海の贈りものを受けとる場所
「海辺で毎日をていねいに大切に暮らしたいな」と思い続けてきました。
海辺の暮らしの中で気づいたこと
海のすばらしさ・楽しさ
ウォータースポーツの楽しさ
などなどをご紹介できたらいいな。
海は心や体を癒してくれる、たぶん…
科学的根拠があるのか?と問われるとわかりませんが、ぼくの実感としては確かにあるんです。
何の話かというと、休みの日に海に行くと気分がスッキリするということです。
たとえば仕事が忙しいとか、いろいろ雑用が重なったとかで「あー疲れた」というときの休みの日ってなんとなくダラダラとテレビを見ちゃったりするんです。でもそういうときこそ、シーカヤックするとかスキューバーダイビングするとか、それが億劫だったら海辺を散歩するようにしています。
疲れているときこそ海に行くと、疲れがとれて気分がスッキリします。経験的にほぼ100%そうなります。
理屈はわかりませんが、たぶんそれと似たようなことはみなさん経験したことがあるのではないでしょうか?ゴルフとかテニスとか旅行とか…
ぼくにとってはそれが海という自然と接することなんです。
気分転換といってしまえば、まあそうなんですが、もう少し自分の中で起きていることを詳しく思い出してみます。
疲れているときというのは、身体が疲れているときと、気持ちが疲れているときがあるような気がします。気持ちが疲れているときというのをさらに詳しく見てみると、忙しい日々が続いているとか、自分のキャパ以上の仕事が来ているとか、先が見通せない仕事であるとか、板挟みに遭うとか、かなり気を遣うことがあるとか、あと仕事以外だと家族の健康のことととか家計のことととか、自分の場合だいたいそんな感じです。
で、身体の疲れと気持ちの疲れだと、2:8くらいじゃないかと思うんです。で、その2つは相互に影響し合っているようです。つまり気持ちが疲れていると身体の疲れを増幅させるし、身体が疲れていると気持ちも上がらないのです。
休みの日に海で遊ぶと気持ちの疲れの部分を一時的に頭から追い出すことができるんです。海にいるときはそれを楽しむことしか考えていませんから、仕事関係のことや家の心配事など気にかかっていることを、意識のほとんどから、一時的にクリアできているようです。
しかも最近特に思うんですが、気持ちの疲れの要因となっているいろいろなことや心配事は、頭にあるだけで、けっこう心身に負担をかけているんじゃないかな?ということです。人を機械にたとえるのもどうかと思うんですけど、パソコンのメモリを不要なことに使っている感じと近いかもしれません。
なのでこのあいだ試しに、海遊びに行く前に、自分が気になっていることをノートに書き出してみました。これは確か心理学的な効果があると巷でいわれているらしい手法です。頭の中にあることをどんどんどんどん書き出していくと、自分の意識していなかったことも出てきて、とてもスッキリするというのを本で読んだ気がします。科学的根拠はどうなのか知りません。
その作業の後海遊びをすると気分がさらにスッキリするんです。海遊びに集中できます。
先ほど身体の疲れと気持ちの疲れは2:8の比率で、その2つは相互に影響し合っていると書きましたが、身体を動かすとさらに気分がスッキリします。これも多くの方が実感したことがあるでしょう。
これもぼくの感覚なのですが、ぼくのような物心ついた頃から運動が好きで、学校でも運動部に入って、授業よりも体育の授業が好きだったという「カラダでっかち」タイプにとっては、たとえ受験とか資格試験のために勉強しなければいけない状況であっても、机にかじりついて勉強だけするというのは、耐えられないし、かえって効率が悪かったりするのです。一日のうちでも身体を動かす時間をとった方が勉強に集中できるんだということを大学受験のときに実感しました。
えーと何の話かというと、なんだか難しい課題を抱えていたり、いいアイデアが出なくて行き詰まっていたり、忙しくて気持ちが疲れていたりするときほど、身体を動かした方がいいというのが経験的なぼくの持論です。そしてそれはぼくの場合、海でウォータースポーツすることが一番いいのです。
次の話として、なぜ自然の中で遊ぶと気分転換できるのかということなんですが、これって理由が難しいなと思うんです。ぼくの場合、海が好きなので海で遊ぶことがいいというのはわかりやすいと思うんです。
でも、そんなに海が好きじゃない人でもたまに海に来ると、大はしゃぎしてテンションが上がったりするのをよく目にします。
海という存在に魅力があるんだといえば、まあそうなのかもしれません。
あるいは人間というのは自然の中で癒されるのかもしれません。
参考になるかわかりませんが、ぼくが海が好きな理由をまとめてみます。
①広いし、開けている。
②自由である。
③人口密度が低い。
④危険と隣り合わせで、死なないために頼りになるのは自分だけだ。
⑤一度として同じ状況がない。
⑥ぼくはアレルギー体質なんだけど、潮風や海水に接するとアレルギーが少しよくなる。
⑦太陽の光を浴びるのは気持ちがいい
