海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
桃源郷に憧れますね
桃源郷というのはなんともワクワクする言葉ですね。
ぼくも今度引っ越すときには桃源郷のようなところに引っ越したいと思っています。
ちなみにぼくの桃源郷への思いを高めるために原典を振り返ってみたいと思います。
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陶淵明、桃花源記より
晋の太元のころ、武陵にひとりの漁師がいた。漁師はある日、いつものように
小舟を操り、魚を求めて山峡の川に沿って上がっていった。
どれほど舟を進めたことだろう。ずいぶん遠く、見覚えのないところ
へ出た。と、そこらあたり一面に桃花の林が広がっていた。その広さ
はどうやら数百歩ほどあったろうか。だがそのなかには一本も雑樹は
見当たらず、桃の木ばかりがえもいえぬ甘美な香りを漂わせ、美しい
花片が華やかに舞っていた。
見事な景観に、漁師はしばらく見惚れていたが、やがてその林のもっと
先を突き止めてみたくなった。そこでさらに舟を進めて行くと、水源の
あたりで山に突き当たった。その山には小さな穴が開いていて、
ぼんやりと明るいので、漁師は舟を下りてその入り口から中に入って
いった。初めはやっとひとりの人間が通れるほどの広さが、五、六十歩
も歩くうち、にわかにぱっと四囲が明るく開けた。
眩しい眼を見開いて眺めると、土地は四方に広がり、住居がきちん
と建ち並び、遠近に地味豊かな田畑があり、桑や、竹も育っている。
田のなかの路も縦横に通じ、鶏や犬の鳴き声も聞こえるし、畑仕事の人々や
往来する男女はみな異国人のような装いをし、黄髪の老人も子供たちも
にこやかに楽しそうであった。
ぼんやりと突っ立ている漁師に気付いた人々は見慣れぬ男に驚いて、
どこからやって来たのかと訊ねた。漁師がありのままをつぶさに答え
ると、さっそく彼を一軒の家に案内し、酒をつけ鶏をつぶして馳走をつくり、
大いに歓待するふうであった。やがて漁師のことを伝え聞いた村中の人々が
集まってきて、交々彼に訊ねるのであった。
そして人々の言うのには、
「私どもの祖先が、妻子ともども村の者たちと秦の世の戦乱を逃れて
この絶境に来て以来、一度もここを出ませんので、とうとう他所
の人さまとまったく関わり合いがなくなってしまいました。ところで、
今は一体どういう時世なのですか?」
と、漢のことも知らなければ、もちろん、魏・晋のことも知らない。
漁師が詳しく説明すると、みな感に堪えたように聞いている。
こんなことで、漁師は家から家へと連れて行かれ、酒食を振る舞わ
れては人々に話をするので、四・五日もいてしまった
やっとその村に別れを告げて、元の舟を繋いだ所に出、川沿いに
帰路についた。帰り際に、「私どものことは言うほどのこともありませんから、
他所さまにはお話しにならないでください。」と、言われたものの、
途中所々に目印を残しておいた。
さて家へ辿りついた漁師は、さっそく郡の太守のもとへ行き、
自分の珍しい体験談を話した。太守も大いに興を覚え、人を差し向
けて再びそこへ案内させた。しかし、帰途につけた目印はいくら探し
ても見当たらず、前に行った路を見出すことはできなかった。
たまたま、南陽に劉子驥(りゅうしき)という君子がおり、
この話を伝え聞き、欣然としてその仙境へ行こうとしたが、その志
を果たさぬうちに病で世を去った。こののち再び赴こうとする者は
なかったということである。
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ぼくが好きなのは「その山には小さな穴が開いていて、
ぼんやりと明るいので、漁師は舟を下りてその入り口から中に入って
いった。初めはやっとひとりの人間が通れるほどの広さが、五、六十歩
も歩くうち、にわかにぱっと四囲が明るく開けた。」という件です。
で、その先には平和な村の営みが広がっているというのも堪りません。
ぼくは常々思うんですが、社会って(おぉっ大げさな物言い)心根のいい良識ある知的な人が集まってこそよい社会ができるのではないでしょうか。
それって極端な選民思想に繋がる危険性はあるのですが、われわれが1000人以内の集落に住んでいれば、子供達は集落のみんなで育て、教育をし、集落のすべての人と密な意思疎通をすることで、その共同体は平和に知的に維持できるのではないかと思うのです。
今の世の中はおそらく逆で、様々な生い立ちや立場や宗教観の人が互いに意見を交わし、智恵を絞ることで、これまでになかった新しい良いものが生まれるであろう。それこそが社会を革新するパワーの源泉である、というのが大まかな思想的な枠組みだと思うんですね。ぼくも理念的には理解できます。でも現実はうまくいかない。相互理解不足と無関心と差別と貧富と争いが絶えません。
それはおそらく人が直感的に把握できる日常生活レベルでの集団というのは、多くても100人、適性規模だと20人くらいだと思うんです。それをグローバルだ世界規模だ地球は1つだとかいいだすと、いろいろな問題が表面化してしまうんではないでしょうか。
それでもそうした多様性を受容するグローバルでの人間社会がうまく機能するようになれば、人はもっと平和に楽しく暮らせるようになるかもしれません。
ただ、ぼくはもうオジサンでして、あと20年~30年生きればいいとこでしょう。
だからぼくは限られた人による小さな共同体を作ったほうがいいんじゃないかなーという気がします。
というか小さな把握可能な共同体の方がいいというのは、ぼくのかねてからの持論です。国家とか県とか何百万人なんていう市だと、みんなの共同体への帰属意識が薄くなるから、たぶん1000人以下のみんなが何してるかなんとなく把握できるような規模が共同体としてベストだというのがぼくの持論です。そこでの公務員の役割はみんなが当番制でやると。なので公的セクターを支える税金は少なくて済む。そうした共同体が連邦するような形で国が存在するというのが理想なのではないかと思っています。
どの共同体に属するかは選べるようにするわけで、そうすると競争や富を蓄積するのが好きな人は、そういう共同体に属すればいいですし、ノンビリ過ごしたい人はそういう共同体を選べばいい。エコで自給自足な価値観を大切にする人が集まるとオーストラリアのクリスタル・ウォーターみたいなところを選ぶといいのでしょう。
桃源郷はさながら良識あるノンビリ派の人達の集まりなのかなあと思います。
ぼくだったら、海辺で、みんながノンビリしていて、あくせく働かなくて、ウォータースポーツを楽しんでいるような共同体を選びたいですね。湘南の一画にそんなのできないかなー。
ぼくだったら、海辺で、みんながノンビリしていて、あくせく働かなくて、ウォータースポーツを楽しんでいるような共同体を選びたいですね。湘南の一画にそんなのできないかなー。
あぁいいなあ。そういうの。
桃源郷とかユートピアというのは、歴史的に人の欲求のひとつなのでしょう。
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