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海という自然・小さなコミュニティ・幸せ…



 海でのんびりするといいですよ、自然の中で過ごすといいですよ、てなことをこのブログでは何度か書いてきました。いつもはバラバラと散発的に書いているので。今回はまとめてみたいと思います。
 ぼくは地方出身で大学から東京に来ました。大学時代に友人でサーフィンをしているヤツがいて、誘われてサーフィンを始めました。当時は小田急で鵠沼に行って波乗りしていました。小田急はJRよりも電車賃が安いですから…
 大学を出ると、東京の会社に就職して、職場に近く、通いやすいところを選んで住んでいました。これはすごくよくあることなんだろうと思います。
 そしてこれもよくあることなんですが、毎日終電くらいまで仕事をして、家で寝て、数時間後にはまた電車にのって会社に行くという生活をしていました。当時は今ほど残業についてもうるさくいわれなくて、まあ、若手として仕事をどんどんして、そうすると周囲から評価されて、また仕事を任されてというサイクルでした。
 昨今のライフワークバランスが尊重されるご時世に時代錯誤なことを書いてしまいますが、仕事というのはハマるとおもしろいものですし、自分なりにいろいろ調べたり工夫したりすると、どんどんおもしろくなります。そういった意味で、ぼくは仕事を遅くまでやるのが苦痛ではありませんでした。こんな感じで20代を過ごしていました。
 その代わり土日は朝から(というか3時とか4時から)家を出て、海に行き、土日まるまる海で遊んで月曜日の朝、自宅に帰ってシャワーを浴びて、スーツに着替えて会社に行くということをやっていました。その頃にはスキューバーダイビングやセイリングもやっていました。自然の中で海遊び仲間とワイワイやるのが楽しかったのです。行くのは、伊豆半島や八丈島や三宅島が多かったですね。
 そして年に何回かは、石垣島や宮古島や沖縄の離島、それから海外にもダイブトリップに出かけていました。
 離島にもはまっていたのです。
 離島好きな方はおわかりになっていただけると思うのですが、島の人というのはノンビリゆったり暮らしていて、金銭的に富裕というわけではないですけど、毎日楽しく過ごしています。そういう暮らし方に接していると自分の東京での生活ってどうなんだろうと考えることがありました。
 土日の海遊びと年に数回のダイブトリップでの自然と近い暮らし…それと比べて東京は人が多くて、ビルが建て込んで、空が小さくて、緑が少なくて…そういう雰囲気に息苦しさを感じるようになったのです。
 年代的にも30代になろうとしていました。結婚もし、そろそろ子供を…ということを考え始めたときに、もう少し自然のあるところ、そしてもちろん海のそばで暮らしたいし、そういうところで子供を育てたいなと本気で考えるようになりました。
 前置きが長くなりましたが、そのときのぼくの心の状態というのは、都会の暮らし×、自然の中での暮らし○となっていたのです。そしてぼくのそういう価値観を構成しているのは、離島など海辺の人達の暮らしぶりを見聞していたのとウォータースポーツでの自然と接する経験からなりたっていました。
~心のゆとり~
 人は忙しくなるとイライラしたり、怒りっぽくなったりします。東京ではたまに電車で男の人同士がもめたりしてますが、それなども忙しさのせいかもしれません。もともと働き盛りの男性というのは闘争心があるものです。それが仕事という社会的な場で発散されるといいんですが、ケンカとかに向かってしまうと犯罪になってしまいます。
 ぼくは、ウォータースポーツで、時に激しく厳しい自然の中で、なんとか生きて陸に帰ってくることを目指して格闘することで、そうした闘争心みたいなものを発散していたんだと思います。
 年に何度か離島に行くのが恒例になっているんですが、1週間も離島で暮らしていると、自分のリズムが変わってくるのがわかります。歩くのがゆっくりになり、呼吸が深く大きくゆっくりになり、ノビノビと胸をはって歩くようになります。空は広く、海は青くで、木々は緑です。
 呼吸する空気も飲む水も食べ物も、島の物です。身体全体が内側から島に馴染むような気がします。
 島の人との会話もノンビリしたやさしいものです。
 今でも強く印象に残っている経験があります。ぼくが東京で暮らしていたとき、先島諸島の多良間島に10日間ほどダイブトリップに行ったことがありました。島の人はたいてい家に鍵をかけません。車のロックもしません。ぼくは滞在中レンタカーを借りていたんですが、当たり前のように車をロックしていました。あるとき宿の駐車場で車の出し入れするときに、ぼくの車を動かさなきゃいけない状況になったらしいのですが、ぼくはそのときダイビングに行っていたのです。それで、宿の人から車にロックしないでくれ、どうせ誰も何も盗らないからといわれたことがあります。
 それってぼくにはけっこう衝撃的な経験で、東京だと近所のコンビニに買い物に行くときも家の鍵はかけてましたから…
 この経験が意味することは、単に鍵をかける手間が少なくてラクということだけではありません。鍵をかけるという行為は、その前提に外敵に自分の財産や暮らしを脅かされるかもしれないという警戒心があります。それがあるとないとでは、いかに自分の気持ちにかかるストレスが違うかということです。多良間島滞在の10日間で、ぼくはこの普段意識しないストレスから解放されてました。長年身体に張りついていた錘が剥がれたような爽やかさを感じたのです。
 おそらく都会での暮らしには、満員電車に乗るとか、スリに遭うとか、何かを盗られるとか、変な人に突然何かされるとか、そういう意識的だったり無意識的だったりするストレスというか緊張感があると思うのです。それが何年も何十年も人の心にあり続ける事って、心に負担をかけるし、価値観にも影響を与えるだろうし、対人関係も変わってくるだろうし、ひいては人生の全体に大きな影響を与えるんじゃないでしょうか?