特に④がぼくにとっては大切で、ウォータースポーツをするときには危険や死と隣り合わせなんですが、無事に生きて帰ってくるために自分で考え、適切に判断して、行動することが必要なんです。ぼくはこのプロセスがすごく好きで、それでウォータースポーツををやっているような面があります。
それが海で遊ぶことで心身共に疲れが癒されるのと、すごく強く関係していることを自覚しています。
というのも仕事とか家庭のこととか、社会で暮らすために必要だとされていることって、社会的なルールなのです。それって大切なんですけど、次元として高度で、複雑で、ときとしてそのルールが何のためにあるのかわからなくなったりすることもあります。あるいはルールができた本来的な意味がだんだん忘れられて、ルールを守ること自体が重要視されたりします。要は生死や安全に直接関係のないルールを守らなければならないということです。
例を挙げますと、歩行者として信号を守るというルールがありますが、これは、安全のためです。ぼくが住んでいる人口の少ない町で、たとえば深夜に信号が赤でもそれに従う意味って、まあ、ほぼありません。車はほとんど走りませんし、出歩いている人もいないんです。でも、もしかしたら車が来るかもしれないし、他の歩行者がいるかもしれませんが、経験的に確率が低いし、ザッと見回せば車や人がいる気配はないなのです。それでも赤信号を無視して渡れば法律違反でしょう。
たとえば中学とか高校の校則で靴下の色とか髪の長さとかが決められていて従わなければならないわけですが、それ自体守っても守らなくても、人の生死や安全や健康には全然関係ありません。それに影響があるルールなら多くの人が納得して守るでしょう。
今のは一例ですが、人が集団で行動するときに、お互いにできる限り快適に暮らすために、あるいは組織を維持するために、法律やマナーといったルールが存在するんだと思いますが、それが形式化していても、それを守ることに対して、あまり気にならずに従える人もいれば、すごく違和感を持つ人もいるんだと思います。
ぼくは、意味のないルールを守のはバカバカしいと思う質です。でも一応社会人のいい歳した大人として、ルールは守るわけですが、それは自分を抑えているわけで、そこにストレスがたまる原因があります。
海で遊ぶというのは、そういう社会的かつ形式化したルールから解放されることでして、それがぼくは嬉しいんです。
海にもルールはありますが、ほとんどが生死や安全に関係することです。それを守らないと自分や他人が死んでしまうということですから、納得して守ることができます。しかも死なないことというのがルールの大元ですから、シンプルでわかりやすいのです。要は人が死ななければいいんです。
次にまた別の話をします。
自然を相手にするスポーツはたいていそうだと思いますが、自然の懐に入って、自分の力だけで、前に進んで、最終的には無事に戻ってくるという仕組みになっています。その内容もシンプルでわかりやすいですよね。
死なないことが善であり、それを実現するのは自分の判断と行動だけです。バカな上司とか、無責任な同僚とか、ワガママな後輩とか、無理をいう取引先とか、社内政治とかそういう自分がコントロールできない面倒なものがないのです。ああステキ。そして会社で実績が出るかどうかというのは、自分の能力ももちろん大切なんでしょうけど、景気の状況、自分のいる部署の状況、一緒に働くチームのメンバーの力などといった偶然の要素が割りと大きいようにぼくには思えます。一方、自然を相手にするスポーツでは、まあそんなことはなくて、自分の力が最大の要素です。
それって自己効力感に影響を与えると思います。
なので、会社みたいな組織生活ですり減った自己効力感を、自然の中でするウォータースポーツで補充しているというのが、ぼくの現状です。
これが自然の中で遊ぶと元気になる要素のひとつだと考えています。
それ以外に自然の中で遊ぶことで気分転換できる理由として考えられるのは、マイナスイオンが多いとか、フィトンチッドが空気に含まれているとか(これは森だっけ?)、海水に含まれている成分がいいんだとかいろいろいわれていますが、これは科学的に分析できそうなことなので、専門家のデータを調べなければならないでしょう。自分の感覚では、そういうこともあるかもしれないなあ、くらいに受けとめています。
ここまで書いてきたことは、自然の中で遊ぶことが好きな方には、少しはわかってもらえるんじゃないかと思うんです。やっぱり自然の中で遊ぶことって楽しいよね、というところは変わらないでしょう。
可能性としてあるのは、都会で暮らしていて、休みの日は一日中家に居て、テレビを見てるみたいな人が、その内側に溜め込んだストレスを変な形で発散している(もしかしたら大なり小なり他人に迷惑をかけている)というような場合があるとしたら、そうした人が自然の中でストレスを解消したり気分転換したりすることで、変な形で発散されているものがなくなる分だけ、世の中がよくなるかもしれないということでしょう。それがどの程度なのか見当もつきませんけど…

ランキングに参加しています。クリックお願いします!


