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ぼくの場合、海辺に住むのが大切でした。旅行ではダメなんです。



 ぼくは海辺に移住して30年くらいになります。
 ときどき知り合いから、海辺に住まなくても、旅行とか長期滞在すればいいんじゃない、といわれることがあるんですが、やっぱりぼくは海辺に住むことが大切だと思うのです。その理由を以下に書いてみたいと思います。
 海辺に移住する前は東京の町に住んでいて、毎週末に伊豆や千葉にスキューバダイビングやサーフィンに行っていたのでした。毎週末といっても細かく記せば、金曜日の夜に会社から帰宅すると、すぐに車を海に走らせて、土・日と海辺で泊まって、月曜日の朝、東京に戻ってきてシャワーを浴びて、スーツに着替えて会社に行くというようなことをやっていました。
 よほどの用事がない限り、そんな週末を過ごしていました。やがてなんとなく物足りなさが出てきたのです。端的にいえば、もっと長く海に接していたかったのです。そして海辺に移住しようと思うようになりました。
 海辺に移住すると、毎日海辺から東京の会社に通う生活に変わりました。海辺に住んで何が変わったかというと、以下の4つです。
・ゆるいのんびりした空気感の中で暮らせる。
・いい瞬間はいつ来るかわからない。それを逃すことが少なくなった。
・海遊び仲間達と一緒にいられる。
・土曜日の朝にゆっくりしていられる。日曜日もゆっくり海にいられる。
 それぞれについて説明したいと思います。
・ゆるいのんびりした空気感の中で暮らせる。
 これが一番の変化でした。東京では日々の暮らしが、混雑と、先に先に急ぐ雰囲気と、他者からの防衛とがつきまとっていました。
 それはスーパーでの買い物だったり、郵便局に行くとかだったり、レストランに行くとかだったり、すべての面で、人が多く、たいてい行列ができていて、道は渋滞していました。人は他人よりも先に行こうとしているようでした。いつも何かに急かされているような気がしていたものです。
 市街地に住んでいる人にとっては当たり前かもしれませんが、家や車に鍵をかけなければなりませんし、道行く人に変なことをされないかも気をつけなければなりません。変な人がいたら、距離をとって警戒したりしていました。
 当時ぼくはすでに結婚していたのですが、妻が、住んでいたマンションのエレベーターで見知らぬ男性にしつこく話しかけられて、自分のフロアに着いても降りられないということがありました。オートロックのマンションですが、多くの世帯が入っていたので、誰が住んでいるかわからず、怖い目に遭ったのです。
 また、マンションの同じフロアの家でDVみたいなことがあったみたいで、そこに警察が来たこともありました。うちにもその家の普段の様子について、警察が聞き込みに来ました。
 誰が住んでいるかわからない匿名性って怖いなと思ったものです。
 今住んでいるのは首都圏の海辺ですが、東京の暮らしで起きたことは、ひとつも起きていません。列に並ぶということはほぼありません(年に1回くらいあるかもしれないけど)し、列ができていたとしても譲り合いますし、車で合流するときもすんなり入れてくれます。常にノンビリした空気感に包まれて生活できています。
 鍵をかけるということも、ぼくの家やぼくの知り合いの家では、あまり行われていません。といっても長時間、家を空けるときは鍵をかけます。本当は田舎だからといって油断してはいけないと思うんですが、ほぼ犯罪は起こりえないので、家にいるときに鍵はかけません。車も家に置いてあるときは鍵をかけません。
 家は奥まったところにあって、数軒の家が集落を形成していますが、その一帯に入ってくる人は、その土地がわかっている人だけです。ほとんど宅配便とか新聞配達とか郵便局の人です。それ以外の人が入ってくると、集落の誰かが見ていて、事によると声をかけたりします。
 集落の誰が何をやっているのかというのもなんとなくわかっている(たとえばぼくの家なら、週末は旦那さんが家にいて、サーフィンやらシーカヤックやらスキューバダイビングやらの道楽をやっている、みたいに…)ので、高齢の方だけの家については、みんなが気をつけている雰囲気があります。何日か姿を見ないと家に訪ねていったりします。
 物をもらったりあげたりというのもよくあります。
 以前あったのは、ある家のお父さんが家のエントランスの階段から滑り落ちて、骨折したようで動けないので、それを発見した近所の人が救急車を呼んだというのがありました。ちょうど奥さんなど家族の方が出かけていて一人で庭の手入れをしていたときの出来事だったようです。
 スーパーもドラッグストアも限られているので、レジの人は顔なじみで会話を交わしたりします。
 ぼくには土地のそういう雰囲気が合っているみたいで、ストレスなく過ごせています。
・いい瞬間はいつ来るかわからない。それを逃すことが少なくなった。
 海が好きな人はご存知だと思いますが、海にいると年に何回か(たぶん一桁)、すごく気持ちのいい日があります。天気が良くて、暑すぎず寒すぎず、湿度が低くて、潮風が心地よく吹いていて、空気の透明度が高い日。ウォータースポーツでいうと、サーフィンに適した絶好の波がある日。今日は絶対いい日だというのがあるのです。
 そういう日があると会社に行く前にビーチを散歩したり、サーフィンしたりすることがあります。気持ちのいい日を逃さなくなったのも、海辺に住んでよかったところです。
・海遊び仲間達と一緒にいられる。
 ぼくは近所のビーチで、シーカヤックやサーフィンやスノーケリングをしたりします。よほどの用事がない限り、週末は海に出ています。そうすると、真夏でない限りビーチにいる人というのは多くありませんから、自然にウォータースポーツをする人同士あいさつをするようになります。いつも顔を合わせる近所の人ならなおさらです。なので、ビーチにいると海遊び仲間に会えて、たわいもないことを話したり、最近の海遊び事情について情報交換したり、海遊びが終わった後に飲んだりといったことになります。そういう地元の海遊び人と接していられるのも、海辺に住んでいるからだと思います。
・土曜日の朝にゆっくりしていられる。日曜日もゆっくり海にいられる。
 これは多分に気分的な問題だと思いますが、東京に住んでいるときは、海に行く時は前のめりというか、ガツガツしていたように思うんです。金曜日の夜は、なるべく早く海に行こうとしていましたし、海にいれば、できる限りウォータースポーツをしようとしていました。
 海辺に住んでからは、そこまでガツガツとしなくなったような気がします。たとえば土曜日の朝、ぼくは5時頃起きますが、そこから朝ごはんを食べて、ゆっくりコーヒーを飲んでから、その日の海のコンディションにあったウォータースポーツをします。日曜日も夕方まで海遊びをして、お風呂に入って、晩酌をして寝ます。
 ウォータースポーツを余裕を持って、ゆったり楽しむことができるようになりました。
 以上が、海辺に住んでよかったことです。つくづく思うのは住環境って大切だなということです。それも建物内部だけではなくて、住む町の雰囲気も含めて大切だと思います。