 ここまで長々とぼくの経験を書きましたが、何がいいたいかというと心のゆとりって大切だということです。で、その心のゆとりって、生活する場の状態によるんだということです。
~自然と接すると人は癒されるのではないか~
 ぼくは今海辺の田舎町で暮らしています。東京で暮らしていて、東京で家族と過ごすのってイヤだな、ここで子育てするのはイヤだなと感じました。それはかなり直感的かつ本能的な感覚でした。相方も同じように感じていたようです。それで、かろうじて通勤できる海辺に引っ越したわけです。引っ越し先を選ぶときもできる限り海や山といった自然がそばにある家を探しました。そんなわけで、家に帰れば、そこは目の前は海で、背後は森です。
 ぼくが大学時代からずっとウォータースポーツをしていたのは先ほど書いたとおりです。社会人になってからは、平日は東京のビルの中で仕事、土日は海で過ごしていました。ぼくにとって土日に海にいる時間はとても大切なものだったのです。すごくありきたりないい方をすると海に接することで癒されていたんだと思います。
 それではあまりにも平板な物言いなので、詳しく書きましょう。
 海にいると、まず服装からして違います。短パン・Tシャツ・ビーサンです。冬は長袖長ズボンをはきますが、足下はビーサンです。これでだいぶリラックスできます。
 肩の力は抜けますし、歩くスピードはゆっくりになります。呼吸も深く大きくゆっくりになります。ぼくは10年ほど前から瞑想をするようにしていますが、海辺にいると短時間で瞑想に入ることができます。
 波の音を聴き、潮風に吹かれ、太陽の光をあび、海の水に浸かる。海が荒れているときは森の中を歩き、鳥の声や木々の葉や枝の擦れる音を聴き、木漏れ日を仰ぎます。こうした時間がぼくにとってはとても大切なのです。そしてこうした時間を過ごすことでぼくは満たされます。
 東京にいたときはアトピーと、軽い喘息と、ときどき眠れない日がありましたが、それも海辺に引っ越してからはすっかりなくなりました。
 ぼくの周りだけかもしれませんが、こうした自然を愛する人はぼくだけでなく、一定数はいるように見えます。
 おそらくある種の人は、自然と接することが好きで、自然の近くで過ごすことで、癒されるのではないでしょうか?
 そしてそうした暮らしをするからこそ、心にもゆとりが生まれるのではないでしょうか?
 
~自然と共に生きることは人間にとって大きな意味があるのではないか~
 自然のそばで暮らすことは癒される面もありますが、他の面もあります。
 自然は時に穏やかですが、時に激しく荒れ狂います。それは地震や火山の噴火や洪水を年に何度か目にするわれわれ日本人には頷けることだと思います。
 そんな自然に対して、人間は技術的な進歩である程度対応できるようになりました。人にとって暮らしやすいようにダムを造り、防波堤を造り、道を通しました。日本で暮らす上で、普段は自然の脅威を感じる場面はほとんどありません。それでも何年かに1度は自然の強大な力を思い知ることになります。
 ぼくの推測ですが、人にとって、自分達の力が及ばないことがたくさんあることを思い知ることで、用心深さや謙虚さや向上心が備わるのではないでしょうか?
 自然が好きで、自然のそばで暮らす人々にとっては、それがなおさら心に大きな影響を与えるのではないでしょうか?