ランキングに参加しています。クリックお願いします!
PR
どんな人でもシアワセに暮らせる理想的な海辺の町ってどんなふうなんだろう
あなたの周りにヘンな人とかちょっと変わった人といわれる人っていませんか?
今は発達障害ということが一般的になってきて、以前だったらちょっとヘンな人だったのが、今ではナンタラ障害といわれるようになってきました。それがいいのか悪いのかはよくわかりませんが、何かに名前がつくということは、それが認識しやすくなるという面はあるんじゃないでしょうか。
で、ぼくの周囲の海遊びをする仲間や、海辺に住む仲間というのは、ヘンな人とかちょっと変わった人というのが結構います。よくいえばそういう人達でも暮らしやすい自由で寛容な雰囲気があるといえるかもしれません。
別な見方をすると、都会とか大きな組織のキッチリしたルールがあるところでは生きにくい人達が、自然に携わる仕事に就いているという面もあるかもしれません。
ぼくは、ヘンな人とかちょっと変わった人が好きでして、自分もそういう面があると思います。
ヘンな人とかちょっと変わった人を含めていろいろな人がシアワセに暮らせる世の中というのは、それはかなりいい、理想に近い世の中でしょう。
ぼくの住む海辺の町が、そんな理想に近い場所になるといいなあと思います。そして日本や、はたまた世界がそうなれば、本当に理想的ですよね。
ちなみに千葉に鵜原理想郷っていう場所が、たしかあったような気がします。そういう場所を求める気持ちって、いつの時代にもあるんでしょう。
ちなみに千葉に鵜原理想郷っていう場所が、たしかあったような気がします。そういう場所を求める気持ちって、いつの時代にもあるんでしょう。
でも、たぶんそうならない…人は誰でもココロに、清い面と邪悪な面を持っていて、時に邪悪な面が、差別や嫉妬や憎しみといった感情を生み、それが行動に繋がるんじゃないでしょうか。そして一人ひとりの邪悪な面が、社会的な問題を生み出すんじゃないかと、ぼくは思っています。要は、もし今の社会に問題があるとすれば、それは社会の問題でもなく、特定の誰かの問題でもなく、一人ひとりの中の問題が社会に顕在化したんではないか…って考えているんです。
なので、もし理想郷を造るとしたら、そのコミュニティのルールは、住民は絶えず自分の邪悪な面を見つめ、それを最小限に抑えるように努めること、ということになるんじゃないでしょうか。

ランキングに参加しています。クリックお願いします!


ランキングに参加しています。クリックお願いします!
時間と人生とウォータースポーツ
ウォータースポーツって、海という自然を相手にする遊びです。海は刻々と状況が変わりますし、天気予報や気圧配置をチェックしても、海況の急変は起こりえます。いくらリスクを管理しても想定外のことが起きるのがウォータースポーツ。
ときどき、知人に「わかっていて、なぜそんな危ないことをするのか?」と訊かれることもあります。
それはウォータースポーツに限らず、車の運転でも同じで、安全に十分に注意しても、それ以上の危険が起きる可能性は絶対にゼロにはならないんじゃないか、というのが、ぼくの答えですが。ちゃんと理由を話すにはもっと長い言葉が必要です。
リスクがあっても、リスクがゼロにならなくても海に出ていきます。
なぜか?