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ぼくが田舎に住みたいわけ



 以前にもやたら書いていますが、ぼくは海好きが昂じて、海辺の田舎町に住んでいます。それだけでなく、島が好きで、年に1回以上は、島に行くようにしています。特に人口が少ない離島が好きです。
 こうしたぼくの好みには、海が好きという要素と人口が少ないという要素があります。
 今回は、なぜ人口が少ないところが好きかということについて書いてみたいと思います。
 人口の多少によって、人は他者への関心やふるまいを変えるんじゃないかというのがぼくの考えです。
 どういうことかというと、たとえば渋谷を歩いているときに、人はいちいちすれ違う人に関心をはらったりしません。よほど奇抜な格好をしているとか挙動不審であれば注意はするでしょうけど。
 でも、人口が数百人という島へ観光に行って、道を歩いていて、向こうから人が歩いてくれば、挨拶くらいはするでしょう。場合によっては立ち話をするかもしれません。
 これと似たようなことを椎名誠さんがエッセイで書いておられたような気がしますが、ぼくも同感です。
 ちなみにぼくの住んでいるあたりは、夏の土日などのピーク時には観光客が結構来ます。地元の人とわかれば挨拶はしますが、観光客には挨拶しません。でも、冬の閑散期には、道ですれ違う人には、地元民、観光客にかかわらず、挨拶はします。
 人が周囲にいる他者の多少で振る舞いを変えるということの理屈はわからないのですが、実際ぼくはそういう体験を何度もしています。
 ざっくりまとめると、人は他者が多いと他者への扱いをぞんざいにするし、少ないと丁寧にします。より協力的に親切になることだってあります。
 これが、ぼくが住む場所や旅先をできる限り人の少ないところにする理由です。人が少ないところにいると、他者との交流が密になり、それがぼくには心地いいのです。