 もうひとつあります。
 日本の都会で暮らしている分には、飢えるとか自分の生命が脅かされるということはほぼありません。でもそれって限られたエリアの限られた状況のことで、普遍的なことではありません。いつ何時自分が死ぬかもしれないとメタな部分で認識することは、おそらく普段の考え方や行動に影響を与えるのではないでしょうか?
 さらにもうひとつ。
 人間はこれまで自然の恩恵を利用しながら、自然の力に対応しながら生存してきました。それは歴史をとおしていえることでしょう。そして人間の力が大きくなるにつれて、人間社会が大きくなり、整備され、システマチックになり、その環境の中で生きることだけを考えるようになってきたのではないかと思います。
 ざっくりした喩えをすると、500年前のAさんと現代のBさんでは、一生のうちで自然と接し、自然のことを考える時間は、だいぶ違うのではないかということです。そして人間社会のシステムが仮に人間性を抑圧する部分があるとすれば(って、ぼくはあると思いますけど…社会というのは強者や多数派の人に合わせてルールを作るので、それに該当しない人は抑圧されると思います…)、現代のBさんはよりその抑圧にさらされる可能性が高くなっているのではないか、というのがぼくの考えです。そして人間の及ぶ範囲が広くなる、つまり手つかずの自然の範囲が狭くなることで、抑圧されている人の逃げて生きる場所も狭くなっているとも考えています。
~小さなコミュニティで暮らすことのメリット~
 最近ネットのショップとかオークションとかSNSとかwebサービスで、その人や店の評価が表示されるようになってきました。評価が高い人や店は信頼できるということになっています。信頼度が高いほど、取引や交渉時のリスクは低くなり、それに伴い、リスク回避のためのコストが低下します。
 その人が信頼できるか、どういう人か、あるいはどういうときにどういう行動をする人かという情報は、共同体として生活する上で重要な情報なのでしょう。
 先ほど、離島では車や家に鍵をかけないというエピソードを書きました。島の中に誰がいて、誰がどういう人かわかっているから、鍵をかけなくてもいいのだと思います。
 そうした心理的な警戒心の不要さが、個人に対しても安心感を与えますし、コミュニティを維持するコストを低下させます。
 たとえば東京の23区のある区のマンションが立ち並ぶエリアで、自分の住むマンションの前に定期的に粗大ごみが不法投棄されていたとします。これは誰が住んでいるかわからず、誰が通りかかるかもわからず、その粗大ごみを不法投棄した人が誰かすぐに特定できないから、そういうことが起きるのでしょう。捨てる人もわからないだろうと思って捨てるわけです。
 で、その不法投棄されたごみはマンションの管理組合が処理するかもしれませんし、区の清掃事務所の人が処理するかもしれません。いずれにせよ、捨てた人以外の誰かが処理費用を負担することになります。
 そういうことが続けば、たぶんマンションには監視カメラをつけたりするでしょうし、区でもどこかに監視カメラをつけるかもしれません。あるいはゴミが捨てられないように柵を作るとか鍵をかけるとかするかもしれません。これって、誰かの不法投棄により手間やコストが増えたことになります。で、そのゴミを捨てる行為を助長しているのは多分に匿名性だったりします。
 おそらく想像ですが、離島ではこういうことは起きないでしょう。
 これはゴミの不法投棄を例に出しましたが、犯罪とか高齢者の孤独死とか児童虐待とかいろいろなことがありますから、23区のある区のコミュニティ維持のコストはたぶん高いはずです。それは結局マンションの維持管理費とか税金とかなんらかの支出で、みんなが負担しなければなりません。
 もうひとつの視点を提示してみたいと思います。
 ぼくは行政機関というのは、というか組織というのは、なにかしら無駄があるものだと思います。ただ、民間企業は存続するために利益を上げなければなりませんから、無駄を排除する動機が組織に組み込まれています。行政機関はその動機がかなり薄いため(夕張市のように破綻することもあるため、ないとはいえません)にどうしても無駄が生じるんだと思います。
 行政機関でも働いている職員は、その人もプライベートは個人であり家庭もある労働者ですから、自身の生計を成り立たせるために、仕事を作らなければならない動機が存在します。こうして往々にして行政機関はその存続が目的化してしまいます。過去に行政改革など無駄を除く努力がされましたが、うまくいきませんでした。それは仕方がないことで、組織に無駄をなくさなければならない動機が存在しないからです。唯一あるのは納税者である住民のチェックですが、これは住民にも百人百様の考え方があり、納税者でもありサービスの受益者でもありますから、何を無駄と考え何を有効かと考えるかについては議論が必要で、簡単にはいきません。そして、住民の数が増えれば増えるほどこの考え方は広がる可能性があるわけです。