もちろんウォータースポーツが楽しいから…というのが一番の理由かもしれませんが、でももっと根本には、ぼくの中にある価値観があるからだと思います。その価値観のためにぼくのそうした行動パターンは出てきています。その価値観は若い頃は直感的に身についたものでしたが、いつからかそれを理屈として考えるようになりました。
で、なぜそんな風な行動パターンなんだろうと考えるんですが、ぼくにとっては日々暮らす=生きること自体がリスクの塊で、何をしても何もしなくても、リスクはなくならない、だったら好きなこと・やりたいことを精一杯やろうという気持ちがココロの奥底に絶えずあり続けているからなんだと思うんです。
ここでいうリスクというのは、地震とか火事とか病気とか怪我とか失業とか家族の死とか自分の死とか、そういった人生において誰の身にも起こりえるモロモロのことなんですが、そういう大きなリスクって、たぶん誰の身にも確率的には起こり得るんじゃないでしょうか?
たまたま隣人に起きて自分には起きてないけど、次の瞬間には自分にも起きるかもしれない、起きない理由なんてないし、日々を暮らすということは、そういうリスクに遭遇する確率と共にあることだと思います。
だからリスクの確率を減らすために、家にじっとしているとか車の運転をしないとか火を使わないとか、そういうのって、ごく限られた範囲では正しいかもしれないんですけど、人生全体で見ると何の解決にもなっていないんじゃない、というのがぼくの考えです。
というのも、病気になる可能性もあるし、家族が突然死ぬこともあり得るし、生まれてくる赤ちゃんが障害を持っているかもしれないし、地震が起きるかもしれないし、富士山が噴火するかもしれないし、ICBMが飛んでくるかもしれないから…
というのも、病気になる可能性もあるし、家族が突然死ぬこともあり得るし、生まれてくる赤ちゃんが障害を持っているかもしれないし、地震が起きるかもしれないし、富士山が噴火するかもしれないし、ICBMが飛んでくるかもしれないから…
心配したら何もできないし、どうせリスクがある人生なら好きなことややりたいことを精一杯やろう、という延長線上にぼくの海遊びはあります。海遊びのリスクなんて、生きる上で抱えているリスクの総量からしたら、たぶんぜんぜん大したことがないとぼくには思えます。
話が回り道をしてしまいましたが、やれることはやれるうちにやりきってしまいたいとぼくは思っているということです。
そして人生のリスクで最大のものは何かというと、自分の死だろうと思います。次は家族の死だと思います。家族の死をさらに分解すると、よりリスクが高いのは、子供(次の世代を担う人・自分より若い人)の死だろうと思います。それ2つ以外はどのリスクも似たり寄ったりだとぼくは捉えています。
そして最大のリスクである自分の死と家族の死は、必ずやってくるということです。このことから、人生の長さは有限であり、個人の持ち時間は有限であり、そこでできることは有限であるという、現時点での真理があります。
ただ、死というのはいつかは必ずやってくるとはいうもののそれがいつやってくるかはわからないという点が特徴です。
100年以内に確実に起きることではあるけれど、それが10歳の時に起きるか70歳の時に起きるかで、死の意味は社会通念上大きな違いを持つといえるでしょう。年齢による死の意味の社会通念上の違いをどう評価するかによって、おおよそ、その人の価値観や行動パターンは変わります。60歳で死ぬのと70歳で死ぬその10年の差に大きな違いがあると考える人は、健康に留意して用心深く慎重になるでしょうし、そんなの大きな違いでないと考える人は、積極的にリスクテイクしていくでしょう。
もうひとつの視点として、10年の差を単に時間の長さの問題として考えるだけでなく、その10年をいかに密度を高く過ごすかという、時間の密度の問題ががあります。長生きしてもそれほど密度の濃くない人生を過ごす人もいるでしょうし、短命でも多くのことを成し遂げたり、自分のやりたいことをかなりやる人もいます。