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世の中のことは、たいてい、なんとかなるようです



 海でウォータースポーツ(マリンスポーツ)をしていると、結構危ない目に遭います。もう30年以上ウォータースポーツをしてきましたが、「今度こそ死ぬかな」と思ったことは10回位あります。
 死なずに陸地に戻ってきて、大きく深呼吸したときの喜びと安心感は、ぼくの五感に染みこんでいます。
 世の中にはいろいろなことがあって、いろいろな仕事があって、それぞれみんながそれをやっているから社会は回っているのでしょう。
 ぼくのような、しがないオジサンでも、仕事があって、家族があって、日々雑事が山積しています。大切なこともあるし、大切じゃないこともあります。
 この大切さの基準を大まかに、本当に大切なことだけにできないかな?というのが、ぼくの思いです。
 もう少し詳しく説明させてください。
 あるとき駅の改札口で、駅員さんに文句をいっている年配の男性を見たことがあります。ぼくはSUICAの設定をリセットして欲しかったので、その男性の話が終わるのを待っているときに話の概要が聞こえてきました。かれこれ5分以上は待っていたのです。
 その男性の不満というのは、ホームのアナウンスの音量が大きいというものでした。まあ、確かに音が大きいなと思うことは時々ありますが、それって5分以上のかけて一駅員の担当者(たぶんその人が大きな音でアナウンスしたわけではないと思うのですが…)にいうことなのかな、というのがぼくとしての感想です。
 こうした、(ぼくからすれば)些末なことにクレームをいうパターン自体は、わりとよくあることじゃないかなって思うのです。
 さて、ここでまた話が変わります。
 故人となった政治家がいったと何かで読んだ記憶があるのですが、「この世のことは、この世でなんとかなる」という言葉があります。
 解釈は人によって違ってくるでしょうが、ぼくは政治家という国家の方向を決めたり、国民の安全(命)を左右するような決定をする重責を担う仕事に就いている人が、どんな大きなことがあってもなんとかなるものだ、だから動じるんじゃない、という意味だと解釈しています。
 そう、どんな仕事もそれぞれ大切ですが、その中でも人の命に関わることが大切なのでしょう。
 海で「今度こそ死ぬかな」と思った恐怖感、パニックにならないように自分をコントロールする力、生きて帰ってきて、息ができて、メシが食えて、ビールが飲めたときの喜び。
 それがあればまあいいかなと思ったりします。それ以外はあまり気にせず生きていこうと思ったりします。







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旅先の海辺でスーパーマーケットに行く楽しみ



 みなさんA-COOPってご存知ですか?
 Aコープって書いてあることもあるんですが「えーこーぷ」って読みます。何かというとスーパーマーケットです。
 ぼくが行くような田舎の海辺の町や人口の少ない島でもA-COOPはあるので、昔から馴染んでいて、大好きです。JAがやっているので、品揃えがイオンとかヨーカードーなどのスーパーと少し違っていて、初めてみる商品に出会えたり、A-COOPのPBとか地元の野菜や魚なども並んでいたりして、見ていると楽しくなります。
 ぼくがA-COOPが好きなのは、海への旅へ行く→滞在中の買い出しでA-COOPに行く→楽しいという、よい記憶が定着しているからなのでしょう。

 旅先でゆったり地元のスーパーに行くのって、ぼくは好きです。友達と一緒に海旅をすることが多いんですが、たいてその晩の酒や肴を買いに行くというパターンです。
 ぼくが行くような海辺の町にはコンビニなどなくて、A-COOPしかないというところも結構あります。場所によってはA-COOPすらなくて、よろず何でも売っている商店しかないというところだってあります。
 地元のスーパーや商店へ行って、買い物をしている人がどんな人か、どんな物がどのくらいの値段で売っているかなどを見ながら、買い物をするのって旅の楽しみのひとつです。







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ゆっくり、のんびり、丁寧に、が最近のわが家のテーマになっています



