間を過ごすことでぼくは満たされます。
 東京にいたときはアトピーと、軽い喘息と、ときどき眠れない日がありましたが、それも海辺に引っ越してからはすっかりなくなりました。
 ぼくの周りだけかもしれませんが、こうした自然を愛する人はぼくだけでなく、一定数はいるように見えます。
 おそらくある種の人は、自然と接することが好きで、自然の近くで過ごすことで、癒されるのではないでしょうか?
 そしてそうした暮らしをするからこそ、心にもゆとりが生まれるのではないでしょうか?
 
~自然と共に生きることは人間にとって大きな意味があるのではないか~
 自然のそばで暮らすことは癒される面もありますが、他の面もあります。
 自然は時に穏やかですが、時に激しく荒れ狂います。それは地震や火山の噴火や洪水を年に何度か目にするわれわれ日本人には頷けることだと思います。
 そんな自然に対して、人間は技術的な進歩である程度対応できるようになりました。人にとって暮らしやすいようにダムを造り、防波堤を造り、道を通しました。日本で暮らす上で、普段は自然の脅威を感じる場面はほとんどありません。それでも何年かに1度は自然の強大な力を思い知ることになります。
 ぼくの推測ですが、人にとって、自分達の力が及ばないことがたくさんあることを思い知ることで、用心深さや謙虚さや向上心が備わるのではないでしょうか?
 自然が好きで、自然のそばで暮らす人々にとっては、それがなおさら心に大きな影響を与えるのではないでしょうか?
 もうひとつあります。
 日本の都会で暮らしている分には、飢えるとか自分の生命が脅かされるということはほぼありません。でもそれって限られたエリアの限られた状況のことで、普遍的なことではありません。いつ何時自分が死ぬかもしれないとメタな部分で認識することは、おそらく普段の考え方や行動に影響を与えるのではないでしょうか?
 さらにもうひとつ。
 人間はこれまで自然の恩恵を利用しながら、自然の力に対応しながら生存してきました。それは歴史をとおしていえることでしょう。そして人間の力が大きくなるにつれて、人間社会が大きくなり、整備され、システマチックになり、その環境の中で生きることだけを考えるようになってきたのではないかと思います。
 ざっくりした喩えをすると、500年前のAさんと現代のBさんでは、一生のうちで自然と接し、自然のことを考える時間は、だいぶ違うのではないかということです。そして人間社会のシステムが仮に人間性を抑圧する部分があるとすれば(って、ぼくはあると思いますけど…社会というのは強者や多数派の人に合わせてルールを作るので、それに該当しない人は抑圧されると思います…)、現代のBさんはよりその抑圧にさらされる可能性が高くなっているのではないか、というのがぼくの考えです。そして人間の及ぶ範囲が広くなる、つまり手つかずの自然の範囲が狭くなることで、抑圧されている人の逃げて生きる場所も狭くなっているとも考えています。
~小さなコミュニティで暮らすことのメリット~
 最近ネットのショップとかオークションとかSNSとかwebサービスで、その人や店の評価が表示されるようになってきました。評価が高い人や店は信頼できるということになっています。信頼度が高いほど、取引や交渉時のリスクは低くなり、それに伴い、リスク回避のためのコストが低下します。
 その人が信頼できるか、どういう人か、あるいはどういうときにどういう行動をする人かという情報は、共同体として生活する上で重要な情報なのでしょう。
 先ほど、離島では車や家に鍵をかけないというエピソードを書きました。島の中に誰がいて、誰がどういう人かわかっているから、鍵をかけなくてもいいのだと思います。
 そうした心理的な警戒心の不要さが、個人に対しても安心感を与えますし、コミュニティを維持するコストを低下させます。
 たとえば東京の23区のある区のマンションが立ち並ぶエリアで、自分の住むマンションの前に定期的に粗大ごみが不法投棄されていたとします。これは誰が住んでいるかわからず、誰が通りかかるかもわからず、その粗大ごみを不法投棄した人が誰かすぐに特定できないから、そういうことが起きるのでしょう。捨てる人もわからないだろうと思って捨てるわけです。
 で、その不法投棄されたごみはマンションの管理組合が処理するかもしれませんし、区の清掃事務所の人が処理するかもしれません。いずれにせよ、捨てた人以外の誰かが処理費用を負担することになります。
 そういうことが続けば、たぶんマンションには監視カメラをつけたりするでしょうし、区でもどこかに監視カメラをつけるかもしれません。あるいはゴミが捨てられないように柵を作るとか鍵をかけるとかするかもしれません。これって、誰かの不法投棄により手間やコストが増えたことになります。で、そのゴミを捨てる行為を助長しているのは多分に匿名性だったりします。
 おそらく想像ですが、離島ではこういうことは起きないでしょう。
 これはゴミの不法投棄を例に出しましたが、犯罪とか高齢者の孤独死とか児童虐待とかいろいろなことがありますから、23区のある区のコミュニティ維持のコストはたぶん高いはずです。それは結局マンションの維持管理費とか税金とかなんらかの支出で、みんなが負担しなければなりません。
 もうひとつの視点を提示してみたいと思います。
 ぼくは行政機関というのは、というか組織というのは、なにかしら無駄があるものだと思います。ただ、民間企業は存続するために利益を上げなければなりませんから、無駄を排除する動機が組織に組み込まれています。行政機関はその動機がかなり薄いため(夕張市のように破綻することもあるため、ないとはいえません)にどうしても無駄が生じるんだと思います。