つまり人生は有限で、0から約100年の間で可変する、そしてその時間は単に時間の長さだけでなく、その時間をどれだけ充実させるかという時間の密度の2つの軸があるということです。人生の充実度は時間の長さと時間の密度のかけ算だということです。
別の視点として、人生の長さが0から約100年の間で変化するけれど、死に至らせる出来事が起きるリスクの確率は、自分でコントロールできる要素と自分でコントロールできない要素に分けられます。
これを詳しく説明します。
たとえば人はいずれ病気になるものですが、それは日々の生活習慣を整えることで、病気になる確率を下げることができます。
また、別の例でいえば交通事故に遭うリスクを低下させるために、車に乗らない選択肢をとることはできます。ただ、車に乗って旅行したり、楽しい生活を送ることが、自分の時間の密度に関係するとなると、交通事故に遭うのを減らすために車に乗らない選択肢が自分にとって価値があるのかないのかはよく考えなければなりません。それは時間の長さと密度のかけ算の総量がどうなるかを考えるということだと思います。
ぼくが危ないとわかっていてもウォータースポーツをするのは、まさにこの基準で判断していることになります。ぼくにとってウォータースポーツをすることはリスクがありますが、そもそもぼくにとって日々の暮らしはウォータースポーツによって充実しているものになっているので、リスクを減らして長生きしたいがためにウォータースポーツをしないという選択肢は本末転倒ということです。
もうひとつまったく別の視点として、自分個人の時間は有限ですが、自分の意思とかやりたいことを次の世代に引き継ぐことによって、意思自体を延長することができるかもしれないということがあります。
それは、子供に意思を託したり、弟子をとったり、組織を作ったりと様々な選択肢がありますが、注意すべきは、自分の意思を次の世代に引き継ごうとすることを半ば強制することは、次の世代のある個人の人生の充実度の総量を損なうおそれがある点です。ですから自分の意思を次の世代に引き継ぎたいと考える場合、その意思はかなり公益性の高いことの方が、無難で説得力があることに留意しなければなりません。
こうした諸条件の中でベストな選択は、時間の密度を上げる、人生の長さを延長するために自分でコントロールできることはできる限り行う(ただし、人生の長さを求めるために時間の密度を下げる選択をするときは時間の長さと密度のかけ算である総量を慎重に検討しなければならない)、自分の意思を次の世代に引き継ぐ体制を作っておく、という3つのことです。
海辺の田舎暮らしでココロ穏やかに暮らす
海辺の田舎町に住んでいます。
海辺にいれば、そこにはゆったりノンビリした時間が流れています。
平和でココロ穏やかな暮らしがあるのです。
そう、もうかれこれ20年とか30年前になりますが、ぼくは都会に住んでいたのでした。
コンクリートとアスファルトで囲まれた暮らし。
車の音が昼夜問わず鳴り響いている暮らし。
歩いて数分のコンビニに行くのにも、家の鍵をキチンと締めなければ不安を感じる暮らし。
隣に誰が住んでいるかわからない暮らし。
相方が夜、出歩くのに、警戒しながら出歩かなければいけない暮らし。
子供が気兼ねなく大声を出したり、走り回ったりできない暮らし。
車でゆっくり走っていると煽られたり、クラクションを鳴らされたりする暮らし。
休日に買い物に出ると、人混みでごった返している暮らし。
そういう暮らしってけっこういびつだな、って改めて感じたんです。
ぼくは若い頃から離島やいろいろな海辺へ旅をしていました。
そこでは、時間がゆったり流れていました。
集落の人はみな顔がわかっていて、旅行者も「○○に泊まっているお客さん」という風に認識されていました。
家や車には誰も鍵なんてかけません。
夜になれば、虫と波の音がするだけ、朝は鳥の声で目が覚めます。
子供は集落の人みんなが見守っていました。
ぼくはそういう暮らしの方が性に合っているなと思ったんです。
今振り返っても、ずっと都会に住んでいたら、すごいストレスだっただろうなと思うんです。
どうせなら楽しくやろう!