 思えば20代30代40代と仕事で忙しくて、プライベートも子供中心の生活で、日々何かに追われながら暮らしてきたような気がします。土日も遊びの予定をパンパンに詰めて、忙しくしていたような気がします。
 たぶんぼくの性格によるところが大きいと思うんですが、自分で自分を追い立てていたのでしょう。
 最近はもう少し、のんびりと丁寧に日々を過ごしてみたいなあと思うようになりました。
 せっかく海辺に暮らしているんだから、日々の海の様子をよく観察したり、砂浜の散歩を楽しんだり、家の裏山の植物の生長を観察したり、鳥のさえずりに耳を傾けたりしてみようかと思ったりします。
 これまで自分が気がついていないだけで、自分の周囲には、関心を向けさえすれば、興味深い、奥深い世界が広がっていたのでした。
 それらを素通りして、前に進むことばかり考えていたのです。
 日々の食べ物も、できる限り土地の旬のものをおいしく食べるように心掛けています。そうしたことで毎日が楽しく過ごせます。お金を使って贅沢をしなくても楽しく過ごせるんだな、と改めて気づきました。
 毎日をゆっくり、のんびり、丁寧に、が最近のわが家のテーマになっています。

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防水じゃないモノを持たなくなる弊害について



 なんだかんだやっているうちに歳をとってしまい、気がつけばウォータースポーツを始めて30年以上経ってしまいました。
 スキューバダイビング・シーカヤック・サーフィン・セイリングと時間さえあれば海に出ています。
 普段使うもの、時計はもちろん、スマホやカメラもバッグも服も防水のモノを選ぶのが当たり前になっています。ちなみにkindleもpaperwhiteという防水のを使ってお風呂で本を読んでいます。
 そのせいか日常生活の些細な場面で、モノが水に濡れるということを気にしなくなってしまいました。
 手を洗うときとか、風呂に入るときとか、雨のときとか、もちろん海に出るときとか、そういう状況で、持っているモノは濡れても大丈夫だと思ってしまうというか、水に濡れないようにすることを忘れてしまいがちなのです。
 ぼくはipadを使っているんですが、家のデッキでipadで雑誌を読んだり動画を見ながら、コーヒーを飲んだり、ビールを飲んだりしています。潮風に吹かれながら海を眺めながらリラックスできる時間が好きなのです。
 ただ、生来おおざっぱなせいか、ipadをデッキのテーブルに置いたまま、トイレに行ったり、ちょっと他のことをしたりします。
 先日、急に雨が降ってきて、気がついたらデッキのテーブルの上のipadがけっこう濡れてしまって壊れてしまいました。そういえばipadは防水じゃないんですよね。
 いや、頭では理解しているんですが、普段モノを水に濡らさないように気をつけていないので、そういうことが起きてしまうんでしょう。
 これはウォータースポーツをすることの副作用というか弊害といえるかもしれません。






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防波堤でビールを飲む夕べ



 以前からよく書いていることですが、ぼくは海辺に住んでいて、休日ともなれば朝からウォータースポーツをして、夕方帰ってきて風呂に入って、デッキで海を眺めながらビールを飲むというのが、とても好きなんです。平日の仕事で溜まったストレスが解消されてすっきりする感じがします。
 で、次によくやるのが、朝からウォータースポーツをして、夕方帰ってきて風呂に入るまでは同じなんですが、その後、近所の防波堤まで行って、そこでビールを飲むということです。
 身体を動かしたあとに飲むビールはうまいわけですが、潮風を浴びながら飲むビールもうまいものです。
 夏の夕方、昼間の暑さが収まり、西からの潮風が吹いてきて、少し高くなった波が防波堤にぶつかる音が響いてきます。
 陽がだんだん傾いてきて、伊豆の山に近づいていきます。刻々と空の色が、青、オレンジ、紫色、墨色と変わっていきます。それにつれて山の陰の色と海の色もだんだん変わっていきます。よく黄昏の時間をマジックアワーといいますが、本当に不思議な美しさだと思のです。
 そんな中でビールのプルトップをプシュっと開けて、ゴクゴクゴクと飲むビールのうまいこと…
 あぁ、今日もいい一日だったなあ、なんて思いながら過ごすひとときは、小さいけれど確かな幸せの時間です。