 行政機関でも働いている職員は、その人もプライベートは個人であり家庭もある労働者ですから、自身の生計を成り立たせるために、仕事を作らなければならない動機が存在します。こうして往々にして行政機関はその存続が目的化してしまいます。過去に行政改革など無駄を除く努力がされましたが、うまくいきませんでした。それは仕方がないことで、組織に無駄をなくさなければならない動機が存在しないからです。唯一あるのは納税者である住民のチェックですが、これは住民にも百人百様の考え方があり、納税者でもありサービスの受益者でもありますから、何を無駄と考え何を有効かと考えるかについては議論が必要で、簡単にはいきません。そして、住民の数が増えれば増えるほどこの考え方は広がる可能性があるわけです。
 また、行政機関は日本の場合、国・都道府県・市区町村の階層になっていますが、階層が上がるにつれ、住民から離れていきます。それが無駄だとはいえませんが、国際社会で交渉する際に、日本という単位で交渉すれば有利な場合など、国としてまとまるメリットが明確である場合は、国の存在意義が住民から支持されるのでしょうが、国が最初にありきという必然ではありません。いつかどこかの県や市が独立したいといいだしてもおかしくはありません。
 住民から離れれば離れるほど、住民の直接のチェックが働きにくくなりますから無駄が生じる可能性が増えるでしょう。それに行政機関の規模が大きくなればなるほど、無駄が生じる可能性が増えるというのは、組織というのはだいたいそういうものだからです。
 つまり、大きなコミュニティというのは、住民も行政も両方で責任が曖昧になって、コミュニティの維持にコストがかかりやすいんじゃないかとぼくは思うのです。
 極端な例ですが、日本が、小学校ひとつくらいの規模であったら、誰が何をやっていて、どういう人かわかるし、お金が何にいくら使われているかもわかります。生徒会役員(公務員)が何をやっているかもわかります。この規模感って、自分がコミュニティの一員であり、コミュニティを支えなければならない感覚に影響を及ぼすとぼくは思うし、自身が市民である意識って大切だと思うのです。
 次にもう一度、離島のコミュニティに視点を戻してみます。ぼくがこれまで行ったことのある島で、人口が少なかったのは小笠原の母島で約500人。次が父島で2000人。沖縄の多良間島で1300人。八丈島だと10000人で、ちょっと多い感じです。想定しているのはだいたい3000人くらい。それくらいだと先ほど書いたようなイメージのコミュニティです。誰がどんな人で、どこにいて、何をやっているかだいたいわかる感じです。
 何度も書きますが、誰がどれくらい信用できる人で、どういうときにどんなことをするのかわかっているということは大切なことです。
 なので、たとえばいつも酔っぱらうと大声を出す佐藤さんちのおじいちゃんが、大きな声を出していてもみんなはそんなに気にしないでしょう。また、いつも元気で、毎朝散歩を欠かさない木村さんちのおばあちゃんの姿が見えないと、心配するでしょう。きっと誰かが様子を見に行くんじゃないでしょうか。こういうことって細かいですけどコミュニティにおいては重要なことだと思うのです。
 もし先ほど例に出した23区のある区で同じことがおきたら、佐藤さんちのおじいちゃんの場合、警察に通報する人がいるでしょうし、警察官は現場に行くでしょうし、その警察官の人件費はみんなの税金で賄われています。木村さんちのおばあちゃんの場合、民生委員の人が見に行くかもしれません。あるいは誰も気づかず、あるときおばあちゃんが死んでいたというニュースで見るようなことが起きるかもしれません。
 以上は小さなコミュニティのよさです。
 もちろん小さなコミュニティのデメリットもあって、それは水道とか電気とか行政のインフラを3000人のために整備しなければいけないということです。
 どちらもなんらかのコストはかかるわけですが、計算すればどちらが安いかは比べられると思います、たぶん、ぼくはめんどくさいからやりませんけど。
 そしてそれに加えて、暮らす人々の安心感とか暮らしやすさとかストレスというお金に換算しにくいことも含める必要があります。毎朝自分のマンションの前にゴミが不法投棄されているのはストレスだと思いますが、そのストレスがいくらに相当するかはちょっとわかりません。
~暮らし方を見直したらもっと幸せな社会ができるんじゃないか?~
 これまで「心のゆとりの大切さ」「自然のそばにいると人は癒される」「自然と共に生きることで人は何かを学べる」「小さなコミュニティで暮らすことの大切さ」ということを書いてきたのですが、この4つが揃った暮らし方ができる社会って、ぼくの理想です。そして多くの人がもっと幸せになれるんじゃないかとも想像するのです。もちろん好みがあるでしょうけど…
 でも、生まれてある程度の年齢になって自分で自分のことを決められるようになったら、自分に合ったコミュニティを選べばいいと思うのです。もちろん日本国内ではそれはできますけど、でも、なんだかんだいってそんなに自由ではなくて、生まれた場所にとどまったり、あるいは生計を立てるために、都会で暮らさなくてはなりません。年齢と共に自分にあったコミュニティを移っていくのが当たり前のようなったらいいんじゃないかな?って思います。











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