いつものことですが、海でノンビリして、海遊びをしています。
「いい歳して。バカじゃない?」「この道楽者!」「奥さん大変だね」などなどの各方面の批判を受けつつも、そんなことはすぐに忘れてしまうのでした。バカっていいなあ。
重箱の隅にしか目がいかない、細かい小役人みたいなのは相手にしないのが良策。それが何か?あらっ、わたくし何か悪いことしたかしら?…なのであります。
そうです。ぼくは海バカですから…
どうせ人生なんて1度しかないし、もうオジサンであと何年生きるかわかんないから、やりたいことやって楽しむんだもーん、なんて思っています。
海バカのテーマソングを作ろうかな~と2分くらい考えましたけど、めんどくさいのでやめました。
海バカのテーマソングを作ろうかな~と2分くらい考えましたけど、めんどくさいのでやめました。
たまに眉間にシワ寄せて、何かすごく自分が頑張って世の中支えてるみたいなオジサンを見ますし、自分だけはいつも忙しくてテキパキしていて、あぁもう何であんたたち自分のことくらい自分でやりなさいよってイライラしているOLの方も見かけますけど、そんな風にしないで今日一日楽しく過ごしたらいいのに、などと端から見ているぼくです。
イライラしたり、何かに怒ったりしていると時間の無駄じゃないすか?っていきなりタメ口な問いかけをしてますけど、そう思わない人もいらっしゃるでしょうけど、話をどんどん進めます。
残り少ない人生(相方は長生きしそうな気がするっていってますけど…オレは太く短く生きたいの…)ですから、わずかな時間でも楽しく過ごしたいなあって思うんです。
自然を浴びるといいって、本当ですか?
何かの雑誌の記事で脳科学者(でしたっけ?)の茂木健一郎さんが「自然を浴びるといい」っていうようなことを書いてたような気がします。
ちゃんと憶えてませんけど…あれ?書いてたよな?えっ?どうだったっけ?
この言葉をぼく的に勝手に共感しちゃうと、ぼくの場合、長い期間都会にいると体調の変化があります。たとえば敏感肌になったり、鼻水が出やすくなったりというようなことで、要はアレルギーっぽくなるみたいです。
オジサンになって自分の体調に気を配るようになったので、そのあたりの変化は結構ちゃんと感じます。
空気が汚いせいか、ストレスが多いせいかわかりませんが、自分の家に何日かいると、そんな症状は出なくなります。
あと確信はないんですが、地元で自然に接して暮らしていると、勘がよくなるような気がします。勘がよくなるというのは、自然の変化に対して主に見られます。たとえば雨が振りそうだとか、台風が近づいているとか、地震が起きそうとか、そういうヤツです。
これは日常的に自然の様子に気を配りながら暮らしているからでしょう。それが暮らしに大切だから…
茂木さんの記事は、自然を浴びると脳が活性化されるというような趣旨だったと思うんですが、たぶん…
で、きっとあの有名な茂木先生がいっているんだから、ぜったい本当なんだってぇ。たぶん…
ぼく的には、体調の変化とか気づきということを実感しているからですが、それも脳が何らかの働きをしているかもしれません。
ちなみにぼくは、海でちょっと危ない状況になると頭がよく働きます。いわゆるひとつのキン肉マン的にいうと、火事場の馬鹿力なんでしょう。
自然が豊かな場所で1週間以上いると、やっぱり生活のリズムとか体調とか変わってきます。
ぼくとしてはいい方に変わってきます。
それはさっき書いたことの反対で、アトピーっぽい症状がでなくなったり、イライラしなくなったり、夜熟睡できたり、風邪をひきにくくなったり、ネガティブなことを考えなくなったり…です。
科学的に証明できるか知りませんし、そんなんどっかのセンセイがやっとけよ、オレっち忙しいんだわ、というわけで、ぼくは個人的に実感しているのです。
自然が万能で、自然に帰れ、自然がすべてを癒してくれる、という60年代風なほど、物事は単純ではないと思います。でも、人間社会で起きる、うつになったり、自殺したりという、ちょっと複雑で原因不明なことって起きないんじゃないでしょうか?