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現実逃避としての海



 ぼくは若い頃から海が好きでした。
 広くて、明るくて、楽しくて、自由で、ノビノビゆったりできるところ、それがぼくの海のイメージです。
 ぼくが小さい頃は、若いお姉さん達が、南の島のリゾートに旅行に行くのが流行っていて、CMで流れている珊瑚礁の白い砂と、透明度の高い海と、白亜の豪華なホテルというステレオタイプなイメージが、夢の国のように思えました。
 それが理由かわかりませんが、夢の国・楽園という言葉から、ぼくが連想するのは南の島の海辺です。
 海好きが昂じて、海辺の田舎町に引っ越してしまいました。休みの日には、スキューバダイビング・シーカヤック・サーフィンなどを楽しんでいます。
 そんなぼくですから、ときどき「なぜここまで海が好きなのか」って考えたりします。
 理由は先ほどのように、海が楽しくて居心地がいいからですが、もっと先の理由を考えると、「現実逃避」「人嫌い」という言葉が頭をよぎるのです。
 楽園の話しを先に書きましたが、古来、人は楽園の存在を夢見ていたようです。中国からは桃源郷のイメージが伝わってきましたし、昔話では竜宮城が出てきますし、沖縄ではニライカナイのイメージが共有されていますし、日本の仏教では補陀落渡海が行われていました。
 これらの背後に感じられるのは、海の向こうに(あるいはどこか遠くに)、この場所の辛い暮らしとは違った、とても楽しく暮らせる場所があるのではないか?というメタファーです。
 これって今の辛い暮らしを乗り切るための現実逃避、あるいは気休めなんじゃないのかなあ、とぼくは思うのです。ぼくがそう思うのは、ぼくが海に居たいのは、日々の責任や雑務や人付き合いからしばし開放される場所だからです。ぼくが海を現実逃避の場所としているから、楽園的なイメージをそのように解釈してしまうのかもしれません。
 ぼくは大学生の頃に湘南でサーフィンを始め、東伊豆でスキューバダイビングを始めました。以後、今まで続いています。
 大学卒業後サラリーマンになって、平日に忙しく辛い仕事をこなし、土日は、海でやっと自分らしくいられるという日々を送ってきました。
 やがて結婚し、子供が生まれました。それは幸せなことでありながら、責任を負うことでもあります。人生のそんな時期にも、ときどき1人で海に行くことは、ぼくにとって大切な時間でした。
 ぼくは自分の中で、社会人の大人としての役割を果たす一方で、そこから離れた本来の自分に戻る場所として海を希求していたのです。海にいる時間がなければ、ぼくはどこかで破綻していたんじゃないかと思うのです。ぼくが「海が好き」というときには、自分の存在のバランスを保つためになくてはならないものという意味が含まれています。
 そういう自分らしくなれる趣味や場所や時間みたいなものを、誰でも持っているのかもしれません。
 ちなみにぼくは山本周五郎の『樅ノ木は残った』が好きで何度も読み返してしまいます。主人公の原田は、普段は家老としての務めを果たし、自分の秘めた志を隠して、信頼されるバランスのとれた人を演じます。その原田が、ときどき山小屋に籠もって狩りに没頭するのですが、その2面性に共感してしまいます。
 ここまでの話しには、社会で生きる上での役割を務めなければいけないということと、自分らしさをどこかで実現するという構造があるわけですが、仮にぼくに海という場がなければ、ぼくも楽園を日々夢見ていたかもしれません。あるいは今の解放される場所としての海以上に幸せに居られる場所としての楽園としての海が、もしかしたらあるかもしれない、いつかはそこに行けるかもしれない。そんな風にも思ったりします。