 また、行政機関は日本の場合、国・都道府県・市区町村の階層になっていますが、階層が上がるにつれ、住民から離れていきます。それが無駄だとはいえませんが、国際社会で交渉する際に、日本という単位で交渉すれば有利な場合など、国としてまとまるメリットが明確である場合は、国の存在意義が住民から支持されるのでしょうが、国が最初にありきという必然ではありません。いつかどこかの県や市が独立したいといいだしてもおかしくはありません。
 住民から離れれば離れるほど、住民の直接のチェックが働きにくくなりますから無駄が生じる可能性が増えるでしょう。それに行政機関の規模が大きくなればなるほど、無駄が生じる可能性が増えるというのは、組織というのはだいたいそういうものだからです。
 つまり、大きなコミュニティというのは、住民も行政も両方で責任が曖昧になって、コミュニティの維持にコストがかかりやすいんじゃないかとぼくは思うのです。
 極端な例ですが、日本が、小学校ひとつくらいの規模であったら、誰が何をやっていて、どういう人かわかるし、お金が何にいくら使われているかもわかります。生徒会役員(公務員)が何をやっているかもわかります。この規模感って、自分がコミュニティの一員であり、コミュニティを支えなければならない感覚に影響を及ぼすとぼくは思うし、自身が市民である意識って大切だと思うのです。
 次にもう一度、離島のコミュニティに視点を戻してみます。ぼくがこれまで行ったことのある島で、人口が少なかったのは小笠原の母島で約500人。次が父島で2000人。沖縄の多良間島で1300人。八丈島だと10000人で、ちょっと多い感じです。想定しているのはだいたい3000人くらい。それくらいだと先ほど書いたようなイメージのコミュニティです。誰がどんな人で、どこにいて、何をやっているかだいたいわかる感じです。
 何度も書きますが、誰がどれくらい信用できる人で、どういうときにどんなことをするのかわかっているということは大切なことです。
 なので、たとえばいつも酔っぱらうと大声を出す佐藤さんちのおじいちゃんが、大きな声を出していてもみんなはそんなに気にしないでしょう。また、いつも元気で、毎朝散歩を欠かさない木村さんちのおばあちゃんの姿が見えないと、心配するでしょう。きっと誰かが様子を見に行くんじゃないでしょうか。こういうことって細かいですけどコミュニティにおいては重要なことだと思うのです。
 もし先ほど例に出した23区のある区で同じことがおきたら、佐藤さんちのおじいちゃんの場合、警察に通報する人がいるでしょうし、警察官は現場に行くでしょうし、その警察官の人件費はみんなの税金で賄われています。木村さんちのおばあちゃんの場合、民生委員の人が見に行くかもしれません。あるいは誰も気づかず、あるときおばあちゃんが死んでいたというニュースで見るようなことが起きるかもしれません。
 以上は小さなコミュニティのよさです。
 もちろん小さなコミュニティのデメリットもあって、それは水道とか電気とか行政のインフラを3000人のために整備しなければいけないということです。
 どちらもなんらかのコストはかかるわけですが、計算すればどちらが安いかは比べられると思います、たぶん、ぼくはめんどくさいからやりませんけど。
 そしてそれに加えて、暮らす人々の安心感とか暮らしやすさとかストレスというお金に換算しにくいことも含める必要があります。毎朝自分のマンションの前にゴミが不法投棄されているのはストレスだと思いますが、そのストレスがいくらに相当するかはちょっとわかりません。
~暮らし方を見直したらもっと幸せな社会ができるんじゃないか?~
 これまで「心のゆとりの大切さ」「自然のそばにいると人は癒される」「自然と共に生きることで人は何かを学べる」「小さなコミュニティで暮らすことの大切さ」ということを書いてきたのですが、この4つが揃った暮らし方ができる社会って、ぼくの理想です。そして多くの人がもっと幸せになれるんじゃないかとも想像するのです。もちろん好みがあるでしょうけど…
 でも、生まれてある程度の年齢になって自分で自分のことを決められるようになったら、自分に合ったコミュニティを選べばいいと思うのです。もちろん日本国内ではそれはできますけど、でも、なんだかんだいってそんなに自由ではなくて、生まれた場所にとどまったり、あるいは生計を立てるために、都会で暮らさなくてはなりません。年齢と共に自分にあったコミュニティを移っていくのが当たり前のようなったらいいんじゃないかな?って思います。











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