だからさぁ、ユーもちょっと自然浴びちゃいなよー。
って、よくわからないし、知らないことだらけなので、この文章のことを信じないで…
だからさぁ、ユーもちょっと自然浴びちゃいなよー。
って、よくわからないし、知らないことだらけなので、この文章のことを信じないで…
まあどうでもいいや
海遊びが好きだとか、海辺のノンビリした暮らしが好きだとか、ぼくはそういう生き方を選んできたんですが、そういう自分を見つめてみると、やっぱり大らかな考え方が好きなんだと思います。
逆に嫌いなのは、束縛されたり、自分らしさを抑えなくてはならなかったり、カッチリ・キッチリやらなければならなかったりする生き方です。
世の中にはこだわりやキッチリが大切な仕事がたくさんあると思うんですが、そうした仕事についていらっしゃるみなさんは、本当にすごいなあと尊敬してしまいます。
ぼくのテキトーでアバウトな性格というのは、大雑把にまとめると、死なないで楽しければいいという原則の上になりたっているようです。最低限大切なことだけキープできれば、あとはどうだっていいんじゃないか?というのが、テキトーでアバウトな性格の原点です。
たいていの場合、こうしたテキトーでアバウトな性格はあまり歓迎されませんが、多少は役に立つかもしれないと思える状況があるんですね。
たとえばですが、スキューバーダイビングをするときなどにそういう状況があります。
すべてが計画どおりに進んでいるときは、細やかでキッチリした性格が大切です。リスクをチェックしたり、器材の異常をチェックしたり、ゲストをもてなしたりといった場面で役に立ちます。
でも、すごく海が荒れて、命からがら何はともあれ陸にたどり着かなくてはいけない、みたいな状況だと、テキトーでアバウトだけれど、命だけは大切、それ以外のことはどうでもいいという性格が生きてきます。
残念ながら高度に発達した現代日本社会では、そういう非常事態はめったにないので、普段はテキトーでアバウトな性格は疎んじられるだけです。
ぼくの友達には、これまで書いてきたようなテキトーでアバウトな、だけれど一番大切なことは守るというタイプの人が多くて、冒険家だったり、紛争地帯のジャーナリストだったり、さすらいの人だったりするんですが、もしかしたら、そういうタイプの人は日本社会というのは生きにくいのかもしれません。
だって、メーカーかなんかの社員だったりして、すごくこだわりのある製品を作らなくてはならなくて、でもコストを抑えつつ、環境に配慮して、ダイバーシティーも尊重して、法令順守しながら、リスクを最小限にしつつ、社内政治も乗り切るなんて芸当は、ちょっとぼくには無理です。
海で大きな自然の時の流れを感じる
海で遊んでいると日常生活に何の役にも立たないことをいろいろ考えたりします。役に立たないけど、そういうこと考えるの好きなんすよね。
たとえば、変わった形の岩を見ると、波の浸食でこうなったんだな、何年くらいかかるんだろうとか…昭和初期の湘南の写真を見ると、今よりも砂浜が広く長かったんだなとか…伊豆半島はすごく昔(すごく大雑把ですけど)に本州にぶつかったことになってるんだよなあとか…由比ヶ浜あたりでサーフィンしていると、ずっと昔鎌倉幕府が本当にこの場所にあったんだよなあとか…
他のウォータースポーツをする人が何を考えるのか訊いたことがないんでわかりませんが、ぼくはわりとそういうことを考えます。
いろいろ考えるわりに結論は似たようなところに落ち着くんですが、それは、人間の営みなんて儚いなあ、ということです。
海という自然に密に接しているからそんなことを考えるのかもしれません。
海で遊んでいると、潮の満ち引きやうねりや波で、海のはるか向こうのことを想像します。それは地球のことに関連してますし、宇宙のことを連想させます。
だから余計に人間の小ささとか自分のちっぽけさを感じてしまうのかなあ、なんて思います。
地球が誕生して、海や陸ができて、そこに人間が生まれていろいろなことが起きたと思うんですが、自然の営為の時間スケールの長さや大きさや力は圧倒的です。人間だって、ビルを建てたり防波堤を作ったり、すごくいろいろなことができるようになってますけど、それでも自然の力と比べると大したことないですもんね。
しかも自然はそれを何百年、何万年、何億年という時間スケールの中で存在しています。
以前、台風のときに、ぼくんちの近所の防波堤がそっくり波で流されたことがありましたけど、それなんか自然の力のすごさを垣間見た一例です。
話が逸れちゃうんですけど、ぼくは戦国時代の歴史小説を読むのが好きですが、いくら信長がすごいとか、秀吉がすごいとか、家康が徳川幕府が300年続いた礎を作ったのはすごいとかいいますけど、確かにすごいですけど、それは人間の時間スケールの話ですね。自然の時間スケールと比べたら、ささやかなことのように見えます。