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海水浴に来る方にお願いしたいこと



 今回はあまり書きたくないことなのですが、地元のウォータースポーツ(ぼくはマリンスポーツのことをウォータースポーツというようにしています)をする友人達とよく話題になることなので、ちょっと書いてみようかと思います。
 コロナの状況で例年と違うこともありますが、海水浴に来る観光客の方に対して、一人の海辺に住む地元民・ウォータースポーツをする者としてお願いがあります。
 観光客向けの注意事項は、たいてい海岸入口に掲示してありますし、ライフセーバーが定期的に放送するので、それを見たり聞いたりして守ってください。
 全国どこでもよくある注意事項は…
・適度に休憩・水分をとって熱中症にならないように注意する。
・酒を飲んで海に入らない。
・ゴミは持ち帰る。
・防波堤から飛び込まない。
・子供から目を離さない。
・海水浴エリア内で泳ぐ。
・あまり沖に行かないなど注意して泳ぐ(特に黄色い旗(遊泳注意)の時)。
・夜遅くに花火をしない。
というようなことでしょうか。
 特にぼくがお願いしたいのは、「海水浴エリア内で泳ぐ」ということです。観光客の中には、海水浴エリアを、泳ぎに自信がない、ライフセーバーの監視が必要な人が遊ぶエリアだと勘違いしている人がいます。
 それは誤解です。海水浴エリアは、ウォータースポーツや漁業をする人と海水浴客を分けるためにあります。海岸すべてが海水浴客になると、ウォータースポーツのボードやボートなどや、漁業関係者の船が出入りできないからです。
 ウォータースポーツをしない方はご存知ないかもしれませんが、海の事故で一定数あるのが、サーフィンやSUPやシーカヤックなどがぶつかっての怪我です。サーフボードに触るとわかりますが、あれは結構固いものでして、当たり所が悪いと脳しんとうや失明になったりします。最悪、死んでしまうこともあります。
 ウォータースポーツをする側としては、ぶつからないようにいつも気をつけていますが、波が高いときなどは微妙なコントロールができないこともあります。
 
 海水浴客とウォータースポーツをする人が多い、鎌倉の由比ヶ浜などのエリアでは、細かく海水浴客のエリアとウォータースポーツをする人のエリアが決められているところもありますが、そのルールがあるのは先述の理由のためです。海水浴客にエリアを守ってもらわないと、ウォータースポーツをする側としては、気をつけていても事故を防げないのです。
 ちなみに海辺に住む、ウォータースポーツを嗜む、地元民としての感覚としては、海水浴場ができる7月~8月までは、ちょっとうんざりする時期です。
 それは、今まで自由に全面的に使えていた海岸が、海水浴場の設置で、限られたエリアしか使えなくて不便だということもあります。
 他にも観光客で道が混む、駐車禁止のエリアに路上駐車をして危険、ゴミをポイ捨てしていく片づけをしなければならない、夜遅くまで花火や音楽がうるさいなどと、いつもの自分たちの穏やかな暮らしが邪魔されるからです。
 観光客の立場からすれば、遊びに来てやって、金を落としているんだという気持ちもあるでしょう。自治体としても海水浴の観光客を歓迎しているところもあります。
 ただ、湘南あたり(首都圏に近い住宅地の海辺もたぶん同じ)というのは、環境客向けの商売で生計を立てている人は一部で、東京や横浜などの市街地に働きに行くサラリーマンが多いのです。自治体の税収としても小売店の納税額よりも住民税の方が多いのです。嫌な言い方ですが、海の家やコンビニや駐車場に落としていく数千円の金(人によってはコンビニくらいしか行かない人もいるでしょう)ぐらいで環境客ヅラされて自分たちの生活を乱されたくないと、ぼくは思っています。たぶん、おそらくそう考えている地元民は他にもいるでしょう。
 なので、湘南のような市民構成のエリア(東京近郊の市街化された海はたいてい似たような市民構成だと思いますが)に海水浴に行く場合は、観光客は地元のすべての人に歓迎されているわけではないことを知っていただきたいと思います。歓迎されたいのであれば、観光でもっているような、観光客歓迎のエリア(比較的田舎が多いと思います)に行くといいと気持ちよく遊べると思います。

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海辺はパーソナルスペースが広いから居心地がいい



 パーソナルスペースという言葉がありますね。人が他者との間にとる物理的距離のことをいうようです。ぼくは他人にあまり近くによって欲しくないので、パーソナルスペースが広いタイプなのでしょう。
 ぼくは平日は町に仕事に行って、それ以外は海辺の田舎町で過ごしていますが、都会と田舎だと周囲の人の標準的なパーソナルスペースが違うなと感じます。当たり前ですが、都会の方が人と人との距離が近いと思います。
 というわけで、ぼくとしては町での仕事の際に、ストレスを感じてしまうわけです。というか働くのも好きではないし、町も好きではないので、パーソナルスペースが狭いからストレスというわけではないかもしれません。平日がとにかくストレスフルです。
 とはいえ一方で、電車の中や混雑した市街地の歩道などは、人との距離が近くて嫌だなと感じますし、海辺にいるとそういう嫌な感覚がないので、やっぱり自分にとってパーソナルスペースって大事なんだなと思います。
 ぼくが海辺や海遊びが好きなのは、広々していて人口密度が低いというのも一因かもしれません。







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