ぼくは海で遊ぶたびに、そんな自然に圧倒されています。
最初に日常生活に何の役にも立たないことだと書きましたけど、少しだけ役に立っていることがあります。
それは、怒りの感情が湧き出したとき、そういうときってたいてい自分のこだわりみたいな概念が原因になっているわけですけど、自然の営みと比べると、どうでもよくなっちゃって、怒るのがバカバカしくなることでしょうか。
窓を開け、波の音を聞きながら眠るのが好きです
夏、我が家はみんな窓を開けて寝ます。
家族はみんなエアコンが苦手なんです。
うちは田舎なので、窓を開けても危ないことはありません。(そういえば都会に住んでいた頃は、危険じゃないかということを気にして暮らしていました。)
海辺の田舎は、日が暮れれば、海風が吹いてきて、割りと涼しくなります。まあなんとかエアコンなしでも暮らせます。コンクリートとアスファルトで建て込んだ都会の夜は暑いので、それとはだいぶ違います。
窓を開けて寝ていると、朝方は寒いくらいなのです。
ぼくは窓を開けるのが好きで、風が入ってきて、空気が動いている感じに安心できます。そして風と共に、木々の葉音、虫の声、波の音が聞こえます。そんな音を聞きながら眠りにつくのって結構シアワセだったりします。
自然がそばにあるシアワセ
若い頃はともかく、30歳くらいから自然に接することがとても好きになりました。それまでも普通の人よりはアウトドアが好きでしたが、自分でもハッキリわかるほど、自然に接するとホッとするようになったんです。
広々とした海に出たり、青々とした森の中に入っていったりすると、ココロが柔らかくなって、シアワセを実感するようになりました。逆な場合で、仕事が忙しくてなかなか海に出られないと、気持ちが殺伐とすることもありました。
それを象徴するような出来事があって、自分でもハッキリ覚えているんですが、それまではいい建築物を見たり入ったりするのがワリと好きだったんです。名建築とか有名な建築家の設計した建物は、できるだけ行くようにしていました。人間が考え尽くした物ってすごいなあと思っていたんです。
でも、あるときから、建築物というのは、それが建つ自然とか地形にフィットするものが、より素晴らしいんじゃないかと思うようになったんです。
ぼくは海辺に住んでいて、そこには無数の建物があるわけですが、その土地に合わない建物というのが確かにあります。一方で、その土地に合っていて、人々がなんとなく集まる建物というのもあります。それは材料の高い安いではなく、広い狭いでもありません。
不思議なものです。
自然と人というのは対立するものではなくて、人の生活は自然の懐に抱かれているんじゃないかなあと思うのです。自然の力とその時間軸は人間を圧倒していて、人間はごく短い時間を自然の中で暮らしている、というのがぼくのイメージなのです。
海の音を聞き、潮風を肌で感じ、海の青さを眺める。そうした時間が自分にとってはとても大切なんだなあと思うんです。自然の大きさを感じるということは、ぼくにとっては自分の(人間の)儚さや無力さを改めて自覚するということです。それがぼくにとっては癒やしになるし、シアワセを実感できることなのです。
1日のうち少しでもいいから自然を感じる時間を作りたい、そんな風に思って、通勤に時間がかかっても海辺の田舎町に住むようになりました。ちょっとしたシアワセを感じられる時間、それで日々暮らしていかれれば、それでいいんじゃないかなあって思うんです。

ランキングに参加しています。クリックお願いします!


ランキングに参加しています。クリックお願いします!
カテゴリー
最新記事
(08/17)
(08/16)
(08/10)
(08/09)
(08/03)
(08/02)
(07/27)
(07/26)
(07/20)
(07/19)
(07/13)
(07/12)
(07/06)
(07/05)
(06/29)
(06/28)
(06/22)
(06/21)
(06/15)
(06/14)
(06/08)
(06/07)
(06/01)
(05/31)
(05/25)
最古記事
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/01)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/02)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
(07/03)
アーカイブ
ブログ内検索
PR
カレンダー
最新コメント
[10/31 TOM]
[06/10 TOM]
[06/10 TOM]
[11/09 porn]
[07/09 和]
PR
google